古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下野本天神社


        
              
・所在地 埼玉県東松山市下野本969
              
・ご祭神 菅原道真公(推定)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0166884,139.42102,18z?hl=ja&entry=ttu
 当日川島町での神社散策が大方終了し、帰路についていた途中で、気になる場所をナビで確認し、そこで出会った社。埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を東松山インター方向に進路をとり、254号と交わる「古凍」交差点から900m程進んだ場所に鎮座していて、野本日枝大神社からは南東方向で直線距離で430m程しか離れていない。
 専用の駐車場はない。下野本天神社の鳥居と県道沿いで鳥居の東側に隣接している「地蔵尊石塔」のお堂周辺に適当な駐車スペースはあり、そこ周辺の通行に支障のない場所に停めてから急ぎ参拝を開始する。
        
                              
下野本天神社鳥居正面
                 鳥居の右側にある社号標柱には「村社」と刻印されている。
 下野本天神社周辺の地形を確認すると、概ね新江川の左岸は台地、右岸は低地であり、新江川は都幾川が形成した沖積地の中を流れているようだ。新江川附近が16m17m程の標高であるのに対して、その北側の県道沿いが平均18.5mであるので、県道付近はその北側にある台地に続く上り坂が多く形成されている。
 因みにこの地域の小字は「曲輪」。古の村名であり、延宝七年屋代文書に「曲輪村」との記載がある。嘗てこの地には「館跡」や「城址」等あったのであろうかと勘繰りたくなるような小字名である。
        
            高台・ないしは塚上に鎮座する下野本天神社
          このアングルを見た限りでは意外と立派な社である。
 木製の鳥居を過ぎると左側に高さ約3m程の盛り土の台地があり、その上に南に広がる肥沃な沖積地を見守るように祀られている。すぐ南側には新江川があり、その南に都幾川が流れる。新江川も都幾川も過去に幾度も氾濫して水田に大きな被害をもたらしてきた。この社は、天の神(天神)に洪水を鎮め、水害が起こらないように祈る地域住民の願いが込められたものと推察することができよう
        
                                        拝 殿
 残念なことにこの下野本天神社に関して詳細な由来等書かれている書物やHPでの説明は筆者の調べた限りない。但し短いながらも『新編武蔵風土記稿』には以下の記述がある。
・十二天社 曲輪にあり、聖徳寺持ち、『新編武蔵風土記稿』より引用
 嘗てこの天神社は「十二天社」と呼ばれていた。
「十二天社」の由来として、古くからの十二様と称する土着の山の神を祀ったものと、熊野神社の系列のものとがある。前者の信仰は射日儀礼を含む「十二講」の習俗を伴い、北関東・甲信越を中心にして東日本の山間部に分布する。後者は十二所権現社などと呼ばれる熊野三山の神(熊野権現)を勧請して祀ったものであり、仏が人々を救済するために神の姿をかりて現れるという、本地垂迹説にもとづくもので、鎌倉時代から室町時代にかけて、全国の神社で本地仏が定められた。その後、それらの中には明治の神仏分離によって祭神を「天神七代・地神五代」としている所もある。
 さて下野本天神社はどのような由来で嘗て「十二天社」と呼ばれていたのだろうか。
 
   拝殿に掲げてある「天神社」の扁額        参道左側に祀られている境内社。
                               詳細不明。
        
                          
「地蔵尊石塔」が祀られているお堂
 天神社参道の左隣お堂内に祀られている。赤い前掛け、帽子だけでなく、不思議な衣装を身にまとって、今日も道行く人々の安全を見守っているように見える。お堂の右隣に2つ石塔があるが、幾度かの水没や長年の風雪の影響もあるのか、損傷が進み、建立年代不詳です。右側の石碑は庚申塔に見えるが、左側のそれは分からず。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
Wikipedia」等

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上唐子氷川神社

 東松山市唐子地域は、市西端部に位置し、すぐ西隣は嵐山町菅谷地域となる。この地域は地形的に見ても経済的な交流も東松山市街地よりも国道254号線、埼玉県道344号児玉往還道を通じて西隣の嵐山町や北側に接している滑川町月輪地域との繋がりのほうが古くから強かったのではないかと思われる。
 地域の南部には嵐山町との町境ともなっている都幾川(ときがわ)がゆったりと蛇行しながら南東方向に流れている。都幾川は比企郡ときがわ町大野付近から流れ、途中、比企郡嵐山町大字鎌形で槻川が合流し、最終的には川島町長楽 (坂戸赤尾の白山神社付近) で越辺川に合流する。
 前々から気になっていた事項であるが、この都幾川とその支流である槻川は、前者は「トキガワ」、後者は「ツキガワ」と読み、似通った名称で正直まぎらわしい。嘗て『源平盛衰記』でも「月田川」と記していたが、風土記稿にはそのことに関して、「月田川とは槻川を槻田川と間違って記しただけで、青鳥村を流れるのは都幾川である」ことも補足として説明している。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市上唐子1674
             ・ご祭神 須佐男命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 夏祭り723日に近い土日曜日 七鬼神社の祭典827
                  秋祭り(おくんち)1017
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0352261,139.3352844,16z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、東武東上線・森林公園駅付近を通過する。その後関越自動車道合流地点目を左斜め方向に進み、「インター前」交差点を直進し、その後650m程進んだ「南中学校前」交差点までは前項下青鳥氷川神社と同じ。この交差点を右折し、埼玉県道344号児玉往還道に合流後、4㎞程東方向に進行し、「上唐子」交差点を左折、今度は同県道172号大野東松山線に入り、そこを道なりに南西方向に600m程進んだ右側に上唐子氷川神社が鎮座している場所に到着することができる。
 周辺には広い駐車スペースがあり、そこから社が鎮座している場所に移動する。
 県道沿いに鎮座しているとはいえ、高台上に社はある為、一見すると分かりづらい。県道から右側に伸びる道幅の狭い道があり、徒歩にて移動し、参道正面の鳥居に到着する。
        
                        高台上に鎮座する上唐子氷川神社

 写真で見る通り、県道沿いにありながら社の手前に立つと、周囲は樹木に囲まれた静寂な空気が日頃の喧騒を振り払うように包みこみ、階段下から境内方向を眺めると厳かな雰囲気が漂ってくる。
 暫く社前で挨拶、今回の出会いに感謝し、頭を下げてから参拝を開始する。今まで何度となく書いているが、高台上・丘陵地面に鎮座する社は、平野地に鎮座する社とは違う独特な雰囲気が周辺を包みこみ、そのどれも「色」が違う。筆者の少ない経験上からいうこともおこがましいことだが、その「色」の違いを感じることもまた社参拝の意義であると信じている。
        
                 一段目の階段を登りきるとまずは神明系の鳥居に達する。
鳥居の先には、参道の階段の両脇に杉の大木が屹立し、鳥居の門の間からは拝殿が見える構図。
     このような配置一つ取ってみても、社の神格を自然におし上げることができる。
        
              鳥居の手前右側に設置された案内板
 上唐子氷川神社 案内板
 所在地 東松山市上唐子字沼端一六七四
 由緒
 氷川神社は上唐子の鎮守として祀られている神社です。 ご神体は須佐男命です。いつ頃の創建か明らかではありませんが、「新篇武蔵風土記稿」に「氷川神社、村の鎮守なり。近き頃までに社内に慶長十年(一六〇五年)再建の棟札ありしが今失へり、常福寺の持」と記されていることから、一六〇五年以前であったようです。
 慶安三年(一六五一年)に唐子村が上下に分村していたことが分かっていますから、この分村を機会に、氷川神社が上唐子の鎮守になったと思われます。
 明治五年六月、上唐子村の村社となりました。
 近年の大きな出来事として昭和六十一年六月二十二日、不審火によって本殿が全焼しました。又平成二十年八月二日、放火により再び本殿を焼失しました。氏子一同再建に力を合わせ、平成二十一年十二月十二日、本殿のの竣功祭、遷座祭を執り行いました(以下略)
                                      案内板より引用

        
                            階段下からのアングルがまた良い。
 
   階段を登りきると広い境内に達する。       再度階段下の鳥居方向を撮影。
        
                                    拝 殿
 氷川神社 東松山市上唐子一六七四(上唐子字沼端)
 当社は大字上唐子の鎮守として祀られている。鎮座地は、上唐子の西方の高台にあり、林に囲まれた静寂な地である。
 創建については明らかでないが、『風土記稿』には「氷川社 村の鎮守なり、近き頃まで社内に、慶長十年(一六〇五)再建の棟札ありしが今失へり、常福寺の持」と記されている。
元禄元年(一六八八-一七〇四)までには、唐子村が上下に分村していたことから、この分村を機に上唐子村の鎮守となったものであろう。
 別当の常福寺は、下青鳥村浄光院門徒で、無量山佛音院と号する天台宗の寺院であったが、明治 初年の神仏分離により廃寺となった。その跡地は、当社の東方三〇〇メートルほどの所である。
 明治六年、古くから村の鎮守であったことから村社に列した。
 造営については、慶長十年の再建の後、慶応二年(一八六七)に社殿大破に付き新たに建立されたことが『明細帳』に記されている。近年では、昭和六十一年六月二十二日に不審火によって社殿が全焼したため、二年後の同六十三年四月に氏子崇敬者の協力のもと、再建がなされている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 上唐子氷川神社が鎮座する地は、都幾川が
蛇行しながらも南東方向に流路を変える左岸高台上にあり、直線距離にして1.5㎞程上流部は支流である槻川が都幾川と合流していて、河川としても流水量が増え、河口幅が広がる地域である。当然この地に社を創建した目的も「水難からその地域の民を守る」為に氷川様を勧請・創建したのであろう。
        
               拝殿左側に並んで祀られている境内社群。
      左から「七鬼神社・疫神様」「八雲神社」「天神社・日吉神社」「稲荷神社」

 実のところ、県道沿いに社があることは、参拝日前日に確認していたが、当地に行ってみて、駐車スペースから参拝を行う際に、ちょっとしたミスを犯してしまった。
 参拝する際に、県道沿いに見えた石段があったので、そこを上がってみると、そこは社務所らしき建物に通じるルートで、正面の鳥居がある場所ではなかった。
 
 県道から見える石段(写真左)。その石段を登ると「飯縄大善神」と刻印された石碑がある(同右)。「飯縄」とは信濃国上水内郡(現:長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神で、一般的には炎を背にし、利剣を持ち、白狐の上に乗る烏天狗めいた姿で描写されていて、関東以北の各地で熱心に信仰され、特に高尾山薬王院は江戸時代には徳川家によって庇護されていた。
 
一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏(特に細川政元)、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰されたという。
 その飯縄信仰とこの地にどのような経緯があり、このように祀られたのだろうか.
 
「飯縄大善神」の石碑から県道側の斜面上に設置されていた「富士浅間神社」の石碑(写真左)。基礎部分には「登山記念」と刻印されている。またその奥にも祠があるが(同右)、詳細は不明。


 ところで冒頭で掃海したこの都幾川とその支流である槻川は、前者は「トキガワ」、後者は「ツキガワ」と読み、似通った名称だ。『新編武蔵風土記稿』にもそのことに触れ、「比企郡之一 郡国 総説」には以下の記載を載せている。

【都幾川】
 郡の中程を流る。水源は秩父郡大野村の山間より出、郡中慈光山の渓澗より湧出する清水と合して一条の川となる。慈光山を都幾山と号す故に此川を都幾川と号すと云ふ。又郡西別に槻川ありて下流、この川に合す。ときとつきとは音も近く似てまぎれやすし。
『源平盛衰記』に木曾越後へ退きにし頼朝勝に乗に及ずとて武蔵国月田川の端あをとり野に陣取とあり、
 今下青鳥村は郡の中央にて則この川槻川と合せしより遙に下流の崖にあり。されば彼記に月田川と記せしは此川をさすこと明なり。田の字もし衍字ならんにも当時下流までつき川と号せしならん。されど今は槻川と合てより下流はすべて都幾川と号して槻川とはいはざるなり。此水流都幾山の下より艮へ流れ、鎌形村の北にて槻川とあひ、東流して又巽にをれ、上伊草村の西にて越辺川に入る、川路七里ばかり、上流は山間なり。下流平地の間には堤を築きて水溢にそなふ。河原の濶二百間、水清浅なれば所々に歩行渡する所あり。冬春の間ばかり橋を架して往来を通す、
槻川】
西の方にあり。水原は秩父郡白石村の山間より出、郡中腰越村にいり、東の方へ屈曲して小川村に至る、此所にて兜川と云小流と合して一となり、鎌形村の北に至りて都幾川に入,
水源よりこゝに至リて三里ばかり、川幅大丁五十間,

 埼玉県比企郡ときがわ町にある天台宗の寺院である慈光寺(じこうじ)は、山号を都幾山(ときざん)といい、都幾川の由来ともなっている。慈光寺は江戸時代平村に所在し、平村と雲河原村は嘗て都幾庄(とき)を唱えていて、慈光寺の山頂にある標高540mの都幾山 (ときざん) からその庄名もきたという。
 但し同時に平安時代中期に作られた辞書として有名な『和名類聚抄』には、比企郡都家郷を載せているが、「つけごう」と読み、更に平安時代末期に写本された『高山寺本』に「豆計」、室町時代中期の『東急本』、17世紀初頭の版本である『元和古活字本』に「都介」や高山寺本の系統に近いといわれる名古屋市博物館本にはわざわざ「ツケ」の訓がふってある。

 つまり都幾川の「都幾」は「とき」よりも「つき」と読む可能性が高い書簡が多く存在することは確かであるだろう。
 またこの「つき」地名に関しては、浦和市に鎮座する「調神社」にも関連する事項ではあるが、今回はかなり長くなったので、ここらで筆を下ろしたい。



参考資料「和名類聚抄」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」  
    Wikipedia」境内案内板」等

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下青鳥氷川神社

 東松山市青鳥地域、この地域名である「青鳥(おおどり)」地名由来は今一つハッキリとは分からないが、一つの説として、比企郡総社である「伊古乃速玉比売神社」が関係しているという。『新編武蔵風土記稿 伊子村条』には以下の記載がある。

「伊古乃速玉比売神社 一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稲荷・愛宕を相殿とす、当社は郡中の総社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比売神社とあるは、即ち当社のことなり、往古は殊に大社にて一の鳥居は近隣石橋村の小名、内青鳥と云所に立りしと云、按るに比内青鳥と云所は、「小田原役帳」に青鳥居とあり、されば古へ鳥居のありしより、地名にもおひしなど云はさもあるべけれど、當社の鳥居なりしことは疑ふべし、ことに間二里餘を隔てたり、また比社式内の神社と云うこと、正しき證は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中総社とも崇ることなれば、社伝に云る如く式社なるもしるべからず、ともかく旧記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり」

 ここで「青鳥」という地名は伊古乃御玉比賣神社の一の鳥居があった石橋村小名内青鳥であり、「鳥居(とりい)」が「青鳥居(あおとりい)」→「青鳥(おおどり)」と語音が変化してできた地名であるような説明がされている。
        
              
・所在地 埼玉県東松山市下青鳥64
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧下青鳥小名金谷鎮守
              
・例 祭 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0201599,139.3940381,16z?hl=ja&entry=ttu
 下青鳥氷川神社は東松山市下青鳥地域内に鎮座する。この下青鳥地域は東西に長く『新編武蔵風土記稿』にも「四隣、東は上下押垂の二村に隣り、南は都幾川を隔て元宿村に接し、西は石橋村の内、小字宿青鳥に続き、北は野本村なり、東西十五町、南北五町許、家敷六十、水損の地にして、用水は都幾川の水を沃げり(中略)」。と記載がある。「町」とは江戸時代以前に用いられた「条里制」を基本とした距離測定方法で、日本では古来「尺貫法」で長さや面積を表現した。「尺貫法」は東アジアで広く使用されていて、尺貫法という名称は、長さの単位に「尺」、質量の単位に「貫」を基本の単位とすることによる。ただし、「貫」は日本独自の単位であり、したがって尺貫法という名称は日本独自のものである。
 条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に63寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200 m11町と定めた。したがって1町は約109 mとなり、風土記稿に記されている「東西十五町、南北五町」は現代の距離に直すと「東西1.6㎞、南北0.5㎞」程になる。
 更に風土記稿では小字「金谷」に関しても「当所は廣き地にて、土人は一村のごとく金谷村と云へり」と記述されていて、この「金谷」の鎮守様が下青鳥氷川神社である。
        
                             
下青鳥氷川神社正面
 埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、東武東上線・森林公園駅付近を通過する。その後関越自動車道合流地点目を左斜め方向に進み、「インター前」交差点を直進する。650m程進んだ「南中学校前」交差点を左折し、350m先のT字路を右折し、道幅の狭い農道を進むと「上郷公会堂」が左手に見え、その東隣に下青鳥氷川神社は鎮座している。
 社に隣接している上郷公会堂の駐車スペースを利用してから参拝を行う。
        
       珍しい瓦つきの両部鳥居、彩色もない素朴なフォルムが逆に美しく感じる。
 鎮守地はインターチェンジ付近であるにも拘らず、どこか懐かしさも覚えるほどの田畑風景の中に民家が立ち並ぶ地域一帯。社周辺は静かで道路も昔基準の道幅が狭い農道。参拝する地元の方々も筆者が参拝中全く出会うことなく、心静かにお参りすることができた。
       
           鳥居を過ぎて参道を進み、その先に鎮座する社。 
境内は綺麗に手入れもされていて、参道周辺にある樹木もしっかりと剪定されている。また境内の所々に花も植えられていて、周辺の方々の社を大切に守ろうとする日々の努力も、実際に参拝することによって実感することができた。
        
                     拝 殿
                 拝殿の手前周囲にも花が植えられていて、気持ちが和む。

『新編武蔵風土記稿 石橋村条』において、嘗てこの村の小字には「宿青鳥」「内青鳥」「石橋」の3区に分かれていて、昔は「宿青鳥」「内青鳥」それに「下青鳥」を合わせて一村であったが、後分けて「宿内下」が3村となり、その後又「宿青鳥」「内青鳥」が石橋村に属し、「下青鳥」は元のごとく、1村として至っているとのことだ。

「宿青鳥」
村の北を云、土人の説に昔宿駅ありし地にて今も町割の跡残れり、よりて宿青鳥の名もありと云、
「内青鳥」
村の中程を云、当所に城蹟あり、山林にして反別凡二町許、今も西南の方には殻堀の跡あり、相傳ふ青鳥判官藤原恒儀と云人住せしと、是いかなる人といふことを知らず、按に隣村羽尾村の鎮守に恒儀の社あり、是れ青鳥恒儀の霊社にて天長六年九月廿日卒せし人なりと云、又当所の東に長さ一丈余、幅二尺五寸許の古碑あり、表面に応安二己酉卯月、施主〔敬白〕、右志者、引上道善〇霊七ヶ年之忌日〇〇件とあり、いかなる故にや、土人はこの碑をさして虎の御石と云、

 上記「宿青鳥」の地名に関して、昔昔宿駅ありとして「宿」の謂れは記載しているが、肝心の「青鳥」に関しては全く説明がない。
「内青鳥」に関しても、「青鳥」に関しての説明はないが、青鳥判官藤原恒儀が住んでいた城跡があって、その人物の本拠地は滑川町・羽尾地域に鎮座する堀の内羽尾神社との事だ。
        
                         拝殿から眺める境内の一風景

 下青鳥氷川神社から北西方向で、関越自動車道の左手・国道254号線北側には「青鳥城跡」がある。市内石橋に所在する青鳥城跡は東松山台地の南縁に位置し、南面を天然の崖、その他三面を土塁と堀で守る平城で、本郭を取り囲むように二の郭・三の郭が造られており、一部土塁と堀が現存している。
        
                  青鳥城跡 案内板

 青鳥城跡の築城時期と城主については諸説あり、はっきりとはわかっていない。もっとも古くは青鳥判官恒儀が築城したとの伝説があり、城名の由来となっています。ただ青鳥判官恒儀が没したのが天長6年(829)とされ、近年の調査成果や周辺の同時期の状況を踏まえて考えると築城時期がここまで遡るとは考えにくのが現状である。
『源平盛衰記』には源頼朝が寿永2年(1183)に出陣した際、「青鳥野に在陣」との記述があるが、城跡や館跡の存在を示す記述はない。
 
    本丸付近にある「青鳥城址」の石碑      本丸付近 想像した以上に広大な敷地        
市内神戸(ごうど)地域に所在する妙昌寺の縁起によると、同寺を開基したのが青鳥城主・藤原利行とされ、日蓮上人が文永8年(1271)に佐渡へ流罪となった際、青鳥城に宿泊したと書かれている。また『鎌倉大草紙』などの複数の文献には上杉憲実が永享12年(1440)の結城合戦の際、「野本・唐子に逗留」したとの記載があり、この場所を青鳥城とする意見もある。
 また「太田道灌状」によると文明10年(1478)に青鳥城に在陣したとの記述がある。
       
             
二の郭外側の堀(写真左・右)。堀は深く、強固な造りとなっている。

 様々な文献にみえる青鳥城の痕跡と、発掘調査で出土した遺物、現存する遺構の状況などから青鳥城跡の築城経過を推定すると、13世紀初頭から14世紀初頭ごろ(鎌倉時代)に、青鳥城跡の前身となる武士の館が整備され、その後15世紀初頭から16世紀末頃に、関東の覇権をめぐる争いが激化したことを受け、現在のような複数の郭・土塁・堀をそなえた城へと拡充再整備されたと推定されているようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」
Wikipedia」等

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今泉鷲神社


        
              
・所在地 埼玉県東松山市今泉278
              
・ご祭神 日本武尊(推定)
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0110294,139.4341625,18z?hl=ja&entry=ttu
 古凍鷲神社から一旦県道、国道254号線へと戻り、そこから国道を川島町方向に東行する。
650m程進み、「流通センター入口」交差点を右折し、更に200m程先のT字路を右折すると「今泉公会堂」が右側に見えるが、その北側に隣接して今泉鷲神社の社叢林が目視でも見えてくる。
 今泉公会堂には駐車スペースも数台分確保されていて、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。
               
               
正面鳥居の右脇にある社号標柱
 正面にある鳥居は残念ながら改築中でネットが一面張り巡らされ、撮影することができなかった。
 昭和の初め頃はこの一帯は一面うっそうと山林が広がり、氏子からは「鷲山」と言われていたという。当時当社を管理していたのは真言宗鷲宮山宝蔵寺で、「鷲宮山」と号していた。明治の初めの神仏分離令により宝蔵時からわかれ、明治の終わり頃に今泉村村社になった。
 今泉・古凍・柏崎地域には鷺・鷲神社が3社、比較的隣接して存在する。創建由来はそれぞれ不明ながらも当地域では必要な事象等あったのであろう。
        
               社叢林の中に鎮座する今泉鷲神社

 古凍地域に古くから伝承されている祭りに「古凍祭ばやし」がある。
・ 指定日 
昭和55年(1980年)110(東松山市指定文化財-無形民俗)
 囃子には江戸時代から演奏されていた古囃子と、明治初期に演奏技術の変革が行われて以降の新囃子とがある。明治30(1897)代は古囃子が盛だったがその後中断し、昭和3(1928)頃、吉見町の飯島新田地区で伝承されていたものが川島町の小見野神楽連を経て伝えられ復活した。明治の頃使われていたと思われる太鼓が残っており、墨書きから「東京浅草区亀岡町」の太鼓商「高橋又左衛門重政」の太鼓であることが分かる。太平洋戦争中は10年ほど中断し、昭和23(1948)に復活した。昭和29(1954)には屋台が新調されたが、昭和35(1960)頃になると字内を貫通する川越-熊谷線の交通量が激しくなり、屋台の曳き廻しは中止、根岸地区とのひっかわせも断念(根岸地区も屋台を所有していた)することとなった。現在は屋台を所有せず、トラックで代用している。地元鷲神社の祭礼の他に、今泉の鷲神社祭礼でも演奏を行っている。
・上演日
 415日に近い日曜日(お獅子渡御祭・おしっさま)
 715日に近い日曜日(神輿渡御祭・天王様)
        
                                     拝 殿
 鷲神社 東松山市今泉二七八(今泉字東町)
 今泉の名は『小田原衆所領役帳』に見え、弘治元年(一五五五)に検地が行われたことがわかる。このころには既に村落が形成されていたものであろう。
 当社の社叢は、今でこそ境内を覆うだけのこぢんまりとした杜であるが、昭和十年ごろまでは、その周辺一帯にまで広がる山林で松や杉の大木が林立し、氏子から「鷲山」の名で呼ばれていた。
 社伝によると、当社は大永二年(一五二二)に鷲宮町の鷲宮神社から勧請したことに始まり、その後、天和元年(一六八一)をはじめとして江戸期に五度の社殿造営を行ったという。『風土記稿』にも「社内に天和元年の再興の棟札あり」と記されている。享保十二年(一七二七)には、宗源宣旨により正一位の神位を授けられた。
 往時の別当は、真言宗鷲宮山宝蔵寺である。開山の忠祐が天正二年(一五七四)に示寂していることから、当社と同じころに創建されたものであろう。
 明治初年の神仏分離により宝蔵寺の手を離れた当社は、明治三十二年に村社となった。
 神仏分離の後、神職は野口儀助・沢田豊・沢田豊行と継いでいる。
 なお、隣村の古凍でも鎮守に鷲神社を祀っており、当社の創建と何らかのかかわりがあると考えられる。
                                    「埼玉の神社」より引用

今泉村  
鷲宮
「村の鎮守なり、勧請の年代詳ならず、社内に天和元年再興の棟札あり、寶蔵寺持」
寶蔵寺
「新義真言宗、横見郡御所村息障院末、鷲宮山と号す、開山忠祐天正二年の示寂といふ、本尊は薬師を安ず」
                                『新編武蔵国風土記稿』より引用

 

    
拝殿の左側に鎮座する境内社      拝殿右側に鎮座する御嶽山・八海山・三笠山
      
大六天神社の石祠等               並びに板石神群


参考資料「新編武蔵風土記稿」「高坂丘陵ねっと」「埼玉の神社」等
 

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古凍鷲神社

 8世紀初頭制定の大宝律令(たいほうりつりょう)により「郡(ぐん)」と言われる地方行政区画は定められた。この「郡」は「こおり」とも読む。行政単位として国の下にあり,郷,里,村などを含む区画である。施行自体はそれより50年ほど前の649年から「評(ひょう・こおり)」制が施行されていたのは,木簡(もっかん)などの史料から明らかであり、701年の大宝(たいほう)律令施行により郡制に改編され成立したと考えられる。
 9世紀頃から律令法制と社会実情が次第に乖離していき、同世紀末には律令規定に基づく地方統治が困難となると、10世紀以降、郡司の支配の変質、荘(しょう)などの増加によって、地域名化していった。16世紀の太閤(たいこう)検地によって、郡は諸村を統轄するものとされ、江戸幕府も郡名の復旧に務め、これを継承した。
 1921年(大正10)郡制の廃止が決議され、郡は行政区画としてのみ現在も存続している。
        
              
・所在地 埼玉県東松山市古凍499
              
・ご祭神 天日鷲命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 415日に近い日曜日(お獅子渡御祭・おしっさま)
                                   715日に近い日曜日(神輿渡御祭・天王様)
                   例祭 1014
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0189521,139.4331192,17z?hl=ja&entry=ttu
 柏崎鷺大神社から一旦南下して国道254号線東松山バイパスに合流した後、川島町方向に東行し、「古凍」交差点を左折する。埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を350m程進んだ十字路を左方向に進路を変えてそのまま道なりに進むと古凍鷲神社の赤い鳥居が見えてくる
 鳥居を過ぎた参道の先には「古凍公民館」もあり、その東側には広大な駐車スペースも確保されているので、駐車場の心配は全くない。
        
               境内前に設置されている社号標柱

 柏崎から古凍地域は東松山台地の南東、西に都幾川、東に市野川を望む広い沖積地の中央に大きく突出した舌状台地上に位置し、また市野川に沿って舌状に延びた台地であり比高が高いので、市野川等が氾濫をおこしてもその被害は決して甚大ではないので、堤防等も設けられていない。その地形的な利便性もあり、古凍柏崎古墳群、古凍遺跡等が点在するなど早くから先人によって開拓された地味肥沃な畑地帯であったようだ。
古凍古墳群
 埼玉県東松山市古凍にある古墳群で、松山台地突出部に構築された古墳群で12基が現存している。早くからその所在が知られていたが、耕作などにより多くの古墳は削平され、墳丘の残っている古墳はカンベ塚古墳をはじめ9基である。かつては北部に展開する柏崎古墳群と一括して「柏崎・古凍古墳群」と呼んでいたが、発掘調査が進むにつれ両者の質的・年代的な差異が明らかにされ、それぞれ別の古墳群として扱われるようになった。
古凍4号墳
 直径約30m・高さ5mの円墳。古墳群内で現存する最大の古墳である。1994年(平成6年)、東松山市遺跡調査会により東側の調査が行われた。周溝は隣接する3号墳を避けるようにして造られ、一部を掘り残した歪んだ形をしている。また、築造時の墳丘は直径42メートルあったと推定されている。周溝の途絶部分からは4基の土坑が発見され、鉄製壺鐙、環状鏡板付轡、鞍金具などの馬具が出土した。これらの土坑は6世紀末から7世紀初頭にかけて造られたと考えられる。
 土坑出土の馬具は、2002年(平成14年)322日付で県指定有形文化財に指定された。
県指定有形文化財 古凍4号墳内土壙出土鉄製壺鐙及び馬具
 6世紀末から7世紀初頭(古墳時代後期)の馬具で、鉄製壺鐙は県内初の出土例です。鐙とは馬具の一種で、鞍の両脇にさげて足を乗せるものです。輪鐙と壺鐙があり、壺鐙は足先の覆いをつけたものになります。これは、完全な形を留めた優品で、当時の金工技法・技術を知る上でも学術的価値の高いものです。これらの馬具は、古凍4号墳の周溝のすぐ外側に作られた土壙より出土しました。土壙は3基掘られており、それぞれに馬具が納められていました。馬の骨や歯は出土しませんでしたが、古凍4号墳の被葬者の持ち物であった馬とともに葬られた可能性もあります。

        
                           正面古凍鷲神社の赤い両部鳥居
 
鳥居の社号額には「正一位鷲宮大明神」と表示    社の境内は広大で、日頃の手入れも
                            行き届いているようだ。
        
             駐車スペースに設置されている
『野本東部土地改良事業完成記念碑』

『野本東部土地改良事業完成記念碑』
 本野本東部土地改良区は、松山台地の東端に位置し、古凍柏崎古墳群、古凍遺跡等が点在するなど早くから先人によって開拓された地味肥沃な畑地帯であり、大字古凍・今泉・柏崎・下野本及び吉見町大字江綱からなる総面積百二十ヘクタールに及ぶ地域である。
 畑作は桑・麦・野菜・果物を主体とし、農業経営も畜力から動力へと移行し、近年は大型機械の導入により近代化が普及し農産物の増産に精進してきたところであるが、農道網は狭小屈曲にて大型機械の侵入困難や利便性に欠け、区画も不整形にて高能率が図れない状況にあった。
 この旧態依然である有様を憂い、農業基盤整備の機運が高まり市の指導のもとに昭和五十二年に調査計画を樹立すると共に、非農家への事業参加の啓蒙を図り、同五十三年農林水産省補助事業として団体営土地改良総合整備事業の採択を得ると共に、土地改良区の設立を行い、同年総合的な農業基盤の整備として非農用地(宅地・原野・山林等)まで地区に取り込み生活環境面も配慮した一体的な基盤整備として工事着手し、以来九年の歳月を経て完成し、同六十三年登記完了に至った。(以下略)
                       『野本東部土地改良事業完成記念碑』より碑文引用
       
拝殿の手前には高く伸びて枝葉を大きく伸ばしたご神木のケヤキが聳え立っている(写真左・右)
        
                     拝 殿
 鷲神社 東松山町古凍四九九(古凍字宮前)
 古凍は古氷・古郡とも書き、比企郡の古の郡家の地であったのでこの名が起こったとみられる。
当社の創建は、社伝によると治承二年(一一七八)十月十四日に鷲宮町鷲宮神社から勧請した。 その後、文治年間(一一八五~九〇)に本殿を建立し、貞和二年(一三四六)に覆屋を造営した。
 一方、大里村相上の吉見神社社家である須長家の先祖が、寛永二年(一六二五)に著した「須長家由緒書」によれば、家督を譲った須長長春が孫の義清を連れて古氷村に移り住み、義清は古氷定右衛門尉と名乗り、村の鎮守として熊野大権現(現在須長一族の氏神)と鷲宮大明神(当社)を勧請し、更に菩提寺として慈雲寺を建立したという。「同家系図」の代々の没年から推すに、その年代は室町時代の中期と思われる。社殿にある治承二年とは三〇〇年余の隔たりが見られるが、あるいは衰微していた当社を同家で再興したことを示すのかもしれない。
『風土記稿』は、慈雲寺持ちの社として「鷲明神社 村の鎮守なり」と載せる。文化三年(一八〇六)には、正一位の神位を拝受した。
 明治初年の神仏分離により慈雲寺の手を離れた当社は、神職の吉本良之進が代わって祭祀を司るようになった。更に明治三十年代から澤田家がこれを継ぎ、光行・豊・豊行と三代にわたって奉仕している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 大里村相上の吉見神社社家である須長家は、大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と毛野氏の祖・崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の後裔御諸別王(みもろわけおう)から続くと云われている東国きっての名族である。
「相上村神明社神主須長家由緒書」にはその須長氏が古氷鷲神社の創建に関与した記述がある。
須永上野大掾藤原長春と云人あり、長男須長播磨守善長(永徳三年(1383)生、文明四年(1472)没)に男子四人ありしを、惣領長清には七百五十貫の神領を譲りて神主職とし播磨守と名乗らせ、其身は二男義清を連れて古氷定右衛門尉と名乗る。古氷村の鎮守熊野大権現・鷲宮大明神は、その勧請なり」
        
                 拝殿に掲げてある扁額
        
                  拝殿の手前で左側には境内社・合祀社等が祀られている。
        
                               
古凍鷲神社合祀社
         左より稲荷神社・八幡神社・諏訪神社・熊野神社・天神社
 
         合祀社の左隣に並んで祀られている石祠2基。詳細不明。
「新編武蔵風土記稿」には
「鷲明神社 村の鎮守なり、當社及下の三社共に慈雲寺持、諏訪社、川王社、御霊社」と記載され、諏訪社は合祀社で祀られていることから、残りの川王社・御霊社なのであろうか。
        
                         拝殿側から見た
古凍鷲神社の一風景

「古郡」という地名は、埼玉県内、特に北部に多数存在し、その地域によって「古氷」・「古凍」とも表記する場所もあるようだ。地名由来として律令時代の郡家(郡役所)があったとか、武蔵七党猪俣党の一族である古郡氏、丹党中村時経の子時員が古郡左近入道と称したこと等、幾つかの説が唱えられてはいるが、決定的な確証があるわけではない。比企郡にも所在する「古凍」にはどのような歴史的経緯でつけられた地名であろうか。興味は尽きない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「相上村神明社神主須長家由緒書」「大里郡神社誌」
    「日本歴史地名大系」「東松山市HP」「Wikipedia」「境内記念碑文」等 

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