古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

関根神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市関根365
              
・ご祭神 (主)倉稲魂命
                   
(相)菊理姫命 伊弉諾命 伊弉冉命 大山咋命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 例祭日 415
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1236202,139.5202394,16z?entry=ttu

 行田市関根地域は同市東端部に位置し、西側は行田市小針、北側は真名板両地域、東で加須市阿良川・外田ヶ谷、南で鴻巣市赤城・北根・広田(飛地)に接する。おおむね見沼代用水の左岸にあたり、北端を埼玉県道32号鴻巣羽生線が東側を縦断する。地内は主に水田などの農地となっている。
 途中経路は小針日枝神社を参照。『古代蓮の里公園』と行田市東部給水場との「古代蓮の里」交差点を左折して暫く東行し、見沼大用水に架かる「さわやか橋」を越えて、更に250m進むと、信号のない交差点を右折する。そこから900m程南東方向に進むと、右側に「関根農村センター」が見え、その西側隣に関根神社は鎮座している。
 関根農村センター前には数台駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を開始した。寒風が吹く時期側には珍しく、雲ひとつ見えないぐらいの晴天の中、穏やかな気持ちで参拝に臨めた。
 
   関根農村センターの傍にある社号標柱             関根神社正面鳥居
 正直言うと距離的には鴻巣市赤城地域に鎮座する赤城神社の方がはるかに近く、直線距離でも360m程しか離れていないが、そこから関根神社までのルートを説明するのが難しく、大きく東側から北方向に大きく迂回するルートとなる為、距離的には遠くなるが、古代蓮の里公園北側に鎮座する小針日枝神社を出発地点として説明した。
        
               見沼代用水の左岸に鎮座する社 
 見沼代用水(みぬまだいようすい)は、江戸時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために、武蔵国に普請した灌漑農業用水のことである。名前の通り、灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用水路であった。
 見沼代用水は利根川から取水していて、行田市下中条にある利根大堰で利根川の流れを堰止とめ、そこから決められた量を守り取水し、東縁代用水路は東京都足立区、西縁見沼代用水路は埼玉県川口市に至る。
 埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている。疏水百選にも選定され、かんがい施設遺産に登録されている。

       参道途中に祀られている弁財天     参道を挟んで関根集落センター側に祀られて
                         いる金毘羅大権現及び仙元神社。
   弁財天、金毘羅は水にかかわる信仰であり、この地に祀られている事にも納得できよう。
       
                     拝 殿
 鎮座地関根は利根川から水を引いて、県南部の農地を潤す見沼代用水の北岸に開けた所で、地名は用水の「堰」に由来しているという。
 関根神社は見沼大用水と旧忍川との合流地点付近にあり、用水堤脇、耕作地を一望する新田の地に鎮座している。この社は嘗て稲荷社と呼ばれ倉稲魂命を祀り、境内社として天王社を祀っていた。明治40年字野中の村社日枝神社・無格社白山神社を本殿に合祀し、更に天神社、塞神社、道祖神社、厳島社、姫宮社、金刀比羅社を境内末社として合祀し社号を関根神社と改めたという。
*「行田八幡神社・兼務する神社」参照
        
                     本 殿
            境内から抜けて、用水の土手沿いから撮影

 社殿右側には境内社が三基祀られている。上記「行田八幡神社・兼務する神社」によれば、「明治40年字野中の村社日枝神社・無格社白山神社を本殿に合祀し、更に天神社、塞神社、道祖神社、厳島社、姫宮社、金刀比羅社を境内末社として合祀」と記載されているので、本殿に合祀している二柱(日枝・白山神社)、及び既に紹介した金刀比羅社以外の社(塞神社、道祖神社、厳島社、姫宮社)という事になる。但し境内社には何も表記されていないので、詳細は不明である。
  
       
                               関根神社 社殿からの眺め
 

参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田八幡神社HP」
    「Wikipedia」等
 

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酒巻八幡神社


        
               
・所在地 埼玉県行田市酒巻2038
               ・ご祭神 誉田別命
               
・社 格 旧酒巻村鎮守 旧村社
               ・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1847204,139.4546514,17z?entry=ttu

 行田市酒巻地域は、同市北部・利根川と福川の合流点に位置する。『新編武蔵風土記稿』には「当村固より利根川に傍ひ、北より東へ折れる隅にある村にて、福川落合ひの所なれば、水さかまく故酒巻と云ふ、假仮して書しならんと云」「水勢さかまくさま、近郷又なき地なり」と記載され、地域名由来として、利根川と福川の合流で逆巻いた場所よりくるといい、土地柄河川に関連した地名といえる。
 途中までの経路は斎条劔神社を参照。斎条劔神社に接している南北に通じる埼玉県道199号行田市停車場酒巻線を700m程北方向に進むと、同県道59号羽生妻沼線との交点である「斎条」交差点に到着する。この交差点を直行すると利根川河川敷に達し、その河川敷沿いのほぼ正面に酒巻八幡神社は鎮座している。
 尚、社の敷地内に駐車スペースはあるので、駐車場探しをする苦労がないのは、本当に助かる。
        
            利根川右岸の堤下に鎮座している酒巻八幡神社
『日本歴史地名大系』での「酒巻村」の解説によれば、北は利根川・福川の合流点にあたり、東は斎条村・下中条(しもちゆうじよう)村に接し、南は南河原・犬塚(現南河原村)両村に続く。この地域は関東造盆運動による地盤沈下がひどく、利根川氾濫による堆積作用とあいまって、水田下に二〇基に及ぶ古墳が確認され、酒巻古墳群と称される。
 天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に譜代侍酒巻靱負(永五〇〇貫文)ほか二名の酒巻姓の武士の名が載っている。同一三年、北条家が長尾顕長に発給した正月一四日の印判状(長尾文書)に「さかまき」とみえ、対岸上野国赤岩(現群馬県千代田町)との間に渡船があった。古代には幡羅郡に含まれたとする説もあるそうだ。
        
                綺麗に整備されている境内
 嘗て酒巻村には、江戸時代を通じて「酒巻河岸」があり、江戸への川道三二里、主として米の積み出しが行なわれていた。この「酒巻河岸」とは、利根川右岸の河岸。元禄三年(一六九〇)の関東八ヶ国所々御城米運賃改帳(千葉県伊能家文書)に「酒巻川岸」として江戸へ川道三二里、運賃三分一厘と載り、忍藩阿部家の手船が時期により一ないし数艘この河岸にあった(正田家文書)。
 また文政元年(一八一八)上流の幡羅(はら)郡葛和田(くずわだ)河岸(現妻沼町)が熊谷宿の商人荷物を忌避した時、阿部家手船は上野国館林藩の手船とともに商荷の運送に助力を請われている。
        
                     拝 殿
 八幡神社(酒巻)
 総合福祉会館の近くに鎮座しており、江戸時代の初期慶長十三年に社殿を再建したといいます。
 祭神は名前の通り八幡明神ですが、本殿には僧形八幡坐像が祭られています。この像は二七センチほどの高さの木像で、袈裟をかけた僧侶の姿を写実的に描いた像です。像の膝裏には宝永三年(一七〇六)に造られたことが墨画きされています。
 神社に僧侶の姿の像というのは異質なものに見えますが、人々を救うために仏が神となって姿を現した形を表現したもので、本地垂迹説の思想から造られた像であるといわれます。
 神社のある酒巻村には、江戸時代酒巻河岸があり、江戸への川道三二里、主として米の積み出しが行なわれました。
 忍城主阿部家の時代には、阿部家のもつ手船があり、この手船頭を正田家が勤め年に二万四千俵の廻米を江戸に送ったといいます。文政六年に阿部家に代わって忍城主となった松平家はこの手船を廃止し、酒巻村名主中村家を廻米御用船世話役に任命し領内の村々の蔵から江戸屋敷まで年貢米の運送を担当させたといいます。
 明治になり東京に移住する松平忠敬旧藩主を藩士一同涙して見送りしたのもこの酒巻河岸でした。
                                  『行田の神々』より引用

        
               拝殿の左側に祀られている境内社
 2012112日に公開された「のぼうの城」のメインキャストの一人に「酒巻 靱負(さかまき ゆきえ)」が登場した。この人物の出身地はこの酒巻地域と言われていて、「埼玉県史」によれば酒巻家は元々土着の有力者で、成田親泰(氏長の祖父)の代に成田家に従ったとされる。酒巻姓を名乗る前は金田姓であったとも伝えられる。
 酒巻靭負は文献によって名前の表記に違いがあり、「成田分限帳」では酒巻靭負助、「行田市譚」では酒巻靭負之助詮稠(あきちか)・酒巻靭負・酒巻靭負之助・酒巻靭負允と一つの文献の中でいくつもの表記が見られる。だが、同一人物であるのは確かなようだ。
 酒巻家に伝わる家系図にも諱(いみな)は伝わっていないという。また氏長の父親である長泰の代から酒巻靭負の名が資料に出てくることから、靭負は官職名である為、親子で同じ名前であった可能性もある。
 忍城の戦いでは、下忍口を手島采女以下600人余で守った。忍城開城後は深谷城へ赴き、忍城戦の報告をした。開城後に会津へ向かった主君氏長には同行しなかった。戦いの後、現在の埼玉県羽生市上手子林(かみてこばやし)に土着したとされる。羽生市上手子林には今も子孫が暮らしているという。
*因みに『新編武蔵風土記稿 酒巻村条』には酒巻 靱負、及びその一族に関して以下の記載がある。
当村固より利根川に傍ひ、北より東へ折れる隅にある村にて、福川落合ひの所なれば、水さかまく故酒巻と云ふ、假仮して書しならんと云、成田氏家人の事を記せし者に、永樂(楽)五百貫文酒巻靭負亮長安、同五十貫文酒巻三河、同三十貫文・酒巻源次右衛門などあるは、當(当)所の在名を用ひしものなるべし」
 
 参道の両側には幾多の石碑、石神が設置されている。その中には利根川堤防拡張のために現在地に移設した「八幡神社新築記念碑」(写真左)があり、つい最近に移設したようだ。また記念碑の向かい側には「諏訪大神」と刻まれた石祠もある。(同右・真ん中の石碑)。
 石祠等3基は古い形状でもあり、移設の際に、そのまま持ち込まれたものと思われる。また社殿に関しても、その木材の色の違いから、特に向拝部・木鼻部等、昔の社殿の一部で、再利用できるものはそのまま使用しているようである。
        
                     利根川堤防のすぐ南側に鎮座する酒巻八幡神社
 行田市酒巻地域は利根川・福川の合流地点に位置し、過去数えきれないほどの水難等の災害を経験している。『新編武蔵風土記稿』に記載されている「逆巻いた場所」という地名由来にも説得力がある。なにせ河川の規模は日本一で、「坂東太郎」の異名を持ち、日本でも「三大暴れ川」としても有名な利根川、その水難時の激流たるや、レベルを超えたものであったろう。


 酒巻八幡神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を600m程西行すると、進行方向左側に「酒巻会館」があり、そこの敷地の一角には「酒巻古墳群(さかまきこふんぐん)」の案内板が立っている。県道沿いにこの案内板は設置されているので、見失うことはほぼないであろう。
 酒巻古墳群は、埼玉県行田市酒巻に存在する古墳群である。現在は残念ながら全て消失または埋没し、周囲一面見渡す限りの田畑風景となっている。
 前方後円墳3基、円墳20基の、合計23基。この他に存在すると言われている未確認のものが1基ある。5世紀末から7世紀初頭の築造とされている。
 ほぼすべての古墳が水田面下に埋没した状態で散在している。地元の人は「飛び島地」と呼び、墳頂部をならして畑として利用していた。
 酒巻古墳群の存在する行田市酒巻地区は、加須低地に位置している。この加須低地は関東造盆地運動により、利根川からの河川堆積物を受けて徐々に沈降しているため、古墳群の墳丘自体も沈降している。1964年(昭和39年)に斎条古墳群の発掘調査を行う時点で、斎条5号墳が地表から11.5mの深さまで埋没していたことから、酒巻古墳群も同じように沈降してしまったと考えられる。
 1983年(昭和58年)、さすなべ排水路の改修工事と県営かんがい排水整備事業が行田市酒巻地区にて実施されることになり、それにより工事より先に発掘調査を実施する運びとなった。1983年(昭和58年)から1988年(昭和63年)までの調査により、23
基の古墳の概要が判明した。
        
       酒巻会館の敷地内で、県道沿いに設置されている
酒巻古墳群の案内板

 その酒巻古墳群の中でも「酒巻14号墳」から出土した埴輪は、平成1968日に国指定重要文化財に指定されている。『行田市HP』での記載では以下のように記述されている。
酒巻14号墳出土埴輪』
 国指定重要文化財 指定年月日 平成1968
 酒巻14号墳は、昭和6112月から昭和623月にかけて農業基盤整備工事に先立ち発掘調査が実施されました。調査は古墳全体の約1/3が対象となりましたが、確認された周掘や墳丘の状況から、本古墳は直径約42メートルの円墳で現地表面より1.3メートル埋没していたことが明らかになりました。
 埴輪は、墳丘中段のテラス状の部分から、墳丘を二重に巡るように配置された状態で検出されました。外側に円筒埴輪、内側には人物、馬形埴輪などの形象埴輪が巡らされており、人物埴輪は台部の設置状況から、墳丘を背にして外側に向かって立てられていたことが確認されています。
 形象埴輪の中で注目されるのは、馬の背に旗竿を指した馬形埴輪の存在です。鞍の後部に屈曲したパイプ状の旗竿が付けられており、この旗竿上部のソケット部分には、近くから検出された旗をかたどった部品がセットされます。この旗竿は、これまで用途不明とされてきた蛇行状鉄器(だこうじょうてっき)の性格・用途を明らかにした点で重要であり、国内では本例のほかに例はありません。
人物埴輪には、手先まで隠れる筒袖の衣装を着けたものや、まわしを締めた力士埴輪があり、当時の風俗を知るうえで重要です。
埴輪の時期は、6
世紀後半と考えられています。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「行田市HP」「行田の神々
    Wikipedia


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犬塚御嶽神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市犬塚1406。
              
・ご祭神 大己貴命、少彦名命
              
・社 格 旧犬塚村鎮守 旧村社
              
・例祭等 雹祭り39日 例大祭410日前後の日曜日
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.177471,139.4483666,17z?entry=ttu

 犬塚御嶽神社が鎮座する行田市大塚地域は、妻沼低地の東部に位置し、北側から東側は北河原・酒巻・斎条の各地域と接している。国道125号行田バイパスを羽生方面に進み、途中「総合運動公園前」交差点を左折し、埼玉県道199号行田市停車場酒巻線を北方向に進行、途中「JAほくさい南河原農業倉庫」が見える十字路を右折し300m程進むと左側にと犬塚御嶽神社の鳥居が見えてくる。
 但し鳥居周辺には適当な駐車スペースはないため、一旦県道を通り過ぎてから一本目の路地を左折し、「犬塚集会所」の北側に回り込み、そこの駐車場をお借りしてから参拝を行った。
 後日地図を確認すると、この社から北東方向で、直線距離にして500m程に「斎条劔神社」が鎮座している。
        
               県道沿いに鎮座する犬塚御嶽神社
       この鳥居前は行田市内循環バスの北西コース・「犬塚」停留場でもある。
 この「市内循環バス(コミュニティバス)」は、公共施設等への交通手段の確保、交通空白地域を解消し、地域市民の日常生活の利便性を高めるために運行している。特に運転免許証を持っていない学生や高齢者・障害者等の通学・通院、買い物など日常生活の交通手段確保がその目的の一つとされている。「市内循環バス」は、運行距離に関係なく、100円もしくは200円の低い運賃が設定されているため、地域住民の外出機会の創出を図り、住民の健康増進やコミュニティ活動の活発化をめざしているという
        
                                                         犬塚御嶽神社・一の鳥居
 この一の鳥居は県道からやや奥に建っていて、尚且つ鳥居の両側は民家が立ち並んでいる。車での移動中、ナビを利用して住所特定はできているが、それがなければ、簡単に見過ごしてしまうような場所でもある。
 話は変わるが、埼玉県道199号行田市停車場酒巻線内の和田地域から南河原・犬塚地域までの間に全長1,120mのバイパス事業が行われているという。現道は車幅が狭く屈曲していて、走行上・安全上の課題がある上、拡幅も困難で、更に第二次緊急輸送道路であり重要道路のためでもあるとの事だ。
 
 一の鳥居前で一礼してから参拝。比較的長い参道を進む(写真左)。左右の民家の壁や垣根に囲まれ、参道途中、意外と閉塞的な圧迫感を感じる。進む途中には石製の神橋がある(同右)。形状からやや新しい橋ではなかろうか。しかし神橋を渡ると身が引き締まる思いがする。
        
                   二の鳥居に到着。
  二の鳥居の先は境内となるが、圧迫感を感じた参道とは異なり、広々とした空間が広がる。
        
                    開放的な境内。拝殿の右隣には「犬塚集会所」がある。
『日本歴史地名大系』 「犬塚村」の解説 
 [現在地名]南河原村犬塚
 南河原村の東にあり、北から東は北河原・酒巻・斎条の諸村(現行田市)。地下に埋没したとやま古墳がある。南部は条里遺構にかかっているとみられ、小名に五段町・柳町・中間町・古川町など町地名が多く残っていた(風土記稿)。
 
建武元年(一三三四)一〇月一二日「埼玉郡犬塚村」の屋敷田畠などが西条盛光に安堵されている(「雑訴決断所牒」別符文書)。天正一九年(一五九一)六月、忍おし城(現行田市)の松平家忠に宛行われた一万石のうちに「いぬつか村にし新井」の九四三石余があった(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。西新井は当村の小名。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)によれば、旗本領の役高九〇一石余。
        
                     拝 殿 
 犬塚御嶽神社の創建年代や由緒については不詳だが、『新編武蔵風土記稿 犬塚村条』によると、嘗ては「蔵王権現社」と称し、犬塚村の鎮守社であったという。その後明治4年に村社に列格、明治40年犬塚谷田の愛宕社、十二社天神、犬塚台の愛宕神社、犬塚西新井の雷電社を合祀して、御嶽神社と改称している。
 
          本 殿          境内の片隅に祀られている「塞神」等の石碑
                          左側の石碑は削られている。
 ところで『日本歴史地名大系』 「犬塚村」の解説によると、建武元年(13341012日西条弥太郎盛光に牒を下し、武蔵国埼玉郡犬塚村内屋敷田畠並びに東江袋村内屋敷田畠・阿弥陀寺田畠等を安堵されている。
 西条弥太郎盛光という人物は誰であろうか。
 文永
9年(1272825日の関東下知状(光西寺松井家文書)によると、鎌倉幕府は養父盛元法師法名如願の譲りに任せ、武蔵国東江袋村内屋敷名田並びに出雲国真松名を西条兵衛太郎私盛定に安堵している。
 この「西条兵衛太郎私盛定」の名前であるが、「西条」「兵衛太郎」「私」「盛定」と分割できるが、この中の「私」は、武蔵七党の一つである「私市党」の一族名称である可能性は高い
 私市(きさいち)党の出自は定かでないが、大化前代の私市部の伴造を祖先とすると称し、牟自(むじ)という者の子孫が政市部領使(ことりづかい)であったとする説や、私部を管理した一族の末裔であるとする説がある。また、私市家盛が武蔵権守となって下向し、北埼玉・大里郡一帯に勢力を得たとされるという伝承がある。一族には私市(きさい・きさいち)・成木(なりき)・久下(くげ)・市田(いちだ)・楊井(やぎい)・草原(かやはら)・太田(おおた)・小沢(おざわ)・河原(かわら)・西条(さいじょう)の各氏がいる。
「私市」という名称のみで、埼玉郡騎西地区が本拠地と考えるのは早計であろう。むしろ熊谷・行田市北部がその拠点であったと、その一族の分布をみると考察できる。
        
                                   境内の一風景
「西条兵衛太郎私盛定」と「西条弥太郎盛光」はどのような間柄であったのであろうか。共に「西条」という姓を共有していること、どちらも「東江袋村内屋敷田畠」を安堵されている所から同じ一族であったろう。また人の実名に、祖先から代々伝えてつける字のことを「通字」というが、この2人には「盛」が共通していることから、直系の間柄であった可能性も高い。

*追伸として
「斎条地域」の隣は犬塚地域で、その隣には「中江袋地域」があり、古くは「東江袋村」と云っていた。この地域から北西側で妻沼地区には「上江袋地域」があるが、嘗ては「西江袋村」と称していた。また上江袋地域から国道
140号を挟んで「西城(にしじょう)地域」があり、名称も「斎条」と似通っている。何か関連性があるのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「多摩デジタルアーカイブ
    「国土交通省:コミュニティバスの導入に関するガイドライン」「Wikipedia」等
 

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馬見塚神明社


        
             
・所在地 埼玉県行田市馬見塚731
             
・ご祭神 大日孁貴命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 馬見塚の獅子舞 9月第1土曜日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1679954,139.4333215,16z?entry=ttu 

 行田市馬見塚地域西南部に鎮座する。事前のレクチャーが不足していたのだろうが、南河原・河原神社から中江袋剣神社に向かう途中の道路東側にこの社は鎮座していたのを気付かずに通り過ぎていて、中江袋剣神社から500m程しか離れていない。
 途中までの経路は中江袋剣神社を参照。南河原・河原神社からのルートとしては、「士発田集会所」の先の十字路を右折し、左手に「南河原浄水場」入口が見える南北に通じる道路の南川に、特別養護老人ホームがあり、その施設の南方向200m程の場所に馬見塚神明社は鎮座している。
 因みに地域名「馬見塚」は「まみづか」と読む。
        
                                馬見塚神明社正面
『日本歴史地名大系』 「馬見塚村」の解説
 [現在地名]南河原村馬見塚(まみづか)
 犬塚(いぬづか)村の南に位置し、東は斎条(さいじよう)・和田・下池守の三村(現行田市)。古墳後期の集落跡があり、条里制に由来する町地名が残っていた(風土記稿)。東部の御堂塚付近に馬市が立ち、塚の上から馬の良否を見分けたという伝説があり、純農村地域であるが地方的な流通市場が形成されていたとも推測される。
 天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に載る馬見塚三河(永二一貫文)は当地出身という(風土記稿)。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領分の役高六八九石余。
 
正面鳥居は北向きであるが、そこから参道は右側  鳥居と社号標柱の間にある塞神、御神燈、
   に曲がる為、社殿は東向きとなる。       記念碑等が集中的に置かれている。

 後日地図を確認すると、中江袋剣神社の他に下池守子守神社も近距離にあり、この社を頂点に、西南方向に鎮座する中江袋剣神社、南東に鎮座する下池守子守神社は丁度正三角形を形成している。
        
                             境内の様子
『新編武蔵風土記稿 馬見塚村条』
「村内東の方に御堂塚と呼ぶ小塚あり、此邊昔馬市立て、この塚上に登り善悪を見分けしゆえ、いつとなく村名に呼なせしと云、【成田家分限帳】に永二一貫文馬見塚三河と載たり、これ当村に住して在名を氏とせしものなるべし、」
鎮座地馬見塚の地名の由来は、「風土記稿」によると、村内東部の御堂塚付近に昔、馬市が立ち、塚の上から馬の良否を見分けたことによるといわれ、その後馬市での伝承行為がいつのまにか「馬見塚」という地域名となったという。また、「成田分限帳」に記載されている、馬見塚三河を名乗る人物は、当地の住人であったであろうといわれている。
        
                     拝 殿
 馬見塚神明社
 鎮座地馬見塚の地名の由来は、「風土記稿」によると村内東部の御堂塚付近に、昔、馬市が立ち、塚の上から馬の良否を見分けたことによるという。また、「成田分限帳」に記載されている、馬見塚三河を名乗る武士は、当地の住人であったであろうといわれる。
 当社の創立は「明細帳」には「古老ノ口碑ニ拠ルニ往古伊勢神宮ノ分霊ヲ這ノ地二勧請ナシタルモノナリシト当時氏子凡三拾余戸ニテアリシカ自然一村挙テ崇敬スル所トナリ依テ当村ノ鎮守ト尊崇セリ」とある。往時の別当は、真言宗薬王山善林寺西善院が務めていた。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治四年に村社となり、同42年には同村同太字字書際の久伊豆社・諏訪社・稲荷社が本殿に合祀された。当地は、元は上・下に分かれ、上の鎮守が当社であり、下の鎮守が久伊豆社であった。
 祭神は、大日孁貴命である。神明造りの本殿は昭和42年の再建である。内陣には「稲荷大神 久伊豆大神 諏訪大神」と「神明大神」と記された神璽二体と祭神名不詳の神璽一体を祀る。神璽の墨書に「明治二己巳年五月廿日 神社混淆御役人共忍表岡村覚太郎与神人罷越御幣引替申候 御幣箱大工巳之助作之」とあり、神仏分離当時の様子をうかがい知ることができる。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
 規模が大きな社でないにも関わらず、社殿近くに聳え立つご神木である大欅(ケヤキ)の存在は、まさに圧巻である(写真左・右)。主幹は既に無くなっており、更には裏に回ると、根本日斤から大きく空洞化している。主幹から伸びている1本の大枝や、数本の細枝は元気な様子だが、既に全盛期は越えてしまっているのが、実見しただけであるがそれでも分かる状況だ。
 それにしても貫禄ある風格が漂うご神木である。
        
          社殿の左側にひっそちと祀られている境内社・石祠。
        
                              ひっそりと静まり返った境内

 ところで、「行田市HP」によると、馬見塚地域には「馬見塚の獅子舞」といわれる伝統芸能が今も受け継がれているという。「市指定民俗文化財」の区分で、平成21730日に指定された「無形民俗文化財」であり、その形態は「三匹獅子舞」という。

「馬見塚の獅子舞」
 馬見塚の獅子舞は、市内馬見塚地区に伝わる民俗芸能で、現在は馬見塚獅子舞保存会が保存・継承し、神明社の大祭の際に奉納されています。
 起源については不詳ですが、獅子用の古い太鼓の胴内に文化4年(1821)の墨書があり、江戸時代の馬見塚村の村社であった神明社に250年以上前から奉納されていると言われています。
 獅子は法眼(ほうがん)、雄獅子(おじし)、雌獅子(めじし)からなる三匹獅子舞で、他に面化(めんか)、笛方、道化(どうけ)、棒方などで構成されています。
 神明社で棒術から始まり「岡崎(おかざき)」、4人の花をかぶった子どものまわりを舞う「花掛かり(はながかり)」を舞った後、村回りを行います。諏訪神社では面化が獅子に酒を振舞う「稲穂(いなほ)」、薬師様で「おかざき」の変形、不動様では動きが早い舞の「ぶんなぐり」、西善院では「鐘巻(かねまき)」を奉納します。「鐘巻」は安珍清姫の道成寺説話に基づくものです。「いなほ」、「ぶんなぐり」の舞は他地域には見られないものです。昭和48年には旧南河原村の無形文化財に指定されました。
 現在は9月の第1
土曜日に実施されています。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田市HP」等
 

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中江袋剱神社


        
               
・所在地 埼玉県行田市中江袋17
               
・ご祭神 素盞嗚命
               
・社 格 旧中江袋村鎮守 旧村社
               
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1679954,139.4333215,16z?entry=ttu

 行田市中江袋地域は南河原・河原神社から直線距離にして1.5㎞程の近距離に鎮座し、南東方向に位置している。南河原・河原神社から埼玉県道178号北河原熊谷線を暫く東行し、400m程進んだY字路を右方向に進み、その後「士発田集会所」の先の十字路を右折する。
 左手に「南河原浄水場」入口が見える南北に通じる一直線の道路を道なりに約1㎞進むと、右斜め方向に中江袋剱神社の鳥居と境内の木立等が遠目からでも見えてくる。
 専用駐車場はないが、社から東西真っ直ぐに伸びた参道の突当たりに対して反対車線上に駐車可能な路地スペースが確保されており、そこに停めてから参拝を開始する。周囲は長閑な田園風景が広がる中に、ポツンと鎮座しているような印象だが、境内も含めて社殿も改築されているようで、境内周囲の垣根も綺麗に整備されていた。
        
           東西方向に参道は伸び、その先に社は鎮座する。
     境内には「中江袋集会所」もあり、地元の鎮守様という第一印象を受けた。
『日本歴史地名大系』での 「中江袋村」の解説を紹介する。
 [現在地名]南河原村中江袋
 
南河原村の南にあり、南は星川を隔てて下池守(しもいけもり)村・上池守村(現行田市)に対する。地名の由来は河流の湾曲地形によるかともいわれる。小名に条里制に関係する掃除町・瓦町などの町地名が残り(風土記稿)、古墳時代後期の集落遺跡も発見された。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に載る中条丹後(永五一貫文)は当地に帰農したという(風土記稿)。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領分の役高四〇〇石。
        
                    境内の様子
        
           境内に設置されている「社殿改修工事竣工記念」碑
「社殿改修工事竣工記念」
 当剣神社の創建については現在不詳であるが、大字内に条里制の遺構が存在したことを考えても千年以前に遡るものと思われる。
 主祭神は素盞嗚命であって字屋敷の天神社・字士発田の伊奈利社が合祀されている。
 社殿は天保13年の再建と伝えられ、150年余の歳月と共に損壊も甚だしく再建は氏子一同長い間の念願であった。
 此の度中江袋環境総合整備建設委員会の発足に当たり、事業の一環として社殿の改修と境内の整備を完了したことは目出度い極みである。
                                  「境内石碑文」より引用
 南河原・河原神社からこの社までの経路途中、「南河原浄水場」付近に南北方向で一直線に通じる道路があった。周辺の田畑に関しても、嘗ての条里制の名残りと思わせるような真っ直ぐな道が今なお存在する。
        
                     拝 殿
 劔神社 南河原村中江袋
 当地は、県北部の星川沿いに古くから発達した集落で、遺跡などからも水田耕作地域であったことがうかがわれる。
 当社と同社名の神社には、日本武尊の伝説を伝える社が多い。当地に近い行田市内にもこの伝説の残る剣神社があることから、当社にも何らかの伝承があったと思われるが、現在は知ることができない。
 また、当地は、忍城主成田家の家人であった中条丹後が忍城落城のに後、当村に住み、姓を江袋と改めて代々名主を務めていた。当社境内には、この江袋家とのかかわりがうかがえる寛延二年の同家名を刻む宇賀神の石祠がある。
 当社の創建については不詳であるが、天保一三年の覆屋再建棟札が現存する。往時の別当は、本山派修験榛沢郡黒田村万光寺配下の本覚院が務めていたが、明治初めの神仏分離により、その管理を離れ、同院が復飾して姓を松本と名乗り、神職となった。明治五年に村社となり、同四〇年には同大字字土発田耕地の伊奈利社、字屋敷耕地の天神社を本般に合祀した。
 明治中期まで祀職は松本家が務めていたが、その後、茂木庫之助、六郎、正次、茂、貞純と継いでいる。
 主祭神は素戔嗚命で、合祀神は字賀之御魂命・少彦名命である。
                                  「埼玉の神社」より引用


『新編武蔵風土記稿 中江袋村条』には中江袋村・長徳寺に関する説明もあり、そこには「江袋氏」を名乗る経緯も記載されている。
「長徳寺は寛永年中村民孫蔵が先祖、江袋三右衛門勝重なるもの開基して、この一寺となせりと、勝重は寛文二年十一月二十九日卒す。勝重の父は中条丹後と称し、成田の家人にして、永楽五十一貫文を所務せしこと分限帳に見ゆ、天正十八年忍落城の時、当村へ来り、氏を江袋と改めしより、子孫連綿して今の孫蔵に至れり
江袋」を名乗る前は「中条」が本名であったという。中江袋地域の西側には上中条地域があるが、そこは嘗て武蔵七党横山党の出・中条氏の本拠地でもあった。
        
              社殿の右手に祀られている境内社
               右側「塞神」のみ解読可能。
    他は案内版の記載にある「宇賀神」「天神社」「伊奈利社」あたりであろう。

 中条氏は武蔵国中条保(埼玉県北部)を本領とする中世武家である。武蔵七党横山党の流れをくみ中条保を領した義勝房法橋成尋(異称中条法印)の子家長が,下野国の雄族八田知家の養子となり,藤原姓中条氏の祖となった。源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府の成立に他の武蔵七党の諸氏と共に尽力。横山党の嫡流である横山氏が和田合戦で滅びた後も幕府内で評定衆を務め、尾張の守護を長く務めるなど勢力を保った。
        
                社殿から見た境内の一風景
  
 一族は後に三河国加茂郡高橋荘(愛知県豊田市)の地頭になり、挙母を本拠地とする。同じく三河に所領を有する足利氏と縁が生まれ、南北朝時代には足利氏の北朝に味方し、室町時代には奉公衆に取り立てられた。3代将軍足利義満などに仕えたことで出羽、信濃などに勢力を広げたが、6代将軍足利義教の時代には義教の不興を買い失脚するなど衰退、戦国時代には駿河、遠江、三河国を領する今川義元やその傘下の松平元康にたびたび侵攻され勢力を弱め、最後は桶狭間の戦いで義元を討ち三河へ勢力を広げようとした尾張織田信長の侵攻で一戦も交えず退散する。これ以降、挙母城にあった中条氏は織田信長に仕えたという。
        
                            南側には星川が悠然と流れる。
 武蔵国中条保に残った一族もいた。この一族は上杉憲実、上杉房顕の与力となったり、成田下総守親泰の配下として存続していたが、天正十八年忍落城の時に、帰農してこの地に移り住み、苗字も江袋と改めたという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」Wikipedia
    「境内碑文」等

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