古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

羽尾諏訪神社

 滑川町は南北約7.2km、東西は約4.8kmとやや南北に長く、全町域の60%がなだらかな丘陵地から形成されている。町の北端熊谷市との境付近を和田川、町南部を市野川、ほぼ中央を滑川が流れ、この三本の川はほぼ平行に東西方向に流れていて、滑川は町名の由来にもなっている。
 中央に流れる滑川は、町を南北に二分しているが、南部地区はつきのわ駅開業(2002年)と周辺の土地区画整理事業に合わせ東武鉄道が住宅開発を行ったことや、それに伴うショッピングセンターの開業で人口がかなりの伸び率で増加していて、2000-2005年の出生率は埼玉県内一、人口増加率は全国の町村のうち第3位であったという。
 対して北部地区はほとんど手つかずで自然が残されており、田園風景が広がっている。その自然や田園風景(里山)を活かした観光施設(森林公園、谷津の里など)も存在していて、また溜池も北部を中心に非常に多く、関東随一の多さを誇っている。
 滑川を境に北部は農業地帯、南部は住宅と工業地帯が存在する滑川町の中央部で川沿いには町役場等の官公庁施設が立ち並んでいるが、その片隅に羽尾諏訪神社が小規模ながら地域の鎮守様の如く、官舎と肩を並べて鎮座している。
        
           
・所在地 埼玉県比企郡滑川町羽尾4973
           
・御祭神 建御名方命 八坂刀売命
           
・社 格 旧無各社
           
・例 祭 春祭 326日 己の晩祭 5月上旬の己の晩 例祭 826
                
秋祭 1126日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0654093,139.3594039,18z?hl=ja&entry=ttu
 和泉八宮神社から一旦埼玉県道47号深谷東松山線に戻り、森林公園駅方向に3㎞程南下する。滑川に架かる「新庭橋」手前地点には町役場や総合体育館、図書館等の官舎が川沿いに立ち並んでいるが、川を越えるとすぐ左側に滑川町中央公民館や滑川町コミュニティーセンターが見え、その手前には羽尾諏訪神社が鎮座している。
        
               県道沿いに鎮座する羽尾諏訪神社
 官公庁が近隣に隣接しているせいか、境内は人気はないが、手入れは行き届き、さっぱりしている。
 
     参道沿いに設置された案内板          
朱が基調の木製の両部鳥居

 諏訪神社 滑川町大字羽尾
 祭神   建御名方命 八坂刀売命
 由緒
 当社は往古この地方干ばつの際、信濃国諏訪神社に雨を祈ったところ、その霊験が顕著であったので文亀二壬戌(西暦一五〇二)年七月その分霊を勧請したと縁起書にある。雨乞いの神でもありまた養蚕繁昌の神として多くの信仰を集めた。
 当社に「竜神渡り」の伝説がある。八月二十六日の例祭前夜に信濃の本社よりこの神社に竜神が渡御するので中尾耕地に竜の通った跡が見られたという。
 祭日
 節分祭  二月節分の日    春祭 三月二十六日
 己の晩祭 五月上旬の己の晩  例祭 八月二十六日
 秋祭   十一月二十六日
 平成二十七年三月 吉日 滑川町観光協会・滑川町教育委員会
                                      案内板より引用
        
                参道の先に拝殿が鎮座する
 
  参道途中にある「暗渠排水工事記念碑」   記念碑の右並びには八意思兼神・彦狭知神・
                            手置帆負神の石碑あり。

『新編武蔵風土記稿』には「市ノ川・滑川の水を引て用水とすれど、動もすれば皐損あり」とみえ、また『郡村誌』羽尾村の項に「色赤黒稲梁に適せず水利不便時々旱に苦しむ」との記載があり、古くから水利・干ばつには苦労していたようである。「暗渠排水工事記念碑」には嘗てこの地域に居住していた方々の苦難が短い文章ながら綴られている。

 熊谷市須賀広地域の八幡神社で、1014日の夜に、文化元年(1804)に滑川町羽尾の諏訪神社から伝わったという「ささら獅子舞」が奉納されているという。
 このささらの役者は、仲立・代頭・雌獅子・後頭・花笠・棒使い・唱・笛・獅子世話で構成されているようだが、嘗ては羽尾諏訪神社でもこの「ささら獅子舞」が舞われていたのだろう。
        
                     拝 殿
 諏訪神社 滑川町羽尾九七三(羽尾字市場)
 当地は滑川右岸・市野川流域の低地・台地上に位置し、羽尾の地名は粘土・赤土を示す「はに」の意で当地の地質に由来する。このことは『郡村誌』羽尾村の項に「色赤黒稲梁に適せず水利不便時々旱に苦しむ」と載ることからもうかがえる。
 また、旱のことは『風土記稿』にも「市ノ川・滑川の水を引て用水とすれど、動もすれば皐損あり」とみえ、古くから水利・干ばつには苦労していたようである。
 地内の小林家の口伝によると、文明年間(一四六九-八七) の数年にわたる大干ばつの際、小林家の氏神である諏訪神社に雨乞いの祈願をしたところ霊験あらたかに大雨が降り、以来村人の崇敬を得るようになった。文亀二年(一五〇二)七月に村人の強い願望により信州諏訪大社から分霊を勧請したのが当社の創祀で、鎮座祭は金剛院声俊法師によって執り行われたという。
 天和元年(一六八一)の棟札には「奉再建諏訪大明神一宇」村内惣氏子安全」「金剛院祐円謹白」とみえ、『風土記稿』には「金剛院持」と載ることから、創建当時から一貫して金剛院が別当であったことが知られる。
 明治初年の神仏分離令により、金剛院の管理下から離れた当社は、大正二年に村内の琴平社を、同四年には愛宕御獄社を合祀している。なお、現在の社殿は大正三年に再建されたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
            拝殿左側手前にある銀杏の大木(写真左・右)
 
       拝殿に掲げてある扁額               本 殿

 ところで滑川に纏わるこんな昔話がある。松山城のお姫様が、いいなづけの鉢形城の殿様が来るというので、滑川の水鏡に自分の姿を映して髪をすいていた時、大切な櫛を川に落としてしまった。川の中をいくら探してもみつからなかったので、「櫛がみつからないうちは、このなめがわの水は澄んではならない。」といって怒った。それ以来、滑川は澄まなくなったという。滑川には、こんな昔話が伝わっていて、不思議なロマンを与えてくれる。
 
              社の北側を流れる滑川(写真左・右)。
         昔話がふと頭によぎってしまい、感慨深く暫く眺めていた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「滑川町HP」「埼玉の神社」「Wikipedia」「滑川ふるさと散歩道」等

拍手[1回]


和泉八宮神社

 滑川町北西部北端と同時に北武蔵丘陵の北端にも位置する和泉地域、この地域の歴史は古く、今から七千年ほど前の縄文時代早期には、既にこの地域の船川遺跡からは土器の欠片等によって人間の生活していた痕跡が認められる。その後、同じ船川遺跡では弥生・古墳の両時代も引き続き人々がくらした住居跡が発掘されている
 和泉地域が文献に最初に見えるのは、鎌倉幕府が編んだ「吾妻鏡」という歴史書の中の建久4年(1193210日の記述である。そこには鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝が嘗て世話をしてくれた毛呂季綱へ褒美として「武蔵国泉勝田」の土地を与えたことが記してある。泉は今の和泉のことで、勝田のことと考えられる。このことと直接関係があるか不明であるが、和泉には三門という地名があり、そこには中世頃と思われる館跡が残っている
 この三門舘跡と田んぼを挟んだ向い側に、北から南の滑川沖積地へ伸びるなだらかな丘陵があり、その先端近くに泉福寺がある。この寺院には「阿弥陀如来像」と、その脇侍の「観音・勢至の立像」(いわゆる阿弥陀三尊)があり、阿弥陀は国指定重要文化財で、観音・勢至は県指定有形文化財となっている。阿弥陀の胎内(ここでは像の腹部の中)には132文字の墨書がある。それによると鎌倉時代の中ごろの建長6年(1254)に阿弥陀三尊を修復したことがわかる。亡き母の霊たましいが成仏して極楽へ行けるように、また、自らの現世の無事と来世の安楽を願って修理されたのだという
このように古い時代からのさまざまな文化財が和泉には散在している。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡滑川町和泉1573
             
・ご祭神 素盞嗚尊 大己貴命 火産霊命 倉稲魂命 大山祇命
                  
稲田姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 419日 新嘗祭 1127日 大祓 1229
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0884183,139.3259285,17z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道47号深谷東松山線を森林公園方向に南下する。この県道沿い、またはその近辺には三ヶ尻八幡神社田中神社飯玉神社高根神社が鎮座していて、古くからこの道路が存在し、人々の日々の生活の為に、同時に経済活動の為に活用されていたことを伺わせる。
 高根神社の鳥居を遙か右手に見ながら更に2㎞程南下すると、「泉福寺入口」の立看板が信号のある変則的な十字路手前に見えるので、そこを右折する。長閑な田畑風景が続く道路を1.7㎞程進むと「泉福寺」と表記された木製の看板板があるT字路があり、その先の路地を右折し、上り坂を道なりにのぼりつめたところに八宮神社の鳥居が見えてくる。
 
     鳥居は道路沿い右側にあり、         森林の中に目立つ朱色の鳥居
      高台上に設置されている。

鳥居の社号額には「八宮大乃神」と記されている。 鳥居の先 真直ぐ参道が深い森林の間を通り
                           その先には広大な境内が広がる。
        
                                   和泉八宮神社境内
 滑川村史によると八宮神社は「勧請年期未詳寛永二年(一六二五)三月鎮守社とす。また、明治四年三月村社の格に列する。」とある。隣接する菅田地区は以前一つの村で鎮守として厳島神社を祭っていたが、戸数が少ないため、大正年間に八宮神社を鎮守とするようになったといわれる。
        
               拝殿手前に設置されている案内板
 八宮神社   滑川町大字和泉
 祭神 
 素盞嗚尊 大己貴命 
火産霊命 倉稲魂命 大山祇命 稲田姫命
 由緒 
 当社は素盞嗚尊の広徳を仰ぎ奉りて、里民此の地に祭神として奉祀したと云う。
創立年代は不詳であるが、社地を含む小字の地名を八垣と云うのは命の詠歌の中の「八重垣」より選んだものと伝承され、当社の古社たるを知ることができる。神社前方には中世の城址や、建久二年に開山の泉福寺が在って往古より早く開けた地域と推察される。
 寛永二(西暦一六二五)年に村の鎮守となり、明治四年三月、村社の格に列した。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                                      拝 殿
 八宮神社 滑川町和泉一五七三(和泉字八垣)
 和泉の泉福寺は、国指定重要文化財の木彫の阿弥陀如来座像があることで知られている.
 当社は、この泉福寺の北東の丘の上に鎮座しており、境内はこんもりとした杜に囲まれている。鎮座地の字を八垣というが、それは祭神である素戔嗚尊の神詠「八雲起つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」にちなんだものであるという。
 当社の由緒について『比企郡神社誌』では「寛永二年(一六二五)三月鎮守社とす。元禄二年(一六八九)には氏子五十六戸とあり、明治二年の古書に依ると『一、社中神主寺山啓位階無之真言宗当村円福寺当社別当致し来候処王政復古神祇興隆の御布令ニ恭順当住弘洲儀明治二己巳年十二月中於神祇官復飾改名御開済』とあり。明治四年三月村社書上済」と記している。この出典となった文書の原本は未見であるが、氏子の某家にあるという。『風土記稿』和泉村の項では「村の鎮守なり」と記されている神社は見えず、「八幡社泉福寺持」とあるのがこの八宮神社のことと思われるため、『比企郡神社誌』に載っているこの文書が当社についての最も詳しい記録であろう。
なお、文中の円福寺は、神仏分離後廃寺になっているが、『風土記稿』の記事から泉福寺と同じ真言宗で、愛宕山地蔵院と号し、本尊は地蔵であったことなどがわかる。なお、別当が泉福寺から円福寺に変わった時期や事情はわからない。
                                  「埼玉の神社」より引用

 案内板にも記載されているが、この和泉八宮神社が鎮座する和泉地域の小字は「八垣(やえがき)」といい、日本最古の歴史書である古事記にその詠歌が出て来る。須佐之男命が妻の櫛名田比売と出雲の国を歩き、宮殿の敷地を探し求め、須賀という場所に来た時、 「わしの心はたいそう清しい」と感慨をもらし、建てることを決めたその時、そこから立ち上る雲をみて「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」と詠んだものといわている。
 
 社殿左側に並んで鎮座する境内社(写真左)、その並びには石祠等も祀られている(同右)。
 詳細は不明だが、明治40年字曲本の稲荷愛宕神社、字陣場の稲荷神社二社、字船川の権両神社、字後谷の八雲神社、字後谷の山神社、字向の稲荷神社、字向船川の稲荷神社、字畑中の熊野神社、字後谷の稲荷神社の10社を、大正3年には菅田の村社厳島神社を合祀しているようだ。
 
一番奥の社には男性器を象形した石器が祀られている。「金精様」の類であろう。(写真左・右)


『新編武蔵風土記稿 比企郡勝田村条』には以下の記載がある。
「按ずるに【東鑑】建久四年二月十日の篠に、毛呂太郎季網勤賞として、武蔵国泉勝田の地を賜ふよし見えたり、此勝田と云は、当地のことにて、泉は隣村和泉村なるべし、されば古くより開けし村なること知らる」
 建久四年(1190)毛呂太郎季網に武蔵国和泉・勝田を与えられていて、比企郡和泉村(滑川町)及び、その隣村の勝田村(嵐山町)を比定する説があるが、考えてみるとこの2か所は本貫地である武蔵国入間郡毛呂郷からはかなり遠方にある。
 吾妻鏡は諸本が刊行されているが、最も普及されているのが「北条本」である。「北条本」とは小田原北条氏が所蔵していた本であるために、こう呼ばれているそうだ。一方吾妻鏡の中で最も正確だと評価されているのが吉川男爵家所蔵の「吉川本」と言われており、その「吉川本」と「北条本」の間に不一致な所があり、その中には毛呂氏賜る「武蔵国泉勝田」についてもいえる。
 この「吉川本」には建久4210日の条に「武蔵国泉沙田」とあり。この地名は、毛呂本郷字和泉、字弥田(いよた)と比定し、この字弥田は隣村の岩井村字伊与田に亘る古の村名でもある。沙田は弥田の書誤りの可能性もある。本貫地からも隣接していて説得力もある。
 また正治元年十月二十八日条の「諸(毛呂)二郎季綱」と、翌二年二月二十六日条の「泉次郎季綱」は同人であるならば、この「諸(毛呂)」と「泉」は季綱系列の同族となり、関連性も十分にあろう。
        
                            拝殿より広大な境内を望む。

「和泉」苗字関連の氏族では以下の氏族があげられる。
〇比企郡の野本氏族和泉氏
・尊卑分脈 「野本乃登守時員―二郎行時―乃登守時光―乃登守貞光―四郎左衛門尉朝行」
常陸国鹿島神宮文書 「正中二年六月六日、野本四郎左衛門尉貞光及び和泉三郎左衛門尉顕助は、常陸国大枝郷給主鹿島大禰宜能親と相論す」
〇竹沢氏族泉氏
 比企郡和泉村(滑川町)より起り、竹沢郷木部村字宮ノ入集落(小川町)の地頭職という。
・鎌倉円覚寺文書 「応安七年十月十四日、比企郡竹沢郷・同郷宮入村等を竹沢二郎太郎・同修理亮入道・泉蔵人太郎等押領す」
〇羽尾七騎由来泉水氏
比企郡羽尾村(滑川町)の羽尾七騎由来書(小林文書)「文和二年より小田原出勤、御地頭所様上田能登守銅具、名主泉水路之助。波根尾七騎百姓と云、泉水淡路守。寛文四年古来居屋敷覚、泉水淡路子兵後、断絶」
羽尾七騎来歴書(小沢文書)「御地頭上田能登守朝直入道案獨斎宗調様、泉水淡路」

 上記「和泉」「泉」「泉水」苗字と表記方法は違うが、どちらにしても「和泉」地名由来であることには間違いない。上記氏族には全く関連性のない場当たり的に移住・土着した集団なのか、それとも何かしらの関係のある集団なのかは今後の課題ともなろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「吾妻鑑」「尊卑分脈」「常陸国鹿島神宮文書」「鎌倉円覚寺文書」  
    「羽尾七騎由来書(小林文書)」「羽尾七騎来歴書(小沢文書)」「滑川ふるさと散歩道」
    「Wikipedia」等

拍手[1回]


福田浅間神社

 平安時代以降、事実上律令制度が崩壊し荘園制が盛んになると、その荘園警備の必要から多くの武士集団が発生した。その中で特に源氏と平氏の二大勢力が台頭し、平安時代後期に入ると、政権の行方が栄華を極めた貴族の手から武家へと移る。保元・平治の乱後、平氏に一度敗れた源氏は源頼朝が挙兵すると、木曽義仲、源義経、源範頼らが呼応、各地で奮戦して平氏を壇の浦で滅亡させた。その後全国を掌握した源頼朝は、1192年鎌倉に幕府を開き、武家政治がここに確立した。
 一方木曽義仲は、源氏嫡流である義朝の異母弟で、帯刀先生源義賢の子供として誕生し、幼名を駒王丸といった。源氏の勢力争いが原因で起こった大蔵合戦で、義朝の長男である義平勢に敗れた父義賢が討ちとられ、駒王丸は義平らの執拗な詮索の目から逃れ、遠く信州木曽に隠れ養育された。 この木曽で成人したのが、あの木曽義仲である。
 ところで前述した大蔵合戦で、敗れた源義賢の遺臣がこの福田の地に移り住み、元久二年 1205年) 義賢の霊を祭ったのが浅間神社で、武蔵武士の崇拝の山であったという。
        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田2954
             ・ご祭神 木花開耶姫命 帯万義賢公
             
・社 格 不明
             ・例祭等 夏季大祭715日 秋祭り1017
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0902143,139.3516852,16z?hl=ja&entry=ttu
 福田浅間神社へのルートは途中までは「福田淡州神社」と同じで、「ふれあい農園谷津の里」の駐車場前のY字路を右折し、暫く直進する。その後、細い十字路に差し掛かり、そこは2本右方向に向かう道があり、そこは奥の道を進む。やはりそのまま道なりに進む(細い道で、進行方向も最初は南方向だが、そのうち北方向に道は変わる為、やや心細いが、そこは辛抱。南方向に向かう途中右側に「比企の丘キッズガルテン」という牧場があり、そこが進行方向の目印となる)と、右側に「浅間神社」の木製の標柱がある。


 標柱付近には十分な駐車スペースもあり、その一角に車を停めて参拝を開始する。一見するとこんもりとした古墳の感もあるが、案内板には山全体が凝灰岩で形成されている岩山との事だ。
 社の南側に浅間神社参道もあり、そこから参拝をスタートさせる。舗装もされていない参道だが、それが却って昔からの雰囲気とそこから醸し出す悠久の歴史を味わえることもでき、深遠な気持ちになる。だがすぐ右側に目を向ければ、「埼玉県道173号ときがわ熊谷線」を利用する車両が頻繁に走っていて、現代と昔の風情を同時に感じることができる不思議な空間でもある。      
  参道スタート場所には2本に門柱があり、    参道に沿って電柱があるのが少し残念。
       そこから参拝開始。
        
                     鳥居正面
                
                  福田浅間神社の案内板
 浅間浅間神社  滑川町大字福田
 遠望する前方後円墳に思われる浅間山は参道入口から社殿まで凝灰岩が露出して独特な雰囲気がある。
 伝えでは、久寿二(一一五五)年帯刀先生義賢が菅谷大蔵館で、鎌倉悪源太義平に殺害され、その時義賢の家臣数人がこの辺りに落ちのびて土着、その子孫が天福年中に義賢の霊を祀った。天福の福、田圃の田で福田の地名となったというが、これについては定かではない。
 戦時中、山頂辺りから宝徳二(一四五〇)年奉納の鰐口及び刀一振出土している。
 山頂の池は、どんな干ばつでもかれることのない水が貯えられ古くはこの水が御神体で信仰されていたことも考えられる。近年までこの水を飲めば安産であるといわれた。
 平成
三十一年三月吉日     滑川町観光協会 滑川町教育委員会      
                                      案内板から引用

 
 鳥居の右側には整備されていない急勾配の坂道があり、社殿に繋がる道があるが、行きに関しては社殿西側のなだらかなルートを選択(写真左)。晴天で暖かな天候の中、新緑の芽も芽吹き始め、菜の花も咲き誇る時期で、自然と散策する足取りも軽い。細いルートを進むと頂上付近となり、左側正面には社殿風の建物等が見える(写真右)。
        
                 正面福田浅間神社社殿
(福田村) 淺間社
 當社は帶刀先生義賢の靈を祀れりと云、久壽二年義賢討れし時、其家臣等此邊に落来りて土着せしもの八人あり、その子孫等天福年中此社を造建して、鎮守と崇めし由、馬場村舊家の條に載たり、猶其村に幷見るべし
                       『
新編武蔵風土記稿』福田浅間神社の由緒を引用
 
社殿内には富士講(浅間講)の絵馬が掲げてある。      社殿内から本殿を撮影               
        
                     本 殿
 
  
社殿と本殿の間には石橋が架かっている。    本殿に掲げている「浅間神社」の扁額

 源義賢は現在の嵐山町に住み、1153(仁平3)年から1155(久寿2)年までのわずか2年余りだったが、この地で生涯を閉じた。義賢の墓と伝えられる五輪塔が大蔵館の近くの新藤氏宅内に所在しているのをはじめ、多くの伝承が嵐山町と近隣に残されている。
 ときがわ町萩日吉神社において三年に一度流鏑馬(やぶさめ)が行われている。この流鏑馬は、義賢の遺臣といわれるときがわ町の馬場・市川・荻窪家と、小川町大塚の加藤・横川・伊藤・小林家が代々執り行っていて、また、鎌形八幡神社の競馬も、この七氏によって奉納されていた。
 また別説では、同町に鎮座する萩日吉神社に伝わる『木曽家引略記』という文書によれば、義仲の遺児義次郎が母方の姓馬場にあらため、馬場義綱と名乗り、そしてかつての家来七氏をたよって明覚郷(ときがわ町明覚)に住んだという。流鏑馬の神事はこの七氏が奉納し、現在まで継承されている。
  
     境内社 不明           境内社雷電神社         境内社津島神社
             
                                   境内社の配置
 社殿から南方向に参道を進むと境内社が3社鎮座している。尚
参道の入口から社殿までは凝灰岩が露出していて、山全体が岩で覆われているのが足で踏みしめる度に実感できる。「岩信仰」は日本古来からの信仰形態の一つだが、改めてこの地が古より信仰の対象であったことが五感全体で体感できた。
        
                  福田浅間神社 遠影
 福田浅間神社は、
決して高くない小山の上に鎮座しているが、短いながら急勾配の参道を登り、頂上に佇むと、悠久の歴史が蘇るような深遠な気持ちにさせる何かが存在するから不思議なものである。
 この社では、 雨乞いの山としても信仰厚く、昭和40年頃までは、獅子舞が奉納されていた。昭和20年頃、 拝殿わきの土中より偶然、鰐口が発見された。鰐口とは、神社の拝殿や仏道の前側の軒下つるす円く扁平な中空で、金属製の器具。横から見ると、下側の割れ口の形が鰐の口に似ていることから、この名前がある。この鰐口は、宝徳2 1450年) の銘で「福田郷」の文献でみる初めての登場で貴重な文化遺産である。


 

拍手[0回]


福田淡洲神社

 滑川町福田地区は滑川町北部に位置し、滑川と中堀川に挟まれた開析谷の低地及び丘陵地にあたる。この地域は縄文時代より集落が存在し、縄文中後期・古墳時代前後期の集落跡である馬場遺跡や、古墳前後期の集落跡である円正寺・中在家・古姓前・東両表・大木・小川谷・久保田遺跡、古墳後期の台原・矢崎・栗谷・粕沢古墳群が見られる。
 明応
4年(1495年)正月18日銘の真福寺鰐口に「奉寄進武州比企郡福田郷 別所真福寺鰐口(中略)檀那同所四郎太郎」との記述がみられ、また後北条氏の所領役帳である『小田原衆所領役帳』には小田原北条氏の家臣であり他国衆の上田案独斎の所領として「卅一貫六百卅七文 同 福田塩川分同(比企郡 福田塩川分 卯検見)」とあり、弘治元年卯に検地を行っている。
「福田」の地名由来として、この地に土着した源義賢の家臣8人の子孫が13世紀前半の天福年間に義賢の霊を祀り、天福の福と田圃の田をとって「福田」と称したといわれる。
*「
Wikipedia」参照。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田33413
             ・ご祭神 息長足姫命
             ・社 格 旧福田村鎮守 旧村社
             ・例祭等 例祭 415日 秋祭 1017日 新嘗祭 1128
                  大祓 1228
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0892216,139.3522539,17z?hl=ja&entry=ttu
 福田
淡州神社は埼玉県道173号ときがわ熊谷線、昔の熊谷東松山有料道路を森林公園方向に進む。武蔵丘陵森林公園「西口」を左側に見ながらも通り過ぎて、次の信号のある交差点を右折するが、この右折する道は、県道に沿って流れていて、暫く直進すると正面に小学校が見えるので、その手前のT字路を右折する。「谷津の里」という看板が見えるのでそのT字路を右折すると、「ふれあい農園谷津の里」があり、その駐車場から北側に社は鎮座する。
「ふれあい農園谷津の里」の駐車スペースに車を停めて参拝を行う。天候も清々しいほどの晴天の日よりで、足取りも軽い。駐車スペースから北側に進む道路沿いに社は鎮座するが、新緑が進む周囲の風景を眺めながらの散策もまた良いものだ。
            
                道路沿いに鎮座する福田淡州神社
                
           鳥居の先で参道沿い右側に設置されている案内板
 淡州神社   滑川町大字福田(上福田)
 祭神     
息長足姫命
 由緒
 当社の創立年代は不詳であるが、氏子旧家の古書によれば、応永二己亥(西暦一三九五)年に当社例祭に獅子舞を奉納したとの記載あり、応永以前に祀られたことが明らかである。当地は古くから開け、水田耕作がおこなわれ、地名も福田と名づけたと云う。
 里人は神功皇后が熊襲平定に功績を挙げたことを尊び祭神として祀ったと伝承される(中略)
 滑川町観光協会・滑川町教育委員会   
                                      案内板より引用

        
 また
『比企郡神社誌』では以下の記載がある。
 「当社創立は不詳なれども、氏子旧家古書の発見に仍ると応永二年(1395)当社例祭に獅子舞あり、当時は天台宗別当光栄寺持とあり。百拾年前吉田家の祖先の書記されしという当番帳ありしに、応永以前祀られしを実証するものなり、当地は上古早くより福田と名付く。神功皇后熊襲平定に大功有り其の功績を尊び仰ぎ奉りて祭神と祀られるなり。勧請年記未詳、寛永二年(1625年)三月霊代を改め鎮守とす。明治戌子(1888年)正月当日、吉田、由良之助懸ると有る。奉額に正一位淡波州大明神十歳童院忠書と有り。正一位を授けらる。明治4年3月月村社書上済。(以下略)」
 
 参道の様子(写真左)。
なだらかな丘陵地面に鎮座している関係からか、一の鳥居から社殿に進む際に、やや下り気味の参道となる(写真右)
        
                    拝殿兼覆屋 
 「埼玉の神社」によれば、淡洲神社には諸説あり、安房国一ノ宮の后神を杷った式内社「后神天比理乃咩神社(大社で一元来は洲神と称した)」に由来するというものと、近世に流行した淡島信仰によるとする説である。当社の場合はその双方が考えられる。洲が島と同義であることから、後に淡島信仰が入りやすかったのであろう。この信仰は、女性の病気平癒・安産・良縁などの幸福祈願で、和歌山県加太の加太神社もしくは同県の方に鎮座する淡島神社から修験の活動により全国にもたらされたという。
        
              社伝に掲げられた「淡州神社」の扁額

 「淡島信仰」とは、
婦人病に効験ありとされる淡島明神に対する信仰で、一般に淡島様とよばれる。関東では3月3日淡島講を催す所がある。和歌山市加太(かだ)神社が本拠といい,もと住吉明神の妃であったが婦人病のためこの地に流されたという。江戸中期,淡島様の小さな神棚を持った乞食(こつじき)願人が諸国を巡回,その縁起功徳(くどく)を説き,広めたとされる。
*「百科事典マイペディア」参照
        
 ところで神社参拝後、
自宅での編集中に知ったことが2点ある。一点は「福田石」である。武蔵丘陵森林公園内には「福田岩石切り場跡」があるが、この「福田石」は、褶曲岩盤と言われた淡緑色の斜長流紋岩質凝灰岩で、加工しやすい特性もある為、石垣の切石や石燈籠など土木用材として切り出されていて、福田地区内の字大木で大谷石に似た荒粒の凝灰岩が切り出され、「福田石」として販売されていたが、昭和46年あたりまで採掘されていたという。
 筆者もこれまでに
何度も森林公園に行き、その都度「福田岩石切り場跡」の看板は見ていたが、その都度通り過ごしてしまい、一度も実見しなかったのが、今更ながら残念でたまらない。次回には必ず見に行きたい場所の一つにカウントされた。

 もう一点は
「福田鉱泉」。今では福田小学校から北側にある「福田鉱泉前」バス停留場の名前でしかその存在を確認することが出来ない鉱泉名だが、滑川町で刊行された「滑川町ふるさと散歩道」では以下の記載がある。

「この湯泉の由来は古く、今から約1200年前の大同2年(807年)この地に住んだ蓮海という僧が傷を負った鹿が平癒していく姿からこの湯の効用を発見し、里人に教えたと伝えられる。また、近くの岩窟より現れた薬師如来のご出現の尊きを拝し、寺を造営し「徳水山蓮花寺」と号し、近くには湯前権現を祭ったと言われる。この湯の効用も広く知れ渡り、寺も栄え平穏な時代が続いたが、やがて室町期のうち続く戦乱の世となり、鎌倉への往来激しく、戦禍に巻き込まれた。百姓、僧も立ち去り、 寺も大破されたと文献に記されている。久しく荒れ果てたこの地に住んだのは、天正一八年 (一五九〇年) 豊臣秀吉の小田原攻めの際に、後北条方に属し落城した鉢形城 (現寄居町) ゆかりの武士であったと伝えられる。その後、湯屋小屋も再興されて、その効用は近年まで人々の知るところであり、その恩恵に浴してきた訳である。栄枯盛衰は世の常とはいえ、この地にも幾多の歴史が刻まれたことも見逃せない事実である」

 福田地区
の近郊「伊古」地区には比企郡で唯一延喜内式社として神明帳に記載された古社である「伊古乃速御玉比売神社」が比企総社として鎮座している。社の由来として、蘇我氏の末裔がこの地を開いた際に創建したとの言い伝えがあり、古くは二ノ宮山の山頂付近に鎮座し、山自体が信仰の対象だった可能性も高いという事から、山岳信仰の一種ともいえる。
 福田鉱泉の発見者は「この地に住んだ蓮海という僧」となっているが、修験道が発見したとの伝承もあり、前述の「蓮海」という僧も、想像を逞しくすれば、蘇我氏末裔で修験者ではなかったかと推測したりもしたが、現時点ではそれ以上の真相は不明だ。
 
         社の南側にある
「ふれあい農園谷津の里」(写真左・右)


拍手[0回]


中尾雷電神社

比企丘陵地域における沼づくりは、古くは古墳時代に始まったと考えられ、616(推古天皇24)年の築造とされる日本最古の「狭山池(大阪狭山市)」で採用された大陸渡来の土木技術「敷葉(しきば)工法」が近隣の遺跡でも確認されていることなどから、当地の沼も狭山池とほぼ時を同じくして造られはじめた可能性が高いと言われている。
 古社の集成としての『延喜式神名帳』(延長5年(927年))内に、当時官に知られた全国の天神地祗総計3,132社が記載されている。その中に埼玉県内に関係ある古社は33座あり、その中の1社が当地域にある「伊古乃速御玉比売神社」となっている。
 この神社には雨乞いの儀式があり、谷津沼と神事を結びつける行事となっている。日照りの続く年は、二ノ宮山上で雨乞いを行い、雨乞いの時は、村人が当社に集まり、生きた「やまかがし」を入れた長さ5mあまりの藁蛇を作る。この蛇は、笛や太鼓の囃子で送り出され、伊古堰と新沼に入り揉まれ、次いで二ノ宮山頂に登り、山頂の松の御神木に縛りつけられ、蛇は天に昇って竜となり雨を降らせると言い伝えられているという。
 当地域には、雨乞いの儀式を執り行う「大雷」「雷電」と名の付く神社が多数あり、古いものでは1,000年前に創立されていて、谷津沼と共に発展し、栄えた当地域の独自の文化が多数現存している。中尾雷電神社もその伝統文化が存在する1社である。
  所在地   比企郡滑川町中尾293
  御祭神   別雷命
  社 挌   旧村社
  例 祭   例大祭1015日、春祭り315日、秋祭り1215
        
 中尾雷電神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、滑川町役場(北)交差点前の信号を右折、埼玉県道173号ときがわ熊谷線をときがわ町方向に進む。滑川に架かる橋を越えて、最初の交差点を左折し、暫く道なりに進み、5番目のT字路を右折。道幅の狭い道路ながらもそのまま進むと右側の斜面上に中尾雷電神社の鳥居が見えてくる。
 因みに参拝の際には事前にナビにて住所登録してから運転するが、今回住所を打ち込んでもなかなかたどり着けなくて困り、ナビ画面上で偶々映し出された雷電神社の表示を頼りになんとかたどり着けた。ナビは便利だが、ある程度自分でも行先は事前確認し、その上でナビを運用しなければいけないとつくづく感じた。
 神社周辺に適当な駐車場はなく、路上駐車にて急ぎ参拝を行った。
        
        丘陵地の斜面上に鎮座する社。自分としては意外と好きなアングル
        
      両部鳥居の朱の塗料が剥がれかけている所が、逆に歴史の深さを感じる。
 
 鳥居に掲げられている「雷電宮」の社号標      階段を上がる先に見えてくる拝殿
        
                     拝  殿
                
                     境内案内板
境内掲示による中尾雷電神社の由緒
・雷電神社 滑川町大字中尾
 ・祭神 別雷命
 ・由緒
 当社は応永九壬午(西暦一四○二)年、此の地方が大旱魃に襲われ作物が枯死寸前にあった時、里民挙って山城国加茂大神に雨を祈ったところ程なく豪雨があり郷民の苦難が救われたので里民その神徳の顕著であったことを尊崇し、加茂大神の神霊を当地に奉祀し雷電神社と称し鎮守の神として崇拝した。
 明治六年村社の格に列す。
 昭和四十一年二十六号台風のため社殿が全壊したので氏子関係者の協力によって翌四十二年十月現社殿を再建した。
 特殊神事として「雨乞祭」があり御神木の桧の頂上に旗を立てて祈念すれば必験ありと云う
 ・祭事
 新年祭 一月一日   春祭 三月十五日
 例大祭 十月十五日  秋祭 十二月十五日
                     
                              滑川町観光協会・滑川町教育委員会
        
「埼玉の神社」による中尾雷電神社の由緒
 雷電神社<滑川町中尾二九三(中尾字居山)>
 中尾は、水房村の枝郷の一つで、滑川町の西端に位置し、その西側は嵐山町に接する。当社は、この中尾の鎮守として奉斎されてきた社で『風土記稿』中尾村の項にも「村の鎮守」としてその名が見える。『明細帳』は、当社の由緒を次のように伝えている。応永九年(一四〇二)、この地方が大干ばつに見舞われて農作物が枯死寸前にあった時、里人こぞって山城国(現京都府)加茂大神に雨を祈ったところ、程なく豪雨があり、里人の苦難が救われたので、里人はその神徳の顕著であったことを尊崇し、加茂大神の神霊を当地に奉祀して雷電神社と称え、鎮守として崇拝した。その後も、干ばつの時には降雨を祈れば霊験の広大なること必ずであったという。中尾に限らず、この地域では地内に多くの溜池があることからわかるように、天水場であり、降雨を祈願する人々の切実な気持ちが由緒の上からも推察される。
 明治四十一年九月二十二日、政府の合祀政策に従い、字広瀬無格社三島神社、字清水無格社愛宕神社、字天俵無格社天神社、字谷無格社稲荷神社の四社を当社本殿に合祀した。しかし、これは書類上の合祀にとどまっており、三島神社・天神社・稲荷神社の三社では、現在もなお個々に祭日を定め、各々地元の組の人々によって祭事が行われている。また、当社の社殿は、昭和四十一年、台風二六号により全壊したが、氏子一同の協力によって翌四十二年十月に再建された。

 埼玉県は他県に比べて溜池(ためいけ、農業用水の水源)の総数は少ないというが、県の中央部から北部にかけての比企郡、大里郡、児玉郡に局所的に集中して、小規模な溜池が数多く分布している。なかでも比企郡は傑出しており、約600箇所もの溜池が存在し、これは埼玉県全体の約80%に相当する。
 滑川町は東西約
5㎞、南北約7㎞と南北に細長く、面積約29.7㎢で北武蔵丘陵の北端に位置しているが、町中に約200ものため池があり、この数は埼玉県の市町村では最も多く、埼玉県全体の1/4に相当するという。というのも滑川町は第三紀の地質からなる丘陵である比企丘陵地域に位置し、樹枝状の細かい谷で開析され、 大河川からの取水が困難なことが小規模なため池の多い理由であるという。
        
 比企丘陵の北側には大きな河川が存在していなく、そのようなこの地域においても先人たちは、米作りを行うべく努力を重ね、知恵を出してきた。中山間地域に位置づけられるこの地で作られたのが、山と山の間をせき止め、米作り用の水を確保する場所すなわち「谷津沼」と呼ばれている「ため池」で、丘陵地の谷津(やつ)と呼ばれる地形を活かして造られた沼は、今日までずっと、地域の暮らしを支えてきた伝統文化でもある。
 地域の方々の努力は「比企丘陵農業遺産推進協議会」などのホームページ等で理解しているつもりだが、自分自身も大切に守って頂きたいと思うと同時に、何かお手伝いできることがないかと散策中ふと感じた次第である。


拍手[0回]


        
  • 1
  • 2
  • 3