北阿賀野稲荷神社
『風土記稿』によると、上野国藤岡城主蘆田右衛門大夫康真がこの辺りを領していたころに開発した地であるという。蘆田右衛門大夫は、徳川氏の入国後に当地北側に接する横瀬の地を領しているところから、当地の開発も入国後のことと考えられる。その後、正保から元禄(一六四四〜一七〇四)にかけて、北阿賀野と南阿賀野に分村したと伝えている。
旧家の橋本正次家の伝えによれば、同家は河内国橋本庄からこの地に移り開発を行い、この時氏神として祀られたのが当社で、その後戸数が増すにつれ、村の鎮守として崇敬されるようになったという。
『風土記稿』は、地内の寺社について「稲荷社 村の鎮守なり、村持、天神社 宝暦十三年(一七六三)の建立なり、同じ持。阿弥陀堂 同じ持」と載せている。これに見える天神社(現菅原神社)は、当社の東側に隣接していた社であったが、明治四十三年に当社の境内社となった。また、阿弥陀堂は、当社北側の橋本家の墓地に移されていたが、昭和二十五年ごろに取り壊された。なお、阿弥陀堂と並んで、古くは寺院もあったと伝えるが、今はその寺名さえも忘れ去られている。あるいは、当社にかかわる寺院であったかもしれない。
「埼玉の神社」より引用
・所在地 埼玉県深谷市北阿賀野1
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧北阿賀野村鎮守 旧村社
・例祭等 元旦祭 春祭り(天神祭) 2月25日 例祭 4月10日
大祓式 7月31日及び12月30日 秋祭り 11月15日
伊勢大神社から一旦東行すること850m程、埼玉県道355号中瀬普済寺線と交わる十字路を右折する。同県道に合流し、700m程南下すと、近代日本経済の父と言われた「渋沢栄一翁」の歴史的資源の複合利用等を目的として整備された「青淵公園」に達するのだが、その手前の路地を右折し600m程進むと、北阿賀野稲荷神社の参道入口が右手に見えてくる。
北阿賀野稲荷神社正面
入口左側には、「可堂桃井先生碑」と表記された標柱も建っている。
『日本歴史地名大系』「北阿賀野村」の解説
利根川右岸の自然堤防上に位置し、東は血洗島村、南は清水川を境に南阿賀野村。本庄領に所属(風土記稿)。初め阿賀野村の内で、元禄(一六八八〜一七〇四)以前に当村と南阿賀野村に分村したとされる。田園簿にみえる阿賀野村旗本稲垣・依田・室賀の三家領分がのちの当村となり、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳に二村みえる阿賀野村のうち、依田領九三石余が当村にあたる。
『新編武蔵風土記稿 南阿賀野村』
當村元は北阿賀野村と一村にして、後南北に分れり、されど正保の改にはなを一村にして、元祿の者には二村に見えたれば、分村の年代も推て知べし、
『新編武蔵風土記稿 北阿賀野村』
蘆田右衛門大夫康眞此邊を領せし頃、領主へ聞え上て開發すと伝傳ふ、陸田のみの地なり、
稻荷社 村の鎭守なり、村持、
天神社 寶暦十三年の建立なり、同じ持、 阿彌陀堂 持同じ、
北阿賀野稲荷神社の鳥居
この社の住所は「深谷市北阿賀野1」。この地域の中心に位置している社なのであろう。
旧渋沢栄一邸「中の家」の近くに鎮座する神社
境内に入ってすぐ左手に設置されている「稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑」
拝 殿
稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑
深谷市北阿賀野一番地に鎮座する稲荷神社は倉稲魂命を御祭神と仰ぎ祀り五穀豊穣の神として先祖代々尊崇篤く現在に及んでいる。創建については風土記稿などによれば徳川氏関東に入国の頃との記述があることから四百年以上の歴史があるものと思われる。菅原神社(天神社)は宝暦十三年(一七六三)の建立と記されている。
旧社殿内の棟木や記念誌からは御殿が明治二十六年に造営され大正十五年に改築し、その後昭和五十一年に氏子延百二十人の出役による改修事業が行われたなどの記録が残されている。
境内には昭和二年に當地出身の偉人桃井可堂の顕彰碑が澁澤榮一翁により建立されている。社名の扁額も翁の揮毫によるものである。
又戦争で尊い命を国家に殉じた英霊と従軍者の扁額が昭和三十九年に奉納され平和の尊さを今に伝えている。
當神社は稲荷様として氏子に親しまれ豊作や商売繁盛・家内安全などを祈願する祭祀のみならず境内でのスポーツなど住民の交流の場として心の拠となっていた。しかし老朽化も著しく幾度となく修復も試みられてきた。
この状況を憂い平成二十五年九月地元出身の実業家石坂好男氏により両神社の改築並びに境内の整備を寄進したい旨の申し入れがあり氏子総意の下、有難くこれを拝受し、平成二十六年六月起工・平成二十七年六月竣工の運びとなった。
誠に氏子の喜び此の上なく尊崇篤くして地域の振興を子々孫々の繁栄を祈願してやまない。
茲に石坂好男氏への報徳とその功績を後世に永く伝えると共に本事業の施工業者並びに協力・奉賛頂いた全ての皆様に衷心より感謝の誠を捧げてこの記念碑を建立する。
平成二十七年六月吉日
北阿賀野稲荷神社宮司 宮壽照代
同 氏子一同
改築記念碑文より引用
子爵澁澤榮一謹書「稲荷神社」
社殿は新しくされたようで、天井の画も色とりどりで艶やかである。
嘗て当社の覆屋内に設けられた棚には、おびただしい数の陶製の白狐が並べられている。これらは、当社が養蚕守護の神として信仰を集めた当時の名残であるという。
養蚕が盛んであったのは昭和25年頃までで、毎年2月25日の春祭りには、養蚕倍盛を願う参詣者が多数訪れた。参詣者は、米の粉でこしらえた繭玉を供えて祈願し、神前に上げられた白狐の中から雌雄一対を借りて帰った。この白狐は自宅の神棚に1年間祀っておき、翌年の春祭りのお礼参りに「倍返し」と称して雌雄二対にして返すのが例であった。ちなみに、白狐の雌雄は髭の有無で見分ける。
また、当社は古くから五穀豊穣の神としての信仰がある。氏子の生業が養蚕から蔬菜類の栽培に変わってきた近年は、作物の盗難を防ぐために、白狐を借りて行き、箱に納めて畑の一隅に置いておく信仰が生じている。
社殿左側奥に祀られている境内社 社殿右側奥にある庚申塔等
菅原神社(天神社) 写真にはないが、一番右側には青面金剛があり
氏子区域の北阿賀野は、『新編武蔵風土記稿 北阿賀野村 陸田のみの地なり』に載せられているように、今でも畑作を中心とした農業地帯である。氏子数は四〇戸余りで、これを東廓・西廓・中廓の三つの郭(村組)に分けられている。
氏子の間には、作物に関する禁忌があった。冨田家では、太平洋戦争のころまで「きゅうり」を作らなかった。その理由は、天正十二年(一五八四)の鉢形北條氏と上野国太田城主由良氏との戦いの際に、由良氏の武将であった冨田家先祖がきゅうり畑で打死したことによると伝える。今井家では、「茄子」を作らなかったが、戦後、伊勢の猿田彦神社から「お砂」を頂いて来て、神棚と氏神に供え、畑に撒いて清めて以後栽培するようになったという。
鳥居のすぐ左側に聳え立つご神木 社殿手前左側にも銀杏のご神木あり
社のすぐ近くには、「可堂桃井先生碑」が建っている。この桃井 可堂(もものい かどう、享和3年8月8日(1803年9月23日) - 元治元年7月22日(1864年8月23日))は、日本の江戸時代末期(幕末)の志士、儒学者。通称は儀八。諱は誠。字は中道。可堂は雅号である。
享和3年(1803年)、武蔵国榛沢郡北阿賀野村の百姓福本守道(宗左衛門)の次男として生まれる。隣接する血洗島村で渋沢栄一の大叔父・渋沢仁山が開いた塾で学んだ後、22歳で江戸の東条一堂の門で学び、清河八郎・那珂梧楼とともに「一堂門の三傑」と呼ばれた。のち備前庭瀬藩板倉家の儒臣として召し抱えられる。しかし水戸藩士藤田東湖らとの交流で尊王攘夷思想に共鳴し、改革派の公卿大原重徳に建白書を提出して時勢を説いた。この建白は大原の受け入れるところとならず、失望して庭瀬藩を致仕して、帰郷する。桃井は中瀬村に塾を開き、小田熊太郎や金井国之丞ら尊攘派の志士を育成した。
文久3年(1863年)12月には天朝組を組織し、当時尊王派から忠臣として賞賛されていた新田義貞の子孫である岩松俊純を擁して新田氏ゆかりの者を集め、上野国沼田・赤城山で挙兵して後に横浜の外国人居留地を襲撃しようと企てた。しかし、同志の湯本多門之介や旗印となる岩松らが計画に恐れをなして江戸南町奉行所へ訴え出たために計画が露見。桃井は12月15日、川越藩に自首した。江戸に護送され、麻布の福江藩邸預けとなり、幽囚されたが、自ら絶食して死去した。享年62。法名は道義院猛雲至誠居士。墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺にある。1912年(大正元年)11月19日、贈正五位。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「埼玉県HP」
「埼玉の神社」「Wikipedia」「記念碑文」等