古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北阿賀野稲荷神社

 稲荷神社  深谷市北阿賀野一(北阿賀野字西廓)
『風土記稿』によると、上野国藤岡城主蘆田右衛門大夫康真がこの辺りを領していたころに開発した地であるという。蘆田右衛門大夫は、徳川氏の入国後に当地北側に接する横瀬の地を領しているところから、当地の開発も入国後のことと考えられる。その後、正保から元禄(一六四四〜一七〇四)にかけて、北阿賀野と南阿賀野に分村したと伝えている。
 旧家の橋本正次家の伝えによれば、同家は河内国橋本庄からこの地に移り開発を行い、この時氏神として祀られたのが当社で、その後戸数が増すにつれ、村の鎮守として崇敬されるようになったという。
『風土記稿』は、地内の寺社について「稲荷社 村の鎮守なり、村持、天神社 宝暦十三年(一七六三)の建立なり、同じ持。阿弥陀堂 同じ持」と載せている。これに見える天神社(現菅原神社)は、当社の東側に隣接していた社であったが、明治四十三年に当社の境内社となった。また、阿弥陀堂は、当社北側の橋本家の墓地に移されていたが、昭和二十五年ごろに取り壊された。なお、阿弥陀堂と並んで、古くは寺院もあったと伝えるが、今はその寺名さえも忘れ去られている。あるいは、当社にかかわる寺院であったかもしれない。
「埼玉の神社」より引用
        
             
・所在地 埼玉県深谷市北阿賀野1
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧北阿賀野村鎮守 旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り(天神祭) 225日 例祭 410
                  
大祓式 731日及び1230日 秋祭り 1115
 伊勢大神社から一旦東行すること850m程、埼玉県道355号中瀬普済寺線と交わる十字路を右折する。同県道に合流し、700m程南下すと、近代日本経済の父と言われた「渋沢栄一翁」の歴史的資源の複合利用等を目的として整備された「青淵公園」に達するのだが、その手前の路地を右折し600m程進むと、北阿賀野稲荷神社の参道入口が右手に見えてくる。
        
                 
北阿賀野稲荷神社正面
         
入口左側には、「可堂桃井先生碑」と表記された標柱も建っている。

『日本歴史地名大系』「北阿賀野村」の解説
 利根川右岸の自然堤防上に位置し、東は血洗島村、南は清水川を境に南阿賀野村。本庄領に所属(風土記稿)。初め阿賀野村の内で、元禄(一六八八〜一七〇四)以前に当村と南阿賀野村に分村したとされる。田園簿にみえる阿賀野村旗本稲垣・依田・室賀の三家領分がのちの当村となり、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳に二村みえる阿賀野村のうち、依田領九三石余が当村にあたる。
『新編武蔵風土記稿 南阿賀野村』
 當村元は北阿賀野村と一村にして、後南北に分れり、されど正保の改にはなを一村にして、元祿の者には二村に見えたれば、分村の年代も推て知べし、
『新編武蔵風土記稿 北阿賀野村』
 蘆田右衛門大夫康眞此邊を領せし頃、領主へ聞え上て開發すと伝傳ふ、陸田のみの地なり、
 稻荷社 村の鎭守なり、村持、
 天神社 寶暦十三年の建立なり、同じ持、 阿彌陀堂 持同じ、
        
                
北阿賀野稲荷神社の鳥居
  この社の住所は「深谷市北阿賀野1」。この地域の中心に位置している社なのであろう。
           旧渋沢栄一邸「中の家」の近くに鎮座する神社
        
    境内に入ってすぐ左手に設置されている「稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑」
        
                    拝 殿
 稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑               
 深谷市北阿賀野一番地に鎮座する稲荷神社は倉稲魂命を御祭神と仰ぎ祀り五穀豊穣の神として先祖代々尊崇篤く現在に及んでいる。創建については風土記稿などによれば徳川氏関東に入国の頃との記述があることから四百年以上の歴史があるものと思われる。菅原神社(天神社)は宝暦十三年(一七六三)の建立と記されている。
 旧社殿内の棟木や記念誌からは御殿が明治二十六年に造営され大正十五年に改築し、その後昭和五十一年に氏子延百二十人の出役による改修事業が行われたなどの記録が残されている。
 境内には昭和二年に當地出身の偉人桃井可堂の顕彰碑が澁澤榮一翁により建立されている。社名の扁額も翁の揮毫によるものである。
 又戦争で尊い命を国家に殉じた英霊と従軍者の扁額が昭和三十九年に奉納され平和の尊さを今に伝えている。
 當神社は稲荷様として氏子に親しまれ豊作や商売繁盛・家内安全などを祈願する祭祀のみならず境内でのスポーツなど住民の交流の場として心の拠となっていた。しかし老朽化も著しく幾度となく修復も試みられてきた。
 この状況を憂い平成二十五年九月地元出身の実業家石坂好男氏により両神社の改築並びに境内の整備を寄進したい旨の申し入れがあり氏子総意の下、有難くこれを拝受し、平成二十六年六月起工・平成二十七年六月竣工の運びとなった。
 誠に氏子の喜び此の上なく尊崇篤くして地域の振興を子々孫々の繁栄を祈願してやまない。
 茲に石坂好男氏への報徳とその功績を後世に永く伝えると共に本事業の施工業者並びに協力・奉賛頂いた全ての皆様に衷心より感謝の誠を捧げてこの記念碑を建立する。
 
平成二十七年六月吉日
 北阿賀野稲荷神社宮司 宮壽照代
 同          氏子一同
                                     改築記念碑文より引用

        
               子爵澁澤榮一謹書「稲荷神社」
       社殿は新しくされたようで、天井の画も色とりどりで艶やかである。
 嘗て当社の覆屋内に設けられた棚には、おびただしい数の陶製の白狐が並べられている。これらは、当社が養蚕守護の神として信仰を集めた当時の名残であるという。
 養蚕が盛んであったのは昭和25年頃までで、毎年225日の春祭りには、養蚕倍盛を願う参詣者が多数訪れた。参詣者は、米の粉でこしらえた繭玉を供えて祈願し、神前に上げられた白狐の中から雌雄一対を借りて帰った。この白狐は自宅の神棚に1年間祀っておき、翌年の春祭りのお礼参りに「倍返し」と称して雌雄二対にして返すのが例であった。ちなみに、白狐の雌雄は髭の有無で見分ける。
 また、当社は古くから五穀豊穣の神としての信仰がある。氏子の生業が養蚕から蔬菜類の栽培に変わってきた近年は、作物の盗難を防ぐために、白狐を借りて行き、箱に納めて畑の一隅に置いておく信仰が生じている。
 
    社殿左側奥に祀られている境内社          社殿右側奥にある庚申塔等
         菅原神社(天神社)       写真にはないが、一番右側には青面金剛があり

 氏子区域の北阿賀野は、『新編武蔵風土記稿 北阿賀野村 陸田のみの地なり』に載せられているように、今でも畑作を中心とした農業地帯である。氏子数は四〇戸余りで、これを東廓・西廓・中廓の三つの郭(村組)に分けられている。
 氏子の間には、作物に関する禁忌があった。冨田家では、太平洋戦争のころまで「きゅうり」を作らなかった。その理由は、天正十二年(一五八四)の鉢形北條氏と上野国太田城主由良氏との戦いの際に、由良氏の武将であった冨田家先祖がきゅうり畑で打死したことによると伝える。今井家では、「茄子」を作らなかったが、戦後、伊勢の猿田彦神社から「お砂」を頂いて来て、神棚と氏神に供え、畑に撒いて清めて以後栽培するようになったという。
       
             鳥居のすぐ左側に聳え立つご神木 社殿手前左側にも銀杏のご神木あり

 社のすぐ近くには、「
可堂桃井先生碑」が建っている。この桃井 可堂(もものい かどう、享和388日(1803923日) - 元治元年722日(1864823日))は、日本の江戸時代末期(幕末)の志士、儒学者。通称は儀八。諱は誠。字は中道。可堂は雅号である。
        
 享和3年(1803年)、武蔵国榛沢郡北阿賀野村の百姓福本守道(宗左衛門)の次男として生まれる。隣接する血洗島村で渋沢栄一の大叔父・渋沢仁山が開いた塾で学んだ後、22歳で江戸の東条一堂の門で学び、清河八郎・那珂梧楼とともに「一堂門の三傑」と呼ばれた。のち備前庭瀬藩板倉家の儒臣として召し抱えられる。しかし水戸藩士藤田東湖らとの交流で尊王攘夷思想に共鳴し、改革派の公卿大原重徳に建白書を提出して時勢を説いた。この建白は大原の受け入れるところとならず、失望して庭瀬藩を致仕して、帰郷する。桃井は中瀬村に塾を開き、小田熊太郎や金井国之丞ら尊攘派の志士を育成した。
        
 文久3年(1863年)12月には天朝組を組織し、当時尊王派から忠臣として賞賛されていた新田義貞の子孫である岩松俊純を擁して新田氏ゆかりの者を集め、上野国沼田・赤城山で挙兵して後に横浜の外国人居留地を襲撃しようと企てた。しかし、同志の湯本多門之介や旗印となる岩松らが計画に恐れをなして江戸南町奉行所へ訴え出たために計画が露見。桃井は1215日、川越藩に自首した。江戸に護送され、麻布の福江藩邸預けとなり、幽囚されたが、自ら絶食して死去した。享年62。法名は道義院猛雲至誠居士。墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺にある。1912年(大正元年)1119日、贈正五位。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「
埼玉県HP」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「記念碑文」等
 

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伊勢大神社

 古老の話では、当社は伊勢内宮の天照皇大神を祀り、横瀬神社は外宮の豊受大神を祀り、両社は共に格が高いのだという。このため、氏子の当社に寄せる心は厚く、明治末期に当社を横瀬神社に合祀する話が持ち上がった折には、氏子一同で二反歩ほどの土地を社有地として寄進し、これを免れたという経緯がある。当社には、古くは杉の大木があり、『郡村誌』にも「社地中老杉あり」と載り、本田の横瀬神社の社と好一対をなしていた。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市横瀬337
              
・ご祭神 天照皇大神
              
・社 格 旧無格社
              
・例祭等 祈年祭 219日 例祭 410日 
                   新嘗祭 
1115
 群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を埼玉県境付近まで北上し、「上武生産市場」の丁字路を左折する。埼玉県道355号中瀬普済寺線に入り、そこから1.7㎞程進むと、一面田園風景の中、伊勢大神社の社叢林がポツリと見えてくる。
 
    県道から見た伊勢大神社の社叢林       大木に囲まれて社は鎮座している。
 
   入り口付近に建つ庚申塔と二十二夜塔    真っ直ぐの参道は途中から左側に折れる。
       
              鳥居の先には神明系の社殿が建つ。
 伊勢大神社(だいじんぐうさま)  深谷市横瀬三三七(横瀬字伊勢山)
 横瀬の地名は、利根川の瀬に沿った地であったところから生じたといわれる。横瀬郷は古くから知られ、上野国金山城主横瀬信濃守の先祖の出生地で、またその所領であったといい、地内には平安期から鎌倉期にかけての横瀬氏居館跡がある。
 当社は、古くは太神宮と号し、別当は地内の新義真言宗華蔵寺であった。この華蔵寺は、建久五年(一一九四)の創建と伝え、本尊は大日如来である。また、境内には大日堂があり、この堂は横瀬氏の建立と伝えている。
 当社の創建は、この別当華蔵寺の信仰と深くかかわると考えられる。それは鎌倉期成立の『沙石(しゃせき)集』に「内外の両宮は金胎(こんたい)両部の大日とこそ習ひ伝へて侍れ」とあるように、伊勢両宮の大神は大日如来の化現(けげん)したものであると説かれていることによる。
 横瀬には、当社のほかに、かつて聖天宮と号していた鎮守の横瀬神社があり、これが貞享年間(一六八四〜八八)に、横瀬が本田と新田に分離したのに伴い、その鎮座地の関係から、新田の鎮守として祀られるようになったものであろう。ちなみに貞享年間は、各地に悪疫が蔓延して死者が多かったので、神威の著しい伊勢の両宮に祈ると称して伊勢踊りが流行し、伊勢信仰の高まった時期である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 現在、当社の祭典は、219日の祈年祭410日の例祭、1115日の新嘗祭の3回行われている。これは、昭和29年の町村合併に際して、横瀬神社の祭日に合わせたもので、両社の総代と指し番は、まず横瀬神社の祭礼に参加し、続いて当社の祭礼を奉仕する。両社の祭典には、総代と指し番のほかに、自治会長・自警団長・婦人会代表が参列するという。
       
                      境内に聳え立つご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等

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大塚諏訪大神社

 当地を含む深谷市北辺部は、諏訪神社が多い所である。これら諏訪神社は、いずれも信州諏訪神社の分祀と考えられる。同社の分社は全国に見られ、その時期は古代に始まるといわれるが、最も盛んであったのは鎌倉時代であった。これは、源頼朝が石橋山に戦い、甲斐の源氏が頼朝加勢の兵を挙げた時、諏訪の神が源氏勝利の託宣をしたことから、鎌倉幕府、更には鎌倉武士に信仰された結果である。
 当社の創建は、社伝によると正安年間(一二九九〜一三〇二)である。この時期は鎌倉時代の末期で、二〇年ほど前には、中国大陸の元軍が日本に来襲した文永・弘安の役があった。この戦役で、伊勢の風宮(かぜのみや)と信州諏訪神社の神が大風(神風ともいう)を起こして、元軍を全滅させたと信じられた。これは、古代から諏訪の神が、風の神として信仰されていたためである。なお、この風の神信仰は、本来は農業神としてのものであった。
 当地に諏訪神社が多い理由は明らかにできないが、鎌倉武士の発生地であり、鎌倉街道が通っていたことが挙げられよう。しかし、当社の場合は、その創建が鎌倉時代末期であり、鎌倉武士の勧請というよりも、諏訪の風の神としての信仰が一般化してきて、土地の鎮守として祀られたと考えるべきであろう。
「埼玉の神社」より引用
        
             
・所在地 埼玉県深谷市大塚263
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧大塚村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭り 410日 秋祭り 1017
 深谷市大塚地域は、小山川左岸の沖積低地にあり、深谷市下手計周辺から南東方向に流れている小山川支流の清水川が合流する地域一帯に位置し、中央部を群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が南北に通っている。民家は県道を中心に点在するに対して、外郭周辺部は田畑が中心に農地が広がっているように、場所によって土地利用される用途がハッキリと分かれている地域でもある。
 途中までの経路は戸森雷電神社を参照。そこから群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上し、1.7㎞程先で小山川を越えた最初の十字路を左折すると、すぐに大塚諏訪神社が見えてくる。
        
                 
大塚諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』「大塚村」の解説
 小山川左岸の沖積低地に位置し、西は上手計(かみてばか)村、南は内ヶ島村、北は下手計村。岡部領に所属(風土記稿)。地元では「おおづか」とよぶ。永禄一二年(一五六九)九月一日の北条氏邦印判状写(武州文書)によると、鉢形城(現寄居町)城主北条氏邦が吉橋大膳亮に戦功の賞として「十貫文 大塚之内」などを宛行っており、これは当地に比定される。天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入国後、旗本安部信勝領(のちの岡部藩領)となり幕末に至る(天明七年「岡部藩領郷村高帳」安倍家文書、改革組合取調書など)。
 
     手入れの行き届いた境内         「
大塚諏訪大神社改築の記」の石碑
氏子区域は、大字大塚であり、「大塚」の名が示すように、地内に古墳後期・奈良期・平安期の大塚遺跡、古墳後期の諏訪神社前古墳がある。大塚地域は農業地域で、昔は麦、現在はネギの生産が多い。総戸数は五五戸であり、全戸氏子である。
        
                 塚上に鎮座する社殿
 大塚諏訪大神社改築の記
 当社の創建は、社伝によると正安年間(一二九九~一三〇二)である。この時期は鎌倉時代の末期で、二十年ほど前には、中国大陸の元軍が日本に来襲した文永弘安の役があった。
 信州諏訪神社の分祀といわれる当社の祭日は、四月十日春祭り、十月十七日秋祭りである。春祭りは。『お花見』とも呼ばれ、氏子一同で祝宴を行っている。秋祭りには、獅子舞が行われる。当社の舞は、天正十五年(一五八七)からと伝えられている。
 氏子区域は、大字大塚である。大塚の名が示すように、地内には古墳後期、奈良期、平安期の大塚遺跡、古墳後期の諏訪神社前古墳があり、深谷市指定二号遺跡となっている。
 地内に、享保四年(一七一九)大塚、村中造立の地蔵尊があり、『子育て地蔵』と呼ばれ、信仰されてきた。この地蔵尊の縁日は、毎月二十四日で団子を供えてお参りする人が今日でもある。耕地整理等に伴い、現在は他地番に安置されている。
 神社社殿の老朽がすすんだため、氏子の総意にもとづき平成十二年度から、十三年間計画で建設資金の積み立てを実施して、平成二十六年に待望の新社殿が完成した。
 平成二十六年九月吉日
  
大塚諏訪大神社建設委員会
                                      石碑文より引用
 
  社殿右側に祀られている境内社・稲荷神社       境内に祀られている石祠群。詳細不明。
        
               境内に一際目立ち聳え立つ巨木

 当社の例祭は、古くは八月二十六日であったらしい。「白川家門人帳」寛政四年(一七九二)に、伯家から当社に対して社号額の染筆を遣わしたとの記事があり、その中に、例祭日八月二十六日の記載がある。各地の諏訪神社の祭りは、八月二十六日から二十八日の間に行われることが多い。これは、信州諏訪神社の古くからの祀り「御射山(みさやま)神事」の日取りに合わせたためであろう。
 秋祭りには獅子舞が行われる。信州諏訪神社は狩猟と関係が深く、獅子頭は鹿の頭に似ている。獅子舞の起源は、寛元年間(一二四三〜四七)、時の鎌倉幕府執権北条時頼の命により角兵衛という者が始めたと説かれる。当社の舞は、天正十五年(一五八七)からと伝えている。
獅子舞は、十月七日の花作り・練習から始まる。当日は、舞い手3人・棒遣い2人・笛方1人・花笠2人・歌1人・ボンゼン1人で行われ、庭は二庭で、前と後ろがあり、終日境内に笛の音が流れるという。
 大塚獅子舞は「無形民俗文化財」として深谷市の指定を受けている。
【指定年月日】  昭和48113
【変更年月日】  平成3113日(記号番号変更) 平成1811
        
          社の入口正面には小山川の土手がすぐ目の前にある。
                   まるで社が身を呈して、北側に住む住民を守るように
                     この地で盾となっているような位置関係である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「深谷市HP」「境内石碑文」等

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江原冨士神社

 埼玉県深谷市にある江原(えばら)地域は同市内の北東部にあり、利根川支流である小山川右岸の沖積低地に位置していて、埼玉県最古の農業用水路である「備前渠用水路」が東西に流れ、この地域とその南側に位置する堀米地域との境となっている。地域名である「江原」の名前の如く、小山川等がもたらす肥沃な大地は農地に適しており、地域内の大部分は豊かな穀物地帯となっていて、一部病院や住宅等も建ち並んでいる。
 この地域は『新編武蔵風土記稿 上・下江原村』によると、「和名抄」にみえる幡羅郡荏原(えはら)郷の遺称地として紹介している(【和名抄】といへる郷名をのす、今轉(てん)じて斯記せるにや、さもあれば古の郷にて、わづかにその名のゝこれるならん)。と同時に、地元の人々の傳では、この村は以前蓮沼村の内で慶長7年(1602)の検地で江原村として分村したとしている。のち元禄(16881704)以前にほぼ西部の上江原村と東部の下江原村に分村し、両村とも忍領に所属(同書)した。
 またこの地域は、猪俣党荏原氏の名字の地とされ、猪俣党系図(諸家系図纂)では河勾政重(猪俣時範の玄孫)の子範政が荏原太郎を称していて、地内には荏原氏の館があったと伝えている。
        
             
・所在地 埼玉県深谷市江原345
             
・ご祭神 木花咲耶姫命
             
・社 格 旧江原・蓮沼・堀米村鎮守 旧村社
             
・例祭等 祈年祭 228日 例大祭 1018日 新嘗祭 1119
        
 熊谷市西別府地域で国道17号線から分離する国道17号バイパス、通称「上武道路」を北西方向に進行し、2.5㎞程先にある「蓮沼」交差点を右折する。その後、埼玉県の北部を流れる埼玉県最古の農業用水路である「備前渠用水路」を過ぎた直後の路地を右折し、用水沿いの道幅の狭い道を東行するとほぼ正面に江原冨士神社の鳥居と南北に通じる長い参道、その北側先に小さく江原冨士神社の社叢林が見えてくる。地図を確認すると「北深谷病院」の敷地のすぐ東側に隣接しているような位置に社は鎮座している。
        
       周囲一帯田畑風景の中にポツンと立つ鳥居と一直線に伸びる参道
 現在社のすぐ西側には北深谷病院、及びその関連施設等の立派な建物が建っているが、それ以前は周囲一帯田畑のみで何もなかったはずである。
 地形を鑑みるに、旧江原村のみで考えるとこの社は南側にあり、社殿も南向きで、地域住民が住む場所に対して背を向いている配置となっているため、村鎮守として納得できない所もあったのだが、嘗ての旧江原・蓮沼・堀米村の鎮守社としての役割を考えると、ほぼ中央付近に鎮座するこの社は絶妙な位置にあり、ポツンと立つ鳥居やその北側にある社殿は、身近な地域の方々の動向を背に意識しながらも、西・南側に住む住民にも気を配った位置関係となったのではないかと推測した次第だ。
 
     参道途中に建つ社号標柱         参道入口から200m程先に見える境内
 木花咲耶姫命を主祭神とする当社は、古くから江原・蓮沼・堀米の三村の鎮守として崇敬されている。また、嘗てこの地方は養蚕が盛んであったことから、隣国にある浅間山の噴火による灰燼の被害に対しての恐れは甚大なものがあった。このため、当地の人々は、山の神の象徴である富士山の祭神、木花咲耶姫命を常日ごろから祀り、養蚕倍盛・五穀豊穣を祈ったといわれる。
       
           境内入口に一際目立ち聳え立つ   銀杏の大木の右側には本殿上屋新築記念碑
          大銀杏の大木        と共に境内社・八坂神社が祀られている。
        
                    拝 殿
 富士神社  深谷市江原三四三(江原字西富士宮)
 利根川の支流、小山川の低地に位置する江原は、平安期に見える幡羅郡八郷の一つである荏原(えばら)の遺名と見られ、地内には武蔵七党猪俣党の荏原氏の館があったと伝える。
 社伝によると、当社は延暦年間(七八二〜八〇六)の富士山大噴火の際に降った灰を林中に集めて盛り、その上に祠を建てて富士の神霊を祀ったことに始まる。その後、坂上田村麻呂が奥羽蝦夷鎮定の帰路当地を通り、富士の神霊が鎮まるこの林中で馬を休め、軍装の一部を解いて当社に奉納し、蝦夷地平定を祝ったという。
 次いで、建久四年(一一九三)源頼朝が富士の裾野で巻狩りを催した際、当地の豪族蓮沼・荏原の両氏は住民を率いてこれに加わり、以来富士山への尊信を深めていった。また正慶年間(一三三二〜三四)には、新田義貞が北条高時を征する際、上野国生品神社から出陣し、途中当社地で休憩したところ、数千の住民が味方に加わった。この神徳に感謝した新田軍は、大いに士気が上がり、鎌倉に向かい、北条氏を打ち滅ぼしたという。
 このように数々の事歴を伝える当社であるが寛永九年(一六三二)の大洪水により旧記・什物をことごとく流失し、唯一、空海筆と伝わる「富士宮大明神」の古額が残されるのみとなっている。
 なお、当社に奉仕する千手院は、古くは字本郷の神領地に居住していたが、享禄年間(一五二八〜三二)権僧都白水法印の時に居宅を当社隣接地に移した。これが後の江森家である。明治二十八年の「村社富士神社御由緒調査書」に載る天和二年(一六八二)「指上申御除地之事」には、御除地「畠七畝弐壱拾歩」のうち「中畠三畝八歩」が明神免、「屋敷四畝拾弐歩」が千手院屋敷免であったと記している。
 享保十四年((一七二九)江原・蓮沼・堀米の氏子中により社殿が再建された。次いで、宝暦九年(一七五九)に地元の江原・蓮沼氏子中による鰐口の奉納があり、更に天明二年(一七八二)には再び江原・蓮沼・堀米の氏子中により石灯籠の奉納が行われた。
 明治に入ると、千手院は復飾して江森姓を名乗り、神職となった。これについて『大里郡神社誌』は、「明治元年復飾改名の沿革は古く千手院を森の内と俗称せるものから江森の江を併せて姓を定めたりと云ふ」と載せている。
 明治九年に当社は村社となり、同四十二年から同四十五年にかけて江原・蓮沼・堀米の三地内にあった各社を合祀した。合祀社のうち堀米の十二所神社は、この時の「十二所権現御遷宮次第」には、別当の養福寺が導師となり、威儀を整え厳かに御位を神社にお迎え入れる様子が記されており、神位拝受に寄せる氏子の心情をうかがわせる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 年間の祭事の中で、1018日に行われる例大祭では、巫女舞や獅子舞の奉納がある。
 巫女舞は、紀元二千六百年を奉祝して始められたもので、現在は小学六年生の女子により行われているという。舞には「浦安の舞」「豊栄(とよさか)の舞」がある。
 獅子舞は、天明三年(一七八三)の浅間山の噴火により農作物が被害を受け、更にこの年は疫病もはやったことから、村人はこの苦境を切り抜けようと、伊勢国度会郡山田の里から獅子舞の伝授をうけ、鎮守に奉納したことに始まると伝えられ、堀米の氏子によって代々伝承されている。
 獅子舞奉納当日は、まず堀米の十二所神社跡に寄って一庭摺った後、富士神社に向かう。獅子の構成は男獅子・女獅子・法眼の三頭からなり、演目は「おんべ掛かり」「ひら」「雌囃子隠し」「橋掛かり」等とされる。舞の中でも「おんべ掛かり」は、社前において御幣を振り、天下泰平・風雨順次を祈願するという独特のもので、作物の豊醸を願った往時の人々の願いがこの舞に込められていたことを伺わせる。
 通称「堀米の獅子舞」と呼ばれるこの獅子舞は、深谷市の無形民俗文化財に指定されている。
        
                         本殿の左側に祀られている石祠・石碑群
   後ろの石祠は、境内社・大天獏社・塞神・稲荷社。その右側に祀られている蚕影神社。
        
                         帰りも備前渠用水路までの長い参道が続く。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「深谷市HP
    「埼玉の神社」等
            

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深谷富士浅間神社

 深谷城は埼玉県深谷市にあった平城(ひらじろ)で、山内上杉氏支流の深谷上杉氏(庁鼻和(こばなわ)氏)の居城である。山内上杉家の上杉憲顕の六男である上杉憲英が庁鼻和上杉を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。
 第4代当主の上杉房憲は康正2年(1456)、享徳の乱が起こって古河公方足利成氏との軍事対立が激化すると、庁鼻和城(同市)西方の唐沢川近くに新たに深谷城を築城して居城を移した。これにより庁鼻和城は廃城となり、城跡に深谷上杉氏の菩提寺の国済寺が建立された。1552年(天文21)、北条氏の上野侵攻により、関東管領上杉憲政が居城の平井城(群馬県藤岡市)を捨てて、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃亡すると、深谷上杉氏は北条氏に降伏・臣従したが、謙信が関東に侵攻すると、謙信に与して北条氏に敵対。上杉氏の力が弱まると再び北条氏に臣従し、鉢形城(大里郡寄居町)の北条氏邦の城代として引き続き深谷城を居城とした。しかし、1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)で、城主の上杉氏憲は小田原城(神奈川県小田原市)に籠城したが、城と領地を奪われて深谷上杉氏は滅亡した。この戦いの後、深谷城は関東に入部した徳川氏のものとなり、松平康直が1万石で入城。その後、松平忠輝、松平忠重が居城としたのち、1622年(元和8)には酒井忠勝が同じく1万石で入封したが、1624年(寛永1)に忍藩5万石(忍城、同県行田市)に移封になったことに伴って、深谷城は廃城となった。
 現在嘗ての城域のほとんどが市街地になっているため、遺構はほとんど残っておらず、深谷上杉氏の祈願社だった富士浅間神社(別名・智形神社)の社殿をめぐる池と水路などに、僅かに当時の姿をとどめるのみである。また城跡の一角が城址公園となっており、石垣や城壁などの模擬構造物がつくられているが、これらはかつての深谷城を復元したものではない。
 因みにこの城は城域の形が木瓜の花、あるいは木瓜の実の断面に似ていたことから、木瓜(ぼけ)城とも呼ばれる。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市本住町16
              ・ご祭神 木花開耶姫命 瓊瓊杵尊
              ・社 格 享保6・宗源宣旨「正一位智形大明神」 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 221日 例祭 113日 新嘗祭 123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1994444,139.2870901,18z?hl=ja&entry=ttu
 深谷城址公園のすぐ東側で、南北に流れる唐澤川左岸に鎮座する。地図を確認すると稲荷町末広稲荷神社の北側近郊にある。創建は不詳だが、社記に「当社は、康正二年(1456)深谷城築造以前から当所の氏神として祀られ、智形大明神と称えていた。下って、深谷城上杉氏時代には城の鎮守となり、以後、代々の城主に崇敬され、寛永年間(16241644)酒井讃岐守城主の時、社殿を再建した」とある。
 社の周囲には前出の城址公園を始め、深谷図書館・市民文化会館・保健センター・生涯学習センター等が立ち並び、深谷市の開発が進んだ地域の一つでもあるが、社周辺にはそれらの建物群と一線を画すが如き静かな空間が境内に広がっていて、神社を囲む深谷城の外濠跡が歴史の深さを無言で語っているようでもある。
        
                                    深谷富士淺間神社正面
 
 社号標には「富士浅間神社」であるが、明治以前には智形神社とよばれ、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、永享12年(1440)勧請と伝えられている。また社号標の右側には「深谷市指定文化財 深谷城外濠跡」と表記された標柱が立つ(写真左)。鳥居の手前にある趣ある神橋(同右)。神橋の下には水路があり、この場所も外濠跡という。
        
                 鳥居の右側に立つ案内板
 富士浅間神社
 この社の祭神は木花開耶姫命、瓊瓊杵尊で、社宝は宗源宣旨と宗源祝詞である。
 明治以前には智形神社とよばれ、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、永享十二年(一四四〇年)勧請と伝えられている。江戸時代、寛永年間深谷城主酒井讃岐守が再興した。
深谷城は、上杉房憲が康正二年(一四五六年)古河公方との戦いに備えて築城したもので、天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の関東攻略により落城した。江戸時代には、松平、酒井氏が居城したが、寛永十一年(一六三四年)廃城となった。この城は低湿地に取り巻かれた平城で、社をめぐる池と水路は深谷城外濠の名残りをとどめている。
 昭和五十九年三月 深谷上杉顕彰会
                                      案内板より引用

        
                                 富士浅間神社正面鳥居
 深谷城主である深谷上杉氏の祈願社として、第4代当主の上杉房憲が古河公方足利成氏との軍事対立の中、康正2年(1456)築城してから豊臣秀吉によって落城される天正18年(1590)の間、134年間も深谷上杉氏の居城として活躍した歴史ある社。
 
    鳥居の日だ衛川に祀られている        琴平神社の並びに祀られている
       琴平神社の石碑               境内社・稲荷神社
        
                      境内社・稲荷神社の先にある「加藤省吾顕彰碑」
      童謡「みかんの花咲く丘」誕生地であり、立派な石碑には歌詞が刻まれている。
 加藤省吾(かとうしょうご 1914730日―200051)は静岡県富士市出身の作詞家。大正37月生年。深谷へ疎開中であった昭和21年(1946年)8月に「みかんの花咲く丘」を作詞した。なんでも加藤のご両親の出身地がこの深谷市本住で、疎開中に故郷静岡の情景に思いをはせながら作詞したという。
 この他に加藤省吾の主な作品には、「かわいい魚屋さん」「やさしい和尚さん」などの童謡をはじめ、「怪傑ハリマオ」「笛吹童子」「おらあ三太だ」などの主題歌、さらには深谷市立深谷小学校校歌、同校愛唱歌などがあり、そのジャンルは多岐にわたり、日本大衆音楽協会理事長も務めた

             参道途中にある一対の狛犬(写真左・右)
        
                   「加藤省吾顕彰碑」の奥に鎮座する境内社・厳島辨財天

   境内社・厳島辨財天の手前にも深谷城の外濠跡らしき遺構が見られる(写真左・右)
 今は時期的に水路に水は湛えていないが、それが却ってこの遺構の趣を深めているようだ。
        
       規模は決して大きくはないのだが、市街地の開発に無縁な空間が広がっている。
 何度もいうが、この境内のすぐ左手には深谷市民文化会館・コミュニティーセンター・保健センター等の建物が軒を並べて建てられている場所である。不思議な静けさが漂う空間。
 
 参道を更に進んでいくと、左側に石祠群が祀られている(写真左)。一番左にあるのが境内社・三峰神社であるが、それ以外は詳細は不明。その先にも境内社・琴平神社が鎮座する(同右)。
        
                     拝 殿
『大里郡神社誌 富士浅間神社』
 神社の所在地
 舊榛澤郡深谷宿字智形にして古來變遷なし
 當神社は創立年月不詳と雖も往古上杉氏在城の頃の鎭守にして寛永年間酒井讃岐守城主たりしとき再興すと言傳ふ當社は中世の頃より智形神社と稱し天兒屋根命を祀りしものと言傳へしも誤りなることを發見し明治十三年九月十三日祭神を木花開耶姫命社號を富士淺間神社と改む
 神社名稱
 智形大明神又は單に智形様と奉唱せしも明治十三年九月十三日富士淺間神社と改稱す
        
                    *境内東側から見た拝殿・幣殿・本殿の様子
 ところで、この深谷富士浅間神社に加え、境内に祀られている稲荷神社・三峰神社・厳島辨財天・琴平神社、これらは社の案内板に記されている「深谷城内鎮守五社」なのであろうか。
        
                            拝殿から見た境内の一風景
 

 深谷富士浅間神社の外周には深谷城の堀の一部と思われる「外濠跡」がある(写真左・右)。深谷城は、唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城で、城の周囲は堀で複雑に囲まれていたと考えられるが、当時の景観はほとんど見ることはできない。富士浅間神社(智形神社)の社殿を巡る池と水路に往時の姿をとどめるのみである。
 深谷市指定文化財史跡 【指定年月日】 昭和33113
            【変更年月日】 平成3113
             (記号番号変更)   平成1811


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「深谷市HP」「Wikipedia
    「日本の城がわかる事典」等
 

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