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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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下児玉金鑚神社

 金讃神社は、総本社である神川町二ノ宮に鎮座している式内社、旧官幣中社という格式の高い同名社が有名であるが、本庄市、美里町にもその関連する社が非常に多く分布している。元々この地域は武蔵七党の一つ、「児玉党」の本家筋にあたる児玉氏の本拠地とも言われ、氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国、武蔵介として下向し、その子息の有道惟行が児玉党の祖となったといわれている。
 児玉党の本宗家は、初めは児玉氏(平安時代後期から末期)、次に庄氏(平安時代末期から鎌倉時代初期)、 そのあとを本庄氏(鎌倉時代前期から室町時代)が継いだ。児玉氏の嫡流は多くの氏族(支族)に分かれていった。特に直系の嫡流、児玉氏の本宗家4代目である家弘は、現在の児玉から本庄の地に土着し、庄氏を名乗った。源平合戦時の児玉党の党首も本庄の出(庄氏)である。従って、その後も児玉氏を称している一族は全て分家格に当たり、実質的に庄氏の後を継いで本宗家となった本庄氏が児玉氏にとっての本宗家格に当たる。なお児玉家行(児玉氏の本宗家3代目)の次男は塩谷氏を名乗り、三男は富田氏を名乗った。
 児玉郡に居住した児玉党一族は嫡流の庄氏を含む庶流に至るまで一族の守護神として金鑚神社を崇敬し自らの居住地には当該神社を勧請しており,そのことから金讃神社の分布図は児玉党一族の勢力範囲を示すものとも言える。
所在地   埼玉県児玉郡美里町下児玉322
御祭神   天照皇大神 素戔嗚命 日本武尊
社  挌   旧村社、旧下児玉村鎮守
例  祭   10月19日

       
 下児玉金讃神社は、埼玉県道75号熊谷・児玉線を旧児玉町方面に進み、コンビニエンスが右側にある十条交差点を右折し、道なりに真っ直ぐ進み、小山川を越えた最初のY字路の交差点を左折すると右側に同神社が鎮座する社叢が見えてくる。残念ながら駐車場はなく、社の右側手前に社務所があり、そこに細長い道があり、そこに停め参拝を行った。
        
           入口付近にある社号標石          住吉社、一心霊神、北辰尊星神等
  「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているが、これは北向神社の伝承とほとんど一緒であろう。
 元禄2年(1689)9月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることを記しており、創建年代は江戸時代以前に遡ると考えられている。
 
        下児玉金讃神社正面参道                                    社殿手前左側にある神楽殿
           
                             拝    殿
下児玉金讃神社
 児玉は、身馴川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村である。明徳元年(1390)の藤原春治寄進状に「児玉郡下児玉郷内浅羽方田壱町七段」が徳蔵寺の長老太勲に寄進された旨が載ることから、室町時代の初期には既に開発がなされていたことが推測され、また栃木県足利市の鍵阿寺が所蔵する永正10年(1513)銘の法華経第一巻の奥書に「下児玉勝輪寺当住持法印祐重」とあることから、かっては隣接する小茂田も下児玉の村域内であったことがわかる。
 このように、下児玉は古い歴史を持つ村であるため、当社の創建も室町時代以前のことと思われる。「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているほか、元禄2年(1689)9月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることなどを記している。
 一方、「風土記稿」下児玉村の項に 「金銭神社 村の鎮守なり、楊林寺持、下三社同じ、雷電社・稲荷社・諏訪社」と載るように、神仏分離までは地内の楊林寺という曹洞宗の寺院が、当社の別当であった。当社は明治5年に村社となり、同13年には社殿を改築し、更に昭和3年には昭和天皇の御大典を記念して神楽殿を新設した。
                                             埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用
           
                   境内社 蚕影社、稲荷社、諏訪社、雷電社
                  
                 境内にあった「享保10年(乙巳=1725年)」の石碑
 この石碑は「二月吉日」より下がやや読み取りづらい。1725年でこの地域に関係している事項としては明和元(1764)年に発生した「伝馬騒動」の首謀者である義民遠藤兵内の生年であるが、それに関連した石碑だろうか。
             
                      すぐ北側に流れる小山川の流れ

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関兒玉神社

 関の兒玉神社の秋季大祭に、社前に奉納される獅子舞(ささら)は、江戸時代中期の享保年間、今からおよそ270年前に相模の国の人がこの地へきて、獅子舞の舞い方、笛、太鼓、謡曲の一切を教えたのが始まりと伝えられています。
 
現在は、地元・関の中学生が伝統を継承し、毎夜練習に励んだ成果を10月の大祭本番に披露しています。
                                                    美里町の文化財から引用
所在地   埼玉県児玉郡見美里町関374
御祭神   仁徳天皇ほか13柱の神
社  挌   旧指定村社  関村鎮守社
例  祭   関兵霊神社祭2月13日、八坂神社祭7月25日、例祭10月15日

       
地図リンク
 関兒玉神社は埼玉県道75号熊谷児玉線で児玉方向に進み、関交差点の約1㎞手前右側に静かに鎮座してる。村の鎮守様という言葉がピッタリくるような地元の人たちに親しまれている社という第一印象だった。ちなみに神社の鳥居の前には車を止める駐車スペースが広く確保されており、そこに停めて参拝を行った。
       
       
                    神社遠景 小ざっぱりした開放的な空間

 一の鳥居に掲げてある額には「児玉」ではなく「兒玉」と書かれている。旧漢字か(写真左)。また参道を進みすぐ右側に神楽殿がある。柱の間に斜めに伸びている筋交(建築物や足場の構造を補強する部材 )が正面、両脇に見える。構造上下部が安易な構造で上部の瓦の重みを支えきれないためだろう。
 
           
                              拝    殿
 兒玉神社の創建年代は不詳だが、言い伝えによると鎌倉時代に当所の修験者である関城院という人が修業のために大和国大峯山に籠り、満願しての帰途、鎌倉鶴岡八幡宮に通夜した時霊夢を感じて当所に帰村の後一社を創立して若宮八幡宮と称したという。明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀し、児玉神社と改称したという。

兒玉神社
 
大字関にあり、仁徳天皇ほか13柱の神を祭る。鎌倉時代に当所の修験者である関城院という人が修業のために大和国の大峯山に籠り、満願しての帰途、鎌倉鶴岡八幡宮に通夜した時霊夢を感じて当所に帰村の後一社を創立して若宮八幡宮と称したといわれる。後世になって寛文年間(1661-1673)および明治元年(1868)の二度にわたって火災にあい、宝物・古文書等すべて失い由来を明らかにすることはできない。明治40年(1907)に合社により児玉神社と改称された。
                                                         美里町史より引用                                                    
            
                          社殿の奥にある合祀社
 明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀したという。
           
 合祀社の並び、本殿の後ろ側には、義民遠藤兵内お宮(関兵霊神社)があり、祠の隣には説明板の碑もある。
義民遠藤兵内お宮改築記念碑
 義民遠藤兵内は、今からおよそ二百二十有余年前の明和元年に起きた明和の大一揆の首謀者として、明和3年45才の若さで獄門の刑に処せられ、刑場の露と消えました。文久3年、この地に神として祀られ、以来命日の2月13日には神霊祭が盛大に行われます。平成2年、兵内くどき保存会が県の文化ともしび賞を受け、ここに受賞記念事業としてお宮の改築をし、義民兵内の功績を長く後世に伝えるものです。 
                                                         美里町史より引用
                 
                         鳥居の左側にある御神木

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二柱神社及び猪俣の108燈

 猪俣党(いのまたとう)とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町 の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団である。武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す 横山党の一族である。小野孝泰(小野篁の7代後の子孫)という人物が朝廷の牧場「小野牧」の別当兼武蔵守として、武蔵国へ下向・赴任してきた。小野孝泰の子の一人、武蔵権守「義孝」が「横山」(東京都八王子市)に館を構え「横山」と称した。そして「横山党」を創設した。
 小野孝泰の子の一人、武蔵介「時資」が「猪俣」(埼玉県児玉郡美里町)に館を構え「猪俣」と称した。その子「時範」は「猪俣党」を創設した。武蔵七党の2つ「横山党」と「猪俣党」は同じ時期に誕生した。同族で、「小野妹子」、「小野篁(たかむら)」の子孫である。猪俣氏の他にも人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏などの一族が存在し、近隣に勢力を広げた。
 美里町猪俣地区に鎮座する二柱神社は伊邪那岐命・伊邪那美命を主祭神とする社で、正円寺の西側、山腹寄りに所在し、猪俣氏代々が尊崇したと伝わっている。
所在地    埼玉県児玉郡美里町猪俣2144
御祭神    伊邪那岐命・伊邪那美命
社  挌    旧村社 旧猪俣村の鎮守
例  祭    例祭日4月15日、10月15日

       
 二柱神社は国道254号線を寄居方面に北上すると「猪俣の百八燈」の案内標識が右側にあり、その手前の細い道を右折すると猪俣氏墓所が所在する真言宗高台院が見え、そのまま道なりに進むと、左側に真言宗猪俣山正円寺があり、またその入り口には二柱神社の鳥居もある。
 二柱神社が鎮座する場所は地形上鐘撞堂山(標高305m)から北に派生する尾根の麓上にあり、社とはいえ北から南東の広角度を関東平野が広がっていて遮る物も無く、物見の砦としては絶好の立地条件ともいえる。
          
   高台院からの道を道なりに進むと二柱神社の一の鳥居があり、その正面には正円寺が見える。
          
                          二柱神社 二の鳥居
 
         
                             拝    殿
 二柱神社が鎮座する箕郷町猪俣地区は、『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸時代「猪俣村」と呼ばれ、「大沢郷松久庄鉢形領に属す。江戸よりの行程22里、民戸250、南は円良田村、北は中里・甘糟の2村、西は大仏・湯本の2村にて、東は榛沢郡用土村なり。東西14町、南北20町、村内に江戸より信濃国への脇往還かかれり。当村は当国七党の内、猪俣党の住せし地にして、天正年中まで子孫猪俣能登守所領せし事、其家の譜及(「秩父通志」)等に見えたり。小名、小栗、宿、宮前、栃木保、湯脇、野中、東川原」とある。現在、猪俣の地には猪俣姓はないというが、猪俣五衆と呼ばれる岡本、占部、小沢、立川、根岸の姓は残っているという。

    拝殿に「二柱神社」と書かれている扁額             社殿の左側に並ぶ境内社

    社殿の右奥、山の斜面上にある境内社
 境内社は伊勢大神社、豊受大神社、愛宕神社、八幡神社、稲荷神社、八坂神社、山神社、諏訪神社、雷電神社、琴平神社、天神社等。
            
                             本    殿
           
                      拝殿前から二の鳥居方向を撮影
二柱神社
大字猪俣にあり、伊邪那岐命・伊邪那美命を祭神とする。創建の年代は明らかではないが、猪俣氏代々の崇敬した社と伝えられ古くは聖天宮と称した。当社に伝えられている二つの鰐口は、町の指定文化財であってその一つ「永禄の鰐口」と呼ばれるものは、永禄6年(1563)10月に信州佐久郡野沢郷薬師寺に寄進され、さらに永禄12年(1569)7月に同郷八幡宮に再寄進されたものを、天正10年(1582)小田原城主北条氏直から信州内山城の防備を命じられた猪俣邦憲が持ち帰ったものといわれている。もう一つ「天正の鰐口」と呼ばれるものは、天正16年(1588)に鋳造されたもので、同年4月猪俣邦憲が戦勝祈願のため奉納したものである。当社の社務は、江戸時代以降正円寺が兼帯したということからこの鰐口を「正円寺の鰐口」ともいう。
                                                      美里町史より引用



猪俣の108燈
 二柱神社の北側にこんもりとある小高い山、堂前山というらしいが、8月15日に「猪俣の108燈」と呼ばれる伝統行事が行われる。「猪俣の百八燈」は400年以上続く盆祭りの行事で、堂前山の尾根に築かれた百八基の塚に火をともす幻想的な行事だ。地元:猪俣地区では、平安から鎌倉時代にかけて武蔵国で勢力をはせた武蔵七党のひとつ猪俣党の頭領:猪俣小平六範綱及びその一族の霊を慰めるためと伝えられている。範綱は猪俣党の宗家で、始祖である時範から数えて5代目の子孫にあたり、小平六と称して剛勇無双とうたわれ、早くから源氏に仕え、保元の乱、平治の乱で勇壮華麗な戦いで活躍し、一ノ谷では源義経のもとで激闘の末、平家の猛将:越中前司盛俊を討ち取り勇名をはせ、更に壇ノ浦に転戦して手柄を立てた人物だ。
 この猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示している。
           
猪俣の百八燈
 この行事は、8月15日に村はずれの丘の上に築かれた108基の塚に百八の灯をともす盛大な行事である。地元では武蔵七党のひとつ、猪俣党の棟梁・猪俣小平六範綱とその一族の霊を慰めるための行事と伝えられている。
 この行事は、猪俣地区内の満6歳から満18歳までの青少年が、親方・次親方・後見・若衆組・子供組に分かれて行事の一切を取りしきり、大人の介入がないのが特色である。この行事の準備は、道こさえ・草刈り・塚築き・人別集めなどがあるが、いずれも親方の指示に従って子供たちが行う。
 15日の夕刻、寄せ太鼓の音が鳴るとともに一同が高台院へ集合し、猪俣氏の霊に拝礼後、笛・太鼓の拍子に合わせた提灯行列が塚のある堂前山へと向かい、百八の塚に火を点火する。
 猪俣の百八燈は、各地で行われる盆の百八燈行事の中でも百八の塚を築いたその上で火を焚く点が異色であり、亡魂を慰めるという趣意と相まって塚信仰の様相をよく示しているといえる。
昭和62年1月8日指定 
重要無形民俗文化財
                                                           案内板より引用
             
                        
  
                     猪俣の百八燈が行われる麓から見た堂前山

 この「猪俣党」は当初から源氏と協力関係にあり、「前九年の役」、「後三年の役」や「源平合戦」に従軍している。「保元物語」には猪俣党の岡部六弥太忠隆、酒匂三郎らとともに源義朝に従ったという記述があり、これが義朝の十六騎の記述となり、さらに平治の乱でも源義平の十七騎のなかに「猪俣小平六範綱」の名前が見受けられる。その後源頼朝の挙兵にも従い、「一ノ谷の合戦」で源義経配下で平盛俊を討ち取り武勲を挙げ、鎌倉幕府では御家人となった。
 時代は下って戦国時代、「猪俣党」は小田原の北条勢力下に組み入れられ、北条の家臣として「猪俣党」の末裔「猪俣邦憲」が登場する。「猪俣邦憲」は上州「沼田城代」として、近くに位置する真田側の「名胡桃城」を奪取して、豊臣秀吉の小田原征伐の口実を作った人物だ。(*名胡桃城の奪取が結果的に小田原征伐の口実を与えたことについて、多くの史書で邦憲を「手柄だけを目的とする傲慢で思慮が足りない田舎武士」と虚仮下ろされている。それに対して近年では同時期に氏邦が秀吉に誼を通じていた宇都宮に侵攻していることなどから、邦憲の単独行動ではなく「反秀吉派」の氏政か氏邦の指令があったともいわれている。)

 「猪俣党」はまさにこの猪俣の地で生まれ、育って名を馳せたということだ。そしてこれら猪俣一族の霊を慰める為に行なわれたのが「猪俣の百八燈」ということで、この地域に根付いた由緒ある伝統行事であり、大切な文化遺産である。後世に残してもらいたいものだ。

 

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関浅間神社

 関浅間神社の西側に流れる志戸川は、埼玉県北西部の児玉地方を流れる利根川水系小山川支流の一級河川である。全長9.3kmあまり。埼玉県児玉郡美里町広木の山中より那珂川、鳶ノ巣川、枌木川が源を発し合流して志戸川となる。美里町、深谷市の田園地帯を流れ、深谷市西田付近で小山川に合流する。現在は志戸川という表記が固定しているが、昭和初期までは志渡川、志度川と表すこともあった。例えばJR高崎線と八高線が志戸川を跨ぐ地点に架かる橋梁の名前は、共に支度川橋梁である。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)によれば、那珂郡広木村で志度川と表記されているが、下流の那珂郡駒衣村、児玉郡阿那志村、関村および榛沢郡の村々では志戸川であり、志渡川の表記は見られない。 
 
この河川は一級河川ではあるものの、雨を集める流域面積が少ないという特徴を持っていた。どの村でも一様に”堤防なし”と記されているところから洪水等の水害の被害が少なかった地域だったと思われる。逆に解釈すると集まる水の量が少ないということは、使える水の量もおのずから限られたものになることを意味する。流域の人口が増えていくにつれ、農家は、慢性的な水不足に悩まされた。関浅間神社の由緒に書かれている「当社は江戸時代から富士浅間信仰に基づき、地元川輪だけでなく近在近郷の人々から広く崇敬されていました。特に雨乞いに霊験あらたかといわれています。」という一文にもその当時の水不足の状況が垣間見られる。
所在地   埼玉県児玉郡美里町関1947
御祭神   木花咲邪比売命
社  挌   旧指定村社 阿那志村鎮守
例  祭   例祭4月13日

         
 関浅間神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、山崎山、諏訪山の丘陵地の間を越えた関集会所のすぐ先の交差点を左折すると左側にこの社の鳥居が見えてくる。もっともその交差点には「指定村社 浅間神社」と表記された社号標石があり、見た目だけは分かりやすい社である。駐車場は残念ながら無く、鳥居の前の参道が丁度車一台分くらい置くことができるスペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
 が意外だったことは、鳥居からスタートした拝殿までのルートが思った以上に長く、ほの暗い参道を延々と進むその時間は心寂しく、ハイキング気分とは到底いかないものだった。
           
            交差点を左折するとすぐ左側にある鳥居。ここから徒歩にて拝殿に向かう。
  
    諏訪山丘陵地の一隅に位置する鳥居             約200m位延々と続く参道     
            
            ほの暗い参道をしばらく進むと浅間神社の明るく開けた空間が広がる。
           
                              拝    殿
             
浅間神社社殿改修記念碑
 浅間神社は字川輪の鎮守であり。御祭神に木花咲邪比売命をお祀りしています。社伝によりますと創建年代は不詳ですが、永正年間(1504-21)に鉢形城主北条氏邦が深く信仰し、社殿を再興したといわれています。
 当社は江戸時代から富士浅間信仰に基づき、地元川輪だけでなく近在近郷の人々から広く崇敬されていました。特に雨乞いに霊験あらたかといわれています。
 当社の社殿は、今から106年前の明治33年に建設された後、昭和から平成の時代と、幾度かの営繕工事を重ねてまいりました。しかし、老朽化が急速に進み、改修工事を実施せざるを得ない状況となりました。
そこで、平成18年5月6日に氏子総会を開催して協議したところ、出席者各位の賛同を得て、社殿改修の浄財を募り、改修工事の運びとなった次第です。
 改修総工事費は、553万5千円であり、平成18年10月9日に着工し、平成18年12月10日に完成しました。
此処に改修工事の旨を石碑に刻み、後世に伝えるものであります。
                                                     境内石碑から引用

      社殿の左側の奥にある境内社                       神楽殿
浅間神社
大字関にあり、木花咲邪比売命を祀る。創建の年代等不明であるが、伝えによれば永正年中(1504-1521)北条氏邦が深く当社を信仰し、社殿を再興し広大な社地を寄進したといわれるが、慶長18年(1613)火災にあい文書等すべて烏有に帰したという。
                                                      美里町史より引用

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阿那志河輪神社

 河輪神社は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山に鎮座している。河輪という一風変わった地名の語源は曲流を意味し、志戸川の曲がりくねっている内側にある低地を意味しているという。
 嘗てこの河輪地区には河匂(かわわ)氏という豪族がこの一帯を領有していたという。河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、小野篁の末裔を称す横山党の一族である。この河匂氏は児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったと云われている。
 美里町にある諏訪山の河輪神社の社伝によると武蔵七党の一つ猪俣党河匂氏の本貫地として、河匂七郎、河匂左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行ったという。
所在地    埼玉県児玉郡美里町阿那志1663
御祭神    淤迦美神 (相殿)健御名方命、八坂刀売命
社  挌        武蔵国式外社  阿那志村鎮守
例  祭    不明

       
 河輪神社は一説によると『日本三代実録』に「清和天皇の貞観17年(875)12月5日、武蔵国正六位上河輪神に従五位下を授く」と記されているが、この河輪神が阿那志河輪神社という説もある。ただ横浜市都筑区川和町に鎮座する川和八幡神社も同じ武蔵国にあり、神社を祀る場所の字名を河輪森といい、ここも古くから河輪神社と主張していて現在どちらが真の河輪神社であるか不明だ。
 
 河輪神社は武蔵国の多くの神社の中にあって、俗にいう式外社(しきげしゃ)と言われている。この式外社というのは、平安時代編集された延喜式神名帳に記された全国の神社の意味を持つ「延喜式内社」または単に「内社」と言われる社に洩れた神社で、当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社といい、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社等が含まれるという。
            
           正面 諏訪山の麓から平野部にかけて河輪神社の参道は伸びている。

 河輪神社一の鳥居(写真左)と奥に伸びる参道(同右)。標高113mの頂上まで石段を登ることになる。登り詰めると鮮やかな赤い社殿の河輪神社に着く。この参道は昼間でもほの暗く、第一印象とても武蔵国の由緒ある式外社とは思えない。
           
              やっと社殿が見えてくる。社殿は諏訪山の山頂部にあたる。
 河輪神社が鎮座する諏訪山は美里町と寄居町の境界にあるが、独立した山ではなく、埼玉県道75号線を境にして北は山崎山丘陵、そして南側に諏訪山丘陵が広がり、その標高の一番高い場所が諏訪山と呼ばれている。
           
                       赤が基調の河輪神社拝殿正面
 境内は意外と広く、社務所や神楽殿などもあり、参道の寂しい印象とは対照的な趣のある北向きの社。だがその神聖な静寂とは別に、南側にはゴルフ場が広がる。同じ面でもこの人工的な緑はなにか異質でもあるが、逆に考えると古(いにしえ)の文化遺産と現代社会の風景の微妙なコントラストを直接的に感じることができる貴重な体験も同時に味わうことができた。

河輪神社
  阿那志の鎮守河輪神社には淤迦美神外15柱の神々が祀られている。当社は三代実録に載っている河曲神社であると、伝えられる古いお社である。桓武天皇の御宇、延暦20年(801)、坂上田村麻呂が東北地方の反乱を鎮定する際に、当社に祈願して功を奏したという。清和天皇の貞観17年(875)12月5日に正六位の位階を授けられた。降って鎌倉時代には河匂左京進、畠山重忠、那須宗高等の武将が崇敬したことが口碑に残っている。徳川時代になって、慶長年中地頭安藤彦四郎が諏訪神を尊信して当社に合祀して、社号を諏訪神社と改称した。
  当社は盛夏旱魃になると、代官が近村の村吏を従えて祈雨祭を修行するのを例としたが、霊験最も顕著であったという。古文書類は元和年間の火災で全部焼失し、今は元禄16年(1703)の棟札が残っているだけだという。明治28年(1895)に再び河輪神社に改称して今日に至っている。

                                                      美里町史より引用
河輪神社の由緒
 

 当社は「三代実録」に記載されている「河曲神社」と想定され、いわゆる国史現在社と考えられる。鎮座地は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山である。
  社伝によると、延暦20年(801)坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当社に祈願したという。その後、武蔵七党の猪俣党河勾氏の本貫地として、河勾七郎・河勾左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行った。次いで、慶長年間(1596-1614)には地頭安藤彦四郎が信州の諏訪神を合祀し、別当光勝寺を祈願所としてより諏訪神社と改称したという。以後、江戸時代は諏訪神社と称した。
  当社は雨乞いに霊験あらたかといい、干ばつ時には代官が近在近郷の官吏を従えて祈雨祭を実施し、旗本安藤氏より褒賞されている。
  明治19年には、社号を旧名に擬すとして社号改称願が県令に提出され、同28年に河輪神社に改称した。また、同33年と35年には郷社昇格願も提出されている。
  主祭神は淤迦美神で、合殿の神に健御名方命と八坂刀売命が祀られている。境内社は、三和神社・二柱神社・若宮八幡神社をはじめ、明治40年に字新井より移転した北向五社の一つである北向神社、字天神に祀られていた赤城神社・妙義神社・榛名神社・天手長男神社、同41年に字横手の御嶽神社、字塚田の富士仙元社を移転した。
                                          埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

 拝殿正面上部に飾られていた神社名を記した額             境内にある神楽殿
  拝殿上部に飾られている額には神社の正式名
   「国史現在社河輪神社」と書かれている。

 ここに記されている「国史現在社」とは、10世紀の初頭にまとめられた《延喜式》には,全国で2861の神社,3132座の神名が記載されているが,そこに見える神社を後世式内社、また単に内社といい、式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり,式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特にそれらを国史現在社といい、式内社に次ぐとされた。
 (但し式内社以外に六国史に名が記されている神社のほとんどが式内社であるため、通常は式外社として言われているようだ。)

                    社殿の奥にある境内社(写真左、右)

 
 ところで河輪神社周辺には河輪神社古墳群が存在している。埼玉県の遺跡マップによると、諏訪山古墳群は帆立貝型古墳1基と12基の円墳で構成される。箱式石棺を主体とする古いもの間あるが大半は横穴式石室を主体としない古墳群。諏訪山は住人達の墓域であったのであり、古くから継続的に営まれた神聖な場所であったのだろう。
        
              河輪神社社殿の左側にある径30mの円墳である河輪神社古墳
 諏訪山古墳群は諏訪山の稜線に沿って南西-北東に細長く広がっている。河輪神社古墳は諏訪山古墳群の中では、諏訪山古墳、諏訪山古墳2号墳に次ぐ規模の古墳。墳頂には「八海神社 御嶽神社 三笠神社」と刻まれた石碑が建てられている。この古墳は手入れがされていて、山中の古墳としては抜群に管理が行き届いていて、周囲を散策することができる。
 ちなみに諏訪山古墳は河輪神社から南西方向の諏訪山の屋根をたどるとある。径39m、後円部径30m、同高4m、前方部幅18m、同高1mの帆立型前方後円墳。旧岡部町と美里町の境界に位置し、舗装されていない道路によって後円部が分断され半壊状態となっている。年代的には埴輪の特徴などから5世紀終末期と推定される。近隣には長坂・河輪の両聖天塚があり、その有力首長の流れを受け継ぐ古墳であるかどうかは現在はっきりわかっていないという。 
     
             境内にある御神木               参道の途中にあった立派な杉
                                    境内にある御神木より立派なため撮影。

 河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったといわれている。この河匂氏の始祖は小野篁であるが、何故武蔵国北部に土着した横山党の一派でしかない河匂氏の信奉した河輪神社が武蔵国の式外社、または国史現在社として中央の正史に名を連ねているのだろうか。真にもって不思議な社だ。
 


 

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