古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上阿久原丹生神社

 上阿久原は、中世の阿久原郷に含まれ、その郷内には阿久原牧があった。阿久原牧(阿久原牧跡は埼玉県指定旧跡)とは、承平三年(933年)四月に勅旨をもって官牧となった国有の牧場で、武蔵七党児玉党の祖・有道惟行(ありみちこれゆき)が別当(管理責任者)として赴任した。
 惟行は平安時代後期、朝廷よりの派遣官人としての任務完了後も児玉郡にとどまり、そのまま在地豪族と化し武将として、武蔵七党の一つにして最大勢力の集団を形成する児玉党(武士団)となる。尚児玉党本宗家は3代目児玉家行(惟行の孫)以後、庄氏を名乗り、その本拠地を北上して栗崎の地(現在の本庄台地)に移す事となる。その直系の家督は庄小太郎頼家で絶える事となるが、児玉党本宗家は庄氏分家によって継がれていく事となり、本庄氏が児玉党本宗家となる。
 惟行の嫡流達は児玉郡内を流れる現・九郷用水流域に居住し、土着した地名を名字とし、児玉・塩谷・真下・今井・阿佐美・富田・四方田・久下塚・北堀・牧西などなど多くの支族に分かれていった。
        
             
・所在地 埼玉県児玉郡神川町上阿久原11
             
・ご祭神 高竉神 水速女神
             
・社 格 旧上阿久原村鎮守 
             
・例祭等 新年祭 19日 祈年祭 415日 例祭1015
                  
新嘗祭 121
  埼玉県道・群馬県道289号矢納浄法寺線沿いに鎮座する下阿久原有氏神社を更に1㎞程南下し、「JA埼玉ひびきの神泉地区総合センター」を過ぎたY字路を右方向に進む。後日地図を確認すると東西に流れる神流川に対して並行してこの道路はあるようだが、800m程進むと正面右側に上阿久原丹生神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                              
上阿久原丹生神社正面
       社の裏手には神流川が見え、小規模水力発電の「神水ダム」が見える。

 神川町の上阿久原地域は、旧神泉村に属していた地域で、200611日に神川町と合併し新しい神川町の一部となったため消滅している。合併後において神川町のやや中央部に位置し、神流湖から北方向に流れる神流川と、その右岸で接している南北に長い上阿久原地域の北端で、神流川の流路が真東に流れるその地点南側の川岸で、鬱蒼とした林の中に上阿久原丹生神社はひっそりと鎮座している。
*『日本歴史地名大系 』での「上阿久原村」の解説
 [現在地名]神泉村上阿久原
 下阿久原村の南西に位置し、西から北は神流川を隔てて上野国緑野(みどの)郡譲原(ゆずりはら)村・三波川(さんばがわ)村・鬼石(おにし)村(現群馬県鬼石町)、南は秩父郡金沢(かねざわ)村(現皆野町)・矢納(やのう)村。村の北から西を城峯(じようみね)道が通る。中世には阿久原郷のうちに含まれ、文禄三年(一五九四)以前に当村と下阿久原村に分村したとみられる。慶長三年(一五九八)五月の上阿久原之郷御坪入帳写(浅見家文書)が残る。 
       
 鳥居左手には「
町指定史跡 丹生神社」に石碑が立つ(写真左)。昭和44111日指定されていて、再建や修復時の棟札から、永正17(1520)以前の創立で、古くは阿須訪大明神・阿諏訪丹生大明神といわれていたという。また鳥居右手には「阿諏訪社 丹生神社」と刻まれた社号標柱が立っている(同右)。
        
                 参道から社殿を望む。
 日本神話にて「水」を司る有名な神様として「罔象女神(みつはのめのかみ)」「淤加美神(おかみのかみ)」があげられる。「罔象女神(みつはのめのかみ)」は『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記され、この社では水速女神とも書かれている。『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。
 一方、淤加美神(おかみのかみ)は、『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記され、この社においては高竉神として祀られている。『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜った血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしていて、高龗神は貴船神社(京都市)のご祭神として有名である。龗(オカミ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていて、「闇(クラ)」は谷間を、「高(タカ)」は山の上を指す言葉ともいわれている。
 
奈良県吉野郡に鎮座する『丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)』のご祭神は罔象女神であるが、淤加美神と共にセットで祀られているケースもある。また各地の神社で配祀神として祀られている。
        
                     拝 殿
 鳥居を過ぎた瞬間から、社特有の重たい空気が辺りを漂っていた。河川がすぐ北側にある為だろうか、現実に湿度もあるようにも感じたが、不思議な空気感と相まった事により、逆にこの社の気品の高さを強く印象付けさせられた。
 また社叢林が、結界線のように社全体を覆っていて、日は高く上っているにも関わらず、ほの暗い。境内全体から醸し出すある種の荘厳さと神聖さを兼ね備えたような空間だ。
        
                             拝殿左手に設置されている案内板
 丹生神社 御由緒 神川町上阿久原一ノ一
 □御縁起(歴史
)
 当地は中世の阿久原郷に含まれ、承平三年(九三三)四月に勅旨をもって官牧となった阿久原牧(埼玉県指定旧跡)に位置する。児玉党の祖有道惟行(遠峯)とかかわりの深い地域である。阿久原村は中世末の文禄三年(一五九四)以前に上下の二か村に分離した。江時代には幕府領地や旗本鳥居氏知行地となる。
 社伝によると、当社は永正年間(一五〇四~ニ〇)以前に創立したといい、上下阿久原の分村により、上阿久原の鎮守になったという。古くは阿須和大明神・阿諏訪丹生大明神などと称され、社務を隣地に住む松本家が務めていたと伝えられる。
 造宮・修繕等を記した棟札には、永正十七年(一五二〇)・天正六年(一五七八)・天正十七年(一五八九)銘のものが現存する。最も古い永正十七年八月吉日の紀年銘のある棟札には「奉造営阿須和大明神御宝殿一宇事」と記されている。また、天正六年二月日のものには「奉造営阿須和大明神御宝殿一宇事敬白 社務松本拾郎左エ門 同左馬之助」とあり、江時代初期より松本家が社務を務めていたことが分かる。
 祭神は高龗神・水速女神の二柱であり、共に水を司る神である。十月十五日の例祭(秋祭り)には、獅子舞が奉納される。また、境内社として諏訪神社・稲荷神社・山神社が祀られている。
                                      案内板より引用
        
                 拝殿向拝部の精巧な彫刻
 
   向拝部の両端に位置する木鼻部位にも見事な彫刻が施されている(写真左・右)
 
          本 殿                      社殿左手奥に祀られている境内社合社
 河川対策であろう。高い石組が施されている。  案内板にある「諏訪神社・稲荷神社
                          ・山神社」であろうか。 
     
                        境内に聳え立つご神木(写真左・右)
       
               社のすぐ北側にある「神水ダム」 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社「日本歴史地名大系」「神川町HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等 

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池田守神神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡神川町池田849
             
・ご祭神 素盞鳴尊
             
・社 格 旧池田村総鎮守 旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 115日 春祭り 415日 秋祭り1019
                  
新嘗祭 1129
『日本歴史地名大系 』には「池田村」の解説がある。
 [現在地名]神川町池田
 萩平(はぎだいら)村の西に位置し、北は賀美郡小浜(こばま)村。永禄11年(1568)松本左京が開発したと伝える(風土記稿)。集落南の山際近くで池田館跡(別称卜部屋敷)が確認されている。東西約90m・南北約100m
、堀と土塁が周囲をめぐっていたようで、現在もその一部が認められ、宝篋印塔の笠部が表面採集されている。地内の曹洞宗泉徳(せんとく)寺の伝えによると、御嶽城主長井実永の家臣卜部修理が同城の支城として築いたものという(児玉郡誌)。のち甲斐武田氏旧臣の松本左京がこの地を開拓して居を定め、館跡の南にある鎮守守神(もりがみ)神社は、松本氏の守護神として勧請されたものという(神川町誌)。
        
                旧池田村鎮守守神神社正面
 神川町は南北に長い町で、町域の地形は全体として南が高く、北に向かって低い。南部は秩父山地の北縁にあたり,一帯は上武県立自然公園に属し,群馬県境の三波石峡は国の名勝・天然記念物に指定されている。そこから北部に移るにつれ、高度は低くなり、御嶽(みたけ)山(三四三・四メートル)の北へ続く山稜は池田地域にある「神川げんきプラザ」付近までであり、これに続いて小高い青柳丘陵が続く。
 南部丘陵地には縄文時代の遺跡が多くみられ、「神川げんきプラザ」地内の池田遺跡は縄文時代早・中・後・晩期の遺跡として知られ、かなり早い時期から開発の進んだ地域ともいえる。
 
 池田守神神社は新宿八幡神社の南東方向に位置する。単なる偶然と思われるが、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線沿いの「峯岸集会所」東側にあるY字路が合流する信号地点を挟んでこの2社は同距離であるのも面白い。
 境内は決して規模が大きい社ではない。が、不思議とコンパクトに纏まっていて、手入れも行き届いている。また境内には多くの案内板が掲示され、更に数多くの石祠や石碑が祀られていて、この地域の歴史の深さを感じるものが多い。
        
                          鳥居の左側に設置されている案内板
 守神神社  御由緒  神川町池田八四九
 □御縁起(歴史)
 当地は、神流川の右岸に位置する。 集落南の山際近くで、東西約九〇メートル、南北約一〇〇メートルの規模で堀と土塁が周囲を巡っていた中世の館跡が確認されている。 地内の曹洞宗泉徳寺の伝えによると、御嶽城主長井実永の家臣卜部修理が同城の支城として築いたものという。また『風土記稿』などによると、永禄十一年(一五六八)に甲斐武田氏旧臣松本左京がこの地を開拓して居を定めたという。
 当社は、松本左京が同家の守護神として、館の南に祀ったと伝えられている。同家の後裔である松本昭平家には、飯島大学・関口門蔵・井上又左衛門の三名が、永禄十二年に松本左京に宛てた文書が残されている。その内容は、松本家の地元に「当所氏神」として社を建立したが、諸事世話は松本家に頼み、修復の際には四名で相談して行うというものである。これによれば、当社は松本家の氏神であると同時に、村鎮守としての性格も創建当初から合わせ持っていたことが知られる。
『風土記稿』池田村の項に「守神明神社 村鎮守なり、村民持」と載る。この村民が松本家であるが、直接の管理は当社南にあった本山修験常学院が行っていたともいわれる。『風土記稿』によれば、常学院は、慶長十二年(一六〇七) に忠尊が草創し、本尊は不動であったが、明治初年の神仏分離により廃寺となったらしく、『郡村誌』には既にその記載がなく、詳らかではない。
 □御祭神
 ・
素盞鳴尊…災難除け、安産、家内安全(以下略)

                                      案内板より引用
『風土記稿池田村条』には「宗栄山泉徳寺の開基は、当村を開墾せる松本左京にて元和八年十月朔日卒す、法名宗山泉徳禅定門、この人を大檀越とす。子孫七郎右衛門、又修理を加えて当寺を中興す、この人は寛文四年正月八日卒す、法名花庭宗栄。子孫今に至て連綿たり」と記されていて、風土記稿の内容が確かであれば、この松本左京という人物は、少なくとも永禄11(1568)~元和8年(1622)までの54年間もこの地に生存していたことになり、かなり長命の人物となる。
        
                     拝 殿
        
             拝殿正面上部に掲げてある「神社由緒書」
 神社由緒書
 埼玉県児玉郡青柳村大字池田八四九番地鎮座
 守神神社
 祭神 素盞鳴尊
 由緒
 當社ハ池田ノ総鎮守トシテ往時ヨリ勧請シ村民深ク崇敬シタリト云フ 享保年間正一位ノ神階ヲ授ケラルル 當社ニハ天和三年社殿再建ノ棟札明和元年御屋根葺替寄進文寛政七年御祭禮獅子踊役割附等ノ古文書ヲ傳来セリ 又一説ニハ當社ハ元和年間土地ノ旧家松本左京ノ屋敷ノ守護神トシテ勧請セシ社ナリトモ云フ 大正四年社殿ヲ修理シタリ 大正十一年無格社稲荷神社ヲ當社境内ニ移轉セリ
 大正十四年十二月本県ヨリ神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル 昭和二十一年二月二日神社制度改革ニヨリ社格ヲ喪失ス 神社本庁ヨリ例祭ニ幣帛料ヲ供進セラル
 大祭日
 祈年祭 三月十九日
 例祭  十月十九日
 新嘗祭 十一月二十九日
                                                                            案内板より引用

 
  拝殿手前右側には境内社・池田稲荷が鎮座     池田稲荷の向かいには「池田の獅子舞」の
                           案内板が設置されている。 
 池田の獅子舞
 昭和六十二年三月十日 町指定民俗資料
 池田の獅子舞は、阿久津流といって高崎市山名の近く阿久津から、三〇〇年程前に伝授されたと伝えられ、すべて長男にやらせる仕きたりであったが、今では制限されていない。
 獅子舞は、守神神社や泉徳寺等で十月十九日におこなわれる。金鑚神社の例祭(四月十五日)にも古くから奉納している。これにでる時は、池田から笛を吹きながら金鑚神社まで行進する。
獅子は、先獅子・女獅子・男獅子の三頭で、その外に、花笠・カンカチ・笛方・歌方・鬼面・猿面・万灯持ちの役割がある。
 また、曲目には、剣の舞・三拍子・ぼんでん掛かりその外がある。
 昭和六十三年三月 神川町教育委員会
                                      案内板より引用
神川町HPには「池田の獅子舞は、阿久津流といって高崎市山名の近く阿久津から300年ほど前に伝授されたといわれています。秋祭に地区内各所で舞った後、守神神社に奉納されます。金鑚神社の春の例祭に奉納されることもありました」とも記されている。
 
    社殿奥に祀られている石祠群      池田稲荷の隣に祀られている石祠・石碑群
       
          社殿右側に直立に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)。
           


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「神川町HP」
    「境内案内板」等

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新宿八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県児玉郡神川町新宿284
              
・ご祭神 誉田別神
              
・社 格 旧新宿村鎮守 旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 115日 春祭り 415日 八坂祭 715
                   
新嘗祭 1123
 武蔵国二ノ宮で、官幣中社として名高い神川町・金鑽神社は国道462号線に沿って鎮座しているが、そのまま神流川方向に進路をとる。その後「新宿」交差点を右折し、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線に合流し750m程進み、「峯岸集会所」手前のT字路を左折し北上する。両側に民家が立ち並ぶ集落を過ぎると、周囲は田園地帯が広がり、目の前に新宿八幡神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                                   
新宿八幡神社正面
 神川町は南北に細く伸びた地形になっており、急峻な山間部となっている南部(神泉地区)から、北上するにつれ平坦な地域が広がり、多様な地形を形成しており、これは「母なる川」である神流川の流域に重なる。
 神流川は群馬県、埼玉県および長野県が境を接する三国山の北麓に源を発し北へ流れ、上野ダムにて堰き止められた奥神流湖から、後に東に流れを転ずる。途中下久保ダムによって堰き止められた神流湖から、群馬県・埼玉県の県境となる。
 神流川は上流から中流部にかけては山がちで谷が狭い地形が続くが、丁度この「新宿地域」辺りで関東平野に出る。この河川の形成した豊かな扇状地が扇状に広がり、有史以前から開けた豊饒の地を育んできたと言える。
        
                            重厚感のある新宿八幡神社の鳥居
 同時に神流川は関東平野に出ると川幅を広げて分水・伏流するため、流域では古くから水害や干害に苦しみ、江戸時代中期以降数度にわたって大規模な河川改修工事が行われた。伝承によると、日本武尊が上流で弟橘姫の遺髪を流したことから、髪流川とよばれるようになったという。一説にカンナは鉄穴の意で、砂鉄採集地の名称ともいう。
 また文明一八年(一四八六)の「廻国雑記」には「かみ長川」とあり、川名の由来は明らかでないが、かなり古くからの名称であったことは確かであろう。
      
       鳥居の左右に立つ標石。左側は神楽殿改築記念碑。右側には社号標柱。

   鳥居の左側に設置されている案内板      鳥居上部には社号額が飾られている。
 八幡神社 御由緒
 □御縁起(歴史)  神川町新宿二八四
 当地は神流川右岸に位置し、武蔵と上野両国境に当たり、南に渡瀬村、対岸は上野国緑野郡保美村(現群馬県藤岡市)・浄法寺村(現同県鬼石町)である。村の開初の時期は明らかでないが、渡瀬村の新田として開かれたと伝えられる。神流川に中世末期から設置されていた九郷用水の堰口があり、近郷二二か村の用水として使用されていた。
 当社は新宿の村の鎮守として祀られている。その創建は『児玉郡誌』に「永禄年間(一五五八~七〇)渡瀬御嶽山城主長井豊前守政実築城の際、武運守護神として勧請せし社なりと云へり」と記されている。御嶽城は、渡瀬の北東端の御嶽山にあった南北朝期から戦国期にかけての山城で、右の「築城」とは再築城を指すものと思われる。
 更に同書には「往昔より新宿・寄島・峯岸三耕地の総鎮守として村民厚く崇敬せり。寛文年間(一六六一~七三)神主浄法寺因幡橡信重奉仕し、社殿を改築し、当時の棟札現存せり、その後社務は修験御嶽山法楽寺の兼帯せる社となる」と記されている。一方『風土記稿』には、当社は天台宗の無量院持ちとして見え、別当に変遷のあったことが知られる。
 明治初年の神仏分離により別当の無量院から離れ、社格制定に際して村社となった。 大正四年に御大典記念として神楽殿を新築し、同十五年には本殿を境内地の内で移転し、拝殿を新築した。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                                       拝 殿 
 案内板に記されている「長井 政実(ながい まさざね)」は、戦国時代の武将で、上野・武蔵国境に拠った国衆と呼ばれる在地豪族である。政実は元々山内上杉家家宰である足利長尾氏配下の国人・平沢氏の一族であり、足利長尾氏の被官だった。その後永禄8年(1565年)4月までに後北条氏配下の元で、同じく足利長尾氏被官で御嶽城主であった安保氏の家臣を継承して武蔵御嶽城主となったと考えられている。同10年(1567年)の武田信玄の駿河侵攻に端を発して武田氏と後北条氏の関係が悪化すると、同12年(1569年)6月に後北条方として上野国多胡郡に出兵し、武田方の小幡信尚や小幡織殿助を寝返らせた。これに対して武田信玄は北関東から後北条氏領国に侵攻し、99日には政実の御嶽城も攻められたが、陥落には至らず翌10日に武田軍は鉢形城の攻撃に移った。しかしその後も武田軍に御嶽城を攻められ、翌元亀元年(1570年)65日に政実は降伏し、武田氏に従属する。
 
武田氏に従属した政実は、長井名字と豊前守の官途を与えられ、「長井豊前守政実」を名乗ったようだ。そして従来と同じく御嶽城の安堵を認められ、引き続き御嶽城主となる。
 天正10年(15823月に武田氏が甲州征伐により滅亡、武田氏滅亡後の政実は越後に逃れ、上杉景勝の家臣となっていた藤田信吉を頼ったと伝えられているが、その後の足取りははっきりとしていない。
 但し子の昌繁は小田原征伐後徳川氏に仕え、上総国で所領を与えられている。
        
        社殿手前右側に設置されている「八幡神社改築記念碑」と石碑
                  八幡神社改築記念碑
                            記

                永禄年間当時御嶽城主長井氏の勧請と伝へられる
               当社も創設以来幾度かの改修によって社の尊厳を保
               ってきた。近年に至り社屋のいたみがひどく此度氏
               子の賛同を得て大改築を行う事になった。此の改築
               に当っては神社の基本財産より三百万円支出の他左
               記の方々おり多額の寄附を仰いで之を完成した
                 昭和五十三年十月十五日 
八幡神社改築委員会
 
                神楽殿            境内に祀られている境内社。詳細不明。
       
             境内には幾多の巨木・老木が聳え立つ。
        
                                   境内の一風景
              落ち着いた雰囲気の静かな社である。
 境内に落ち始めた落ち葉が初秋を感じさせてくれ、厳かな中にも神妙な気持ちにさせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「神川町HP」「日本歴史地名大系 Wikipedia
    「境内案内板・改修記念碑文」等

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四軒在家日枝神社

 日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社で、式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。嘗ては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれていて、全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社であり、通称として山王権現とも呼ばれる。猿を神の使いである神猿(まさる)とする。同時に大津市坂本は日吉大社と天台宗総本山延暦寺が共存し、神仏習合のまちとして栄えた。それというのも延暦7年(788年)、最澄が延暦寺を建立するに際して、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬、社は天台宗の護法神であり、延暦13年(794年)の平安京遷都により、社殿の立つ場所が平安京の表鬼門にあたるため平安時代より都の守護神としても信仰され、鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになった
 延暦寺と日吉大社とは、延暦寺を上位にしながら密接な関係を持ち、平安時代から、延暦寺が日吉大社の役職の任命権を持つようになった。天台宗が日本全国に広まると、それに併せて天台宗の鎮守神である山王権現を祀る山王社も全国各地で建立されたという。
        
            
・所在地 埼玉県児玉郡神川町四軒在家134
            ・ご祭神 大山咋命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 祈年祭 319日 おくんち 1019日

 四軒在家日枝神社に至るルートは、神川町、元阿保地区鎮座の阿保神社から児玉往還を北西方向に進み、最初の十字路を右折。100m程行くと左前方に四軒在家日枝神社の朱の鳥居が見えてくる。
 途中までの経路は阿保神社を参照。阿保神社に通じるこの道路は、児玉往還というそうだが、児玉往還は江戸から上州への近道となる川越・児玉往還の内の川越から上州藤岡までの街道で中山道の脇往還として賑わっていた。江戸から上州への中山道の近道となる道で、中山道は大名などが利用していたのに対し、川越児玉往還は役人などが多く利用していた。中山道より距離が短い事もあり、その通行者はかなり多かったようである。現在の国道254号のルーツとなった道であるが、国道254号は各市町村を経由しているので川越市~東松山市間(川島町を経由)、嵐山町~寄居町間(小川町や寄居町を経由)などで一部区間では大きくルートを外れる。
 一説によれば、この児玉往還は嘗ての鎌倉街道上道であったともいう。
        
                            四軒在家日枝神社正面

        
                 鳥居の右側に設置されている案内板

 日枝神社御由緒 神川町四軒在家一三四
 □御縁起(歴史)
 四軒在家の地名について、『神川町誌』は「その昔四人の者が最初にこの土地に住みついたところから名付けられた」との伝えを記している。当社は、恐らくそうした村の草分けの人々が鎮守として勧請したものと思われ、『明細帳』によれば、その創建は正平年中(一三四六~七〇)のことで、近江国日吉山王社の御分霊を遷座して鎮守として崇敬してきたものであるという。なお、同書は更に、元和六年(一六二〇)に山王大権現の扁額を代官伊奈半十郎から寄附されたこと、宝暦三年(一七五三)に本殿を再興した旨を記している。
『風土記稿』に「山王社 村の鎮守にて、長浜上郷村上松寺持」と載るように、江時代の当社は長浜上郷村の上松寺の管理するところであった。神仏分離によって、同寺の管理を離れた後は、村社となり、明治四十三年に社務所を新築し、同四十五年五月二十一日には字降り松の無格社稲荷神社を本社へ合祀、同年五月八日には字稲荷林の無格社稲荷神社と字山王前の無格社御嶽神社を境内社として移転した。
 拝殿の建築年代は不明であるが、正面に千鳥破風、向拝部は軒唐破風の付いた凝った造りで、鬼瓦には「日枝」の文字が入っており、こうした造りから当社の建設に関する関係者の熱意の程がうかがえる。
 また、拝殿の右脇には神木が枝を広げ、境内には遊具も設置され、子供の良い遊び場となっている。
 □御祭神 大山咋命…五穀豊穣 健康良運
                                       案内板より引用

        
                        拝殿覆屋
 数年前に訪問した時は、古びた社殿でありながら、それなりに趣きがあったが、令和元年秋に建て替えになっていて、今風の建築になっていて、少々残念。
        
                                 拝殿前に聳え立つご神木。
 
   拝殿覆屋の左側に鎮座する石祠2基        拝殿覆屋の右隣に鎮座する境内社
         詳細は不明                                    稲荷神社か
 
 社の北側に隣接する四軒在家集落センター並びにある石祠群(写真左)と石碑が祀っている祠(同右)。案内板以外社の由来等を説明する資料等が少ないため、詳細不明。
        
            拝殿上部には「日枝」と刻印された鬼瓦が扁額代わりに設置されている。

 四軒在家日枝神社が鎮座する神川町四軒在家地区。四軒在家は「しけんざいけ」と読む。中々個性的な地区名だが、歴史的な初見は慶長965日および同月11日の検地帳に「賀美郡安保領四軒在家村」と見え、『神川町誌』において「その昔四人の者が最初にこの土地に住みついたところから名付けられた」との伝えを記している。
 因みに「在家」とは「領主が年貢を賦課する時の単位」を意味する。中世、荘園・公領で、農民と耕地とを一体のものとして賦課の対象としたもので、平安時代後期に、荘園公領制が展開するなかで、公事負担者として国衙や荘園領主から把握された一般農民、ないしその屋敷地のことをいうそうだ。
                
                         四軒在家日枝神社 ケヤキのご神木の遠景
           冬時期の北風の影響か、樹木が南側に傾いている。


参考資料「
Wikipedia」「新編武蔵風土記稿」等

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肥土廣野大神社

 肥土廣野大神社の鎮座する肥土の地は、埼玉県(武蔵国)に属しているが、かつては上野国(今の群馬県)に属し、国内神名帳(上野国神名帳)に緑野郡「従三位廣野明神」に比定されている社であった。上野国に属していた時は、上野國粶野郡村波爾(土師)郷の内だったが、武蔵・上野の国境となっている神流川の流れが変わった為に、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになり、賀美郡肥土村に改称したという。
 創建には諸説あり、『児玉郡誌』には天平宝字三年(759年)とあり、『明細帳』には一条天皇御字正暦五甲午年(994年)創立とある。後に「八幡天神駒形明神合社」となり、「神流川神社」とも呼ばれ、明治39年神名帳に載る社号に戻したものと思われる。
        
            ・所在地 埼玉県児玉郡神川町肥土380
            ・ご祭神 天穂日命 倉稲魂命 誉田別命
            ・社 格 旧郷社
            ・例 祭 節分祭 23日 例大祭 319日 大祓式 731
                 秋季大祭 1019

 肥土廣野大神社は神流川の東側に南北に細長い神川町肥土地区に鎮座する。JR八高線・丹荘駅を起点として、西側方向に八高線線路に沿って進み、埼玉県道22号上里鬼石線に合流するT字路を右折し、ガソリンスタンドやJAひびきの神川支店がある信号を左折する。道なりに進み、八高線の踏切手前の道を右折し、線路に沿って600m程進むと突き当たるので、そこを右折し、暫く進むと左側前方に肥土廣野大神社の一の鳥居が見えてくる。
  駐車スペースは一の鳥居の北側130m程先に肥土廣野大神社が鎮座し、東側に駐車可能な空間があり、そこに停めてから参拝を行った。
            
                    社号標柱 
        
                              肥土廣野大神社 一の鳥居
    肥土廣野大神社境内からずいぶんと離れた所に社号標と一の鳥居(神明式)が立つ。

 肥土地区は元々上野国粶野郡村波爾(土師)郷内に属していた。神流川も今より東側の平野部を流れていたが、洪水等の災害により、流路が現在の場所に移り、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになり、賀美郡肥土村に改称したという。
 肥土廣野大神社は神流川を挟んで西側近郊に本郷土師神社が鎮座しているが、この土師神社は古代の土師部の集団で元を辿れば出雲族の一族で、出雲から信州へ、そして東山道経由で上野国にたどり着いた一派と考える。
 ご祭神である天穂日命は天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が誓約(うけい)をした際、天照大神の珠(たま)から生まれた五男神のなかの一神でありながら、出雲国津神に味方した神でもある。「古事記」「日本書紀」で葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。後に他の使者達が大国主神の子である事代主神や建御名方神を平定し、地上の支配に成功すると、不思議と大国主神に仕えるよう命令され、子の建比良鳥命は出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされる。
 因みに現在埼玉県久喜市鷲宮に鎮座する鷲宮神社のご祭神も天穂日命と建比良鳥命である。この社は「土師宮」とも称し、関東神楽の源流とされる「鷲宮催馬楽神楽」は正式には「土師一流催馬楽神楽」と呼ばれていて、土師集団との関係も深い。
 肥土廣野大神社の南方には「出雲神社」も鎮座していて、この地域周辺は出雲族・土師部との関係性がかなり強かったと考えられる。
 
一の鳥居から長い参道を経て(写真左)、社の境内に到着。二の鳥居前には神橋(同右)がある。

 天穂日命は天津系の神でありながら、国津系の神々に心服した二面性のある神で登場しているその背景を考えると、もしかしたら本来出雲氏一族が祭っていた出雲の地方神であり、葦原中国平定譚の成立時、出雲地方を舞台とする神話が重要度を増し,膨れ上がっていくのに連れて、高天原の神として取り込まれるようになったのではなかろうか。
        
                    二の鳥居
        
                             二の鳥居の近くにある案内板

廣野大神社御由緒  神川町肥土三八〇
□御縁起(歴史)

当社の鎮座する肥土の地は、武蔵・上野の国境となっている神流川の流れが変わったために、元禄十四年(一七〇一)から武蔵国に属するようになった。上野国に属していた時は、緑野郡土師郷の内であった。
当社の社宝として、上野国司が作成した国帳で永仁六年(一二九八)に改写された『上野国神名帳』一巻が蔵されている。これに載る緑野郡十七座の内「従三位廣野明神」が当社に比定されている。その創建については諸説あり、『児玉郡誌』には「淳仁天皇の御宇、天平宝字三年(七五九)上野国司の創立なりと云ふ」と記すが、『明細帳』には「一条天皇御宇正暦五甲午年(九九四)創立」とある。
当社の社号は、『上野国神名帳』にあるように、「廣野明神」と記され、神流川の自然堤防上の当地と、周囲に広がる氾濫原の風景から付けられた社号である。しかし、当社は化政期(一八〇四~三〇)には『風土記稿』に見られる「八幡天神駒形明神合社」と号し、更に『郡村誌』には「神流川神社」と記載されている。社殿の背後に「奥宮」と呼ばれる神流川神社(祭神天穂日命)を祀ることを考え合わせると、三間社の本殿は八幡天神駒形明神合社として造営し、廣野明神を奥宮とした経緯が考えられる。それが、明治三十九年の郷社昇格に際し、神名帳に載る社号に戻したものと思われる。
□御祭神 天穂日命 倉稲魂命 誉田別命

                                      案内板より引用
        
                                      拝 殿
 
 拝殿の左側には五社の石祠が並ぶ(写真左)。左から野原神社・太元神社・産泰神社・倭文神社・若宮八幡神社。五社の石宮の並びには三社の境内社が鎮座している(同右)。左から八坂神社・琴平神社・摩多羅神社。この摩多羅神社にはご神体である石棒が祀られている。
        
        三社の境内社と拝殿との間には境内社・今宮神社が鎮座している。
 
  拝殿の右隣側には境内社・稲荷神社が鎮座。    稲荷神社の手前には石祠が4基。
                       住吉神社・伊勢神社・千勝神社・戸隠神社。
       
               稲荷神社の隣に聳え立つご神木

 ところで古代上野国で埴輪生産については、太田地域と藤岡地域の2地域が一大生産地として知られているが、藤岡地域では、神流川流域の本郷埴輪窯址と鮎川流域の猿田埴輪窯跡の2地点が知られている。生産地があるという事実は、それに伴う供給地もあり、その流通ルートは神流川を利用する水運による交易が主流であったことは想像に難くない。
 古代この地に居住していた土師一族集団はこの水運を利用して各地に流通ルートを広げていたことだろう。河川に近い場所に社を鎮座させることは、水運交通の無事と共に度々発生する洪水等の自然災害を防ぐために祀られるケースが多い。河川近郊に鎮座する社は、このようなメリット・デメリット両方併せ持つ地に対しても、命を賭して果敢に挑戦しようとする人々の本能的な欲求に帰依したことで、その精神は現代の我々にも受け継がれていると筆者は信じたい。
 
     社殿の後方には、神流川神社が鎮座。            この石宮が奥宮になっているという。

        
                          静かに鎮座する肥土廣野大神社

肥土」という地区名は一見「地味が豊かで、土地に作物を育てる養分が多い 肥土・肥沃」との意味があり、豊かで肥えた土地という印象を持つ。他方で「肥土」の地名由来として、嘗て「阿久津(アクト)」と称していたらしい。
この「阿久津(アクト)」は「悪戸(アクト)」が語源の佳字で、熊谷市・河原明戸諏訪神社でも紹介した通り、上流から流出した土砂が堆積した場所、川添平地の意味であるから、この土地は水害がひんぱんに起こり、更に湿地であったため耕作にも適さず、人々は(おこって)悪字を用いて悪戸と書いたともいう。
 字数の関係でこれ以上の考察は省くが、さて真相は如何であろうか。



 参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「藤岡市HP・はにわ窯と土師神社」
      
Wikipedia」等


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