古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

八幡山種池神社及び雉岡城

八幡山種池神社】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山336-2
             ・ご祭神 倉稲御魂命
             ・社 格 不明
             ・例 祭 初午 2月初旬 祈年祭 315日 例大祭 1013
                  新穀感謝祭 1210日

 埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町市街地方向に進み、八高線「第二深谷街道踏切」を越えて「児玉小学校」交差点を右折すると、JR八高線児玉駅に到着する。児玉駅を起点として西方向に伸びる駅前通りである埼玉県道191号児玉停車場線に左折して合流、そのまま道なりに進む。国道462号線との合流地点である「児玉駅入口」交差点を右折し、その後「児玉高校入口」を左折し、100m程進むと左側に八幡山種池神社の社号標柱が見えてくる。
 
現在は八幡山公園となっている「雉岡城」の東側に鎮座していて、城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地から、時の城主等から深く崇拝されたという。
 社の境内は南北に長いが決して広くない。しかし社殿から見て右側手前には駐車スペースも確保されているので、そこの一角に停めてから参拝を行う。
       
        入口に置いてある社号標柱         南北に位置する社
        
                                           八幡山種池神社正面
 
      石段上に鎮座する拝殿            石段脇にある案内板

 種池神社 御由緒  本庄市児玉町八幡山三三七
 □御縁起(歴史)
 当社の創建の年代は定かではないが、かつては境内に霊水として知られる湧水があり、近辺の住民の間には四季を問わず湧出するこの池の水によって生活している者が多く、氏子は籾を播く前には必ずここで種籾を洗ったものであった。よって、この湧水に神威を感じ、五穀の祖神である稲荷大神を勧請したのが当社の始まりで、「種池」の称もこの湧水に由来する。
 また、延徳年間(一四八九九二) に雉岡城を当地に築き、その城主となった夏目豊後守定基も深く当社を崇敬し、社殿を再興したという。更に、横地左近将監吉晴、松平玄蕃頭清宗、地頭田備後守といった、その後の城主や地頭も当社を厚く崇敬した。雉岡城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地も、こうした城主らによる崇敬のあったことを感じさせるものである。
『風土記稿』や『郡村誌』に「稲荷社」と載るように、当社は元来は稲荷神社と称していたが、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したのを機に、社号を種池神社と改めた。しかし、昭和五年ごろ、当社の象徴であった湧水は諸般の事情から埋め立てられ、その後は跡に井が設けられて飲み水などに用いられていたが、衛生上の理由から近年はそれも廃止された。ちなみに、境内左の駐車場が湧水のあった場所である。
 □御祭神と御神徳
 ・倉稲御魂命…五穀豊穣、商売繁昌
                                      案内板より引用
 

        
 拝殿の周囲には多くの境内社が鎮座する。『風土記稿』や『郡村誌』では、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したと記載されている。これらの境内社もそのうちのどちらかであろう。


「古は当国七党の一、児玉党の所領する事は児玉町に弁ず。文明の頃は夏目豊後守定基領し、其後永禄中に至ては、横地左近忠春の所領にして、天正十八年御打入ありて松平玄番頭清宗に賜り、慶長六年三州へ得替さられて、同七年戸田藤五郎に賜り、天明六年子孫中務の時上りて御料となりしより今に然り」と『新編武蔵風土記稿』は記している。
 慶長七年戸田藤五郎重元(5千石)の知行地となった際に八幡山町に陣屋を設け、支配をすることとなったというが、現在はそのころの遺構等ない。


【雉岡城】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山446
             ・遺 構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等
             ・分類・構造 平城 戦国時代初頭築造(推定)
             ・指定文化財 埼玉県史跡(雉岡城跡)

 雉岡城(きじがおかじょう)は、埼玉県本庄市児玉町八幡山446他に所在していた日本の城。丘陵地に築かれており、旧字雉岡の地名をとってつけられた城のため、別名を八幡山城(はちまんやまじょう)と言う。

 45郭で構築された平城で、『武蔵国児玉郡誌』『新編武蔵風土記稿』等によれば、築造時期は戦国時代初期といわれ、当初は山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭かったゆえに、上杉家は上州平井城へ移ったものと考えられ、代わりに有田豊後守定基(城主となってからは夏目を称す)を雉岡城主として配備した。因みに定基は赤松則村(円心)の裔孫であり、元は平井城に在城していた武将とされる。
 その後永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形城の属城となったようで、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には前田利家により落城した。徳川時代には松平家清が居城していたが慶長6年(1601)に三河吉田城に移ると廃城になったと伝えている。
        
          県道191号を西方向道なりに進むと雉岡城跡に到着する。
   正面入り口付近に設置されている「「県指定史跡 雉岡城跡と周辺の文化財」の掲示板
        
             正面入口にある「雉岡城跡」の看板
             看板周辺には駐車場も完備されている。

  地形的に見ても、この城の東側には鎌倉街道上道が南北に通っており、築城目的として、鎌倉街道の交通要衝を押さえ、関東管領上杉家の最前線地となっていた五十子陣(児玉郡北部)への兵站を確保する事であり、そうした経済的側面があったものと考えられているつまり、当初は五十子陣の支城としての役割があり、五十子陣の解体後、上野国平井城の支城として活動し、後北条氏の時代では鉢形城の支城として活動したとされる。
 
 現在は公園として整備されているが、城跡という箏で、いたる所に 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等の遺構が見える(写真左)。
 思った以上に城跡は広い。また途中見かけた案内板(同右)に見入ってしまった。

 埼玉県指定史跡 雉岡城跡  昭和十三年三月三十一日指定
 雉岡城は、八幡山城とも呼ばれ、十五世紀頃に時の関東管領であった山内上杉氏によって築城されたと言われています。東西約二百七十メートル、南北約四百三十メートルに及ぶ城域を持ち、鎌倉街道上道と上杉道の分岐点という交通の要衝に立地しています。
 十四世紀初めまでに成立した歌謡集「宴曲抄」には「者の武の弓影にさはぐ雉が岡」という歌が収められています。このことから、十四世紀までに雉が岡の地に武士の居館が存在していたと推定されます。
 雉岡城は、築城後、関東管領山内上杉氏及び夏目定基(なつめさだもと)、定盛(さだもり)を城主としていましたが、後北条氏の武蔵進出に伴って雉岡城も後北条氏の支配下におかれました。そして鉢形城主北条氏邦の命により横地左近忠春が雉岡城の城代となりました。
 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による後北条氏討伐に伴って落城し、徳川家康の関東入国後、松平氏が城主となりました。その後、城主の松平家清が慶長六年(1601)に三河国吉田城(愛知県豊橋市)に転封となり、雉岡城は廃城となりました。
                                      案内板より引用


 散策途中、本丸南側の曲輪を囲む堀の底に、「夜泣き石(親子石)」と呼ばれる石があり、案内板はその曲輪の脇に設置されていた。「夜泣き石」と言われる悲しい言い伝えである。 

 夜泣き石(親子石)
 この石には、次のような伝説があります。
 昔、殿様の夕餉に針が入っており、怒った奥方は側女お小夜の仕業だと思い、取り調べもしないで、お仕置井戸に生きたまま沈めさせてしまいました。
 そのとき、お小夜のお腹には、生まれるばかりの赤ちゃんがいたそうです。お小夜の死後、お城ではお乳がにじみ、飲み水も池の水も白く濁り、夜になるとお小夜の泣き声が、どこからともなく聞こえてきたそうです。
 また、井戸からお小夜の棺桶を引き上げてみると、大きな石になったお小夜は、子供石を抱いていたそうです。子供を思う親の心に、奥方はお小夜に対する仕打ちを後悔し、お堀端にこの二つの石を祀り、女達に慰めの言葉をたやさぬようにと頼み、髪を切って喪に服したと言い伝えられています。(児玉の民話より)
                                      案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等
       

拍手[1回]


稲沢稲聚神社

 本庄市児玉町稲沢地域は、本庄市南西部端部に位置し、「本泉地区」の北部にあり、小山川支流稲聚川の北側斜面に集落が存在している。近世では上稲沢村・中稲沢村・下稲沢村の三村に分かれていた。
 稲沢という地名の由来に関して、確かな記録もないため、はっきりとは分からないが、中稲沢に鎮座する古社の稲沢稲聚神社との関係も考えられる。稲沢稲聚神社の社伝によれば、稲聚川の水源付近に昔から豊富な湧き水があって、下流の住民が水田耕作に多大な恩恵を受けたことから、この地に稲聚神社を創建し、社周辺一帯を稲沢と呼ばれるようになったと云われている。
 上記
稲沢稲聚神社はその稲沢地域に根を下ろした鎮守様であり、阿那志河輪神社同様に、「式外社」別名国史現在社(げんざいしゃ)」「国史所載社(しょさいしゃ)」とも称されている由緒ある社でもある。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町稲沢360
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 初午 2月初午 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  
大祓 1229

 河内金鑽神社から南西方向に進路を取り、埼玉県道44号秩父児玉線合流後400m程県道を進むと、押しボタン式の信号があるT字路に到着する。そこを右折し、道なりに進む。道幅が狭い道路で右側は崖が続くため、進路があっているのか、時に心細くなる時間帯もあるが、そこは辛抱。暫く進むと稲沢地域の集落が見え、尚も西方向に進路をとる。小山川支流稲聚川に沿って道路が続いているようだが、その川の上流部が右方向に進路が変わる地点に稲沢稲聚神社は鎮座している。
 社周辺には大きな杉の大木が多数聳え立ち、遠目からも目視できるので、県道から右折する道さえ間違わなければ、社までは1本道である。県道から社までの距離は1.4㎞ほどであろうか。
 社の東側には「稲澤山村センター」があり、駐車スペースもしっかりと確保されており、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
        
                  稲沢稲聚神社 正面
       
        鳥居の手前には社号標・社碑が立つ。 社号標の奥にある稲聚神社碑。

「稲聚神社碑」には創立年代から碑文設置当時までの歴史等が記されていたのだろうが、残念ながら長年の風雪等により、半分以上文字欠損状態となっている。それでも僅かな文字等の確認によると、「稲聚神社のご祭神は稲荷の大神にして倉稻魂神」「六国史の一つである日本三代実録における神階は文徳天皇の天安元年正六位上」「清和天皇貞観十七秊從五位下」「稲澤と全く同じきなり古書に稲取と書」「後小松天皇の應永の頃大旱魃」あたりが記されている。
        
                     案内板
     自然災害の影響か、御由緒案内板の一部が剥がれ、一部解読が不可能な部分がある。
     一部欠損した部分は、ほかのHPを確認することにより、対応できた。

 稲聚神社 御由緒  本庄市児玉町稲沢三六〇
 □御縁起(歴史)
『郡村誌』が「四方に山を帯ひ渓水村の中央を貫流す。地形高低あり運輸車を用ゆ可からす唯馬を用ゆ」とその地勢を描写しているように、稲沢に身馴川(小山川)の支流である稲聚川の流域に位置する山村である。その地内は、かつては上稲沢・中稲沢・下稲沢の三村に分かれていたが、明治五年に合併して一村となった。
 当社は、この上・中・下稲沢三か村の鎮守であり、また『三代実録』に載る稲沢郷池田庄稲沢鎮座の稲聚神社であるといわれている。その由緒は、境内の「稲聚神社伝来碑」によれば「大同三年(八〇八)の創建で、天安元年(八五七)に神階正六位上に列し、貞観十七年(八七五)には従五位下に昇格した。その後、応永六年(一三九九)の旱魃の際、丹生神社を合祭した」という。 更に『明細帳』は、丹生神社の勧謂は、この旱魃で流末の各村から「当社の位置は大和(現奈良県)の吉野川における水徳の神丹生川上神社と同じである」との声があったことを契機とするものであり、尊崇が深いためついには稲聚神社は客社のようになっていると記している。『風土記稿』にも、当社は上稲沢村の項に「丹生社 上中下稲沢村の鎮守とす、満福寺持」と載り、古くから丹生神社としての信仰の方が強かったことがわかる。明治維新後は、神仏分離により満福寺の管理を離れ、社号を稲荷神社と改称して村社となり、明治二十 八年には社号を稲聚神社に改めた。
 □御祭神と御神徳

 倉稲魂命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用
        
                                一の鳥居
 
 鳥居の社号額には「稲聚神社・丹生神社」と記載がある(写真左)。一の鳥居の先には石製の二の鳥居があるが、そこの社号額にも一の鳥居同様に「稲聚神社・丹生神社」と書かれている(同右)。
        
                                       拝 殿
 
  拝殿の扁額も「稲聚神社」「丹生神社」        拝殿の右側には九頭竜神が鎮座。 
     と並列に掲げられている。

 案内板によると、応永6年(1399年)に干ばつを鎮めるため、大和国の丹生川上神社を勧請、合社した。よって、稲聚神社には稲聚神社と丹生神社が記載されている。当時は丹生神社の信仰がより強かったため、以降社名が「丹生社」に改称される。
 その後明治元年(1868年)の神仏分離により社名を「稲荷神社」に改称するが、明治28年(1895年)には創立当初の社名「稲聚神社」に復称したという。
       
 境内には杉の巨木・老木が多数あるが、その中でも社殿右側手前にあるご神木は圧倒的な存在感がある。


 ところで稲沢稲聚神社は六国史の一つである『日本三代実録』《卷二十七貞觀十七年(八七五)十二月五日甲寅》によると、「五日甲寅。授長門國從四位下住吉荒魂神四位上。近江國從五位下小丈神從五位上。正六位上坂神從五位下。武藏國正六位上河輪神。稻聚神。飛騨國正六位上本母國都神。釼緒神。上野國正六位上丹生神並從五位下」と記載があり、貞觀十七年(875)に正六位上の神階を阿那志河輪神社と共に受けていて、それが根拠となり、「国史見在社(こくしげんざいしゃ)」別名「式外社」の社として時の朝廷から承認されている。

 国史見在社(こくしげんざいしゃ)は六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載があるが、『延喜式神名帳』に記載がない神社をいう。国史現在社(げんざいしゃ)、国史所載社(しょさいしゃ)、式外社(しきげしゃ)ともいった。 式内社とともに朝廷の尊崇厚く、由緒ある神社として重んじられてきた。
 六国史は延喜式神名帳以前に成立、編纂された歴史書、または勅撰史書であり、日本において単に国史と言えば、六国史のことを指す場合がある。各史書の成立年は以下の通りとなる。
『日本書紀』…養老4年(720年)
『続日本紀』…延暦16年(797年)
『日本後紀』…承和7年(840年)
『続日本後紀』…貞観11年(869年)
『日本文徳天皇実録』…元慶3年(879年)
『日本三代実録』…延喜元年(901年)

『延喜式(えんぎしき)』は、六国史の後に編集された、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、律令の施行細則をまとめた法典であり、成立年は延長5年(927年)。『延喜式神名帳』は『延喜式』に纏められた巻九・十のことを指し、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧であり、延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2,861社、鎮座する神の数は3,132座である。

 式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定基準には当然ながら、当時の政治色意図が強く反映されていると考えられる。一方、延喜式神名帳に登載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社、正式な社殿がなかった神社等と思われるが、正確にはその選定の定義は分からない。
 その中でも、『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史に神名・社名の見える神社を国史見在社(こくしけんざいしゃ・国史現在社とも)といい、式内社とともに由緒ある神社として尊重されている。
             
 社の入口・社号標柱の右隣には、おそらく古い年代に製造されたであろう柱があり、そこには「国史現在」、その右脇には同じ式外社である「河輪」と刻印されている。


 旧武蔵国に式外社・国史見在社として認識されていた社は五社で、以下の社となる
倭文一神社…埼玉県比企郡吉見町久米田鎮座。現在久米田神社。旧村社。
若雷神社…神奈川県横浜市港北区鎮座。旧村社。
伊多之神社…東京都あきる野市五日市鎮座。現在阿伎留(あきる)神社。旧郷社。
河輪神社…埼玉県児玉郡美里町阿那志鎮座。旧村社。
稲聚神社…埼玉県本庄市児玉町稲沢鎮座。 旧村社。


 式内社・式外社共に1100年前に史書等で官社として記載されている社という箏は、当然それ以前からの創建であり、社自体も歴史を綴っていたことを朝廷が認めたわけであるのだから、延喜式が成立以前、少なくとも数百年単位の由緒は必要と思われる。
 稲沢稲聚神社の案内板による縁起(歴史)にも、創建時期は「大同三年(808)と記しているが、もしかしたら妥当な年代かもしれない。1000年前という途方もない年代を経た由緒ある社という箏だ。
        
 県道から稲沢地域に向かう途中に建てられている石碑群。周辺手入れもなされていて、また社日様も紙垂等で祀られていて、その四方には縄を巻き、結界を成しているのであろう。当然縄には紙垂を巻いていたと思われる。
 道路の向かい側には稲聚川が流れていて、この集落と河川との深いかかわりもこのような石祠群のおかれた場所を鑑みると、地域の方々の、信仰の深さを垣間見た気がして、思わず車を停めて手を合わせた次第だ。

参考資料「本庄市の地名② 児玉地域編」「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」等

拍手[1回]


吉田林日枝神社

 本庄市児玉町吉田林地域は、JR八高線児玉駅の北側に位置し、北部は旧児玉条里の水田地帯で、中・南部は緩い台地上の平地で、南東部は独立した残丘の生野山が含まれる。
 吉田林地域の中央部は児玉町市街地と生野山に挟まれた南北に細長い地域で、昔は荒れ地で小山川(旧身馴川)の氾濫源の一部だった可能性がある。北部の水田地帯は九郷用水を引水し、江戸時代にはこの九郷用水組合22ヶ村に含まれる村であった。吉田林地域北部の水田地帯は児玉条里に含まれるが、度々の氾濫により条里区画は大きく乱れている。
 吉田林という地名は「きたばやし」と読み、珍しい地名の一つだ。古代における郷名「黄田郷」(『和名抄』)から当てる説もあったが、『和名抄』の異本には「草田郷」とあり、本庄市教育委員会の発掘調査で、草田郷の銘文のある紡錘車が出土したことから、黄田郷は草田郷の写し間違いで、吉田林の名は黄田郷に由来するとは言えなくなった。或いは吉田林地域は児玉の北部に位置し、小山川の氾濫原の一部と考えれば「吉田=きた」は「北」で、北の林を意味する地名かもしれない。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町吉田林字山王山925
             ・ご祭神 羽山戶神
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 新年祭 131日 春祭り 410日 秋祭り 1015
                  新嘗祭 1210

 吉田林日枝神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町方向に進み、「大天白」交差点を右折し、国道254号線に合流、北西方向に進路をとる。1㎞程進み、「児玉教育会館(南)交差点を左折し、最初のT字路をまた左折する。道幅の狭い道路で、上り坂ではあり、民家等はないが、対向車には気を付けながら150m程進むと、左手に吉田林日枝神社の小さな木製鳥居が見えてくる。
 鳥居を越えてから進行方向に対して左手に、社の境内に通じる道があり、その道を進んだすぐ右側に駐車可能なスペースも確保されていて、そこに停めてから参拝を行う。
        
                  吉田林日枝神社正面

 駐車スペースから参道正面まで、一旦西方向に階段を下り、改めて参拝を行う。吉田林日枝神社が鎮座する場所は、生野山の低山を含む残丘が西側に広がり、その西端部に位置するため、正面参道から社殿まで、なだらかな上り坂斜面が続く。
             
             一の鳥居からの参道の眺め。意外と長い。
        
                          上り坂の階段の奥に二の鳥居が見える。
        
                               二の鳥居
        
              二の鳥居の右側に設置された案内板

 日枝神社 御由緒
 □御縁起(歴史) 本庄市児玉町吉田林九二五
 吉田林は、『和名抄』に見える黄田郷の遺称地といわれる。
 当社は、吉田林の東南端、生野山丘陵の西斜面上に鎮座する。『児玉郡誌』には「当社初め御年社と称す、創立は後冷泉天皇の御宇、治暦二年(一〇六六) なりと云ひ伝ふ、一説に児玉党支族宮田某の勧請なりとも云ふ、その後永禄年間(一五五八-七〇) に至り、八幡山の雉岡城の神将山口修理亮盛幸、該城守護のために近江国日枝山(比叡山)より山王権現を遷して御年社に合祀し、是より日吉大権現と称せり、社領は山口修理より神田若干を寄附し、その後地頭菅沼氏より屡神田を寄進せられたり」と記される。御年()社は、『延喜式』神名帳に、大和国(奈良県)葛上郡に二社が見え、特に葛城御年社は従一位の名神大社であった。
 当地に御年社が勧請された経緯は不明であるが、城跡から見ると当社は北東の方向に鎮座しており、後に城の鬼門除けとして山王権現が合祀されたのであろう。
『風土記稿』吉田林村の項には「山王社 村の鎮守にて西養寺の持、社内に東照宮及び諏訪を祀れり、末社八幡三島」とある。
 明治初年の神仏分離により、当社は別当西養寺を離れて、村社となった。一間社春日造りの本殿は、延享三年(一七四六)の再建で、外宇は明治二十二年の改築である。内陣には、青と赤に彩色された雄雌一対の石製猿像(高さ一六センチメートル)が奉安されている。
 □御祭神 羽山神(はやまど)…五穀豊穣、健康良運
                                      案内板より引用



 ところで「吉田林」の地名は中世まで全く史料に見られない。今日の吉田林地域は中世初期においては、独立した児玉党系の「氏」を擁する地域ではなく、おそらく八幡山地区と一体をなす「児玉庄」の中核域として、「庄氏」の領有内に含まれていて、中世後半以降に吉田林として分村したのではないかと思われる。
 というのも、天正18年(1590)後北條氏が滅亡し、その後徳川家康が関東に入国、家臣の松平家清が一万石で八幡山城(雉岡城)主になるが、翌年天正19年(1591)にこの松平氏の所領を示す資料「武州之内御縄打取帳」に「八幡山・児玉・金屋・長興(沖)・保木野・宮内・飯倉・高柳・塩野屋(谷)・沼上」等の地名は見られるが、「吉田林」は載っていない。
 その後松平氏は慶長
6年(1601)三河に転封し、短期間幕府直轄領の期間を経て、旗本戸田氏、大名山口氏に与えられている。山口氏は大久保忠隣の事件に連座し失脚、また暫し幕府直轄領となり、小菅氏が代官となり、その支配下となっていた。下真下の関根家には書簡があり、小菅氏は下真下村と吉田林村に所領がある事が記載されていて、そこで初めて「吉田林」という地名が登場する。
        
       二の鳥居から更に階段を上り、登りきった先に南北に広い境内が広がる。
        
                                       拝殿覆屋
 
  拝殿に掲げてある「日枝神社」の扁額     拝殿の左側に鎮座する境内社・八幡神社

 日枝神社 春・秋まつり 吉田林獅子舞
 日枝神社の春・秋の祭典の行事として吉田林獅子舞(市指定文化財)が奉納されます。
 江戸時代の中頃、この地域に日照りや干ばつが続き作物がとれず、村に悪い病気が流行して多くの人が亡くなるなどしました。
この惨状を見た当時の殿様が、悪霊払いのため獅子頭3頭を奉納したことに始まり、その後、獅子舞が行われてきたと伝えられています。
 現在、獅子舞は春と秋の祭典で舞われています。
                               本庄市観光協会公式HPより引用

 
   八幡神社の左隣には境内社・八坂神社      八坂神社の北側奥には社務所がある。
      等の石祠が鎮座する。      
       
            八坂神社の左側にある「記念碑」      記念碑の奥にある「富士浅間大神」
                           「小御嶽大神」の石碑
 
  社殿の奥に並んで鎮座する末社群の石祠    こちらは社殿の右側に並ぶ末社群の石祠
       
                      社殿の右隣に聳え立つご神木

                    
                        一の鳥居の左側にある石碑。「藤池碑」か。

 吉田林地域は、北部の水田地帯には「九郷用水」を利用して水田の生産に充てていたが、それ以外の南部の水田は天水による溜池灌漑であった。そのため溜池も多く存在していて、地域内の小字にも「鼠池・松池・藤池・女池」等その名残りが残っている。現在残っているのは「朝鮮池」のみで、松池・藤池・女池は埋め立てられて消滅、鼠池は所在すら解っていない。
 藤池は日枝神社に藤池碑が立っている。これによれば、池の名前の由来は、池辺には紫色の藤が多くあったからと記されている。身馴川の水が地下を通って、この藤池で湧水となり、枯れることなく用水に利用できたという。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「本庄市観光協会公式HP」
     「Wikipedia」等


拍手[1回]


長沖飯玉神社

 本庄市児玉町長沖地区は、児玉地域のほぼ中央あたり、市街地の南側に位置する。北側と東側は児玉、西側は金屋、南側は小山川を挟んで秋山・小平に接する位置関係にある。長沖地区の全域はほぼ平地で、南側が小山川に面していて、河川流域は北側に対して一段地面が低く、林や荒地が続く。
 この地区の小山川河川敷には遊歩道が整備されていて、西側に位置する秋山地区まで桜の木が延々と続いている。いわゆる「こだま千本桜」と言われ、河畔両側に約1,100本の桜が5㎞に渡り美しく咲き誇り、本庄市内でも有名なお花見スポットで有名な場所である。こだま千本桜は埼玉県内8位の人気の高いお花見スポットで、4月上旬には「こだま千本桜まつり」が開催され、ステージイベントや模擬店の出店など様々なイベントが開催されているという。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町長沖331
             ・ご祭神 宇迦之御魂命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 315日 大祓式 6月・12月 例大祭 1015
                  新嘗祭 1129日

 埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町方向に向かい、国道254号線と交差する「大天白」交差点を左折する。八高線を越えてコンビニエンスを右手に見ながら、2番目の信号である「身馴川橋」交差点を右折、暫く道なりに西行する。その後同県道287号長瀞児玉線との交点「第一金屋」交差点を左折し、500m程県道を南下すると、右手に長沖飯玉神社の社叢や南北に広がる境内が見えてくる。
 駐車スペースは一旦県道を南下して、社叢が途切れる地点に右折する道があり、鳥居の左手に数台分駐車できる空間が確保されていて、そこの一角に車を停めてから参拝を行う。
 
      
長沖飯玉神社一の鳥居          一の鳥居を先には石段があり
                       その先に二の鳥居及び境内が見えてくる。
        
                             石段の手前に案内板あり。
飯玉神社 御由緒
□御縁起(歴史)  本庄市児玉町長沖三三一
当地は塚(古墳)が多く、『風土記稿』長沖村の項に、地内の恵日寺の境内から 「鼻目そなはり人の形をなし」た人物埴輪の出土が記される。また、当社付近からは、二階造家型埴輪が出土している。
飯玉は、飯が稲であり玉が魂の意であるから、一般には稲霊と解釈されるほか、飯には斎火の意もあり、斎火の飯の神、つまり御饌の神を祀ったものとも考えられる。ところが飯玉神社が鎮座する地内から古遺物が出土する例が多く、江南町千代では古墳群と窯跡、寄居町末野の末野神社も元は飯玉神社で、地内に国分寺瓦を焼いた奈良時代の窯跡があり、地名も須恵器にちなむとされる。吉見町の横見神社は元飯玉氷川神社で古墳群に鎮座し、地内には須恵器窯跡が無数にある。群馬県多野郡吉井町岩井も古墳群の地で縄文土器・須恵器・土師器が出土、新田郡新田町上田中も古墳群があり縄文遣物と兵庫塚古墳からは埴輪馬具が出土した。群馬県内の鎮座地には、飯塚・出塚(尾島町の飯霊神社)など塚の付く地名が多く、古墳との関連も考えられる。
当社は、『風土記稿』に「飯玉明神社 村の鎮守にて、神主を山中能登と云」とある。また、『児玉郡誌』には、享保年中(一七一六~三六)に山中兵庫が京都の吉田家の配下となり、同家が明治維新まで数代にわたり奉仕したことや、社殿は享保年間に再興されたことなどが記されている。
□御祭神と御神徳  宇迦之御魂命…五穀豊穣・商売繁盛
                                      案内板より引用
 
        
                  社号標柱、及び二の鳥居を仰ぎ見る。                  
 
  両部鳥居である朱色で木製の二の鳥居         二の鳥居の社号額には
                       「正一位 飯玉大明神」と表記されている。

 長沖飯玉神社周辺の地形を確認すると小山川のすぐ北側に鎮座していて、標高が社の南側で小山川左岸地点、東側、北側がそれぞれ108m109m程度、それに対して長沖飯玉神社の社殿地点が110.1mであるので、若干微高地に鎮座していて、一の鳥居付近は石段で補強しているようだ。但し社殿西側は西方向に進むにつれて標高は高くなっていて、社の北西部に位置する「消防本部中央消防署児玉署」で113mである。

 長沖飯玉神社の鎮座地はこのように河川災害に対して、決して最適な場所とは言えない。但し「太駄岩上神社」項で述べたが、長沖・小平(秋山)・太駄地区の地域的な特徴として、交通の要衝地である事があげられ、現在の埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していた。古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を北上し、小山川を越えたすぐ北側に長沖飯玉神社は鎮座しており、絶妙な位置関係にあったと考えられる。

 なお長沖飯玉神社が鎮座する場所は、長沖本地区から少し東に離れた飛地である。何故飛地がポツンとこの社周辺にあるのであろうか。交通上の要衝地である事は言うまでもないことだが、長沖地区に住む方々にとってこの少し離れた飛地に鎮座する社が如何に神聖な場所であったか、窺い知ることができよう
       
        二の鳥居を過ぎて、すぐ参道右手にケヤキのご神木が聳え立つ。
        
                                       拝 殿

 長沖という地名の起こりははっきりとは分からないらしいが、伝承ではこの地域に入り江があり、入り江の真ん中が突き出ていたので、それを「中沖」と呼び、後代「長沖」になったとも伝えている。
 中世の資料によれば、『安保文書』中、建武4年(1337)武蔵国守護高重茂(こうのしげもち)奉書(ほうしょ)によれば「建武四年四月十二日、武蔵国瀧瀬郷・枝松名長茎郷中院宰相中将家跡事、為勲功之賞所被預置也、安保丹後入道殿、高重茂花押」とあり、暦応3年(1340)安保光阿(光泰)譲状に「暦応三年八月二十二日、惣領中務丞泰規分、賀美郡安保郷・児玉郡枝松名内宮内郷・榛沢郡瀧瀬郷・児玉郡枝松名内長茎郷・秩父郡横瀬郷・崎西郡大井郷。二男、三男分は同じ」。「享徳二十七年四月七日、安保中務少輔氏泰申、武州児玉郡塩谷郷塩谷源四郎跡、足利成氏花押」と見える。また延文4年(1359)紀州那智山『米良文書』の『旦那願文』には「延文四年十二月八日、武蔵国少(児)玉郡之内しをのや(塩谷)の住人彦五郎入道行印、又ハなかくきとも申候、はしめて京都にて師旦の契約申候、是は畠山殿紀伊国攻めの御時」と見える。
 この「長茎」が「長沖」と同じ場所かどうか、そもそも同じ名称だったかどうか、現在分かっていないが、可能性の範囲としては高いと考えられている。
 
   社殿の奥に整然と並んである石碑群。         石碑群の右隣には合祀された石祠群、
                           境内社、石碑が並ぶ。詳細不明。

 長沖飯玉神社、社殿の背後には土塁を石で補強し、石垣のような形状をしており,本殿北側には上記の多数の境内社や石祠群、石碑群が並んでいる。
                 
                                     飯玉神社之碑

飯玉神社之碑     貴族院議員正四位子爵白川資長篆額
武藏國兒玉郡金屋村大字長沖ニ鎮座セル村社飯玉神社ハ宇迦之御魂命ヲ祀リ往昔ヨリ當地ノ鎮守タリ享保年間京都吉田家ノ配下山中兵庫神主トナリ爾来其子孫継承シテ明治マテ奉仕ス社殿ハ享保年間ノ修築ニ係ル明治五年村社ニ列セラル同卅二年境内神社ヲ改修シ同卅五年石垣ヲ修築シ同卅八年無格社稲荷神社ヲ境内ニ移轉シ土地參畝貳拾歩ヲ買収シテ境内ヲ擴張ス大正三年御即位大典記念トシテ社殿ヲ増築ス同六年社務所ヲ新築シ竝ニ石燈籠弐基ヲ建設シテ大ニ神域ノ威嚴ヲ加フルニ至レリ尚神社基本財産ノ増殖ヲ企畫シツツアリ本年十一月御即位ノ盛事ニ當リ記念碑ヲ建ントテ氏子惣代來リテ文ヲ需ム嗚呼氏子等ノ敬神ノ意一ニ何ソ篤キヤ余仍テ其事略ヲ揚クルコト如斯
昭和三年十一月十日 官幣中社金鑚神社宮司從五位勲六等金鑚宮守撰(以下略)
                                     記念碑文より引用
 
         
 二の鳥居の右側には、境内社である稲荷神社の鳥居が並んで立っている(写真左)。同じ両部鳥居ながら長沖飯玉神社の鳥居よりサイズは小さい。その鳥居の先にはこんもりとした高台があるが、後で確認すると古墳であり、正式名称は長沖45号墳。その墳頂に稲荷神社が鎮座している(同右)。

 この地域には本庄市児玉町長沖・高柳・金屋・児玉の各地区にわたって古墳群が分布しており、長沖古墳群、別名「梅原古墳群」とも呼ばれている。小山川の左岸に沿うように概ね東西方向に展開していて、その区域内に5世紀中頃から7世紀後半にかけて築造されたと推定されている。
 古墳群の範囲は、東西 2.3 ㎞、南北最大幅で760mの区域に古墳が前方後円墳や帆立貝式を含む総数180基を超す大規模な古墳群を形成している
 特に長沖32号墳は、全長32m、高さ3mの前方後円墳で、円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪等が出土しており、市指定史跡となっている。現在は「長沖古墳公園」として、綺麗に整備されている。
        

 案内板に記載されているが、飯玉神社が鎮座する地内から古遺物が出土する例が多く、江南町千代では古墳群と窯跡、寄居町末野の末野神社も元は飯玉神社で、地内に国分寺瓦を焼いた奈良時代の窯跡があり、地名も須恵器にちなむとされる。吉見町の横見神社は元飯玉氷川神社で古墳群に鎮座し、地内には須恵器窯跡が無数にある。群馬県多野郡吉井町岩井も古墳群の地で縄文土器・須恵器・土師器が出土、新田郡新田町上田中も古墳群があり縄文遣物と兵庫塚古墳からは埴輪馬具が出土した。群馬県内の鎮座地には、飯塚・出塚(尾島町の飯霊神社)など塚の付く地名が多く、古墳との関連も考えられるという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「本庄市観光協会公式HP」
    「Wikipedia」等

拍手[1回]


太駄岩上神社

 本庄市児玉町太駄地区は本庄市の南西端部に位置し、この地区の大半は上武山地に含まれ、盆地となっていて、中央を南北に小山川(旧身馴川)が蛇行しながら流れている。尚この小山川はこの太駄山中より発している。太駄地区の中心部は小山川に沿って細長く盆地状の平地に広がっていて、北は河内、東は長瀞町野上、西は神川町阿久原・矢納、南は皆野町出牛各地区と境を接している。
 南境の皆野町出牛より群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線が北上し、太駄中央部である字殿谷戸で分岐し、前橋長瀞線は左折し、字沢戸を経て、杉の峠から神川町阿久原に入る。一方直進する道路は主要地方道である埼玉県道44号線秩父児玉線となり、河内地域に通じている。この主要地方道に沿って小山川は流れていて、嘗て度々河川は氾濫し、大きな被害を出してきた。

とはいえ太駄地区の地域的な特徴として、交通の要衝地である事があげられる。現在の埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していた。この主要な道路の他にも、太駄から神川町阿久原へ通じる道路や長瀞町に至る古道があった。現在秩父郡内から関東平野部に通じる交通路は国道140号線や秩父鉄道を用いて寄居町方面へ通じるのが主要となっているが、嘗てはこの道路は交通の難所で、歴史的に新しく近世になって開削されたものである。古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を通り、上野国や児玉郡へ出るのが一般的であったらしい。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町太駄293-1
             ・ご祭神 岩長媛命・石凝姥命
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 新年祭 13日 節分祭 23日 春祭り 415
                  大祓式 721日 秋祭り 1017

 太駄岩上神社は児玉町から、秩父・皆野町へ抜ける埼玉県道44号線秩父児玉線沿い、ヘアピンカーブの突き出た小高い山の上に鎮座している。というのもこの県道は、小山川沿いに並行して通っているが、社付近は小高い山が突き出たような地形をしているため、この川は急激な蛇行を繰り返すような流路となっている。案内板では社付近のヘアピンカーブのことを、古くは当社にちなんで「明神様の大曲り」と呼んでいたという。
 駐車スペースはあたり周辺になく、県道を1㎞程先に進んだ地点に広い路肩部分があり、そこに停めてから、参拝を行う。
 県道ゆえか、交通量は意外と多かったが、歩道もしっかりと整備されている。また参拝当日は10月中旬の秋晴れの天候であり、また社までの移動中もほぼ平坦な地形で、澄んだ空気を体中に取り入れながらウォーキング気分で参拝に望めた。
        
                                  太駄岩上神社 正面

 現在はしっかりと舗装された県道ではあるが、嘗てこの道は皆野町に通じる由緒ある古道であり、またこの県道からは長瀞町や神川町方面にも通じる派生路もあり、歴史的に見ても重要な交通路であった。
 徒歩での移動中も、石碑等が道端に設置されていて、その道路自体の歴史の痕跡も垣間見られたように感じ、自然と少しずつ近づいて見えてくる社に対して、当初はウォーキング気分で臨めたのだが、次第に厳粛な気持ちが大きくなるのを感じた。
             
               鳥居右側に設置されている社号標柱
         
                              太駄岩上神社 神明鳥居
         
                                     神楽殿

 神楽(かぐら)は、日本の神道の神事において神様に奉納するため奏される歌舞。神社の祭礼などで見受けられ、平安時代中期に様式が完成したとされる。神社境内に「神楽殿」がある場合、神楽はそこで行われる事が多い。
 一般に「かぐら」とは、「神座(かむくら、かみくら)」を語源とする説が有力で、『古事記』『日本書紀』の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は本来、招魂や鎮魂、魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。
 また宮中で行われる「御神楽(みかぐら)」と民間で行われる「里神楽(さとかぐら)」に大別され、日本の芸能の原点と位置づけられている。
 現在本庄市域で行われている神楽は全て『金鑚神楽』流で、里神楽と呼ばれている。

 太駄岩上神社では、毎年415日に一番近い日曜日に例大祭が開催される。太駄神楽は、武蔵二之宮 金鑚神社の付属神楽として、鎌倉時代に神楽田楽等勃興と共に神社特有の神楽が組織されたものの流れを汲んでいる。この付属神楽は大里・児玉郡地方にのみ13組存在しており、その内の1組であり、現在は本庄市の無形民俗文化財に指定されており、金鑚神楽太駄組保存会が引き継いでいる。
       
        鳥居の左側で、県道沿いに聳える巨木。ご神木の類だろうか。
        
                         鳥居を過ぎるとすぐ目の前にある割拝殿。
        
                            割拝殿の傍らに設置されている案内板

 岩上神社 御由緒 本庄市児玉町太駄二九三
 □御縁起(歴史)
 当社は、身馴川(小山川)が大きく蛇行する所に突き出た山の上に鎮座している。境内の北側の斜面は、三葉ツツジの群生地となっており、春の開花期には美しい花が一面に咲き誇る。 また、川に沿って県道秩父児玉線が走っているが、当社付近のヘアピンカーブのことを、古くは当社にちなんで「明神様の大曲り」と呼んでいた。
『児玉郡誌』によれば、当社は往古より当所の鎮守として奉斎してきた神社であり、社殿は元来境内の後方の神山の嶺にあったが、いつのころか今の社地に移されたという。また、社号については、慶長三年(一五九八)に大和国(現奈良県)石上神宮の神主桜井丹波という者が当地に来て吉田家の配下となり奉仕するようになった時、「いそがみ」と訓むようにしたという。 『風土記稿』太駄村の項にも「岩上明神社吉田家の配下、桜井丹波が持、末社金鑽明神」と載るように、桜井家はその後も代々祀職を務めてきたが、桜井文五郎を最後に神職を辞め、一族の中里重一が後継者となった。しかし、昭和十二年ごろから鈴木家が兼務するところとなって現在に至っている。
 当社は明治五年に村社となり、同四十五年六月に類火によって社殿が全焼したが、大正十一年十一月に再建を果たすことができた。 また、大正十一年十二月には境内末社の金鑚神社を本殿に合祀した。更に、昭和四十八年には再び拝殿を焼失するが、同年に再興を果たした。
 □御祭神…岩長媛命・石凝姥命…健康長寿、縁結び
                                      案内板より引用
 
    割拝殿の先にある石段を登る。          石段の左側にある「聖徳太子」碑と
                          その左側には境内社。詳細不明。
        
                                       拝 殿
        
                                      本 殿
   筆者としては外壁を取った後の本殿の精巧な内部彫刻を勝手に想像を膨らませてしまう。


 ところで太駄岩上神社のご祭神である「岩長媛命」(いわながひめ)や石凝姥命(いしこりどめのみこと)は日本神話に登場する女神である。

 岩長媛命は『古事記』では石長比売、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では磐長姫と表記される女神で、山の神である大山津見神の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の姉として登場する国津神。
 木花之佐久夜毘売と共に天孫邇邇芸命(ににぎ)の元に嫁ぐが、石長比売は醜かったことから父の元に送り返された。大山津見神はそれを怒り、「石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げられる。『日本書紀』には、妊娠した木花開耶姫を磐長姫が呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている。

 神話上ではこのような逸話のある女神として登場しているが、名称のみで考証してみると「岩の永遠性」を表すものとされ、「岩のように長久に変わることのない女性」として「石(岩)」を神格化した神と考えられる。
        
                                   静かな境内

 石凝姥命は作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神で、天糠戸(あめのぬかど)の子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊命(いしこりとべ)と表記されている。天津神。寄居町・姥宮神社のご祭神でもある。
『日本書紀』の一書では、思兼神が天照大御神の姿を写すものを造って、招き出そうと考え、 石凝姥に天の香山の金を採り、日矛(立派な矛の義。日の神の矛、茅をまきつけた矛、または八咫の鏡)を作らせたとある。
 その後、天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱とも謂われている。

石凝姥命」という神名の名義について、「コリ」を凝固、「ド」を呪的な行為につける接尾語、「メ」を女性と解して、「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」の意と見る説や、一族に「刀」や「凝、己利」(コリ、金属塊の意)の文字をもつことから、鍛冶部族としての性格を表していると見る説もあり、鋳物の神・金属加工の神として信仰されている。
        
                         社に隣接するようにカーブを描く県道

 岩長媛命や石凝姥命は、どちらも「石・岩」を共有し神格化した女神である。案内板には「往古より当所の鎮守として奉斎してきた神社であり、社殿は元来境内の後方の神山の嶺にあったが、いつのころか今の社地に移された」と記載されていて、筆者が想像するに、記紀の神話に組み込まれる前の、本来のご祭神は「神山」ないしは「神山に存在した磐座」ではなかったのではなかろうか。
        
              県道に沿って流れる小山川の清流。

 太駄はオオダと読み、嘗ては「太田」の字を当てた時代もあったそうだ。
 平安時代中期、当代随一の和漢にわたる学者であった源順が撰した、現存最古の分類体漢和辞書である『和名類聚抄』では古代児玉郡には、「振太・岡太・黄田(草田)・太井」の4郷を載せている。嘗て太駄地域は「振太」郷に比定する説(「大日本地名辞書」)もあったが、定かではない。

 話は変わるが、昭和六十一年に本庄市・西富田薬師元屋舗遺跡より「武蔵国児玉郡草田郷大田弓身万呂」と刻された9世紀製造された蛇紋岩製紡錘車(繊維に撚りをかけて、糸にする道具)が発見され、現在の本庄市栄3丁目から西富田の付近が、平安時代の書物『和名類聚抄』にも記録されている草田郷という村の一部として存在したと言う事も推定できる。
 平安時代の出土物(遺物)によって、『倭名類聚抄』の古写本の本文が正しいことが判明した珍しい事例であり、考古学的にも重要な資料でもある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「
本庄市観光協会HP」
    
Wikipedia」等

拍手[1回]