古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

藤木戸諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町藤木戸138
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019日
                  新嘗祭 1211

 上里町藤木地域は、利根川支流の神流川右岸に位置する。「藤木戸」という地名の由来は、地内の観音堂に藤の古木があったためであるという。
 藤木戸諏訪神社はその藤木地域西部に鎮座している。途中までの経路は大御堂浅間神社を参照。大御堂浅間神社から埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線を900m程北上し、「三町」交差点を左折する。その後群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線、通称「下仁田街道」に合流、西進し、1㎞程進んだ先のT字路を右折する。その後進路上右側に長幡小学校が見えるのだが、その学校を過ぎた地点の進行方向に対して左側に が鎮座する場所が見えてくる。
 但しこの通りには社の境内に通じる入口が残念ながらない。長幡小学校を通過する地点に十字路があり、そこを左折し、その後突き当たりを右折すると社の鳥居が見えてくるので、鳥居近くの境内の一角に車を停めて参拝を行った。
        
                                                           藤木戸諏訪神社正面

 鳥居は境内西にあり拝殿の向きに対して直角に位置している。加えて拝殿は南向きで、祭事にたてる上り用の柱は社の正面にあり神橋をはさむ。拝殿に対して正面には鳥居は現在ない。
 鳥居だけ移動したのか、不思議な立ち位置にある社ではある。
 
  鳥居の右側に並んで立っている庚申塚。     鳥居の先に鎮座する境内社
                             厳島神社
       
 厳島神社の隣には同じく境内社・八坂神社が鎮座(写真左)。その隣には秋葉神社(?)が鎮座している。この3社は横に並んで建てられている。
 
 境内社3社の向かい側には案内板が設置されている(写真左)。その境内社の並びに社殿が建っている。神橋の南側が本来の参道となるのだが(同右)、そこには鳥居らしいものはなく、石製の柱があるのみ。

諏訪神社 御由緒  上里町藤木一三八
□御縁起(
歴史)
藤木は、利根川支流の神流川右岸に位置する。地名の由来は、地内の観音堂に藤の古木があったためであるという。当社は村の中央に鎮座し、西隣には真言宗真福寺がある。
『児玉郡誌』には「当社の創立は後花園天皇の御宇長禄年中(一四五七~六〇)当地に一社を勧請して本村の鎮守とす、其後社殿頽破せるを以て天正年間(一五七三~九二)村民協力して再建せりと云ふ、また、明和年間(一七六四~七二)に至り領主松平大和守の崇敬あり、社殿を再興せられたり(以下略)」と載せられている。
また、本殿に奉安する木製の神璽には、「諏訪大明神社頭壹宇 維時文政二己卯(一八一九)仲春廿七日鎮座 藤木・並木・新堀・沖惣氏子中 別当真福寺現住如海代」との墨書が見える。このうち、並木・新堀・沖は現在藤木戸村の小字名となっている。
別当の真福寺は『風土記稿』藤木村の項に「新義真言宗、大御堂村吉祥院末、藤木山不動院と号す、本尊薬師」と載る。同寺は、大永年間(一五二ー~二八)の創建と伝わり、寺内には天文十五年(一五四六)二月十五日銘をもつ逆修五輪塔がある。
当社は、明治初年の神仏分離により真福寺から離れ、村社となった。明治三十九年には、字並木に鎮座する無格杜日宮神社とその境内社である八幡神社と菅原神社を合祀した。
□御祭神 建御名方命…五穀豊穣、厄除、開運
                                      案内板より引用
        
                                      拝 殿
       
           社殿の右側で、道路沿いに立っているご神木

 藤木戸諏訪神社の南側には「楠川(しょうかわ)」という河川が東西に流れている。楠川は、神流川が乱流していたころの支流で、その痕跡は今でも曲流地形として残されている。古代はこうした曲流地形の脇にある自然堤防上に集落を営み、その下に耕作地を作って、開発を進めてきた。藤木戸地区には楠川を分水するための堰が数多くみられるという。
 因みに上里町には、塩川や小川と書いて「しょうかわ」と読む小字名がみられるが、これらはすべて楠川が流れる流域にあって、楠川に由来する地名と考えられている。
        
         社殿の右側に鎮座する境内社。菅原神社・稲荷社・三峯神社

 この諏訪神社の辺りは、字関邸といい、もとは楠川の堰を守る屋敷があったといわれている。今でも、神社の境内には水路があり、楠川(上流)と御陣場川(下流)の分岐点となっている。道路を隔てて諏訪神社の反対側、藤木戸公会堂の脇に「一級河川御陣場川起点」の石碑が建っている。楠川は、御陣場川と名前を変え、ここから下流は県管理の一級河川となっている。
 因みに御陣場という地名は、滝川一益と北条氏直とが戦った神流川合戦の際に北条方が陣を敷いたところといわれている。
        
                                「楠川」の流れ 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉県北部地域振興センター本庄事務所HP」等 

                

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三町諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町三町720
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祭 43日(近くの日曜日) 秋祭 1019日(近くの日曜日)
                  新嘗祭 1123日

 上里町三町地域は大御堂地域の北側に位置し、三町の地名由来としては、江戸時代、藤岡道沿いにつくられた安保町、長浜町、横町の三つの町場が、明治9年に合併して三町村(みまちむら)になったことに由来する。
 途中までの経路は大御堂浅間神社を参照。大御堂浅間神社から埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線を900m程北上し、「三町」交差点をそのまま直進。その後最初のY字路を左斜め方向に進み、すぐ先の細い十字路を左方向に曲がると、その奥に三町諏訪神社の広い境内に到着する。
 境内入口右側には社務所があり、駐車可能な広い空間もあるので、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                
三町諏訪神社正面
 
    鳥居の手前に石碑等が並び、       鳥居を過ぎてすぐ左側に御嶽山神等
 参拝客をお招きしているような配置である。      石神が並ぶ塚あり。
        
          お日様の陽光をたっぷりと浴びた明るい社という印象。
            境内は広く、日々の手入れも行き届いている。

 社殿の左側に休憩所である東屋が設置されており、公園のように整備されている。この地の方々には憩いの場となっているようだ。
        
                      参道左側に設置されている「
三町水道記念碑」

 三町水道記念碑
 当三町地区は地質的に地下水が非常に深くその水は冬は暖かく夏は冷たい美味良水として古くから定評がありました。特産だった西瓜を井戸の中に入れて冷却しての賞味は正に天然のめぐみでもあった。
 しかしそれと引き換えにこの水源の確保としての、深井戸の掘削には多額の経済的負担を余儀なくされる土地柄でもありました。如何せん、全戸とはいかず昭和三十年代には三町全体で約十数基しかなかった。一日も欠かせぬ生活用水のすべてを『貰い水』として賄う家庭が大半であった。
 文字どうり『井戸端会議』として温もりのある隣人交流もあったが、水の運搬と尚もその不足分を近くを流れる農業用水を利用して補う労力ば苦行であった。こうした窮状を速やかに打開し、全戸給水、水道設置は、三町全区民の悲願でもありました。
 昭和三十九年その気運が盛り上がリ三町簡易水道組合が結成され、当地内を水源として鑿泉工事に着手した。そして、昭和四十二年五月三日念願の工事が完成し、給水を開始した。昭和四十三年には隣地の大御堂地区より、こうした順調な運営情況に合わせて組合加入の申し込みがあり、ここに三町・大御堂水道組合「初代組合長・村島富三郎」が発足した。「第二代組合長・関本岩蔵」以後、三十年間、歴代組合長三代、全組合戸数九百三十一戸、一致協力して廉価による水資源供給を維持し発展してきました。やがて時代の変遷と、全町公営化に伴い、平成八年、三町・大御堂水道組合は発展的解消をした。
 さらに一歩進して大きな視野に立ち、現在の地球環境の変化と万が一の災害を想定する時、この水源の重要さを痛感します。平素は水辺公園の憩いの水として目を楽しませ、一旦危急の場合水栓の変換操作により、直ちに各家庭に直結し援水装置となる当鑿泉は不滅の宝として温存すべき最大の所以である。
願わくば、この趣旨が末永く理解されこの朽ちる事のない水源の泉のごとく後世に受け継がれるよう念願します。ここに往時の役員名を刻み関係各位のご協力に敬意を表しながら、これを記念してこの碑を建立するものである。
平成十四年十二月吉日 三町水道組合長 渋澤栄一撰文
                                     境内碑文より引用
        
                                   拝 殿
        
                拝殿手前左側にある案内板

 諏訪神社 上里町大字三町字諏訪裏七二〇
 □由緒
 江幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』安保町の項に「諏訪社 當所及び長濱町・横町村等の鎮守なり、末社 八幡 稲荷 別当宮本坊 當山修験、大御堂村寶蔵寺配下、開山本行坊萬治四年四月示寂、本尊不動を安ぜり」と載っている。当社は旧横町・安保町・長浜町の三か村の鎮守として祀られてきた。
 また、『神社明細帳』には、「創立年月不詳と云えども一度回禄(火災)の災いに罹りのち、安永四年村民協力して再建す」と記されている。しかし、 社殿の竣工は四年後のことらしく、棟札には安永八年(一七七九)の年銘がある。当社の祭祀は江時代は「風土記稿」に載る別当宮本坊が代々務めてきたが、明治初年の神仏分離により、当社から離れた。
 明治五年村社となり、同四十二年に字寺東の稲荷神社と字寺西の社天王社を境内に遷し祀った。社殿は覆屋の中に本殿が祀られ、昭和五年新築の拝殿と幣殿で結ばれている。
 当地の獅子舞は「判官流一人立連舞獅子」といい、貞享二年(一六八五)に獅子頭を作ったことに始まるという。現在使われている獅子頭は明和七年 (一七七〇)に新調したものである。大正期から途絶えていたが、昭和三十二年に復活。同五十五年埼玉県知事より「文化ともしび賞」を授与された。現在は獅子舞保存会により継承され、奉納されている。境内には、古くから土俵が築かれ相撲の奉納が続いている。
 □御祭神 建御名方命
 □御神徳 地域の繁栄と人々の守護 五穀豊穣、厄除、開運
                                      案内板より引用
 
 社殿左側に鎮座する境内社・石祠群(写真左)。左から順に
神明・今宮・社日・八坂・秋葉の各社。また社殿右側には同じく境内社・石祠として、左側より菅原神社・稲荷神社が鎮座する(同右)。
       
                          境内に聳え立つご神木

 三町諏訪神社で毎年10月に開催される「秋の大祭」で子供相撲と共に奉納される伝統行事で、貞享年間に作られたとされる獅子頭が伝えられており、古くから雨ごいや地域の繁栄を祈って行われてきたという。
○諏訪神社獅子舞
・管理者 三町諏訪神社獅子舞保存会
・指定日 昭和37222日 上里町無形文化財
・貞享2(1685)銘の獅子頭


参考資料「新編武蔵風土記稿」「上里町公式HP」
                       

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大御堂三嶋神社及び大御堂浅間神社

大御堂三嶋神社】
        
            
・所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂1131
            ・ご祭神 事代主命 ・大山祇命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019
                 新嘗祭 1211

 上里町大御堂地域は町南端に位置し、児玉町の真北にある。筆者は熊谷市西端に居住している為、児玉町方向に向かう際には、ほぼ埼玉県道75号熊谷児玉線を使用する。今回も同県道のルートで児玉町方向に進み、「大天白」交差点を右折、国道254号線合流後は道なりに神川町方向でJR八高線に沿って進路をとる。その後4㎞進んだ「元阿保」交差点を右折し、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を上里町市街地方向に進む。静かな田園風景が周辺一帯広がる中、1㎞程先に「児玉三十三霊場 吉祥院」の看板が見え、そのすぐ左側に大御堂三嶋神社が静かに鎮座している。後日地図を確認すると社の鎮座地は大御堂地域の集落西端にあたるようだ。

 駐車スペースは広く確保されている。境内に「西大御堂集落農業センター」があり、一旦社を通過し、すぐ先の十字路を左折するとすぐ左側に社の境内入口があるので、集落農業センター近くの一角に車を停めてから参拝を行う。
        
              県道沿いに鎮座する大御堂三嶋神社

 大御堂地域にある吉祥院は大同元年(八〇六)の創建と伝える真言宗の古刹で、武蔵七党の丹党に属した有力武将安保実光が再興したといわれている安保氏の氏寺で、中世の館跡といわれており、周りには堀があって、土塁の一部も残っている。
 古くから阿弥陀堂・薬師堂・大師堂・十王堂・大黒堂・経蔵・二天門等を完備し、特に阿弥陀堂は『新編武蔵風土記稿』に「村内吉祥院の境内に立る阿弥陀堂、古へ大伽藍なりし頃、大御堂と呼しより村名にもおはせしと云伝ふ」と村名の由来になったことが記されている。

             
                     社号標柱
        
                                      鳥居を過ぎてすぐ参道左側に設置されている案内板

 三嶋神社 御由緒
 □御縁起(歴史)  上里町大御堂一一三一一
 当社は、西大御堂集落の西端の字三島西に鎮座する。祭神は、事代主命・大山祇命の二柱で、境内の欅や杉などの木々が、鎮守の杜にふさわしい景観をなしている。
 当社の創建年代は明らかでないが、吉祥院の境内にあったものを明治初年の神仏分離に際して現在地に移転したという。吉祥院は大同元年(八〇六)の創建と伝える真言宗の古刹で、阿保山真光寺と号し、開基は小野氏で、後に安保城主安保肥前守忠実が中興したと伝える。
古くから阿弥陀堂・薬師堂・大師堂・十王堂・大黒堂・経蔵・二天門等を完備し、特に阿弥陀堂は『風土記稿』に「村内吉祥院の境内に立る阿弥陀堂、古へ大伽藍なりし頃、大御堂と呼しより村名にもおはせしと云伝ふ」と村名の由来になったことが記されている。更に、同書の大里郡久下村(現熊谷市)の項などによると、同村東竹院の嘉禄三年(一二二七)五月日の年紀をもつ鐘銘に「奉鋳 武州賀美郡阿部村真光寺鐘右志者為信心大壇那小野氏沙弥妙阿弥陀仏」とあり、この鐘は戦国期に軍勢により奪取され、のち久下村で掘り出されたものという。この吉祥院の創建の古さから推して、その境内に村の鎮守として祀られていた当社も同様に古い勧請をうかがわせる。
 明治三年に覆屋を再建し、同五年に村社となり、大正四年には御即位記念として拝殿を新築し、昭和二年には社務所を新築した。
 □御祭神 事代主命・大山祇命
                                      案内板より引用

        
          広く静かな境内である。その先には大御堂三嶋神社が鎮座している。
       
                           境内に聳え立つご神木
        
                                    拝殿覆堂
 
   社殿左側に鎮座する石祠、石碑等。       社殿右側にも多くの石祠等が鎮座。

 大御堂三嶋神社が鎮座する大御堂地域は、地形上本庄台地に属する。この本庄台地は北武蔵台地を構成する台地群の一つであり、他には児玉丘陵、櫛挽台地、松久丘陵、江南台地も含まれ、今から約3万年前に神流川によって運ばれた土砂が堆積(たいせき)した後に浅間山などから噴出された火山灰が積もってつくられたと考えられている。
 この北武蔵台地一帯は渡来人による文化伝承も早く、利根川を挟んで毛国とも接している地域からか、重要な古墳や城が多い地域であり、また緑泥片岩の産地(長瀞・小川)が近い為、県内の殆んどの板碑がここに集中して存在している。



大御堂浅間神社】
        
             ・所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂736
             ・ご祭神 木花開耶毘賣命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019日
                  新嘗祭 1111日

 大御堂地区にはもう一社、旧村社が存在する。三島神社が鎮座する十字路を東側に進み、埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線と交差する信号のある十字路を右折する。250m程南下すると左側に大御堂浅間神社が左側に見えてくる。
        
                                           大御堂浅間神社正面
        
                                       鳥居の左側に案内板あり
 浅間神社御由緒   上里町大御堂七三六
 □御縁起(歴史)
 大御堂は、神流川右岸の洪積台地に位置し、地名は地内の吉祥院真光寺がかつては大伽藍で、境内に建つ阿弥陀堂が「大御堂」と呼ばれていたことに由来する。
 当社は、塚の上に奥宮、その東麓に本社をそれぞれ祀っている。その創建の年代は明らかでないが、『風土記稿』大御堂村の項を見ると、宝蔵寺の境内社として「浅間社」と見える。宝蔵寺は京都醍醐三宝院末の真言宗の寺院で、富士山威徳院と号し、当山派修験を兼帯して近郷三十余ヶ寺を支配したとされる。開山は不詳であるが、開基は八幡山城主松平玄蕃頭清宗で、中興開山は寛永十二年(一六三五)一月に入寂した法印盛胤である。富士山の山号から推して、当社の勧請は宝蔵寺の草創からさほど下らない時期に行われ、遅くとも中興開山の盛胤の代には既に祀られていたものであろう。
 神仏分離を経て、当社は明治五年に村社となった。更に、大正五年には字雷電林にあった雷電神社を合祀した。この時、雷電神社の本殿が壮厳な造りであったことから同社の社殿一切を塚の東麓に移築して当社の新たな社殿とし、従来の塚上の本殿は奥宮と改称した。
 この社殿の移築に際しては、横に並べた二台の大八車の上に載せて、挟い農道を運ばなければならなかったため、大八車の車輪を補強したり、農道を補修したりと大変な苦労であったという。
 □御祭神 木花開耶毘賣命…安産・子育て
                                      案内板より引用
 
 
          拝 殿                 拝殿の右側には塚があり、
                          その墳頂に奥宮が鎮座している。
 
 元々は14m程の古墳であったが、江戸時代に富士山を信仰する富士浅間講の富士塚として現在の形に改められたという。頂上には浅間神社奥宮が鎮座しているが、ここが上里町でもっとも標高が高い地点でもある。
 
 道路を挟んで西側には「不二山宝蔵寺」があり、『新編武蔵風土記稿』大御堂村の項を見ると、宝蔵寺の境内社として「浅間社」と見える。塚の中腹に鐘楼(写真左)があるのはその名残りであろう。また拝殿手前、右側には境内社が鎮座する(同右)。
       
        拝殿左側には社号標柱が立つ。    拝殿左側奥にも境内社・石祠等が見える。
       
                社号標柱近くに聳え立つご神木

            

 県道西側には宝蔵寺があり、道路沿いには町指定文化財である「マキの大木」が聳え立つ。宝蔵寺管理。樹齢は約800年と推定。昭和37222日指定。
 今でも幹回り5m程、高さ14m程の大木だが、昔はもっと大きかったという。そのため、戦争中、児玉飛行場の飛行機の発着に支障をきたすということで、上部を切って短くしたという経緯がある。木の下には、槇木大明神の碑が建てられている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
上里町公式HP」「埼玉県北部地域振興センター本庄事務所HP」等
         

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勅使河原丹生神社

 勅使河原氏は武蔵七党の一派丹党の出で、秩父丹五基房の嫡男直時が1075年頃、武蔵国賀美郡勅旨河原に本拠地を置き、勅使河原という地名を家号として称したのが始まりという。この勅使河原氏は四字の苗字では日本一に多く、日本全国に3,000人いると推定されているが、そのルーツはこの武蔵国賀美郡(現埼玉県児玉郡域内)勅使河原とのことだ。
所在地   埼玉県児玉郡上里町勅使河原1368
御祭神   埴山姫命
社  挌   旧村社
例  祭   大祓 7月13日  秋祭り 10月20日   

       
 勅使河原丹生神社は国道17号線を金久保地区から西方向に進み、勅使河原交差点を左折し、関越自動車道を抜けると西側に約200m程の場所に鎮座している。この勅使河原地区はすぐ西側に神流川が流れ、まさに武蔵国と上野国の境に位置する地域で、現在は閑散とした田園風景が続く地域だ。
           

                      勅使河原丹生神社正面の一の鳥居
 この社の創建時期について『明細帳』は「古老の口碑」として、応永年間(1394年~1427年)に神流川の辺に創立されたが、その後、出水で社地が流出したため、永禄二年(1559年)に現在の所に遷座したと伝える。ちなみにこの応永年間は日本の元号の中で、昭和、明治に続いて3番目に長い元号で(35年間)、一世一元の制導入以前では最長と言われている。
           
                            神      門

   「正一位丹生大明神」と記された神門の扁額     神門上部には未だ色彩鮮やかな彩色が残り、
                                         彫刻も見事に施されている。
           
                   神門天井部にも鮮やかな絵が残されている。
           
                        神門の手前右側にある案内板

丹生神社  御由緒
御縁起(歴史)    上里町勅使河原一三六八
 勅使河原は、武蔵七党の丹党に属した勅使河原氏の名字とされる。丹党系図によれば、丹党の祖とされる武信から七代目の子息武時が勅使河原氏を称しており、また、長野勅使河原系図にも、承保二年(一〇七五年)四月二日に「ト地同国賀美郡勅使河原邑移居、則以地名為家号」とあることから、平安時代末期には勅使河原氏がこの地に住していたことがわかる。当社は勅使河原の鎮守である。
 当社の創建について、「明細帳」は「古老の口碑」として、応永年間(一三九四-一四二六)に神流川の辺に創立されたが、その後、出水で社地が流出したため、永禄二年(一五五九)に現在の所に遷座したと伝える。一方、『児玉郡誌』も同様の話を載せているが、創立は大永年間(一五二一-二八)、遷座は永禄二年と、創建の年代が異なる。しかし、『風土記稿』勅使河原村の項に「丹生社 村の鎮守なり、昔は神流川辺にありしが、川欠にて元禄年中(一六八八-一七〇四)今の地へ移せり」と載り、当社も元禄十六年(一七〇三)の年紀のある幣束が現存することから、遷座の時期は元禄年間と思われる。
明治に至り、神仏分離が行われるまで、当社の西隣にあった当山派修験の文殊院が別当として当社の祭祀を行ってきた。大正年間まで神職を務めていた下山家はその末裔で、現在は神社の祭祀とは直接かかわりはないが、今も神葬祭を続けている。(以下中略)
                                                          案内板より引用
           
                   平成24年春の改修竣工で新しくなった社殿。

          社殿改修の記念碑                         拝殿内部
        
                          社殿の手前にある御神木
 しかしこの「勅使河原」という地名は考えてみると不思議で、何故に「勅使」という言語の入った地名が存在するのだろうか。11世紀中ごろには、秩父丹五基房の嫡男直時がこの地名を家号にしたというのだから、「勅使河原」という地名は1075年よりも遥か以前に存在していたことになる。通説では勅使田のあった河原が語源であり、東日本により多く存在していて、勅使によって開発された田で、多くは皇室の諸費用にあてられたらしいが、それならば東日本広域でも、もう少し、より多く、その地名があっても不思議ではないと思われるのだが。

                          社殿の近くにある境内社

        神門の東側にある神楽殿          神楽殿の近くにも多くの境内社が祀られている。


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金窪八幡神社

  神流川合戦は、天正10年(1582)6月18・19日の両日にわたって、武蔵及び上野国境の神流川を舞台としておこなわれた、上野厩橋城主滝川一益と武蔵鉢形城主北条氏邦・小田原城主北条氏直との戦いで、別名「金窪原の戦い」ともいわれる。
 そもそもこの戦いの原因は6月2日未明、滝川一益が仕えた織田信長が、一益の同僚でもある明智光秀によって殺害された本能寺の変で、6月9日早飛脚によってこの報を聞いた滝川一益は、逆賊明智光秀を討つため、いち早く本国伊勢にとって帰ろうとしただけであり、同盟国であったはずの関東小田原後北條氏とは戦うつもりはなかったろう。つまりこの戦いの主導権は最初から後北條氏側にあり、関東覇権の野心をひた隠し、表面上は信長側と同盟しただけの後北條氏側にとって信長の死はまさに「時は今」の状況下であったことだろう。
 この神流川の戦いの主要舞台となった地が上里町金久保地域周辺と言われていて、時は真夏、河川以外の障害物がない平原での大激闘であったという。
所在地    埼玉県児玉郡上里町金久保1052
御祭神    誉田別命
社  挌    旧村社
例  祭    3月15日 祈年祭  7月18日 例大祭     

        
 金窪八幡神社は国道17号線を上里町方向に進み、神保原(北)交差点のY字路を右側に進む。この道路は旧中山道で、現在埼玉県道392号勅使河原本庄線という名であり、そのまま直進すると約1km位で右側に金窪八幡神社が鎮座している。道路沿いで、一の鳥居の手前周辺には比較的広い駐車スペースが確保されていて、そこに車を停めて参拝を行った。
            
              道路沿いにある「金窪之郷 八幡神社」と刻まれた社号標石
            
                   社号標石の前にある金窪八幡神社の案内板
 金窪八幡神社はは大永五年(1525年)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運長久の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正十年(1582年)の神流川の合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。

          金窪八幡神社境内                         案内板

金窪神社 御由緒    
御縁起  上里町金久保1511-八

 神流川と烏川が合流する金久保は「金窪」とも書き、その地内には秩父郡の土豪で、南北朝時代に新田義貞と共に転戦した畑時能の居城である金窪城があったことで知られる。金窪城は戦国時代には小田原北条氏の勢力の北限の守りとして、天正十八年(一五九〇)に德川氏の支配下に入るまで氏邦の臣の斉藤氏の居城であった。
 『明細帳』によれば、当社は大永五年(一五二五)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運長久の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正十年(一五八二)の神流川の合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。更に口碑によれば、元和年間(一六一五~二四)に中山道の開通により現在地に遷座したと伝えられ、金窪城跡の三〇〇㍍ほどの東にある旧地は「元八幡」と呼ばれている。
 江戸時代には天台宗の長命寺が別当であったが、神仏分離によってその管理を離れ、明治五年に村社になった。ちなみに、長命寺は廃寺になり、今では堂の痕跡はないが、当社のすぐ北東にあったという。その後明治四十一年に字松原の無各社菅根神社を境内に移転し、続いて同四十四年には字西金の村社丹生神社、その境内社三社、大字内の無各社七社の計一一社を合祀した。これは政府の合祀政策に従ったものであり、合祀を機に当社は八幡神社の社号を金窪神社と改めた。
                                                          案内板より引用
         

           
                             拝      殿
                
                     拝殿の左側手前にある銀杏の御神木
             
           
                             本      殿
 この金窪(金久保)地区は案内板の説明にもあったように、神流川と烏川の合流地点のすぐ南側に位置し、この地名通り「窪地」であったのだろう。この二つの河川の乱流河道の中に取り残された低地の中にある微高地の一角に金窪八幡神社は鎮座している。
 金窪八幡神社の近隣には金窪城が嘗て存在していた(その遺構は埼玉県指定史跡)。今はその城址には石碑がある程度で、わずかに土塁が残っているだけだが、その歴史を見ると、治承年間(1177~81)に武蔵七党の丹党に属した加治家季によって築かれたとされているというので、かなり古くまで遡るらしい。

 この加治氏は、秩父から飯能にかけて活動した武蔵七党の丹党の一派で、平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称している。丹党の秩父五郎基房(丹基房)の嫡子直時が勅使河原氏、綱房は新里氏、成房は榛原氏、重光は小島氏、そして経家の子の家季が加治氏を称したとされる。
 加治氏は飯能市から秩父地域にかけて活動した武士団で、拠点は飯能市付近と言われているが、金窪城の案内板を見る限りではこの金久保地域にも加治氏が存在していた痕跡が見られることから、加治氏の一派がこの地域を治めていたことは確かなようだ。
 ところで丹党の「丹」は、朱砂(辰砂・朱色の硫化水銀)とも言われ、水銀の採掘に携わる一族とも言われている。上里町と神川町の西側には神流川が流れているが、この神流川の「神流」の語源は「鉄穴」にあるといわれているし、武蔵二ノ宮の金鑚神社は延長5年に編集された「延喜式神名帳」では「金佐奈神社 名神大」と記載され、「金佐奈(かなさな)」の語源は「金砂」にあると考えられているように、採鉱・製鉄集団によって祀られたのが当社の実際の創祀と見られ、古代のある時期、この地域と製鉄業との関係は根深い所で結ばれていたと思われる。
           
                           社殿奥にある境内社

 もしかしたらこの「加治氏」も嘗ては文字通り「鍛冶氏」だったのではなかろうか。また金窪八幡神社の「金」も金属加工を意味するとも考えられる。丹党は武蔵七党の一派として、秩父地域から賀美郡、また飯能市地域にわたって繁栄した一族でもあり、その先祖は第28代宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔と言われているが、史書上に掲載されている系図の記載内容が史実と矛盾することも多く指摘されていて、実は多くの謎を秘めた一族でもある。宣化天皇の御名代の一つ檜前舎人の伴造家であった檜前一族がその祖ではないかという説もあり、実際賀美郡には檜前一族が存在していたことは、古文書等にも記載されている。
           
           参道の右側には社務所があり、そこの一角には鬼瓦が展示されている。

 前出の神流川の戦いはかなり広範囲で戦われたようで、この戦いによりかなりの社が戦火の被害にあい、焼失し古文書等が失われている。古文書等には当時の人々の歴史や文化を考察する重要な資料の一つでもあり、非常に残念な思いだ。

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