古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

秩父神社

    武蔵国秩父郡は武蔵国の西北部の山岳地帯に位置し、1,000~2,000m級の山々が連なっている。四囲は、児玉、那賀、男衾、比企、入間、高麗、多摩の各郡と甲斐、信濃、上野の各国と接している。おおむね現秩父市、秩父郡に属する町村、飯能市西部の吾野地区、入間郡名栗村の地域で、『和名抄』は「知々夫」と訓じている。古代には、良質な馬産地かつ銅産地であり、それを財政的な基盤にして国造(知知夫国造)や桓武平氏流秩父氏の輩出をみた。
 令制国の制定以前には、知知夫国(ちちぶのくに)として独立した存在であった時期も存在していたことは『先代旧事本記』の巻1「国造本記」に垂神天皇朝に八意思金命10世孫の知知夫彦が知知夫国造に任じられ、大神をお祀りしたと記されていているが、「先代旧事本記」自体を偽書扱いする意見もあるので真偽の程は不明である。
 この「ちちぶ」の語源はハッキリ解っておらず、(1) 「知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)」の支配する国名から、 (2) 「チチ(銀杏)・ブ(生)」で銀杏の生える地の意、 (3) 秩父山中の鍾乳洞の石鍾乳(いしのち)の形から、 (4) 「茅萱」の生える地の意、 (5) 「チ(多数を表す接頭語または美称)・チブ(崖地)」の意など多くの説がある。

    
 所在地     埼玉県秩父市番場町1-3

     主祭神     八意思兼命   (政治、学問、工業、開運の祖神)
            知知夫彦命   (秩父地方開拓の祖神)
            天之御中主神  (北辰妙見として鎌倉時代に合祀)
             秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟宮、昭和28年に合祀)
     社  格     式内社(小)・国幣小社・別表神社・知知夫国新一の宮・武蔵国四の宮
     創  建     垂神天皇10年(紀元前87年)
                                            
        
 
 秩父神社は国道140号線「道の駅ちちぶ」を越え、次の上野町交差点を右折し、秩父鉄道の線路を越えるとほぼ正面に鳥居が見えてくる。境内に駐車場があり数十台分の駐車スペースがある。社殿裏側にもあるそうだがそれは今回確認しなかった。
            
 
       鳥居を抜けるとすぐ左側に由来書がある         有名な秩父夜祭の案内板もあった

  秩父神社の歴史は古い。『先代旧事本紀』によれば、創建は崇神天皇の時代までさかのぼる。国造(くにのみやつこ)の知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が祖神の八意思金命(やごころおもいかねのみこと)を祀ったのが、当社の始まりとされている。

 当時の知知夫は現在の秩父および児玉地方をいう。『国造本紀』は知知夫彦命を知知夫の初代国造としている。その後、允恭天皇の御代、知知夫彦命九世孫の知知夫狭手男が知知夫彦を合わせ祀ったという。
秩父神社 由緒書
 悠遠且典雅な神秘に包まれる聖域秩父神社は躍進途上の秩父市の中央に鎮座し秩父三社巡りの三峰、宝登山両神社の中間にあって、古くから秩父総社延喜式内社、関東の古社として知られております。
 御創立は遠く二千有余年前、崇神天皇の御代秩父国造の始祖知知夫彦命が命の御祖神八意思金命を奉斎しました時と記録されております。その後東国の山域にも武家の勃興と共に漸く文化も開け、平安中期以降神仏習合の妙見信仰が加わりました。上下の尊崇、別けても朝廷の御崇敬は極めて篤く神階正四位下に進み武家の崇敬も深く現在の御社殿は戦国末期に兵火に炎上しましたのを徳川家康公が造営を進めたものです。当時の棟札が社宝とし保存されてあります。昭和三年十一月御即位の当日県社から国幣社に列格いたしました。畏くも、大正天皇は第二皇子雍仁親王殿下の宮家御創立に当り秩父宮家の称号を御宣賜あらせられ、その年殿下は親しく御奉告のため御参拝なされて乳の木壱樹を御手植えなされましたが、今は亭々として生い茂って参りましたところ、先年、宮様の薨去遊ばされるや御遺徳を偲びまつる郡市民は御由緒も深いこの聖域に御尊霊を御奉斎申し上げました。
 先年は貞明皇后、高松宮殿下の御参拝を辱うしております。なお、秩父宮妃殿下の御参拝を戴き、秩父神社復興奉賛事業完遂奉祝祭(昭和四十七年十月五日)を斎行しましたが、お歌を賜りました。
  神垣も新になりて みゆかりの 秩父のさとわ いよよ栄えむ
                    
                               神楽殿
                     
                               神  門
                     
                               拝  殿
 
 西暦708年、近くの秩父黒谷の地で自然銅が発見され、朝廷に献上された。朝廷はこれを慶事として、慶雲5年を和銅元年に改元したことはよく知られている。和銅発見以来、この地は朝廷とは深い関係にあつたようだ。しかし知知夫の国が武蔵の国に併合されて秩父郡となった後、『延喜式』神名帳に秩父郡の小社として社名が見えて以降、文献からこの社は消えてしまい、代わりに平安時代中期になって妙見信仰が導入されると、秩父神社は「妙見宮」、「妙見社」と称さ れるようになり、中世以降は関東武士団の源流、秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し長く「秩父妙味宮」として隆盛を極めた

             
                         絢爛豪華な秩父神社 本殿
 
 明治になって神仏分離令によって、社名は「秩父神社」に復した。昭和3年(1928)には、県社から国弊社に社格が上げられた。昭和28年(1953) 12月には、秩父宮殿下の霊を奉斎し、祭神として合祀した。秩父宮殿下を合祀したのは、大正天皇の第二子・雍仁親王(やすひとしんのう)の宮家創立にあた り、秩父宮家の称号が採用されたことによる。秩父宮家が創立された年、親王は当社に参拝し、宮家創設を報告されるとともに、乳の木の植樹をなされたという

 また本殿の裏には天神地祇社が鎮座している。全国の一の宮が祀られていて、全てに参拝すれば全国の一の宮へ参拝したことになるそうだ。
                
                                               秩父神社の裏にある天神地祇社

 ところで「秩父」の語源、祭神に関して奇妙な記述がある書物があり、参考資料として紹介したい。

秩父 チチブ 
 
続日本紀・和銅元年正月条に「武蔵国秩父郡献和銅、故改慶雲五年而、和銅元年為而御世年号止定賜」と、秩父郡からの和銅献上にちなみ、年号を和銅と改めるとあり。平城宮跡出土木簡に「天平十七年、武蔵国秩父郡大贄鼓一斗」と見ゆ。承平五年和名抄に秩父郡を知々夫と註す。チチブの名義について記す。日本書紀仲哀天皇八年条に栲衾新羅国。万葉集に多久夫須麻新羅。播磨国風土記に白衾新羅国。出雲国風土記に栲衾志羅紀と見ゆ。栲衾(たくぶすま)は、梶や楮などの木の皮の繊維で織った綿布の夜具で、白いから新羅(しら)の枕詞に使われた。先代旧事本紀卷三・天神本紀に「高皇産霊尊の児思兼神の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃と為して、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す」と。日本書記には、栲幡千々姫(たくはたちちひめ)、万幡姫(よろづはたひめ)、栲幡千幡姫(たくはたちはたひめ)、栲幡千千姫万幡姫命(たくはたちちひめよろづはたひめのみこと)、天万栲幡千幡媛(あめのよろづたくはたちはたひめ)と、この姫神は異伝が多いが、秩父国造の祖・思兼神(おもいがねのかみ)の兄弟の万幡は多くの機織、豊秋津師は織物のすぐれた布、千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味である。地名辞書(吉田東吾著)に「此郡(秩父郡)崇神天皇十四年十二月、知々夫彦命を国造とし、美濃国不破郡引常の丘(岐阜県垂井町)より倭文部・長幡部を率い来り、民に養蚕を教へ大いに機織の術を開く、故に其名に因て秩父の国と称す」と見ゆ。栲幡・即ち新羅国出身の思兼神の子孫知々夫彦は織工集団の首領であり、居住地を八幡荘と唱へ、織工の奉斎神である八幡社を祀る。後世秩父氏は八幡社を氏神とし、新羅の白旗を用いる。秩父郡へ鎌倉八幡宮を勧請したわけでも無く、源氏の白旗以前から此の旗を用いていた。(中略)

 ここでは最初に正史に記された文献資料の紹介と、概略を説明してから、「白」の語源を「新羅」(しら)として、白旗も新羅が発祥であること、源氏よりも早く使用していたことを記述している。また先代旧事本記を引用して、ニギハヤヒ尊の出生も説明している。
 さて次から問題の記述が始まる。

一 秩父国造 秩父郡は古代の秩父国なり。古代氏族系譜集成に「八意思兼命―天表春命―阿豆佐美命―加祢夜須命―伊豆?命―阿智別命―阿智山祇命―味見命(秩父国造祖)、弟味津彦命(信濃阿智祝祖)」と見ゆ。延喜式神名帳の阿智神社(長野県下伊那郡阿智村智里)の祭神は思兼命と天表春命にて、思兼命を曲尺・工匠の神として建築業者の信仰となっている。先代旧事本紀卷三・天神本紀に「三十二人を令て並て防衛と為し、天降し供へ奉らしむ。八意思兼神の児、表春命・信乃阿智祝部等祖、天下春命・武蔵秩父国造等祖」。卷十・国造本紀に「知々夫国造。瑞籬朝(崇神天皇)の御世、八意思金命の十世の孫、知知夫彦命を国造(くにのみっこ)に定め賜ふ。大神(おおがみ)を拝詞(いつきまつる)る」と見ゆ。八意思金命(やごころおもいかねのみこと)は、高天原第一の智者と云われるが、思金は重い鉄(くろがね)の意味で鉱山鍛冶師の首領である。子孫の加祢夜須命の金安も鉱山師の意味がある。知々夫彦命は代々の襲名で数代・数百年の人名である。

 思兼命は古事記や日本書紀においては
「思慮」、「かね」は「兼ね備える」の意味で、「数多の人々の持つ思慮を一柱で兼ね備える神」で、思想や思考、知恵を神格化したものと考えられている。「八意」(やごころ)は多くの知恵という意味であり、また立場を変えて思い考えることを意味する。高天原の知恵袋といっても良い存在であったはずの神であるのに対して、長野県阿智神社では曲尺、工匠、建築業者の神として登場しており、国造本記では「八意思金命」と一字違いの名前。とはいえ「金」という鉱山に関する名称としてふさわしいし、その鉱山鍛冶師の首領という。
 この段において、思兼命は記紀とは全く違った系図の人物として登場している。また。『先代旧事本紀』によれば、信之(信濃)阿智祝と秩父国造の祖神とされているが、信濃国は有名な諏訪大社のお膝元で、記紀で記す思兼命と諏訪大社の祭神建御名方神は敵対関係だったはずだ。

二 祭神の大神 

 知々夫彦命は「大神を拝詞る」とあり、大神とは何神であろうか。風土記稿・妙見社条に「当社は神名帳に載せたる秩父神社なり。祭神は知々夫彦命とも、大己貴尊とも云ふ。当今の縁起には大和国三輪大明神を写など記して其説定かならず」と。秩父郡誌に「大神とは果たして何神なるべきか、知知夫彦命が御自らの祖なる八意思兼命を祀られしなるべきか。吉田東吾博士は『崇神の朝、国造を置きたまひし時より国神の祭らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑なかるべし』と論定す。現今県社秩父神社は八思兼命・知知夫彦命を祭神とし、大国主命・素戔鳴尊を配祀せり」と。しかし、延喜式には「秩父神社、一座」と見え、祭神は一柱であった。出雲国風土記には大己貴命(おおなむちのみこと)を大神と称している。別名大物主命、或は大国主命とも云われる。崇神紀に「三輪山の大物主命は腰紐ほどの蛇になって、とぐろを巻いていた」とあり。蛇は大物主命の化身で鍛冶神なり。常陸国風土記逸文・大神の駅家条に「新治郡駅家、名を大神と曰ふ。然称ふ所以は、大蛇(おおかみ)多に在(す)めり。因りて駅家に名づく」と。日本書紀・神代上に「思兼神、石凝姥を以ちて冶工とし、天香山の金を採りて日矛に作る。又真名鹿の皮を全剥にして、天羽鞴(風を起すふいご)に作る。此を用いて造り奉る神は、是即ち紀伊国に坐します日前神なり」と見ゆ。和歌山市秋月の日前国懸神宮の祭神は日前神宮(ひのくま)が日前大神を主神として相殿に思兼命・石凝姥命(鍛冶集団の部族長)を祀り、国懸神宮(くにかかす)が国懸大神を主神として相殿に玉祖命・天御影命・鈿女命(三命は鍛冶神)を祀る。国懸神は寛文九年刊本の日本書紀にはカラクニカラノカミと註す。日本書紀持統天皇六年条に紀伊大神は朝廷から「新羅調」を奉られている。日本書紀・宝剣出現条に素戔鳴尊の子・五十猛命を「即紀伊国所坐大神是也」と見ゆ。以上のことから、大神は天照大神では無く、其地の氏族が奉斎した祖先神である。更級日記に「武蔵国武芝寺あり、ははさうなどいふ所あり」と。足立郡大宮町氷川神社であり、葉葉染(ははそ)の古語は蛇である。秩父神社の社殿が立っている所を「母巣ノ森」と称す。ハハソと云う。妙見宮縁起に「允恭天皇の三十四とせ丁亥ともふすに、命(知々夫彦)の九かえり遠つ世継(九世の子孫)の狭手男臣(さておのおみ)をあげもふして、詔旨を蒙りたうへて、遠き御祖(みおや)の御璽を葉葉染の杜にまつらひ給ふ、此時始めて知知夫神社と請しまつり給ふ也」と見ゆ。秩父神社夜祭に縄蛇を榊樽に巻きつけている。知々彦命は祖先神の鉱山鍛冶師首領思金命を大神として斎き祭り、其の地をハハソの杜と称した。

 この記述をどのように解釈するか。これ以降の説明は長くなるので別稿にて説明したい。ただ少なくとも知知夫国造の出現以前の秩父地方の歴史のページの一端がここに覗かさている。




 



 



 

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