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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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野上下郷石上神社

 石上神社は奈良県天理市に鎮座する石上神宮を総本社にする神社で、御祭神は布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ)で、社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による豊葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において当天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、武甕槌神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻遅命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
 日本最古の神社の一つで物部氏の総氏神でありながら、この石上神宮は物部氏系統の神を祭神とせず、神剣・布都御魂を祀っていることは筆者にとって不思議なことである。またこの石上神宮は百済国王から送られた七支刀を収蔵していること、また古来天皇家は刀剣などを奉納したとされ、この社は膨大な武器を保管する武器庫の役目をはたしていたという。
 物部氏は当初は単に祭祀を任されただけにすぎなかった一族のようであったが、時代が進むにつれ古代ヤマト政権の中にあって武門の棟梁と呼ばれるほど強力な軍事氏族に変身していった。
 長瀞町野上下郷地域にも石上神社は存在する。この社の由緒は不明だが、嘗て日本全国にその名を轟かせた古代物部氏と長瀞地区に何か関連性があるのだろうか。
所在地    埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷3282
御祭神    布都御魂神
社  挌    旧村社
例  祭    3月15日、10月15日
       
野上下郷石上神社は国道140号線を長瀞町方向に進み、中野上交差点を右折し、群馬・埼玉県道13号前橋長瀞線に入り、1.2km程で諏訪沢と呼ばれる荒川支流を渡ってすぐV時の逆Y字路を折り返すように右折すると、約400mほどで左側に鎮座している。社殿が3社並んで鎮座していて、中央に石上神社、左右に境内社光玉稲荷神社、同じく八坂神社が鎮座している。社殿の東側には広い空間があり、その正面に向かって右側には社務所がある。その広い空間の一角に車を停めて参拝を行った。
           
                         野上下郷石上神社正面
 野上下郷石上神社が鎮座する野上地区は秩父鉄道野上駅を中心にして集落が広がっている。この地域は荒川の河岸段丘の平坦の面が比較的広範囲に広がっている。同じ野上下郷地域でも前回紹介した諏訪神社が鎮座する地域は野上駅の北側にあり、同鉄道でひとつ前の駅である樋口駅周辺にはその平坦な空間が少なく、自然に社も狭い段丘面に石垣を組み、土台を補強し造らざるをえない地形であったこととあまりに対照的で、山を四方に囲まれた秩父盆地特有の地形であると改めて知った。
           

             拝   殿                           本   殿
 ところで野上地区の字「犬塚」には寄居鉢形城の軍用犬伝説が伝わっている。

 犬塚と犬の念仏;秩父・長瀞地区
 長瀞町野上下郷では400年以上にもわたり「犬の念仏供養」が行われていて、これには次のような軍用犬にまつわる伝説がある。
 戦国時代末期、秀吉の小田原攻めの際、北条氏康四男の氏邦は今の寄居市の荒川懸崖にあった居城の鉢形城に籠城して秀吉軍勢と最後の抗戦していた。出城との連絡に八匹の軍用犬を使っていたが、鉢形城が落城したため彼らに餌をくれる者がいなくなっても八匹の軍用犬は主人を探して走り続けた。しかし四匹は体力が衰えてしまい、渇きを潤すために沢の水を飲もうとして淵に落ち、力が尽きて溺死した。これを哀れんで地元の人が彼らを懇ろに埋葬し、彼らを弔う念仏講を作ったと謂われている。

 
    石上神社社殿左側にある光玉稲荷神社                 本殿内部

     石上神社社殿右側にある八坂神社                  八坂神社拝殿

       社殿の前方左側にある神楽殿         石上神社と八坂神社の間で奥にある境内社

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野上下郷諏訪神社

 板碑は、五輪塔(ごりんとう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)とともに中世に盛んに作られた供養塔であり、石板卒塔婆ともいう。本来、塔とは五重塔・三重塔などの仏塔のことだが、その後、エジプト新王朝時に、ピラミッドの代わりに盛んに造られたオベリスクのような形の先端のとがった細長い建築物のことも塔と呼ばれるようになった。この板碑は鎌倉時代は地方豪族や僧侶によって立てられたが、南北朝・室町時代には庶民層による造立も盛んになったという。
 この板碑は北海道から九州まで日本全国に分布しているが、特に中世の関東地方で多く作られた。関東地方には4万基を数えるとされているが、その中にあって埼玉県には現在2万基以上の板碑が確認されていて、これは質・量ともに全国一といわれている。分類上「武蔵型板碑」とも言われ、原料の石材は荒川上流の長瀞や槻川流域の小川町下里などから産出される緑泥片岩と呼ばれる青色を帯びている石を加工して造っているため青石塔婆とも呼ばれていている。
 寄居から国道140号線沿いにある樋口駅手前200mに国指定史跡「野上下郷板石塔婆」がある。台上高約5,37m・幅約1m・厚さ13㎝のこの塔婆は現存する青石板塔婆としては日本一の大きさであり、1928年(昭和3年)国指定史跡に指定された。
 この野上下郷板石塔婆のある道を北上すると、山の斜面上に野上下郷諏訪神社は静かに鎮座している。
所在地    埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷467
御祭神    建御名方神
社  挌    旧村社
例  祭    例大祭 3月17日

        
 野上下郷諏訪神社は国道140号を長瀞町方向に進み、「国指定史跡 野上下郷板石塔婆」と表示された看板の先のT字路を右折する。するとすぐ右側に野上下郷板石塔婆が見える。この板碑は高さ約5mの日本最大の板碑であり、地下の板の長さを加えると約7m余りの長さではないかと言われている。この野上下郷石塔婆の前の道を北に向かい、直進して長瀞小坂団地を過ぎたら右に曲がると左側にこの社の参道が見えてくる。
           
           
 傾斜地に鎮座している為であろうが、長瀞地方の豊富な石材をふんだんに使用して土台として石垣状にしているのが良く解る。また谷積みと言われる石材を斜めに使った石積み方法で積み上げているようだ。
            
 古くは諏訪大明神、仲山城のふもとにある。南北朝時代、仲山城を築いた阿仁和基保が、自ら帰依する信州の諏訪大明神を勧請したのが起源といわれる。後の鉢形城主北条氏邦も崇敬した。

    社殿前にある石段の左側にある手水舎             手水舎の奥にある案内板

 諏訪神社   所在地 秩父郡長瀞町大字野上下郷

 諏訪神社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)で、正和元年(1312年)、阿仁和兵助橘基保が仲山城を築き当地を支配した時、基保が常に厚い信仰をささげていた信州一之宮の諏訪大明神の分霊を勧請して、ここに祀ったのが始まりと伝えられる。
 基保が没してから後、鉢形城主北条氏邦は当社を厚く崇敬し、
拝殿や神楽殿を造営、神域を拡張して当地方の総鎮守としたが、北条氏の滅亡とともに社殿の修理等も行われないまま衰微した。
 その後、弘化元年(1844年)に、西光寺法印が広く浄財を募り、社殿を再建し、現在に至っている。
 昭和五十八年三月  埼玉県
                                                                案内板より引用
            
                                拝    殿
 野上下郷諏訪神社の
拝殿の彫刻は見事なもので、時間を忘れて見入ってしまった。この拝殿の彫刻に関しての詳細な記録は現在調べても解らない。残念。
            
              拝殿向背部の見事な彫刻。社殿の再建時は色彩も見事であったろう。

 若干色彩が残っている場所もあるが、その全体像までは解らない。この彫刻は拝殿側面部にまで施されている。野上下郷地区という正直閑散とした地にこの素晴らしい社が存在すること自体、驚きという以外ない。


                 拝殿の脇障子にも細かく多彩な彫刻が施されている。

 境内社が社殿の周りに鎮座している。ほとんど詳細不明。

   社殿の右側奥にある石祠、詳細不明。         社殿の左側にある境内社、こちらも不明。

    社殿左側に境内社と共にある恵比寿様             恵比寿様と並んである社日  


 長瀞町野上地区は、荒川左岸の狭い河岸段丘上に集落が点在している。ところでこの荒川の対岸である右岸地区は岩田、金尾地区であり、金尾地区は金上无の手により和銅(にぎあかがね)を発見した秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であるし、更にまた金尾地域の荒川を隔てて東側には末野遺跡という古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた窯跡が発掘されている。この末野遺跡には須恵器生産に関連する窯跡群の他、須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残している。野上地区はその金属製造地帯に内包した地域といえる。
 またこの地域周辺には、金ケ嶽(かながだけ)、金石(かねいし)、金崎(かなさき)、金尾(かなお)など鉱石に関する地名が存在する。

 長瀞町に鎮座する宝登山神社の「ホト」は火床(ホド)、つまり溶鉱炉であり、タタラ師や鍛冶師の一大集団がその周辺に存在していた一つの証拠であろう。そしてその集団は朝鮮半島から渡来した技術者集団である可能性が高いと思われるが如何なものだろうか。

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岩田白鳥神社

 秩父一帯に勢力を拡大していた武蔵七党のひとつ丹党の一族に白鳥氏があった。丹経房の弟行房が白鳥に館を構えて白鳥七郎と名乗ったのが始まりである。『七党系図』では行房の子白鳥七郎二郎基政の孫にあたる政家が白鳥四郎を名乗ったともいう。白鳥氏の嫡流はその後岩田氏に代わり、以後の白鳥氏は傍流として存続する。この白鳥氏や岩田氏は同族の藤矢渕氏や井戸氏らと長瀞一帯を領有していたという。
所在地    埼玉県秩父郡長瀞町岩田1881
御祭神    菅原道真公・日本武尊・埴山姫命
社  挌    旧村社
例  祭    2月25日 例大祭

        
 岩田白鳥神社は荒川の右岸、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を長瀞方向に進み、岩田地区の山の西麓の道路沿いに鎮座している。地形的にみると長瀞地区は荒川が真北方向に流れていて岩田地区は荒川が屈曲する先端地にあり、南に秩父の平野を睥睨することができる要害の地にある為、社の南側には室町時代から戦国時代には天神山城が存在していた。
 その関係でこの岩田白鳥神社は荒川に対して直角方向に向いていて、丁度西向きの社殿となっている。
 県道を挟んで反対側に集会所らしき建物があり、そこに若干のスペースがあったので、そこに車を停めて参拝を行った。
           

    道路沿いで鳥居の右側にある案内板             白鳥神社と書かれている扁額

白鳥神社    所在地 秩父郡長瀞町大字岩田
 白鳥神社の祭神は、菅原道真公、日本武尊、埴山姫命で、例大祭は毎年二月二十五日である。
 神社の起源は、元慶年中(八七七~八八五)に岩田(白鳥)武信が勧請し、白鳥天神宮と称し祀ったのが始まりといわれ、後の北条氏邦はこの白鳥大明神を厚く崇敬していたので近くにある根古屋城を天神山城に改めたと伝えられている。
 その後、明治三年に白鳥天神宮は、天満天神社となり、さらに明治九年七月八日に白鳥神社と改称した。この時村社に列挌され、明治四十年五月八日、丹生大神社、思金神社、八幡神社を合祀して現在に至っている。
 また、社地は、始め椿の森と称されていたが、宝永二年(一七〇五年)の冬から毎年伐採され、同六年の春にはすべて伐採されて、跡地には杉苗が値付けた。現在する一部の老杉は、当時の物であるといわれている。
 昭和五十七年三月     長瀞町
                                                             案内板より引用
             
                             拝    殿
 白鳥神社の南方部には、室町時代から戦国期に築造された天神山城が山道を通じて存在していた。この天神山城は、戦国時代(天文年間1532-55)、土豪の藤田重利の築城という。本来は後北条家に対抗していた関東管領上杉氏の重臣で、最盛期には、上杉家四家老の一と呼ばれている。榛沢、幡羅、男衾の三郡を領していて、天神山城も対後北条家対策の本拠地的な城であった。
 後に藤田氏は後北条氏に降伏し、北条氏邦をここに迎え、氏邦は「秩父新太郎」と名乗った。この北条氏邦は岩田白鳥神社への崇敬が厚く、それまで「根古屋城」といったこの城を「天神山城」と改名して武運長久を祈ったと伝えられる。この天神山城は筆頭家老・岩田義幸が城を守ったが、永禄三年(
1560)鉢形城に移転し、天正十八年(1590)小田原の役で落城したとされる。

 藤田氏は「藤田系城郭」という独特の築城方式に長けた一族であり、現在でも城郭研究者の間では有名な「埋もれた名城」で、花園城や花園御嶽城、岩田天神山城等の標高200m程度の山に大規模な堀切や、横堀と土塁の組み合わせを巧みに利用した山城を多数築城した。
           
                              拝殿内部
           
                               神楽殿

 
社殿の右側に境内社、稲荷社とその左側に石神       社殿と神楽殿の間にある2柱の石神

 社殿の両側にある石神(磐座)は社殿が勧請される前からの地主神だったのだろうか。石神信仰は岩石に宿る霊を表現していて、縄文以来の自然の物に神様が宿るというアニミズム的な信仰がこの地にもあった証ではなかろうか。


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宝登山神社

 宝登山神社が鎮座する長瀞町は埼玉県秩父郡にある人口約8千人の町である。長瀞渓谷をはじめとする数々の観光名所を有し、「秩父の赤壁」「関東の耶馬溪」という別名を持つ。また長瀞町の総面積は30.40平方キロメートルあるが、そのうち約60%が山林で占められている。また、四方を宝登山、不動山、陣見山、大平山、釜伏山といった山々に囲まれ、これらの山を源とする沢は、それぞれ荒川に流入している。
 長瀞町は町の全域が、県立長瀞玉淀自然公園区域に指定されており、特に上長瀞から高砂橋に至る荒川の両岸は、名勝及び天然記念物保存区域として指定されている。なかでも岩石段丘、いわゆる『岩畳』の広がる長瀞渓谷は、地質の宝庫として貴重な天然資源を誇っている。
 宝登山神社は秩父神社、三峰神社とともに秩父三大神社に数えられている。その起源は日本武尊[やまとたけるのみこと] が東征の際、宝登山中で猛火に包まれた時、どこからか現れた山犬によって危機を救われたという伝説からきている。この宝登山神社は宝登山の東麓に祭られており社殿は江戸建築を伝える銅板葺き権現造りという。

所在地
   埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828
 
主祭神   神日本磐余彦尊
        
大山祗神
                
火産霊神
創  建
   
伝・景行天皇41年(111年)
社  格
   旧
県社・別表神社
例  祭       
4月 3日(例大祭)
                 5
月 2日(奥社祭)
                 8月15日(船玉祭)
主な神事
   お炊き上げ祭(毎月7日)

       
 
  標高497mの宝登山の山麓に建つ神社。日本武尊が東国平定の折に山に登る途中、山火事に囲まれ、多くの巨犬が現れて火を消したことから、山頂に神武天皇、大山祇神、火産霊神を祀ったのが始まりと伝えられている。古くは火止(ほど)山と言われていたが、後に宝登山と改称された。境内には日本武尊が身を清めたと伝えられる「玉の泉」がある。

 秩父神社、三峰神社とともに秩父三社の一つに数えられ、災難除や商売繁盛を願う参拝者で賑わう。
「宝の山に登る」という縁起のよさから、年間に100万人の参拝者が訪れるという。
 
     国道140号線の交差点にある一の大鳥居                  二の鳥居
        ちなみに神社側から撮影 
 
  二の鳥居の手前左側にある宝登山神社略記              階段手前にある趣ある手水舎

寶登山神社畧記
御祭神
 大山祇神:山を掌り山の幸を恵み給う
 神日本磐余彦尊:我が国を肇め給いし神武天皇
 火産霊神:火を掌り火の幸を恵み給う
御由緒
 第12代景行天皇の皇子日本武尊が東国地方を平定し、御凱旋の閉じ、寶登山山頂で御産柱の神をお祀り申し上げたのを以って、創始となす。
登山に先立ち、尊が心身を清めた「玉の泉」は今なお御本社玉垣内に残る。登嶺の途中、山火事に遇われた時、神使いの巨犬が火を消し止め、尊を頂上まで導いた。此の為古くは「火止山」と称し、後に「寶登山」と改称す。この巨犬は、大口真神(御眷属)で、火防盗賊除・諸難除の霊験あらたかである。
御例祭
 4月3日 献幣使参向・神楽奉奏・奉祝煙火等1年1度の最高の厳儀                                                                                                                                                              (現地案内板説明文より)

                        
                                                                神楽殿
 
この神楽殿には「神人和楽」という額が掲げられている。
 これは、「神楽」の本来の意義が神を招いてなぐさめるために舞楽を奏すことを言うことで、言い換えれば「神楽」とは神と人とが共に享楽することによって神の力を得る神事で、神座に神を招き神の力を招き鎮めることによって、生命力を高めようとするものが「神楽」であるということを表した言葉、それが「神人和楽」という言葉なのだそうだ。


                        
                                                            拝   殿
  宝登山神社は宝登山の東麓に祭られており社殿は江戸建築を伝える銅板葺き権現造りという。
  現在の本殿・幣殿・拝殿は、明治初頭に作り替えられたが、平成22年宝登山神社御鎮座千九百年記念事業の一つとして社殿改修・祈祷殿神札所新築工事が竣工 された。権現造りの社殿の欄間に施された龍などの彫刻が見もので、昨年の改修で真新しくなっておりその美しさに目を奪われてしまう。

 
特に拝殿の向拝部分は、柱や虹梁などが白に塗られ、極彩色の彫刻がに施されている。秩父三社の三峯神社を思わせる色使いである。。
 向拝の柱には5匹の龍が飾られ、正面には青龍・白龍など中国神話の四神が彫られている。拝殿側面にも中国儒教の教えにある二十四孝の彫刻が飾られている。
                         
                                                               本  殿
 宝登山神社の拝殿が極彩色の彫刻が施され、神仏習合の様式を色濃く反映していて拝殿全体が煌びやかな装いに対して、本殿は全体的に控えめながら細部に装飾を散り ばめている。拝殿を見たあとに本殿を見ると、そのギャップに少し驚きを感じるが、そこに日本人独特の美意識を感じる。

                   
                       神楽殿の隣にある水神社と隣接してある招魂社
   
     招魂社の隣にある藤谷淵神社                                      日本武尊神社
    
                      天満天神社                                天満天神社の先にある小さい橋を渡ると
                                                                                宝玉稲荷神社がある
 宝登山神社御由緒物語(パンフレットより)
  今からおよそ1900年ほど前、第12代景行天皇の御代のこと、日本武尊とその軍勢が東国地方平定の折、宝登山に登って神霊を拝したというおはなしです。日本武尊が兵を従えて宝登山の麓へと進んで行くと、森の中に岩に囲まれた清らかな泉がありましたので、尊も兵もこの泉で「みそぎ」をして、身を清めました。一隊頂上へ向かって登り始めました。が、しばらくすると辺りの様子がおかしい事に気がつきました。そのうちに黒い煙がどっと吹き寄せました。山火事ら、ご自分も剣を抜いて草をはらい、枝を切って猛火と戦いました。けれども火の勢いは強くなるばかり。一隊は火の渦に巻き込まれて脱出することが出来ません。尊の命も危うくなりました。その時、突然現れたたくさんの白い影、黒い影。影は風を切って、次々に猛火の中に飛び込んで行きます。影のように見えたのは、大きな白犬、黒犬です。犬たちは、荒れ狂う炎の中で火を消し止めようと大活躍です。そのすさまじさ、ものすごさ、火の勢いは見る見る衰えていきました。すっかり火が消えました。犬たちの見事な働きに尊も兵も我を忘れて感嘆していますと、犬たちは二頭、三頭また五頭と尊の前に集まって、静かに歩き始めました。さあどうぞ、頂上へご案内いたしましょうというように。頂上へ着くと、いつの間にか犬の姿はどこにも見えません。影のように現れた犬たちは影のように消えていました。「おお、やはりあのたちは"山の神のお使い"に違いない。本当にありがとうございました。」日本武尊は神様に対し、心より御礼を申し上げました。頂上からは悠久の天地が、広大・荘厳に眺められました。日本武尊はこの山を「火止山(ほどやま)」と名づけられ、"神をお祀りするのにふさわしい、立派なお山"とされ、「神籬(ひもろぎ)」(御神霊をお迎えするための憑り代)をお立てになり、神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)・大山祇神(おおやまづみのかみ)・火産霊神(ほむすびのかみ)の三社をお祀りになりました。これが宝登山神社の御鎮座の起源であり始まりです。その後「火止山」は霊場として栄え、弘仁年中に「宝珠の玉が光り輝きながら山上に飛翔する」という神変が起こり、山の名と神社の名はこの吉祥事により「宝登山」に改められて今に至りました。

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