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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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高城神社

 武蔵国大里郡は武蔵国の北部に位置し、四囲は埼玉・足立・横見・比企・男衾・榛沢・幡羅の各郡と接している。おおむね現熊谷市熊谷、久下、石原、大麻生、佐谷田地区から旧大里郡大里村あたりの地域で、『和名抄』は「於保佐止」と訓じている。箕輪古墳群として6世紀の前方後円墳である「とうかん山古墳」(全長74m)があるが、発掘調査はされていない。このほか、延喜式内社である高城神社から「夭邪志(むさし)国」と記された青銅の鈴が出土している。
 郡衙は、熊谷市久下(くげ、郡家の転訛)付近とみられているが確証はない。ちなみに対岸の下田町遺跡から古墳・奈良・平安時代にかけての遺構・遺物が発見されている。
 平安時代には武蔵七党の私市(きさい)氏が住み、久下氏や熊谷氏(平家物語に登場する熊谷直実など)の祖となった。

所在地    
埼玉県熊谷市宮町2-93 
主祭神    高皇産霊尊
社  格    旧県社  武蔵国延喜式内社  大里郡総鎮守
由  緒    延享2年(1430)造営  
          寛文11年(1671)10月造営
         天明元年(1781)神樂殿・鳥居の修覆
         明治7年2月村社
         同40年10月神饌幣帛料供進神社指定
         大正5年4月19日県社
         同5月1日幣帛供進神社指定
例  祭    10月2日 例大祭

      
 
 高城神社は熊谷市役所から国道17号線へ続く道路の西に位置し、熊谷市の中心部に鎮座する。鎮座地である熊谷市一帯は荒川の蛇行によって形成された地域であり、荒川扇状地。古くから地下水の自噴する湧水池が多く、古代祭祀が行われていたものと推定される。当社を奉祭した氏族は、武蔵七党の一派である私市党に属していた久下(くげ)氏であったようだ。

         
                      高城神社略記を記した案内板
高城神社略記
 御祭神 - 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
 鎮座地 - 埼玉県熊谷市宮町二丁目
 由  緒 - 平安時代延喜五年(1905)約一〇七〇余年前、宮中において延喜式、式内社に指定された、大変古い神社です。現在の社殿は、寛文十一年(1671)に忍城主、阿部豊後守忠
         秋公が厚く崇敬され遷宮された建物です、「えんむすび」「安産」の神であり「家内円満」「営業繁栄」に導く神として崇敬されている。
 祭  事 - 元旦一月一日、秋祭十月一二三日、追儺祭二月(節分)、七五三 十一月十五日、春祭四月十日、酉の市十二月八日、大祓六月三十日
 宝  物 - 熊谷絵地図、青銅常夜燈、蹴まり、絵馬、古文書等。
        宮司 福井守久

  
      二の鳥居の隣にある社号標           鳥居を潜ると右側に趣のある手水社がある

 
鳥居を潜りすぐ左側には星宮、熊野神社、天神社       
  拝殿手前左側には合祀7社
                               左から伊奈利大神・香取大神・鹿島大神・大国主大神
                                      ・八幡大神・琴平大神・白山大神
新編武蔵風土記稿による由緒
 延喜式神名帳に、武蔵国大里郡高城神社と掲る者にして、祭神は高皇産霊尊なりと云。元は社地の内北の方なる御蔵屋敷と云処にありしが、寛文11年新に宮社を造りて、今の地に移し祀ると云。
末社。天神、稲荷。
神楽堂。
 霊水。神木榎の側んる池なり。眼病を患るもの此水にて洗へば、立所に平癒せるとて、目洗水と号す。
 社宝。麾一。軍配二。鏃一、柳葉の形にて、銘に奉寄進高城大明神国重と鐫る。以上阿部豊後守忠秋の寄附する処なり。
 鉾一、貞享3年阿部志摩守正明、奉納の由を銘す。
 刀一、天文18年戌3月吉日、廣国作と銘あり。寄附人の名を傳へず。
 天国刀、寛延妙玄龍と云僧の寄附せしなり。天国寶刀記と云添状あり。其略に、余太曽祖村山次郎入道清久、当武州八王子の北に居城し、家世店国寶刀を蔵す。清久没し子清武の時、羽生城に依り居こと数年の後、寇兵の為に戦死す。二子あり。長は其名を失ひ、次を清昌と云、城の陥に及て、長男は家譜由緒を収て去て、清昌は此太刀を蔵して熊谷驛に隠棲し、其子清春、清春の子清次は、乃余が父なり。余出家して世嗣を絶しを以て、寶刀を高城大明神に奉る云々と載たり。
 神主福井喜太夫、吉田家の配下なり。
 別当石上寺。社地には住せず、宿の南にあるを以て、別に末に出す。

境内社熊野神社の由来も境内掲示板にて紹介している。

 永治年間、此の付近一帯に猛熊が往来し庶民の生活を脅かし悩ました。熊谷次郎直実の父直貞この猛熊を退治して、熊野権現堂(現在箱田に熊野堂の石碑あり)を築いたと伝えられる。明治維新の後、熊野神社と称し、その御祭神伊邪奈岐命を祭り、明治40年1月14日に当高城神社境内地に遷し祭られた。     また、同年4月20日に熊野神社社地62坪(現熊野堂敷地)を高城神社に譲与された。この熊野神社(熊野権現)と千形神社(血形神社)そして円照寺の関係は深く、直実によって築かれ、熊谷の地名を産んだとも伝えられる。(境内掲示より

         
                 御神木のケヤキ 樹齢が八百年以上と言われている

           
                            高城神社 拝殿

 
         
                                                        本   殿 

 高城神社の祭神は
高皇産霊尊であるが、その子供の名前は八意思兼命である。この神は秩父神社の祭神で、その十世の孫にあたる知知夫彦命とともに秩父国造として勢力を保持していた。では秩父神社とその祭神の祖である神を祀る高城神社との関係はどうだったのか、地形から見ても、国道140号で秩父地方から上った最終地点は丁度熊谷地方となる。
                         
                     拝殿に飾られている高城神社扁額

 想像であるが、このタカギ神=高御産巣日命から大里郡(熊谷・大里地域)の荒川流域は知々夫国造の支配権にあったであろうことも推測できるし、秩父郡・大里郡・比企郡・児玉郡等の荒川上流域地域がその支配地域であると推測することはいささか早計な考えだろうか。
 またこの地域は、古代上毛野君の勢力とも接している区域である。上毛野君との関係はどうであったか。児玉郡と境を接する藤岡には「羊太夫伝説」があり、「羊」の地名は、群馬県藤岡地域を中心として、秩父市にも数多く存在している(羊山公園等多数)。


 
 また熊谷(クマガイ)について不思議な記述がある書物がありここに紹介したい。

熊谷 クマガイ 
 風土記稿大里郡条に「熊谷郷、今の熊谷宿なるべし。東鑑治承六年六月五日の条に文書案を載て熊谷郷とあり」と。日光輪王寺大般若経に「応永三年、武州大里郡熊谷郷報恩寺住僧」と。熊谷宿報恩寺条に「当寺は昔熊谷直実の子直家父の没後菩提の為に起立す」と見ゆ。熊谷宿のことは林条参照。児玉郡下児玉村字熊谷(美里町)あり、十条郷熊谷村と称す。寛政六年白川家門人帳に児玉郡熊谷村と見ゆ。
 熊谷宿は現在クマガヤと称すが、古は熊井(くまがい)、熊江(くまがえ)、隈替(くまがえ)とも称す。古事談に熊ガエノ入道(直実)と。明月記に隈替平三直宗と。承久記に熊替左衛門尉実景と。華頂要略に熊江兵衛尉直家と。太平記に熊井と見ゆ。
 古代の熊谷郷とは、直実館跡附近を西熊谷郷と称し、上之村神社附近を東熊谷郷と称す。東熊谷郷は紀元前よりアラハバキ王の政庁があった所で、平安時代初期には嵯峨天皇第四皇子の宮殿が仮宮としてあったと伝承あり。温故録に「大洲旧記に大野又兵衛筆記を載せて云ふ。大野山城守直昌、先祖は嵯峨天皇第四の宮なりしが、甚だ縦なる故、武蔵国熊谷と申所に流され、暫く彼地に渡らせ給ふ処、益々我儘つのり給ふに依て、当国喜多郡宇津といふ処に再び流され給ふ」と見ゆ。熊、笠、阿部、アラハバキ、河上、成田の各条参照。此氏は阿(くま)族にて、阿部(あべ)氏の本拠地奥州太平洋岸に多く存す


 津軽の熊谷氏 古代熊谷族の後裔なり。東日流外三郡誌に「津軽十三港の安倍氏季の養子十三左衛門尉安倍秀栄(藤原秀衡の弟)の臣、熊谷多次郎盛直、右は十三左衛門尉の直臣也」。「建武元年十月、十三湊武鑑芳名、熊谷甚七郎高成、右は安東一騎当戦の武者にして、祖々代々安東一族の親臣也。右安東総将は有間郡十三郷東日流福島城主安倍五郎康季也」と見ゆ。東日流(つがる)の安倍族なり

 またこのような記述もあり、合わせて記載する。

 古代荒脛(あらはばき)族と称する種族が武蔵国及び奥州に多く居住していた。京都の人々は彼らを蝦夷と蔑称した。足立郡に荒脛社が多くあり、今は氷川社の末社となっている。

 荒脛王阿部氏は熊谷郷に王居を構えていた。阿(くま)族の集落をクマガイと称す。阿族は安部、阿部、熊谷を苗字として奥州太平洋岸に多く居住している。埼玉古墳稲荷山鉄剣銘の被葬者は熊谷郷出身の阿部氏である。熊谷郷は後世の成田村で、此地より荒脛族羊氏の後裔成田氏が発祥する。

 大ノ国(百済)の渡来人を胡(えびす)或は羊(ひつじ)と蔑称し、居住地を大胡、多胡と称した。奥州十和田湖附近に荒脛族の成田、奈良、秋元、安保の一族が多く存し、津軽では成田氏が大姓である。

 武蔵は胸刺(むさし)と書き、胸(むな)は空(むな)でカラ(韓)の意味、刺(さし)は城(さし)で非農民の集まる所を云う。鍛工、石工、木工、織工等を業とした韓人の渡来地を胸刺と称し、本国の名を取って大田庄と称した。田は郡県の意味。海洋民石(いそ)族は石川、石田を苗字とす。上州では磯部と称す。(中略)

 

 この文献では熊谷という地域には元々東北のアラハバキ王の政庁があり、阿部氏と称していたと言う。深谷市榛沢地区、緑ヶ丘にある桜ヶ丘組石遺跡は東北地方の旧石器時代に出土する環状列石(ストーンサークル)のような県内では珍しい配石遺跡があり、加えて幡羅遺跡近郊に鎮座している湯殿神社にも同様の配石遺跡が存在し、東北地方独特の文化がこの熊谷地方にも存在していたのではないかと想像を膨らましてしまうところだ。
 また支配領域も東北一円から関東地方に広範囲だったらしい。確かに常陸国は上古代「日高見国」と呼ばれ、蝦夷国の荒覇吐、荒吐、荒脛巾神を信仰していたという。また日本各地には荒覇吐の神を祀る門客人神社が存在することも事実である。


 興味深い話ではあるが、この記述を万人が納得し、証明する文献、資料はあるだろうか。

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