古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

石戸八雲神社

 八雲神社(やくもじんじゃ)は、牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社。他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、須賀神社、素盞嗚神社、感神社、などがあり、時代や資料によって通用される。
 社名は日本神話においてスサノオが詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲に因むものである。総本社は京都の八坂神社である。
 他のスサノオを祀る神社と同様、江戸時代までは「牛頭天王社」などと称していたが、明治の神仏分離により「牛頭天王」という社号が禁止されたため、祭神を牛頭天王と習合していたスサノオに変え、社名もスサノオに因んだものに変更したものである。
        
              
・所在地 埼玉県北本市石戸88
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 無格社
              
・例祭等 五月燈籠 614日 祇園祭 715日 
                   新穀感謝祭 
1123
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.020219,139.5193196,17z?entry=ttu

 高尾氷川神社から一旦南下し、埼玉県道33号東松山桶川線に合流後、北本市街地方向に進む。その後「荒井一丁目」交差点を右折し、500m程進むと県道沿いで進行方向右側に石戸八雲神社が見えてくる。
 県道沿いで日中交通量が多い場所に鎮座しているにも関わらず、境内は静寂そのもので、寂しくもある。
        
                  石戸八雲神社正面
 石戸八雲神社が鎮座する「下石戸下」地域は、市の南部に位置する。大部分は台地で、南部にはいまなお平地林を広く残している。南西に向ってゆるやかに傾斜し、高尾に水源をもつ江川に達し、下石戸上と画する。駅西側から発する考戸(かんがえど)排水路も南西に向って流れ、字の南端で江川に合流する。平地林の間に畑と住宅が混在し、南部は桶川市に達する。中央平地林の中を昭和47年市道上原線が開通した。南部の字蔵引の江川に沿う水田地帯は埋め立てられ、昭和46年から入居を開始した日本住宅公団の高層団地・通称「北本団地」がある。
             
                  県道沿いに建つ社号標
 この社は、本殿に奉安される石祠に「奉造立牛頭天王御宮」と刻まれるように、元は牛頭天王と号していた。このため今も「下石戸の天王様」の名称で呼ばれることが多い。
 創建は元文二年(一七三七)三月のことで、この辺り一帯に悪病が流行したので、地内の修福寺の檀那たちによって京都の感神院(東山区祇園町鎮座の八坂神社)からその鎮めとして勧請されたと伝えている。

       石戸八雲神社鳥居       鳥居の手前右側にある「鳥居建立寄進御芳名」碑
       
                 思った以上に広い境内
       
                                         拝 殿
 八雲神社  北本市大字下石戸下字向郷2065番地 
 沿革
 ・下石戸下の原、上手、台原、蔵引、久保新田、北原地区の氏神として、信仰があつい。無格社であるが、 他町村からの参詣人が多い。牛頭天三社とも称し、元文二年(1737)三月の創建で石戸村領主・修福寺の檀那等の奉造と伝えられている。その頃悪疫が流行したため、その疫神の鎮として勧請したので、霊験あらたかである。明治六年(1873)四月八日に八雲神社と改称した。
 本殿は石戸小学校の奉安殿を戦後払い下げをうけ再建されてぃる。
信仰・習俗・その他
農家では「キュウリ」を栽培し、自由に食べられない風習がある。
「キュウリ」を食べるときは包丁でまるごと切ることはいけない。神社の紋に見えるというので天王様に「バチ」があたるといわれている。そこで縦に切り、更に横に切ってから食べる風習がある。
                                                      「北本デジタルアーカイブス」より引用
 
          本 殿           社殿の右側にある「神興庫」であろうか。

 それにしても、埼玉県中央部から以南にかけての荒川沿岸の地はスサノオをご祭神とした社が極端に多く、そのことは同県北部に鎮座する社が「八百万の神々」のオンパレードに対して対照的である。スサノオをご祭神する氷川神系統の社は荒川等の「水神」を祀る神が多く、それ程当時のこの地に居住していた方々が、大地に食料等の豊かな恩恵を与える偉大な河川に対して祀り称え、同時に不定期的に起こす「洪水等の猛威」を恐れ、絶えず災いが起こらないように「鎮魂」の儀式等をおこなっていたかを雄弁に物語っていよう。
        
                             
石戸八雲神社 境内

「祭る」の語源とされるのは,「まつ」という言葉であるという。「まつ」「まち」というのは,「守つ」と書かれ,神慮を表現する意味として使われていた。その後「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形に変化する。あくまで「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。
 つまり、「まつる」の本来の意味は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。この意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭、祈願祭などの祭がそれにあたる。日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶのはそのためである。
 日常当たり前のように使っていた「まつり(祭)」という言葉にも、そんな語源から現代まで繋がっているのかと祭の歴史やその背景を知ることができたのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」等
        

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荒井須賀神社

 須賀神社(すがじんじゃ)、別名素鵞神社(すがじんじゃ、そがじんじゃ)は、牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社であり、日本全国に存在する。「すが」は「須我」「清」「酒賀」「素鵞」などとも表記される。他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、八雲神社、素盞嗚神社があり、時代や資料によって通用される。
 社名は、日本神話において、スサノオが八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するものである。須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」などと称していた。
 島根県・高知県に特に多い社だが、関東地方にも少なからず存在する。北本市荒井地域にも素戔嗚尊をご祭神とする須賀神社が「荒井の天王様」とも呼ばれ祀られている。
        
             
・所在地 埼玉県北本市荒井1353
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社 荒井村 鎮守社 北本七福神 寿老人
             
・例祭等 節分祭 23日 夏祭 714日~16日 冬至祭 1212
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0217631,139.5103152,17z?entry=ttu

 高尾氷川神社、高尾厳島在弁天神社、荒井須賀神社と狭い区域内に三社もの神社が固まって鎮座している。地図で検索してみると、この須賀神社は荒井地域の住所地であるにも関わらず、この神社の周囲は高尾地域に囲まれた飛地になっている。どのような変遷をたどって現在の配置に至ったのだろうか。
 因みに現在荒井須賀神社は高尾氷川神社の兼務社となっている。
 
    入口付近に設置されている案内板           社号標柱
 須賀神社 所在地 北本市荒井一-三五三
 須賀神社は、天正年間(一五七三~一五九一年)の勧請と伝えられ、「荒井の天王様」とも呼ばれている。
 明治六年、荒井村村社に列せられ、大正年間には、村内の浅間社・橿城神社・神明社等を合祀しており、祭神は、素戔嗚尊の他・木花開耶姫命・伊弉諾尊・伊弉冉尊・倉稲魂命等が祭られている。
 祭事は、節分祭(二月三日)・夏祭(七月十四日~十六日)・冬至祭(十二月二十二日)で、特に夏祭は、神輿・山車が出て盛大に行なわれる。
                                      案内板より引用

        
                                     鳥居正面
          境内は隣接する他の2社より遥かに広大で開放感がある。
       
   鳥居の手前には灯篭が一対奉納されているが、夫々に力石らしきものも置いてある。
         詳しく実見していないので、刻印された日時等は分からず。
        
                           北本七福神の一 「寿老人」の祠 
        
                            境内参道より拝殿を望む。
 祭事が近づいているのであろう。参拝当日には祭事用の準備の金具が拝殿前に設置されていた。

須賀神社 御由緒
□御縁起
『埼玉県地名誌』によれば、鎮座地の荒井は、古くは新井とも書き、開墾集落を意味する地名であるという。江戸期、隣接する諸村との間で、秣場をめぐる論争が長期間にわたって続いた。元禄十年(一六九七)の「秣場論所裁許状」(矢部家文書)によれば、その原因は、かつて当村・石戸村・下石戸村・高尾村の四か村が一村であったのを分村し、村境が複雑になったためであるという。ここでいう一村とは中世の石戸郷を指すと思われるが、分村の時期については不明である。
当社は旧荒井村の北端に鎮座している。江戸期は社名を牛頭天王社と号していたことから、現在も地元の人々から「天王様」と通称されている。『明細帳』には「創立ハ天正年間(一五七三-九一)ナリト棟札アリシカ去ル明治十一年二月火災ニ罹リ焼失ス」とあり、創建を天正年間と伝えている。『風土記稿』荒井村の項には「牛頭天王社 当村の鎮守なり 双徳寺持」とある。別当の双徳寺は、川田谷村(桶川市川田谷)天台宗泉福寺末で千手山慈眼院と号した。
神仏分離後、双徳寺は廃寺となり、当社は社名を須賀神社と改め、明治六年四月に村社に列した。明治十一年二月には、社殿が焼失したが、同年中に再建された。その後、社殿が老朽化したため、昭和五十七年に現在の社殿が建立された。(以下略)
 
社殿右側に設置されている、神興庫であろうか。       境内社・三峯社(推定)

「北本デジタルアーカイブス」には、〈荒井の須賀社の創建は、県立文書館所蔵「神社登録台帳」に「創立ハ天正年間ナリト棟札アリシカ去ル明治十一年二月火災ニ罹り消失ス同年中今ノ如ク假社ヲ建テ鎮祭ス同六年四月村社二列セラル字東原二稲荷社アリシカイツ頃力合祭シタリト云傳」と記載されている。また、由緒追記として「大正六年四月四日 宇東原無格社浅間社 字無格社橿城神社及 社境内社須賀社三峯神社 字無格社神明社ヲ本社、合祀」とある。さらに、大正十八年九月一日 道祖神社・牛頭天王社・稲荷神社が合祀されている〉との記載があり、多くの境内社がこの社に祀られていることが記されている。残念ながら参拝した時点で確認できた境内社はこの一基のみ。「北本デジタルアーカイブス」に紹介されている「配置図」により、この祠は三峯社であることが分かったが、他の社は不明だ。
        
                                   境内の一風景

 余談な話を一つ。須賀神社が鎮座する「荒井」地域。嘗ては「新井」とも称していたとの「埼玉の神社」の記載もある。この「新井」は埼玉県第一位の大姓でもある(因みに近年人口が急激に増加したため、現在では県内第5位となっている)。
「新井」苗字に関しては埼玉県内の順位が5位で74,200人にあるのに対し、全国では82位の203,000人となっており、全国の「新井」苗字の36.5%が埼玉県在住であるという。筆者にも「新井」苗字の知人が多数いて、さぞや「新井さん」は全国的にも多いのであろうと思っていたのだが、この統計にはビックリしている。
「名字の由来」と「地名の由来」をまとめているサイト「民俗学の広場」によると「新井」は、関東地方北部特有の苗字で、埼玉県北部から群馬県東部、栃木県西部に多いとされている。「あらい」には「新しく開拓した土地に住む」という意味があるといわれており、新田開発の指導者が事業にちなんで名乗っていたという記録もあるようだ。また地名は「イ」には井・堰・居などの意味があり、広くは開墾集落を意味すると思われる。

*『新編武蔵風土記稿』に記されている「新井」に関しての記述は、あまりにも膨大で多いので、旧高尾村に関連した「新井」苗字を紹介する。
『新編武蔵風土記稿 高尾村条』
旧家善次郎、元は菊地氏にて何の頃よりか新井を冒せり。先祖を菊地豊前と云、其子に図書助隼人など云あり。是等卒年を伝へざれど、豊前が二百年の追福を寛保二年取行ひしといへば、天文年中の人なること知らる。成田分限帳に菊地図書・十貫文を知りしこと見ゆるは、則豊前が子なるにや、旧記を失ひたれば詳なることは考うべからず」
『新編武蔵風土記稿 横見郡高尾新田条』
高尾新田は、足立郡高尾村の民、善次郎が祖先荒井門太郎と云者開きし所にて、今も同所里正の持なり」



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「境内案内板」等
                  

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高尾厳島在弁天神社

 弁才天は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーを漢訳し,女神の姿に造形化したもので、元はインドのサラスバティー川の河神であり,のちに梵天の妃となったが広く信仰され,これが仏教に取入れられて音楽,弁舌,財富,知恵,延寿を司る女神となった。
 日本の弁才天は、神仏習合によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた。吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国で伝えられるそれらとは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることが多い。また、農業の神、宇賀神(うがじん)とも同一視されることがある。「七福神」の一員としても知られており、七福神唯一の女神であり、琵琶を演奏する様子も印象的だ。
 北本七福神の一社にも数えられているこの社は、古くより養蚕の信仰があったが、養蚕家が少なくなった現在、安産・女性の守護神として崇敬されているという。それ故に、本来高尾氷川神社の境外社と位置付けられている社であるが、一稿として紹介した次第である。 

        
             
・所在地 埼玉県北本市高尾8119
             
・ご祭神 市杵嶋姫命
             
・社 格 高尾氷川神社 境外社 北本七福神 弁財天
             
・例祭等 春祭 418
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0226964,139.5083715,17z?hl=ja&entry=ttu

 高尾氷川神社の正面鳥居を中心にして扇型に道路が分かれるが、その左斜め方向に向かうとすぐ左手に高尾厳島在弁天神社の鳥居が見えてくる。高尾氷川神社から西側裏手にあり、石段を下った先の池の中央に鎮座する一風変わった配置の社である。
        
         高尾氷川神社からは垣根を挟んで道路で分けられて鎮座する。
 高尾厳島在弁天神社の鳥居は道路の左側に見えるが、一段低い場所にあるのがこの写真からでも分かる。
       
                          高尾厳島在弁天神社正面
 龍が杉の大木から昇天したという「龍燈杉伝説」があり、この杉が倒れた跡地にできた池に祀られた社という。
 
 宮岡の谷津の湧水点に鎮座し、社殿が低地にあるため、階段を下りて参拝するという珍しい様式の神社(写真左・右)。規模は全く違うが、群馬県富岡市一ノ宮に鎮座する一之宮貫前神社を彷彿とさせる社である。

高尾氷川神社境内案内板」には以下の記載がある。
 昔、御手洗川のほとりに御神木といわれた幹周り二丈五尺余(約八メートル)もある杉の大木があり、この杉より龍が昇天したと伝えられる。元禄十四年(一七〇一)十月二日の大風でこの御神木は根元より吹き倒されたため、これを惜しんだ氏子たちが、その跡を掘り上げて島を造り、社を建てたのが厳島神社の起こりと言われている。
 厳島神社の御神体の尊像は、宝暦六年(一七五六)江戸神田新銀町中島屋久四郎という者が弁財天のおつげにより、この地を訪れ奉安したものといい、現在の石橋、石段もその時奉納したものといわれている。
 明治以降は養蚕の守護神として参拝されるようになった。

        
                                高尾厳島在弁天神社拝殿

 日本神話において「水の神」の祖は、罔象女神(みずはめのかみ)であったといわれるが、渡来の祇園の牛頭天王(ごずてんのう)須佐之男命(すさのおのみこと)が習合して(神と仏と折衷して一体となること。)祇園様と呼ばれ、水神となったように、時代によって信仰は多くの神々をつくりだしていった。
 そして水神も世の中が複雑化していくにつれて、他の神へと転化されていくことも多くなってきた。弁財天もその一人である。弁財天は一般に『弁天様』といって、七福神の紅一点で美女の代名詞になってよく知られている。インドの古代神話で河川を司る水神であったが、仏教とともに日本に伝わった。
 日本は、多神教の国であり、神にしろ仏にしろ、そしてその他の神もその数は無数である。そしてある一体が時によっては神になったり、仏になったりする。また神か、仏か、いずれに属するのか不明のものもなかにはある。『七福神』など元来は仏教関係で仏様を守護する神がわが国に渡来して以来、中国の道教思想が取り入れられ、さらにわが神道思想と相まって七福神という神様ができあがった。呼び名として『大弁才功徳天』『妙音天』『美声天』などがあるが、土地を沃し、五穀豊穣をもたらす『水神』として農民に尊敬されて、よく水辺とか、川辺に祀られ、水を司る神とされていた。このほか水の流れる音に因んで、音楽の神、弁舌(知恵)の神などの『技芸神』として花街の女性や多くの人々の信仰をあつめた。また、財福の神、名利を望む人に功徳があるとされ、『弁才天』が『弁財天』に改められ、現在では『水神』『農神』より、ついに『財福の神』『福神』へとその性格が変わっていった。

 高尾厳島在弁天神社の南西部には『さいたま緑のトラスト協会』が認定している「高尾宮岡の景観地」が存在している。この地は大宮台地の浸食により形成された谷津(やつ)と、それを取り囲む斜面林からなる里山景観が残されていて、湧水が2か所から流れ、入り口付近には湿地帯も見られている。この地域は嘗てこのような豊かな湧き水が流れる自然豊かな場所であったのであろう。この社の池も宮岡の谷津の湧水点に鎮座しているという。更に農業用水の供給源としての水神信仰が、これらの地域には古くからあって、この水神信仰が水神としての弁財天と結びついていったと思われる。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」「北本市産業観光課HP」「高尾氷川神社境内案内板」等
       

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高尾氷川神社

 北本市は、埼玉県の中東部に位置する市である。人口は約65千人。江戸幕府による宿駅整備以前の1602年(慶長7年)までは中山道の宿場、鴻巣宿があったことが地名の由来である。
 地形をみるに、大宮台地の北端部に位置し、その大部分は台地の上にある。台地の西部は荒川の低地に面し、東部は元荒川の低地によって限られていて、北の鴻巣市と南の桶川市とは、いずれも同じ台地で連続している。市の西部の高尾・荒井・石戸宿付近の標高は30mに達し、大宮台地の最高点にあたっている。因みにこの高度は、南の桶川市川田谷まで続き、大宮台地の長軸の方向に平行している。
 北本市の遺跡の分布をみると、荒川の低地に面する台地の西部に多くの遺跡が発掘されている。縄文早期・前期では高尾706番地の高尾遺跡、同後期・晩期では高尾字宮岡の宮岡遺跡、縄文期から古墳期にわたっての遺跡としては、下石戸下字久保の榎戸遺跡、高尾字東谷足(ひがしやだり)遺跡、荒井字北袋遺跡などがある。古墳前期の集落跡としては石戸宿遺跡があり、後期の古墳群としては、荒井字八重塚の八重塚古墳がある。
 こうした一群の遺跡は、北は鴻巣市の馬室地域から、南は桶川市の川田谷に続く一連のもので、原始時代以降連綿として一連の地域が生活の舞台をなしていたことを示している。
 北本市高尾地区に鎮座する高尾氷川神社は縄文時代から続く生活の営みを続けてきた人々の土台の上に社を立てている。正に「神社」あるところ「歴史」あり、である。
        
             
・所在地 埼玉県北本市高尾731
             
・ご祭神(主)素戔嗚尊 
                 (相)市杵嶋姫命・大雷命・誉田別命・大物主命・菅原道真公
             
・社 格 旧村社 高尾・荒井・北袋・石戸宿・石戸上村鎮守
             
・例祭等 春祭 418日 例祭 718日 秋祭 1018日 他
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0253321,139.5076559,16z?entry=ttu

 北本市高尾地域は北本市西部に属し、鴻巣市原馬室地域の南部で接している。原馬室愛宕神社に接して南北に通じる道路を800m程南下すると、「高尾二丁目」交差点に到着、同時に埼玉県道57号さいたま鴻巣線との合流地点となるが、そこを更に300m程南方向に進むと「高尾氷川神社入口」交差点に達する。
 この交差点は嘗ての「鎌倉街道」とも接していて、右斜め方向先にはその案内板もあるが、車は進行禁止となっているので、一旦真っ直ぐに進むと、すぐ先の十字路には「氷川神社」とその進行方向を示す案内板があるので、その指示通りに進むと、高尾氷川神社入口に到着する。
        
                「伝鎌倉街道」の案内板
 高尾氷川神社の散策前に、この地域を南北に通っていた「鎌倉街道」・正確には「鎌倉街道中道の枝道」を紹介。正直この地に来るまでは伝鎌倉街道があること自体知らなかった
 伝鎌倉街道
 鎌倉幕府の成立とともに整備された鎌倉街道は鎌倉と関東諸国・信濃・陸奥とを結んだ歴史の道として知られています。かつての鎌倉街道には、上道・中道・下道の幹線とそこから派生する大小の枝道が発達していました。
 北本市内の西部には、古くから鎌倉街道と伝わる古街道が南北に通っています。
 この街道は中道から枝分かれして荒川沿岸を北上し、群馬県へと通じる上野道と考えられており、支道としての役割を果たしていたようです。
 街道沿いには中世の城館跡や寺院等の文化財が数多く存在し、歴史的に重要な街道であったことがうかがえます。
 この街道のルートは、上尾市の平方から桶川市の川田谷をへて、市内では庚塚(芭蕉句碑)─石戸宿─須賀神社・氷川神社─
  道標「これより石と舟とミち」
 ─鉄砲宿を結んでいたと伝えられています。 平成2912月 北本市 北本市教育委員会
                                      案内板より引用

 
      ⇐ 庚塚(芭蕉句碑)方向            鉄砲宿・鴻巣方向 ⇒
 鎌倉街道中道の主街道ではない枝道であるとはいえ、「いざ鎌倉」と呼び声高く鎌倉武士が鎌倉目指して参集したのであろう。考えてみたら多くの武士団の需要があってこそこの枝道は開発されたと考えるほうが普通である。今ではすっかり綺麗に整備された街道周辺であるが、開発当時はどのような風景があったのであろうか。想像は尽きない。
        
                  高尾氷川神社正面
 平安時代の貞観11年(869年)創建と伝えられる、鎮守の森の風格漂う古社。室町時代中頃に武蔵国一宮の大宮氷川神社を分祀した。宮岡の谷津を望む台地に鎮座し、辺り一帯は縄文時代の遺跡があり、多くの遺物が出土しており、嘗て大きな集落があったことがわかっている。
 
  鳥居上部の社号額には「高尾氷川神社」    鳥居の先には当社の御祭日が記された
       と刻印されている。           案内板が設置されている。
        
                         鳥居を越えて参道を通る途中にある案内板
 氷川神社 
 所在地 北本市大字高尾字宮岡一〇七七番地
 氷川神社の祭神は素戔嗚尊、市杵嶋姫命、大雷命、誉田別命、大物主命、菅原道真公である。
 貞観十一年(八六九)十月十八日に創建され、高尾村、荒井村、北袋村、石戸宿村、下石戸上村他の鎮守としたと言う。また、境内には厳島神社も祭られている。
 昔、御手洗川のほとりに御神木といわれた幹周り二丈五尺余(約八メートル)もある杉の大木があり、この杉より龍が昇天したと伝えられる。元禄十四年(一七〇一)十月二日の大風でこの御神木は根元より吹き倒されたため、これを惜しんだ氏子たちが、その跡を掘り上げて島を造り、社を建てたのが厳島神社の起こりと言われている。
 厳島神社の御神体の尊像は、宝暦六年(一七五六)江戸神田新銀町中島屋久四郎という者が弁財天のおつげにより、この地を訪れ奉安したものといい、現在の石橋、石段もその時奉納したものといわれている。
 明治以降は養蚕の守護神として参拝されるようになった。
 なお、氷川神社の祭事は、春祭四月十八日、例祭七月十八日、秋祭十月十八日に行われている。
                                      案内板より引用


『新編武蔵風土記稿 高尾村条』には「相傳ふ当村古は田高村と呼び、鎌倉右大将家の臣石戸某の采地なりしに、」、また同じく『新編武蔵風土記稿 田甲村条』にも「当郡東の方荒川を隔て足立郡高尾村あり、古は田高とも記せし由、是田甲の転訛ならん」と、「高尾」という地域名は嘗て「田高・田甲」と記されていた時期があったらしい。
 この北本市高尾地域から吉見郡田甲地域は直線距離でも8㎞程離れているが、この両地域は何かしらの関連性があるのであろうか。
        
                綺麗に手入れされている参道
                          新緑が映える参道の先に拝殿が見える。
        
 参拝日は2023年7月6日で、「茅の輪くぐり」の祭典が行なわれていた。茅でできた輪をくぐることによって罪穢れを祓うと云われ、参拝当日も厳かな気持ちでくぐらさせて頂いた。
        
                     拝 殿
(高尾村)氷川社
 文明五年大宮氷川の男體を勧請せり、神體素戔嗚尊本地佛正観音なり、當村及び荒井・北袋の三村其外石戸宿・石戸上村の内にても鎮守となせるなり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

氷川神社 北本市高尾七-三一
高尾の地内には、氷仁二年(一二九四)をはじめとする五〇基以上の板碑が現存し、古くから開かれた所であった。
当社は『明細帳』に「貞観十一年(八六九)十一月十八日創立」と載せているが、明らかでない。『風土記稿』高尾村の項には「氷川社 文明五年(一四七三)大宮氷川の男体を勧請せり、神体素盞嗚尊本地仏正観音なり、当村及び荒井・北袋の三村其他石戸宿・石戸上村の内にても鎮守となせるなり」とあり、更に「別当泉竜寺 当山派修験、京都醍醐三宝院の配下、古は大行院と号せしが、享保十二年三宝院指揮にて、慈眼山泉竜寺とぞあらためしと云、本尊不動を安置す」とある。中世において一宮の氷川神社にかかわる修験が武士や郷村を巡回しながら氷川信仰を流布していったとされていることから、当社もこのような修験の教宣活動を背景に当山派修験大行院の手によって氷川の男体が勧請されたものであろう。
江戸期に入り、当地を含む石戸領を知行した旗本牧野氏が当社を祈願所として崇敬を寄せたことが『明細帳』に記載される。ちなみに、牧野康成が天正十八年(一五九〇)以降に川田谷村(桶川市)に陣屋を構え、孫親成のころまで存続したとみられる。
神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。また、泉竜寺は廃寺となり、代わって吉田家が祀職となり、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                          社殿には、奉納された額も飾られている。
   この額は記紀の神話「天の岩戸開き」伝説をモチーフにして描かれている物であろう。
        
             拝殿の右側に祀られている境内社・琴平神社
          北本七福神(恵比寿・大黒天)であり、中には可愛い神様たちが祀られている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉県市町村誌」「広報きたもと」「北本市産業観光課HP」
    「さいたまの神社」「Wikipedia」「北本デジタルアーカイブス」「境内案内板」等

 

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