古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

平沼氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町平沼323
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧平沼村鎮守 旧村社
             
・例祭等
 国道254号線を南下し、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の川島IC付近で交じる「つばさ・みらい通り」を左折し、最初の信号のある交差点を右折する。埼玉県道76号鴻巣川島線合流後、300m程進んだT字路を更に左折すると、平沼氷川神社の境内に通じる場所に到着する。
 社の東側に隣接している「平沼集落センター」の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                  平沼氷川神社正面
 周囲は北側にICの洗練された高架橋が、そして西側には近代的な大型モールが遠くから見える中、対照的に東・南側は川島町特有の沖積低地帯の田畑風景が広がり、集落がその一帯に寄り添いながら点在し、その集落内の真ん中に鎮座する、まさに「鎮守の社」といったような印象。
 
    石製の鳥居(写真左)を過ぎると玉砂利が敷かれた綺麗な境内が広がる(同右)。
    日頃からの手入れも行き届いているようで、気持ちよく参拝を行うことができた。

『日本歴史地名大系 』より「平沼村」の解説
 [現在地名]川島町平沼
 白井沼(しろいぬま)村の西にあり、北は上八ッ林(かみやつばやし)村。小田原衆所領役帳には小机(こづくえ)城(現神奈川県横浜市港北区)城主北条氏秀の所領として、「卅五貫文 比企郡平沼」とあり、弘治元年(一五五五)に検地が行われている。天正一八年(一五九〇)五月日には「伊草 中山 平沼」に前田利家の禁制(写、武州文書)が下されている。
 田園簿では田高五一五石余・畑高五三石余、旗本酒井領。ほかに氷川明神領高一石二斗、大福だいふく寺領高八斗。その後川越藩領となり、秋元家時代郷帳では高五六四石余、ほかに検地出高として高三四七石余がある。
        
                     拝 殿
『比企郡神社誌』において、「大字平沼氷川神社由緒。後鳥羽天皇の頃、足立郡より当地に来住開拓せるもの数家あり、氷川大神を勧請す。永正十二年に至り宮祠の腐朽したるを恐れて矢部伊賀一族主宰となり再興す。慶長三年、名主矢部七郎兵衛・同与七郎、主任となり本社を改築す。寛永十九年、名主矢部七郎右衛門・同三郎右衛門・外氏子一同にて改造す。明治十六年、村長矢部杢太郎主導者となり拝殿及び玉垣を建造す」と記されている。
 平沼氷川神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代後鳥羽天皇の御代(1183-1198)に足立郡から移住して当地を開拓した矢部氏を中心とした集団が大宮氷川神社を勧請したという。
 この矢部氏は、平沼地域及び三保谷郷山ヶ谷戸を開発した時から今に至るまでも多く存在している。
・平沼地域
上記『比企郡神社誌』参照
・三保谷郷山ヶ谷戸地域
『八ツ林村道祖土文書』
「天正六戊寅年卯月七日、三保谷郷検地書出、二十三貫八百三十二文・養竹院分(表村)、十九貫五百六十五文・福島給田、三貫七百七十文・矢部大炊助給田、三保谷代官道祖土土佐守百姓中、江雪奉之(板部岡融成)」
『道祖土系図』
「道祖土図書康満は後福島与右衛門満吉と号す。比企郡老袋村(川越市)にて五十貫の地を給ふ。天正十八年岩付落城に付武州登戸村(鴻巣市)に来り住居す。功臣矢部刑部は兄土佐守康玄に仕ふ」
        
                      境内に設置されている「神社改修記念碑」
 神社改修記念碑
 當平沼氷川神社社殿は明治十六年五月氏子七十五名により総額二百十七圓七十銭の寄附金を得て創建せしものなり
 以来百余年を経過し近年その腐朽甚だしく氏子これを憂慮し協議の結果昭和五十九年二月総意に基づき改築することに決定し直ちに建築委員会を組織し資金の積み立てを開始諸準備に着手する
 改築は位置面積共に旧来通りであり総工事費は八百三十一萬三千圓で氏子百四戸の同額積立寄付金と特別奉納金等により昭和六十一年一月十七日起工、同三月末完工せり
 また社前の石囲石段は明治三十七年氏子の寄進なれど本村町議歴代区長これを新たに奉献す、今ここに荘厳な鎮守の杜に新装の香漂う社殿と周辺を目前に拝し一同の深い敬神の念と相互協力に結ばれ栄えて今事業が達成せられし事は誠に喜びと感激の極みである依ってこれを記念し後世のためにこの碑を建立す
 昭和六十一年十二月吉日 氏子中
 
           拝殿左側には境内社2社が並列して祀られている。
       境内社・津島神社               境内社・天神社
        
     社の東側に隣接している「平沼集落センター」前に聳え立つ立派な松の大木。


参考資料「比企郡神社誌」「八ツ林村道祖土文書」「道祖土系図」「日本歴史地名大系」
    「境内神社改修記念碑」等



 

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出丸中郷白山太神社


        
            
・所在地 埼玉県比企郡川島町出丸中郷331
            
・ご祭神 白山妙理権現 水神 菅原道真 稲荷神
            
・社 格 旧出丸中郷村鎮守
            
・例祭等
 出丸中郷地域は、出丸中郷若一王子社にて以前紹介しているが、他にもう一社紹介したい社があり、それが白山太神社である。出丸中郷若一王子社から一旦北上し、埼玉県道339号平沼中老袋線に合流後右折、その県道を700m程直進し、県道が荒川の土手を離れて屈曲しようとする丁度突き当たりに白山太神社は鎮座する。
        
                        県道沿いに鎮座する出丸中郷白山太神社
 県道は意外と交通量も多く、普通自動車よりもトラック等の大型車両が目を引く。社周辺には横断歩道もないため、道路を渡る際には周辺の道路事情には注意が必要。
 県道に面した入口に社と古墳を共に明記した標柱も立っていて、標柱付近には僅かに駐車スペースもある。
        
                                 出丸中郷白山太神社正面 
『日本歴史地名大系 』には「出丸中郷」の解説がある。
 [現在地名]川島町出丸中郷
 上大屋敷村の東、荒川の右岸に位置し、南辺を同川支流の入間川が東流する。中世には伊豆丸郷のうちで、近世には出丸七ヵ村の一。川越城下と中山道の上尾宿や桶川宿方面とを結ぶ道が通る。この道は当地で入間川・荒川を渡り、入間川対岸南方の上老袋村(現川越市)との間に金兵衛渡、荒川対岸東方の畔吉村(現上尾市)との間に畔吉渡があった。
 田園簿では中ノ郷とみえ、田高一〇八石余・畑高七五石余・野高二三石余、川越藩領、
        
                   出丸中郷若一王子社同様土手に接して立地している社
        
                                      拝 殿
        この拝殿は一段高い所にあり、白山古墳の墳頂部にあたるという。
 この土手上の自転車道を北上すれば東大塚古墳群、荒川対岸の1km余り北東には上尾市の殿山古墳、さらに少し北は桶川市の熊野神社古墳がある。更に入間川を挟んですぐ南の川越市上老袋には50mの前方後円墳の舟塚古墳がある。付近は河川が集まる所であり、古代水上交通の要衝だったのかも知れない。        

 この社には創建に関する資料、案内板等はない。『新編武蔵風土記稿・出丸中郷村』には、以下の説明が載せられている。
白山社 村の鎮守なり、淨光寺持、
御手洗 社の後にあり、長さ三町程、幅二十間餘、五十間に至る、
    両岸草木繁茂し清水冷なり、池中に白蛇すめりとて、鯉魚多くすめども得ることを禁ず、

 白山(はくさん)は、日本の北陸地方、白山国立公園内の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがる標高2,702mの活火山であり、富士山、立山とともに日本三霊山の一つである。
 古くから天下の名山として知られる白山は、御前峰(ごぜんがみね)・大汝峰(おおなんじがみね)・別山(べつさん)の総称である。養老元年(717)に越前の僧・泰澄(たいちょう)が初めて登拝して山頂に祠を祀って以来、日本を代表する神仏習合の『霊山』として崇敬と信仰を集めている。
 ところで、白き神々の峰として崇められた白山は、多くの霊峰と同様、古くは人間が足を踏み入れることを許さない禁足の山であった。そこに分け入ったのが、「越の大徳(だいとく)」と呼ばれた泰澄で、次のような伝承が伝わっている。
 ……越前や加賀の窟(いわや)で修行に明け暮れていた泰澄は、あるとき女神の示現にあい、「私は白山妙理権現である。私の真の姿が見たければ白山山頂に来たれ」と告げられた。女神に導かれ、ついに人跡未踏の山頂に到達した泰澄。山頂近くの「転法輪の岩屋」にて祈りを凝らすと、翠ヶ池から火を吐きながら九頭竜があらわれた。その姿に満足できなかった泰澄がさらに祈ると、龍はその身を変じ、女神の本地仏である十二面観音が神々しい姿てあらわれた……。
 別伝では女神・伊弉冉尊(いざなみのみこと)から十二面観音へと変じたとも伝えられている。
 
    拝殿に掲げてある個性的な扁額             拝殿内部

 上記の伝承では、白山開山の起源は、十一面観音の化身である九頭竜王が泰澄の前に現れたことによる。また、白山権現は、九頭竜出現伝承にも関わっているという。
 福井県に流れる「九頭竜川」流域の伝承では、雄略天皇21年(477年)。継体天皇主導のもと、日野、足羽、黒龍三つ大河を治水する大工事が行なわれ、その後、黒龍大神と白龍大神のうちの前者は、天地の初めから国土を守護してきた四方位を象徴する4柱の神々「四大明神」の一柱を祀るものとされた。東の常陸国には鹿島大明神、南に紀伊国には熊野大権現、西の安芸国には厳島大明神(神宮創建 推古天皇元年{593})、北の越前国の当地には黒龍大明神として、日本の国家鎮護 及び 黒瀬川(後の九頭竜川)流域の守護神として祭祀されてきた。
 その後寛平元年(889年)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に姿を現して、尊像を川に浮かべた。すると九つの頭を持った龍が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒龍大明神の対岸に泳ぎ着いたという。以来、この川を「九頭龍川」と呼ぶようになった。九頭竜川の流域には、九頭龍権現を祀る祠が多く、水源にはやはり修験道と関係が深い白山がある。

 つまり白山は霊山として原始的な山岳信仰の対象として崇敬されていると同時に、古来より里に水をもたらす「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神であり、祖霊が鎮まる場であった。君臨した神は、水の霊力をつかさどる九頭龍神であり、黄泉国の主宰神である女神でもある。

 川島町は埼玉県のほぼ中央に位置し、北は都幾川・市野川を境として東松山市・吉見町に、東は荒川を境として北本市・桶川市・上尾市に、南は入間川を境として川越市に、西は越辺川を境として坂戸市に接していて、まさに“川に囲まれた島”そのものといえる。その河川沿いには多くの「九頭龍神」が祀られている。
『新編武蔵風土記稿』に記されている「御手洗 社の後にあり、長さ三町程、幅二十間余、五十間に至る、両岸草木繁茂し清水冷なり、池中に白蛇すめりとて、鯉魚多くすめども得ることは禁ず」にある「池中の白蛇」は、古来から「蛇」は「龍」の化身とも云われているところから、九頭龍神の類かもしれない。
 
  拝殿左側に祀られている境内社・稲荷神社    同右側に祀られている境内社・天満宮
        
               ご神木の銀杏の根元にある力石
        
                               ご神木のある風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「川島町HP」「Wikipedia」埼玉古墳軍」等

 

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出丸下郷赤城神社

 川島町出丸下郷地域の東側には「旧荒川」と言われる細長い沼地が1kmほど続いている。この沼地は荒川の旧河道であり、昭和初期まで荒川が流れていた跡という。地図等を確認すると分かるが、嘗ての荒川が頻繁に蛇行を繰り返して流れていた頃の痕跡が色濃く残っている。旧河川の跡にしては意外と水量も豊富で、自然が色濃く残り、景観も良好である。この旧荒川が桶川市と川島町との行政界となっている。
 荒川と旧荒川との間にはホンダエアポートが存在する。ホンダエアポートは、軽飛行機専用の非公共用飛行場であり、運営管理は本田航空が行っている。元は熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の飛行訓練に使用された滑走路だったが、戦後は長らく荒れた状態で放置されていた。そこで、1964年(昭和39年)3月にホンダが航空産業への参入を目指し、株式会社ホンダエアポート設立したという。
 この熊谷陸軍飛行学校の本校は埼玉県大里郡三尻村に置かれたが、1945年(昭和20年)終戦前の418日に熊谷陸軍飛行学校令廃止となり、戦後は進駐したアメリカ陸軍第43師団によって接収され、以後約13年間米陸軍キャンプとして利用された。1958年(昭和33年)、同キャンプは日本政府に返還され、同年8月、航空自衛隊熊谷基地(住所:埼玉県熊谷市拾六間892)が発足し現在にいたっている。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡川島町出丸下郷55
            
・ご祭神 大己貴命/大穴牟遅神(推定) 豊城入彦命(推定)
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 
 出丸下郷赤城神社は川島町東南部荒川右岸にあり、出丸本地域に鎮座する若一王子社の北西方向で直線距離にして約1㎞先の場所に位置する。
 社の北には「埼玉防災航空センター」が見えるのみで、北西部にあるホンダエアポートは旧荒川土手に遮られていてため見ることはできない。それ以外は一面田畑が広がる長閑な地域であり、その物静かな風景の中にポツンと社の社叢が見えるという印象である。
        
                 
出丸下郷赤城神社遠景
『日本歴史地名大系』には出丸下郷の解説が載っていて「西谷(にしや)村の北東、荒川の右岸にあり、南は出丸本(いでまるほん)村、東は堤防・荒川を隔てて足立郡の諸村。中世伊豆丸(いずまる)郷の遺称地の一で、近世には出丸七ヵ村のうち。出丸中郷とともに出丸本村から分れたという(風土記稿)。
 田園簿では下郷とみえ、田高一一八石余・畑高一〇六石余・野高一三石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳でも下郷とあり、高三九八石余、反別は田二八町九反余・畑二九町九反余。ほかに開発地高六一石余(田四町四反余・畑四町六反余)があった」とある。

        
                標柱の北に駐車スペースがあり、その先に参道がある。
                               
 参道は当所北方向に伸びているが、鳥居付近で右側に直角に曲がる。社地の敷地の関係でこのような配置となっているのであろうが、他の社にも時折あるケースでもある。
        
        神明鳥居付近で右方向直角に曲がり、その参道を進むと拝殿が見えてくる。
        
                                       拝 殿
        
                拝殿手前には「赤城神社再建委員会」の碑が立っている。
 神域は旧吉野川に面し、河川東へ再度改修、元台地西岸足立台地は縄文弥生の村が栄、古代大和に属す。往昔岩出男姫神を祠、地名赤城方丈橋 (慈覚大師)川田谷勅願院と共に天歷元年(九七四)当社修造由 寿永年間(一一八二~五)兵乱社寺焼失、再建の鎮守十ヶ村、宝永六年(一七〇九)本社再建(棟札)神位宝永元文寬保寬延天明安政、元別当宝勝寺天保年間類焼故創立年月日未詳 明治四年村社、同七年拝殿再建、同丗一年尊像修復、大正元年神明宮合祀、戦後社有地八反余解放、昭和五十一年外宇改修、平成七年十一月廿五日時終戦五十年、不審火に側碑破壊遍く焼失、されど神殿の霊域灰燼の積中、事代主神像出現(大己貴命神子)神慮霊験を感得仮遷座、修、心痛二年氏子崇敬者数多の奉賛を得てご社殿は完成した。

 この碑によれば、嘗てこの地には「岩出男姫神」なる神の祠があり、慈覚大師や川田谷勅願院と共に天歷元年(九七四)当社修造したと記されている。が、慈覚大師が第3代天台座主円仁であるならば、延暦13年(794年)~ 貞観6114日(864224日)の人物であるため年代が合わないようにも見える。
 また「岩出男姫神」なる神とは如何なる神であったのであろうか。碑を見る限りにおいて、元々この土地の「産土神」であるようにも思えようが、不思議な一文だ。
        
                                      境内碑
 當社華表は明治廿三年の建設にして腐朽甚しく再建を企つる事多年なりしも明治四十年以來水災頻りに至り其機を失す今回氏子より金壹百六十五圓を醵出し鈴木周太朗氏より石材華表料金三百圓及基本財産中に金壱百三拾圓の寄附を得以て建設奉納せり尚川越町竹谷善吉氏の發意に因り字中井に八二番に鎮座せし子之権現社を遷して境内神社となし同氏〇〇も基本金貳百五十圓及祭禮幟一對並に同石〇を寄進さる仍て永く両氏の芳名を後毘に傳へ紀念となさんが爲め此碑を建設する所以なり     大正九年一月吉辰  赤城神社氏子中
 
    境内合祀社 稲荷社・天神宮        合祀社の並びに祀られている権現社
       
                                   境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内碑」等
    

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下小見野氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町下小見野755
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧下小見野村・梅ノ木・虫塚三村鎮守 旧村社
             ・例祭等

 川島町東北部に位置する下小見野地域。氷川神社としても、川島町では一番北に位置する。
 経路としては、上小見野氷川社から一旦東行し、コンビニエンスストアが見える十字路を左折する。埼玉県道76号鴻巣川島線合流し、暫く北上すること1.7km程、市野川に架かる「徒歩橋」の手前の十字路を左折し200m程進むと、進行方向右側に下小見野氷川神社の鳥居と境内が見えてくる。因みに「徒歩橋」と書いて「かちばし」と読むようだ
 社に隣接している社務所の駐車スペースの一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
                 下小見野氷川神社正面
 下小見野(しもおみの)地域は埼玉県比企郡川島町の北部に位置していて、市野川がその境となし、その対岸は吉見町大串地域となっている。この地域は田畑が大部分を占めており、その中に住宅が点在していて、のどかな田園風景をいまだに残している。
 参拝当日はあいにくの雨交じりの天気だったが、それが却って神聖さを醸し出しているような雰囲気。
        
                  鳥居の前にある神橋
 
     下小見野氷川神社正面鳥居       鳥居の左側にある社号標柱
『日本日本歴史地名大系』では 「下小見野村」は以下の解説がある。
 [現在地名]川島町下小見野
 上小見野村の北東、市野川の右岸に位置する。集落は旧荒川筋の自然堤防上に細長く発達するが、村域は上小見野村や東方の加胡(かご)村・松永(まつなが)村と入組んでいる。
 近世は小見野一〇ヵ村の一。古くは上小見野村と一村で、小美濃本(おみのほん)村と称していたが、寛文年間(一六六一―七三)頃に分村した。元禄郷帳に村名がみえ、高六七二石余。分村以前から川越藩領であり、明和四年(一七六七)藩主秋元氏の移封に伴い出羽山形藩領となる。秋元家時代郷帳では元禄郷帳とほぼ同高で、ほかに野高並前々検地出高として高二三七石余がある。反別は四方六〇町四反余・畑方六三町八反余・野一一町余

 市野川が最終的に荒川と合流するこの地域、具体的には吉見町大串、川島町上小見野・下小見野・松永各地域は、『日本歴史地名大系』の解説にもあるように、行政区域が文字通り入り組んでいて、飛び地が多く存在する。
        
                 参道の先に拝殿が見える。
            緑豊かな社叢林の中にひっそりと鎮座する社。
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町下小見野七五五
 小見野は、中世末期から用いられたと思われる小美濃郷の遺名である。慶長十四年(一六〇四)の検地帳には「武州比企郡小美濃郷」と記されている。正保年中(一六四四-四八)の国絵図に見える「小美濃本村」が、寛文二年(一六六二)に上・下小美濃村に分村し、後に表記を小見野と改めたという。
 当社は、小美濃郷と記していたころには、既に武蔵国一の宮氷川神社の遥拝所として建立されていたが、後に改めて一社として勧請されたと伝えられる。宝暦二年(一七五二)の棟札によれば、下小見野・加胡・松永の三か村の総鎮守として本殿を再建した際、上小見野・梅之木・虫塚・一本木・谷中・戸羽井・戸羽井新田・大塚の八か村からも籾の寄附がなされており、これらの村々がかつて小美濃郷に属していたことをうかがわせる。ちなみに、大塚村を除いた十か村は、江戸期に「小見野十か村」と唱えられていたという。
 また、この棟札には「遷宮導師当村明光山法鈴寺法印教慧和尚」「別当当村普門山光西寺法印譽山」の名があり、往時の祭祀状況をうかがわせる。法鈴寺と光西寺は本末の関係である。
 明治四年に村社となり、同四十年には大字下小見野字上小見野家付の天神社と大字松永字矢代町の八幡社の村社二社を合祀した。天神社は「天神前」の屋号を持つ石川能男家の近くに鎮座していたという。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                                    本 殿



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系 」「埼玉県HP」
    
Wikipedia」等

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上小見野氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町上小見野320
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧小見野郷鎮守
             ・例祭等 

 一本木神明神社の北方400m程の場所で、上小見野地域の南方境に鎮座する上小見野氷川社。鳥居から100m程東側にある「虫塚集落センター」に車両を駐車させてから参拝を開始する。
        
              農道沿いに建つ上小見野氷川社一の鳥居
 
     一の鳥居から長い参道が続く。     参道の先に木製の朱色の鳥居が見えてくる。
 社の周辺は一面長閑な田畑風景が広がっている。当然だが参拝客は筆者のみ。但し日の光を燦々と浴びているので、社特有の寂しさ等は感じられない。
 一の鳥居から北に延びる舗装されていない参道は、不定期的な改修等は行っているであろうが、なぜか一時代前の懐かしさを感じさせてくれる、そんな不思議な社だ。
 
 二の鳥居前には用水路と表現するにはもったいない位の綺麗な小川が東西に流れていて(写真左・右)、参道から社までに神橋が架かっている。この神橋は「中瀬橋」という。
        
              朱色が映える上小見野氷川社二の鳥居
 かつての「小見野郷」は、市野川の下流右岸、現川島町上小見野・下小見野を遺称地とし、その一帯に比定される。小美濃・尾美野などとも記した。児玉党系図(諸家系図纂)によると浅羽小太夫行業(入西資行の子)の子四郎盛行が小見野氏を名乗っている。
*武蔵七党系図
「浅羽小大夫行業―小見野四郎盛行―三郎行景、弟四郎行員、其弟五郎実光―五郎四郎有行(兄五郎大夫教信)―四郎五郎広行(弟又四郎行盛)。五郎実光の弟六郎行則―中務丞行重―太郎経行(弟四郎員行)。六郎行則の弟七郎行泰―二郎行直(行則子トモ云)―弥二郎近行」
 その後建久元年(一一九〇)一一月、源頼朝が上洛した際の後陣随兵三一番に小見野四郎の名がみえる(「吾妻鏡」同月七日条)。
吾妻鑑卷十「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に小見野四郎」
武蔵志「東鑑に三保谷四郎を小美濃四郎とも出る」
米良文書(室町時代)「越生一門名字書立、越生、小見野、留田」
 横山党大串氏族小見野氏とは姻戚関係となっているようだ。
*小野系図「大串次郎重保(東鑑文治五年)―広隆―広行―女子(小見野弥次郎妻)―大串孫次郎行忠」

 また享徳二年(一四五三)四月一〇日の十郎三郎目安案(鑁阿寺文書)によると、この頃当郷および八林郷と、近隣の戸守郷との間で用水争論が起こっている。この用水は都幾とき川の水を長楽ながらく付近で取入れるもので、上流にあたる戸守郷が用水を止めたために「尾美野・八林」両郷が武蔵国府中(守護所)に訴えたものである。
          
          二の鳥居の手前で左側に    鳥居を過ぎてすぐ左側に祭られている
            ひっそりと建つ社号標柱              境内社 厳島社
        
                境内左側には神楽殿あり。
         思っていた以上に立派な神楽殿。拝殿より目立つような貫禄。
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町上小見野三二〇(上小見野字家附二番町)
 当地「上小見野」は、下小見野と共に古くから「小小見野郷」の本村というべき地にある。また、この二村のほかに隣村の加胡・松永・谷中・梅ノ木・虫塚・一本木・鳥羽井・鳥羽井新田の八か村を併せて俗に「小見野十か村」と呼ぶ。これがかつての小見野郷の郷域である。
 当社は、武蔵国一の宮氷川神社から小見野郷の本村に勧請され、郷の総鎮守として崇敬を受けた。しかし『風土記稿』上小見野村の項に「氷川社 当村及び梅ノ木・虫塚三村の鎮守」と記されるように、江戸後期には既に三か村の鎮守となっていた。往時の神社運営には、名主を務めた上小見野の長谷部家、梅ノ木の堤家・岩淵家らが当たったものと思われる。
 享保元年(一七一六)九月、町田氏により当社に金幣が奉納されている。ただし、この町田氏の在所については明らかではない。
 別当は隣村の下小見野にある真言宗明光山法鈴寺で、同寺は入間郡越生郷松渓山法恩寺の末寺である。延享三年(一七四六)の本殿再建の際、これを喜んだ法恩寺二十四世貞範が、聖武天皇と光明皇后の御宸筆なる経文を当社に法鈴寺の教慧を通じて奉納したと伝えている。
 なお、嘉永二年(一八四九)
に「氷川大明神」の扁額が当社に奉納されているが、この揮毫は一の宮氷川神社神主「角井家」によるものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
境内社厳島社と神楽殿の間に祀られている境内社    社殿の左奥に祭られている境内社
        詳細は不明。            左側より稲荷社、右側の石祠は不明。


参考資料「新編武蔵風土記考」
「埼玉の神社」「武蔵七党系図」「吾妻鑑」「武蔵志」「米良文書」
    「日本歴史地名大系」等
 

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