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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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中山加治神社

  飯能市は埼玉県の南西部に位置する人口8.2万人の市である。地形は山地、丘陵地、台地に分けられ、北西部は山地で、市域の約76 %を森林が占めていて、都心から50km圏内と近くにありながら自然豊かな地域といえる。南東部は丘陵地および台地で、北の高麗丘陵(飯能丘陵)と南の加治丘陵(阿須山丘陵)との間に発達した市街地は、入間台地と呼ばれる洪積台地上にあり、面積は約15㎢という。
 この加治丘陵と入間台地の境に位置する中山地区の緩やかな斜面上に中山加治神社は鎮座している。
所在地   埼玉県飯能市中山字吾妻台716
御祭神   高御産巣日命・神御産巣日命・菅原道真
社  挌   旧村社
例  祭   3月25日・春祭 9月29日・例祭 11月23日・秋祭

         
 中山加治神社は埼玉県道30号を小川町方面から南下し、埼玉西部消防署交差点のY字路を右折し、そのまま真っ直ぐ進むと道路沿い右側に一の鳥居が見えてくる。南北に入間台地から丘陵地に進む緩やかな勾配のある上り坂を進むと正面に二の鳥居、そして左側に広い公園があり、そこに梅の花がほのかに咲き始め、2月後半の参拝とはいえ、早春の気分を感じさせてくれる参拝となった。
           
                 道路沿いで北側にある中山加治神社一の鳥居
           
                   一の鳥居から真っ直ぐ進むと二の鳥居がある。

         二の鳥居の手前右側にある御神徳記(写真左)と加治神社の案内板(同右)

中山氏と加治神社
 伝承によると中山信吉の祖父にあたる中山家勝は上杉氏の家来として、北条氏との河越夜戦に敗れ中山に戻るとき、入間川の洪水に阻まれる。その時葦毛の馬を連れた老人に救われ、中山にたどり着く。老人は「吾は吾妻天神なり」と言い残し馬とともに、天神様の前で姿を消したという。
加治神社は、明治の初め、聖天社が改称された名称だと考えられる。その後、この伝承の残る天神様(天満宮)は、加治神社と合祀される。
 加治神社の現在の本殿は、明治40年頃智観寺の北にあった丹生神社が合祀されたときに移築されたものである。参道には寛永19年の石燈籠が六基並んでいる。中山信吉の嗣子中山信正が丹生神社中興にあたり寄進したもので、本殿とともに移転された。信正は丹生神社の祭礼にも力を注ぎ、中山村の隆盛に力を注いだ。
 加治神社は、中山氏の足跡を残していると同時に一時は中山町と称されていた中山村繁栄の一端を示している。    平成15年3月
                                                           案内板より引用

 案内板では、加治神社は慶長元年(1596年)、武蔵七党の丹党中山家範の家臣本橋貞潔が主君の遺命に奉じて天神社として勧請したという。武蔵七党とは平安時代末期から鎌倉・南北朝時代にかけて、武蔵国を中心に下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士集団の総称であり、必ずしも七党に限られたものではなく、横山・猪俣・西(西野)・野與・村山・児玉・丹(丹治)・綴・私市の九党が武蔵七党に該当する武士団として挙げられる。
 この武蔵七党の一派である丹党は宣化天皇の曾孫多治比古王の後裔と伝えられる。多治比古王が生まれたとき、産湯の釜に多治比 (虎杖=いたどり)の花が浮かんだことから姓を多治比と賜ったという。子の左大臣島(志摩)は丹治と改め、その子県守、 広足らは武蔵守に任じられ、やがて武蔵に土着するようになったという。俗にいう「丹党秩父氏」の起源譚だ。
 その後、時代が下り、秩父郡領となった武経や、その子武時は石田(岩田)牧の別当となり丹貫主を号し、その子孫は本家である大宮郷(現秩父氏大宮)を領有した中村氏を始め、古郡・大河原・塩屋・横瀬・秩父・勅使河原・新里・安保・青木・高麗・加治・肥塚・白鳥・岩田の諸氏が分家として発展し、武蔵国の主に秩父郡周辺と飯能市周辺に勢力を伸ばした一族だ。飯能という地名も丹党の一族である判乃氏が居住したとも言われる。またこの丹党が居住していた地域には丹生社が多く、丹一族の鎮守社との意味合いも深い。

             
           二の鳥居から緩やかな上り坂の参道を進むと正面に社殿が見えてくる。

 参道を進むと右側に社務所があり、社務所入り口付近の上部には「吾妻天神・加治神社」と書かれた木製の社号額が掲げられていた。

 加治氏は、秩父から飯能にかけて活動した武蔵七党の丹党の一派で、平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称している。丹党の秩父五郎基房(丹基房)の嫡子直時が勅使河原氏、次男綱房は新里氏、三男成房は榛原氏、四男重光は小島氏、そして五男高麗経家の次男である家季が加治氏を称したとされる。この家季は元久二年(1205)六月、武蔵国二俣川において畠山重忠と戦って討死し、その後その子の加治豊後守家茂は亡父の菩提を弔うため飯能市元加治にある円照寺を建立したという。
 つまり加治氏が飯能市元加治を本拠地とした時期は、家季が加治氏を称した時からその子家茂が円照寺を建立した間となろう。
             
     参道の先にある社殿。また参道には寛永19年丹党中山信正が寄進した6基の石燈篭がある。
           
                              拝     殿

 縁起に云、天文20年川越夜軍の時、中山勘解由家勝当所より出陣せしに、敗軍して其夜中山へ帰らんとせし時、入間川満水にて渉りかね、殊に艱難の折からいづくとも知らず独の老人、葦毛の馬を牽来て家勝を扶け乗せ中山に帰る。家勝その姓名を問ふに、我は吾妻天神なりと云て、人馬ともに社のほとりに所在を失ふ。是よりして導の天神とも称すと云、此故を以て今も中山が子孫と、当村の民家にては、葦毛の馬を飼養せずと云。川越夜軍は天文15年なるを20年と云は、縁起の年代をあやまれり。
                                                   新編武蔵風土記稿より引用

         拝殿に掲げている社号額                     本     殿

 現在の社名は加治神社ではあるが、近郊の人々は古くからの名前を尊び、また親しみを込めて「天神様」、そして古くからの呼称を知っている人は「吾妻天神」とも呼ぶ。加治神社が鎮座する地は「吾妻台」と呼ばれているが、この「吾妻」の語源を考えると「稲妻」=「雷神」ではなかったのではないかと考えられる。
 雷神信仰として有名なのは京都の「加茂別雷神社」「加茂御祖神社(下鴨神社)」の2社である。御祭神は加茂別雷大神、玉依姫命(加茂別雷大神の母)と言われているが、関東地方周辺に広がる雷神信仰はそれとは違った形態と思われ、遥か昔からの民間信仰から自然発生的に生まれた信仰であったと思われる。
 群馬県板倉町を総本山とする「雷神神社」は関東を中心に約80の分社があるが、「雷」の付く神社の鎮座地は、いずれも落雷多発地域であり、社地が自然堤防上の微高地や氾濫原など河川や湖沼沿いにあるという共通点がある。御祭神は火雷・大雷・別雷大神であり、この神々は雷を支配する神であり、荒魂・和魂双方の性格を有する。荒魂としては、雷の威力によって降水をもたらすと同時に病害虫を駆除する農業神として崇められ、また和魂としては恵みの雨をもたらし、万物に生気を与える神である。特に関東では雨乞いの神として崇敬者を集めているという。
 俗にいう天神信仰は、現代では菅原道真と結びついて菅原道真=天神様=火雷天神という形で畏怖・祈願の対象とする神道の一信仰形態となっているが、元々の「天神」とは地主神である「国津神」に対する「天津神」の総称であるという。天神の起源に関しては通説といわれる前出の記述とは違う考察を筆者は考えているが、長くなるのでここでは敢えて省く。とにかくこの天神信仰は江戸時代に菅原道真と結びついた後に神格が変化し、日本全国に波及し、天神=菅原道真=学問の神・雷神という図式となったわけだ。

 天神信仰は、民間伝承による雷神信仰の起源ほど、時代は古いといわれている。加治神社に伝わる話はそのうちどちらであろうか。新撰武蔵風土記稿では天文20年(1546年)の川越夜戦を加治神社の創建時期を明記しているが、筆者の考えは、何となくボンヤリではあるが、この説話は丹党加治氏がこの地を治めた時期よりも遥かに古い伝説のような気がしてならない。
                
                              本殿内部
 武蔵七党・丹党は秩父地域から名栗川・入間川に沿って進出し、飯能市・入間市方面まで移住先を伸ばした。しかしそもそも丹党加治氏は何故この入間・飯能市方面に移住先を決めたかのか。この加治丘陵の地層にヒントは隠されていた。
 加治丘陵は入間川のつくった台地と多摩川がつくった台地の間に半島状に突き出したもので、その地質は下位よりの更新世の浅海にたまった飯能れき層、仏子粘土層そして河川堆積物の金子礫層とローム層から出来ていて、関東ローム層(火山灰・粘土層)を上部に、第三紀・樹木化石を含む地層があり、第四紀・礫層は砂鉄の含有が多いと言うことが調査の結果判明しているようだ。残念ながら現在においても飯能市市内には製鉄の遺跡等は確認されていないようだが、加治氏(鍛冶氏)が採掘・選鉱・錬金・たたらの方法などを熟知していた一族で、良質な砂鉄が出土するこの地を移住先に選んだのであろう。

            
                           社殿の奥にある境内社
                三十番神社、三峯神社、八坂神社、愛宕神社、琴平神社

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