古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野々宮神社

 日高市野々宮地域に鎮座する野々宮神社の拝殿には「嘉永二己酉年・林鐘十月一日・於当社興行」とある相撲番付が掲げられ、古くから奉納相撲が行われていたという、立派な土俵が拝殿前に築かれている。社蔵文書「一礼之事・天保二年八月・江戸相撲年寄事兼木村庄之助」があり、庄之助が心願により『子供相撲』の土俵を故事作法に従って作り、奉納する旨を記している。
 この『子供相撲』は江戸末期に絶え、どのように行われたものかも不明であるが、秩父地方に残る信願相撲に類するものと思われるとの事だ。
一礼之事
一当社野々宮大明神毎年九月九日武州高麗郡野々宮村鎮守御祭礼子供相撲
 有之〇処此度心願二付土俵古○作法之式相改永代奉納致置○然ル上者以
 後相撲世話人亦者家業人尋参リ彼是故障ヶ間敷儀申○もの有之〇ハヽ此
 書付ヲ以可被申聞○又相撲破門之者見請○ハヽ猶又厳敷申聞○為後証
 之右筆付相渡シ置○依而如件・天保二卯歳八月・江戸相撲歳寄行事兼木
 村庄之助正武(花押)・当社御村方相撲世話人衆中様

 推測の域を出ないが、当地の出身で天平八年(七三六)に従五位下となり、やがて従三位弾正尹(だんじょういん)兼武蔵守にまで進んだ高倉福信なる者がいる。福信は、『続日本紀』に、高倉福信高句麗の王族の孫で、少年の時、都に上がり相撲の上手がいつしか内裏に聞こえて衛士となり、昇進を重ねるとあるため、あるいはこの福信の故事にあやかって始められた『子供相撲』ででもあったのであろうか。
        
             
・所在地 埼玉県日高市野々宮146
             
・ご祭神 天照大神 瓊々杵尊 猿田彦命 倭姫命
             
・社 格 旧野々宮村・楡木村・猿田村・新堀村・栗坪村等鎮守
                                    旧村社
             
・例祭等  例大祭(獅子舞) 109日
 埼玉県道15号川越日高線沿いに鎮座する栗坪諏訪神社を更に850m程東行し、「総合福祉センター前」交差点を左折する。その後、通称「もくせい通り」をしばらく北上すると、進行方向左手に野々宮神社の社号標柱や鳥居が見えてくる。
        
                  野々宮神社正面
 当社の創建年代不明だが、京都市右京区嵯峨野に鎮座する「野宮神社」の分社といわれている。「野宮神社」は、豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する社であると伝えられていて、黒木鳥居(クヌギの木の皮を剥かないまま使用する、日本最古の鳥居の様式とも言われている)や小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで建てられた。その様子は源氏物語「賢木の巻」にも描かれているという
 この入口に建つ鳥居も前面黒色に覆われていて、黒木鳥居の類かもしれない。
        
              鳥居付近に設置されている案内板
 野々宮神社  所在地 日高市大字野々宮
 野々宮神社は、祭神に天照大神、瓊々杵尊、猿田彦命、倭姫命を祀っている。創立年代は不詳であるが、社家の古文書によると大宝三年(七〇三)社殿修築という記述があって、口碑、伝説などがら推察するとがなりの古社と考えられる。慶安二年(一六四九)徳川家光から賜わった社領四石五斗の安堵状なども保存されている。野々宮神社は関東地方では珍しく、狭山市に一社あるほかは近隣にはない。祭神や高麗川のほとりにあることや、拝殿内の絵馬に「奉献太祓一万度」とあるところなどから、潔斎(決済)の宮・お祓いの神であり、京都嵯峨か紫野(むらさきの)の野宮の分祠と考えられる。
 例大祭は、毎年十月九日で、この際奉納される獅子舞は近隣のものに比へて勇壮で美しく、特に蛇をのむくだりは、他に例を見ないものである。
 昭和五十七年三月   日高市                         案内板より引用
        
                     参道から眺める野々宮神社とその奥に見える社叢林
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 高麗郡野々宮村』
 野之宮社 天照太神・瓊々杵尊・猿田彦命・倭姫命を祭と云、慶安二年四石五斗の御朱印を賜ふ、例祭九月九日、當村及び楡木村・猿田村・新堀村・栗坪村等の鎭守なり、神職野之宮市正吉田家の配下なり、

 野々宮神社  日高町野々宮一四六(野々宮字小竹)
 武蔵野台地を流れる高麗川の沿岸に開ける野々宮は、そのたたずまいに古代の人々の生活の営みを感じさせる所である。
 社家である野宮家の先祖は日向国タカサダの地より来住したとされ、代々長男は高の字を名乗りに用いるという。
 また、同じ社号を持つ狭山市北入曾の野々宮神社社家の宮崎家の口碑には、先祖は神武天皇東征に従い日向国より大和に入り、やがて朝命により兄弟三人東国に派遣される。一人は入間(北入曾)に、一人は高麗(当社社家先祖)に、一人は鴻巣に居を構えて、それぞれ野々宮神社を祀り、土地の経営に当たったという。
 社記に「四十二代文武天皇の大宝三年社殿修築」の記事がある。大宝三年(七〇三)とは、同元年に施行された大宝律令によって引田朝臣祖父が武蔵国の国司として赴任した年で、当社修築はこれにかかわるものであろう。なお、当時の国府は府中であったとされている。
霊亀二年(七一六)に駿河以東七カ国の高麗人一七九九人を当地方に移して高麗郡を設置する。社伝によると高麗王若光遠乗りの折、当社近くにて落馬し、これは身の穢によるとして当社前に祓を修した。
 また、野宮とは神宮に仕える斎宮が、奉仕に先立って一年間潔斎生活を送る斎殿を指している。
当社は高麗川に、入間の野々宮神社は不老川に、鴻巣の野々宮神社は荒川にと、それぞれ川辺に鎮座し、祀職は祓の伝承地日向出身と伝えている、以上のことは野々宮神社が“祓の社”としての役割を持っていることを物語るものであろう。
『明細帳』に、社殿の再建を天徳三年(九五九)とし、神田隼人・新井縫之助の建立、その後数度の再営を経て、現在の社殿は寛永三年と記している。また、内神宮と称する内陣の造営は享保一〇年である。
『風土記稿』に「野々宮社 天照大神・瓊々杵尊・猿田彦命・倭姫命を祭と云、慶安二年四石五斗の御朱印を賜ふ、例祭九月九日、当村及び楡木村・猿田村・新堀村・栗坪村等の鎮守なり、神職野々宮市正吉田家の配下なり」とある。猿田村は、高麗市百苗の一つ神田姓が多く、古くは高麗神社の神饌田があったと伝えている。
 当社の北に、高麗川を挟んで高麗神社があるが、当社の社蔵文書に「当社高麗王の尊霊を祀る」との記事があり、高麗神社との深い関係をうかがわせる。しかし、高麗神社が高麗山大宮寺と称することに対して、当社が高麗山野々宮大宮司であったため、音読による誤解を招くと抗議する間柄に変化した時代もある。
 祀職を務める野々宮家は、所蔵文書「天文十六年十一月十九日・覚之事(六所宮祭事ニ付参集覚写)」に野々宮勘子の名が残る旧家で、代々大宮司を称している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
拝殿前にあり、四方を柵で保管されている力石          本 殿

 社殿の奥は豊かな杉林が社叢林として密生している。社叢林は植生ではなく自生によって成立した樹叢であることが多いが、この社は現宮司の御先祖が武蔵国大国魂神社から杉の実を持ってきて育てた林という。また、「埼玉の神社」によると、本殿覆屋内に「琴平社・東照宮・祇園社・大山祇社・稲荷社」が祀られているというのだが、社殿奥の社叢林中にも多くの境内社や石祠が祀られていて、上記の社と同名の社も存在している(東照宮以外)。
        
       本殿奥に祀られている石祠と境内社。左より大山祇社・特潜神社
 特潜神社は、大東亜戦争時、敵海軍の泊地襲撃や、工作員潜入などに使われた軍用潜水艇・小型潜水艦で、日本の甲標的特殊潜航艇で出撃し、その際の戦死者を祀る社であるという。

  稲荷大神。奥に見えるのが琴平神社           大山祇神

          祇園社           道を隔てた北側に祀られている天神社
        
         境内に設置されている「野々宮神社の文化財」の案内板
        
                       拝殿前にある相撲の土俵
 野々宮神社奉納相撲場付関係資料  市指定有形民俗文化財 平成23日指定
 拝殿前の6m四方、高さ45cmの土壇の上には、天保二年(1831)に土俵古実作法にのっとり江戸相撲歳寄行司武が築いた土俵が保存状態も良く残っています。この土俵では奉納相撲が行われていました。その他に、「嘉永2巳酉年(1849)林鐘十有一日 於当社興行」と記されている相撲番付が保存されています。土俵、番付表2枚、古文書2通、力石3個が相撲関係資料として指定されています。
                          「野々宮神社の文化財」の案内板より引用

        
                            歴史を感じさせてくれる重厚な社
獅子舞
市指定無形民俗文化財 昭和5712月指定
109日(現在は1039日の日曜日に行っています。)の例大祭は氏子によって奉納される獅子舞が伝えられています。この獅子舞の場の「笹掛り」は、雌獅子を廻って2頭の雄獅子が蛇を奪い合って飲み込む独特のものです。
                          「野々宮神社の文化財」の案内板より引用
獅子舞の記
当社に獅子舞の創始された古き昔は定かではないが、現在使用している獅子頭は天狗の面に刻してある天保十一年とほゞ時を同じうするものと推定されます。加うるに当社にはその前の獅子三頭が保存されており、そこから江戸初期には既に獅子舞が行われたと思われます。
古来より勇壮にして優美と喧伝された当社の獅子舞は、かく綿々と親から子、孫と受け継がれて来ました。昭和五十年に当たり関係者相議り、古き昔を偲びせめて記憶にのぼる人々の名を録して記念とする次第であります。
                            拝殿脇に奉納されている額文より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日高市HP」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
            

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栗坪諏訪神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市栗坪293
              
・ご祭神 建御名方命
              
・社 格 旧栗坪・梅原両村產土神 旧村社
              
・例祭等 元旦祭  例大祭(獅子舞)828日に近い土・日曜日
 埼玉県道15号川越日高線の「カワセミ街道」との交点である「高麗本郷」交差点を東方向に進むところは、栗坪厳島神社と全く同じであるが、同県道を900m程東行した丁字路を左折すると栗坪厳島神社に達し、そのまま直進するとすぐ左側で県道沿いに栗坪諏訪神社が見えてくる。
        
                  
栗坪諏訪神社正面
 この日高市を東西に横断する埼玉県道15号川越日高線、特に川越市連雀町から西側は、かつて「川越秩父線」だったように「川秩線」とか「秩父街道」と呼ばれていて、川越市内やさいたま市(特に旧・大宮市域)方面と日高市、飯能市、秩父市方面を連絡する道路でもあったようだ。
 
慶長2年(1597)高麗町(のちの高麗本郷)にあった幕府代官大久保石見守長安の陣屋(高麗陣屋)が焼失し、新たな陣屋を梅原村との境に近い栗坪村地内に移したところ、川越秩父道に沿って当村から梅原村にかけて約四町の町並ができたという。このような経緯があり、高麗町の名称は梅原・栗坪二村の通称と移り、旧陣屋所在地は高麗本郷と称されるようになったといわれている。
        
                    拝 殿
    以前は県道沿いに社殿は鎮座していたが、つい最近、埼玉県道15号川越日高線の
         道路整備の為、奥に移動し新しい社殿が造営されたようだ。

『新編武藏風土記稿 高麗郡栗坪村』
 諏訪社 栗坪梅原兩村の産神なり、宮を造營するは神慮に叶はずとて、村の往還の傍に笹竹をもて屋根ともに打樊へり、例祭七月廿八日にて、其時かの笹竹の覆ひを改め營むと云、村持、

 諏訪神社  日高町栗坪に九三(栗坪字町)
 当社は高麗川の南岸に位置している。栗坪の地名は、古くから栗の産地であり、ここの栗は、壺に貯えれば春になっても味が変わらないことからきているという。『風土記稿』によると、慶長二年に災厄があったため高麗本郷にある陣屋と高麗町の民家を当地に移したところ、それがやがて梅原村にまで軒を連ねるほどの宿に発展し、一時は四日と八日を市日としてにぎわったという。
 当社は、この宿を通る川越・秩父街道に面して鎮座し、口碑によると信州の諏訪神社から勧請されたものであるという。
 祭神は建御名方命である。社殿の造営について『風土記稿』に、「宮を造営するは神慮に叶はずとて、村の往還の傍に笹竹をもて屋根ともに打樊へり、例祭七月二八日にて、其時かの笹竹の覆ひを改め営むと云」と載せる。これは現在でも続けられ、神社建築としては珍しい形を残している。本殿の規模は高さ一・三メートル、間口一・一メートル、奥行一・一メートルで、茅(かや)と竹で造られている。これは、毎年七月二六日の「お宮造り」の時に氏子の中の宮師と称する者が造り、材料の茅は通称松山と呼ぶ山の麓から刈って来る。なお、覆屋及び拝殿は、明治四四年に神社として社殿なきものは村社に合祀するとの命令を受けたため、氏子一同が協議して、一○年余りの間、積み立てを行い、大正一二年七月に現在の社殿を竣工した。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿の右側に建つ白壁調の獅子舞道具庫   獅子舞道具庫の前に設置されている案内板

 諏訪神社の獅子舞  市指定文化財 無形民俗文化財
               昭和57128日指定
 諏訪神社(諏訪社)は、信州諏訪神社から勧請されたと伝えられ祭神に建御名方命を祀っています。本殿は、竹の骨組みに茅で屋根を葺き、周りも茅で囲う神社建築として珍しいものでした。
『新編武蔵風土記稿』に「宮を造営するは神慮に叶はずとて、村の内往還の傍らに笹竹をもて屋根ともに打樊へり、例祭七月二十八日にて、其時かの笹竹の覆いを改め営むと云」と記され、毎年茅が葺き替えられていましたが、平成9年を最後に現在の本殿に替えられました。
 獅子舞は五穀豊穣、家内安全を願い、例大祭で奉納されます。演目は、宮参り、村回り、雌獅子がくし、村回り、竿がかりの順で行われます。村回りは、始めに下宿(高麗宿の東側・大字栗坪地区)、次に上宿(高麗宿の西側・大字梅原地区)を回ります。豪壮で荒々しい舞は「高麗宿の喧嘩獅子」と言われています。(中略)
                                      案内板より引用
 獅子舞が奉納される例大祭は、豊作祈願と疫病除けの祭りで、「高麗の待」とも呼ばれ、宿の街道沿いが祭り一色となって賑わう。また、ここでは、江戸時代信州下諏訪から伝承された獅子舞が上演される。
 これはもともと同地域の竜泉寺で行われていたが、明治6年から当社で舞われるようになった。特に、当地の獅子舞は“狂う”といい、先獅子・中獅子・後獅子の三頭で行われ「竿掛(ささがかり)」などは豪壮で荒々しい舞は「高麗宿の喧嘩獅子」と言われていて、日高市指定無形民俗文化財に指定され、こうして今に受け継がれている。
        
             社殿の左側後方に祀られている三峰社
 当地で結成されていた講としては、三峰講・御嶽講・榛名講・大山講があったが、現在でも代参を行っているのは三峰講だけである。三峰講は、当社境内に御眷属の祠を祀り、講員は火防、盗賊除けの神札を三峰神社から受け取るのが通例となっており、
代参は秩父神社の夜祭りに合わせて行っているという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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栗坪厳島神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市栗坪129
              
・ご祭神 三姫命(湍津姫神 田心姫神 市杵島姫神)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 元旦祭 大遊び 310
 埼玉県日高市栗坪地域は、同市南西部にあり、曼珠沙華の名所として知られる「巾着田」の東側で高麗川右岸に位置する。「栗坪(くりつぼ)」という地名の由来には、当地は栗の名産地で、栗を坪の中に保存したことによるか(新編武蔵風土記稿)という説と、坪には村落の意がある(日本の地名)ので栗を産する村の意であろう(地名誌)という説とあり、また条里制に由来する地名とも考えられるという。
 *参照 『新編武藏風土記稿 高麗郡栗坪村』
 高麗領高麗鄕に屬せり、村名の起る所はさだかならぬと、當村の栗は名産にして、是を坪内に貯れば、翌年仲春に至りても其味かはらざれば、それより起りしならんと云、(中略)

        
                  栗坪厳島神社遠景
 途中までの経路は高麗本郷九万八千神社を参照。「巾着田」のすぐ北側で、日高市を東西に横断する埼玉県道15号川越日高線の「カワセミ街道」との交点である「高麗本郷」交差点を東方向に進む。その後、進行方向左側に「高麗公民館」、右側には「高麗郵便局」を見ながら900m程東行した丁字路を左折、そのまま道なりに進むと小高い山が見え、その山頂付近に栗坪厳島神社の鮮やかな赤色の社殿が小さく見えてくる。
        
               遠目からでも目立つ赤色の鳥居
『日本歴史地名大系』 「栗坪村」の解説
 梅原村の東、高麗川右岸にあり、東は野々宮村・楡木(にれぎ)村。西方高麗川対岸は高麗本郷。東から西へ川越から秩父への道が通る。高麗郡高麗領に属した。村名は栗の名所で、壺内に蓄えた栗が翌春まで味が変わらないことに由来するという(風土記稿)。慶長二年(一五九七)高麗町(のちの高麗本郷)にあった幕府代官大久保石見守長安の陣屋(高麗陣屋)が焼失したため、当村内梅原村境近くに移った。同様に市も当村内に移転したことから町場化し、川越秩父道に沿って当村から梅原村にかけて約四町の町並ができたという。これにより高麗町の名称も当地に移り、同町のうち下町が当村内にあった。陣屋諸用向・割元は高麗町名主に命じられ、慶長二年・寛文八年(一六六八)の検地の際の案内も町名主が勤めた(文化二年「市再興諸書物控并訳」堀口家文書)。近世中期までは人別五人組帳などは高麗町分は村分とは別になっていた(元禄一四年「高麗町人別・高之儀ニ付口上書下書」同文書)。田園簿では田二一石余・畑一三四石余、幕府領。延享三年(一七四六)三卿の一橋領となり、翌四年幕府代官からの引渡しが行われた(「高麗陣屋天正一九年以来代官交替覚書」高麗家文書)。 


   鳥居の左側に設置されている案内板     鳥居をすぎてすぐ右側にある庚申塔と
                       その左側には龍泉寺住職の墓石もある。
       
    小高い山のようだが、よく見ると所々むき出しの岩盤(チャート)が見える。
      山頂に向かう足元の石段もこのように岩盤を利用して削って造られているようで、
           岩肌が荒々しく、意外と急勾配であるため、手すりが設置されている。
       
             山頂手前に祀られている三峯社の石祠
       
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 高麗郡栗坪村』
 辨天社 龍泉寺の持、下同,
 龍泉寺 高岡山と號す、新義眞言宗、新堀村聖天院末なり、當寺はもと高岡村にありしが 何の頃かこヽに移せしと云、慶安年中高岡村にて、地藏堂領三石の御朱印を賜ふ、この堂は今も高岡村にあり、開山詳ならず、中興開山承慶は延享三年九月廿三日寂す、本尊不動を置、

 厳島神社  日高町栗坪一二九(栗坪字御蔵)
 栗坪は古くから栗の産地であることから付けられた名であるといわれる。『風土記稿』には、慶長二年に大久保石見守が高麗本郷にあった陣屋を当村に移した時に、民戸も移り、二町余りも家居をつらねて高麗町と唱え、毎月四・八の日に市を開くようになったが、元文二年に陣屋が廃され、延享年中、一橋家の領地の時、陣屋跡が開墾されるに及び市も寂れ、ついに廃されてしまったことが記されている。
 当社は、神仏分離以前は真言宗高岡山竜泉寺内に、村社であった諏訪神社と共に祀られていたが、以降それぞれ独立した社となった。竜泉寺は山号が示すように隣村である高岡村にあったといわれ、火災のために現在の地に移転したと伝えられている。現在も高岡には慶長年中三石の朱印を受けた同寺持ちの地蔵堂が残る。
 祭神である市杵島姫神は市神として祀られることが多く、当社も、とくに竜泉寺内に祀られていた当時は市神として信仰されたことが推察される。しかし、江戸中期に市が廃されると、市神の信仰から技芸神と信仰が移り、また、神仏習合時に水の神である弁財天と凝せられたことから、神仏分離時に高麗川に近い当地に祀られたと考えられる。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                 山上から眼下を望む。

 ところで、社の北側は断崖絶壁となっていて、高麗川がすぐ近くを流れている。当社は、水に関係の深い場所の岩場に建てられ、水の神である弁財天に関係があることから、地元では古くから弁天様の名前で親しまれているという。
  
   社から高麗川沿いには遊歩道が整備され、   高麗川の流れが社が鎮座する岩場で遮られ
  参拝中も数名散歩をする様子が見られた。    折れ曲がるように流れが変わっている。

 栗坪地域は高麗川右岸という地形でありながら、実は昔から旱魃に悩まされていた地で、大正時代末期までは、日照りが続き作物に被害がでるようになると「雨乞い」が行われたという。その際には、青梅の「タカミズサマ」へ若者が水をもらって行き、神前に供えて雨乞い祈願を行った。その後、高麗川の弁天淵という所で、村の男たちが川に入り、竜泉寺にある大きな数珠を持ちだして、川の中でこの数珠を皆で回したという。
 このあと、字の者たちで集まり、お日待ち(庚申待ともいう。村の人たちが一ヵ所に集まって食事や談笑しながら、共同祈願をするという習俗)を行ったということだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「角川日本地名大辞典」
    「境内案内板」等

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武幡横手神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市横手509
              
・ご祭神 誉田別命 武御名方命
              
・社 格 旧横手村鎮守・旧村社
              
・例祭等 元旦祭 祈年祭 2月第一日曜日 勧学祭 48
                   
例祭 821日から27日までの土・日曜日
 高麗本郷九万八千神社の参拝後、埼玉県道15号川越日高線を西行800m程、「久保」交差点を右斜め前方に進路変更し国道299号線に合流する。大まかに高麗川左岸沿いに沿うように1.3㎞程進んだ先にY字路があるので、そこは左斜め方向の幅の狭い旧道らしき脇道に入り、更に300m程進むと武幡横手神社が見えてくる。
        
                  
武幡横手神社正面
 社は国道のすぐ南側で集落の中に鎮座していて、地域の方々に大切にされた鎮守様という印象。境内は綺麗に管理されており、「横手渓谷」と呼ばれる奥武蔵の山々に囲まれた美しいと高麗川の流れと周囲の山麓景観が醸し出す厳かな雰囲気が社全体に漂っている。
 境内には適度な広さの駐車場も完備されており、その点もありがたい。
             
              
武幡横手神社正面に建つ社号標柱
『日本歴史地名大系』 「横手村」の解説
 現日高市の西端、東流する高麗川沿いにある。東は高麗本郷村・久保村、西は白子村(現飯能市)、南は峰を境として永田村・久須美(現同上)、北は入間郡権現堂村(現毛呂山町)。川越と秩父を結ぶ道が東西に通る。小田原衆所領役帳には小田原衆松田左馬助の所領として「横手」三五貫文があり、同所は天文一八年(一五四九)に与えられた一千貫文の地の一部であった。また他国衆三田弾正少弼の所領にも横手郷がある。永禄一二年(一五六九)一一月二四日付松田憲秀判物によれば代替りとなった山口左衛門尉重明に横手村の代官職が安堵されている。重明は天正一五年(一五八七)五月八日、豊臣秀吉軍の来攻に備えて小田原城に詰めることを定められた子息弥太郎に、従来からの給恩地横手内を譲るよう松田氏から命じられたが(松田憲秀印判状)、同一七年五月一六日には隠居分として横手村を請取ることを命じられている(松田直秀印判状)。
 
鳥居を過ぎて上り坂の石段上に社殿は鎮座する    石段の中段位に設置された案内板
 武幡横手神社は貞観12年(870)の創建と伝えられている。当初八幡大神と称していた。貞治2年(1363)に武御名方命を併祀して諏訪大明神と呼ばれるようになったが、明治元年(1868)に武幡横手神社と改めた。祭神に誉田別命、武御名方命を祀っている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 横手村』
 諏訪社 村の鎭守なり、例祭726日、當社に藏する棟札に、奉造營武州高麗郡横手村、諏訪大明神、大檀那大久保重兵衛殿、小檀那山口若狭守、于時慶長六辛丑二月、神主大野治郎とあり、又刀一腰を藏む、銘正恒、長二尺五寸、是は村民半之丞が先祖山口鄕左衛門の佩るところなりしを、當社に奉納すといふ、神職は大野越後なり、

 武幡横手神社(おすわさま)  日高町横手五〇九(横手字諏訪)
 当地は、高麗丘陵の西端、山地に挟まれた高麗川に沿って民家が点在する。
『明細帳』によると、当社は貞観一二年に誉田別命を祀り八幡大神と称していたが、貞治二年に武御名方命を併祀して後、諏訪大明神と称したという。
 祀職は諏訪神社勧請以来高野家によって務められているが、同家は秩父の大野(現都幾川村か)の出身であるとして、大野姓を名乗った者もあった。
 本殿は一間社流造りで内陣には諏訪・八幡両祭神の神像があり、内陣にある天明元年銘の神鏡に文政一〇年に両神像を高野越後が奉納したことが刻まれている。
 また、「寛永一二年大内左京大夫多々良義弘九代後胤武州横手住山口若狭守重明三大孫山口六良右衛門」と記される「備前国正恒」銘の二尺五寸の刀が蔵されている。
 社殿の造営を現存する棟札にみると、慶長六年本殿を造営、享保一〇年覆殿建立、寛政元年に社殿に風が強く当たることから拝殿・幣殿を建築した。文政一〇年本殿及び拝殿を再建、明治三六年拝殿幣殿再建、昭和三六年拝殿の屋根替えを行い現在に至っている。 明治元年、諏訪大明神を現社号に改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
    拝殿上部に掲げてある扁額           社殿の左側にある宝蔵
        
                    本 殿
 当社の氏子は横手全域で、上(かみ)・下(しも)に分かれている。氏子の間では、氏神がお諏訪様なので、神使である蛇をいじめたり殺してはならないといわれている。
 また、戦前までは、夏に雨が少ない時に雨乞いを行っていた。この時は、代表が名栗の竜泉寺へ水をもらいに行き、当社で氏子の銘々にその水を分け、それぞれの家の屋根にこの水をかけたという。
 当社の例祭は当初825日であったが、昭和56年より21日から27日までの間の日曜日に行うこととなった。氏子はこの日を「待(まち)」と呼び、古くからササラ獅子舞を行っている。前日は「揃い(そろい)」と呼ばれ、御幣・万燈・山伏・天細女命・猿田彦命・笹楽子・導き・蠅追い・獅子・歌謡い・笛吹きの順に獅子舞の行列が氏子の檀那寺である真言宗宝雲山観音院滝泉寺へ参詣して、境内で舞うとの事だ。
 当日は「本待(ほんまち)」と呼ばれ、神職家・鳥居・神社・社務所・神社・庭(境内)・社務所・神社・庭・神職家の順に舞い巡る。
        
                 境内社・笠森稲荷社
       
    笠森稲荷社近くに聳え立つご神木で、「郷土の樹」でもあるムクロジの木(写真左・右)
 ムクロジは「無患子」と書き、本州中南部以南の山林に自生し、夏に淡緑色の小花をつける。実は球形で、中の種子は黒くて硬く、正月の羽根つきの玉に使用されるとの事だ。
 樹高 14m 幹周 2.3m。「日高の古木・名木をたずねて」に選定されている。
             
            社殿前で石段脇に聳え立つイチョウの御神木
 
  社の参道を降りると自然に高麗川にたどり着き、遊歩道沿いに清らかな川を眺める事が出来る。(写真左・右)参拝日は11月初旬。秋の紅葉はもうすぐであるが、風情を楽しむことができた。今年の夏は格別に暑く長かったが、それでも四季は必ず訪れる。ありがたいものだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
  

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高麗本郷九万八千神社

 巾着田(きんちゃくだ)は、埼玉県日高市高麗本郷(こまほんごう)に位置し、高麗川が南向きに大きく蛇行することで形成された巾着のような形状の平地である。地元では川原田と呼ばれている。「高麗(こま)」の地名は、716年(霊亀2年)に朝鮮半島からやって来た渡来人がこの地に移住し、高麗郡が設置されたことに由来する。
 直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた平地には、菜の花、コスモスなどの花々が咲き、中でも秋の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)群生地は辺り一面が真紅に染まり、まるで赤い絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたようで、毎年多くの人がその美しさに惹かれて訪れる。
 昔は文字通り水田が広がり、その面積は約17ヘクタール(17万平方メートル)に及んでいた。昭和40年代に当時の日高町が巾着田を取得し、昭和50年代~60年代ごろに草藪の草刈りをしたところ、大規模なヒガンバナの群生が見られるようになり、報道が始まったことで、有名スポットとなった。河川の蛇行や氾濫により上流部から土砂とともに球根が流れ着いたものと考えられている。
 日本一の群生地である巾着田の曼珠沙華は2000年(平成12年)55日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出されている。
 この巾着田の北側、旧元宿の小高い丘上に高麗本郷九万八千神社は静かに鎮座している。
        
             
所在地 埼玉県日高市高麗本郷252
             
・ご祭神 八千矛命(やちほこのみこと)
             
・社 格 旧高麗本郷元宿鎮守
             
・例祭等 例祭 113
 埼玉県道15号川越日高線を西行し、高麗川に架かる「天神橋」を越えると正面に巾着田の看板が見え、そのすぐ先に「高麗本郷」交差点があり、そこを右折する。通称「カワセミ街道」に合流後、すぐ右手に「元宿公会堂」らしき建物が見え、そこから徒歩にて北側にある小高い丘に向かって進むと、立派な大杉等で形成されている豊かな社叢林の間に社の鳥居が見えてくる。
 但し、車のナビには社の場所はしっかりと表示されているのだが、まず、どこに車を駐車させるかが分からず、通り過ぎてしまうこと数度(しかも「カワセミ街道」は思った以上に交通量が多い)。偶々、公会堂の西側で、街道沿いにある適当な駐車スペースに停めることができたのは幸いであった。
        
             少し分かりずらい参道の先に見える鳥居 
『日本歴史地名大系』「高麗本郷」の解説
 横手村の東、高麗川左岸にあり、南は同川を隔てて台村・久保村。「和名抄」記載の高麗郡高麗郷を当地付近に比定する説がある。小田原衆所領役帳には小田原衆岡上主水助に蔵出分より宛行われた一五貫文は「但大高麗之内にて前引」とある。この「大高麗」を当地とする説もある。近世には高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。徳川家康の関東入国後の天正一九年(一五九一)から当地に大久保石見守(長安)の陣屋(高麗陣屋)が置かれ、当時は高麗町とよばれた。だが慶長二年(一五九七)火災に遭ったため陣屋は梅原村との境に近い栗坪(くりつぼ)村地内に移った。このため高麗町の名称は梅原・栗坪二村の通称となり、旧陣屋所在地は高麗本郷と称されるようになったといわれる(「高麗陣屋天正一九年以来代官交替覚書」高麗家文書、「風土記稿」)。
 高麗本郷は埼玉県南部、日高市西部の地域で、秩父山地の東麓、高麗川の谷口集落である。嘗ての高麗村の中心地で、東部の旧高麗川村とともに8世紀初頭、朝鮮半島から渡ってきた高麗人が集団移住した地として知られている。この地域は江戸時代初期から市場町として発達したが、のち飯能と競合して商圏を奪われた。畑地が多く、かつては養蚕を中心としたが、現在は野菜づくりと養鶏が行われているという。
        
                
高麗本郷九万八千神社正面
 高麗本郷元宿は、元宿という名称が示すように、早くから開拓された場所といわれている。また、巾着田は高麗川の蛇行により形成された土地で、現在では東京近郊の行楽地として休日はたいへん賑わっている。
 社は元宿の北側にあり、南面して地域を見下ろす位置にある。祭礼の幟が立つと、後方の日和田山の緑に幟旗の白い布地が映え、村中どこからでも神社を望むことができるという。
  社叢林の中に入ると厳かな雰囲気となる。    参道右側に祀られている稲荷社二基。
        
                 高麗本郷九万八千神社
『新編武蔵風土記稿 高麗本郷』
 九萬八千社 高麗本郷の鎭守なり、例祭九月廿九日、梅原村の里正三郎兵衛が持なり、此三郎兵衛はもと當所の民なりしが、高麗町を移せしとき、彼村に移住すと云、

 九万八千神社(くまんはっせんじんじゃ)  日高市高麗本郷二五二(高麗本郷字上ノ原)
 当社は日和田山の南麓に鎮座し、八千矛命を祀り、古来高麗本郷元宿の鎮守として仰がれてきた。『風土記稿』に「梅原村の里正三郎兵衛が持なり、此三郎兵衛はもと当村の民なりしが、高麗町を移せしとき、彼村に移住すと云」とあり、更に『明細帳』に「創立詳ナラズ正中二年建立ノ棟札アリシ由口碑二伝フト雖モ棟札今存セズ。貞亨二乙丑年堀口西源同息三郎兵氏子一同シテ再建後宝永六巳丑年二月廿六日水災アリ同七寅年三月氏子中ニテ再建」とあり、察するに三郎兵衛と関係の深い神社と思われるが、同人については不明である。
 また、宝永六年の水災については、鎮座地が山麓の高地であることから古くは高麗川辺に鎮座していたものと考えられる。
 往時、別当を務めた長寿寺という寺が神社に隣接する。この寺は、宝永七年棟札写しに「別当真言宗萬福山長寿寺法印秀傳」とある。現在は無住の寺で改築して地域の集会所として使用している。社名九万八千は珍しい名であるが、一説に九万(高麗)と八千(新羅)に由来するものという。この高麗地域は上古渡来人の住居した場所であることから興味深い説ではある。
 社地は杉や楠の大木が茂り、更に茅葺の社殿であるため一層神さびた印象を与える。付近の日和田山・巾着田は行楽地であり、神社の傍らの道は自然遊歩道として休日の散策を楽しむ人が多い。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
              社殿上部には社号額が飾られている。
 社のご祭神である「八千矛命」は大国主の別名の一つとされている。大国主は日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正文によると素戔嗚尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。
 このように日本神話の中でも一際目立つ神であるにも関わらず、多くの別名を持つ。大穴牟遅神・大穴持命・葦原色許男・葦原醜男・葦原志許乎・三諸神・宇都志国玉神・大国魂神・伊和大神・国堅大神・占国之神・所造天下大神・杵築大神等で、これはこの神が多くの神格の集成・統合として成った事情にもとづいており,そこからオオクニヌシ神話はかなり多様な要素を含むものとなっているといわれているようだ。
 八千矛命も別名の一つとされている。この八千矛命は「多くの矛」の意味で、記では「八千矛」、紀では「八千戈」と表記されることから武神と解釈もされるが、男根を象徴するという説もある。
        
                   社からの風景
「埼玉の神社」によると、社名「九万八千」の由来の一説に九万(高麗)と八千(新羅)に由来するものという。
 716610日(霊亀2516日)、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗からの渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされ、初代郡司は高麗若光である。この高麗若光は高句麗王族で、高句麗の宝蔵王の息子という。
 日本書紀に書かれた記録の一部では、天智5年(666年)「百済人男女2千余人東国移住」天武13年(684年)「百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す」持統元年(687年)「高麗人56人を常陸國、新羅人14人を下野國へ移住」「高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住」と記され、百済人・新羅人・高麗人はしっかりと移住の場所を区別されている。日高市を含む嘗ての高麗郡には、新羅人の移住はほぼなかったか、ほとんどいなかったと思われる。
 そもそも朝鮮半島では、高句麗国・新羅国・百済国の三国時代から新羅国の統一という時代背景がある中で、高句麗国や百済国と新羅国は敵対関係にあったのであるから、「埼玉の神社」で述べている九万(高麗)・八千(新羅)との並立表記は成り立たないと思われる。

 筆者は八千は社のご祭神である「八千矛命」からくるものと考える。つまり、高麗(九万)地域に(八千)矛命を祀る社、と推測するのだが、いかがであろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
世界大百科事典(旧版)」
    「
日高市・曼珠沙華の里「巾着田」公式HP」「Wikipedia」等

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