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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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武蔵野足高大神社

「大里郡神社誌」によると榛澤郡下郷地域は、明治9年(1876年)改正の際に、飯塚村・原宿村・猿喰吐村・飯塚原宿村・飯塚猿喰吐村、五村が合併して武蔵野村となったという。この五村の内に「猿喰吐村」という村名があるが、その地名の由来や変遷は元禄時期以前は不詳とされている不思議な地名だ。
 その摩訶不思議な村名である旧猿喰吐村内にこの武蔵野足高大神社は鎮座している。
所在地   埼玉県深谷市武蔵野3283
御祭神   大物主神
社 格      旧村社
例 祭   例祭日 10月15日

       
 武蔵野足高大神社は前出上野台八幡神社から埼玉県道62号深谷寄居線を寄居町方向に道なりに真っ直ぐ進み、約6㎞行くとコンビニエンスのあるY字路にぶつかる。県道をそのまま進んで、最初の信号の先にある十字路を左折し、500m程進むと右側に足高大神社が見えてくる。

              一の鳥居           一の鳥居を過ぎると左側にある社号標石
 「大里郡神社誌」によれば、室町末期には既に鉢形城主北条氏邦により、領内鬼門鎮護として奉祀されていたという。そのため、氏邦は、毎年九月二十八日を恒例日と定め、家士数人を率いて参拝し、幣帛及び神饌を奉り、祭礼を執行したという。この時、氏邦の神饌を奉るために使った膳が足高の膳であったため、それにちなんで当社を足高神社と呼ぶようになったのだとも伝えている。
       
                   拝    殿
       
                    拝殿内部

  参道の途中、左側には境内社・八坂神社。     拝殿右側には広い空間があり、
                           御嶽山三神の石碑がある。

  御嶽山三神の左隣には傾いた社日がある。      社日の並びにある塞神宮。

 植木の奥で見づらいが、塞神宮の左側にはに弎㠀(三島)大神と仙元大神と彫られた大きな2枚の石碑があり(写真左側)、そのすぐ左側には境内社・稲荷神社(同右側)が鎮座している。
 この地域には千元(浅間)神を信奉する社や石碑が非常に多い。
        
          社殿の左側で、奥に鎮座する境内社・天手長男神社
       
                   八坂社脇の掲示板に貼られていた足高神社の案内板

鉢形城領内鬼門鎮護
足高神社  
 御祭神 大物主大神
 末 社 稲荷神社・天手長男神社・八坂神社・琴平神社・塞神社・浅間神社
     菅原天神社・三島神社
 御由緒 御創建の年代は不詳ではありますが、室町末期 鉢形城主 北条 氏邦により領内鬼門鬼門鎮護として奉祀されていたと伝わります。氏邦は、毎年九月二十八日を恒例日と定め、家士数人を率いて参拝し、幣帛及び神饌を奉り、祭礼を執行したといわれています。この際、氏邦の神饌を奉るために使われた膳が足高の膳であったことに由来し、当神社を足高神社と呼ぶようになったのだとも伝えています。
 かつて御祭神については伝えがなく、長らく祭神不詳となっておりました。ところが大正年間、古い版木に刻まれた神代文字を解読したところ「おほものぬしのかみ」と読めることが判明し、大正十年に正式に届けられ道められました。
 その他病気平癒・星神・荒神・鎮火天手長男神社・塞神・養蚕守護・軍人健康などの祈祷札の版木が残存していることから、広く諸祈祷を行い、信仰を集めていたことを窺い知ることができます。(中略)


 ところで冒頭で榛澤郡下郷地域は、明治9年(1876年)改正の際に、飯塚村・原宿村・猿喰吐村・飯塚原宿村・飯塚猿喰吐村、五村が合併して武蔵野村となり、この五村の内に「猿喰吐村」という村名を紹介したが、それについて「埼玉苗字辞典」ではその村名に関連するのか、以下の記述をしている。

幕土 マクツチ 榛沢郡藤田郷猿喰土村(ざるがいと、花園町)は獏喰土と書かれ、系図作成者は幕土(ばくと)と記したか。冑山文庫本の武蔵七党系図に「猪俣党、幕土(猿喰土カ)」と見ゆ。小野氏系図に「猪俣小野三郎政家―藤田五郎政行―三郎大夫行安(一谷合戦討死)―右衛門尉能国―幕土五郎左衛門尉重国―六郎左衛門尉助国(弟に三郎左衛門尉重行、五郎兵衛尉助盛)―重泰(兄に孫三郎泰氏、弟に左衛門四郎宗遍、四郎助時、十郎入道道尊)―行重(弟に六郎重宗、弾正左衛門尉行宗)」と見ゆ。

猿喰土 ザルガイト 榛沢郡猿喰土村(花園町)あり。
一 猪俣党猿喰土氏 武蔵七党系図(冑山文庫本)に「猪俣党、幕土(猿喰土カ)」と見ゆ。






 


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上野台八幡神社


  深谷上杉氏は、室町幕府の役職の1つである関東管領となった山内上杉憲顕が、14世紀後半頃に、北関東で勢力を持っていた新田氏やその残党を抑えるために、六男上杉憲英を派遣したことに始まり、およそ230年間に及び、第9代上杉氏憲まで続いたという。
 初代憲英から4代上杉憲信までは深谷城に近い庁鼻和城(こばなわじょう)に居城を構えたことから庁鼻和上杉氏と呼ばれていたという。その後、古河公方と関東管領との抗争が激化し、管領方の有力武将であった深谷上杉5代房憲(ふさのり)は、より一層の要害として深谷城を築きその後氏憲(うじのり、生年不詳 - 1637年(寛永14年))までの5代が深谷城に住んだので、総称して「深谷上杉氏」と呼ぶ場合もある。
 深谷市上野台地区に鎮座する上野台八幡神社は、深谷上杉氏の家臣で、武蔵国榛澤郡上敷免の城主であった岡谷加賀守清英が、天文19(1550)に、深谷領の守護として、山城国(現京都府)の石清水八幡宮を勧請したのに始まるという。
所在地   埼玉県深谷市上野台3168
御祭神   品陀和気命
社 格    旧郷社 
例 祭    例大祭 10月中の吉日を含む3日間    1125  新嘗祭      
         


上野台八幡神社は深谷駅の西側を南北に通る埼玉県道62号深谷寄居線を深谷駅の踏切から寄居町方向へ南方向約2㎞進むと右側道路沿いに鳥居が見えてくる。すぐ先にはコンビニエンスがあり、その交差点手前のT字路を右折すると正面には広々とした駐車スペースがある社務所もあり、そこに駐車して参拝を行う。人見浅間神社の北側で、直線距離でも1㎞満たない場所にこの社は位置している。
         

           埼玉県道62号深谷寄居線沿いに鎮座する上野台八幡神社

   鳥居を過ぎるとすぐ右側にある案内板        東西に長い参道が広がる。
 八幡神社
当社は深谷市上杉三宿老の一人、皿沼城主岡谷加賀守清英が榛沢郡茅場村に清心寺を開基しましたが、その鎮守として境内に八幡神社をまつりました。清英は文武両道に秀でた良将で、上杉謙信は清英の武略に感じて、後奈良天皇から賜った仏工春日作の箱根権現の像を清英に贈りました。当社は天文十九年(1550)山城国石清水八幡宮より分祀したもので、御神体は応神天皇束帯塗金銅像です。天正十八年(1590)皿沼城落城と共に当社は衰退しましたが、正徳年中(一八世紀初期)上野台村の地頭大久保家が、この地を寄進し移しました。高蒔絵定紋入り岡谷加賀守清英使用の鞍、安部摂津守鉄砲隊の種ヶ島銃が市指定文化財です。
 昭和五十三年一月   深谷上杉顕彰会
                                                       案内板より引用
           
                              二の鳥居
       
                 二の鳥居の傍らに岡谷加賀守清英を祀った祠。
 石祠の横の石柱には「當八幡宮創始 岡谷加賀守清英公偲祠」「加賀守十二世孫 従五位岡谷繁實大人奉                            配」と刻まれている。
        
                   参道を進むと右側に御神木の大杉が聳え立つ。

    二の鳥居を過ぎてすぐ左側にある神興庫         上記御神木の先で参道右側には神楽殿          
           
                               拝     殿
 岡谷加賀守清英の主である深谷上杉氏は、山内上杉家4代目当主の上杉憲顕の6男・憲英が庁鼻和上杉を立てたのが祖とする。憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州管領に任命されている。分家の扇谷上杉家と共に武蔵国を治めるが6代目・上杉憲賢(1498年?~1560年)の代に北条軍との戦いである河越夜戦によって最後の当主である上杉朝定が戦死して扇谷上杉家が滅亡すると、北条家に降伏する。
 憲賢の息子である憲盛(1530年~1575年)は父が降伏してなおも、関東管領山内上杉憲政と結んで武田信玄と笛吹峠で対戦したり、同族の長尾景虎(上杉謙信)と通じて徹底抗戦を続けるが復権はならないまま1563年、北条軍に敗れて降伏した。しかし1569年、越相同盟の締結によって深谷城が上杉家に戻った事により憲盛は深谷城へ帰参。そして甲斐武田家が攻めてきた際には防戦し勝利する。憲盛は1575年に46歳で死去するまで上杉配下として貫いた。
 憲盛の息子である氏憲(?~1637年)の代では深谷上杉家は北条家に帰参している。氏憲は小田原征伐でも小田原城に籠城しているが、元配下の秋元長朝に裏切られて小田原城は開城。

 氏憲はその後小久保と姓を改め、信濃国にて隠居した。ここに名族深谷上杉氏は歴史の表舞台から完全に姿を消した。
 上野台八幡神社は元々榛澤郡茅場の地に鎮座していたが、この天正十八年(1590年)小田原征伐の際、皿沼城落城と共に一旦は当社は衰退した。その後正徳年中(十八世紀初頭)上野台村の地頭大久保家がこの地を寄進し移して現在に至っている。

 拝殿上部に掲げてある立派な木製の社号標(写真左)。なんでも近隣に在住の方から寄付されたものだそうだ。そして拝殿左側には浅間大神の石標(同右)
        
                    本    殿
 ちなみに岡谷加賀守清英は深谷上杉家の三宿老の一人と言われていて、岡谷加賀守清英、秋元越中守景朝、井草左衛門尉の3人が「三宿老」、これに上原出羽守を入れて「四天王」という。
 拝殿左側にある境内社。奥は天神社、手前は不明。       本殿奥にある末社群。詳細は不明。            
            
                    拝殿右側にある境内社である台天白神社。
 台天白神社の並びには天王宮、如幻庵東山稲荷、稲荷社があるのだが、カメラが充電の関係で今回撮影ができなかった。

 ところで境内社・台天白神社は「大里郡神社誌」によると以下の記述がある。
 末社臺天白神社本殿
 ・石宮流造間口一尺奥台行尺四寸安永元年(1772年)造営明治四十二年同所字天一白より移転
 ・(神話)旧来弓矢の神として衆庶の崇敬極めて深く又農作物の守護神として氏子崇敬者の信仰厚し。
       末社臺天白神社は小児の百日咳に霊験ありとて篠笛を納め来る賽客多し。

 この「大里郡神社誌」を詳しく読むとこの上野台地区の字名には「天一白」「大臺」「台前」「小台」という「大(臺)天白」を共通する地名が今だに残っているのも興味深い。現在でも「上野台」として地名の名残りとして残っているが、嘗て文字通りこの地域は「台(臺)」の地であったのだろう。
 また調べてから発見したのだが、「鼠」という地域もあり、興味がつきない。

 この上野台八幡神社は10月3連休の土曜日から月曜日かけて例祭が行われる。上野台地区の鼠・上宿・下宿・小台・大台・桜ケ丘の六地区の屋台が奉曳され、上柴町を含めた旧大字上野台の全域を夜間も含め3日にわたって渡御する神輿であり、悪魔払い福を招くと言われ、遷座の当初より行なわれていたという。神輿渡御は当時より、上野台の各字が年々交代に行う方法がとられていたようで、この交代制が今に続く「年番」という仕組みとなっている。

 例祭では他に、獅子舞(ささら)、棒術(棒づかい)、道化などの行事がある。獅子舞は深谷市の無形文化財に指定される。祭典の中日には八幡様の社殿で、浦安の舞・豊栄の舞が奉納される。この舞は、3月の祈年祭、11月の新嘗祭でも行われる。平成20年代は「体育の日」を最終日とする3日間であることが多い。 


 




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長在家稲荷神社

  上原白髭神社の東方に「長在家」という地域が存在する。この地域は、15世紀中ごろの室町時代に深谷上杉氏第5代房憲(深谷城初代城主)が開祖した寺である深谷市の仙元山のふもとのにある昌福寺の縁起の中にも"長在家の長者"という記述があり、その地名の淵源は意外と古くからあったようだ。
 この長在家地区には稲荷神社が鎮座している。この社の最大の特徴は参道一帯に敷石の代わりに350ヶ程の古い石臼が敷き詰められていることだ。この参道は「石臼参道」と呼ばれ、昭和53年8月30日に深谷市の有形無形文化財に指定されている。そのためか、長在家稲荷神社は通称「石臼神社」とも言われている。
所在地    埼玉県深谷市長在家204-1
御祭神    宇迦之御魂神(推定)
社  挌    旧村社
例  祭         毎年3月 例祭(豆腐祭り)

       
 長在家稲荷神社は旧川本町、武川駅周辺に鎮座している。国道140号線を熊谷方面から武川駅方向に進み、菅沼天神社に行く十字路を右折すると約400m弱北側に鎮座している。境内の右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
             
                     道路を挟んで一の鳥居の反対側にある石塔
            
             

 深谷市指定有形民俗文化財  石臼参道(昭和五十三年八月三十日指定)
 昔、小麦や豆などの穀物を粉にするには石臼を使っていた。いつのころか、要らなくなった石臼を、村人が神社に納めた。この石臼を境内参道の敷石にしたもので、約三百五十個ほど並べられてある。この様な例はあまり無く貴重なものである。
 稲荷神社の三月の例祭では「豆腐まつり」と言い、各家庭で豆腐を作って奉納したものである。この大豆も、ここに奉納された石臼でひいたのであろう。
 境内には文久元年(一八六一年)に田島金岳ほか十三人で建てた「春の夜や籠り人ゆかし堂の隅」の芭蕉の句碑がある。
                                                                案内板より引用
             
                      境内参道にびっしり敷き詰められた石臼
           
                               拝    殿
                        
 拝殿向背部等の彫刻が素晴らしく、江戸時代の職人技の高度な技術を感じる。今は長年の風雪にさらされて彩色もほとんど薄れているが、創建当時は艶やかで美しかったことだろう。


 長在家地域の西側には下原地域があり、この地域は世間ではあまり知られていないようだが、室町時代から江戸時代まで続く武州唯一の刀工群である下原鍛冶の一拠点だったという。
 この武州下原刀を制作した鍛冶集団である下原鍛冶は大永年間(1521年~27年)の周重に始まり、現在の八王子市恩方地区や元八王子地区に住み、周重の子康重は小田原の北条氏康の「康」を、その弟照重は八王子城主北条氏照の「照」をそれぞれ授かり、名乗りにしたと伝えられている。後北条氏を後ろ盾に栄えた下原鍛冶だったが、後北条氏の滅亡後は、徳川氏の御用鍛冶となり、幕末まで刀槍類の制作を続けたという。
 武州下原鍛冶は、いつ頃八王子地区等に移住して刀鍛冶を始めたかについては諸説があり、不明な点が多く、ハッキリとは解らないが、相模国(相州鎌倉鍛冶)と下野国登鯨(とくじら)に分かれるようだ。どちらの地域も有名な鍛冶場で、相州鎌倉鍛冶は、古くは鎌倉郡山ノ内庄の地鍛冶で、山内鍛冶は尺度郷(さかどごう)本郷(横浜市栄区)に、沼間鍛冶は沼浜郷沼間(逗子市)に鍛冶場があったらしい。また下野国登鯨は現在の栃木県宇都宮市徳次郎町の地域であり、照重家についての文書の中に、「下野足利ニ居住、永正(1504~1520)年中、武州多摩郡横川村ニ居住ス」、また「足利月光山下原にて打ち、のち横川に居住なり」と記されているものがある。足利の下原は、現在の足利市山下町に存在し、この地域は鋳物師(いもじ)や修験者が居住したといわれている。
 長在家地域はこの武州下原鍛冶が現八王子地域に移住する前に居住し、鍛刀した地域と言われている。何より下原鍛冶に関連した地域、居住した地域にはみな「下原」という字が存在していることは注目に値する。この長在家地域を含めた荒川中流域両岸は、平安時代後期から畠山氏の所領であり、鍛冶製造が発達した一大根拠地と言われている。武州下原鍛冶がこの地にある時期一定期間移住する理由はここにあったと考える。

 この荒川中流域左岸で、櫛引台地一帯、詳しくは「黒田」→「永田」→「上原(下原)」→「田中」→「長在家」そしてそのライン上に存在する「瀬山」→「三ヶ尻」地域は鍛冶集団が存在している一大根拠地だったと思われる。

                  長在家稲荷神社社殿の奥にある境内社(写真左、右)

              
            石臼が敷き詰められて参道。社殿側から撮影。写真左側には芭蕉碑がある。

 

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黒田豊榮神社

 寄居町から深谷市旧川本町辺りの荒川中流域右岸の台地(櫛引台地、江南台地)上には、男衾郡の式内社である出雲乃伊波比神社、小被神社、稲乃比売神社や、井椋神社等、由緒ある社や、鹿島古墳群のような古墳が多くあり、古代において発達した地域だったと推測される。
 それに対して荒川中流域左岸は旧花園町地域であり、町の殆どが櫛引台地上に位置し、現代では主に農業と造園が盛んな地域だが、古墳時代にはこの地域にも100基を超える小前田古墳群や黒田古墳群等があったという。
 その中の黒田古墳群は荒川の河岸段丘上に立地し、帆立貝形古墳と円墳30基以上で構成されていて、現存する古墳は1977年(昭和52年)4月1日付けで花園町(当時)指定史跡に指定された。黒田2号墳は全長41mの帆立貝形古墳で、6世紀末の築造と推定され、周溝からは形象埴輪片(人物・馬)が発掘されていて、前方部をほぼ真西に向けている。周堀のある2段築成の古墳である。また黒田17号墳はやはり6世紀末の築造で、直径22mの円墳。幅約6mの周溝が巡る。主体部は川原石を用いた胴張りのある横穴式石室で、全長5.24mである。副葬品は、大刀1、七窓鐔1、鎺2、鉄鏃10、刀子2、耳環1、ガラス製小玉46以上が出土した。なお墳頂部から高さ97.4㎝の完形の大刀形埴輪が出土しており、平成5年3月10日付けで埼玉県有形文化財に指定された。
 この黒田地区の一角に鎮守の社として黒田豊榮神社が鎮座している。
所在地   埼玉県深谷市黒田1497
御祭神   伊弉諾命、伊弉冉命、埴山姫命
社  挌   旧村社
例  祭   10月14日 例祭(黒田のささら獅子舞)

        
 黒田豊榮神社は国道140号バイパスを花園インター方向に進み、黒田交差点のすぐ先の左折する細い道を曲がり、そのまま道なりに真っ直ぐ進むと、右側に社が見えてくる。開放感のある空間の中に鎮座する社で、荒川の土手がすぐ先にある。江戸時代初期まで「赤口神社」と呼ばれ、江戸時代初期の正保年間(1644~48)の頃、現在地の字宮台に遷座されたという。
           
                          黒田豊榮神社正面鳥居

     鳥居を過ぎてすぐ左側にある神興庫      神興庫、社務所の並びにある獅子頭新調記念碑
           
                              拝    殿
 江戸時代前の社名「赤口神社」の「赤口」は「しゃっこう」「しゃぐし」「さぐし」等、呼び方は様々ある。一般的な意味では歴注、六曜のひとつで、火の元、刃物に気をつける。つまり「死」を連想される物に注意する日とされ、午の刻(午前11時ごろから午後1時ごろまで)のみ吉で、それ以外は凶とされていて、一種の縁起物として今でもカレンダー等で使われている。
 それとは別に、「赤口」を石神(シャクジ)という大和民族移住前の古来からある先住民の信仰という説もある。ミシャグシ信仰は東日本の広域に渡って分布していて、信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事や、マタギをはじめとする山人達から信仰されていたことからこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられているが、その全容が解明されたわけではない謎の信仰形態だ。
          
                             拝殿内部
         写真右側には黒田の獅子舞に使われる獅子頭が6頭大切に保存されている。
            
               社殿の右で道路側にある「黒田のささら獅子舞」の案内板

 黒田のささら獅子舞    所在地  花園町大字黒田地内
 黒田のささら獅子舞は、この黒田地区に古くから伝わるものといわれ、口伝によるとその起源は江戸時代中頃の荒川増水の折に、上流より獅子頭が流れ着いた事から始まったといわれている。
 獅子舞は三頭の獅子により演じられるが、他に「万灯」、「金杖」、「花笠ささら」、「棒使い」、「仲立ち」等の役が付き、笛などの囃方を合わせて総勢で約三十人程で行う。
 舞いは、二十三曲程あり物語形式だが現在踊られなくなったものも多い。
 獅子舞の名称に付く「ささら」とは、竹を小割りしたもので、花笠役が持ち、棒でこれを擦ることにより音をだすものである。
 獅子舞は毎年十月十四日の豊榮神社の秋祭に境内で上演される。
 現在保存団体として、黒田ささら獅子舞保存会が組織され、保存と伝承にあたり、毎年近在の子供を対象に伝承活動を行っている。
 その活動が認められて、昭和五十八年には埼玉県知事より「文化のともしび賞」を受賞している。
 昭和五十二年、この獅子舞を町指定無形文化財に指定した。
 昭和六十二年三月    深谷市教育委員会
                                                             案内板より引用
          
           社殿の左側にある境内社 左より荒御魂神社、戸隠神社、瑞穂神社

 旧花園町には黒田古墳群を始め、多くの遺跡の発掘が報告されている。その中で、関越自動車道花園インターチェンジ 付近には、縄文・古墳・平安期の遺構・遺物が検出された台耕地遺跡があり、平安時代後期の製鉄溶鉱炉(堅形炉)7基と、また鍛治を行った建物跡も発掘されている。

 豊榮神社の荒川の対岸には男衾郡「赤浜」地区がある。この赤浜には「字塚田」という地があり、この地は南北朝末期から室町初期にかけて、関東各地の寺院の梵鐘を鋳造した塚田鋳物師集団がいたという。
 この地には大沢半左衛門という畠山重忠の配下の墓もあることから、赤浜地区は畠山氏の所領地だったと考えられ、荒川を挟んでこの黒田地区も所領地内の可能性が高い。この「赤浜」と豊榮神社の元鎮座地「赤口」は「赤」を共有している地である。また現存している畠山重忠の甲冑は「赤糸威大鎧」で、赤色を基調としている。単に偶然だろうか。武将にとって甲冑は身を守る道具というよりは、一種のファッションであり、また同時に自分を表現する大事なものであり、武勲栄達を願う信仰の対象でもあったという。

 日本では色の名称の由来で「赤」は元々「火」を意味するという。何か関連性があるのだろうか。

 

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上原白髭神社

 上原白髭神社が鎮座する上原地区は、文久元年(1868年)猪俣村岡本文書に「榛沢郡上原村、下原村」と見えるところから、元「原」地区であり、その後下原と上原に分かれたと思われる。このうちの下原地区は、地頭岡田氏寛政十年申渡覚(名主宇野文書)に下原村と記述され、室町時代には刀工下原鍛冶の小川氏・田島氏等が居住していたという。対して上原地区は、大里郡神社誌に「原村白髪神社(今は白髭)は、当村の開拓者大沢某天正三年茲に勧請せりと称せらる。大沢家は近世に至るまで別当職たり、旧別当職の子孫大沢九平なり」と書かれ、天正年間(1573年~1593年)に大沢氏が創建した社であったことが紀されている。
所在地   埼玉県深谷市上原214
御祭神   清寧天皇、武内宿禰
社  挌   旧村社
例  祭   不明

       
  上原白髭神社は永田八幡神社から国道140号彩甲斐街道に戻り、そのまま熊谷方面に進むと、田中(西)交差点の先で右側に長い松林が見えてくる。この林の中に白髭神社が鎮座しているが、社は国道から直接社に通じる道はなく、社は林の丁度中央に位置するので外周回りで南側の一の鳥居付近に行くしかない。
 神社正面には適当な駐車スペースはないので道路と注連柱の間を通り、舗装されていない長い参道を抜けると広い空間が広がる。
           
                      上原白髭神社正面鳥居と社号標石


  細長い参道。拝殿側から一の鳥居方向に撮影       参道の先には開放的な境内が広がる。
           
                             拝    殿

      社殿の左側で手前にある浅間社              浅間社の並びにある合祀社
                             左から金比羅宮、大神宮、秋葉宮、久壽志神、大山祇神、天神宮

白髭神社は調べると大きく3系統の由来があると思われる。
①滋賀県高島市鵜川にある「白鬚神社」を総本社とする系統。
 主祭神は天狗で有名な猿田彦命であり、容貌魁偉で、鼻は高く、身長は七尺余りという身体的な特徴を持つ。ある説では天津神が国土を統一する以前より豊葦原国を大国主命と共に統治していた国津神、地主神とも言われ、その後瓊瓊杵尊が天孫降臨の際には道案内をしたということから、道案内の神、その後道の神、旅人の神とされ、日本全国にある塞神、道祖神が同一視され、「猿田彦神」として祀られているケースが非常に多い。
②埼玉県日高市に鎮座する「高麗神社」を総本社とする系統。
 高麗神社は別名、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていたが、その始祖的存在である高麗王若光は白髭をはやしていて「白ひげさん」と言われていたという。この高麗神社を総本社とする「白髭」「白髪」神社は高麗郡を中心として入間川流域に数多く鎮座している。
③清寧天皇を御祭神とする系統。
 清寧天皇は雄略天皇と葛城韓媛との子で,生まれながらに白髪であったことから,白髪皇子と呼ばれた。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇、白髪大倭根子命(古事記)。吉田東伍は清寧天皇の御名代部である白髪部にゆかりのものだろうと考察している。

 上原白髭神社の社殿の前にある案内板にはハッキリと「高麗明神」と明記され、高麗神社の系列に含まれると案内板の編集者は考えたのだろうが、実際の御祭神は清寧天皇とされている。この矛盾は何であろうか。

 また、男衾郡赤浜村、風土記稿赤浜村条に「小名塚田の辺に鎌倉古街道の蹟あり、村内を過て荒川を渡り榛沢郡に至る、今も其道筋荒川の中に半左瀬川越岩と唱ふる処あり。半左瀬といふは昔鎌倉繁栄の頃、この川縁に関を置て、大沢半左衛門と云者関守たりしゆへ此名残れり」という記述がある。畠山重忠の臣で、関守である大沢半左衛門の墓は塚田にあるともいう。この塚田の地は南北朝末期から室町初期にかけて、関東各地の寺院の梵鐘を鋳造した 塚田鋳物師集団の存在があった。加えて、上原白髭神社の創始者は大沢某といい、畠山重忠配下の武将にも大沢氏が多数いて、その一族の後裔である可能性も高い。地理的にも畠山地区から荒川を挟んで真北に上原地区はある。関連性がないほうがおかしいのではないだろうか。




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