古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

久々宇稲荷神社

本庄市の地名」によると、本庄市久々宇地域は、北に利根川が東西に流れ、東側から南側が仁手地域、非市側は田中地域に接していて、利根川支流である烏川の氾濫原に位置している。
 因みに「久々宇」と書いて「くぐう」と読む。これも難解地名の一つに挙げられる。
 久々宇の地名は歴史が古く、戦国時代頃より名前が見える。「地名と歴史」には、忍城主成田氏の家臣団を記録した「成田家分限帳」に、久々宇の地名が見えるとある。地名の由来として「地名と歴史」では、ククヒ(くぐい・鵠)からきたもので、それは白い白鳥の古い呼び方という。
 北側を利根川が流れることから、昔は白鳥が沢山渡来した土地で、そこからついた地名かもしれない、との事だ。
 江戸時代後期に書かれた『新編武蔵風土記稿』によれば、戸数が68戸で、用水は小山川から引き入れたという。村鎮守社は当稲荷社と記載されている。
        
              
・所在地 埼玉県本庄市久々宇172
              
・ご祭神 字迦之御魂命
              
・社 格 旧久々字村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 43日 例祭 113日 新嘗祭 1210
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2507151,139.2013579,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線を本庄市街地方向に進行し、「東台5丁目」交差点を右折、850m程進んだ十字路手前の右側に久々宇稲荷神社は鎮座している。
 周辺には専用駐車場、社務所、自治会館等はないので、社のすぐ北側にある「円融寺」の駐車スペースを利用し、急ぎ参拝を行う。
        
                  
久々宇稲荷神社正面
 鎮座地の久々字は、元来は上野国(現群馬県)に属していたと云われ、那波一族の流れを汲むという。久々宇氏の在所であり、天正10年(1582)の「成田分限帳」に「久々宇大和元昌」、「久々宇八弥」の名が記録されている。しかし、度重なる河川の氾濫に悩まされ寛永年間(1624~44)に烏川変流により武蔵国に属することになった。
        
               道路沿いに掲げてある古い案内板
 稲荷神社  所在地 本庄市大字
久々宇一七二番地
 祭神 
字迦之御魂命 外二柱
 当社、創立の時代はあきらかでないが、当所開拓のころから、村人たちの信仰あつく、祭神はまたの名を保食神(うけもちのかみ)といって、五穀の祖神といわれているので、開拓者の守護神として、まことにふさわしい社である。
 本社は徳川時代の建物であったが、その後幾度も改築され、明治五年に村社になった。
 昭和六十一年三月  埼玉県 本庄市
                                      案内板より引用
        
                           朱が基調である一の鳥居
 
    一の鳥居のすぐ先にある石製の二の鳥居    南方向に参道が伸びるが、途中で右側に折れ       
                          曲がり社殿に至る配置となっている。
       
                                       拝 殿

 拝殿の左側には御嶽山大神社等の石碑が鎮座      拝殿手前で右側に設置されている案内板

 稲荷神社御由緒  本庄市久々宇一七二
  ▢縁起
 鎮座地の久々字は、元来は上野国(現群馬県)に属していたが、烏川の変流によって寛永年問(一六二四~四四)から武蔵国に所属するようになった。この辺りは、中世には群馬県伊勢崎市を本拠にする那波一族の流れを汲む久々宇氏の在所であり、天正十年(一五八二)の『成田氏分限帳』にも「久々宇大和元昌」「久々宇八弥」の名が見えるが、度重なる利根川や烏川の氾濫で地形さえも変わっているためか同氏に関する旧跡や伝説など残っていない。
 このように、河川の氾濫に悩まされてきた土地柄であったためか、当社の創建にかかわるような資料は現存せず、口碑なども伝わっていない。しかし、祭神が五穀の祖神とされる字迦之御魂命であり、『風土記稿』久々字村の項にも「稲荷社 村の鎮守、村持」と記されているように、古くから村の鎮守として村民が大切に祀ってきたことなどから考えると、村の開発を行った草分けの人々が、村の発展を願って勧請したことに始まるものと推測される。
 明治五年には村社となり、同四十年には政府の合祀政策に従って字榎下の無格社皇太神社及びその境内社の琴平神社、字諏訪下の無格社諏訪神社及びその境内社の不二山神社と天神社、字諏訪下の浅間社の六社を合祀した。なお、これらの諸社の跡地は、今では畑となっており、神社のあった痕跡は見られない。(以下略)
                                      案内版より引用 
       
             社殿右側奥に屹立するご神木(写真左・右)
 社殿の右側は幾多の境内社・石祠・石碑が並んで祀られている。不思議とその境内社・石祠群は、南北に通る道路に対して背を向けるように配置されて祀られている。
 
   左側から琴平神社・水神社・皇太神宮           諏訪神社・八坂神社・天手長男神社
 
    天手長男神社の右隣にある社は不明        天神社・白山神社・不明
        
                       一番右側には「稲荷神社由来」の石碑がある。
 稲荷神社由来
 当村は元来、上野国に属していたと云われ、那波一族の流れを汲む、久々字氏の在所であり、天正十年(一五八二)の「成田分限帳」に「久々宇大和元昌」、「久々宇八弥」の名が記録されている。しかし、度重なる河川の氾濫に悩まされ寛永年間(一六二四~四四)に烏川変流により武蔵国に属することになったと云う。この様な状況から当社の創建年代は明らかではないが、祭神が「五穀の祖神」とされる「宇迦之御魂 」であり、古くから村の開拓を行った人々が五穀豊穣と村の発展を願って建立し、大切に祀ってきたと推測される。
 明治五年村社となり同四十年合祀令により字榎下の皇大神宮と琴平神社、字諏訪下の諏訪神社、不二山神社、浅間神社、天神社の合祀した。又、その他の諸社もその時に合祀したと推測される。
 又、現在の社殿の建立年代は資料がないので不明であるが平成七年(一九九五)に改修した。大幟は平成二年に再調、平成十七年水道の設置、同二十二年に天手長男大神の幟を再調した。
 今年(
平成二十四年氏子の賛同を得て大幟竿のアルミポールに改修し、併せて浅間神社、鳥居、末社上屋の修復、諏訪神社、皇大神宮、水神社、琴平神社を新調し先人の徳に感謝し今後の村の発展と平安を願うものである。(以下略)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄の地名」「境内案内板・石碑文」等

 

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深谷富士浅間神社

 深谷城は埼玉県深谷市にあった平城(ひらじろ)で、山内上杉氏支流の深谷上杉氏(庁鼻和(こばなわ)氏)の居城である。山内上杉家の上杉憲顕の六男である上杉憲英が庁鼻和上杉を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。
 第4代当主の上杉房憲は康正2年(1456)、享徳の乱が起こって古河公方足利成氏との軍事対立が激化すると、庁鼻和城(同市)西方の唐沢川近くに新たに深谷城を築城して居城を移した。これにより庁鼻和城は廃城となり、城跡に深谷上杉氏の菩提寺の国済寺が建立された。1552年(天文21)、北条氏の上野侵攻により、関東管領上杉憲政が居城の平井城(群馬県藤岡市)を捨てて、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃亡すると、深谷上杉氏は北条氏に降伏・臣従したが、謙信が関東に侵攻すると、謙信に与して北条氏に敵対。上杉氏の力が弱まると再び北条氏に臣従し、鉢形城(大里郡寄居町)の北条氏邦の城代として引き続き深谷城を居城とした。しかし、1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)で、城主の上杉氏憲は小田原城(神奈川県小田原市)に籠城したが、城と領地を奪われて深谷上杉氏は滅亡した。この戦いの後、深谷城は関東に入部した徳川氏のものとなり、松平康直が1万石で入城。その後、松平忠輝、松平忠重が居城としたのち、1622年(元和8)には酒井忠勝が同じく1万石で入封したが、1624年(寛永1)に忍藩5万石(忍城、同県行田市)に移封になったことに伴って、深谷城は廃城となった。
 現在嘗ての城域のほとんどが市街地になっているため、遺構はほとんど残っておらず、深谷上杉氏の祈願社だった富士浅間神社(別名・智形神社)の社殿をめぐる池と水路などに、僅かに当時の姿をとどめるのみである。また城跡の一角が城址公園となっており、石垣や城壁などの模擬構造物がつくられているが、これらはかつての深谷城を復元したものではない。
 因みにこの城は城域の形が木瓜の花、あるいは木瓜の実の断面に似ていたことから、木瓜(ぼけ)城とも呼ばれる。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市本住町16
              ・ご祭神 木花開耶姫命 瓊瓊杵尊
              ・社 格 享保6・宗源宣旨「正一位智形大明神」 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 221日 例祭 113日 新嘗祭 123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1994444,139.2870901,18z?hl=ja&entry=ttu
 深谷城址公園のすぐ東側で、南北に流れる唐澤川左岸に鎮座する。地図を確認すると稲荷町末広稲荷神社の北側近郊にある。創建は不詳だが、社記に「当社は、康正二年(1456)深谷城築造以前から当所の氏神として祀られ、智形大明神と称えていた。下って、深谷城上杉氏時代には城の鎮守となり、以後、代々の城主に崇敬され、寛永年間(16241644)酒井讃岐守城主の時、社殿を再建した」とある。
 社の周囲には前出の城址公園を始め、深谷図書館・市民文化会館・保健センター・生涯学習センター等が立ち並び、深谷市の開発が進んだ地域の一つでもあるが、社周辺にはそれらの建物群と一線を画すが如き静かな空間が境内に広がっていて、神社を囲む深谷城の外濠跡が歴史の深さを無言で語っているようでもある。
        
                                    深谷富士淺間神社正面
 
 社号標には「富士浅間神社」であるが、明治以前には智形神社とよばれ、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、永享12年(1440)勧請と伝えられている。また社号標の右側には「深谷市指定文化財 深谷城外濠跡」と表記された標柱が立つ(写真左)。鳥居の手前にある趣ある神橋(同右)。神橋の下には水路があり、この場所も外濠跡という。
        
                 鳥居の右側に立つ案内板
 富士浅間神社
 この社の祭神は木花開耶姫命、瓊瓊杵尊で、社宝は宗源宣旨と宗源祝詞である。
 明治以前には智形神社とよばれ、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、永享十二年(一四四〇年)勧請と伝えられている。江戸時代、寛永年間深谷城主酒井讃岐守が再興した。
深谷城は、上杉房憲が康正二年(一四五六年)古河公方との戦いに備えて築城したもので、天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の関東攻略により落城した。江戸時代には、松平、酒井氏が居城したが、寛永十一年(一六三四年)廃城となった。この城は低湿地に取り巻かれた平城で、社をめぐる池と水路は深谷城外濠の名残りをとどめている。
 昭和五十九年三月 深谷上杉顕彰会
                                      案内板より引用

        
                                 富士浅間神社正面鳥居
 深谷城主である深谷上杉氏の祈願社として、第4代当主の上杉房憲が古河公方足利成氏との軍事対立の中、康正2年(1456)築城してから豊臣秀吉によって落城される天正18年(1590)の間、134年間も深谷上杉氏の居城として活躍した歴史ある社。
 
    鳥居の日だ衛川に祀られている        琴平神社の並びに祀られている
       琴平神社の石碑               境内社・稲荷神社
        
                      境内社・稲荷神社の先にある「加藤省吾顕彰碑」
      童謡「みかんの花咲く丘」誕生地であり、立派な石碑には歌詞が刻まれている。
 加藤省吾(かとうしょうご 1914730日―200051)は静岡県富士市出身の作詞家。大正37月生年。深谷へ疎開中であった昭和21年(1946年)8月に「みかんの花咲く丘」を作詞した。なんでも加藤のご両親の出身地がこの深谷市本住で、疎開中に故郷静岡の情景に思いをはせながら作詞したという。
 この他に加藤省吾の主な作品には、「かわいい魚屋さん」「やさしい和尚さん」などの童謡をはじめ、「怪傑ハリマオ」「笛吹童子」「おらあ三太だ」などの主題歌、さらには深谷市立深谷小学校校歌、同校愛唱歌などがあり、そのジャンルは多岐にわたり、日本大衆音楽協会理事長も務めた

             参道途中にある一対の狛犬(写真左・右)
        
                   「加藤省吾顕彰碑」の奥に鎮座する境内社・厳島辨財天

   境内社・厳島辨財天の手前にも深谷城の外濠跡らしき遺構が見られる(写真左・右)
 今は時期的に水路に水は湛えていないが、それが却ってこの遺構の趣を深めているようだ。
        
       規模は決して大きくはないのだが、市街地の開発に無縁な空間が広がっている。
 何度もいうが、この境内のすぐ左手には深谷市民文化会館・コミュニティーセンター・保健センター等の建物が軒を並べて建てられている場所である。不思議な静けさが漂う空間。
 
 参道を更に進んでいくと、左側に石祠群が祀られている(写真左)。一番左にあるのが境内社・三峰神社であるが、それ以外は詳細は不明。その先にも境内社・琴平神社が鎮座する(同右)。
        
                     拝 殿
『大里郡神社誌 富士浅間神社』
 神社の所在地
 舊榛澤郡深谷宿字智形にして古來變遷なし
 當神社は創立年月不詳と雖も往古上杉氏在城の頃の鎭守にして寛永年間酒井讃岐守城主たりしとき再興すと言傳ふ當社は中世の頃より智形神社と稱し天兒屋根命を祀りしものと言傳へしも誤りなることを發見し明治十三年九月十三日祭神を木花開耶姫命社號を富士淺間神社と改む
 神社名稱
 智形大明神又は單に智形様と奉唱せしも明治十三年九月十三日富士淺間神社と改稱す
        
                    *境内東側から見た拝殿・幣殿・本殿の様子
 ところで、この深谷富士浅間神社に加え、境内に祀られている稲荷神社・三峰神社・厳島辨財天・琴平神社、これらは社の案内板に記されている「深谷城内鎮守5社」なのであろうか。
        
                            拝殿から見た境内の一風景
 

 深谷富士浅間神社の外周には深谷城の堀の一部と思われる「外濠跡」がある(写真左・右)。深谷城は、唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城で、城の周囲は堀で複雑に囲まれていたと考えられるが、当時の景観はほとんど見ることはできない。富士浅間神社(智形神社)の社殿を巡る池と水路に往時の姿をとどめるのみである。
深谷市指定文化財史跡 【指定年月日】 昭和33113
           【変更年月日】 平成3113
            (記号番号変更)   平成1811


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「深谷市HP」「Wikipedia
    「日本の城がわかる事典」等
 

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普済寺菅原神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市普済寺919
              
・御祭神 菅原道真公
              
・社 格 旧普済寺村鎮守・旧村社
              
・例祭等 不明
              *参拝日 2022年7月28日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2079569,139.2484789,16z?hl=ja&entry=ttu
 岡部神社から直線距離にして500m程北側に普済寺菅原神社は鎮座している。但し真っ直ぐ進む道はないので、一旦岡部神社の正面鳥居に戻り、国道17号線から本庄方向に進み、すぐ先の「普済寺」交差点を右折、埼玉県道352号中瀬普済寺線に合流し、300m程進行した先の十字路を右折すると、周囲一面長閑な田畑風景が広がる中、正面やや斜め左手方向に普済寺菅原神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
 因みにその十字路を左折すると埼玉県指定史跡である「岡部六弥太忠澄墓」がある。
        
                                普済寺菅原神社の長い参道。
『新編武蔵風土記稿』における普済寺村の村域は、東西八町余(880m程)、南北二十八丁許(3,030m程)で南北に長い村であり、この地域の国道北面までは櫛挽台地上に位置し、標高は岡地域の旧町役場付近で58.5m17号国道沿いでも50mなのだが、そこから北側は福川右岸の沖積低地面に属するため、38mと一段低い場所に鎮座している。但しこの地域は古くから人が定住していたようで、縄文時代中期の遺跡である普済寺の菅原遺跡は嘗て大集落を営んだ形跡がみられていた。
 今でこそ集落から離れているが、嘗て境内付近は集落の中心であったと云われ、神社の南は「元屋敷(武蔵風土記稿では本屋敷と記載)」と呼ばれていたそうだ。
        
                  普済寺菅原神社正面
『日本歴史地名大系 』による「普済寺村」の解説では、「普西寺とも記す。櫛挽台地から利根川沖積低地への漸移地帯に位置し、東は岡部村。風土記稿にはもと岡部村に含まれ、のち分村した時に曹洞宗普済寺の寺号を村名としたとある。村の中央を中山道が通り、風張(ふつぱり)には立場が設けられていた(嘉永五年「本庄宿明細帳」安中宿本陣文書)。普済寺は寺伝によると建久二年(一一九一)に岡部六弥太忠澄が栄朝を招請して創建、忠澄の法号(普済寺殿道海大禅定門)を寺名にしたとされる」と記載されている。
        
                       鳥居の左側にある
「狛犬奉納記念碑」
「狛犬奉納記念碑」
 敬神崇祖は我が国本来の大道なり。世は平成の御世となり先に天皇陛下御即位御大典平成五年皇太子殿下の御結婚と皇室の御発展弥栄の極であります。この度岡部町大字普済寺に鎮座する菅原、愛宕両神社の大前に皇太子殿下、雅子様の御婚礼の御盛儀と平成五年十月五日第六十一回伊勢神宮式年遷宮の御慶事を記念して狛犬を奉納し遍く普済寺の発展と氏子中の弥栄を祈りここに狛犬の奉納を寄贈せる氏子の御芳名を列記して後世に伝えんとす(以下略)
                                     記念碑文より引用
 
           二の鳥居までにも長い参道が続く(写真左・右)。
   緑豊かな社叢林が参道の両側に広がり、「静謐」という表現が合う様な静かな社
        
                           色鮮やかな朱を基調とした二の鳥居
 
二の鳥居近郊にある「菅原神社再建奉納記念碑」 記念碑の先にある赤い屋根が特徴的な手水舎
菅原神社再建奉納記念碑」
 深谷市普済寺に古くから学問の神様、地域住民の鎮守として崇敬されてきた菅原神社は、永く氏子の信仰の拠りどころである。當社は、元来當地の総鎮守にして、往時は天満宮又は天神社と称し、元和年間(1620年頃)には神領があるとの記録がある。平成十七年八月十八日夜、不審火により當社の本殿・幣殿・拝殿が全焼となり焼失され、洵に悲痛の思いながらも、此度氏子中協議の上社殿を再建し、平成十八年三月三十一日社殿竣工奉祝祭が厳粛のうちに斎行された。茲に概要を記し、又社殿再建並びに境内整備費を寄贈される氏子及び関係各位の御芳名を石碑に刻し、後世に伝う(以下略)
                                     記念碑文より引用

        
                     拝 殿
大里郡神社誌 菅原神社』
 祭神 菅原道真公
 由緒 當神社創立年代不詳と雖も元來當地の總鎭守にして往時は天満宮又は天神社と稱し元和年間には神領あり且奉仕者等もありて地方著名の神社たり其故は元和五年八月の水帳に天神免神主分等の名稱ありて其當時田畑五反五畝十七歩の社領ありしこと明瞭なり又當時境内に清泉湧出して社の以東数ヶ村の用水の起源たるを以て水利關係の数ヶ村より毎年幣帛料を奉納して特に崇敬せり
 明治五年九月村社申立濟
 
          本 殿                     本殿奥にある末社石碑・石祠群
 石祠群等は、左から二番目が諏訪社、右端の石碑は石尊大権現・大天狗・小天狗。他は不明。
 
 普済寺菅原神社の右手には水路が流れ(写真左)、その先には境内社・厳島神社が鎮座する(同右)。調べてみると、水路ではなく、「弁天池」という湧水池で、これより東部数ヶ村の水田を潤す水源として使い、『大里郡神社誌』では、毎年村々から幣帛料(へいはくりょう)が奉納されたそうだ。
        
          境内社・厳島神社手前にある「厳島神社改修建設記念碑」
厳島神社改修建設記念碑」
 古より、水の神を祀る社として伝え継がれ、さらには、女性の守り神弁天様と崇められ、永く氏子の信仰の拠り所として普済寺地域住人に守り継がれてきた。
この度、由緒ある「イツクシマヒメノミコト」を崇めようとする社殿の改修建設事業は極めて意義深いものがあり、郷土の弥栄と子々孫々の繁栄を念じ奉賛氏子のご芳名を記し後世に伝える。
                                     記念碑文より引用

       
             拝殿の手前に聳え立つご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「Wikipedia」
    「境内記念碑文」等


      




 


 

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上柴町諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市上柴町東118
             
・ご祭神 建御名方命 御穂須々美命
             
・社 格 旧柴埼村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 327日 例祭 1017日 新嘗祭 1127
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1845429,139.3034566,19z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道47号深谷東松山線を「航空自衛隊熊谷基地」から2㎞程西行すると、「アリオ深谷店」が見える交差点があるので、そこを右折し、350m程進むと、進行方向右側に上柴町諏訪神社が見えてくる。
 
専用駐車場はないようなので、斜向かいにあるコンビニエンスで買い物をした後に、暫し駐車させて頂き、急ぎ参拝を開始する。
        
                  
上柴町諏訪神社正面 
『日本歴史地名大系』 「柴崎村」の解説
  [現在地名]深谷市上柴町西・上柴町東・幡羅町
 櫛挽台地の北東縁に位置し、東は東方村、西は榛沢郡上野台村、北は国済寺村。深谷庄深谷領に所属(新編武蔵風土記稿)。深谷上杉氏家臣の柴崎淡路介が慶長(一五九六―一六一五)前に開発し(同書)、村名も開発者の名に由来するという。


 現在の上柴地域は、深谷市東部、JR高崎線の南沿いに位置し、昭和47年度(1972)~昭和63年度(1988)の深谷都市計画事業上柴土地区画整理事業によりニュータウンとして造成され、それまでの長閑な農村風景は一新され、急速に都市開発が進んだ
 この地域には人口は1万9千人強、中心部には、上柴中央公園と上柴中学校、深谷赤十字病院をはじめ医療機関のほか、大型ショッピングセンターを中心とした商業施設も多く、文教福祉と産業経済がそろった、深谷市の中でも開発が盛んな地域の一つでもある
        
                               鳥居の左手にある案内板
 諏訪神社 深谷市上柴(柴崎字北中郷)
 祭神 建御名方命 御穂須々美命
 当社は、村の開発者である柴崎淡路介(深谷城主上杉氏の家臣)の一族が、文禄元年(一五九二)ごろに創建した月笑院の氏神として祀った。以後柴崎の鎮守として、字の人々の信仰を集めた。
 柴崎の地名は、室町時代の中ごろ(十四世紀後半)武州幡羅郡西庁鼻和柴前と文書にあり、ここは庁鼻和(国済寺)の西方にあたり柴前が柴崎と変りその後、上柴町と変り、道路なども整備され現在に至る。当社の近くにどんな日照りでも水が涸れなかったという古井戸や、深谷城の飲料水として城に運ばれた御用水運搬道(通称「御道」)などが消えたのは寂しいことである。
現在、春季小祭(三月二十七日)、秋季大祭(十月十七日)、秋季小祭(十一月二十七日)が行われている。
 深谷市上杉顕彰会平成十七年七月(第四十一号)
                                      案内板より引用

        
                    境内の様子
『新編武蔵風土記稿 柴埼村条』
「当村は上杉の家人柴崎淡路介と云もの開発せしと云、此人は今村民武平次の先祖にて、慶長元年二月十六日卒すといへば、さまでの古村にはあらざるべし(中略)御打入の後は松平孫三郎信吉法名宗心知行す」
『武蔵志』
「松平山月笑院は松平孫三郎宗真と云人草創す。当村は宗真の臣柴崎淡路介・同杢之助、草開き故と云ふ」
 
    参道を進むと左側にある手水舎     手水舎の右隣にある「社殿新築記念之碑」
       
           手水舎、記念碑の右隣に聳え立つご神木(写真ひだり・右)
        
                     拝 殿
 村の西北に鎭座せられ、境内五百十一坪社地の變遷なし、
 當社創立の沿革を詳かにせずと雖も新編武藏風土記稿に諏訪社。村の鎭守にして月笑院持とあり、月笑院は禪宗臨濟派国濟寺村国濟寺末寺、松平山と號し、御打入後松平孫三郎此地を領するに及びて文禄元年十一月、月笑祖光を開山と爲して開基せらると云ふ、又此地古く、深谷領に屬し、上杉氏の家臣柴崎淡路介の開發にかゝると云ふ、
 淡路介は村民武平次の先祖にして、慶長元年二月十六日卒と、文化の官撰に見えたれば、夙く是等の一族繁衍して祀れる神社にはあらざるか、氏子區域内に居住せる氏姓、概ね柴埼を稱へり、又深谷城との関係は古く、神社の付近に穴の口徑丈餘に及べる古井戸穿ちありて、當時深谷城の飲料水に供せられしと傳ひられ、今仝所字北中鄕八百十三番地より字西原六百二十六番地に至る巾四間長三百餘間深谷町に通ずる道路ありて、里稱御道と称し、御用水運搬道路の遺址あり、
                                 『大里郡神社誌』より引用
 嘗てこの社は幕末までは諏訪大明神」と称していた。明治7年5月に村社の申し立てを行い、明治43年には、神饌幣帛料供進神社に指定された。昭和六十年に拝殿を再建。以後、平成初頭にかけて、手水舎や新社務所、美しい玉垣などが、次々に新築された。
        
                     本 殿
『大里郡神社誌』には、1017日の例祭で舞い踊る「獅子舞」に関しても、細かく記載されている。この獅子舞は、昭和25年頃まで氏子による獅子舞が行なわれたという。
獅子舞は、まず行事の始めに神降しの儀があり、当時の神職家(柴崎家)を出発して、寺や村の名士の家を巡り、境内に入って社前で夜半まで続いてのち、獅子頭神昇げの儀で納めとなる。
獅子舞は、雄獅子・女獅子・法眼の三頭によるもので、獅子頭に「元文三年(1738)戊午年 柴崎加兵衛」と彫むものもある。曲目には、御幣掛り・女獅子ガクシ・橋掛り・雨掛りなどがあった。獅子舞に付随して「棒づかひ」の行事も行なわれた。

*大里郡神社誌 原文
 當社の祭體に當り尤も重き行事を獅子舞とす男獅子女獅子法眼の參頭各二組ありて古きを隱居と稱ひ作者傳來詳かならざねども新頭には元文三戌午年柴埼加兵衛と彫む獅子舞に附随して行はるゝ太刀打の行事あり大小二組にして小太刀は七八歳位の児童大太刀は十七八歳位の青年を選び各々子内に生れたる長男を以て充つるの定めにして里稱ササラ子、太刀子又は棒ヅカヒなど稱へり奉仕者は凡て齊戒を怠らず行事の始め獅子頭に神降しの儀ありてすり出しを、ぶつ揃ひと稱ひ神職家の庭前に參集し途中行列の道樂を街道下り又はヌリ込みなどいへり神社の廣前には御幣掛女獅子ガクシ橋掛雨乞掛など行はれ其他寺堂村役人の庭上にも行はる、歌に切唄ほめ唄の二種あり何れも里謡の一種にして唄樣は謡曲の節に似て頗る古風の音調なり獅子舞は祭日の夜半を告げ之を千秋樂といふ獅子頭神昇げの儀、奉仕者の「胴上げ」(胴上げとは大衆掛聲勇ましく三度奉仕者の體を捧げ持つ儀なり)りて年番の引繼など古式の作法ありて一同退散す獅子舞は洵に當社祭典の骨子にして信仰と餘興とを兼ねたる貴重の行事として行はる
 
  本殿の右側奥にある庚申塔・大黒天等の石碑     社殿右側に祀られている石祠群・詳細不明。
        
                   境内の一風景

『大里郡神社誌 諏訪神社条』には気になる記載があり、「氏子内の習俗」の項で、それによると、由来は詳らかではないが、氏子内一般に、正月に門松を立てない習俗があるという。
これは熊谷市妻沼聖天院(聖天様)がその昔、太田の呑龍様との喧嘩中、松の葉で右目を松葉で突かれ、それからは松が嫌いになり、ゆえに妻沼十二郷の人たちは松を忌んでいて、正月に門松を立てることはないという話を彷彿させる習俗である。この深谷市上柴地域は、決して妻沼に近くはないが、かといって遠すぎる距離でもない。何か関連性があるのだろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「楡山神社HP」
    「深谷市自治連合会 上柴支会HP」「境内案内板」等

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原郷愛宕神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市原郷2031
              
・ご祭神 火産霊神
              
・社 格 旧原ノ郷村木之本鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 415日(*大里郡神社誌には43日)              
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1943039,139.3012449,18z?hl=ja&entry=ttu
 旧郷社・熊野大神社一の鳥居が立つ場所から旧中山道を西方向に750m程進むと、進行方向右側に原郷愛宕神社が見えてくる。社の西側隣で道を挟み「幡羅中学校」があり、「ヤオコー深谷国済寺店」が斜め向かい側にあるので、経路としては分かりやすい場所といえる。
        
                            旧中山道から正面鳥居を撮影
 深谷市・原郷地域は、嘗て「原之郷」とも称した。この地域は櫛挽台地北端、北流する唐沢川右岸に位置し、東は東方村、西は西島村、北は明戸村。村の南端を中山道が通り、北部を丈方川(福川)が流れる。深谷領に所属(風土記稿)。「和名抄」にみえる幡羅(はら)郡幡羅郷の遺称地とされ、幡羅郡衙の所在地とする説もある。
 別符系図(静岡県別符潔氏蔵)は藤原道宗が堀河院の時代に初めて東国に下向して幡羅太郎と称したと記し、道宗は成田助高(成田氏の祖)の父で、助高は成田大夫と称したとしている。地内に幡羅太郎館跡があり、平安末から鎌倉期にかけて当地一帯を幡羅氏が支配したといわれている。
『新編武蔵風土記稿 原ノ鄕条』
「當村は郡名幡羅の本鄕にて、【和名鈔】鄕名の部に載たる幡羅なり、【同書】郡の部に幡羅を訓して原と記せり、此唱へによりて中古文字をも原と書せしは郡中村々に藏する水帳、原郷と記せしにても知べし」

 
      正面にある鳥居と社号標柱      社叢林に囲まれている中、開放感もある境内
        
                     拝 殿
 愛宕神社
 楡山神社の摂社であり、同一の氏子によって護持されてゐる。旧中山道に面し、江戸時代までは八町八反の広大な社叢をもち、火防などの信仰がある。
 例祭は4月15日。
 鎮座地の小字 木之本は、大字原郷東部の台地地帯である。この台地の北辺には、西は楡山神社付近から東隣の大字東方(ひがしがた)一帯にかけて市内最大の古墳群である木之本古墳群が分布してゐる。その中心地域が木之本であり、今も比較的古墳の保存状態が良い地域である。古墳の古語の城()から「きのもと」の地名となったといふ人もあるが、明治末の氏子区域図によっても、この地は愛宕林のほか、民家を包むように広大な樹林が広がる地域であり、木の豊かな里であったと言へる。  愛宕林と呼ばれた八町八反の社叢は、明治以後は、上地-裁判-敗訴-買戻-資金返済のための開墾-一部に兵器工場の設置-農地解放-一部に新制中学校設立-新興宅地化といふ経緯をたどった。
                                   「楡山神社HP」より引用
*現在は楡山神社の総代・奉賛会が原郷愛宕神社の運営を兼ねているという。
       
             拝殿の左右にある社号標柱(写真左・右)
 拝殿右側の社号標柱に「火之神」とあるように、この社は火防の神として信仰されていて、ご祭神は「火産霊命(ほむすびのみこと)」が祀られている。この地区は、「木ノ本」と呼ばれているが、江戸時代まで「愛宕林」と呼ばれていて、当社の広大な社叢があったことに由来しているという。
『大里郡神社誌 愛宕神社』にも、その境内の規模に関して以下の記載がある。
幡羅郡原ノ鄕村字木の本に鎭座し給ふ創立年代詳かならざれども一に仝所字八日市に鎭座せる大鎭守延喜式楡山神社の攝社に座坐し小鎭守として奉祀せるものなりと云傳ふ、元祿十一年寅十一月村方書上帳に愛宕宮一ヶ所氏子持除地林六町とありて往古は境域廣大なりしとおもはる」
        
                     本 殿
       
         社殿右側にひときわ目立つクスノキの巨木(写真左・右)
          巨木と書いたが、ご神木といっても良いくらいの威容。
    特に根元部が異様に張り出し、社殿を囲っている垣根に亀裂が走っている(写真左)。
 大いなる自然の力の前には、如何に現代の技術によって発展した我々人類も敵うわけはないのだ。
 
   境内右手にある社務所らしき建物      境内東側に祀られているお地蔵様
 
 旧中山道沿いで鳥居の近郊にある「芭蕉句碑」    正面鳥居の左側に祀られている石祠
                              詳細不明
        
                              旧中山道からの風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」大里郡神社誌」「楡山神社HP」等

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