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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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渡瀬木宮神社

 武蔵国の北辺に位置する賀美郡は地形上利根川や烏川、または神流川を隔てて上野国との繋がりが古来より頻繁な地域であり、神川町もまたつい最近まで神流川を中継して鬼石町との交流が盛んな地域であったようだ。この神流川流域の狭い空間にある古社(金鑚神社、鬼石神社、土師神社、丹生神社、木宮神社)には共通した文化圏を形成していたと思われ、その関連性も注目される。
 神川町渡瀬地域にはこの木の神である句句廼馳神を祀る木宮神社が鎮座している。
所在地    埼玉県児玉郡神川町渡瀬737
御祭神    句句廼馳神
社  挌    旧村社
例  祭    4月中旬の日曜日 渡瀬の獅子舞  10月14日 木宮神社座祭

       
 渡瀬木宮神社は埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を上里町から藤岡市鬼石方向に南下し、渡瀬郵便局の先にホームセンターが左側にあり、その道路を挟んで右側に鎮座している。但し道路沿いにあるのではなく、民家のすぐ西側に鎮座しているし、道も狭い。駐車スペースも十分確保されていないので、ほぼ横付けして急ぎ参拝を行った。
           
                          南方向にある一の鳥居

   一の鳥居の手前で左側にある石祠、石碑群。      一の鳥居の手前ですぐ右側にある社日。

 この渡瀬地域は三波石の産出地である鬼石町三波石狭に近く、渡瀬木宮神社境内にも多くの石碑等がある。この三波石狭は,藤岡市南部,神流川中流の下久保ダムから下流約 1.5kmの間の渓谷。緑泥片石に石英の白い縞模様のある三波石の大転石が河床に重なり合って美しく庭石に利用されている。国の名勝・天然記念物に指定されている。

 一の鳥居付近のある大きな石碑(写真左)。何と彫られているか不明。また境内参道途中の右側には「猿田彦命」と彫られた石碑(同右)もある。どちらも石碑の上部が削られている形跡がある。
           
               「猿田彦命」の石碑の先にある「渡瀬の獅子舞」の案内板

渡瀬の獅子舞       昭和62年3月10日  町指定民俗資料
 渡瀬の獅子舞は、稲荷流といって藤岡市の大塚から、200年程前に伝授されたという。
 その昔、渡瀬に流行病があった時に、厄払いとして松山稲荷に獅子舞を奉納したのが始まりと伝えられ、当時は長男に限られていたが、現在は特に制限されていない。
 獅子舞は、春祭(4月中旬)、秋祭(10月中旬)に木宮神社でおこなわれるが、八坂神社の例祭(7月下旬)にも奉納される。
 獅子は、黒獅子・赤獅子・青獅子の三頭で、その外に、花(?)・ひょっとこ・カンカチ・天狗・花万灯持ちの役割がある。(中略)
                                                          案内板より引用
           
                         「民俗資料 座祭」の舞台
           
                          木宮神社座祭の案内板

木宮神社座祭    昭和35年3月1日 県選択無形民俗文化財
 木宮神社座祭は、木宮神社で10月14日に行われ、県内はもちろんのこと、関東地方においても類の少ない古式の祭である。 
 座祭は、渡瀬の草分け百姓と伝えられる32戸の旧家が本家筋と分家筋の二つに分かれ、それぞれ一戸ずつが組みを作り、都合16組が1年交代で頭屋を務めて行われる。この場合に本家筋を「真取り」といい、分家筋を「鼻取り」という。
 座祭は、江戸時代の慶長年間(1596~1615)に須藤新兵衛が仲田弐反歩を奉納して、ここから採れる神米で祭を賄ったことに始まったと伝えられている。
 また延享3年(1746)の座席図によると、この頃には32戸が座祭に関係していたことがわかる。
 座祭の当日は、「座奉行」が一切を取り仕切り、拝殿に対して「一の座」、左側に「二の座」、右側に「三の座」の三つの座が設けられ、それぞれの座には、中央に「本座」があり、稚児により順次御神酒・赤飯が給付される。祭の最後には、新旧頭座が中央に対座し、引渡しの儀式を行い祭の全てを終了する。
                                                           案内板より引用

 案内板に書かれている「須藤家」は神川町渡瀬地区に多く存在する。須藤家系図に「永享十二年須藤伊与守が信州諏訪より移住し、渡瀬村を開白す」と書かれ、また児玉郡誌に「渡瀬村の木宮神社は、永享年間に須藤伊与守・原大学・山口上総介・田中膳道・矢島左馬之助・大谷内蔵人、等の協力によって興隆す。慶長年間に至り、須藤安左衛門は同社に神田二反歩を寄進す」と案内板とは違った名前(須藤安左衛門)で登場する。もしかしたら同じ人物であった可能性もある。

            

                             拝      殿
           
 木宮神社の拝殿上部に掲げてある社号額はこの地の実業家である原家の別荘に来訪した伊藤博文の書である。龍宝寺安政四年三ツ具足寄附に原太兵衛。明治二年五人組帳に年番名主原太兵衛・組頭原喜十郎・組頭原庄作。明治四年戸籍に原喜十郎・原庄作・原治平・原浪太郎。太兵衛の子原善三郎(文政十一年生、明治三十二年没)は実業家にて、貴族院・衆議院議員を歴任したという。その縁故で、この地に伊藤博文が来訪したその際に書かれたものだろう。
           
           
                             本      殿

         社殿の奥にある境内社                 社殿の左側に並んだ境内社群

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阿保神社

 安保氏(阿保氏)は多治比氏を本姓とする、武蔵七党の一つで丹党の一派である。秩父(丹)綱房が初めて安保の地を領有し、その次男である実光が父綱房より武蔵国賀美郡の安保郷(現神川町元阿保)の地を譲り受け、居住し安保(阿保)氏を称したという。この実光の生没年は1142年(永治2年)から1221年(承久3年)と平安末期から鎌倉幕府創建時まで北武蔵地域で活躍した武将で、没年は80歳と当時の平均年齢では大変高齢であり、頼朝挙兵からその傘下に入り、一の谷の戦い、奥州合戦にも参加し、最後は老齢の身でありながら承久の乱にて、宇治川の戦いで討ち死(溺死)した。その功績からか、跡目を継いだ七男実員は本領とは別に播磨国の守護職を得て、鎌倉御家人として源氏3代、その後の北条執権家に忠節を尽くし、その宗家は鎌倉幕府滅亡と共に滅亡する。

 しかしその一方で、阿保神社のその創建時期が平安~鎌倉時代に活躍した安保氏よりも遥かに古く、「明細帳」によると、延暦三年(784年)に当地を来訪した伊賀国の阿保村の出身である阿保朝臣人上が従五位下・武蔵介に任命され、この地に阿保神社を創建したとも伝えている。
 丹党秩父一族が「安保」と名乗った前から、この地域はすでに「安保郷」と呼ばれていたということは、それより以前に「阿保」と因縁のある何かが介在していなければ成立せず、延暦年間の記述の信憑性も増すということだろうか。
所在地   埼玉県児玉郡神川町元阿保1
御祭神   大己貴命 素盞嗚尊 伊弉冉尊 瓊瓊杵尊 大宮女大神 布留大神
社  挌   式内社論社(今城青八坂稲実神社・今木青坂稲実荒御魂神社)
        旧指定村社
例  祭   10月19日 例大祭 

             
 阿保神社は群馬・埼玉県道22号を、上里町から神川町丹荘駅方向に進み、国道254号と交わる元阿保交差点の先の信号機のある十字路を右折すると1km弱位で左側にその社叢が見えてくる。駐車スペースは一の鳥居の先で境内に農民センターがあり、そこにはかなり余裕のある空間があり、そこに停めて参拝を行った。
 ちなみに阿保神社に通じるこの道路は、一説によると嘗ての鎌倉街道上道であったという。上野国から神流川を渡り武蔵国に入るとすぐ南側にこの阿保神社はあり、上野国との交易上の要衝であったことは容易に推察できる。
                   
                道路沿いにある古き歴史を感じさせてくれる阿保神社の社号標石


       参道正面には一の鳥居              社殿の手前右側には案内板がある。

阿保神社       神川町大字元阿保 字上六所一
 由緒
 ここ元阿保の地は、中世の丹党安保氏の本貫地とされる。丹党の秩父綱房の次子実光は安保の地に住み、安保氏をとなえ、以後在所名を姓とした。安保氏は鎌倉期から室町期、さらに戦国期までつながっていく。字上宿には安保氏館跡と伝える地があり、周囲は堀に囲まれた三百メートル四方の部分と考えられている。館跡のすぐ北西には当社が鎮座、南西側には安保泰規が室町初期に建立したと伝える大恩寺跡が隣接する。
 当社はその立地から丹党安保氏により鎌倉期以降に祀られたことが推測されるが、「武乾記」に載る由緒は更に古い。「六所明神は延喜式内の社なり。村老の伝に太古、阿保人上武蔵介の建立せし所なり。其後安保次郎実光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲実明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」と記載されている。
 丹党と丹生社との関わりは、字関口の池上神社の「明細帳」には「往古阿保村と一村たりしとき、六所社 丹生社同村にありしを、天正五年(1577年)三月分村の時、丹生社を本村の鎮守に分かち定め今の地に遷し祀る」とある。安保氏在住の頃は丹党の人々の結束として元阿保で祀られていた。言い伝えでは、六所社の奥であったという。
 当社は享保十二年(一七二七年)神祇管領から「正一位六所大明神」の神宣を受けた。風土記稿に六所明神社と載っているが、明治四十年から字内の神社を境内に遷し、明治四十三年に阿保神社と改称した。(以下中略)
                                                          案内板より引用
             
                              拝    殿
                       
                         拝殿とその奥にある本殿 

 阿保神社が鎮座する賀美郡は、武蔵国最北部にあたり、武蔵国内陸部よりも利根川、神流川を隔てて北岸の上野国との繋がりが遥かに多かった場所であろう。その意味において文化的にも経済的にも上野国の影響下であった時期があったと思われる。                                                                                                                    

 上野国の古墳の変遷を見ると、大体において以下の3か所が古墳の集中地域である。
  ① 太田市地域
  ② 佐野町、倉賀野町地方を含む県中央部
  ③ 藤岡市周辺地域
 藤岡市周辺の古墳は太田市周辺域や群馬県中央域と比べると出現時期は若干遅い。群馬県中央部の佐野、倉賀野地区で栄えた文化の影響からか、それとも東山道からの普及からか、5世紀前半には白石地区の猿田川岸段丘の上にある墳長175mの白石稲荷山古墳が、また6世紀前半には七興山古墳が築造されている。
                   
                              本殿内部

 七興山古墳は6世紀前半に築造されたと推定されているが、この時期に造られた東日本の古墳の中でも最大級の古墳で、同時期の埼玉古墳群の中の二子山古墳より規模は大きい。墳長146m、3段構成の前方後円墳で、その名前の由来として羊太夫伝説からきていると言われている。奈良時代多胡郡司となった羊太夫は、後に謀反の図っているとして朝廷から討伐軍を差し向けられ、羊太夫の妻女ら七人がここで自害し、それぞれ輿に乗せて葬ったので、「七興山古墳」という名前になったといわれている。

 この七興山古墳築造の時期と、羊太夫伝説には200年ほどの時代のズレがあり、後世の作り話とも、または逆説的な考え方としてこの羊太夫伝説自体が、6世紀に遡る実際に起こった事件とも思われるが、今回ここでは敢えてその真偽は問わない。それより重要なことは、白石稲荷山古墳や七興山古墳がこの白石地区、つまり多胡の地にあることだ。羊太夫伝説は伝承地が限られており、今の群馬県西南部を西から東方向に流れる鏑川流域に沿った地域を中心として、それに埼玉県秩父地域である。この地域こそ、伝説上ではあるが多胡の羊太夫が活躍した本拠地、及び勢力範囲なのだろう。

      社殿の右側にある阿夫利神社               阿夫利神社の奥に社日がある。

    社殿の左奥にある石祠群 詳細不明         社日の右側奥にズラッと並んだ境内社群
                                     
                   正面鳥居の傍にどっしりと構えたケヤキの御神木

 阿保氏は垂仁天皇の皇子である息速別王の子孫であり、息速別王が幼少の時に天皇が息速別王のため伊賀国阿保村(三重県伊賀市阿保)に宮室を築いて同村を封邑として授け、子孫はその地に住居したという。時は延暦三年(784年)、中央からのルートは宝亀二年(771年)武蔵国は東山道から東海道に属し、相模国から武蔵国沿岸を通るルートに変更されて10年程たった時期だ。当然阿保朝臣人上は官人であるため、東海道のルートを通ったろう。南側から武蔵国府中で任務を行っていた彼がどのような理由で最北の地であるこの地を訪れたのだろうか。何気なく記載された文章の意味を深く考えるといくつもの疑問が湧いてくる。

 羊太夫はどのルートで多胡地区から秩父黒谷地区に移動したのだろうか。最初に思いつくのが神川町城峰から皆野町国神を経て秩父黒谷地区に向かうルートであろう。但し藤岡市牛田地区から神流川を越えて本庄児玉町に入り、埼玉県道44号線で児玉町河内方向から皆野町国神に入るルートもある。ちなみに藤岡市牛田地区や、本庄市児玉町河内地区には羊太夫伝説、伝承が存在する。



 「多胡」は「タゴ」と読むが、「多」は「タ」の他に「オオ」とも読める。つまり、「多胡」=「大胡(オオゴ)」である。また「阿保」は「青(アオ)」であり「大(オオ)」とも読め(滑川町羽尾地区には羽尾神社があり、御祭神の藤原恒儀は青鳥城主であり、オオトリと読む)何かしら関連性があるように思えるのだが.....単なる偶然かもしれないのでそこはご容赦のほどを。



(追伸)
 この「多胡」という地名は後代「田甲、田高、田子、高生」と佳字を用いるようになる。この中で「田甲」は武蔵国吉見町に延喜式内社である高負彦根神社が鎮座する地であり、他には深谷市岡部地区や行田市皿尾地区にも存在し、意外に広がりをみせている。

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矢納城峯神社

 平将平は、平安時代中期の武将で、平良将の子で平将門の弟。豊田郡大葦原に居を構えていた事から「大葦原四郎」と称していたという。平将門は関東一円を占領し新皇となり、将平はその際に上野介に任命されていた。
 この平将平は生粋の坂東武者である反面、良識ある人物であったようだ。兄・将門が関東一円を占領し、新たに新皇になる際に伊和員経らと共にこれを諌めたという。

 「夫レ帝王ノ業ハ、智ヲ以テ競フベキニ非ズ。復タ力ヲ以テ争フベキニ非ズ。昔ヨリ今ニ至ルマデ、天ヲ経トシ地ヲ緯トスルノ君、業ヲ纂ギ基ヲ承クルノ王、此レ尤モ蒼天ノ与フル所ナリ。何ゾ慥ニ権議セザラム。恐ラクハ物ノ譏リ後代ニアラムカ。努力云々」
 
(口訳)「だいたい帝王の業というものは、人智によって競い求むべきものではなく、また力ずくで争いとるべきものではありません。昔から今に至るまで、天下をみずから治め整えた君主も、祖先からその皇基や帝業を受け継いだ帝王も、すべてこれ天が与えたところであって、外から軽々しくはかり議することがどうして出来ましょうか。そのようなことをすれば、きっと後世に人々の譏りを招くことに違いありません。ぜひ思いとどまりください。」

 その後将門は討伐さて戦死するが、その際に将平は城峯山に立てこもり謀反を起こしたおり、討伐を命じられた藤原秀郷が参詣し、乱の平定を祈願したと伝えられている。その後無事乱を平定した秀郷はねんごろに祭祀を行い、城峯の号を奉り、その後城峯神社と呼ばれるようになったという。
 秩父、神川地方には将門伝説の説話が多いことも事実で、真相は如何なるものだろうか。
所在地    埼玉県児玉郡神川町大字矢納字東神山1273
御祭神    大山祇神
社  挌    旧郷社
例  祭    5月5日例大祭

        
 矢納城峯神社は神川町の細長い町域の南方にあり、神流川、下久保ダムを挟んで反対側にある神川町の城峯公園を目指すと良い。国道462号線、またの名を十石峠街道を神川町から神流川沿いに元神泉村方向に進み、途中譲原地区より左に折れて埼玉・群馬県道331号吉田太田部譲原線となり、そのまま道なりに進む。県道331号は延命寺付近で分岐し、山道特有の細い曲がりくねった道をしばらく進むと、城峰公園が見合てくる。その公園入り口に対して向かい側に矢納城峰神社の鳥居がある。
 鳥居の向かって右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。参拝日は11月の下旬で丁度城峰公園の冬桜のシーズンで観光バスや観光客が沢山いて、公園の駐車場が全く使用できない状態だった。
           
 鳥居正面には観光バスが一列縦隊状態で、そこから撮影を強行することは慮ったため、右側にある社の専用駐車場側から逆光を覚悟で撮影したが、やはり逆光状態になってしまいうまく撮影できなかった。

    駐車場近くにあった城峰神社の案内板        鳥居の先には趣のある杉並木の長い参道
              
                 参道を進むと城峰神社の二の鳥居が見えてくる。

 神川町ホームページには「矢納」の語源について以下の説明をしている。

地名の謂れ 「矢納」
 昔、東国が乱れ人々が大変苦しんでいるという事を心配された天皇は、吾が子「日本武尊」に「東国の乱れを治めよ。」と命じた。
 日本武尊は、早速軍備を整、大勢の家来を引き連れてこの山深い村に立ち寄った時の話です。
 この地についた日本武尊は周囲の山々を見わたし、一際高い山に登り頂上に立って周囲の山々や峯々を注意深く見わたしたのです。その時何故か武尊は「大きな、ため息」をつかれたそうです。
 周囲の山々の様子を眺められ秘策を練られた武尊は足元の「大岩」に背中につけていた矢を1本取り出し、力をこめてその大岩に矢をつき立てたのです。そして大きな声で、「私は、此処から見渡らせる緑の峯々をこの手中に治めたい。」と家来の前で力強く「宣言」をされたのだそうです。
 大岩に「矢」を突きたてたという事が後々まで語り伝えられた事から、この大岩を「矢立の岩」と呼ぶようになったのだそうです。
 武尊がこの地に入られるという知らせを受けた村人たちは、こぞって村の入り口近くまで出迎えたといい、この場所を「迎え平」と呼ぶようになり
 何時しかこの地が「迎え平」という地名になったといわれています。
 尚、柚木家に残る三枚の版木の一枚には、武尊が東征の際当地に立ち寄られた折り、弓の矢の根を御祠に収め「大山祗命」を祀られたということから、以来この地を「矢納村」と名付けられたと村名の由来が版木の一枚目に書き記されているという事です。
                                                      神川町 ホームページ参照
             
            鳥居のある石段を過ぎると城峰神社の由来を記した案内板がある。

 郷社 城峯神社御由  埼玉県児玉郡神泉村大字矢納字東神山
 由緒
  人皇第12代景行天皇の41年皇子日本武尊東夷御征討の御帰路この里に至り給い当山に霊祀を設け遥に大和畝傍山の皇宗神武天皇の御陵を拝し東夷平定の由を奉告し給い且つ躬ら矢を納めて大山祇の命を祭りて一山の守神と崇め給う是れ即ち当山の起源にして当村矢納の地名も此の古事に縁由せり、天慶3年平将門の弟将平矢納城を築きて謀叛せり時に藤原秀郷朝命奉じて討伐に向かい当山祭神に賊徒平定を祈願し乱治って後厚く祭祀を行い城峯の社号を附せり、天録2年本殿を建つ(中略)
                                                             案内板より引用

 そもそも神川町は埼玉県の北西部に位置し、県境を流れる神流川の右岸に広がる平坦の地域と、その上流部の秩父山系に属する山間部で形成されている。現在の行政単位においては埼玉県に属してはいるものの、市街地は主要地方道である上里鬼石線沿いに形成されていて、山間部近くの元神泉村地区は、つい最近まで元鬼石町との婚姻が数多かったように、神流川左岸の群馬県藤岡市鬼石町との交流が昔から盛んな地域であった。
 またこの神泉村の周辺には、「神山」、「両神山」、「神流湖」、「神流川」など不思議と「神」と名がつくものが多い。そして神流川の北側対岸には「鬼石町」。この鬼石町には以下の伝説がある。
 
 上野国志御荷鉾山の條に「土人相伝、往古此山頂に鬼ありて人を害す。弘法大師の為に調伏せられ、鬼石を取り抛ちて去る。其石の落ちる地を鬼石といふ
 
                                                           鬼石町誌より引用

  この城峰神社が鎮座する旧神泉村周辺域には「日本武尊伝説」「平将門伝説」「御荷鉾山伝説」等の伝承・伝説が混在している神話の宝庫であり、現在の長閑な風景では到底考えられない位、真に不思議な地域だ。
 不思議ついでにもう一つ。矢納地区にある城峰神社のすぐ南側に同名の城峰神社がある。こちらは秩父市吉田地区石間の標高1038mの城峰山の山頂近くに鎮座していて、やはり平将門伝説が伝わっている。
 
ちなみにこの城峰山は『武蔵通志(山岳篇)』には安房(あふさ)山と書かれている。

 吉田地区石間城峰山の将門伝説
 下野の豪族、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に追われた平将門は城峰山の石間城に立てこもって戦いましたがついに落城。将門は捕らえられました。しかしその後将門そっくりの影武者7人が捕らえられ、秀郷は誰が本物の将門かわからなくなりました。そこで将門の侍女、桔梗にたずねたところ「食事をする時にこめかみが一番よく動くのが上様でございます」と答え、秀郷は本物の将門だけを討ち取りました。将門は怒り「桔梗よ、絶えよ」と叫んで死んだため、以後この城峰山には桔梗が咲かないようになったという。

 この吉田地区石間城峰神社拝殿には大きく金色で「将門」と書かれている。この社の御祭神は何故か平将門を討伐した藤原秀郷が建立し祀られている神社であるのに、敵対していた平将門の名が記されている。

 なにかしっくりしない伝説と現実との乖離がここには存在する。

 社殿に通じる石段を登り切るとその両側に日本武尊にちなむ山犬(狼)型の狛犬(写真左、右)が控えている。
 神様のお使いは、動物に姿を借りて現れるが、これら神様のお使いのことを総称して「眷属」(けんぞく)という。
 城峰神社の御眷属は「巨犬」大口真神とされており、真神は古来より聖獣として崇拝された。狼が「大口真神」になったのは江戸あたりでそれまでは「オオカミ様」「ヤマイヌ様」と様々な呼び名があり、古くからは「狼」の「オオカミ」は「大神」にあたるとされ山の神の神使とされた。
 オオカミ信仰は、かつては秩父を中心に関東一円から  北は福島。西は甲斐や南信州まで多くの信仰を集めていたという。
            
                               拝    殿

  秩父地方の多くの神社の山犬信仰は、神の眷属というよりも、神そのものとされ、そこで「大口真神」(おおくちのまかみ)と神号で呼ばれ、山犬=オオカミ、即ち大神として猪、鹿に代表される害獣除け、火防盗難除け、魔障盗賊避け、火防盗賊除け、憑物除けや憑物落しに霊験があるといわれている。そこで「お炊き上げ」神事が行なわれたり、信者はお犬様の神札やお姿を受け、神棚や専用の祠に祀っている。
 矢納城峰神社は昭和40年代まで毎月1日と15日に「お炊き上げ」が行われていたという。本殿右手にある石組みの処が「献饌場所」になっており、お饌米は黒塗りの会席膳に盛られ、息が掛かると「お犬様が嫌って食べない」ので、膳部から口を逸らせて捧持する仕来たりであったと伝えている。
  
            
                          城峰神社境内にある「亀石」

 矢納城峰神社の奥には標高732mの神山がある。神山山頂は奥行きのある平坦地で、城があったとしてもおかしくない地形である。また、古代より信州と武蔵を結ぶ重要なルートであった神流川沿いの街道を見下ろす戦略上の地点にあり、なにより「神山」という山名が古代においてはとんでもない名山であったのではないか、という考察を抱かせてしまう程のインパクトがある。
 上記において、この地は「日本武命伝説」「平将門伝説」「御荷鉾山伝説」等の伝説、伝承が混在した神話の宝庫と書いた。しかしこの地にはもう一つ重要な伝説が存在している。
 その伝説は「羊太夫伝説」だ。
 羊太夫伝説は西上州から秩父地方が主要な分布地となっている。(*但し質、量共に西上州の分布が圧倒的に多いが、『羊太夫伝説』によると羊太夫は秩父黒谷の銅山採掘の功により多胡郡の郡司となった経歴があることも参考としなければなるまい。)
 この二つの地域の中間地域にこの神泉地区がある。考えるに奈良時代前後、古代のこの地域の道は後代の鎌倉街道のルートよりも西側、つまり武蔵国における「山の辺の道」の一つとして鬼石から神泉村を経て皆野町国神に至るルートがすでに存在していたのではないだろうか。あくまで推測にすぎないが。


 神山の北側には、神流川を堰き止めた人工湖がある下久保ダムと神流湖があり、川は群馬県との県境である。
            
 そして矢納城峰神社のすぐ東側には城峰公園があり、参拝時期も11月中旬で丁度冬桜が咲いている時期にあたり、多くの観光客が見物に来ていた。
            
 城峰公園までの道のりはかなりの山道であるが、日当たりのよい場所にはこのような冬桜ががまわりの木々の紅葉とマッチして運転中にも関わらず、急停車して思わずその風景に見入ってしまった。今回は矢納城峰神社の参拝を優先していたため、また次の参拝先も決まっていたため、城峰公園の散策はできなかったが、次回の楽しみに残しておこう。
 この冬桜は、薄紅色の小さな八重の花をつける「十月桜」で、その特徴は、花が4月上旬頃と10月頃の年2回開花することだ。花は十数枚で、花弁の縁が薄く紅色になる。また萼筒が紅色でつぼ型である。春は開花期に新芽も見られる。また、秋より春のほうが花は大きいという。
            
                            山道沿いの見事な紅葉
 日本には四季折々の美しい風景がまだ残っている。また失われつつあるとはいえ、日本人にはその美しい風景を体で感じる感性も持ち合わせている。どんなに機械化、IT化が発達しても、日本人のDNAには縄文時代から受け継いだ遺伝子がまだ体内にあると信じている。

 現代はバブル崩壊後の不況の真っただ中にあり、さらに東日本大震災や御嶽山の噴火等の自然災害や放射能汚染の人為的な災害、さらに世界を見ても、イラク問題やテロの問題いずれを取り上げても、現在人類は大変な危機に直面している。この状況を救い、切り抜けることのできる一つの方法は、多様な文化を包括的に包み込むことができ、自然と共生できる日本の文化ではないかと考えている。

 日本人は謙虚な人種と言われている。それはそれで決して悪いことではない。ただ我々日本人もこのような自分の文化にもっと誇りと自信を持つべきではないだろうか、と今回矢納城峰神社の参拝中の折に感じたことを何となく感じた次第だ。
 

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八日市熊野神社

 熊野神社が鎮座する神川町八日市地区は室町時代末期に、八日毎に交換市が開かれた事が地名の由来だそうだ。熊野神社はこの地区の総鎮守で、町指定文化財の獅子舞が奉納されている。延宝2年(1674)にここの交換市で争いがあり大火となった時に獅子舞が奉納され以後厄払いとして伝えられている。ここの神社の本殿は珍しく色彩も豪華でガラスの覆堂によって保護されている。
所在地   埼玉県児玉郡神川町八日市527
御祭神   家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神 俗にいう熊野三神
社  挌   式内社論社 旧指定村社
例  祭   10月19日 秋季例大祭

       
 熊野神社は国道354号線を本庄市児玉地区、旧児玉町から藤岡市方向に進み、八日市(東)交差点を越えると左側に熊野神社のこんもりとした社叢が見えてくる。駐車場が本殿の近くにあり、そこに停めて参拝を行った。当社は村内字今城から今の鎮座地である森下の地に遷座されたと伝えられており、かつては今城青八坂稲実神社を称していたという。
                
                一の鳥居の右側にある社号標石
熊野神社
 本社は往古より村中の氏神と称し、延喜式當國四十四座の一にして今城青八坂稲實神社なりと云ひ傳ふ。神階は往古は知れざるも、正徳3年(1713)7月正一位の神階を授けられ今其の宣旨現存す。神領は上古は明らかならざるも、徳川幕府の時代に地頭より除地四反五畝歩を寄附せらる。
 現在建物の本社は享保14年(1729)9月の再建にして、棟札を現存せり。又旧社地の村内字今城に鎭座ありしを、後に今の森下の地に奉遷したりと口碑に在り。
                                                     神社明細帳より引用
            
                          正面参道一の鳥居
              
                             熊野神社 拝殿
 
境内社として八坂神社・山神社・諏訪神社・金鑚神社       社殿の右側には社務所あり。
    社宮司社・天神社・稲荷神社がある。
           
                         拝殿内部から本殿を撮影
               
                  ガラス越しから見ることができる熊野神社本殿
 鎮座地は鎌倉街道上道付近であり、古来から市(八日市)の開かれる土地だ。八日市という地名は、室町時代末期に、八日毎に交換市が開かれた事が地名の由来だそうだ。また八日市の熊野神社前を交差する道があり、そこの東西を結ぶ道は江戸時代の本庄・鬼石往還だという。
          
八日市の獅子舞

昭和62年3月10日 町指定民俗資料

八日市ては、古くから「八の日」に物資の交換市が開かれていた。
延宝2年(1674)四代将軍家綱の時代に、この交換市で争いがあって大火となった。八日市の獅子舞は、この後で厄払いとして奉納したのか始まりと伝えられでいる。
獅子舞は、4月15日と10月19日に神主宅や白山神社で舞い、その後熊野神社に奉納されるが、古くは雨乞いの為に奉納されたこともある。
獅子は、法眼・女獅子・男獅子の三頭で、その外にカンカチ・笛方・歌方・万灯持ちの役割がある。
また、曲目にはぼんでん掛かり・笹掛かり・橋掛かりその外がある。
神川町教育委員会
                                                      社頭案内板より引用
               
                 八日市の獅子舞の案内板に隣接してある御神木

 

 

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関口今城青坂稲実池上神社

  神川町関口地区に鎮座する今城青坂稲実池上神社は江戸時代には丹生明神社と呼称し、阿保神社の裏に鎮座していたが天正5年(1577)に元阿保村と関口村とに分立した際に、関口村の鎮守として現在の地に移されたという。
  創立は不明(一説に神亀元年・724)、延喜式内社と伝えられている。当社の社号は元の領主であった安保氏の祖先が大和国丹生川神社を勧進したことに由来するという。

所在地  埼玉県児玉町神川町関口38
御祭神  淤迦美神 、豊受毘売命 、罔象女神 、埴安姫命
社  挌  式内社論社、旧村社
由  緒  神亀元年(724)2月創立、天正五年(1577)3月現地に遷つる。
例  祭  10月19日 例大祭

                              

 関口今城青坂稲実池上神社は丹荘駅から北西方向で約500m位の関口地区に鎮座している。正面の鳥居からすすんで右手に直角に折れたところに社殿があり、社全体がコンパクトに収まっているという印象。この今城青坂稲実池上神社は上里郡忍保にも同名の神社(旧県社)があり、共に式内社論社とされている。                                               
                        関口今城青坂稲実池上神社社殿
            
                          社殿の左側にある案内板

この今城青坂稲実池上神社は祭神が4柱で、淤迦美神 、豊受毘売命 、罔象女神 、埴安姫命という。
淤迦美神
 罔象女神(みつはのめのかみ)とともに、日本における代表的な水の神で、 『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記する。 『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている。
 龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されて、 「闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉である。
豊受毘売命
 言わずと知れた伊勢神宮外宮の祭神。『古事記』では豊宇気毘売神と表記されるが、『日本書紀』には何故か登場しない。別称、豊受気媛神、登由宇気神、大物忌神、豊岡姫、等由気太神、止与宇可乃売神、とよひるめ、等々。『古事記』では伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。
 神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。
罔象女神
 『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
 罔象は『准南子』などの中国の文献で、龍や小児などの姿をした水の精であると説明されている。灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる。大滝神社(福井県越前市)摂社・岡田神社では、ミヅハノメが村人に紙漉を教えたという伝説が伝わっている。
埴安姫命
 土の神であり、「ハニ」(埴)とは粘土のことであり、「ハニヤス」は土をねって柔かくすることの意とされ、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に産れた諸神の一柱である。
 『日本書紀』では埴安神と表記される。『古事記』では、火神を産んで死ぬ間際のイザナミの大便から波邇夜須毘古神波邇夜須毘売神の二神が化生したとする。
 
 
            
            
               今城青坂稲実池上神社の社殿の両サイドには境内社がある。
                 菅原神社・八坂神社・稲荷神社・八幡神社・愛宕神社等。

今城青坂稲実池上神社

 當社は延喜式内當國四十四座の一にして今城青坂稲實池上神社なりと云ひ傳ふ。往古元阿保村と一村たりし時、六所社丹生社同村にありしを、天正5年丁丑(1577)3月分村の際、丹生社を本村の鎭守と定め、今の地に遷し祀るといふ。當社の社號は素領主阿保氏の祖先大和國丹生川上神社を此地に遷し祀れるを以て丹生社と称すと云ふ。本社は旧阿保領十三ケ村の関口なるにより、関口村と称す。又當社の古き(年月不詳)額面に今城青坂稲實池上神社横山某書とあり。又古き手洗石に今城神社と彫刻ありて、北武藏名跡誌に當社を延喜式内のよし云傳へたりと記載せり。又社地接続の地に、當社旧別當幸春院に、文亀3年(1503)建之と記載ある石の六地藏あり。是も名跡誌に記載あり。又此の邊の小名を往古より池上と称し來れり。
                                                   昭和27年神社明細帳

            
                          神社の路地に並ぶ石仏等。
              現代では村の鎮守様といった感じで静かに時間が経過している。

 


 


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