鷲宮神社
伝承では紀元前148年から紀元前29年頃に設立したとされ、一般的に関東最古の神社とされている。ただし『延喜式神名帳』や『国史』に記載がなく、現存する資料では1251年(建長3年)に北条時頼が奉幣祈願したことが『吾妻鏡』に記述されているのが最初である。残されている文化財もそのころのものが最古である。
最近では、アニメ「らき☆すた」の神社モデルとされ、絵馬などが用意され、当地の町興しに多大なる影響を与えているそうだ。
所在地 埼玉県久喜市鷲宮1丁目6番1号
主祭神 天穂日命(武蔵国造の祖),武夷鳥命(天穂日命の御子神)
大己貴命(大国主命、出雲族の神)
社 格 准勅祭社、県社、別表神社
社 紋 三つ巴
例 祭 三月二十八日
特殊事等 十二月初酉の日 大酉祭

鷲宮神社は東武伊勢崎線鷲宮駅から徒歩5分に鎮座している。ちなみに地名はわしみやだが神社名はわしのみやと言う。かつては鷲大明神〔わしのだいみょうじん〕、浮き島大明神ともよばれた。中世の資料には「鷲宮〔わしのみや〕」と表記されることが多く、『新編武蔵風土記稿』には「鷲明神社〔わしのみょうじんしゃ〕」とある。
鷲宮神社入口の鳥居
社伝によれば、神代の昔、天穂日命が東国を経営するために、武蔵国に到着し、天穂日の供の出雲族27部族と地元の部族が当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まる、と伝えている。その後日本武尊が東国を平定した際、別宮を建てて天穂日命とその子神武夷鳥命を祀ったという。現在の本殿はその別宮にあたる。崇神天皇の御代には、太田々根子命が司祭し、豊城入彦命、彦狭島命、御諸別王が、それぞれ幣帛を奉納した。景行天皇の御代には日本武尊〔やまとたけるのみこと〕が社殿を造営し、桓武天皇の御代には坂上田村麻呂〔さかのうえのたむらまろ〕が武運長久を祈り、奥州鷲の巣に当社の分社を祀ったと伝える。
ただし、その社伝の言い伝えは「延喜式神名帳」、日本書紀等の「国史」には記載がなく当社が初めて登場する文献は「吾妻鏡」で13世紀中旬に当たる。
境内には縄文から古墳時代にかけての複合遺跡である「鷲宮堀内遺跡」もあり、縄文時代の住居跡や土器などが沢山発掘されている。大昔からここに神を祀っていたのだろう。歴史ある神社には遺跡がある場合が多い。
「土師一流催場神楽」(はじいちりゅうさいばかぐら、国指定重要無形文化財)
「土師一流催場神楽」は関東神楽の源流とも言われていて、この神楽は鎌倉時代の史書「吾妻鏡」に、建長3年(1251年)4月に鷺宮神社で神楽が行われた、との記載がある。江戸時代の享保以前には三十六座の曲目があったが、それを時の大宮司であった藤原国久によって、現在の十二座の曲目に再編成されたとされる。実際は、十二座の曲目以外に、外一座と番外一座、それに端神楽も演じられる。
鷲宮神社拝殿
中世以降には、関東の総社また関東鎮護の神として、武将の尊崇が厚く、歴史上有利な武将だけでも 藤原秀郷・源義家・源頼朝・源義経・北条時頼・北条貞時・新田義貞・小山義政・足利氏歴代・古河公方・関東管領上杉氏歴代・武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康等があげられ、武運長久等を祈る幣帛の奉納や神領の寄進、社殿の造営等がなされた。
なかでも江戸時代には、四百石の神領を与えられ、代々の将軍の名で朱印状が残されている。ちなみのこの鷲宮神社の社格の高さを表すものとしては、武蔵国内においては大國魂神社の五百石に次ぐ、2番目の規模という。
鷲宮神社本殿(右側 祭神 天穂日命・武夷鳥命)
別宮神崎神社本殿(左側 祭神 大己貴命)
鷲宮神社は埼玉郡内に鎮座する古社であり、また縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡である「鷲宮堀内遺跡」もあり、縄文時代の住居跡や土器などが沢山発掘されているように、決して未開の地ではない。にも関わらず10世紀初頭に編集された延喜式内社には名前はない。式内社は、延喜式がまとめられた10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定には政治色が強く反映されていると思われる。
その一方当時すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)というが、この鷲宮神社はそれすら明記されていない。どういうことだろうか。