原島三島神社
『新編武蔵風土記稿 原島村』
三島社 小名今泉の鎭守なり、
稻荷社 前原島の鎭守とす
天王社 窪谷戸の鎭守とす
天神社 以上四社吉祥寺の持、
また当所では年四回の祭りの他にも、仏教行事も盛んで、氏子は、神事・仏事に関わらず、これらを原島の年中行事として意識している。これは、嘗ての別当である吉祥寺との繋がりとも関連しているようだ。
吉祥寺 新義眞言宗、埼玉郡上ノ村一乘院末、天神山觀音院と號す、慶安二年境内觀音堂領として、十石の御朱印を賜ふ、中興の僧を榮快と云、寛文十三年正月二十五日寂す、本尊大日を安ず、本堂の軒に元文二年鑄造の鐘をかく
觀音堂 十一面觀音を安ず、運慶の作なりと云傳ふ、
清龍權現社。天神社
当社の旧別当である吉祥寺は、菅公の末裔澄勝上人により正平八年(一三五三)に開基されたと伝わる名刹で、天神山観音院と号している。その境内にある観音院も名高く、菅公の高徳が十一面観音の誓願に通じる事から、これを本地仏として安置したもので、慶安二年(一六四九)には幕府から観音堂領として一〇石の御朱印状を拝領している。この観音堂の縁日は、一月一八日と八月三〇日の年二回で、法要が行われていて、昔は、参道に灯籠が飾られ、露店も立ち、大いに賑わったという。
七月上旬に行われる疫神除けの行事である百万遍は、今でこそ吉祥寺の境内で一同が集まり、「ナイゾー、ナイゾー」と唱えて大数珠を回すだけとなっているが、かつては一軒一軒土足で上がり込んで疫神を追い払うという、勇壮なものであったという。
・所在地 埼玉県熊谷市原島877
・ご祭神 大山祇命
・社 格 旧原島村今泉鎮守・旧無格社
・例祭等 春祭り(お日待)4月15日 百万遍 七月上旬
夏祭り 7月20日 秋祭り 10月15日
原島三島神社正面
原島八坂神社から一旦東行し、「熊谷市消防本部」の建物がある国道407号線に合流後南方向に400m程進んだ先にある信号のある交差点を左折する。長閑な田畑風景を眺めながら250m程進んだ十字路を右折すると、すぐ右手に原島三島神社が見えてくる。
入口右側に祀られている富士嶽大神等の石碑群 石碑群の右端に祀られている富士稲荷大神
と浅間大神
『日本歴史地名大系 』「原島村」の解説
大里郡忍領に所属(風土記稿)。荒川の沖積扇状地に位置し、南は熊谷宿・石原村。田園簿では田方四〇〇石・畑方一六三石余、旗本鳥居・内藤の二家の相給。元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳によると高五九一石余、旗本鳥井二家と田付家の相給で、ほかに観音堂領(別当吉祥寺)がある。以後、支配は変化なく幕末に至る(改革組合取調書など)。「風土記稿」によると家数八〇、用水は玉井堰を利用。天保一三年(一八四二)の熊谷宿助郷村高覚(「海駅門」熊谷市立図書館蔵)によると助郷勤高二八一石。
参道右側に祀られている龍神とその左隣には大黒天を祀る石碑(甲子)あり。
拝 殿
三島神社 熊谷市原島八七七(原島字三島)
原島は利根川と荒川の間に位置しているが、かつては荒川の流域に含まれていた所であった。このため地下は砂利層で水はけが良く、古くから耕作に適した土地であった。
江戸期の原島は、初め幕府領であったが、正保元年(一六四四)に鳥居・内藤両氏の相給となった。このうち鳥居氏の知行分は寛延元年(一七四八)にその兄弟に分地した。一方、内藤氏の知行分は寛保元年(一七四一)に幕府領となったが、宝暦三年(一七五三)には更に旗本田付氏の知行地となった。こうして宝暦三年以後、原島は三氏の相給となったのである。
『風土記稿』には、小名として窪谷戸・今泉・前原島の三つを載せ、更に神社については「三島社 小名今泉の鎮守なり、稲荷社 前原島の鎮守とす、天王社 窪谷戸の鎮守なり、天神社、以上四社吉祥寺の持」と紹介している。このように小名ごとに鎮守を持っていたことは、当地が三氏の支配となっていたことと深いかかわりがあると考えられる。
当社は同書に見えるように、古くから今泉の鎮守であるが、創建年代については明らかでない。口碑によると、伊豆国一の宮である三嶋大社を勧請したという。祭神は大山祇命で、内陣には三嶋大明神像を安置している。
「埼玉の神社」より引用
社殿右側手前にも築山があり、塚の頂で中央部には「御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神」の石碑が祀られ、他にも「大江神社」「御嶽岩戸神社」「寿昌霊神」「少彦名命・大己貴命・日本武尊」「覚明霊神・普寛霊神・一心霊神・盛心霊神」「天大元五柱神」「摩利支天尊」等が祀られている。
また、「寿昌霊神」の隣に祀られている「清瀧」と彫られた石碑の下部には祓戸四神の名が記されていて、「瀬織津比咩神・気吹戸主神・速佐須良比咩神・速開都比咩神」と彫られている。
境内の一風景
お社の中には、神輿が祀られていて、この神輿は女の神輿で、お社から外に出すと大水が起こるという言い伝えがあるという。
昔お祭りのときは、氏子全員の手によって多数の灯籠が境内と参道に飾り、出店があったりしたが最近はなくなり、往時の華やかさは無くなっているが、現在では当日には集会所でのど自慢が集まり、カラオケ大会を開催し、祭りの余興としているようだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「郷土こぼれ話HP」等