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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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都島角折神社

 本庄市都島地区は元々上野国に属していたらしく、慶長十七年検地帳に上州国那波郡都島村と記述されていている。上野国史によると、武州杉山、新井、都島、山王堂、沼和田、仁手等の数村は、古へ上野国那波郡に属していたが、寛永中の利根川及び支流の烏川の洪水で流路が変わり、武蔵国に編入されたと記されている。また武蔵風土記によると横瀬村華蔵寺大日堂天正十一年の棟札に、上野国新田庄勢多郡横瀬郷とあるし、又和名抄賀美郡郷名に載せてある小島は、今の小島村と考えられるから、烏川の流路は寛永年中に賀美郡忍保から現在の八町河原に移ったものと考えられる。
 この都島地区に鎮座する角折神社にも「那波八郎」伝説は存在する。都島地区は嘗て那波郡と陸続きだった時期があった。寛政年間以前の利根川流路の痕跡が
この伝説の存在により残っているというべきだろうか。
所在地   埼玉県本庄市都島235
御祭神   角折神
社  挌   不明
例  祭   11月3日 秋季例大祭
           
 都島角折神社は小島唐鈴神社から北側1、5km程の場所に鎮座している。 国道17号小島交差点の左側脇に唐鈴神社は鎮座しているが、そこを右折し、そのまま北上すると旭公民館の向かい側に都島角折神社は鎮座している。道路側から狭い境内に通じる道に入るのはやや憚ったが、今回は無理やり駐車し参拝を行った。
           
                          角折神社の両部鳥居
 都島角折神社が鎮座している都島地区は烏川と利根川が合流するすぐ南岸に位置し、地形上烏川低地帯に含まれていて、その中の自然堤防上に鎮座している。
 この地域名「都島」は、小鹿野町吉田文書に「正月四日(天正七年)、北条氏政は、去年十二月二十八日の宮古島衆(北条方)と倉賀野衆(武田方)との合戦における氏邦家臣吉田和泉守の戦功を賞す」と記述され、この地域の土豪集団の名称から、本来の地名は「宮古島」で、後に「都島」と変わったのではないかと思われる。
           
                          都島角折神社案内板

角折神社
 所在地 本庄市都島二三五
 角折神社の由来は、清和天皇の貞観年間(859~877)京都から公卿某が東国に下向した折に、勅使河原(現上里町内)に至りさらに上州那波郡茂木郷に移ったところ、この地に魔鬼が現われ民衆を苦しめているのを見て、魔鬼の角を折って退治したと伝えられる。以来、都島の里人はこの剛勇の公卿を崇拝して角折明神と称し、後世に伝えるため神祠を建てて祀ったと伝えられている。
 社殿は享保年間(1716~1736)の建築で、徳川時代には正観寺がその別当職であった。
 なお、境内には、九頭竜神社と八郎神社も祀られている。
 九頭竜神社は、昔、正観寺の北側にあったが、後にこの地に神殿を移したものである。この都島の辺は利根川と烏川が合流し、水域の移り変わりが激しい所で、たびたび洪水にみまわれたが、当社に瀬引の祈願をしたところ川の流れが北に変り洪水がなくなったという伝説がある。
 八郎神社は疱瘡除けの神として、鎮西八郎を祀ったものである。明治時代には近隣町村からの参詣者が多く、同社の「鎮西八郎子孫」の御札を住居の入口に貼っておけば疱瘡の疫病神が舞い込まないと言われている。
 昭和六十一年三月
                                                           案内板より引用


 案内板前半の記述では、「那波八郎大明神神事」がモチーフとなっているようだが、詳細を調べてみるとかなりの違いがある。「那波大明神神事」の内容は長くなるので省略するが、本来の伝承では怨霊(大蛇)と化した那波八郎が京からきた若い公家からお経を唱えられ、蛇は成仏して那波大明神になったというのだが、この都島角折神社の案内板では、対峙した人物は「京からきた公卿」でそこは同じだが、怨霊ではなく角のある「魔鬼」であり、「那波八郎」であるかの記述もなく、ただ「魔鬼が現れて民衆を苦しめた」としか書かれていない。そして「那波大明神神事」では祀られた対象は「那波八郎」だがこの案内板では退治した当の人物である「剛毅な公卿」が「角折明神」として祀られている。

 案内板後半はもっと混乱していて、境内社である八郎神社は「八郎」を祀っているが「那波八郎」ではなく、同じ八郎でも「鎮西八郎(おそらく源為朝)」を祀っている。由来、由緒は語部による口伝えが主であったろうから、伝説が各地に浸透するなかで、地域的変化が生じることは致し方ないこととはいえ、かなりの脱線が見られる。正確な記録の伝承は何時の世にも必要なことだ。
           
                             拝     殿

        拝殿の右隣にある八郎神社             拝殿の左側手前にある九頭竜神社
           
                          社殿を西側から撮影

 ところで上野国佐位郡一帯に勢力を誇っていた桧前一族は、当時の政治を掌握していて天皇以上の権力を有していた蘇我氏のもとで、大和政権の外交・財政・軍事などに深く関わって成長してきたとされている。つまり桧前一族は蘇我氏の配下であり、ブレーンでもあったと思われる。蘇我氏の協力があり、桧前一族は日本国中にその勢力範囲を広げたと思われる。その中の一派が上野国佐位郡を中心に北武蔵国にもその範囲を広げたと考えられる。角折神社が鎮座する「都島」地区はその範囲内に含まれていた可能性が高い。
 この「都(宮古)島」は「都(宮古)」+「島」と分割することができ、本来の地名は「宮古」であろう。前述の小鹿野町吉田文書は天正7年(1579年)に北条氏政が配下の吉田和泉守政重に送った感状であり、少なくとも16世紀にはこの「宮古島」という名は存在していたことになり、決して近年に付けられた地名でないことが分かる。
 また伊勢崎市の大字には「宮古」「宮子」「宮前」「上之宮」といった「宮」のつく地名が多数あり、 更に伊勢崎市宮郷地区は嘗て「宮の郷」と呼ばれていたということから、少なくともこの地域は「宮」に関連した地域であることは間違いない。
 但し那波郡には7つの郷があるが、その中に宮の郷は存在しないことから、ある意味地元の人々の尊称名ではないかと考えられる。またこの地域には延喜式内社である火雷神社倭文神社、それに那波総社の飯玉神社も鎮座していて、「宮」の地名を付ける根拠も確かにある為、即決するのは危険であり、さらなる考証は必要だ。


       鳥居や案内板の隣にある石祠               社殿と八郎神社の間にある石祠

  社殿を左側に回るとその先には数基の石祠あり          石祠の手前にある境内社


 都島角折神社の北側と西側面に社を取り囲むように自然堤防が伸びている。嘗てある時期に河川の通り道だったかのようにこの堤防は東側に伸びて、最終的には利根川に合流する。 暴れ川の名称を持つ利根川の乱流を物語るわずかな痕跡の一つであるこの自然堤防は、現在この長閑な田園風景の一つに溶け込んでいるようだった。


 

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小島唐鈴神社

 那波八郎伝説は利根川左岸中流域を限定した一区域内の民間伝承・伝説の類であるが、利根川右岸にもその痕跡は残っていて、本庄市小島地区に鎮座する唐鈴神社という一風変わった名前の社の伝承にも那波八郎に関する記述が存在する。
 本庄市小島地区から真北には利根川を挟んで伊勢崎市堀口地区があり、地区内には那波総社飯玉神社が鎮座する。共に那波八郎の伝承を共有する社同士で、地形的に見ても南北同線上に鎮座しているこの事実から、何かしらの関連性が伺わせる。
 規模も小さく閑散として何となく寂れた社、という第一印象であったが、調べてみると歴史も古く、決して侮れない、そんな社をまた一つ発見してしまった思いだ。
所在地   埼玉県本庄市小島5-433
御祭神   大国主命・素戔嗚尊・宇迦之御魂神
社  挌   旧村社
例  祭   不明

       
 小島唐鈴神社は国道17号を上里町方向に進み、本庄市街地を抜けた小島交差点を左折するとすぐ左側に見えてくる。丁度交差点の脇に社殿が鎮座しているので、小島交差点からよく見える為場所は解りやすい。ただそこから一の鳥居までの参道は数百m程あり、しかも一の鳥居付近には適当な駐車場や駐車スペースがない為、近隣にある長松寺の駐車場に置かせてもらい参拝を行った。
           
               道路沿いにある唐鈴神社一の鳥居とその先にある参道。

       一の鳥居に掲げている社号額              一の鳥居からの参道が結構長い。
              
          一の鳥居から参道を進むと二の鳥居があり、その先右側に案内板がある。

唐鈴神社
 所在地 本庄市小島五‐四
 唐鈴神社の祭神は、大国主命・素盞鳴尊・倉稲魂命である。
 社伝によれば、遣唐使として唐国に渡った大伴宿根古麿が、天平勝宝年間(749~757)に帰国の折、唐国の玄宗皇帝より渡海安全のため金鈴を授けられた。
 その後、古麿は武蔵野国武州小島郷皇坂(現在の長松寺境内)に館を築く。その子古佐美、さらにその子良麿三代がこの地に住んだ。この時、良麿は五穀豊穣のため秘蔵の唐鈴と、出雲国氷川の杵築大社(現出雲大社)を分霊し二柱を祀り社を創立した、後に、良麿は帰京を任ぜられたが、その際に神宝の盗難を恐れ石函に入れ、社の下に埋めた。
 そして幾歳月がすぎ、戦乱の世に社も破壊された。これを嘆いた近在の人々が再興のため社跡を掘ると石函が出土し、中に五つの金鈴があったと言う。石函には、大伴宿根古麿が玄宗皇帝から賜った唐鈴であることが記されていたと伝えられる。これが唐鈴神社の由来である。
 なお、社殿裏の交差点一帯は、小島本伝遺跡で、古墳時代の住居跡が発掘されている。また、西方には、県選定重要遺跡の旭・小島古墳群があり、その中の八幡山古墳など数基は、本庄市の文化財にも指定されている。
 昭和六十一年三月
                                                          案内板より引用

 この案内板に登場する大伴宿根古麿とは、大伴宿祢古麻呂のことであろう。この人物の生年は不詳であり、没年は天平宝字元年7月4日(757年7月24日))と言われている。
 大伴氏は古来から続く名族で,天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天津神系氏族である。「大伴」は「大いなる伴部」という意味で、朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む名称。古来から物部氏と共に朝廷の軍事を掌握していた軍事氏族という一面を持つ。両氏族には親衛隊的な面を持つ大伴氏に対して、国軍的な意味合いの強い物部氏との違いがあるといわれて、大伴氏は朝廷の警護を任されていた近衛兵のような存在と言われている。が古代よりそのような機構が整備されていたかどうかは正直言ってハッキリとは判明していないのが実情だ。
 大伴氏は5世紀雄略天皇の頃中央での葛城氏に代わって覇権を確立し、大伴室屋は大連に任命されるころからその孫金村に至る時期がその全盛期にあたり、特にこの金村は平群真鳥の乱を平定し、さらに継体天皇を担いで王位継承戦争を戦い勝利するなど政略的能力を如何なく発揮し、物部氏や蘇我氏と共に朝廷内で重きをなしたが、任那割譲問題の失政が原因で勢力を急速に縮小する。しかし大化改新後の金村の孫である右大臣長徳やその兄弟である吹負や馬来田が壬申の乱に際して活躍し復権。天武天皇の御代に宿禰を賜姓され、奈良朝には宮廷人として相当栄え参議以上の官職ににおいてる者もかなり見られた。
           
                             拝     殿

       拝殿手前左手側にある天王宮        拝殿の右側には国常立神・国狭槌神・豊斟渟神
                                              の石碑
 案内板に記されている大伴宿祢古麻呂は奈良時代の官人で、第十回遣唐使の副使を拝命されたくらいであるから学識もあり容姿も端麗な人物であったらしい。それに加え軍事氏族大伴一族の気風を受け継いでいてかなりの硬骨漢だったようだ。この第十回遣唐使、天平勝宝5年(753年)正月、玄宗臨御の諸藩の朝賀に出席し、古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、新羅の東畔第一席より下であったことに抗議し、新羅より上席に代えさせている逸話がある。また天平勝宝6年(754年)の帰国の際には、唐朝、揚州出身の鑑真和上とその弟子24人を便乗し帰国する。この鑑真の来朝も実は密航で、鑑真和上は渡航を希望していたが、時の唐の官憲が鑑真和上の渡航を禁止しているのを無理やり独断で鑑真一行を自分の乗る第二副使船に乗せたという。後に事実が露見して外交問題に発展するのを恐れて大使である藤原清河は渡航を禁止したほどだったから、いかにこの人物が反骨があり、義を重んじる人物だったかわかるだろう。
 当時の大伴氏の中心人物は大伴旅人で、最終階位は従二位・大納言。政治的には長屋王に組していたといわれる。時は藤原鎌足を祖として藤原不比等の時代にのし上がってきた新興氏族・藤原氏が台頭していた時代で、藤原氏はこの旅人を目障りな存在として映っていたのか、遠い九州に2度赴むかさせている。天平2年(730年)6月に旅人が危篤になった時、旅人は腹違いの弟・稲公(いなきみ)と甥の古麻呂に遺言を告げたという。古麻呂は大伴氏の将来を託すに足る人物と旅人に認められていたことではなかろうか。
           
                             拝     殿
 長屋王は、藤原氏の陰謀により神亀6年(729年)2月に自害し、大伴旅人は前出の危篤状態から一旦は回復し、京に呼び戻されたが、ほどなく天平3年(731年)7月に病没。藤原氏も天然痘により四兄弟が相次いで病没し、橘諸兄等、非藤原氏が政治の中心となったが、聖武天皇の皇后光明皇后の信頼が厚い藤原南家・藤原仲麻呂の台頭により大伴古麻呂は橘奈良麻呂の乱に連座、拷問の末に絶命したという。

 案内板には大伴古麻呂が当地に館を築いたと書かれているが、古麻呂自身は遣唐使以外はほぼ京にいて、東国に赴いた記事はない。僅かに天平宝字元年(757年)6月に鎮守将軍兼陸奥按察使兼任となり、陸奥国への赴任を命じられたとの記述はあるが、翌月には橘奈良麻呂の乱に連座されていて、時間的に厳しい。ただ大伴氏は歴史もあり、大伴氏に関連した氏族がこの地に移住、統治したことはあながち間違いではあるまい。正倉院庸布墨書銘に「天平勝宝五年十一月、武蔵国加美郡武川郷戸主大伴直牛麻呂、戸口大伴直荒当が庸布を貢納す」とあり直姓の大伴氏の存在が近隣に存在していたし、児玉郡には桧前一族の配下に「大伴国足」という人物がいたことが飯倉村字山崎遺跡の銘に残っているという。

       社殿裏手に一列に並ぶ末社群              社殿の手前道路側にある社日

 しかしそれよりこの本庄市小島地区に「那波八郎」に関する伝説があること自体注目に値する。
 伊勢崎市角渕に鎮座する角渕八幡神社の伝説によると、嘗て貞観(じょうがん)4年(862)の10月から翌11月にかけて天災や不吉なことが続いていた。そこで、国司は神官に命じて火雷神社(玉村町下之宮)において神事を執り行わせようとし、その際、副使としてこの地を治めていた武士那波八郎廣純(なわはちろうひろずみ)を同行させた。神官が、斎戒し注連を結んで四方を祈祷し、神前に幣帛を奉り、神鏡を捧げて祈祷を行っていた7日目、怪物が姿を現し、神鏡を奪おうとした。那波八郎廣純は刀を振ってその首を切り落とした。このとき、怪物の折れた角を川に投げ、後に淵になったところが、現在の玉村町「角渕」であり、切った手を捨てたところが玉村町「上之手」(神の手)であるという。更にこの時、はねられた魔物の首を祀ったのが、本庄市小島にある唐鈴神社とされている。
 この説話から見えてくることは、この小島地区は、ある時期那波八郎伝説を共通する文化圏に属していたということだ。属するというのは文化的とも、経済的とも取れるし、もっと深く推測すると那波氏の支配下地域だったのともいえる。自分たちにとって安心できる地域だからこそこの地に祀ったと考えた方が自然だ。

 ところで案内板では唐の帰国の際に贈られた金鈴が御神体とも言われ、伝説では魔物の首を祀っている・・・何故相反するものが共存して祀られているのか、それとも魔物=鈴なのか、伝説の中に面白い真実が隠されているような気がしてならない。

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今井金鑚神社

 今井氏は武蔵七党の一つ児玉党出身の武士で、「武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」などによると、庄氏を名乗ったとされる四郎高家の孫にあたる太郎兵衛行助が今井の地に居館を築き今井氏を名乗ったとされている。武蔵七党系図では「児玉庄太夫家弘―庄四郎高家(一谷合戦)―三郎行家―今井太郎兵衛尉行助―四郎左衛門尉経行―藤内左衛門行経(法名善光。弟太郎資経)―六郎経高(法名蓮心)―女子。経行の弟五郎有助―五郎太郎助経―三郎太郎家経―氏家」という系図となっているという。
 武蔵七党の一つである児玉党の一族の館の近くには守護神である金鑚神社を氏神として崇敬していることが多く、市内の今井・富田や、児玉町の真下・浅見など、児玉党支族の名字のつく旧村々にある金鑽神社がそれにあたるという。この今井地域も今井太郎兵衛行助が館を築いたときに守護神として乾の方角(北西)に勧請したと伝わっていて、このことは金鑚神社の影響力の広がりを感じることができる。
所在地    埼玉県本庄市今井1124
御祭神    素戔嗚尊、天照大神、日本武尊(推定)
社  挌    旧村社
例  祭    不明

       
 今井金鑚神社は国道462号を旧児玉町から本庄方面に北上し、四方田交差点を左折して真っ直ぐ上里町へ向かう途中に左側に鎮座している。四方田交差点から約2km弱で、道路沿いに鎮座しているので、道順に苦労せずに着くことのできる社だ。
           
 道路沿いで東側にある社号標石。この標石の奥には寛正年間(1789~1801年)の庚申塔。がある。また社号標石の奥に見える道路は、北廓遺跡という今井氏の居館跡と言われ、1982年の道路工事に伴う埋蔵文化財の発掘調査によって幅3.8m、深さ0.6から1.2mの直角の3条の堀が検出され遺物も出土しているとのことだ。現在は道路や駐車場となっていて当時の面影はまったくない。
           
 
 東側に向いている一の鳥居(写真上)の手前右側には本庄市指定文化財の「今井金鑚神社の獅子舞」の案内板(同左)がある。この獅子舞は 享保9年(1724)に社殿を再建したときに奉納したのがその始まりといわれます。京より招いた神官が伝えたといわれ、京風の雅楽や蹴鞠の仕草が取り入れられているという。また参道を真っ直ぐ進むと(同右)、社務所や社殿が右手側に見えるが、それらは参道に対して横を向いている配置となっている。
            
                              拝    殿

 社殿の正面右側にある開闢木喰不動尊 三笠山           拝殿上部にある社号額
          御嶽神社等の石碑群
              
                             本    殿
 社殿の左手奥には多くの合祀社が存在する。今井金鑚神社は明治初年の社格制定に際しては村社となり、明治四十年には字下郭の金鑽神社、字塔頭の飯玉神社、字下田の稲荷神社、字松島の松島神社、字川越田の天神社、字諏訪の諏訪社、字松原の天手長男神社、字雷電下の雷電神社の八社の無各社を合祀した。

           
                         参道の途中にあった社日

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蛭川駒形神社

 平重衡は平安時代末期の武将で、父は平清盛で五男。母は清盛の継室・平時子で宗盛、知盛らとは同腹。本三位中将と称され、源平合戦、正式には治承・寿永の乱で活躍する平家方の大将の一人である。兄知盛と並んで武勇の誉高く、平家の一員として各地を転戦して武功を挙げる。
 武将として重衡を一言でいうならば「不敗の将軍」といえよう。長兄重盛とは違い、重衡が誕生した保元2年(1157年)から保元・平治の乱を経た平和期に成長期を過ごした為、戦争を知らなかったはずであるのに、初陣24歳にして戦えば連戦連勝という輝かしい戦歴を誇ることは、それだけでも異彩を放つ才能の人物だったであろう。父清盛も重衡のその才能を期待してか、それまでの子供につけていた「盛」を付けずに、伊勢平氏の父祖である平維衡にあやかって「衡」とつけたものと思われる。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。
 本庄市児玉町蛭川地区の駒形神社の境内には一の谷の合戦の後、捕えられた平重衡の首を蛭河庄四郎高家が持ち帰り供養した塚と伝えられる首塚がある。
所在地    埼玉県本庄市児玉町蛭川214
御祭神    駒形大神(天照大神他6神で構成、推定)
社  挌    旧指定村社
例  祭    不明 

        
 蛭川駒形神社は埼玉県道75号線を旧児玉町方向に進み、大天白交差点を右折し、国道254号バイパスを真っ直ぐ進む。しばらく進むと、国道462号と交じる吉田林交差点に着くのでそこをまた右折し、そのまま約5分位まっすぐ進むと、道路沿いで左側に駒形神社が見える。
              
                   道路沿いに鎮座する蛭川駒形神社正面参道
                
                         社殿の手前にある御神木
            
                               拝    殿
 蛭川氏は。庄氏より分派した氏族であり、児玉党の本宗家4代目庄太夫家弘の四男である庄四郎高家が、児玉郡の今井郷蛭川荘(蛭川・熊野堂・今井村から成る)の蛭川村に移住して蛭川氏の祖となった事から始まる。姓は藤原だが、本来は有道。蛭川氏の一族は、『吾妻鑑』などの資料に名が見える。
 社伝では、児玉党の本宗家2代目である児玉弘行が神田を若干寄進した事が伝えられている。弘行が社殿を修理した時期は、児玉党祖である児玉惟行の没後と考えられ、11世紀末から蛭川の地が児玉氏本宗家の所領内であったと伝えている。

        社殿の左側にある境内社群        境内社群の手前にある石祠 祠の台座は石棺か?
 
    本殿の奥には合祀社(写真左)や、そこから少し離れた場所にも石祠が1基(写真右)存在する。 
              
             
                           蛭川駒形神社本殿
 拝殿もどちらかと言えば素朴な造りだが、意外と本殿は彫刻などが施されており、壮麗さとある意味妖艶さも醸し出している。

 ところで、冒頭平重衡を紹介したのだが、この平重衡は連戦連勝の「不敗の将軍」と書いたが、最後の最後に1回だけ敗戦を喫している。それが有名な「一の谷の合戦」だ。そしてそこで重衡は生田の森の副将軍であったが、敗走の途中、追われて味方の船にも乗れず、馬をも失い、自害を覚悟したところを、庄四郎高家によって生け捕りになったという。庄四朗高家はもちろん蛭川氏の先祖となる人物だ。
 この庄四朗高家は後に重衡が斬首された首を当地に持ち帰り、篤く祀ったという。それが蛭川駒形神社の隅にある「平重衡の首塚」である。
           
                    本庄市指定文化財 平重衡の首塚
この地は、一の谷の合戦の後、捕らえられた平重衡の首を児玉党の蛭河庄四郎高家がこの地へ持ち帰り供養した首塚であると伝えられている。
                                                  現地標柱案内文より引用

 平重衡は平家方の大将の一人として、兄知盛と並んで勇将として全国にその名は知られていた。その重衡にとって一大事件として起こったのが南都焼き討ちで、東大寺や興福寺を焼失させ、この合戦の顛末により重衡の評判は一変し、仏敵として憎しみの対象となってしまう。『平家物語』では、福井庄下司次郎太夫友方が明りを点ける為に民家に火をかけたところ風にあおられて延焼して大惨事になったとしているが、『延慶本平家物語』では計画的放火であった事を示唆している。放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられる。
 ただここで重衡側の弁護すれば、南都に対しては、平家は最後まで、平和的に話し合いを望んでいた。この戦いの前に平家の忠臣妹尾兼康を派遣して、和議を申し込むも、南都はこれにまったく応じず挑発的な行為で答え、清盛に決戦を挑んだことが原因である。元々当初から、南都は平家と対立し、以仁王の挙兵に際しても、反平家の立場をとっていた。こう考えると、焼き討ちは合戦の最中の不慮の事故ではあるが、南都の僧侶側が自ら破滅を招いたともいえ、重衡の罪は重くないと思われる。時代は下るが織田信長の比叡山延暦寺焼き討ち事件とほとんど詳細は同じである。いや織田信長には比叡山の壊滅を計画的に画策していたから信長のほうが遥かに重いというべきか。
 その後も重衡が参戦した墨俣川の戦いや、備中水島の戦いにも勝利し、福原まで進出し、平家軍は京の奪回をうかがうまでに回復していた。
 そして重衡唯一の敗戦である「一の谷の戦い」で名だたる公達が多く討死にするが、平家でただ一人生け捕りにされ、この勇将の戦いはここで終わる。

 重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。 『吾妻鏡』では頼朝との対面で「囚人の身となったからには、あれこれ言う事もない。弓馬に携わる者が、敵のために捕虜になる事は、決して恥ではない。早く斬罪にされよ」と堂々と答えて周囲を感歎させた。千手の前と工藤祐経との遊興では、朗詠を吟じて教養の高さを見せ、その様子を聞いた頼朝が、立場を憚ってその場に居合わせなかった事をしきりに残念がっている。
 そして、壇ノ浦の戦いのあった元暦2年(1185年)、重衡は東大寺に引き渡され、妻・輔子との最後の再会を果たした後、斬首された。享年29歳。 時代に翻弄されたとはいえ、太く短く駆け巡る人生で、最後はどのような気持ちでこの短い人生を締めくくったのだろうか。
 重衡の将才としての才能はもちろんだが、平時において心遣いを忘れない気を利かせる、冗談も言うユーモアを持った人物だったという。容貌は「艶かしいほど清らか」と記録が残るほどの美男。また、詩や笛など教養にも優れていた。

 蛭川地域にあるこの伝承が事実かどうかの真偽はあえてここでは問わない。ただ平安時代末期からの歴史がこの蛭川地域に確かに存在していて、それを発見できたことが自分にとってかけがえのない財産の一つとなったことはたしかだ。

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金屋白髭神社

 本庄市には「九郷用水」と言われる灌漑用水がある。この用水の由緒は諸説あり、かなり古いことは確かなようだ。この用水の北側に東福寺があり、その縁起には「昔、この地方は旱魃になやまされ、農民は苦労していた。そこでこの国の国造が、金鑽神社(神川村)に祈願すると一人の童子があらわれて「私が金龍になって神流川の流れを導くから、それにしたがって水路を開き用水にしなさい。」とお告げがあった。不思議なことにその夜明け、金色の大きな龍が神流川の水中よりあらわれて、野原や田畑をよこぎり進むと、ある高台にのめり上り、姿を消した。その高台がここ東福寺で、その金龍が通った跡に堀を開いてできたのが九郷用水(灌漑面積600ha、流路長さ約15km)であると伝えられている。」という。
 この縁起に記されている「国造」は令制国以前にあった行政区分であり、このことからこの縁起が記された時代の上限はかなり古く感じられ、またこの国造が金鑚神社に祈願したことや、九郷用水周辺には多数の金鑚神社が鎮座していることから、この地域一帯は金鑚神社の信仰地域であったと思われる。さらに神流川流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術を金鑚神社を信奉する技術集団が保持していたことを物語っている。
 そしてこの技術者集団が居住していた地域の一つがこの白髭神社が鎮座する「金屋」地区であったのではないかと筆者は推測する。
所在地    埼玉県本庄市児玉町金屋1164
御祭神    猿田彦神(推定)
社挌、例祭  不明

       
 金屋白髭神社は、国道462号線を本庄市児玉町地区より神川町二ノ宮の金鑚神社の方向に進み、途中金屋保育所交差点の手前約200m、進行方向の右側に鎮座している。境内は決して広くはないが、この社が鎮座している「金屋」という地名には興味があったし、その地域名からか社の雰囲気も中々趣のある感じだ。駐車場は北側に隣接している第二金屋公民館があり、そこに停めて参拝を行った。
           
                            金屋白髭神社正面
 この社の参道正面には社殿を遮るように御神木の大杉があり、参道もその大杉を避けて迂回して造られている。日本人古来の巨木に対する信仰がまだまだ残っていて、参拝の最初から早くもカウンターを食らった感じを覚えた。

        国道沿いにある社号標石             参道を遮る御神木に並行してある境内社
                
    金屋白髭神社参道正面に聳え立つ御神木の大杉。但し樹齢はそれほどではないように思える。
              
                              拝    殿
 この社には残念ながら由緒等の案内板がない。式内社である武蔵国二宮金鑚神社から数キロしか離れておらず、この「金屋」という地域の由来はかなり深いはずであり、その点が非常に残念だ。
           
        
             
                           金屋白髭神社本殿
  金屋白髭神社から国道462号線を西に5km程行くと金鑽神社が鎮座する。この金鑽神社は『延喜式』神名帳に児玉郡の名神大社「金佐奈神社」とみえる。現在の祭神は天照皇太神・素盞嗚命・日本武尊の三柱で、社蔵の「金鑽神社鎮座之由来記」によると、日本武尊が東征の折に火鑽金(火打金)を御霊代として山中に納め、天照大神・素戔嗚尊を祀ったのが創始という。
 社名の金鑽=金佐奈は金砂の意で、鉱物の産出を霊験として崇めたといわれ、御嶽山では鉄や銅が採鉱されたとの伝承もある。同じく文化文政期の幕府官撰地誌『新編武蔵風土記稿』は、一説として祭神を採鉱・製鉄を司る金山彦神としており、古代の製鉄に関わる技術者集団(渡来人か)が周辺に存在し、彼らが金鑽神社の祭祀集団となっていたとの考え方もある。
 さて児玉郡域には、製鉄に関連する地名が多く残る。神流川は「かんな」すなわち砂鉄・鉄穴の意とされ、児玉郡美里町阿那志は古くは「穴師」とも記され(「記録御用所本古文書」国立公文書館内閣文庫蔵)、鉄穴師(鉱工業者)に関わるものと考えられている。
 白髭神社が鎮座する「金屋」地区は古くから鋳物師が存在していた。鋳物と用水開削は一見何の関連性のない分野と思われがちだが、技術を共通項目として考えるならばいささか早計ではないだろうか。その点は埼玉苗字辞典でも以下の記述があり、参考にしてもらいたい。
中林 ナカバヤシ
同郡金屋村(児玉町) 児玉記考に「旧家中林喜三郎、祖先を中林佐渡守と云ひ、倉林越後守の実弟なり。旧幕の頃は世々忠蔵と通称し、地頭の組頭役を勤続せり。文政の初年迄は倉林家と同じく盛んに鋳物師を営み全国百八軒の其一たりし」と見ゆ。天正年間の倉林越後守と兄弟説は附会にて、遥か是以前より鋳物師であった。多摩郡平尾村椙山神社懸仏銘(東京都稲城市)に「延徳二年壬午五月五日、武州児玉郡金屋住人中林五郎左衛門家吉敬白」。延徳二年(一四九〇)は庚戌である。延徳は私年号で寛正三年壬午(一四六二)が正確である。金屋村懸仏銘に「長享二年戊申六月吉日、武州児玉金屋中林家次」。静岡県富士山頂浅間神社懸仏銘に「天文十二年癸卯六月吉日、武州児玉金屋中林常貞」。大滝村三峰神社懸仏銘に「天文十四年乙巳八月吉日、三峰大明神、武州児玉金屋住中林次郎太郎信心施主」。小平村成身院文書に「文禄四年、阿弥陀如来座像造立之檀主中林加賀守・中林主計助・中林若狭守」。当村真福寺文禄四年墨書銘に旦那中林加賀守・中林主計助。上州世良田村東照宮元和四年燈籠奉納に金屋村中林仲次。川越鋳物師寛政六年小川文書に「児玉郡八幡山金屋村いものし・中林由右衛門・同庄右衛門・同伊左衛門・同治兵衛・同治右衛門・同太郎兵衛」。秩父郡金沢村西光寺天保十五年半鐘銘に児玉郡金屋村鋳物師中林庄右衛門。当村円通寺嘉永五年地蔵尊に中林伊左衛門・中林利七・中林定五郎母なみ・中林善兵衛母すみ・中林源治郎妻くめ・中林仙蔵妻りよ。当村元治元年二十二夜塔に中林善兵衛・中林茂助あり。
真継 マツギ 我国鋳物師の元締にて江戸時代に京都の真継能登守斎部宿祢は、足立郡川口町や児玉郡金屋村の鋳物師等を支配す。
倉林 クラバヤシ 鍛冶・鋳物師の倉族なり。
金屋村(児玉町) 金屋は金打の義で古代以来鍛冶・鋳物を業とする集団の居住地にて、小名倉林は此氏の屋敷名なり。(中略)秩父郡薄村薬師堂鰐口銘に「天正十五丁亥年十一月十五日、武州秩父郡薄之郷薬師堂鰐口処、大旦那北条安房守氏邦、武州児玉郡金屋村細工大工棟梁倉林若狭守政次」あり。風土記稿金屋村条に「天正中は倉林越前守・村民政右衛門が先祖知行せり。(中略)倉林文書(埼玉の中世文書)に「戌三月二十日(天正十四年)、伝馬三疋可出之、上州之鋳物師に被下、可除一里一銭者也、仍如件、自小田原西上州迄、宿中、垪和伯耆守奉之」あり。上州鋳物師宛てにて、前橋市上新田の鋳物師倉林氏宛てなり。金屋村倉林氏が買い求めた物であろう。児玉記考に「○旧家倉林甚四郎、先代を政右衛門と通称し、祖先を倉林越後守と云ふ、越後守は嘗て上杉修理太夫政実より旧賀美郡安保村に於て知行七貫文を与へられたる名族の後胤なり。爾来連綿同族三十有六戸皆繁盛を極む。○旧家倉林太郎兵衛、祖先は甚四郎に同じ。仁安元年(平安時代末期)始めて鋳物師となり、往時全国百八軒の其一なり。紫宸殿へ燈炉を献納し禁裏御用附となり、爾来、主上御即位毎に必ず参内せり。天福元年菊の紋章を許され現に門扉の座金に此章を附す。維新前は世々地頭の名主役を勤め苗字帯刀を許さる。



 埼玉苗字辞典では金屋地区の鋳物師は同時に鍛冶師であるという。時代は下るが平安時代以降から活躍した児玉党も金鑽神社を信奉し、崇敬していた一族という。
 金屋地区も金鑽神社を信奉する鍛冶師、鋳物師が居住していた地域だったからこそ、後世にこの地名が残ったのではないだろうか。

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