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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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埼玉古墳群の謎(14)村君王子と永明寺古墳

 羽生市下村君地区には「おかえり」といわれる里帰りの神事が古くから伝えられている。

 羽生市下村君の鷲神社は、東国開拓の祖の天穂日命()をまつる。元は古墳の上に建てられたといひ、明治の末に横沼神社を合祀してゐる。横沼神社は、天穂日命の子孫の彦狭島王()の子・御室別王()の姫(娘)をまつった社で、父・彦狭島王をまつる樋遣川村の御室社へ、「お帰り」といふ里帰りの神事が行なはれてゐた。
 この村君の里に、文明十八年、京から道興准后が訪れて詠んだ歌がある。

 ○誰が世にか浮かれそめけん、朽ちはてぬその名もつらきむら君の里  道興

 この道興准向は、永享2年(1430年) -大永7年(1527年))室町時代の僧侶で聖護院門跡。1465年(寛正6年)准三向宣下を受ける。道興は、左大臣近衛房嗣の子で、兄弟に近衛教基、近衛政家。京都聖護院門跡などをつとめ、その後、園城寺の長吏、熊野三山、新熊野社の検校も兼ねた後に大僧正に任じられた。
 文明18年(1486)の6月から約10か月間、聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国し、北陸路から関東へ入って武蔵国ほか関東各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたのが、「廻国雑記」であり、すぐれた和歌や漢詩などを多く納めている人物という。


 この、「廻国雑記」には上野国から武蔵国に入国しその後のルートは大体岡部の原(深谷市岡部)→成田(行田市?)→(浅間川)→むら君→古川(茨城県古河付近)を通過したと記述されている。利根川流域であり、武蔵国北岸東行のルートだ。少なくとも室町時代には現在でいう国道17号線から同125号の原型ともいうべきルートが存在していたということになる。
 ところで「廻国雑記」の旅は修験道の回国巡礼を目的に行われたものであり、私事の旅行見聞録ではなく、聖護院宗門としての政治的意図も含めた公的な回国であったものであると思われるが、その記述の姿勢には、古くからの情報に捕らわれず、俳諧性に基づいてその土地の由緒を里人に尋ねたり、みずからの直接的感懐を述べるなどの、従来の「歌枕」として知られる名所として古代・中古から知られる土地に限らず、従来の文学とは無縁の地(「歌枕」に関して無縁の地であること)に関する記述を多く含む紀行文である。その道興准后が「村君」の地を通過地点の一地点に選び、尚且つ歌を詠んだ、この意味は非常に重いと思われる。もしかしたら道興准后はこの永明寺古墳を実見したかもしれない。

 この村君地区一帯は、古墳時代時の集落跡も発掘されていて、相当の人口があったと推定でき、豊富な水資源による稲作や利根川、荒川の水運を支配した豊かな先進地帯だったのではなかったのではなかろうか。


        
                   永明寺古墳遠景

 
近世以前の利根川は「暴れ川」として流域に幾度となく大きな被害を与え、洪水の度に流路が複雑に変遷する河川であった。また多くの支流が周辺に流れ、それがクモの巣を張らすように幾重にも乱流していて、流域は度重なる水害に襲われていた。その水害が多発していた周辺地域の中で、この村君地区は利根川のすぐ南岸でありながら、自然堤防の微高地という地形的特徴により、また永明寺古墳自体が洪水の影響をあまり受けていないことから、比較的被害は他地域に比べて洪水等自然災害をまともに受けにくい地域だったのではないだろうか。

 羽生市周辺地域には、埼玉古墳群ほどの規模ではないが、それでも多くの古墳が存在する。
   今泉古墳群 (羽生市今泉、利根川南岸1.5kmに存在。4基の古墳中熊野塚古墳のみ現存)
   尾崎古墳群 (羽生市尾崎、利根川南岸に存在、河川の氾濫などでかなりの数の古墳が埋没)
   羽生古墳群 (羽生市羽生、羽生駅北側に存在、毘沙門山古墳が有名)
   小松古墳群 (羽生市小松、地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没)
   村君古墳群

 村君古墳群は利根川の自然堤防上に形成された古墳群で、かつては7基ほどあったらしいが、多くの古墳は破壊され、現在墳丘の残っている古墳は永明寺境内の永明寺古墳、御廟塚古墳、稲荷塚古墳の3基のみ。

        
                 永明寺正面にある真浄門

 
永明寺古墳は、羽生市で最大の前方後円墳(埼玉県羽生市村君)で、全長78m、高さ7mで埼玉県下で10番目の大きさを誇る。埋葬者は不詳。真言宗・永明寺の境内にあり、前方部に文殊堂、後円部に薬師堂が 祀られている。1931年に薬師堂の床下を発掘、緑泥片岩等を用いた石室から衝角付冑、挂甲小札、直刀片、鏃、金製耳輪などが出土したらしい。

 不思議なことだがこの古墳から出土されたものはほとんど甲冑類であることから、この古墳に埋葬された人物は、生前平和時に君臨していた王ではなく、常に鎧を纏い、兜をかぶって戦っていた戦乱中の王と考えられる。また出土した埴輪の形態が埼玉古墳群の稲荷山古墳と同型であることから、稲荷山古墳と密接に関係していた(同盟していた、又は同族)豪族の主であった可能性も高い。
 時代はかなり下るが、前出の道興準后が武蔵国から下野国へ巡ったルートはその当時確かに存在していた正規の路であることは確かだ。
聖護院宗門としての政治的意図も含めた公的な回国という表向きの顔とは別に、多分に俳諧師としての一面がこの諸国巡回のルートを少なからず変えたであろう。しかし、土地の案内人からの立場から考えれば、皇室に準ずる高貴な人物を案内するのだから、少しでも安全なルートを選ぶであろう。岡部の原から古河までのルートはそのような意味も含んだ路だったと思われる。そのルートの中に村君地区は存在する。残念ながら村君地区には土地の由緒を里人に尋ねたり、みずからの直接的感懐を述べている一文は存在はないが、和歌自体も調べると何とも意味深長な内容となっている。

 廻国雑記のルートは岡部の原から行田を経て、村君地区、古河方面へと続く。不思議と埼玉古墳群から村君古墳群に行くルートと共有している所も多い。埼玉古墳群や村君古墳群が築造された時期は67世紀であり、道興運后が廻国雑記はつくられたのは15世紀、両者にはかなりの時間的な隔たりがあるし、15世紀当時には道幅12m程の大通りである東山道武蔵路は見る影もなく変容して単なる小道となっていただろう。しかし規模の大小ではなく、67世紀に存在していたルートが15世紀まで継続していた可能性は否定できない。洪水による河川の変容によって路自体のルートの変更はあっても、埼玉郡としての中心は絶えず忍地方に存在していた。延喜5年(905年)に作成された延喜式神名帳に記載されている「前玉神社」は埼玉郡総鎮守ともいい、戦国時代の成田氏の忍城、江戸時代の忍藩十万石と、戦略上この地は北武蔵の重要地点であったことは揺るぎないものであった。

  
時代が遡り、中世の古道として鎌倉時代には鎌倉政庁を中心に放射線状に延びる鎌倉街道といわれ、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた軍事用の道路が整備されていた。この鎌倉街道は「上道」、「中道」、「下道」という3つの主要道があったとされているが、主として

 上道  鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道
 中道  鎌倉から武蔵国東部を経て下野国に至る古道
 下道  鎌倉から朝夷奈切通を越え、六浦津より房総半島に渡り、東京湾沿いに北上して下総国府、
      常陸国に向かうとされている古道

 この上道、中道、下道が中世の主要幹線路として伝えられてきているが、その他にも秩父道、羽根倉道、山ノ道などが通っていたことも知られている。この中の羽根倉道は鎌倉街道上道の支道にあたる道路で、所沢から分岐して富士見、浦和、大宮、上尾、白岡、加須市大越地区を通り 「中道」に繋がるルートといわれている。この加須市大越地区は村君地区に隣接し、樋遣川古墳群も真近の距離にある。ちなみに樋遣川古墳群の御諸塚古墳は御諸別王の墓といわれ、明治34年、内務省が上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として調査したことがあるが、群馬県に6基、栃木や茨城にも同様の伝承のある古墳が存在するらしい。
 さらに村君周辺地域は利根川水運の泊り地ともいわれ、鎌倉街道上道・羽根倉道にも通じ、埼玉古墳群方面のルートもあり、北側の古河を含めた下野国、更には奥州まで多方面と関係を結んでいて、何となく意味深い地域と思われる。

 江戸時代の文化・文政年間(1804年~1829年)に編集された、武蔵国内22郡の郡村概況を記した地誌で、新編武蔵風土記稿という書物がある。幕府の大学頭で、昌平坂学問所地理局総裁の林述斎(はやしじゅっさい)らが建議し、文化7年(1810)から11年にかけて編纂し, 1828年の成立。勿論歴とした江戸幕府官選の地誌である。
 新編武蔵風土記稿・巻之二百十五、埼玉郡之十七)には下村君村(当時)の記述がある。以下の一文だ。

下村君村
 鷲明神横沼明神合社
 
村の鎮守なり、 社地は少く高ふして且古杉繁し、いとものふりたるさまなり、 相伝ふ当所は村君王子と云人の住せし地なれば、後年村名にも唱へ、又其霊を祀りて経江明神と号せしに、後故ありて鷲明神と改め称すといへり、 されど村君王子のこと未だ他に考る処なし、 或説に景行帝五十六年八月、御諸別王に詔して東国を治めさせ給ひし事ありて、樋遣川村三室社は、御諸別王の霊を祀りし社なりと伝ふえば、当村に彼神孫住せしといはんも據なきことにはあらじといへり、(中略)又横沼明神は御諸別王の息女を祀る所といへど、是も定かなる據をきかず、 例祭十一月上の申日樋遣川村三室社へ神輿を渡し、その時榊に神鏡をかけ、別当馬上にて是を持、 又巫女一人馬に乗て蒸飯一駄を斎せゆくを例となせり、 榊に掛る神鏡の銘によれば、鷲明神と改め称すは近き世よりのことゝ見えたり(中略)


 この新編武蔵風土記稿・下村君村の項では、昔村君王子がこの地に住んでいて、そこからこの地域一帯が「村君」という地名となったと謂われ、その人物の死後、「経江明神」として祀ったという。この「明神」とは別名「名神」ともいい、一般的な解釈では、神仏習合説による、神様の尊称であり、少なくとも9世紀ごろには使用されていたという。言葉通り、「神威明らか」という意味で、神の尊称の一つ。文献上は、「日本後紀」弘仁5年9月15日条に豊稔を感謝して「明神」に奉幣したと記述されているのが所見だそうだが、この時期には、「名神」と「明神」が同義として使用されており、独立した号として「明神」が使用されていたようではなかったという。中世以降に成立した吉田神道において、神に対する「明神号」の授与が行われるようになり、近世には吉田家が明神(大明神)号を乱発するに至り、本来の名前で呼ばれることは少なく、神社名を冠した神が増えていき、本来の名称ではなく「鹿島大明神」「香取大明神」等と称されるようになったらしい。

 この「大明神」が純粋な敬称であるに対して、単に「明神社」はある説によると、祟り鎮めの神社であるともいう。非業な最後を遂げた人物に対して、為政者側がその鎮魂の意味も込めて祀った社を「明神社」といわれている。有名なところでは、平将門は、平安中期、関東一円に勢力を伸ばしたものの朝廷軍に討たれ、死後、祟りが絶えず、神田明神という名称で祀られているが、この平将門は祟る神として、菅原道真、崇徳上皇とともに象徴的な存在として知られている。怨霊としての現実感とパワーが強ければ強いほど人々は恐れおののき、怨霊を慰め供養し、神として祀ることで、マイナスパワーをプラスに変換させるという、ある意味不思議で曖昧な、ご都合主義的な方法を、時の為政者や民衆は真剣に信じたわけだが、その考え方は、筆者も含めて今の日本人でも今なお受け継がれていると思われる。
 「明神社」が祟る神を鎮めるために祀られた社であった場合、この「経江明神」もおのずから鎮魂の社ということになる。新編武蔵風土記稿・鷺明神横沼明神合社の説明書きには、昔村君王子がこの地に住み、死後経江明神として祀られたという。明神として祀られたのであれば、この村君王子は決して往生しておらず、この世に恨みを残して一生を閉じたと思われる。
 話は変わるが「明神」が非業な最後を遂げた人物に対して、鎮魂の意味も含め祀った「神」であるが、同じく「若宮」も同様な意味が込められた名称であるという。三省堂 大辞林には「若宮」について以下のように記述されている。

 「若宮」
①幼少の皇子。また,皇族の子。
②親神にする御子神とその社。
③非業の死をとげたり人柱になった人間の霊をまつって怒りをやわらげると共に,強力な神の支配下に置いて祟りを封じこめようとした社。

 関連性があるのか、村君地区の利根川を越えたすぐ北側には、下野国旧郷社野木神社が鎮座する。その伝承によると下野国造の祖で、豊城入彦命(崇神天皇第1皇子)の4世又は6世の孫とされる奈良別王が、下毛野国に赴任する際に、仁徳天皇の命により莵道稚郎子命の遺骸を奉じてこの社に祀ったという。
 この莵道稚郎子命とは、第15代応神天皇の皇太子でありながら、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るために自殺したといわれている人物だ。但しこの説話は「日本書紀」にのみ記載された説話で、「古事記」では単に夭折と記されていて、この人物もあくまで歴史上実在した人物かどうかも現在の通説では不明な点も多く、ハッキリ言うと解っていない。
 応神天皇が薨去し、大鷦鷯尊が即位するまでの間、3年以上もの間皇位を譲り合っていたという。最終的には莵道稚郎子命の自殺(日本書紀による)により、大鷦鷯尊が即位したという潤色じみた話の顛末だが、お互いに譲り合ったのではなく、対立関係にあって、最後は仁徳天皇に攻め滅ぼされたとする説が古くより提唱されていて、背景に和珥氏・葛城氏の争いがあったという見解もあるらしい。また「播磨国風土記」には「宇治天皇の世」という記載があり、この「宇治天皇」は菟道稚郎子を指し、皇位に就いていたという説もある。
 記紀の応神天皇没後から仁徳天皇即位までの記述は常識的に考えても(?)と考えてしまう内容で、その他にも矛盾を感じてしまう箇所も見られる。ここではその詳細を論じることはあえて避けるが、素直に読めば、大鷦鷯尊一派と莵道稚郎子命一派が権力闘争を3年以上もかけて繰り返され、最終的に大鷦鷯尊側が勝ちを収めたのだろう。

 莵道稚郎子命は宇治地方で王者には君臨していたのだろうが、 大鷦鷯尊側の攻撃で徐々に没落し、戦死したか、攻撃の最中で暗殺されたか、猛攻を受け自害したか、どちらにしても負けたことは間違いない。筆者は莵道稚郎子命は暗殺され、怨霊となり、鎮魂の対象となったと考える。なぜならば
 1 莵道稚郎子命の死後即位した仁徳天皇は皇后である磐之媛命の反対を押し切って、莵道稚郎子命の同母妹の八田皇女を妃とした。これは完全な莵道稚郎子命側の和邇氏への懐柔策であり、鎮魂のための政策と考えられる。
 2 莵道稚郎子命は万葉集等で別名莵道若郎子命と記述されている。「若」と表記されている本来の意味である「祟る神」を知っている人々が万葉集編集の際にも多数いたのではないだろうか。

 ところで、『先代旧事本紀』「国造本紀」下毛野国造では、仁徳天皇の時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されおり、また『新撰姓氏録』大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見えるが、問題はそこに登場する奈良君の弟君の名前である。   「真若君」だ。
 

 想像を逞しくすることを敢えて勘弁願いたいが、「村君王子」は死後「経江明神」として祀られた。そしてこの村君地区一帯に伝承される「おかえり神事」を共有する文化圏内にある下野国旧郷社野木神社の御祭神は「莵道稚郎子命」で、別名「莵道若郎子命」とも言われ、「明神」と同じく非業の最期をとげた人物を祀る「若」の宮ともいう。そして野木神社の伝承に登場する「奈良別君」の弟君の名は「真若君」である。

 推測でしかないが、永明寺古墳の真の埋葬者は「真若君」、別名「村君王子」であり、何かしらの戦争により戦死、もしくは暗殺され、死後「経江明神」として祀られたのではないだろうか。



 


  

 

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埼玉古墳群の謎(13)村君王子とは

 埼玉県羽生市の北東部で、利根川が群馬県側に張り出した突出部の南岸部、自然豊かな自然堤防上に位置する地域は昔から「村君」と謂われている。羽生市は標高が平均14、5m位で概ね平坦地が多いが、この村君地区は下村君鷲宮神社に隣接した村君公民館一帯の標高が18,3mと、すぐ北に目を移せば利根川の土手が見え、周辺地域は加須低地の中にありながら比較的小高い地域であり、嘗て縄文時代のこの辺りは起伏のあるローム台地で、台地上に竪穴住居で暮らしていたらしい。
 この「村君」の地名の由来説はいろいろあり、新編武蔵風土記稿の下村君村には、村社である鷲神社は、村君王子と云う人の住んでいた地であり、後年これが村名となったとあるという。この村君王子という人物は古藤の由来の案内板に引用された彦狭島王ともその子供である御室別王、または「村君太夫」や「御諸別王の娘」とも言われ、どちらにしても古くから高貴な人とゆかりのある伝承が存在する土地ということは確かなようだ。

        
                下村君地区に鎮座する下村君鷲宮神社

 この下村君地区の南東部には加須市上樋遣川地区があり、そこには樋遣川古墳群がある。かつては7基古墳が存在していたらしいが河川の氾濫や開墾などでほとんどの古墳は削平され、現在は3基残っているのみである。この古墳群の一つに諸塚古墳、別名御室塚とも言われているが、この古墳には明治34年、内務省が上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として調査したことがあるというから決してこの伝承、伝説が眉唾ものではないということが、時の為政者の調査によって逆に証明されたようなものだと思われる。

 御諸別王は「日本書紀」によれば、景行天皇56年8月条によると、任地に赴く前に亡くなった父・彦狭島王に代わり、東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。『日本書紀』崇神天皇段には上毛野君・下毛野君の祖として豊城入彦命の記載があるが実際には東国には至ってはいないらしく、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは御諸別王が最初であり、三世孫の御諸別王が実質的な毛野氏族の祖といわれている。

 またこれも伝承の域でしかないが、この御諸別王には2人の子どもがいて、その娘は下村君の豪族“村君大夫”のもとへ嫁ぐ。下村君にはこの姫を祀った神社があり、御廟塚古墳のすぐ近くに鎮座する“鷲宮神社”、かつては“鷲明神横沼明神合社”と称えられ、横沼明神は、御諸別王の息女を祀ったということだ。また村君に隣接する“発戸”や“名(みょう)”にも、桑原大明神と八幡神社に祀られた一位社、二位社、三位社などの高貴な人にまつわる伝説が残っている。このように下村君地区の伝承、伝説範囲は思っていた以上に広範囲であり、そこにはある共通で特定の文化圏が存在し、それがこの地域の伝承として後世に語られているように感じられる。


              
                     下村君鷲宮神社拝殿 拝殿は古墳上に鎮座している。

 ところで前出の横沼明神は、現在村君鷲宮神社の境内社となっているが、この横沼神社には天穂日命の子孫の彦狭島王の子・御室別王の姫(娘)を祀った社で、父・彦狭島王を祀る樋遣川村の御室社へ、「おかえり」という里帰りの神事が明治時代まで行われていたという。この「おかえり神事」とは、その昔、村君大夫に嫁いだ娘が、父の眠る御室神社へ、「おかえり」と称して毎年里帰りをしていたという伝承を形式化した神事であり、先頭に神主、姫の代わりの神輿をかつぎ、御鏡と赤飯を乗せた馬を引き、鷲宮神社から御室神社へ里帰りをしたという。
 この「おかえり」神事は、利根川北岸の栃木県野木町鎮座の野木神社や、足利市板倉地区の板倉神社、同市松田町地区の松田神社にも同名の神事が存在している。各地域の神事の詳細には相違点がかなりあり、上野国那波郡を中心に広がる伝承・伝説の「那波八郎大明神事」と同じ形態と思われる。伝説、伝承が周辺地域に広がるにつれ細部に微妙なズレが生じることは今も昔も変わりはない。いわゆる伝承のドーナツ化現象のひとつであろうか。


                                
                                             栃木県下都賀郡野木町に鎮座する旧郷社 野木神社

 野木神社の伝承によると下野国造の祖で、豊城入彦命(崇神天皇第1皇子)の4世又は6世の孫とされる奈良別王が、下毛野国に赴任する際に、莵道稚郎子命の遺骸を奉じてこの社に祀ったという。その後、延暦年間(平安時代)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐からの帰途、報賽として現在地に社殿を造営し遷座した。弘安年間(鎌倉時代)に配祭の五神(応神天皇、神功皇后、宗像三女神)が祀られた。

 奈良別王は「記紀」等には事績は記されていない人物であるが、「先代旧事本紀」国造本紀・下毛野国造では、仁徳天皇時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されている。また「新撰姓氏録」大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見え、弟に「真若君」がいると記されている。

  奈良別王は別名「奈良君」と呼ばれていたという。この「君」という称号は古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示すカバネ、又は氏姓制度と言われるの一形態という。カバネの由来はかなり古くまで遡り、ヤマト王権が成立する以前から、在地の豪族や団体名に使われたと思われ、代表的な原始的カバネとしては、ヒコ(彦、比古、日子)、ヒメ(比売、日女、媛)、ネ(根、禰)、ミ(見、美、彌、耳)、タマ(玉、多模)、ヌシ(主)、モリ(母理、守)、コリ(古利、凝)、トベ(戸部、戸畔)、キ(岐、支)などがある。これらの原始的カバネは名称の語尾に付くもので、今日でも「ヒコ」や「ミ」など、人名の語尾によく使われるものもある。

 その後ヤマト王権が勢力を拡大し、王権を中心として有力氏族の職掌や立場が次第に確定していく中で、各有力者の職掌や地位を明示するために付与された称号と言われている。この制度は世襲制で、臣(おみ)・連(むらじ)・造(みやつこ)・直(あたい)・首(おびと)・史(ふびと)・吉士(きし)など三十種余に及ぶ。古くは氏人が氏の長(おさ)に付した尊称であったが、朝廷のもとに諸豪族が組織づけられるにつれて政治的・社会的な序列を示すものとなったという。これらはのちの天武天皇の代、684年(天武13年)に、整理されて8種類の「八色の姓〔やくさのかばね〕(=「真人〔まひと〕・朝臣〔あそみ〕・宿禰〔すくね〕・忌寸〔いみき〕・道師〔みちのし〕・臣〔おみ〕・連〔むらじ〕・稲置〔いなき〕」)」に移行し纏められた。

 「君(又は公)」のカバネを持つ氏族の多くは第9代開化天皇以降の王室を祖先と称する氏族で、概ね、畿内の中小豪族(例えば犬上公、大三輪君等)、または、倭王権下にきっちりと取り込まれてはいない地方の独立的大豪族と言われている。
 遠隔地の地方豪族は筑紫君、大分君、火(肥)君、阿蘇君、上・下毛野君というように地名を氏の名としており、多くは国造(クニノミヤッコ)として、巨大な地方勢力を擁し、ヤマト王権から半独立の関係にあったといわれている。特に筑紫国・肥国・備国・越国・総国・丹国・毛国は上、下国と別れる過程においても古代倭国の中でも有力豪族が存在していたからこそ国を分けられたのであろう。(備国は3国に分割されるのだから別れる前はもよほどの大国だったのだろうか)君の称号を持つ地方豪族のほとんどは、令制国と言われた7世紀中頃から明治時代まで続く地方行政区分で上、下2か国に分かれた国の出身者である。

 開化天皇の時期(4世紀前半)に遠くの地方豪族に派遣できる勢力を当時の大和王権が保持していたと思えず、いわば体裁上天皇家を祖先にしているようにも思え、恣意的な印象を拭えない。通説においてもこのカバネ制度と言われる発祥の経緯は明確ではなく、また大化以前に制定されたとされる政治制度が存在していた確証もない。記紀等の文献には、各天皇の治世時に、氏の名に付属して一般にカパネの称号といわれているものが多数記載されているのみで、その呼称が当時大和王権の政治的地位や身分をあらわすように見えるところから、カパネの制度が想定されているが実情だ。例えば大和王権の最高位の位である「大臣大連」でも、日本書紀では世襲制と記述されておらず、あくまで個人名が記されているのみである。確かに大臣には平群臣・許勢臣・蘇我臣などの臣姓氏族が、大連には大伴連・物部連などの連姓氏族がついているが、そのうち明瞭に世襲制とみられるのは大連では大伴氏(室屋→談→金村)、大臣では蘇我氏(稲目→馬子→蝦夷)ぐらいで、他は全く世襲制では記載されていない。また王権内の職掌としての氏族的な意味合いもまた不鮮明で、軍事的氏族が大伴・物部氏であったことは記されているが、それ以外の氏族は明瞭でないのもまた事実である。筆者が一言いわせていただけるのであれば、答えは簡単で、王権配下の最高位の実力氏族の権力闘争の過程において、勢力の消長があたかも制度上世襲制に見えるだけではないのか、ということだ。
 
 記紀の記述においても、崇神天皇前までのヤマト王権は大和国南部の三輪山麓一帯に逼塞していた一地方の小豪族でしかなかった。当然周辺地域にもいくつもの豪族がいたであろう。それら豪族には独自の氏(ウジ)やカバネが存在し、その一族の血統序列的統合構造が形成されていたのではないだろうか。その後ヤマト王権はいくつかの有力氏族と連合し勢力を拡大する。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしてもこの王権は、近畿地方だけではなく、各地の同等な力を持つ豪族と同盟関係を持つゆるやかな連合政権であったとみられている。その連合の過程で氏やカバネの本来の構造から、ヤマト王権から豪族へと付与される構造へと変貌したのではないだろうか。

 ところで君の称号を持つ地方豪族は記紀において、古代ヤマト王権の天皇家を祖に記述されている。
  ・ 筑紫君              孝元天皇第一皇子、大彦命
  ・ 大分君・火(肥)君・阿蘇君  神八井耳命(綏靖天皇同母兄)
   *但し肥君の祖先の別説には国津神である建緒組(たけおくみ)という人物ともいう。
     (肥前風土記・肥後風土記・先代旧事本記、国造本記)
  ・ 上・下毛野君           崇神天皇皇子、豊城入彦命

  この地方豪族の祖とされている神八井耳命や大彦命、豊城入彦命は、それぞれ現代でいう皇位継承権を持つ歴とした王権の一族を束ねる長として登場しているが、決して皇位にはついていない方々だ。

 神八井耳命 
  ・初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、『日本書紀』綏靖天皇即位前紀では、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くため弟の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そうとした。この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、己卯年11月に片丘の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟に皇位をすすめ(第2代綏靖天皇)、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。そして神八井耳は綏靖天皇4年4月に死去したという。

 大彦命
  ・大毘古命とも書く。第8代孝元天皇の第1皇子で第9代開化天皇の実兄にあたる。母は欝色謎命。四道将軍に任命されて北陸道()を任される。他に、子供の武渟川別は東海道()、吉備津彦は西道()、丹波道主命は丹波道に遣わされた()。このとき天皇は詔して「もし教えを受けなければ討伐せよ」と言うと、印綬を将軍に授けたという。高志国に遣わされた大彦命と、東方に遣わされた建沼河別は相津で行き会った。それでその地を相津()(会津)という。大彦命の後裔の一族は北陸に特に多い。

 豊城入彦命
  ・第10代崇神天皇皇子。母は荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)。豊城命と弟の活目尊の世継ぎ問題では、弟(活目尊=第11代垂仁天皇)を指名し、兄の豊城入彦は東国統治を命じられた。崇神天皇はこの命に先立つ30年ほど前にも四道将軍を派遣していて、2回目の東国派遣となる。ある説によると、豊城入彦命は実際には東国には至っていないと見られ、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは三世孫の御諸別王が最初ともいう。

 君の称号を持つ地方豪族は九州・関東に集中して分布している。なにか関連しているのであろうか。

  

 ところで隋書には「君」について興味深い記述がある。

 「隋書」東夷伝 第81巻列伝46 倭(俀)国

 開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。

【現代語訳】

 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。

 中国の歴史書である「隋書」には、推古天皇の時期に倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋王朝に朝貢した当時の日本(倭国)についての記述がある。遣隋使と謂われるこの朝貢使は600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されていて、上記の内容はその第一回にあたる。ちなみに有名な「日出づる処の天子、書を日没する 処の天子に致す、恙なきや」という国書を隋王朝の天子(煬帝)に送ったのは第二回であり、中国は伝統的に中華思想という自国を世界の中心と考え、周辺諸国は中国に使いを出して朝貢(家来になる)し、中国皇帝より諸国の王に封じられて初めてお付き合いが出来るため、当時の天子である煬帝は立腹したという。

 話は戻るが、この開皇二十年の朝貢では、当時の倭王は姓が「阿毎(あま、天)」で、名前が「多利思比孤(タリシヒコ)」と言い、「阿輩雞彌(オオキミ、ワガキミ)」と敬称され、同様にその奥さんも「雞彌(キミ)」と呼ばれていた。「雞彌」が「君」であることには異論はなく、7世紀初頭に「君」の称号を使用していた確かな根拠といえる。
 また「大王」は「オオキミ」とも読み、別名「大君」と記述している書物も存在することから「王」=「君」ともいえる。「君」の称号は7世紀初頭の倭国にとって高貴な称号だったと思われる。

 この「君」の称号は684年(天武13年)に「八色の姓」が制定され、それまで「君・公」姓だった氏族のうちの有力な氏族は、第1位の「真人」や第2位の「朝臣」の姓を与えられたが、奈良時代になっても上毛野氏等は「朝臣」姓ではなく「君」姓を名乗っていたように、「君」の称号は一種特殊で、格式のある称号と地方の豪族は思ったのだろう。現に記紀に続く歴史書である続日本紀では「君」を使用した姓が非常に多かった為、この事態を重要視した時の朝廷は以下の勅命を下した。

   天下の諸姓には君の字が著しい。公の字を以て換えよ。(続日本紀 天平寶字3年10月(759))

 つまり、「君」は古き遺産を象徴する憧れの的の称号であり、特別の証であったのではないだろうか。

 
 長々と「君」の称号について記述したが、その理由はほかでもない。武蔵国北東部の先端部に存在する「村君」という地名は、カバネとしての「君」に関連した称号名が後世土地名に変化したものではないだろうか。あくまで状況的な憶測にすぎないが、上記で紹介した樋遣川古墳群の一つ御室塚古墳は、上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として明治政府の調査があったことや、下村君村に伝承として残る村君王子等、ある特定時期に高貴な人物がこの地に君臨していた可能性は、ないとは決して言い切れない不思議な伝承ではあるまいか。

 その不思議な伝承に囲まれた下村君地区には有名な永明寺古墳がどっしりと構えている。

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埼玉古墳群の謎(12)祟りとおさき伝説

 丸墓山古墳と二子山古墳の関係を考えるうえで一つ重要なポイントがある。丸墓山古墳は直径105mの円墳であり二子山古墳の長さには及ばないが、高さが約19mあり他の古墳に比べてもかなり突出している。しかもこの墳頂部は戦国時代の石田三成による忍城攻めの際に12m削られたため、当初はもっと高かったと思われる。
 この丸墓山古墳の墳頂から東側から南側方向を見ると稲荷山古墳や二子山古墳が一望に臨め、この2大古墳を見下ろす形となる。この丸墓山古墳と二子山古墳はほぼ同時に築造されたものという。またこの古墳は生前中から築造されている可能性が高いことから、間違いなく(獲)加多支鹵大王は築造中の二つの古墳を見ているはずだ。
 丸墓山古墳からは何度も言うが稲荷山古墳と二子山古墳はおろか小崎沼や埼玉地域全体を見通せる絶好の位置に築造されている。この埼玉古墳群は稲荷山古墳→二子山古墳→鉄砲山古墳のラインが埼玉一族の正統な継承ラインで軸線上に築造されているように思われるが、丸墓山古墳はその軸線からは西側に外れている。しかし外見的に見ても丸墓山古墳のほうが他の古墳よりはるかに目立ち、一種ランドマークのような目印的な存在となっているように思える。

      
                      丸墓山古墳から見る稲荷山古墳
 この稲荷山古墳は埼玉地域、のちには武蔵国の地に一大勢力を築き上げた(獲)加多支鹵大王の先代にあたる大王の輝けるモニュメントである。もし仮に丸墓山古墳と二子山古墳の埋葬者が違うのであれば、このような二子山古墳の埋葬者である埼玉古墳群中最大の大王である(獲)加多支鹵大王が丸墓山古墳の築造を許すだろうか。心ある人ならこう思うに違いない。「偉大な先代の眠る陵のすぐ近くにこのような巨大な山(?)を築くとはなんという無礼。祟られても知らないぞ。」と。

 現代でも「言霊信仰」や「祟り」という日本古来の考え方は日本人の心の中(又はDA)に浸透していている。この「言霊信仰」や「祟り」は
「八百万の神」などと言われるように日本の神道などもアニミズム的な思想的背景を持ち、森羅万象に神を見る縄文時代以前から発生した原始的な考え方から枝別れした日本人が持つ一種の宗教観(*宗教に代わる言葉が見いだせないので敢えて書かせて頂いた)の一つで、言霊に関して言えば結婚式や葬式には言ってはいけない言葉(忌み言葉)は、霊というものがあるかないかではなく、多くの日本人が今でも信じているものである。例えば明日は運動会だということでみんなで準備に盛り上がっているときに、誰かが「明日は雨が降るだろう」といったとする。その時は、せっかくみんなが楽しみにしているのに水を差すいやなことを言う奴だ、という程度のものかもしれない。ところが、翌日本当に土砂降りの雨が思いがけなく降ったりすると、「おまえがあんな事を言ったからこんな天気になった」と冗談まじりにでも非難する者が大体出てくる。全く因果関係がないことなのに我々の心の中では、「誰かが縁起でもないことを言ったからそれが現実のものとなった」という思考回路が自動的に働いてしまう。
 「祟り」は神仏や霊魂などの超自然的存在が人間に災いを与えることで、後に祟りの対象が非業の最期を遂げた特定人物を対象に「怨霊信仰」と転化する。ただ日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある。ちなみにこの「怨霊信仰」は通説において、平安時代以降に成立したものと言われているが、古代日本のアニミズム信仰から神道への成り立ちを考えると「祟り」は遥か昔、縄文時代以前から日本人の中にあったものである。今でも「○○様の祟りだ」とか諺にも「触らぬ神に祟りなし」とちゃんとこの信仰は日本の土壌に根付いている。
 このように科学が進歩した現代でもこのような言霊信仰や祟りは生活の中に入り込んでいて、ましてや時代は6世紀。政治と祭祀が分離していない政治学的に未熟な時代においては言霊信仰や祟りを恐れる考え方は現代よりも遥かに顕著ではなかっただろうか。
 

 
前章において(獲)加多支鹵大王は女性であると述べた。
 またこの女王は3世紀の耶馬壱国の卑弥呼とその政治的なスタンスが同じではないかと考えた。実際の政務全般は実弟が行う卑弥呼に対して、(獲)加多支鹵大王には近い親族である乎獲居臣が行う。祭祀面でいうと魏志倭人伝では卑弥呼は
鬼道に事(つか)へ、能(よ)く衆を惑わす、つまり呪術(占いか)を行い、民衆を従わせるカリスマ性のある存在だったに対して、最初(獲)加多支鹵大王にも同じ能力があったかどうかの確証がなく、課題事項であった。しかし最近実はこの武蔵の女王も祭祀的な能力があったのではないかと思える事項を発見したので報告する。
 まず埋葬や祭祀の儀式が行われたのではないかと思われる「造出し」についてだ。この造り出しの性格については埋葬主体説、祭壇説などがあるが、後者が有力と思われる。造り出しはこの世における死者の霊の依代となる家形埴輪を置き、その霊に供物を捧げ、奉仕する儀礼がおこなわれる神聖な場であった。また、その行為を周囲の人々に見せるようになったために出現したと考えられる。造り出しの埴輪配列は古墳時代の葬送儀礼を考える上で重要な情報を与えてくれるものと考えられる。なにより古代日本人にとって祭祀とは「神や祖先を祭ること、儀式」であり、大型祭祀施設である古墳はなにより祖先崇拝の一大モニュメントであった。
 その古墳において神聖の場である「造出し」がこの埼玉古墳群のほとんどの古墳(愛宕山古墳は造出しがないといわれているが本格的な発掘調査をしていない現在詳細は不明で、今は何とも言えない)、そして全て同じ方角に存在するということは非常に重要だ。
 

 
埼玉古墳群の南東には小埼沼がある。現在は広い田畑の一角にポツンと樹木が生い茂り、その中に「武蔵小埼沼」と彫られた石碑があるだけだが、かつて『万葉集』に詠まれ、利根川と荒川の氾濫によって水路が発達し、船着場があったであろうと推測され、弥生、古墳時代の37世紀頃までは十分に陸地化されず、現在の東京都心部は武蔵野台地付近以外は内海の一部ではなかったかと考えられる。
 この地には今では小さな祠の宇賀神社がポツンと鎮座しているが、当社の創始についての言い伝えに、
 「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」
 「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」
とあり、このことから見て当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられる。
 この「当初は霊力の強い神霊を祭ったもの」とは一体何であろうか。宇賀神社の言い伝え
にはおさきという女性が自らを犠牲にして神に生贄を捧げて祈願したという人柱の伝説であろう。この言い伝えも尾ひれがついて今に至ったとみることができ、本来の伝承とは違った形で伝承されたものではないだろうか。

 

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埼玉古墳群の謎(11)(獲)加多支鹵大王とは


                    埼玉古墳群最大の古墳二子山古墳の案内板
二子山古墳は前方後円墳(仁徳陵型の設計)。6世紀前半に築造されたと推定されている。周濠は台形で二重、内堀は復元。 主軸長 138m  後円部径 70m 高さ 13.0m  前方部幅 90m 高さ 14.9m。武蔵国(埼玉・東京・神奈川の一部)最大の前方後円墳だ。この古墳の周濠から円筒埴輪が大量に出土したが、それらは鴻巣市の生出塚窯(おいねつか)と東松山市の桜山埴輪窯で製造されたものだという。寄居町末野遺跡からさきたま古墳群の中の山古墳で使われている埴輪もここから供給されていたことが分かっており、平和時の文化交流なのか、埼玉古墳群の王権の勢力範囲なのか意見が分かれるところだ。

 さて稲荷山古墳に話は戻るが、この古墳出土の鉄剣には色々なヒントが隠されている。そのヒントの鍵を握る人物は乎獲居臣ではなく、実は(獲)加多支鹵大王なのではないだろうか。通説では(獲)加多支鹵大王は大和政権の雄略天皇と言われてきた。しかし、今までの考察の過程の中でこの埼玉古墳群の被葬者たちは大和政権とは全く関係のない、一地方豪族ではないかという、結論に達した。そして乎獲居臣が仕えた(獲)加多支鹵大王にはもっと奥の深い真相が隠されている、という事実を発見してしまった。そしてそのヒントはこの稲荷山古墳の経文鉄剣にハッキリと記されている。

其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

 ここで問題を提起したい一文とはこの「左治天下」の部分だ。この「左治天下」の基本的な解釈として天下を治めることを補佐するという意味であるのが一般的であるし、その解釈自体には異論はない。ただ「左治天下」の言葉を用いるに至った直接の原因はどのような経緯だったかについて考察してみると、ここには興味深い“裏の歴史”を知ることとなる。
 この「左治天下」の四文字は明らかにはこの銘文製造に携わった人たちのオリジナルである。漢字を使用している文化圏で5,6世紀以前にこの「佐治天下」を使用した歴史書は全くないからだ。但しこの四文字を「佐治」+「天下」と分けると状況はガラリと変わってくる。まず「佐治」に関していうと、原本は他にある。中国の歴史書で3世紀後半に陳寿が書いた「三国志」である。
この三国志では、魏書第30巻烏丸鮮卑 東夷伝倭人条、略して魏志倭人伝の中の一文にこのように記述されている。
 
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐暦年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居処宮室楼観城柵嚴設常有人持兵守衛
 ここでは全文の解釈はあえて省くが、邪馬(壱)国の女王である卑弥呼の男弟が卑弥呼に代わって政治を行っていて、それに対して「佐治」という表現方法が初めて使われていて、稲荷山鉄剣の経文の真の原本がここに存在する。
 それに対して「天下」は古代中国ではその地の皇帝が主宰し、一定の普遍的な秩序原理に支配されている空間であり、下の中心にあるのが中国王朝の直接支配する地域で、「夏」「華」「中夏」「中華」「中国」などと呼ばれる。その周囲には「四方」「夷」などといった中国王朝とは区別される地域があるが、これらの地域もいずれは中国の皇帝の主宰する秩序原理に組み入れられる存在として認識されていた。俗にいう「中華思想」である。
 日本では中国王朝に対して倭国王または倭王と称していたが、国内に対しては少なくとも古墳時代には「治天地」という言葉が使用されているように、倭国の内では「中国世界とは異なる独自の小規模の天下」概念が発生していたと思われる。つまり埼玉地方という一地方の中の「天下」の概念がそこには存在していたことになる。
 つまりこの「佐治」そして「天下」の一文の意味を理解していた知識人が武蔵国埼玉の地にいて、それを参考にして経文鉄剣の「佐治+天下」という四文字を経文の中に入れたと考える。
 「佐治」の当事者「乎獲居臣」に対して、「佐治」を受ける「(獲)加多支鹵大王」の関係はいかなるものか。魏志倭人伝での卑弥呼とその男弟との関係が類似していたからこそ、鉄剣の経文に「佐治天下」と明記したわけであるから、まず最初に魏志倭人伝の卑弥呼がどのように記載されていたかを考えればいい。

・ 魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の年はすでに壮年期をすでに過ぎて結婚もしていなかったようだ。
卑弥呼すでに長大夫婿(ふせい)なく
・ 呪術(占いか)を行い、多くの人がその占いを信じていた。
鬼道に事(つか)へ、能(よ)く衆を惑わす
・ 女王となってから彼女を見た者は少なく、1000人の女を召使いとして近侍させている。ただ男が一人だけいて、飲食を給仕し、彼女の命令を伝えるため居所に出入りをしていた。
(王となりしより以来、見るある者少なく、卑千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入りす。)
・ 卑弥呼は一族の共立によって擁立された。そして卑弥呼の死後もその一族は継続して統治していた。
(乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼といふ。中略、卑弥呼の宗女壱与(いよ)年十三なるを立てて王となし)

 卑弥呼の時代と、稲荷山古墳の被葬者には、約2世紀の隔たりがある。卑弥呼が生きていた時代は弥生時代後期から終末期であり、埼玉古墳群は古墳時代の中期から後期にあたり、古墳時代一概には政治形態や時代状況等相違する点は考慮しなければならない。
 通説によれば、弥生時代後期から古墳時代の歴史的な推移を一言でいうと小規模な殻を形成するな地域国家から現在でいう都道府県単位の大規模な単位の殻とする初期国家を形成していった時代と言われる。共同生活社会が「むら」から「くに」へ発展していき、地域の豪族たちが連合でつくった国が5世紀頃に九州地方から東北地方南部まで支配していった強制力のない緩やかな連合国家というイメージがそこにはある。
 また弥生時代からの小区画水田は依然として作り続けられているが、古墳時代の水田は東西・南北を軸線にして長方形の大型水田が、一部の地域に出現するようになり、水田耕作の技術の向上もこの時期に見られる。
 弥生時代と古墳時代の大きな相違点は勿論古墳だ。弥生時代は初期においては支石墓、甕棺墓、石棺墓等規模の小さい墓が主流だったが、時代が下るにつれ大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきたと考えられて、首長層は墳丘墓に葬られるようになった。このことは身分差の出現を意味する。弥生時代後期になると墓制の地域差が顕著となっていく。 近畿周辺では方形低墳丘墓がつくられ、山陰(出雲)から北陸にかけては四隅突出墳丘墓が、瀬戸内地方では大型墳丘墓がそれぞれ営まれた。それでも35m~80mの規模であり、大型古墳が出現する時代への基本形ともいわれている。
 古墳時代は文字通り古墳の築造が盛んに行われた時代であり、各地域が挙って地域特有の古墳を築造し、勢力を誇示した時代と言われている。特に古墳時代中期は飛躍的に墳丘が大型化した時代で、巨大な前方後円墳が 数多く造られるようになり、畿内堺市の大山古墳や大阪府羽曳野市誉田にある誉田山古墳は全長400mを超える大古墳であり、この地域に大きな勢力が存在していたことが窺える。一方他地域に目を転じると、岡山県には全長360mの造山古墳、286mの作山古墳を始め、群馬県太田市にある全長210mの太田天神山古墳や宮崎県西都市の全長178mの女狭穂塚古墳等、畿内地方と遜色ない規模を有する古墳も登場している。
 さらに国単位の規模、古墳の大型化もさることながら、古墳時代の4,5世紀には中国、朝鮮半島との交易(もしくは戦争)によって中国側から儒教、漢字や仏教が、また朝鮮半島からは鉄、須恵器や土師器等の文化の伝来もあり、このことから200年の時代の推移は国内の集権化と外来文化の吸収によって生活上の利便性も上がった時代でもあった。

 さてこのような時代状況の違いを前置きを致したうえで「佐治」について考えてみたい。魏志倭人伝では女王である卑弥呼が邪馬台(壱)国の盟主としてトップとして君臨しているが、その実質は男弟が政務全般を取り仕切り、ナンバーツーとして祭礼以外の諸事を纏めていて、これを三国志の著者である陳寿は「佐治」と認識して記述しているし、稲荷山鉄剣経文を手掛けた埼玉の知識人の共通の常識だったと考えられる。
 

 つまり、「佐治天下」の受け手側である(獲)加多支鹵大王は実は
女性の王者であることだ。またこの女王は独身者である、ということも。少なくとも魏志倭人伝に唯一ある「佐治」の解釈から稲荷山鉄剣経文の意味を素直に読むと、自然とこのような結論に至る。勿論完全に卑弥呼の時代と稲荷山古墳の経文鉄剣の時代において主要人物の完全な合致があったとは思えない。些細な齟齬等はあったはずである。(例えば卑弥呼の男弟に対して、稲荷山古墳の乎獲居臣が(獲)加多支鹵大王の実弟であったかどうか。卑弥呼が鬼道に仕えていた事項と、(獲)加多支鹵大王も同じ能力があったかどうか)大略において両方とも似たような環境だった、という前提条件の合致があったから、少なくとも稲荷山古墳の経文鉄剣の時代に「佐治」を使用したと考えるほうが自然である。
 次に乎獲居臣と女王である(獲)加多支鹵大王との関係はどうであったか。少なくとも乎獲居臣は金錯銘鉄剣を下賜された実績と名声を兼ね揃えた埼玉地方、いや関東地方でも隋一の実力者だ。当時の時代状況から考えると、まず埼玉古墳群の被葬者の近親者であることは間違いない。ならば二つの選択が考えられる。
① (獲)加多支鹵大王の父である前代の王の母方の親族、もしくは腹違いの兄弟の母方の親族。
② (獲)加多支鹵大王の兄弟の奥方の親族。

 ①、②どちらの場合でも、共通している点は埼玉古墳群の被葬者を支える有力豪族の氏のリーダーも兼ねる、という点である。埼玉古墳群が築造された5,6世紀は大和において
政権の豪族層は、氏(ウジ)と呼ばれる組織を形成していた。ウジの組織は5世紀末以降多くの史料から確認できる。広範に整備されるのは6世紀のことである。ウジは血縁関係ないし血縁意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団であったが、同時にヤマト政権の政治組織という性格をもっていたという。ウジは、大王との間に隷属・奉仕の関係を結び、それを前提にして氏のリーダーは大和政権における一定の政治的地位や官職・職務に就く資格と、それを世襲する権利を与えられた。またその出自や政治的地位・官職の高下・職務内容の違いに応じて姓(カバネ)を賜与され、部民(べみん)の管掌を認められたのである。
 つまり乎獲居臣も、トモとしての「杖刀人」集団を率いる伴造であったと考えるのは妥当なところだ。

 そして女王である(獲)加多支鹵大王が埋葬された古墳こそ武蔵国内最大であり、埼玉古墳群の中央に位置する二子山古墳
なのだ。ズバリ言うが埼玉古墳群はこの二子山古墳を守るため造られた古墳群であり、その為だけに約150年間延々と築造されてきた。

 ただこの二子山古墳は大きさは138mで全国的にも中型古墳に属する。大きさも日本全国では97位。関東地方においてでも17位と何故か中途半端な大きさだ。埼玉古墳群の大王は生前から陵墓を築造し、その築造する際に関東地方近郊の大型古墳を参考、模擬し、より見栄えの良い古墳を造ったのではないか、という仮説を立てたのに対して、実際は見栄えを良くするどころかあまりも平凡な規模であり、また古墳一面には葺石もない、何となく殺風景な古墳である。

 しかしこの二子山古墳築造には大きな裏があり、それは丸墓山古墳としっかりリンクする。表向きにはだれも解らないように、巧妙に、である。

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埼玉古墳群(10) 稲荷山古墳の被葬者は

 稲荷山古墳は大山陵古墳と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小すると稲荷山古墳の形に近くなる。また埼玉古墳群の二子山古墳や鉄砲山古墳も大きさは異なるものの稲荷山古墳と同じ墳形をしており、やはり大仙陵古墳をモデルとした墳形と見られている。
 従来の説では、このことから古代ヤマト朝廷が5世紀末には東方へ勢力を伸ばした一つの証拠と解釈され、その結果畿内中心の統一権力と、その他地方への波及という単純な図式でここでも多くの考古学者から賛同され、継受されているのが今日の現状である。


       
  埼玉古墳群の古墳では二子山古墳、稲荷山古墳に次ぐ大きさ109mの前方後円墳である鉄砲山古墳
                          築造推定年代は6世紀後半。


 前章までのおさらいで何度も確認するが、この埼玉古墳群は築造時期も遅く、不思議にも他地域における古墳形態のなかの発生期にあたる初期小古墳が存在せず、いきなり稲荷山古墳という大型古墳が出現している。いわゆる論理的思考法の基本である「起承転結」の概念のひとつである「起」句がこの古墳群には存在しないことであり、このことはすなわちその勢力は埼玉郡内の元々の土着の勢力ではなく、既に大形前方後円墳を築造するだけの力を持った勢力が外部からやってきたのでではないかと考えた。
 その後
埼玉の津を領有し、周囲との交易にて莫大な富を得た埼玉古墳群の大王は生前から陵墓を築造し、その築造する際に関東地方近郊の大型古墳を参考、模擬し、より見栄えの良い古墳を造ったのではないか、という次なる仮説を立てた。では現実に参考とした古墳は果たしてあったのだろうか。またあったとしたらどの古墳だったのだろうか。

 その前に一つだけ確認したい事項がある。埼玉古墳群の最初の古墳である稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文には、乎獲居「臣」(おわけのおみ)は「杖刀人の首」であり、また「吾、天下を左治する」と書かれている。この「杖刀人の首」と「吾、天下を左治する」とは具体的にどのような意味があるだろうか。

・ 杖刀人の首は「刀を杖にする人」で、要するに門を守る守護であり、武人のことであり、大王のもとで軍事を担当する意味。「首」というのはその長という意味。つまり軍事担当の最高司令官といったところか。

・ 「吾、天下を左治する」というのは、王が幼少や女帝である時に、大王に変わって成務をとる意味で、後代
「摂政」という言葉に置き換えられ、大体大王の近親者(叔父、義父)やそれに準ずる皇族がその任に就くことが多いらしい。内政担当の最高長官。

 つまり、乎獲居「臣」は「杖刀人の首」、「佐治天下」という2種類の銘文の言葉から、内政、軍事を総括する大王の次の地位、いわば「ナンバー2」としてこの一族を統括していた人物であるといえる。

 この金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)は鉄剣銘文の中でも115文字と大変文字数が多く、これらは5世紀前後のの情報を知るための貴重な第一級的な史料であるし、全国でも他に6例しか存在しない珍しい剣だ。ちなみに稲荷山古墳出土の鉄剣以外の6例は以下の通りだ。

 ・ 稲荷台1号墳出土「王賜」銘鉄剣            千葉県市原市稲荷台古墳群から出土
 ・ 江田船山古墳出土の鉄刀          熊本県玉名郡和水町江田船山古墳より出土
 ・ 
岡田山1号墳出土の鉄刀                      島根県松江市岡田山1号墳より出土
 ・ 
箕谷2号墳出土の鉄刀                 兵庫県養父市箕谷2号墳より出土
 ・ 
中国から伝来の中平刀                         奈良県天理市東大寺山古墳から出土      
 ・ 七支刀
                      奈良県天理市石上神宮に保存

 古墳時代には主に古墳の発掘、調査によってこれまでに多くの鉄製の刀、剣の出土、発見が報告されているが、上記の銘文の入った刀、剣はいたって少ないのが現状である。これから先もこの傾向は基本的に変わらないと思う。考えてみると当たり前のことで、刀や剣は当時成人男性で自らの身分を証明する為に身に着けていたいわば日常生活品で、製造数も基本的に多数であったろう。それに対して経文鉄剣はある意味名誉勲章の類のもので、儀礼や祭祀等、特別な行事に使用するか、個人的に大事な場所に保管するかどちらかである。地方の首長すらめったに所持することができないもので、日本全国を見ても大変珍しい鉄剣を何故乎獲居「臣」は獲加多支鹵大王から下賜されたか、という問いにほとんどの歴史学者は沈黙している。

  この乎獲居「臣」は余程大王の信任が厚かったと見えて、稲荷山古墳の後円部第一主体礫槨より、経文鉄剣や豊富な副葬品をもって葬られており、一族の中でも大王並みかそれに準ずるかなりの実力者であった可能性が高いとみることができよう。
 また先ほどから乎獲居臣の臣に「 」をつけているがこれにも意味がある。この銘文鉄剣には乎獲居「臣」の祖先八代の系譜を記しているが、乎獲居「臣」の父(カサハヨ)と祖父(ハテヒ)には、ヒコ・スクネ・ワケなどのカバネ的尊称がつかないのに対して、乎獲居の「臣」は姓(かばね)の一つで、姓の中では「連」と並んで高位に位置していた。5世紀当時の姓制度の中で臣下の中でも最高位に位置している「臣」を何故乎獲居臣が名乗ることができたのか、このことは非常に意味が重いと考える。

  つまり考えられることは次の通りだ。この乎獲居「臣」はこの銘文鉄剣を受け取るに値する大きな業績を自らの智謀と政略、戦略によって一代で挙げたということではないだろうか。しかしこの事業は想像を絶する困難の連続だったのだろう。乎獲居「臣」は一身を擲ってこの難事業をやり遂げた。そうでなければこの経文鉄剣を下賜される絶対的な理由とはならない。考えられる以下の項目が経文鉄剣を下賜された特別な理由だったのではないかと現時点で推測する。

① 「埼玉の津」を実効的に支配し、埼玉郡にまでその勢力範囲を広げた。
② その前後におそらくこの地を支配していたであろう古参の大勢力との戦いに勝利した。
③ 「埼玉の津」の経済的利点、文化の広がりを最大限に利用し、武蔵国の覇者となり、関東一の大勢力を築き上げた。
④ 自分を引き立ててくれた恩人であり、苦労を共にした王の墓を埼玉郡の稲荷山の地に築いた。 

 経文鉄剣の記された年代である辛亥年(471年)は、項目①から項目④までの事業を完全に達成した記念塔として現在の大王である(獲)加多支鹵大王から下賜された名誉ある勲章だったのではなかろうか。




 ところで通説において乎獲居臣の家は代々は埼玉から中央のヤマトに出仕し、代々天皇家に杖刀人の首として仕えていたが、乎獲居臣は獲加多支鹵大王である雄略天皇の役所が斯鬼宮にあったとき治天下を補佐し、役目を終え埼玉に帰り、そのときのことを記念し鉄剣をつくった、と大方の歴史学者から解釈され、稲荷山古墳の被葬者は経文鉄剣の所有者である乎獲居臣と同一人物であると見られている。
 しかし『日本書紀』雄略天皇の項とこの経文鉄剣の内容、さらに稲荷山古墳の出土状況を考えると幾つかの矛盾が生じてくる。以下の点だ。

① 『日本書紀』雄略天皇の項には、この天皇を補佐する「乎獲居」という人物がいたという記録が全く存在せず、ましてや経文鉄剣の下賜についての記載もない。そもそも関東の埼玉を根拠地とする地方豪族が、代々杖刀人の首としてヤマトに出仕し、しかも天皇の治天下を補佐する身分となりうることができるか、という基本的な問題にだれも理論的に証明した書物等がない。奈良時代に道嶋宿禰嶋足という陸奥在地の豪族の中で唯一中央官僚として立身し、官位は正五位上・近衛中将に上り詰めた人物がいたが、この人物は奈良時代当時余程珍ったようで「続日本記」等に記載されている。このようにたとえ優秀な人物であったとしても中央出身者でない人物が中央に出仕し、更に立身出世することは非常に難しい時代であったし、もし出来たならばこのことを記載しないという事はまずありえないことだ。しかし同じ『日本書紀』でも安閑天皇の項において「武蔵国造の乱」の当事者である笠原直使主や笠原小杵の名前やこの内乱の顛末が簡単ではあるが記載されている。
 歴史学者等、このような問題に誰も見向きもしないのは不自然ではないだろうか。
② 雄略天皇が即位し政務を行った宮は、「近畿の泊瀬朝倉宮」であり、皇子時代「大泊瀬幼武尊」と呼ばれたように、「泊瀬の朝倉」は幼少時代から慣れ親しんだ場所で「宮」とする根拠として適当であるが、経文鉄剣に出てくる「斯鬼宮」とは実は同一地域ではない。大和国穴師西方は三輪山の西北、巻向駅の東方の地域は「磯城」(しき)の比定地なのだが、この地は朝倉の比定地である三地域は三輪山の南であり、朝倉の比定地と磯城の比定地には地理的に大きな隔たりがある。このように「磯城宮」と「朝倉宮」は明らかに別地である。したがって、「斯鬼宮」にいた「獲加多支鹵大王」を「朝倉宮」にいた「大泊瀬稚武皇子」、つまり雄略天皇に当てるのはまったく根拠のない説で、この二人は別人物だったこととなる。
③ 稲荷山古墳で経文鉄剣が発見された後円部第一主体礫槨とすぐ近くにあ第二主体る粘土郭はどちらも後円部の中央からややずれたところにある。中央にこの古墳の真の主体部が有り、真の被葬者がいたと考えられている為、稲荷山古墳は乎獲居臣の墓とは到底考えられない。

 このように「日本書紀」の記述をあまりに盲信しすぎて①から③の矛盾に対して明確な回答ができない現在の定説、通説に対して事実はもっと単純で明快ではなかったか。それはからこの稲荷山古墳の真の被葬者は乎獲居臣ではなく埼玉古墳群の大王という事である、ということだ。また稲荷山古墳内の墓の配列から経文鉄剣を乎獲居臣に与えた人物は、遠い近畿の雄略天皇ではなく、「佐治天下」の言葉通り、距離的にも常に乎獲居臣が傍にいて支え続けていた埼玉古墳群の大王と考えたほうが自然ではないかと思われる。
 たしかに「古事記」「日本書紀」は古代日本史を語る上においても、日本人としての精神的な拠り所としても第一級資料であることは間違いない。但し記紀等の中央の書物は中央の「目」から見た主観の歴史が反映され、おのずと「地方」軽視の風潮にともすると陥りやすい。少なくとも埼玉古墳群の経文鉄剣の内容や、稲荷山古墳の石室の配置状況から推測される当時の埼玉地方には古代大和中心の世界、「日本書紀」の記述とは全く違う世界、違う空気を感じずにはいられないのは自分ひとりだけなのだろうか。

 稲荷山古墳出土の鉄剣を調べていくと当時の状況が少なからず解ってきた。さらに上記の事項を参考に時空列で物事を纏めると実はもう一つの事実に必然的に突き当る。稲荷山古墳の真の被葬者は(獲)加多支鹵大王でも乎獲居臣でもない。そう、(獲)加多支鹵大王の前代にあたる大王にあたる人物の他該当する人物はいない。



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