忍者ブログ

古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


下里八宮神社

 古代の日本では、「八」は聖数とされ、また、漠然と数が大きいことを示すのにも使用されたという。同様に、八を用いた八十(やそ)、百八十(ももやそ)、八百万(やおよろず)等も「数が大きい」という意味で用いられていた。
 
日本では古くから、天の神様、地の神様、山の神様、海の神様、水の神様、果ては、台所の神様(竈の神)、手洗いの神様(厠神・かわやがみ)まで、あらゆるところに神様がいると考えられてきた。神道でいう「八百万の神」と言われる古くからの民俗信仰は今の我々日本人の根底にも色濃く根付いている基本的な考え方だ。八百万の神は、古事記にも記述がある表現だそうで、日本書紀などにも八十神や八十万神が登場する。
 
このように「八」という漢数字は末広がりで縁起が良い数字として喜ばれ、八百万は限りなく無限に近い多くの数を表す例えとして用いられてきたようだ。
所在地   埼玉県比企郡小川町下里990
御祭神   高龗神・伊豆能賣神・墨江三筒神・海見三柱神
社 格    旧村社
例 祭   7月中旬 下里ささら獅子舞
          
 下里八宮神社は小川八宮神社から国道254号線を東側方向に進み、「道の駅 おがわ」を通り過ぎて約1㎞程先の信号のあるT字路を右折する。程なく槻川に架かる柳町橋を渡り、そのすぐ先で道路沿い右側に下里八宮神社は鎮座している。丁度進行方向右側の路肩には駐車スペースが豊富に確保されており、そのスペースに車を停めて参拝を行う。
        
               道路沿いに鎮座する下里八宮神社
  槻川沿いの地、仙元山(298m)の麓に下里全体の鎮守として祀られている。社伝によると、当社は初め村の東方に当たる志賀村との境に祀られていたが、清和天皇の貞観十年(868年)に現在の地に遷座した。その後、近村七ヶ所に分霊したことから、八宮神社の総社と称せられたという。
「新編武蔵風土記稿」比企郡の項には、他に小川村・下横田村・能増村・越畑村・中爪村・杉山村・広野村・志賀村の各村に八宮神社あるいは八宮社が見える。

 八宮神社の総社と言われる下里の社。参道一帯の雰囲気(写真左、右)も一種荘厳さを醸し出している。

        
                    二の鳥居
     
        二の鳥居を過ぎ、石段を登り切り、社殿前左側にある杉の御神木(写真左、右側)
       
                   拝    殿
  下里地区の伝統行事として「下里のささら獅子舞」が行われている。この下里地域の獅子舞の歴史は古く、かんばつや疫病を追い払うため、享保年間(171636年)に始められたと伝えられている。わらじかけの獅子三頭、伴奏のササラ、笛、万灯等、40~50人が楽を奏でながら八宮神社(毎年)、大聖寺と八坂神社(隔年交代)で舞いを奉納するもので、毎年7月中旬の夏祭りに行われる。

           
                             本      殿

 話は変わるが下里地区を含む比企地帯には「尻焙り(けつあぶり)」と言われる伝説が存在する。平安時代初期、坂上田村麻呂が東北地方の賊を征討するため軍勢を引き連れ関東地方に来た際に、「岩殿山(現東松山市)に龍が住んでいて、悪いことばかりして困っている。」という話を聞き、その悪龍を退治した後、周辺の村人たちはたいへん喜び、お饅頭を作って食べ、踊ったりした。それにちなんで、比企地方では6月1日に庭先で麦わらを燃やし、背中をあぶりながらお饅頭やおにぎりを食べる「ケツあぶり」という行事が行われていたという。

 この「下里」という地名は六月一日に大雪となり、大霜が降りたので「霜里」と呼ばれ、後世それが「下里」になったという由来だそうだ。由来は成否はともかくとして、社伝にいう貞観十年以前からこの地域に社があったといい、また坂上田村麻呂伝説の由来時期の古さといい、かなりの歴史的淵源の古さを物語る社といえそうだ。


 拝殿正面上部に飾られた日露戦争の戦勝記念額  本殿裏には分霊した七社の神璽を納めた祠が設置。
 
 下里八宮神社は周辺地域の八宮神社の総社であり、各地域に分祀したといわれているが、御祭神である高龗神・伊豆能賣神・墨江三筒神(住吉三神)・海見三柱神(宗像三女神)が他の社ではほとんど祀られていない。どういうことだろうか。

      社殿左側にある天神社        天神社の並びには稲荷社。奥には三峰社と八坂社あり。          
 
 ところで下里地区の南方向小字割谷には「下里割谷板碑石材採石遺跡」と言われる鎌倉時代から戦国時代にかけて関東に広く流通した武蔵型板碑の製作遺跡が存在する。採掘から一次加工までの工程が行われていたことが確認され、武蔵国だけでも5万基にも及ぶ緑泥石片岩(りょくでいせきへんがん)製の板碑が存在するが、その中心的な製作地と考えられている。ちなみに埼玉県内はそのうち2万基以上の板碑が確認されているそうで、これは質・量ともに全国一といわれている。

           

 緑泥石片岩は緑泥石を主成分とする結晶片岩の一種で、暗緑色でつやがあり、加工が容易で、岩石は片理に沿って板状に割れやすい特徴があり、その為板碑に利用された。秩父郡の長瀞地域の岩畳は有名だが、この小川町下里割谷地域も長瀞地域に勝るとも劣らない一大産地だったようだ。
 この下里・青山板碑製作遺跡は平成26年10月6日に国指定史跡に指定された。


 



 

拍手[3回]

PR

小川八宮神社


埼玉県比企郡小川町は、埼玉県の中央部よりやや西側で、秩父地方外縁部に位置する。面積は60.36m²程で、比企郡西部の中核をなす町である。町の北東部は川越児玉往還に沿っている東松山台地を挟んで比企北丘陵の西端がかすめる。人口は30,667人(平成2711月時点)
 
古代から近世にかけての小川町域は主として武蔵国比企郡に属し、一部の地域は男衾郡に属していた。江戸から川越を抜けて秩父に向かう往還が町を東西に抜けており、古くはその地理的な優位性から六斎市が立つなど地域の商業中心であった。また周囲を緑豊かな外秩父の山に囲まれた小川盆地に市街地が形成され、市街地の中央部には清流で知られる槻川が流れる。その歴史を秘めて佇む史跡や往時の面影を留める町並みなど、その風情から「武蔵の小京都」とも呼ばれ、伝統工芸の和紙で知られている。
所在地   埼玉県比企郡小川町小川990‐1
ご祭神   天忍日命等8柱
社  格   旧村社
例  祭   不明

           
 小川八宮神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線を小川町方向に進み、国道254号線と交わる小川小学校交差点を左折する。槻川支流の兜川沿いに300mほど進むと、「町指定文化財 八宮神社本殿」の標識が見えるので、そこのT字路をまた左折する。左折すると正面に小川八宮神社の鳥居が見えてくる。
       
               小川八宮神社 正面一の鳥居
       
              一の鳥居のすぐ右側にある案内板

 八宮神社         所在地 比企郡小川町大字小川
 旧小川村の総鎮守で、天忍日命ほか七柱を祭神としていることからこの名前がある。創建は不明だが、『新編武蔵風土記稿』に「元和三年(一六一七)再建の棟札あり」とあることから、それ以前と思われる。かつては小川赤十字病院のある日向山あたりにあったが、享保二年(一七一七)この地に移転したと伝えられている。
 現在の本殿は妻切葺屋根の重厚な作りで、熊谷市妻沼聖天院の棟梁の系譜を引く林兵庫正尊を棟梁として天保四年(一八三三)四月に再建された。本殿三面と破風には龍・唐獅子などを配した中国風俗の彫刻が施され、作者は上州花輪(群馬県)の石原常八である。現在本殿は、町の文化財に指定されている。
 また境内には、青麻大神社や諏訪神社などの末社がある。
 小川町
                                                          案内板より引用
 案内板によれば、小川八宮神社の祭神は、忍日命ほか七柱、つまり「五男三女神の八柱の神」と伝えられている。しかし八柱の神については諸説があり、『風土記稿』では「国狭槌尊・豊酙尊・泥土煮尊・沙槌煮尊・大戸道尊・面足尊・惶根尊」と記載され、『比企郡神社誌』では「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命・天之菩卑能命・活津日子根命・多紀理毘賣命・多岐津比賣命・天津日子根命・熊野久須毘命・市来嶋比賣命」とされている。
 おそらく案内板を記述した教育委員会はこのうち、『比企郡神社誌』の内容を採用したと思われるが、大体祭神が全く共通事項がなく、何故このように矛盾が発生してしまったのかは不明だ。
                          
   一の鳥居を過ぎるとすぐ右側に「芭蕉の句碑」の看板があるが、かなり色褪せてよく読めない。
芭蕉の句碑
 八宮神社境内、往時、椎の大木あり
 小川町大字小川九九一番地
 先堂能む椎の木も安里夏木立     者世越
出典  猿蓑
年代  元禄三年(一六九
年齢  四十七歳
(中略)

句の大意
 奥の細道などの長旅で辛苦をなめた末に、しばしの安住を求めて、この幻住庵に入ってみると、傍らの夏木立の中にひときわ高い椎の木もあり、当分身を寄せるに足り、まことに頼もしく、まずはほっとする心持である。     
                                                          案内板より引用

           
               案内板のすぐ下にある石に芭蕉の句が刻まれている。
                                      
                             拝     殿
 この八宮神社は小川町を中心に数社存在している(小川町四社、嵐山町四社、滑川町一社)。この狭い区域にのみ、しかも鎌倉街道に沿って集中的に分布している。美里町には北向神社、滑川町には淡州神社が似通った形態で分布しているが、何故このような狭い区域に同じ名称の社が限定的に分布しているか、実はハッキリとは解明されていない。
 ちなみに「八宮」と書いて「やみや」と読む。但し「新編武蔵風土記稿」では「やきう」と記述され、「やみや」と名前が変わったのは明治時代直後のようで、その名称変更の理由も不明だ。更に東松山市には「箭弓」稲荷神社が存在する。共に同じ「やきゅう」を頭に頂く社として何かしらの関連性があると思われるが真相はやはり闇の中だ。


    拝殿向背部にある緻密で精巧な彫り物                 そして社号額
           
           
           
           
            
           
埼玉県指定有形文化財・建造物 八宮神社社殿
所在地 小川町大字小川九九一一   平成二十四年三月十六日指定
 八宮神社社殿は、本殿と拝殿を幣殿でつないだ複合社殿です。本殿は棟札によると天保四年(1833)に建てられました。大棟梁は林兵庫正尊、彫物棟梁は石原常八主信で、妻沼歓喜院聖天堂を手掛けた大工や彫物師の系譜を引いています。埼玉県内に特徴的な精巧な彫刻をもつ寺社の中でも、年代を特定できる好例として貴重な建造物です。
                                                       境内案内板より引用

    社殿手前左側にある境内社 諏訪神社          諏訪神社の並びにある御嶽神社
           
                             青麻大神社
           
               青麻大神社内部の精巧な本殿。埼玉県指定有形文化財。
           
 
埼玉県指定有形文化財・建造物 青麻三光宮本殿
 所在地 小川町大字小川九九一‐一
 平成二十四年三月十六日指定
 八宮神社境内に末社として建つ青麻三光宮本殿は、棟札によると天保十三年(1842)に八宮神社本殿と同じく林兵庫正尊を棟梁として建てられました。八宮神社に比べ規模は小さいですが、本殿全体に施された彫刻は見劣りしません。
                                                           案内板より引用
 青麻神社の総本社は宮城県仙台市宮城野区に鎮座していて、嘗ては青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社などとも称している。東日本を中心に数多く鎮座し、御祭神は天照大御神・月読神・天之御中主神を三神で、平安末期、源平合戦の折、源義経の配下で四天王として有名を馳せた常陸坊海尊を併祀する。
 常陸坊海尊を併列して祀られているが、その由来として天和2年(1682年)、源義経の家臣であった常陸坊海尊(清悦仙人)であると称する老人が当地を訪れ、中風を治す霊験を顕したことによる。中風封じの御利益のある社としても有名だ。
 主祭神三神はそれぞれ日神・月神・星神であり、神仏習合の時期にはそれぞれ、大日如来・不動明王・虚空蔵菩薩と号していたらしい。


       社殿の左側奥にある大黒天           社殿の奥にも石祠があり。詳細不明。

拍手[0回]


高見四津山神社


四津山は標高197m、比高100mの小川町の北東部に聳える独立嶺である。この山は社としてよりも嘗ての高見城跡としての意味合いが強く、四津山の頂上に築かれ、北は荒川流域一帯、南は市野川筋を一望できる要害の地に位置する。山頂部全体を城郭化しており、南北約174m・東西54mに広がり、北から三ノ郭・ニノ郭・本丸が並ぶ。本丸は山稜最高部であり、現在は四津山神社が建っている。四津山の東側麓には市野川が流れ、、その川筋には「旧鎌倉街道上道」が走り、戦国時代、松山城と鉢形城の中間にあって街道を扼する要衝の役割を負っていたと推測される。
所在地   埼玉県比企郡小川町高見1125
御祭神   火之迦具土神
社  格   不明
例  祭   4月24日 春季例大祭

        
 埼玉県道184号本田小川線を小川町方向に進み、能増交差点手前1㎞程手前に四津山神社入口と刻まれた標石が建てられているので、そこから2km程西へ走って行くと、ふれあい四津山デイサービスセンターの先に四津山神社の入口がある。駐車スペースはないが、退避エリアの空間が入口近くにあるのでそこに駐車し参拝を開始する。
        
                 県道沿いにある四津山の入口
 四津山神社は火遇突智命を始め十七神を祭神として、御神体は勝軍地蔵とある。古来より火防の神とされて信仰厚く、信者は関八州に及ぶという。宝暦91759)に山麓の明王寺の住職、権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られていた寺の氏神である愛宕神社を、山頂に遷座して以来、重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて山に登り、神事を執行されてきたといい、明治に入り神仏分離により山麓の高見、能増の村社十一社を愛宕神社に合祀して、山の地名より四津山神社と改称したということだ。
            
             四津山東側の麓にある正面参道。ここから山頂の道程が意外と長く続く。
 
    鳥居の手前にある四津山神社再建記念碑                  一の鳥居
 鳥居を過ぎて暫く歩くと石段にかわり、そこには標識で「犬走り跡」と書かれていて、おそらく城跡の遺構が残っているのだろうが、そちらの散策をする余裕もないので、真っ直ぐ石段を上る。すると今度は右側に曲がるので、素直に道通りに歩く。時間はそれほどではないが、思っていたよりも結構きつい。

 曲がった先にあるやや広い空間。山頂の案内板で後になって知ったことだが、高見城跡の「腰郭」といわれた所。そこには不動明王(写真左)と大黒天(同右)の石碑がある。なにか一種異様な雰囲気。そのすぐ左手には四津山神社まで一挙に上る急勾配な石段が何十段とあり、愕然として気持ちが滅入る。石段を上るが途中2,3回と休み、登り切るとやっと山頂にたどり着く。四津山神社の入口から散策すること正味20分ぐらいだろうか。体力と気力との闘いの参拝だ。
        
                 山頂に鎮座する四津山神社
「比企郡神社誌」には四津山神社について以下の記述がある。
比企郡神社誌
御社名 四津山神社
御由緒 往古明王寺境内に有りしが宝暦九巳卯年三月二十四日山越に安座す、明治四十年四月三十日付大字小字竹の鼻 村社辺取神社。字山越無格社阿夫利神社。字四津山無格社疱瘡神社 字上の前無格社尺司社。字六所無格社六所社。字山越無格社渉問神社。字日丸無格社天津神社。字四津山無格社八雲神社。字無格社熊野神社。大字能増字八幡村社八幡神社。字町場無格社菅原神社を地名により四津山神社と改称す。 

            
県指定史跡 四ツ山城跡
 小川町大字高見字四ツ山一一二五ほか
 平成十五年三月十八日県指定
 四ツ山城跡は、周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域一帯、南は市野川流域を一望できる要害の地に築かれています。市野川筋にはいわゆる鎌倉街道上道が走り、戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあって、交通路を押さえる重要な役割を果たしていたと考えられます。
 城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本廓と北に連なる三つの主要な廓によって構成され、それぞれ土塁と堀切によって画されています。
 文明十二年(1480)の太田道灌書状写に「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころに城が整備された可能性があります。長享二年(1488)に山内・扇谷両上杉氏の対立により激戦が繰り広げられた高見山合戦は、この麓の高見・今市付近で行われたと考えられています。
 また、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」は、長享元年に没した増田四郎重富の居城と伝えています。「関八州古戦録」によると、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による関東平定の際に鉢形城主北条氏邦の家人が籠ったものの、戦わずして鉢形城へ逃げたといいます
                                         案内板より引用

         
                 拝殿上部に掲げてある「四津山神社」の社号額

 きつい登山道から解放され山頂に到着すると、やや広めな空間が広がる。天候は晴天とは言えなかったが、それでも山頂からの眺望は素晴らしく、しばし時間を忘れてしまった。


       
                  山頂から東側の奈良梨地区の丘陵地の稜線を撮影。

拍手[0回]


腰越氷川神社


槻川は埼玉県西部を流れる荒川水系の一級河川であり、都幾川最大の支流である。東秩父村白石地区の堂平山付近に源を発し、外秩父山地に平行して北流するが、坂本地区で支流の大内沢川を合流する辺りより、流れを東北東方向から東方向に向きを変える。
 
東秩父村安戸地域から小川町腰越地域に下る際に、一旦南に流路を変えそれから北東側へ曲流しながら小川盆地へ向かう。山の多い日本では河川は山の間を屈曲して流れ、支流、またその支流が複雑に入り組んでいる場合が多いが、この槻川も例外でなく、外秩父山地から東松山台地、比企丘陵方向に流れこみ、山の麓をすり抜けるように流れるように頻繁に屈曲を繰り返して流れている。
 この外秩父山地に囲まれた小川盆地の西端に位置する腰越地区の槻川西側内陸部に、腰越氷川神社はひっそりと鎮座している。
所在地   埼玉県比企郡小川町腰越1382
御祭神   建速素戔嗚命、奇稲田比売命、大那牟遅命
社  格   旧指定村社
例  祭   10月18日
       
 腰越氷川神社は埼玉県同11号熊谷小川秩父線を小川町方向に進み、東秩父村安戸宿交差点を小川町方向に進むこと約500m程で左手にコンビニがあり、そのすぐ先の交差点を左折する。丁度この位置は東方向に流れていた槻川が南方向に、そしてしばらくするとまた北東方向に急激に流路を変える場所にあり、また槻川支流の館川の合流地点でもある。この支流館川に沿って300mほど進むと右側に「指定村社 氷川神社」の社号標が見え、そこのT字路を右折し道なりに車を走らせると程なく正面に氷川神社の鳥居が見えてくる。
          
 
                   槻川支流の館川沿いの道路上にある社号標
          
                                                    一の鳥居

            
                              拝     殿
 社殿の左手には「天王山」と言われる嶮岨な岩山の切り立った崖が聳えている。現在の社殿は、昭和五十一年に岩山を削って再建されたもので、それまでは鳥居の正面に社殿があったらしいが、この社の立地条件やこの地域の歴史を考えると、はるか昔はこの岩山や山自体をを祀っていた社ではなかったろうか。近くには「腰越の立岩」と言われる岩山もあり、「日本の100岩場」とも言われていて、石灰岩で出来ているという。
 東秩父村白石地区を外秩父山系の峰々が取り囲んでいるが、その中の「笠山」、「堂平山」、「大霧山」は昔から「比企三山」と呼ばれていて、古くから信仰の対象の山だという。槻川支流の館川の上流部奥にある笠山(標高837m)は別名乳首山とも呼ばれ、東峰には笠山神社が鎮座している。その社の伝承では、111年に日本武尊が東夷征討の際、笠山に登り地形を賞嘆して、三大神(伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照皇太神)を奉祀したと伝える。その後、680年に大和国葛城の行者・役小角が三国伝来の白衣観音像を安置して国家安泰を祈念したといい、神道や仏教の信仰にも繋がる信仰の対象となる山であったと思われる。
 「新編武蔵風土記稿」には笠山について以下の記述がある。

新編武蔵風土記稿
比企郡巻之八   腰越村
笠山 村ノ西ニアリ。高サ五十町許ナル嶮岨ノ山ナリ。嶺ニ樹木生茂リテ笠ノ形ニ似タレハ名トセリ又乳ノ状ニ類スレハ乳首山トモ云、此絶頂ヲ當郡ト秩父郡白石村ノ界トシテ笠山權現ヲ鎮ス コハ白石村ノ鎮守ナレハ其村ニテ進退セリ。祠邊ヨリノ眺望最打開ケ東ノ方ハ筑波山ヲ望ミ、南ハ江戸ヲ越テ遠ク房總ノ山々ヲ見渡シ西ハ秩父カ嶺及ヒ浅間山連リ、北ハ日光山ヲ始トシテ上下野州山々見ユ(中略)


         拝殿に掲げてある社号額            社殿の右手、社務所の手前にある案内板

氷川神社         所在地 比企郡小川町大字腰越
 氷川神社の創立については不詳であるが、祭神には素盞鳴尊、奇稲田比賣命、大那牟遅命がまつられており、腰越の鎮守として「氷川様」と呼ばれている。
 古くは、神事として火渡りの行事や例祭十月十八日には、甘酒の振舞いも行われていたが今では途絶している。
 境内には、子授けや安産祈願にご利益があるといわれている産泰神社があり地元の信仰が厚い。
 昭和五十九年三月
                                                         案内板より引用

 比企郡神社誌によれば、腰越氷川神社の創建年代は詳かでないが、嘗て境内には、樹齢五百年を超える二股の大杉や、樹齢一千年を超える大欅があったらしく、創建は相当古いと思われる。大欅は周囲が9mもある立派なもので、現在の社務所当たりにあったが大正年間に立ち枯れてしまい、また二股の大杉も昭和24年のキティ台風で倒れてしまったという。この腰越氷川神社及びその周辺には中々侮れない歴史の古さを感じさせてくれる地域であることは間違いなさそうだ。
        
                      切り立った岩山の崖下にある本殿

社殿の左手にある鳥居 岩山を祀っていた場所か。    中には石祠が数基ある。



           
       垂直に切り立った岩山。 辺り一帯異様な雰囲気を醸し出している。

 笠山神社の由来に登場している役小角は飛鳥時代から奈良時代にかけて実在した呪術者である。姓は君、又は公とも。修験道の開祖とも言われていて、日本各地に多くの伝説を今も残す謎の人物である。
 役小角の出自である役君氏は、出雲大社で有名な御祭神である大国主の別名とされている大物主神の後裔(一説では子とも言われている)大田田根子を祖とする三輪氏族に属する地祇系氏族で、賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれていた。賀茂氏は分類すると二系統あるようで、一つは前出の大和葛城(奈良県御所氏)を本拠地とする賀茂君。もう一つは山城国葛野を本拠とした代々賀茂神社の奉齋した賀茂県主からの一派で、八咫烏に化身して神武天皇を導いた賀茂建角身命を始祖とするものたちにあたり、葛城氏と同類で神武天皇を大和に導いたという。
 山城国葛野の賀茂県主は、大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説がある(『山城国風土記』逸文より)。しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。また、『出雲風土記』では意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、また現在の島根県安来市には賀茂神社があり、祖神である一言主の同一神、言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もあり、役小角のみならず、賀茂氏にも多くの謎が存在する。日本古代史の謎を解く鍵を握る氏族ということは、古来から多くの方が指摘し解明を試みているが、未だもって定説に至っていないのが実状である。

         境内社  八坂神社             日枝、稲荷、稲荷、疱瘡四社
           
                  社殿の左側にある境内社 産泰神社

 笠山から南東方向数キロには古刹で有名な都機山慈光寺がある。院号は一乗院法華院。開山1,300年と歴史あるお寺で、「都幾山慈光寺実録」によると、白鳳2年(673)に僧・慈訓が千手観音堂を建て、観音霊場とし、役小角も西蔵坊を設けて修験の道場を開いたという。さらにその後、奈良の唐招提寺などで有名な鑑真和上の弟子の道忠(どうちゅう)という人物が来て、釈迦如来を安置して堂宇を整えたという。慈光寺はる関東天台を代表する古刹であり、鎌倉時代には源頼朝が奥州の藤原泰衡追討の際に戦勝祈願を行い、征圧成就を記念して当寺一山75坊の営膳料と田畑1200町を寄進したり、畠山重忠の名が刻まれた板碑の存在したように、当代随一の政治家や武将の信仰が篤く、東国仏教の中心地として最盛期には都幾山一帯に75堂塔伽藍を数える大寺院にまで発展した。慈光寺は山岳信仰の霊場でありつつ東国に仏教を広める拠点でもあったといえる。

           
                         拝殿の手前にある鐘楼

 慈光寺には有名な「火渡りの神事」が毎年盛大に行われているが、案内板によると腰越氷川神社にも同じ神事が存在していたといい、決して偶然ではあるまい。比企三山の一つである笠山の近郊に位置する社であり、嘗ての山岳信仰の名残りがこの地域にはどことなく感じる、そんな感慨にふける参拝だった。

拍手[1回]


安戸身形神社


「秩父七妙見社」。筆者もこの秩父郡の神社の参拝後の編集中に初めて知った聞きなれない言葉だが、「秩父志」に江戸末期に武蔵国秩父郡の総鎮守である秩父妙見(秩父神社)の分社を郡境の交通の要所七ヶ所に攘災の守り神として配置したのが秩父七妙見社であるとのことだ。
 俗にいう妙見信仰とは、一般的には仏教でいう北辰妙見菩薩に対する信仰をいうが、その本来の姿は、道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰とも言われている。ゆえに秩父神社を北極星として、七妙見を北斗七星に見立て、江戸時代末期から明治時代前半に考えられたものであろう。
 その秩父七妙見社の一社に安戸身形神社であり、地元の方々から「妙見様」と尊称されている社である。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村安戸872
御祭神   宗像三女神(市杵嶋姫命・多記理毘売命 ・湍津姫命)
社  格   旧村社
例  祭   二月三日

        
 安戸身形神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線を東秩父村役場から約3㎞ほど小川町方向に進む。進行方向左側は県道整備のため山の稜線を削り、その斜面上に大霊神社の鳥居がそそり立つように見えるが、そのすぐ先のT字路を右折する。槻川を超えるとすぐ右側に身形神社の石製の鳥居と社号標が見えてくる。駐車スペースは鳥居のすぐ先の道を右に曲がると帯澤集落センターがあり、そこには十分な駐車スペースが確保されているので、そこに停め参拝を行った。
           
                        安戸身形神社一の鳥居と社号標
 「新編武蔵風土記稿」によると、当社は現在帯沢の地に鎮座しているが、古くは御堂村小名宮地に鎮座していた。移転した原因は、槻川の流れが変わったためで、かって槻川は帯沢と宮地の間を流れ、村を二分していたという。
           
 一の鳥居を過ぎ、静かな山村の風景が参道の周りに見られ、気持ちも落ち着き、心地よい時間が流れる。 参道を歩いていくと、山の斜面上に社の社叢が見えてくる。
                      
                    石段の先にある両部鳥居である二の鳥居
              
                             拝     殿
 安戸身形神社の現在の御祭神は宗像三女神と言われる市杵嶋姫命・多記理毘売命 ・湍津姫命の3柱だが、口碑や氏子の話では、妙見様は三姉妹いて、長女が小川町木部の三光神社、次女がここ安戸身形神社、そして三女が秩父神社であるという。また社名「身形」もこの三女神を意味する「三形」ではないかと言われている。
           
                 拝殿上部に掲げてある「妙見宮」と表記された扁額。
          
                              社殿左側にある大杉の御神木
           
                             本     殿
    
                  本殿のすぐ左側にもやはり大杉の御神木がある。 

 前出にて紹介した秩父七妙見社の由来は、実はそんなに古くはない。天保八年(1837年)から明治20年(1887年)、約50年の歳月をかけて大野玄鶴が撰述した「秩父誌」に具体的な所在地が記述されている。それによると7か所の所在地は以下の通りとなるようだ。
 ・小鹿野町藤倉
 ・皆野町金沢
 ・長瀞町矢那瀬末野神社
 ・東秩父村安戸身形神社
 ・都幾川村(現ときがわ町)大野神社(武蔵国郡村誌では身形社)
 ・飯能市上名栗星神社
 ・飯能市北川喜多川神社

 
現在小鹿野町藤倉の地にあったといわれる妙見社は所在不明であり、皆野町金沢妙見社も現在なく、長瀞町末野神社には合祀されていると言われているので、何度も参拝しているが、それらしい妙見社はない。但し大里郡神社誌によると、それに若干関連あるのか合祀社として「天御中主神社」の記述がひっそりとある。飯能市の神社についても文献の解釈によって比定地が混同しているところもあり、七妙見社としてはっきりしている社は安戸身形神社とときがわ町大野神社2社のみである。


 
       
                         拝殿前の石段より撮影


 


 

拍手[2回]