古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上崎雷電神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市上崎24021
              
・ご祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)
              
・社 格 旧上崎村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例大祭 1014
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1111209,139.5507081,17z?entry=ttu

 内田ヶ谷多賀谷神社から一旦西行し、埼玉県道308号内田ヶ谷鴻巣線に合流後、左折し南方向に進路をとる。1㎞程進んだ交差点を左折し、「KAZOヴィレッジ通り」を600m程進むと右手に上崎雷電神社ののぼり旗ポールが2基、そしてその奥には社号標柱、鳥居が見えてくる。
 実のところ、「KAZOヴィレッジ通り」沿いには、適当な駐車スペースはない。一旦南側に回り込むと、雷電神社社務所近くに専用駐車場があるので、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                     
KAZOヴィレッジ通り沿いに鎮座する上崎雷電神社
 加須市上崎地域は、嘗て旧
騎西町に属し、見沼代用水(星川)左岸に位置していて、集落は地域中央を東西に通るKAZOヴィレッジ通り沿いに多い。地形を確認すると、大宮台地に連なる埋没台地および自然堤防上にあるとのことだ。
 地域の大部分は広大な田園風景が広がる稲作地帯であるが、『田園簿』によれば「田高四二三石余・畑高六七五石余」であり、この地域も田地より畑地の方が多かったようだ。
                
                           青空に映える社号標柱
 上崎地域北西側には、騎西領用水(きさいりようようすい)が星川(見沼台用水)から分岐して流れている。この騎西領用水は、新川(につかわ)用水・中用水・南用水・五ノ神用水の総称。幹川水路である新川用水の名で称されることも多い。元圦は星川の上崎村(現加須市)地先に設けて、忍領地域の落水を取水するものであった。星川分水口に「上崎洗堰」があり、これより新川圦前までの三〇〇間余を新川溜井と称して、用水の一時貯溜を行っていた。
 上崎洗堰の設置時期は未詳であるが、延宝元年(一六七三)の訴訟文書(見沼土地改良区文書)などにより、近世初頭と思われる。この堰については上流忍領と下流騎西領との間でたびたび水論が起こっている(大熊家文書)。新川用水は、元和七年(一六二一)の上早見村地詰帳(野房家文書)や、寛永(一六二四―四四)初期と考えられる武州騎西城絵図(岩瀬家文書)などからみると、この頃にはすでに開削されていたと考えられる。

 なお『新編武蔵風土記稿 上崎村条』にもこの用水に関しての説明が載せられている。
「星川
村の南西を流る、幅十二間程、土橋一ヶ所あり、此川に樋を設け水を引分け、騎西領組合の用水とす、これを新川用水と云、その幅二間ばかり、樋の長さ十二間、公よりの修理にて組合の村々多し、又西の方に長八間の圦樋を設け、水を引分ち用水とす、是を九ヶ村用水と云、當村及上會下・中ノ目・戸室・竿莖・鴻莖・西谷・下崎村上下分皆組合なり」

        
                社号標柱の先にある一の鳥居     
                   参拝した時間帯は陽光がほぼ正面となる昼間時
       正面からの撮影をすると逆光となり、斜めからのアングルとなった。
        
                  静まり返った境内
  北風は冷たがったが、陽光が差し込む雲一つない晴天の中、気持ちよく参拝ができた。
        
       参道を進む途中、左側に「保存樹木」であるシイの大木が聳え立つ。
              加須市指定番号27号。幹周 252㎝。
        
                 参道の先にある二の鳥居
           二の鳥居の先には社殿はなく、住宅しか見えない。
                      社殿は二の鳥居を過ぎて右側に鎮座している。
        
                 社殿と二の鳥居の配置
        
                     拝 殿
        
                 拝殿右手にある案内板
 雷電神社 例大祭 十月十四日
 当社の創建は、上州板倉雷電社の分霊を祀ったことによるという。祭神は別雷命。恵みの雨をもたらす神として信仰され、現在も雨乞いに用いた池が残る。
 雷電様は相撲好きな神様としても有名。境内には「関東三十三高芝の一つ」と呼ばれた土俵も現存している。
 拝殿には明治二十四年奉納の、<利根川・新川・三間圦工事絵馬>がある。これは前年の大洪水 で被害を受けた諸河川の工事竣工を記念したもの。
 利根川に浮かぶ帆掛船、新川の作業に従事する女性たち、三間圦付近に置かれた宿所や監督所など、工事の様子が鳥瞰的に描かれている。
                                      案内板より引用

 また案内板に記されている加須有形民俗文化財(指定日 平成4316日)である「利根川・新川・三間圦工事絵馬」は、『加須インターネット博物館』において、以下のように説明がされている。
「利根川・新川・三間圦工事絵馬
明治(めいじ) 23(1890) 洪水(こうずい)で被害を受けた河川の工事竣工(しゅんこう)を記念して奉納されました。
工事の様子が鳥瞰的(ちょうかんてき)(=鳥が上空から見おろすように全体を広く見渡すこと)
に描かれています。
        
     拝殿上部に掲げてある扁額と、その周りには多数の奉納額が展示されている。
    地域の方々のこの社に対する崇高の思いがこの奉納された額の多さに現れている。
   
 社殿左側奥に祀られている「浅間神社」と      社殿右側には「元文五年(1740)と刻まれ
    その左側にある詳細不明な石碑       た「辨財天供養」の石碑がある。

 上崎雷電神社から西方向に約700m行った場所に「臨済宗円覚寺派 大光山龍興寺」がある。上崎雷電神社とは直接関係はないが、上崎地域の歴史を語る上において、この寺の存在抜きには語れない。
龍興寺にある案内板によると、大同年中(約一二〇〇年前)天祐和尚によって開かれたという。古くから足利氏と関係が深く、境内には足利持氏とその子春王安王の供養塔(県指定史跡)が現存していて、足利氏ゆかりのものも多く伝わっていたらしかったが、現在は足利家から寄進されたという膳と足利政氏・義氏からの寺安堵状(町指定有形文化財)が残っているのみであるという。
       
             社殿右側奥に聳え立つ
「保存樹木」であるイチョウの大木
                         加須市指定番号26号。幹周 305㎝

『新編武藏風土記稿 埼玉郡上崎村』にはこの寺に関しての記載がある。
「龍興寺 禪宗臨濟派相模國鐮倉圓覺寺末大光山と號す、延寶六年住僧大澄が書しものに、大同元年天祐草創の地なりとあれど、上りたる世の事なれば、いかん共云がたし、中興開山曇芳は、永享八年九月七日寂せり、此僧は鐮倉管領持氏の伯父なりと云傳ふ、本尊釋迦、毘首羯磨の作、座像にて長七寸五分、又持氏春王安王の墓三墓たてり、持氏法名長春院陽山繼公、永享十一年二月十日、春王は花山院春嶽香公、嘉吉元年四月日、安王は太山院天嶽雲公、嘉吉元年四月と彫たるよし、今は文字も減して、そのさま古きものには論なかるべし、【足利治亂記】をするに、永享年中持氏京都に叛き相州早川尻の戰ひにうち負け、永安寺に入て自害す、幼子春王・安王は下野國結城が許に逃れ、日光山に隱れ居けるが捕はれとなり、京へ送られける塗中、美濃國垂井の金蓮寺にて自害し、骸は高野山ヘ送るとみえたり、又【鐮倉九代記】には金蓮寺に葬しよし載す、今按に當寺古河公方政氏・義氏寄附の文書も藏すれば、成氏のとき父供養のために築し墓なるべし、」

 足利持氏は「第4代鎌倉公方」である。この「鎌倉公方」とは、史実によると、1333年(元弘312月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を「鎌倉将軍府」に任命して鎌倉に入ったことにはじまる。その後室町幕府を開いた足利尊氏は、関東を押さえるために次男の基氏を「鎌倉公方」としてその本拠地を「鎌倉府」と称し、関東八か国(武蔵・相模・下総・上総・安房・常陸・上野・下野)と伊豆・甲斐を合わせた一〇か国を統括した。一時的は陸奥・出羽も含む奥州をも支配した時期もあった。
 1336年(延元1・建武311月京都に幕府を開き、その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに「関東管領」を配置して東国の政治一般にあたらせた。その政治組織を鎌倉府といい,あたかも小幕府の観をなした。
 以後その子孫(氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ))がこの職を世襲した。
 歴代の公方とも将軍への対抗意識が強く、また鎌倉府の領国に対する主要な権限を幕府直轄の機関である「関東管領」に握られていたため、その争奪をめぐってしばしば争いを繰り返していた。持氏の代になり、当初「上杉禅秀の乱」では幕府は持氏を援助したが,乱後幕府と持氏の間が不和となり、1428年足利義教が将軍となってからは京・鎌倉間の対立はいっそう激化した。鎌倉府内部でも幕府との協調を説く関東管領上杉憲実(のりざね)と持氏の不和が顕在化し,永享の乱が勃発し、1439年持氏は自害,鎌倉公方は滅亡する。

 龍興寺中興の祖となる第3世曇芳和尚はその足利持氏の伯父という。伯父とは父母の兄や弟、また父母の姉妹の夫で、父母の兄には「伯父」という。持氏の父親である満兼には兄がいたのであろうか。どの文面にもそれらしい人物はいない。それとも母親とされる「一色氏」の義兄であろうか。
 どちらにしても埼玉県指定史跡として「足利持氏、及びその子春王安王の供養塔」が現存しており、持氏の子孫である足利政氏・義氏からの寺安堵状も残っているのであることからも、何かしら鎌倉公方・足利氏と関係した人物がいたことは確かであろう。

 この龍興寺は臨済宗鎌倉円覚寺末寺という。この円覚寺は、弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建したといい、北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されていた。
 しかしその後の鎌倉幕府の滅亡から、建武の新政を経て南北朝時代に移ると、新しく鎌倉を掌握した鎌倉公方・足利氏はこの寺を支援するようになる。このお寺のあちこちには足利氏の「丸に二引き両」の家紋があり、鎌倉公方との繋がりが深かった何よりの証拠ではなかろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「百科事典マイペディア」「改訂新版 世界大百科事典」「加須インターネット博物館」
    「境内案内板」等

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