古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

青山愛宕太神社

 小川町青山地域は、外秩父山地一角で、小川盆地のほぼ中央部に位置し、JR八高線・東武東上線小川駅の丁度南側にあり、槻川を境にその南側一帯に広がる地域である。青山愛宕太神社が鎮座する青山字根木は、同地域東部にあり、JR八高線沿いに通る埼玉県道30号飯能寄居線が南北に走り、東端には仙元山(298m)をはじめとする尾根と、その仙元山山頂の南南西にある標高267mの頂部には「町指定史跡 青山城跡」が、そして地域の東側に接する下里地域には、国指定史跡の下里・青山板碑製作遺跡がある。
 なお、仙元山の中腹には周囲の自然を活かした「仙元山見晴らし公園」が整備されていて、この公園の目玉でもある、町に向かって滑り降りていくすばらしい眺望とスリルを誇る全長
203mの「ローラーすべり台」は、有料ながら子どもから大人までみんなで楽しめるすべり台で、更に展望台からは小川町の全景が見晴らしの丘公園から一望できる。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町大字青山2134
             
・ご祭神 火之炫毘古命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 例大祭 1015日前後の日曜日
 国道254号線を小川町市街地方向に進み、「道の駅おがわまち」を越え、「本町二丁目」交差点を左折する。その後、埼玉県道30号飯能寄居線合流後、槻川を越え更に南下すること1㎞程先の「アドニス小川カントリー倶楽部」の看板がある細い路地を右斜め方向に進むのだが、車両はその周辺の路上にて駐車している。その後、右手には庚申塔や馬頭観音・地蔵尊が整然と並ぶ石碑群を見ながら上り斜面を徒歩にて進むと、右手に青山愛宕太神社の鳥居が見えてくる。
 
 北側参道に並ぶ
庚申塔や馬頭観音・地蔵尊等      北側の参道から徒歩にて参拝
              の石碑            緩やかな上り斜面の先に社は見えてくる。
 本来、社殿に対して正面方向に参道(石段)があり、急坂を下ると県道30号線に直接ぶつかるような配置となっていて、しかもその正面入り口は狭く、しかも鳥居や社号標柱等もなく、当然のことながら専用駐車スペースもない。当初は正面からの撮影を試みたのだが、県道の車両が意外と多く、残念ながら断念。そこで、北側から社に通じる舗装された道からのアプローチとなった。
        
        
県道30号線から急斜面の立ちあがった小高い山頂に鎮座する社
 青山愛宕太神社の創建年代等は不詳であるが、当社地の裏山は「鉄穴」を意味する「神名」と呼ばれていることから、鉱山採掘に関わる火の神として祀られたのではないかといわれている。
        
                    拝 殿
 氷川神社  小川町青山一三一二(青山字根木)
 地名の青山は、鉄を産する地から名付けられたとする説がある。『地誌青山村』には「鉱山 村ノ南方鉱山、往古何年頃ナリシカ採掘セシコトアリシモ中絶シアリシガ維新ノ後更ニ採掘ヲ試ミタレトモ十分ノ結果ニ至ラズ中途ニシテ廃絶ス今ハ只試掘痕ノ存スルノミ」と載る。また、地内には、鍛冶の神として崇められた愛宕神社(当社に合祀)がかつてあり、その裏山を「神名」という。神名は、俗に「鉄穴」であるということから、やはり採掘とかかわりがある。当地一帯は、外秩父山地を抖擻した修験者が活躍している。各地の鉱山が、山間の知識を十分に蓄積した修験者により発見されていることから、当地の鉱山も在地修験とかかわりがあったことと考えられる。
 各地域の鎮守に対する信仰も厚く、沼ノ入の愛宕神社は、火の神・火防の神として崇敬されている。現在はほかに家内安全・商売繁昌や合格祈願等も行う。大祭は十月十五日の前後の日曜日で、福引やカラオケ大会を催してにぎやかな祭りである。
                                                  「埼玉の神社」・青山氷川神社の項より引用
        
                          社殿の向かって左側にある神興庫
     神輿のようなものが安置されている。当地の祭りに使用されたものであろうか。
        
      境内西側にある「愛宕太神社記念碑」とその右側にある「青山城の井戸石」
                青山城の井戸の石をこの神社に移動したのであろうか。
                  愛宕太神社記念碑
                      参議院議員 上原正吉書
              愛宕太神は火之炫毘古命にして出雲
                    の国より青山村に御来神と伝えられ
              万民安堵火伏の神として二百三十年
                           前より広く崇敬されしも明治末期神
                           社統制により氷川神社に移管され尓
                             来五十三星霜を経て今日に至る
                           昭和三十八年八月地区民挙って再鎮
                           座を発起し奉賛会を組織して新築完
                           成をみたので之を永く後世に伝える
                           と共に地区民の幸福と繁栄を記念し
                             茲に記念碑を建設するものなり
                                
昭和三十八年十一月吉日
       
               北側参道入口を参道側から撮影

 青山愛宕太神社から直線距離にて南東方向750m程の山頂部には町指定史跡である「青山城跡」がある。青山城は仙元山山頂の南南西にある標高267mの頂部に築かれていて、北端最高所に主郭を置き、南尾根に二郭、南東尾根に三郭を配している。少し離れているが小倉城とは尾根続きであり、戦国時代には松山城を守る支城としての役割があったようだ。 
 町指定史跡   青山(割谷)城跡
 小川町大字青山字立厳二二九二-二ほか
 平成四年三月二十五日 町指定
 青山(割谷)城跡は、青山と下里の大字境に位置し、青山側では青山城、下里側では割谷城と呼ばれています。
 城跡は尾根を巧みに利用し、標高二六五メートルの山頂部に築かれた本郭を中心に、南西に二の郭、南東に三の郭をコの字状に配し、それぞれの郭は深い堀切で画されています。本郭の南東側および二の郭の東側には通路状の帯郭が残されています。一方、北側は小規模な郭と堀を配するのみとなっています。
 板碑の石材である緑泥石片岩の分布域にあり、堀切はこの岩盤を掘り抜いて造られ本郭周囲の一部には石積みが残っています。城跡の下里側の麓近くには、板碑石材の採堀と加工を行っていた割谷採掘遺跡があります。
 江戸時代に書かれた『関八州古戦録』には永禄六年(一五六三)に「松山城へは上田安楽斎、同上野介朝広を環住なさしめ青山・腰越の両砦と共に堅固に相守らせ」とあり、松山城の支城であったと伝えられています。
 東二・六キロメートルには小倉城跡があり、北に四ツ山(高見)城跡、北西に中城跡、西に腰越城跡を臨むことができます。また麓を流れる槻川に沿った道や現在の八高線に沿った道を見下ろす地理的な要所に位置した城跡です。
                            「青山(割谷)城跡」案内板より引用



参考資料「埼玉の神社」「境内石碑文」「青山(割谷)城跡掲示板」「仙元山見晴らし公園HP」

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木呂子吉野神社

 小川町木呂子地域は、兜川の上流に位置する静かな山村である。この地は、古くは「吉野の里」と呼ばれ、中世には松山城主上田氏の有力な家臣であった木呂子氏の居館があったという。
 因みに「
木呂子」は「キロコ」と読み、なかなか個性的な地域名で趣もあり、響きも良い。旧蔵国男衾郡木呂子邑発祥ともいわれる名前である。
 木呂子氏は『埼玉苗字辞典』によると、男衾郡木呂子(現比企郡小川町木呂子)の出身でその在郷名を名乗ったものと記され、戦国時代には武州松山城主上田氏の家臣として、上田・難波田氏と姻戚関係を結び重要な地位にあったことが推測される。同氏は木呂子丹波守元忠-丹波守新左衛門元久-新左衛門元次と続き、後北条氏滅亡後には深谷上杉氏の重臣であった秋元氏に仕え同氏の家臣岡谷氏と姻戚関係を結んだとされている。
『平姓木呂子氏家譜』
「木呂子丹波守元忠(室上田能登守長則女。弟日遠は身延山僧、其弟下野守則貞は小田原滅亡後・百人組与力として歴仕・維新に至る)―丹波守新左衛門元久(鳥居土佐守家中、室難波田因幡守憲次女)―新左衛門元次(これより秋元但馬守家中、室岡谷門左衛門泰勝女)、元次の弟兵左衛門―清兵衛久庵―清兵衛」

        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町木呂子303
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧木呂子村鎮守・旧村社
             
・例祭等 山神社例祭 117日 稲荷例祭初午祭 3月初午日
                  
八王子神社例祭 423日 秋例祭 1015
 勝呂白鳥神社から東行し、兜川を越えた丁字路を左折、国道254号線に合流し、400m程北西方向に進んだ路地を再度左折する。木呂子地域の街並みを眺めながら約300m進んだ「木呂子区民センター」の見える路地を左方向に進行し、暫く進むと、緩やかな山なみの稜線の先に木呂子吉野神社が見えてくる。
        
                 木呂子吉野神社正面
『日本歴史地名大系』「木呂子村」の解説
 勝呂村の北東に位置し、男衾郡のうちで玉川領に属した。竹沢六村の一(風土記稿)。地名は戦国期に松山城(現吉見町)城主上田氏の家臣であった木呂子氏にちなむと考えられる。政所改戸(まんどころかいと)・政司改戸(しようじかいと)などの地名が残り、中世には開発されていたことがうかがえる。延宝元年(一六七三)の竹沢村水帳によれば、木呂子分は高一三六石余、反別は田七町七反余・畑二一町余・屋敷七反であった(小川町史)。
『新編武蔵風土記稿 木呂子村』
 木呂子村は古勝呂・木部・靱負及び比企郡笠原村原川分等六村を合て、一村にて竹澤村と唱へ當郡に屬せしが、後年六村に分ちし時。笠原村原川分の二村は比企郡に属せりと云、されど鎌倉圓覺寺所藏應安二年の文書に、武藏國比企郡竹澤郡内、竹澤左近將監入道跡事云々と載たれば、古くは比企郡に屬し、中頃當郡に隷し、後又六村に分れし時、兩郡に分れしならん、按に【太平記】に載たる延文三年十月、新田義興を矢口の渡に於て畠山道誓と同〱謀殺せし竹澤右京亮も、此左近将監の一族なるべし、又天正十八年小田原攻の時、松山籠城人数の内に木呂子丹波守あり、是はまさしく當所の在名を名乗しならん、
 又此村の一名を吉野と呼べり、其由來は詳ならず、
 吉野川 村内山間の谷合より出る清水、落合て一篠の流れとなる、吉野は則當村の一名なり、

        
             静かな雰囲気の中、ひっそりと佇む社
 木呂子吉野神社の創建年代等は不詳であるが、『風土記稿』に「天神社 村民持」とあるのは同社のことで、所有していた村民武藤家では、鎌倉時代作の薬師如来像を所有していることから、天神社で祀っている天満天神座像も鎌倉時代の作ではないかと伝えている。その後、天保15年(1844)に壱岐天手長男神社を勧請した天手長男神社、安政2年(1855)に養蚕を奨励した領主小野朝右衛門を讃える梅之宮神社の2社を天神社の摂社として村全体で祀っていたという。明治8年に武藤家が天神社を売却したのを機に、明治9年村社に列格、明治41年に無格社山神社・八王子神社・稲荷神社を合祀、大正15年には、旧地名「吉野の里」から吉野神社と改称したという。
        
                    拝 殿
 吉野神社(てんじんさま)  小川町木呂子三〇三(木呂子字上耕)
 竹沢六村の最も西に当たる木呂子は、兜川の上流に位置する静かな山村である。この地は、古くは「吉野の里」と呼ばれ、中世には松山城主上田氏の有力な家臣であった木呂子氏の居館があった。
 木呂子には、古くから天神社があり、武藤氏が氏神としてそれを祀ってきた。『風土記稿』に「天神社 村民持」とあるのは同社のことで、武藤家にある薬師如来像が鎌倉時代の作であることから、当社の内陣に安置される天満天神座像も鎌倉時代の作と伝えられている。明治八年、武藤又兵衛が社地と大杉を地内の松本吉兵衛に売却したのを機に、当社は近隣八戸を氏子とするようになり、翌九年には村社になった。更に、明治四十一年(『明細帳』では四十二年二月)には地内にあった無格社山神社・八王子神社・稲荷神社が当社に合祀され、大正十五年には、木呂子が古くは「吉野の里」と呼ばれていたことにちなんで、社名が吉野神社と改められた。
 当社には、摂社として天手長男神社と梅之宮神社が祀られている。前者は、天保の初め、当地に大火災があり、以後、火災を恐れた村人が天保十五年(一八四四)に寄居町小園にある天手長男神社の分霊を奉斎したものであるという。後者は、養蚕を奨励し、村に繁栄をもたらした領主小野朝右衛門を讃えるために、安政二年(一八五五)に領主から賜った鏑矢と矢じりを神体として祀った社である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
       
狛犬右手には、天手長男神社と書かれた大きな石銘が建てられている。
 因みに天手長男神社は、摂社の一つで、現在は梅之宮神社と共に本殿覆屋内に祀られている。

 天手長男神社のご祭神は櫛明玉命とされているが、氏子・崇敬者の間では「お手長様」と呼ばれている。「お手長様」は火防の神としてご利益があるといわれ、木呂子ではこの社を祀って以来火災もなく、安心して暮らせるようになったという。
 梅之宮神社は、通称「こかげ様」といい、木花咲耶姫命がそのご祭神といわれている。この社は、養蚕の神として木呂子だけでなく、隣接する勝呂(すぐろ)の人々からも崇敬され、423日に行われる例祭では、養蚕倍盛が祈願されるという。大東亜戦争以降、養蚕は不振の傾向にあるが、同社は養蚕に限らず、諸産業繁栄の神として信仰が厚い。
 このほか、当社に合祀された山神社の例祭が117日、稲荷神社の例祭(初午祭)が3月初午日、八王子神社の例祭に関しては、ご祭神が同じであるという理由から梅之宮神社の例祭に合わせて行われているという。
        
                  社殿からの眺め
 木呂子地域は、小川町から寄居町へ通じる街道が通る要衝の地であり、天正年間にその在郷名を名乗った木呂子氏が領していたことの意味は非常に大きい。
 木呂子地域の南側に隣接する勝呂地域には白鳥神社が鎮座しているが、この社の創建には、増尾氏が関わってきたという。詳しい説明は勝呂白鳥神社に載せているが、この増尾氏は平姓木呂子氏家譜に「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」。「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年・1333年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」との記述があり、増尾氏と共に木呂子氏も畠山一族の出身であるといわれている。





参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」等
 

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原島三島神社

 原島は、在来の今泉・前原島・窪谷戸の三つに、稲荷を加えた四つの村組からなり、当社の氏子区域である今泉は、氏子四六戸を数え、この区域は、更に川ノ北・川ノ南・東口・西口・耕地の五の廓(くるわ)と呼ばれる班に分かれる。
『新編武蔵風土記稿 原島村』
 三島社 小名今泉の鎭守なり、
 稻荷社 前原島の鎭守とす
 天王社 窪谷戸の鎭守とす
 天神社 以上四社吉祥寺の持、
 また
当所では年四回の祭りの他にも、仏教行事も盛んで、氏子は、神事・仏事に関わらず、これらを原島の年中行事として意識している。これは、嘗ての別当である吉祥寺との繋がりとも関連しているようだ。
 吉祥寺 新義眞言宗、埼玉郡上ノ村一乘院末、天神山觀音院と號す、慶安二年境内觀音堂領として、十石の御朱印を賜ふ、中興の僧を榮快と云、寛文十三年正月二十五日寂す、本尊大日を安ず、本堂の軒に元文二年鑄造の鐘をかく
 觀音堂 十一面觀音を安ず、運慶の作なりと云傳ふ、
 清龍權現社。天神社
 当社の旧別当である吉祥寺は、菅公の末裔澄勝上人により正平八年(一三五三)に開基されたと伝わる名刹で、天神山観音院と号している。その境内にある観音院も名高く、菅公の高徳が十一面観音の誓願に通じる事から、これを本地仏として安置したもので、慶安二年(一六四九)には幕府から観音堂領として一〇石の御朱印状を拝領している。この観音堂の縁日は、一月一八日と八月三〇日の年二回で、法要が行われていて、昔は、参道に灯籠が飾られ、露店も立ち、大いに賑わったという。
 七月上旬に行われる疫神除けの行事である百万遍は、今でこそ吉祥寺の境内で一同が集まり、「ナイゾー、ナイゾー」と唱えて大数珠を回すだけとなっているが、かつては一軒一軒土足で上がり込んで疫神を追い払うという、勇壮なものであったという。

        
             
・所在地 埼玉県熊谷市原島877
             
・ご祭神 大山祇命
             
・社 格 旧原島村今泉鎮守・旧無格社
             
・例祭等 春祭り(お日待)415日 百万遍 七月上旬 
                  夏祭り 
720日 秋祭り 1015
        
                 原島三島神社正面
 原島八坂神社から一旦東行し、「熊谷市消防本部」の建物がある国道407号線に合流後南方向に400m程進んだ先にある信号のある交差点を左折する。長閑な田畑風景を眺めながら250m程進んだ十字路を右折すると、すぐ右手に原島三島神社が見えてくる。
 
入口右側に祀られている富士嶽大神等の石碑群    石碑群の右端に祀られている富士稲荷大神
                               と浅間大神
『日本歴史地名大系 』「原島村」の解説
大里郡忍領に所属(風土記稿)。荒川の沖積扇状地に位置し、南は熊谷宿・石原村。田園簿では田方四〇〇石・畑方一六三石余、旗本鳥居・内藤の二家の相給。元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳によると高五九一石余、旗本鳥井二家と田付家の相給で、ほかに観音堂領(別当吉祥寺)がある。以後、支配は変化なく幕末に至る(改革組合取調書など)。「風土記稿」によると家数八〇、用水は玉井堰を利用。天保一三年(一八四二)の熊谷宿助郷村高覚(「海駅門」熊谷市立図書館蔵)によると助郷勤高二八一石。
        
     参道右側に祀られている龍神とその左隣には大黒天を祀る石碑(甲子)あり。
        
                    拝 殿
 三島神社  熊谷市原島八七七(原島字三島)
 原島は利根川と荒川の間に位置しているが、かつては荒川の流域に含まれていた所であった。このため地下は砂利層で水はけが良く、古くから耕作に適した土地であった。
 江戸期の原島は、初め幕府領であったが、正保元年(一六四四)に鳥居・内藤両氏の相給となった。このうち鳥居氏の知行分は寛延元年(一七四八)にその兄弟に分地した。一方、内藤氏の知行分は寛保元年(一七四一)に幕府領となったが、宝暦三年(一七五三)には更に旗本田付氏の知行地となった。こうして宝暦三年以後、原島は三氏の相給となったのである。
『風土記稿』には、小名として窪谷戸・今泉・前原島の三つを載せ、更に神社については「三島社 小名今泉の鎮守なり、稲荷社 前原島の鎮守とす、天王社 窪谷戸の鎮守なり、天神社、以上四社吉祥寺の持」と紹介している。このように小名ごとに鎮守を持っていたことは、当地が三氏の支配となっていたことと深いかかわりがあると考えられる。
 当社は同書に見えるように、古くから今泉の鎮守であるが、創建年代については明らかでない。口碑によると、伊豆国一の宮である三嶋大社を勧請したという。祭神は大山祇命で、内陣には三嶋大明神像を安置している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
 社殿右側手前にも築山があり、
塚の頂で中央部には「御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神」の石碑が祀られ、他にも「大江神社」「御嶽岩戸神社」「寿昌霊神」「少彦名命・大己貴命・日本武尊」「覚明霊神・普寛霊神・一心霊神・盛心霊神」「天大元五柱神」「摩利支天尊」等が祀られている。
 また、「寿昌霊神」の隣に祀られている「清瀧」と彫られた石碑の下部には祓戸四神の名が記されていて、「瀬織津比咩神・気吹戸主神・速佐須良比咩神・速開都比咩神」と彫られている。
        
                   境内の一風景
 お社の中には、神輿が祀られていて、この神輿は女の神輿で、お社から外に出すと大水が起こるという言い伝えがあるという。
 昔お祭りのときは、氏子全員の手によって多数の灯籠が境内と参道に飾り、出店があったりしたが最近はなくなり、往時の華やかさは無くなっているが、現在では当日には集会所でのど自慢が集まり、カラオケ大会を開催し、祭りの余興としているようだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「郷土こぼれ話HP」等

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原島八坂神社


        
              
・所在地 埼玉県熊谷市原島262
              
・ご祭神 素盞鳴命
              
・社 格 旧原島村久保ヶ谷戸鎮守・旧無格社
              
・例祭等 謡初 11日 夏祭り 71314日 
                   厄神除け 
726 
 熊谷警察署がある国道407140号線と同国道17号線が交わる「熊谷警察署前」交差点を利根川方向に1.6㎞程北行する。その後、「くまピア入口」交差点を左折、埼玉県道83号熊谷西環状線に合流後、400m程進んだ「くまぴあ」の立看板が見える交差点を左折し、暫く道なりに進むと、進行方向左手奥手に原島八坂神社のこんもりとした社叢林が小さく見えてくる。
        
                 原島八坂神社正面
 ポツンと佇む小さき社。路地を左折した、道幅の狭い道の突き当たりにあり、一面は民家と畑が混在している中に鎮座していて、地元の人々でも氏子以外は参拝することが滅多に無いのではと思われる社である。
 古来、原島には鎮守が三社あり、それぞれ別の廓(村組)の人々によって祀られてきたという。原島八坂神社は旧窪谷戸(現久保ヶ谷戸)の鎮守社で、久保ヶ谷戸の東のはずれに位置している。
             
                           ご神木の如く聳え立つイチョウの大木
        
                    拝 殿
 八坂神社(てんのうさま)  熊谷市原島二六二(原島字久保ヶ谷戸)
 かつて当社は牛頭天王を祀り、「天王社」と呼ばれていたことから現在も「天王様」の通称で親しまれており、鎮座地の字名も当社にちなんで「天王」という。境内は、原島の廓(集落)の一つである久保ヶ谷戸の東のはずれに位置し、その周囲には民家と畑が混在している。今では、境内には樹木はほとんどないが、太平洋戦争が激化するまでは鎮守の杜と呼ぶのにふさわしく、鬱蒼とした杉が林を成し、社殿の脇には「御神木」と呼ばれていた椋榎の大木もあった。しかし、この神木は戦時中、社殿の後方に軍の防空監視哨が設置された時に、監視の妨げになるという理由で伐採され、杉も戦後に枯死してしまった。
 当社は『風土記稿』に「天王社 窪谷戸の鎮守なり」とあるように、創建以来、久保ヶ谷戸の鎮守として祀られている。ただし、だれがいつごろ、どういう経緯で祀ったものなのかということについては、残念ながら何も伝えが残っていない。なお、当社は江戸時代には真言宗の吉祥寺によって管理されており、古風な趣を持った一間社流造りの本殿の中には、そうした神仏習合の名残で牛頭天王画像が納められている。
 明治になると、吉祥寺の管理を離れ、祭神は素盞鳴命、社名は現行の八坂神社に改められた。更に明治十四年には、久保ヶ谷戸の大火で被害を受けた拝殿も氏子の力によって再建された。
                                   「埼玉の神社」より引用

 氏子の間に伝わる参詣方法は、他の所とは少し違っていて、まず拝殿の正面で一回拝んだ後、社殿を一周してから再度拝むという者である。また、普段はこの所作を一回だけ行うだけであるが、特に強く祈願する必要がある時は、これを何度も繰り返すことになっている。昭和40年頃まで行われていた雹祭り(3・4月の任意の時)・天乞い(夏の日照りが続いた時)・風祭り(9月初めの任意の日)などの際には、氏子全員がこの所作を三回繰り返したという。
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
              

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奴伊奈利神社

「奴稲荷」の通称と共に当社は子育ての神として名高く、地元の熊谷市はもとより、遠くは横浜・本庄・高崎など各地に崇敬者がおり、その霊験はあらかたであるという。
 かつて、当社には、「稲荷様の奴(ご家来)」と称し、病弱な子供は三年とか五年とかの期限を決めてその間月参りを欠かさず行えば必ず丈夫になるといわれ、その期間中は稲荷様に奉仕している印としてもみあげ(当地ではこれを奴と呼ぶ)を伸ばし、満期になるとそれを切って奉納する習慣があった。大東亜戦争以後この習いは廃れてしまったが、奴稲荷の名の起こりとして覚えておきたいものである。
「埼玉の神社」より引用。

        
             
・所在地 埼玉県熊谷市仲町43
             
・ご祭神(主)倉稲魂命 (合)徳川家康公
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 祈年祭 38日 例祭 48日 新嘗祭 128
              
*祭日に関しては『大里郡神社誌』を参照。
 熊谷では老舗の百貨店で、創業から2017年には実に120年を迎えたという八木橋百貨店は、埼玉県内初の百貨店として、また熊谷市内では最大の店舗面積を持つ。まさに地域密着型の百貨店と言って良い。
 この八木橋百貨店の裏手で、熊谷寺に隣接して鎮座しているのが奴伊奈利神社である。
        
                 
奴伊奈利神社二の鳥居
         一の鳥居は隣接している
熊谷寺に近すぎて正面から撮影できず。
         不思議と参道は駐輪所として数多くの自転車が置かれている。
  
 奴伊奈利神社は、熊谷次郎直実の守護神(弥三左衛門稲荷)として、元久2年(1205)熊谷直実の邸内(熊谷寺内)に創建した。江戸時代には徳川家康より三十石の朱印があり、享保4年(1719)には、正一位の神階を受けている。その後、明治2年(1869)の神仏分離令により熊谷寺から離れ、同じく熊谷寺にあった東照宮を合祀の上、鎌倉町八坂神社境内に遷座したが、明治31年(1898)旧社地である当地に再び遷座し、村杜(明治7年申立)として厚く信仰されるようになったという。
 昔から熊谷三社参りと称して、稲荷木伊奈利(銀座)・高城神社(宮町)・当社の三社を巡拝することが盛んに行われた。現在でも篤信家により行われている。
「埼玉の神社」によると、国道17号号の新道開通によって交通量が激増したため、「交通安全稲荷」として崇められるようになったというのも、自転車置き場として開放されている理由の一つであろうか。
              
             「熊谷奴稲荷大神」と刻まれている石碑
            よく見ると石碑の上の神狐の像の頭部分が無い。
        
                   境内の様子
『新編武蔵風土記稿 熊谷町』
 熊谷寺 稻荷社 熊谷弥三左衛門稻荷と号す。境内の守とす

『大里郡神社誌』
 伊奈利神社  大里郡熊谷町大字熊谷字仲町乙三千五百三十三番地
神社所在地
 大里郡熊谷宿字旅籠町熊谷寺境内にありしを明治二年九月神佛混淆改正に依り東照宮(熊谷寺境内)を合祀して同町大字熊谷字鎌倉町愛宕神社境内に遷座し同七年二月村社申立濟同三十一年字仲町(舊社地)乙三千五百三十三番準市街地百六十九坪を神社地として遷座大正十一年社殿改築の際隣地十二坪四合五勺を增加す
神社名稱
 舊名稱熊谷彌三左衛門稻荷又は奴稻荷大明神と稱せり明治二年九月伊奈利神社と改稱す 崇敬者は今
ほ奴稻荷と通稱す
 
    境内に設置されている趣ある手水舎        奴伊奈利神社の由来等が記された案内板
       
                    拝 殿
 伊奈利神社(やっこいなり)  熊谷市仲町三五一一-二(熊谷字仲町)
 奴稲荷もしくは熊谷弥三左衡門稲荷の名で知られる当社は、市の中央部で、本町に続く商業地域である仲町に鎮座している。仲町は、地内に熊谷直実開山の熊谷(ゆうこく)寺があることで知られ、その近辺は門前町として発展してきたといわれており、当社の境内はこの熊谷寺の山門のそばにある。
 社記によれば、当社の創建は元久二年(一二〇五)で、次のような話が伝えられている。日ごろ稲荷神を深く信仰していた熊谷直実は、戦場で危難に遭っても、必ず熊谷弥三左衛門という武士によって助けられ、勝利を得た。余りの不思議さに直実が弥三左衛門にその素姓を尋ねたところ「吾は汝が信ずるところの稲荷明神なり。危難を救わんがため熊谷弥三左衛門と現じける」と言い、忽然と姿を消した。その霊威に感じた直実公は、帰陣の後、祠を熊谷寺境内に設け、これを祀った。当社は弥三左衛門稲荷と呼ばれるようになったという。
 その後、慶長年間(一五九六- 一六一五)に熊谷寺中興幡随意上人が社殿を再建し、享保四年(一七一九)には正一位の神位を受けている。明治に入ると、神仏分離によって熊谷寺の管理を離れ、明治二年に鎌倉町の愛宕神社境内に一旦移転したが、仲町有志の奉賛と協力により、同三十一年には現在の境内が整備され、再び仲町に迎えられ、村社として人々から厚く信仰されるようになった。
                                    「埼玉の神社」を引用
 
                 本殿(写真左・右)
 「埼玉の神社」によると、当社は繁華街にあるため、商売繁盛の神としても古くから信仰されており、とりわけ花柳界の人々から信仰が厚かった。往時は毎月八日が縁日で、旧中山道から拝殿の前までずっと紅白の提灯を付けて、多くの人出があったものであるが、関東大震災の後は街並みが大きく変わったため、縁日は次第に行われなくなったという。
        
                 社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「境内案内板」等
  

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