古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

金鑚神社

  金鑚神社が鎮座する児玉郡は、こだまぐん、こだまのこおりとも言い、かつて武蔵国に存在し、埼玉県北西部に現存 する郡で鎌倉街道上道の主要道が町内を通っていた。南西部は山地であるが、その大部分は神流川が作り出した平野が広がっている。
 郡域は現在の行政区画で言うと、概ね本庄市、神川町、美里町の区域に相当し、北は賀美郡、また利根川をはさんで上野国と、東は榛沢、那賀郡、西は神流川をはさんで上野国、南は秩父郡と接していた。『和名抄』は「古太万」と訓じている。
 現神川町町内には古墳時代の遺跡として青柳・白岩古墳群があり、中世には阿保(あぼ)氏の本拠地として武蔵国では最も早くから開けていた地であったらしい。ちなみに神川町の町名は神流川からきているという。
 また金鑚神社とシラカシ林として金鑚神社一帯に広がる社寺林は典型的なシラカシ林で、山に続く傾斜地に広く成立している。この高木林と山の尾根筋に隣接するヤマツツジなどの群落を含めて、環境庁編の『日本の重要な植物群落 南関東版』にも紹介されている。

所在地      埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750
主祭神      天照大神
          素戔嗚尊
          (配神) 日本武尊(一説に祭神は金山彦命ともいう。製鉄の神か)

社  格      式内名神大社・武蔵国二宮・旧官幣中社・別表神社
社  紋      樫の葉紋 蔦紋
例  祭      4月 15日
主な神事    懸税神事(11月23日)

                
地図リンク
 
 金鑚神社は埼玉県の北西部に位置する
児玉郡神川町にあり、JR八高線児玉駅の西5Kmの二の宮、国道462号線沿いに鎮座する。462号線がカーブする場所、南側に境内入口には大鳥居があり、非常にわかり易い。一の鳥居の右側には「武蔵二之宮 金鑚神社」の社号標、裏に「昭和五十八年十二月吉日 明治神宮 権宮司 副島廣之 謹書」とある。

                 
                                                国道462号線沿いにある一の鳥居
 
      
大鳥居からニの鳥居に向かう途中の風景                               そしてニの鳥居
          
 長い参道が終え、そしてここが車道最終地点。これ以降は徒歩にての参拝となる。左側に駐車場、トイレ等あり、右側斜面上に国指定重要文化財の多宝塔が建っている。
                   
                                            
金鑚神社宝塔(国指定重要文化財)
金鑚神社 多宝塔
 金鑚神社の境内にあるこの多宝塔は、三間四面のこけら葺き、宝塔(円筒形の塔身)に腰屋根がつけられた二重の塔婆である。
 天文三年(一五三四)に阿保郷丹荘(あぼごうたんしょう)の豪族である阿保弾正全隆(あぼだんじょうぜんりゅう)が寄進したもので、真柱に「天文三甲午八月晦日、大檀那安保弾正全隆」の墨書銘がある。
 この塔は、建立時代の明確な本県有数の古建築であるとともに、阿保氏に係わる遺構であることも注目される。塔婆建築の少ない埼玉県としては貴重な建造物であり、国指定の重要文化財となっている。
                                                                          昭和五十九年三月    神川町
                                                                                                                                                                                 (参道案内板より引用)
 ちなみに金鑚(カナサナ)というのは金砂の義であり、製鉄にちなむ地名である。近くからは鉄銅が採鉱されたことから、これを産する山を神として祀っている。付近には金屋という採掘・製鉄集団に関係している集落があり、この祭祀集団(おそらくは渡来氏族)によって祭祀されていたと思われる。「金鑽」の社名は、社伝にあるように、火打石(火鑽金)が御魂代であることから起ったとする他に、金鑽=金砂と見る説もある。
 当神社は名神大社いう高い格にあるが、それは付近に多くの古墳が見られ、早くから渡来系氏族によって開発が進められ(現在の児玉郡一円、奈良平安期の遺跡多し)、この地域が文化の中心地であったことを物語っている。また平安後期以降は武蔵七党の児玉党一族の崇敬を受けて強い影響力を持っていた。
                    
                                      神々しい雰囲気のある神橋を超えると三の鳥居
 
              神楽殿                           
神饌所と倉

           
                               拝      殿
           
                            拝殿(裏から撮影)
 社伝によると、景行天皇の四十一年、日本武尊が東征の帰途、東国鎮護のために、伊勢神宮の叔母である倭姫命から草薙剣に副えて、賜った火鑚金(火打石)を御霊代として、御室ヶ嶽に天照大神と素戔嗚尊を祀ったのが創祀。
 その後、欽明天皇二年に、日本武尊を合わせ祀ったという。
 延暦二十年に、坂上田村麻呂が夷賊討平を祈願し、永禄六年には、源義家が奥賊を祈願したといい、武蔵国内で氷川神社とならぶ明神大社として、他の式内社よりも格が上であり、官幣中社という社格の神社としては一番東国に位置している。このような当時の状況を考えると、蝦夷平定のための拠点として重要視された社ではなかったかと推測される。
 また平安時代以前の武蔵国の神社は、延喜式神名帳によると大社2座2社・小社42座の計44座が記載されていて、大社は足立郡の氷川神社と児玉郡の金佐奈神社(現 金鑽神社)で、どちらも名神大社に列していた。
 更に、武蔵国の総社は大國魂神社(東京都府中市宮町)で、別名・六所宮と称し、武蔵国内の一宮から六宮までの祭神が祀られていた。

  一宮 小野神社 (東京都多摩市一ノ宮。主祭神:小野大神=天下春命)
  
二宮 二宮神社 (東京都あきる野市二宮。主祭神:小河大神=国常立尊)
  
三宮 氷川神社 (埼玉県さいたま市大宮区高鼻町。主祭神:氷川大神=須佐之男命、稲田姫命)
  
四宮 秩父神社 (埼玉県秩父市番場町。主祭神:秩父大神=八意思兼命、知知夫彦命
  
五宮 金鑽神社 (埼玉県神川町二宮。主祭神:金佐奈大神=天照大神、素盞鳴尊)
  
六宮 杉山神社 (比定社が複数あるが、多くは横浜市内に集中する)

 上記のように、一宮は元々は小野神社だったが、氷川神社が一宮と称されるようになってからは、五宮の金鑽神社が二宮とされるようになり、さいたま市緑区宮本の氷川女體神社も元は氷川神社から分かれたもので、江戸時代以降一宮とされるようになったようだ。

金鑚神社
 所在地 児玉郡神川村二の宮

 金鑚神社は、旧官幣中社で、延喜式神名帳にも名を残す古社である。むかしは武蔵国二の宮とも称された。地名の二の宮はこれによっている。
 社伝によれば、日本武尊が東征の帰途、伊勢神宮で伯母の倭姫命より賜った火打石を御霊代として、この地の御室山(御岳山)に奉納し、天照大神と素戔嗚尊を祀ったのが始まりとされている。
 鎌倉時代には、武蔵七党の一つ、児玉党の尊信が厚く、近郷二十二カ村の総鎮守として祀られていた。江戸時代には徳川幕府から御朱印三〇石を賜り、別当の一乗院とともに栄えた。
 境内には、国指定重要文化財の多宝塔や、平安時代の後期、源義家が奥州出兵のため戦勝祈願を当社にしたときのものという伝説の遺跡”駒つなぎ石””旗掛杉””義家橋”などがある。
 なお、この神社にはとくに本殿をおかず、背後の山全体を御神体としている。旧官・国幣社の中で本殿がないのはここのほか、全国でも大神神社(奈良県)と諏訪神社(長野県)だけである。
                                                                                                                                                                                                                                   境内案内板より引用               
          
                               祝詞中門瑞垣
     
  瑞垣内に本殿はない。背後の山全体を御神体とする古代神道の名残を留める、奈良の大神神社、長野の諏訪大社同様、本殿を持たない神社。
            
             境内左奥に境内社 左右の2社一体の社に挟まれる形で鎮座している。
 

                          御嶽山登山道                山道の両側には石仏や多くの歌碑がある
                     
御嶽の鏡岩
                            昭和三十一年七月十九日 国指定特別天然記念物
  御嶽の鏡岩は、約一億年前に関東平野と関東山地の境にある八王子構造線ができた時の岩断層活動のすべり面である。岩面の大きさは、高さ約四メートル、幅約九メートルと大きく、北向きで約三十度の傾斜をなしている。岩質は赤鉄石英片岩で、赤褐色に光る岩面は、強い摩擦力により磨かれて光沢を帯び、表面には岩がずれた方向に生じるさく痕がみられる。岩面の大きさや、断層の方向がわかることから地質学的に貴重な露頭となっている。
 鏡岩は古くから人々に知られていたようであり、江戸時代に記された『遊歴雑記』には、鏡岩に向えば「人影顔面の皺まで明細にうつりて、恰も姿見の明鏡にむかふがごとし」とあり、『甲子夜話』にも同様の記述がある。また、鏡岩がある御嶽山の一帯は、中世の山城である御嶽城跡が所在することでも知られているが、鏡岩が敵の目標となることから、城の防備のため松明でいぶしたので赤褐色になった
という伝説や、高崎城(群馬県)が落城した時には火災の炎が映ったとも伝えられている。このように鏡のように物の姿を映すということから、鏡岩といわれるようになった。
                                        平成九年三月 神川町教育委員会                                                                                                                                                    (現地案内板より引用)

                         
                                                                  御嶽の鏡岩            
  金鑽神社の祭神は『金鑽神社鎮座之由来記』、『金鑽神社明細帳』によると、天照大神、素戔嗚命、日本武尊の三柱であるが、『新編武蔵風土記稿』には、「神体金山彦尊、或ハ素戔嗚命トモ云」とあり、『大日本地名辞書』もこの説を引き、次のように記している。
・ 「神祇志料云、金佐奈神社の後なる山を金華山といふ、銅を掘し岩穴今現存すと云へり、之に拠るに、金佐奈盖金砂の義、其銅を出す山なるを以て、之を神とし祭る事、陸奥八溝黄金神社のごときか。」
・ 「甲子夜話云、児玉郡金鑽村、神社のほとり、大石あり、土中に埋りて其ほど知らず、顕はれたる所、一丈に九尺ほどなり、色は柿色にしてこれに向へば鏡にうつる如く、人影見ゆるとぞ。」

             
  鏡岩からさらに階段を上っていくと展望台と山頂の間の鞍部に出る。展望台の方へ進むと石仏群のある広場があり、その奥の岩峰上に展望台が見える。奥宮は拝殿の後方にそびえ立つ標高343mの「御室ヶ嶽」の山頂の岩峰の脇にひっそりと佇んでいる。
           
  また金鑽神社北東400メートルに鎮座する元森神社があり、金鑚神社旧社地とされている。場所は大鳥居から国道沿い2~300m児玉方面に進むと右側にある。『新編武蔵風土記稿には、「古は村東、今ノ見元森ノ両社アル所ニ建シ由、今ノ社地モ松杉繁茂シタレバ、転遷モ古キコトナルベシ』とあるらしい。

  周辺の地名に鉱山・製鉄に由来するものがあるし、その絡みから御祭神は金山彦命であるという説もあるらしい。地形を見れば北西神流川を越えればそこはもう上毛野国、南はすぐ秩父郡。往年には知知夫というのはここ児玉郡も含めていたそうであるから、南北の何かしらの交流はあったのだろうし、その中継地点としての重要な役割があったかもしれない。


                




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