古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

熊井毛呂神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町熊井1742
             
・ご祭神 大己貴命 天之穂日命
             
・社 格 旧熊井村産土神 旧村社
             
・例祭等 例大祭(熊井毛呂神社屋台囃子)7月第3土・日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9803065,139.32176,16z?hl=ja&entry=ttu
 鉢山町役場西側にある通称「椎ノ木通り」を800m程北西方向に進むと、丘陵地斜面上に熊井毛呂神社の鳥居が見えてくる。大豆戸三島神社からは北西方向で直線距離にして1㎞程しか離れていない。熊井地域の集落から離れた丘陵地の外れにひっそりと鎮座していて、まさに地域の産土神の如き社。
 駐車用専用スペースは周囲にはなく、鳥居のすぐ東側に1台分駐車可能な路肩があるのみ。そこに停めてから参拝を行う。
        
                  熊井毛呂神社正面
 熊井毛呂神社は、小鷹玄播が松山城落城後に帰農して当地を開拓、出雲伊波比神社を勧請して創建したと伝えられ、その年代は旧別当寺西福寺の開創と同じ慶長年間(1596-1615)前後と推定される。下熊井地区の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年(西福寺が別当を務めていた)日枝神社・山神社を合祀している。
              
                                                                    社号標柱 

              鳥居前で一礼してから参拝スタート。 舗装された参道を登るように進む。 
 参道は当所南方向に進むが(写真左)、途中から右方向に曲がるように進路が変わる(同右)。何か地形上の関係で参道の方向が変わるのか、とも考えたが、より深く考えてみると、参道正面延長線上に社殿を配置すると北向きとなるので、一旦参道を右方向に変えることにより、東向きにしたのではなかろうか。あくまでも筆者独自の憶測の域ではあるが。
        
                                     境内の様子
 下熊井の産土神的な社。参道の周囲が鬱蒼とした森を進む中、しっとりとした雰囲気の中、社殿に近づくにつれて、自ずと厳粛な気持ちが湧き上がるのを五感で感じる取ることができる。
        
                奥ゆかしい雰囲気のある拝殿
 毛呂神社 鳩山町熊井一七四二
 当地は、岩殿丘陵の南西部に位置し、中央部を鳩川が流れる。中央南部の丘陵上に鎮座するのが当社である。一帯は、大久保加賀守配下の小鷹玄播が松山城落城後に帰農して開いたとされる。平地が少ないため、当時は丘陵斜面を利用した焼畑耕作が主で、水田に転作する際には、最も良さそうな地を開いて平地に居住し始め、村として形を整えた。旧名主家の小鷹進家の伝えでは、先祖が名主になったのは玄幡の帰農後、比較的早かったというから江戸初期であろうか。
 当社の創建は、入間郡毛呂の臥龍山に鎮座する出雲伊波比神社の祭神大己貴命と天之穂日命の分霊を勧請したことによると伝える。別当の西福寺が元様八年(一六九五)と文化元年(一八〇四) の二度にわたり火災に遭い焼失したため、旧記・記録類が残っておらず、詳細は不明である。『風土記稿』熊井村の項に、「毛呂明神社 村の産神なり」と記されるのみである。西福寺は、開山の堯栄が慶長年間(一五九六-一六一五)の示寂と伝える真言宗の寺院である。
 明治四十年四月に、日枝神社と山神社を合祀した。日枝社は『風土記稿』に「山王社 慶安二年(一六四九)社領七石の御朱印を附せらる」と記され、地内では大きな社であった。合祀後、空になった同社の社殿は社務所に利用されている。ただし、昭和五十五年ごろに公会堂を建設してからは、祭典後の直会を公会堂で行うようになった。
                                  「埼玉の神社」より引用


 鳩山町周辺には、小鷹(オダカ)姓が現在でも多く存在しているという。由緒によると、「小鷹玄播」なる人物が松山城落城後に帰農して当地を開拓し、出雲伊波比神社を勧請して創建したとされているが、元々この地域出身の土豪と解釈すれば、他地方出身者として、わざわざ苦労して幾多の候補地からこの地域を選び、開拓をする心身的な苦悩をする必要はない。

    拝殿の手前で左側にある神楽殿        「毛呂神社屋台囃子」の案内板
 町指定無形文化財 毛呂神社屋台囃子
 年代は詳らかではないが、この屋台囃子は悪魔退散、無病息災を願い創始されたと云われ、群馬県世良田より八坂神社の分身を勧請したのが始まりとされる。七月の例大祭には氏子の安全と繁栄を祈願し、囃子が奉納される。雅子は、「太鼓」「あたり鉦」「笛」、踊りには、「仁羽」「屋台」「数え唄」「子守唄」「祇園囃子」「鎌倉」「昇殿」「四丁目」などがある。現在、保存会を結成し伝統芸能の継承に努めている。
 昭和五二年五月一八日指定 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用
  
             本 殿                       拝殿左側に鎮座する境内社          
                      左側から稲荷社・天神宮。一番右側の石祠は不明 

    拝殿右側にも境内社が鎮座しているが(写真左・右)、どちらも詳細は不明だ。
       「埼玉の神社」では、明治404月に、日枝神社と山神社を合祀したという。
             これらの二社はそれらどちらかであろうか。

       
                 参道から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等        
  
 
 

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赤沼氷川神社

 鳩山窯跡群は鳩山町全域に散在する古代の窯跡群で、比企南丘陵の東西約5㎞・南北約4㎞に分布する律令制期東国屈指の大窯跡群である「南比企窯跡群」の東側の一画を占める。
 当窯跡群は所在する大字名を冠した大橋・赤沼・泉井・奥田・熊井等の幾つかの支群に分けられている。
 赤沼古代瓦窯跡は、7世紀に使われた窯の跡で、埼玉県内でも最古の部類に入る窯だと言われていて、埼玉県の史跡に指定されている。当初は武蔵国分寺の建立の為の窯だと考えられていたが、ここから出土した瓦との照合により、坂戸市にある勝呂廃寺の建立のために造られた瓦窯であることが分かっている。さらに、生産された瓦は小用廃寺(鳩山町)や山王裏廃寺・大西廃寺(東松山市)などの周辺寺院にも供給されたようだ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町赤沼894
             
・ご祭神 建速須佐之男命 迦具土之神 大雷神
             
・社 格 旧赤沼村鎮守 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9760478,139.3438963,17z?hl=ja&entry=ttu
 鳩山町役場から東南東方向で、鳩川左岸に鎮座する。直線距離で大体1.2㎞程。今宿八坂神社から一旦埼玉県道171号ときがわ坂戸線に東行し、その後「今宿交差点」を右折する。
 同県道343号岩殿岩井線を500m進んだ十字路を左折し、鳩川に架かる「亀甲橋」を渡り、「花見堂通り」に沿って進路をとると、赤沼氷川神社の登り旗ポールが右側に見えてくるので、そこを右折し、直進すると正面に社の鳥居が見えてくる。
        
                  赤沼氷川神社遠景
      社の周辺は豊かな自然が残り、所謂「里山」の景観を成しているようだ。
『日本歴史地名大系』 「赤沼村」の解説を紹介
 [現在地名]鳩山町赤沼
 石坂村の西、越辺川の左岸に位置し、村内を南東方に流れる同川支流鳩川の流域に耕地が広がる。北は大橋村、西は大豆戸村など、越辺川対岸南東方は入間郡長岡村(現坂戸市)など。永正一四年(一五一七)五月一四日、出雲守直朝・弾正忠尊能は越生(現越生町)の山本坊に証状(写、相馬文書)を送り、入西郡出戸より上の支配を「赤治(沼カ)之今蔵坊」などに返還することを証している。田園簿によれば田高二一四石余・畑高一七七石余、幕府領。ただし、この高には南方今宿村分も含まれていたと考えられる。
 元禄郷帳作成時までに同村は分村し、元禄郷帳では高二六六石余、国立史料館本元禄郷帳では米津氏など旗本三家の相給。

『新編武蔵風土記稿 赤沼村条』
氷川社 村内の鎮守なり、實蔵院持、
雷電社 密蔵院持、
八幡社 朝日八幡と號す、村民持、
愛宕社 實蔵院持、
稲荷社 櫻木稲荷と云、村民持、
實蔵院 新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺末、氷川山と號す、本尊不動を安ず、開山は本寺十七世權大僧都秀長、寛文七年九月廿五日寂す、
密蔵院 同宗同末なり、赤沼山と號す、本尊大日を安ず、開山權大僧都榮瑜、延寳九年八月十八日示寂す、
「村
の四隣、東は石坂村に隣り、南は今宿及び越辺川を隔てゝ、入間郡北浅羽村に境ひ、西は大豆戸村、北は今宿の條にいへる、七ヶ村入会の秣場に接せり」

 赤沼村には、周囲七村共同の「秣場(まぐさば)」があったという。この秣場とは、山野の採草地であり、ここで刈り取られる草は、近世農業にとって主要な肥料源であった。また同時に牛馬の飼料でもあった。
 これらの秣場は、数カ村の入会地(いりあいち)となっている場合が多く、秣場利用をめぐっての争論はしばしば起こっている。また千葉周辺での新田開発は、おもに秣場として利用されていた原野を開発するかたちで進められたために秣場を必要とする村々にとって、秣場面積の減少は、生活にかかわる大問題であった。このために争論も多かったという。
千葉市/千葉市地域情報デジタルアーカイブ」より引用
 この秣場を巡る騒動は、江戸時代の正徳5年(1715年)、武蔵国多摩郡府中領(現・東京都府中市および小金井市付近)において発生した府中秣場騒動(ふちゅうまぐさばそうどう)を初めとして、伊豆国加茂郡・田方郡、上総国市原郡、武蔵国都筑郡、常陸国多河郡、下総国香取郡といった関東一帯で、秣場や入会をめぐる争いがあったことが、享保5年から14年までの評定所の記録「裁許留」で確認されている。
 それを受けて、享保8年(1723年)5月、町奉行所は武蔵野地域に宛てた触で、武蔵野周辺やその他の芝地・空地での農民たちの勝手な秣採取を戒めている。
 そして、元文元年(1736年)に、大岡忠相の主導で行われた武蔵野新田の検地により、周辺の住民が秣を採取する入会地であった武蔵野は、村別所持、個人別所持へと分割され、新たな地域秩序が形成されたという。
        
                 赤沼氷川神社正面鳥居 
 赤沼氷川神社は鳩川左岸の高地に鎮座する。この鳩川(はとかわ)は、埼玉県比企郡鳩山町を流れる荒川水系の一級河川で、鳩山町大字高野倉の岩殿丘陵にある通称「笹沼」(正式名称「新沼」)に源を発し、鳩山町役場など鳩山町の中心部を東西に流れ、鳩山町大字石坂で越辺川に合流する。
 元々は農業用排水路として整備された河川であるため、蛇行は少ない。1974年(昭和49年)9月の台風被害が契機となり、河川改修事業が行なわれた。
 鳩川の名前は近年の河川改修の際に名付けられ、当時の鳩山村の「鳩」の字に因む。それまでの旧名は「赤沼川」であったという。
       
                                    境内の様子
       
                境内に設置されている案内板
 御社名  氷川神社
 御鎮座地 鳩山町大字赤沼宮山台八九四
 御祭神  建速須佐之男命
         迦具土之神
           大雷神
 御由緒
 至徳元年(一三八三)甲子八月十八日関東管領上杉安房守憲方創建して村内八十余戸の鎮守社と称す。
 貞享元年(一六八四)幕府より除地明神免として畑二反一畝二十五歩(二一六一、五平方メートル)を寄附せられる。
 明治四年(一八七一)奉還する。
 明治四十一年(一九〇八)五月九日字内峰愛宕神社を、同免山大雷神社を合祀する。
 火防の神として崇敬篤し。
 境内末社
 菅原神社・稲荷神社・三浦神社 (他二社不詳)
 比企郡神社誌より

 案内板に記載されている「上杉 憲方(うえすぎ のりまさ/のりかた)」は、南北朝・室町時代の武将。関東管領。安房守。
 父憲顕に従って成長し、その死後は兄弟の能憲・憲春と共に公方足利氏満を補佐。康暦
1/天授5(1379)年に憲春の跡を継いで関東管領となり、武蔵・上野・伊豆の守護を兼ねる。翌年には下野の小山義政討伐の大将として出陣し、永徳2/弘和2(1382)年にこれを滅ぼした。一時期辞任していたこともあるが、結局15年の長きにわたって管領の職にあり、鎌倉府の政務を主導した。鎌倉北辺の山内に住んでいたといい、憲方の流れを山内上杉氏と呼ぶが、この家の基礎は憲方の代に固まったという
       
                     拝 殿
 
          本 殿              本殿奥に祀られている石祠群
        
                              拝殿から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「千葉市/千葉市地域情報デジタルアーカイブ」「境内案内板」等
        

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大豆戸三嶋神社

 埼玉県比企郡鳩山町は、東松山市の南西側に位置する。筆者もこの鳩山町に関して、ときがわ町や坂戸市・東松山市近郊の町である以外は、最低限の知識しかない。というのも、この地域に今まで公私共に用事がなかったので、立ち寄るどころか通った記憶も定かではない。
 ただ実際に行ってみると、この町は基本的に比企丘陵の丘陵地帯で、耕作放棄地が少なく、昔ながらの田畑風景がそのまま残っていて、なかなか良い場所である。
 その中でも今回参拝した大豆戸三嶋神社は、一の鳥居から境内までの参道が300m程あり、その参道の両側に桜の樹が植えられていて、春真っただ中、桜のトンネルが続く綺麗な風景が一面に広がり見事である。意外と参拝時もこの桜並木を散策する人も少なく、車の往来もほぼなく静かで、結構穴場なスポットでもある。
 雨交じりの天候に中、予想もしなかった見事な桜並木を見ながらの社の参拝は、最近病気がちで外出もままならず、心身共に疲れていた筆者を優しく包みこむような、暖かい心持ちに誘って頂いた。この社との出会いに改めて感謝したい。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町大豆戸788
             
・ご祭神 大山祇神(おおやまつみのかみ)(推定)
             
・社 格 旧大豆戸村鎮守 旧村社
             
・例祭等 例祭 1017日前後の日曜日
  地図 https://www.google.com/maps/@35.9773524,139.3284149,16z?hl=ja&entry=ttu
 大豆戸三嶋神社は鳩山町役場から埼玉県道171号ときがわ坂戸線を南下し、450m程先の押しボタン信号のある5差路に達し、右斜め方向の道路を進む。暫く道なりに進行すると、右カーブとなり、その曲がり始める地点に大豆戸三嶋神社の鳥居が立っている。そして300m程の舗装された道路の先に大豆戸三嶋神社はひっそりと鎮座している。
        
                 大豆戸三嶋神社鳥居正面
   この正面写真には写っていないが、鳥居右側には社号標柱や馬頭観音の石碑もある。
 大豆戸地域は、江戸期は豆戸・馬見戸とも記していて、岩殿丘陵の南部に位置し、一帯は鳩川支流の浸食からできたなだらか斜面で構成されている。その地域の中央部やや東側に大豆戸三嶋神社は鎮座していて、社の東側は旧鎌倉街道上道が南北に通っていて、現在の埼玉県道171号線である。
        
              参道の両側には一面の桜並木が続く。  
           予想もしなかった素晴らしい風景(写真左・右)。         
 このような穴場的な桜並木を保存・維持するために自治体や地域住民の方々の日々の苦労は如何ばかりであろう。改めて感謝の念を送りたい。
        
                 大豆戸三嶋神社境内の風景
 ところでこの地域名の「大豆戸」。当初は「おおまめと」と思い、ナビ検索しても出てこない。「だいず」でもない。最終的には鳩山町の住所を最初のア行から調べる羽目になり、やっと項目にヒットした。それでも正確な読みからはその時点では分からず後日調べてみて分かった。「まめど」。不思議な名称でもあるが、考えてみると「大豆」と書いて「まめ」と読むので、筆者の思考を何歩か譲ればそうは読めなくもないともいえる。調べてみるとこの地域名も難解地名の一つとされていて、面白い地域名なので俄然興味がわき、その地域を検索してみると、鳩山町役場も地域内に包括されていて、街中心街の西側に位置している。
 神社散策のブログでありながら、わき道にそれる内容となってしまったが、地域の情報の一端を発信することもこのブログの一つの意義でもあり、そこはご容赦願いたい。
       
                 石段上に鎮座する社殿
『日本歴史地名大系』 「大豆戸(まめど)村」の解説
 [現在地名]鳩山町大豆戸
 赤沼村の西に位置し、北は熊井(くまい)村。古くは南接する入間郡小用村と一村であったといい、当村を上越用(かみこいよう)、小用村を下越用とよんでいたという(風土記稿)。宝治元年(一二四七)六月四日の越生有高譲状写(報恩寺年譜)によれば、「越生郷台之屋敷并水口之田・大豆土等」が越生有直に譲られている。同年一〇月一日、将軍藤原頼嗣は譲状の旨に任せて「入西郡越生郷水口田・豆土等」を有直に安堵した(「藤原頼嗣袖判下文写」同年譜)。この頃当地は越生おごせ郷(現越生町)内に含まれていたことになる。
 応永二四年(一四一七)一〇月一四日、鎌倉公方足利持氏は明石左近将監跡である「比企郡大豆土郷」を伊豆国三島社(現静岡県三島市)に寄進し、同日、関東管領上杉憲基は下地を同社雑掌に沙汰付けるよう武蔵国守護代長尾尾張守忠政に命じている(「足利持氏寄進状」三島大社文書、「上杉憲基施行状」同文書)。
 
 石段手前の参道の両側にある灯篭と、その左側に設置されている手水舎(写真左)。右側の灯篭の先には可憐な鑑賞花も植えられている(同右)。桜並木のみならず、このような花を添える何気ない気遣いが何とも心地よい。
        
『新編武蔵風土記稿 比企郡大豆戸村条』
 入間郡今市村法恩寺年譜錄、寛治年中の文書に、武藏國吾那入西郡越生鄕、水口田豆土等、又同國越生鄕臺之屋敷、并水口田豆土等云云と見えたり、且土人の説には當村もとは、隣村小用村より分ちしと云、又小用村の傳へに當村も上越用と號し、小用村を下越用と稱せしよしといへば、昔は入間郡に屬せしも知べからず
 又應永廿四年十月二十四日足利持氏より、豆州三島社へ寄進せし文書に、武蔵國比企郡大豆土鄕明石左近将監跡とあり、これらも古くより唱へし名の證とすべし
 三島社
 當村もとは伊豆三嶋の神領にてありし故、勧請せしものと見えたり、慶安二年社領十二石の御朱印を賜ふ、村内の鎮守にて、毎年九月流鏑馬を興行す、本尊薬師の畫像を掛く、眞光寺持、
        
                     拝 殿
 大豆戸三嶋神社は、室町時代中期・応永23年(1416前関東管領であり、上総・武蔵守護である上杉禅秀の乱に際して、4代鎌倉公方・従三位、左兵衛督源朝臣足利持氏が三嶋大社に戦勝祈願、無事平定を果たしたことから、大豆戸領を三嶋大社へ寄進、当社はその神領の鎮守として建立されたという。
        
                             拝殿の右側手前にある「記念碑」
 記念碑
 当郷三嶋神社は昔に遡ること五百九十年前伊豆三嶋神社より分社せし神と崇む
由来 軍の神として崇敬され本殿は応永二年建立されたりと伝う 以来村人はこの長き歳月を事ある度に神頭に集いて苦楽を分かちながら由緒ある歴史を重ね多くの人材を育み来たれり しかし長き歳月に拝殿幣殿の老朽を憂いここに氏子有志相計りて改築を決意幸いこの趣旨に賛同御奉納下されし方は百六十一名 その額八百五十六万円の巨額に達しそれに神社負担金六百万円を加え拝殿幣殿その他付属工事を完成せり 此に後世子孫に伝承す 冀くは時世に順応しつゝ此の土地に報恩に感謝を以て社の崇敬と泰平に愛護されんことを
 昭和六十年三月吉日  氏子中
 
          本 殿              本殿裏に祀られている裏神様
                        右側は狐の置物があり、稲荷社だろうか。
       
                   社殿からの風景

    境内北側にある大豆戸公会堂       境内入口に祀られている境内社と地蔵尊
       
                        社の境内入口から鳥居方向を撮影

 社に通じる桜並木の長い参道は、今も馬場と呼ばれ、嘗てはここで、流鏑馬が行われていたという。この流鏑馬は、馬を馳せながら、弓で的を射る行事で、中世武士の間で盛んに行われたという。この地域周辺では、8ヵ所で流鏑馬が行われていたことが確認されている。それは、鳩山町大豆戸の三島神社、ときがわ町玉川の春日神社、嵐山町鎌形の八幡神社、小川町角山の八幡神社、同町大塚の八幡神社、越生町西和田の春日神社、毛呂山町岩井の出雲伊波比神社、日高市新堀の熊野神社である。
 これらのうち、現在でも流鏑馬が継承されているのは、毛呂山町の出雲伊波比神社とときがわ町の萩日吉神社だけとなっている。
 鳩山町大豆戸三島神社では、記録によると、文政9年(1826)まで流鏑馬神事が奉納されていたという。
名字由来net」のサイトには、当神社の流鏑馬に関して興味深い記載があり、ここに紹介する。
 昭和5911日付、埼玉県比企郡鳩山町大字大豆戸の三嶋神社総代発行の『三嶋神社風土記』には、以下の行がある。

「この大豆戸村には、かつての領主内藤式部少輔政次時代からの弓矢の風習は、三嶋神社の神事と結びついてそのまま残り、神社の境内で催される流鏑馬の中にそれは維持されていった。馬上から矢継ぎ早に、的をねらって鏑矢を射る。的は方板を串で挟んで三か所に立て、一人各々に三つの的を射る儀式は村内の名誉をかけて厳かに執り行われた。その場合、地元の有力な御三家、つまり清水、宮崎、新幡の各家は古式に則り、「丸に抱沢潟」「丸に橘」「下り藤」の紋どころを鎧、甲にかがやかせてはその身をかため、「飛竜の巻物」などの作法に従って、日頃から馴らした馬に打ち乗って現れた。そして、清水家の一の馬、宮崎家の二の馬、新幡家の三の馬が嘶き、蹄の音高く駆け抜けていく」

 嘗てこの長い参道で行われていた古式ゆかしい流鏑馬の儀式を想像しながら、厳粛とした面持ちで参拝を終える。晴天の天候で一斉に咲き誇る桜並木の中での参拝は、さぞかし華やかであったろう。その点だけは残念であったが、雨交じりの参拝もしっとりとして独特の風情があり、決して見劣りはしないと思う。
 どちらにしても、心に刻まれた神社がまた一社追加された。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「萩日吉神社・ときがわ町教育委員会発行HP
    「埼玉の神社」「名字由来net」「境内記念碑文」等
 

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小用鹿島神社

 鎌倉時代頃に活動した鋳物師(いもじ)たちのうち河内(かわち)国(大阪府)を本拠地としていた河内鋳物師は、天皇と結びつき燈炉供御人(とうろくごにん)という地位を得ることによって全国を自由に往来して生産・売買できるという特権を与えられていた。
 それまで武蔵国にも在地の鋳物師はいたが、梵鐘などの大形品の製作活動は行っていなかったようだ。ところが、幕府が鎌倉に開かれ、関東が政治の中心地となると、幕府や武士層と仏教勢力との結び付きによって多くの寺社が造営されていく。
 特に鎌倉・長谷の大仏が造立されることになると物部(もののべ)・丹治(たんじ)・広階(ひろしな)姓などの高い技術を持つ河内鋳物師がこの東国に招かれた。この時彼らの遺した梵鐘や鰐口などの仏具製品は関東一円にひろがっていて、大仏の完成後には本拠地の河内国に帰って行くものたちもいたが、一部の鋳物師は東国に残り、この地に根を降ろしていくことになる。
 埼玉県内の中世鋳物師は、東松山市小代、坂戸市入西(金井遺跡)、鳩山町小用、本庄市児玉町金屋、寄居町塚田、狭山市柏原、さいたま市岩槻区渋江、そして嵐山町の金平遺跡で鋳造を行った鋳物師である。個々の鋳物師が活動していた時期は13世紀から17世紀と幅が広く、全てが同時期に操業していたわけではないが、その位置と立地をみると県内を通っていた主要街道、特に鎌倉街道上道に沿っており、また主要な河川が街道と交わる地域の周辺に位置していることがわかる。
 小用鋳物師は、15世紀中頃には鎌倉大仏の鋳造時に招へいされた物部鋳物師の系譜に連なるようだが、この鋳物師は当地にて仏具や生活雑器を生産するようになる。
 17世紀中頃には、石坂以外の鳩山地域一円を内藤家が支配し、大名に取り立てられた。その後、今宿村が成立し筏河岸は陸運、舟運など物資の集散地として栄えた。また18世紀後半には関東最古級の近世地方窯である熊井焼が開窯し、徳利や壺、花瓶などの日常品を中心に、イッチン描きや飛びがんな、三島手風の象嵌が施された芸術性の高い作品など、優れた製品が生み出され、江戸の市中で流通していたと言われている。
        
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町小用3991
              
・ご祭神 健御賀津智命
              
・社 格 旧小用村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭 1017
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9702406,139.3381417,17z?hl=ja&entry=ttu
 今宿八坂神社から小用地域の「鹿島通り」を西へ進むと小用鹿島神社が道路沿いに鎮座している。直線距離でも700m程しか離れていない。
 境内にある「遷宮記念碑」また「埼玉の神社」を確認すると、以前はこの場所から北西方向に700m程の所で、大豆戸地域との境の大沼村付近にあり丘陵を背に鎮座していたが、昭和278年頃に村の中心である現社地に移転したという。
 藤沢秀郷の末裔を自称し、源頼朝の乳母を務めた比企一族の比企掃部允(源頼朝の乳母・比企尼の夫)が創建したという伝承が残っている社である。
        
                  小用鹿島神社正面
                右隣にあるのは「小用公会堂」
『日本歴史地名大系』での 「小用村」の解説によると、大豆戸(まめど)村の南に位置する。近世には入間郡に属し、「こいよう」とも称した(「郡村誌」など)。南は同郡西戸(さいど)村・箕和田(みのわだ)村(現毛呂山町)、西は同郡如意(ねおい)村(現越生町)。「風土記稿」によると古くは大豆戸村と一村で、同村を上越用(かみこいよう)とよんだのに対して、下越用と称したという。また慶長三年(一五九八)改の水帳には「入西郡下越用村」と記されていたという。永正一四年(一五一七)五月一四日の出雲守直朝・弾正忠尊能連署証状写(相馬文書)にみえる「小祐福寿寺」は当地福寿寺のことか。天文一五年(一五四六)四月一五日の北条氏康感状(平之内文書)に「小用嶺」とみえ、氏康は荒河端より小用嶺に至る竹本源三の戦功を賞している、という。
 また『新編武蔵風土記稿 小用(こよう)村条』には「村に傳ふる慶長三年改の水帳に、入西郡下越用村畠帳の事と記せば入西に属し、下越用村と号せしこと知らる、上越用と云は、土人の傳へにそのかみ比企郡大豆戸村の唱へなりといへど、たしかなることをしらず、(中略)用水不便の地なれば、田少なく畑多し、(中略)村内に江戸より秩父への往還かゝれり、比企郡今宿より入て、又同郡大豆戸村へ達す」と記載され、嘗てこの地域は、大豆戸村と一村を成していて、その後大豆戸村は「上越用村」、そして当地は下越用村」と称し、分村したという。
 
      鳥居の右側にある社号標柱      社号標柱の奥に立つ「鹿島神社遷宮記念碑」
「鹿島神社遷宮記念碑」
 小用の鹿島神社は現在の境内地より、西北西直線で約七百米の所に先人により鎮座なされたもので、参道は長く境内地は緩い南面の傾斜で西南に湖水を見、東・北・西参面が社有林、小用共有林により囲まれ其の広さは約参阡坪と言われ、また境内地には樹令数百年の亭々たる喬木が聳え鎮守の森に相応しく、よくぞ選ばれた山紫水明の庭でした。爾来渺茫八百有余年小用の鎮守、産土の神として此の土地と住む人々を守ってきました。
 今より約半世紀前、社が人家の中心付近に遷座される、との噂が広まり、それが現実となり、現在の地に遷座されたもので、永年の風雪により本殿、拝殿の老朽化が著しく此処に至り改築する事に成りました。
 資金問題については小用に未會有の大開発の折、興長寺所有の山林売買に関して開発業者と寄付金の額が伍阡萬円で決着かと思われた時、寺の役員の一人が「壱億円が適当であるそれが出せない場合は此の話は白紙にして貰いたい」との言葉に開発業者側が速やかに受入れ、其の金員は興長寺の通帳に繰入れました。この事は゛阿吽の呼吸゛と天が味方してくれたものと感じるものです、興長寺代表役員安西昌道住職より「檀家の大半の賛成があれば寄付金の内の五阡萬円は神社改築に使用しても良い」との意向を察し檀家一堂に会し、新し合いの結果、大半の賛成を得て安西住職の了承のもとに東松山税務署の意向通り宗教法人鹿島神社の通帳をつくり伍阡萬円を繰入れました。
 私は住職の広大無辺の考えは仏の教えの真髄と感じるものです。また現在の境内地は約六拾坪で余りに狭く松本好生氏宅で境内地の拡大には欠かせぬ場所を約九拾坪お譲り戴き神殿、拝殿が其の地に建てられました事は法恩寺御前の心と松本好生氏のご協力は此の事業の双壁を成すもので、さぞかし鹿島神社の神霊も喜び小用の地と暮らす人々を守り゛和゛を心として栄えるよう導いて下さると信ずるものです。古語に「言うは易く行うは難し」此の大事を為し遂げられしは社稷の加護と心に沁みるものです。これを契機に謙虚に過去を振り返り小用の将来が“和やかな人柄の住みよい土地”と社会から評される事を望み碑文と致します。
 平成十八年三月吉日 撰文 松本亮輔
                                   「記念碑文」より引用
       
           規模は小さいながらも、綺麗に整備されている境内
 冒頭に紹介した「小用鋳物師」として、上越用(大豆戸地域)の清水氏宮崎氏、下越用(小用地域)の松本氏の存在が確認されている。
〇清水氏
「秩父町定林寺宝暦八年鐘銘」 比企郡上小用村清水武左衛門清長・作
「高麗郡新堀村建光寺明和三年鐘銘」 鋳物師比企郡大豆戸村清水武左衛門
「正代村世明寿寺安永五年鐘銘」 大豆戸村清水清永・作
「平沢村平沢寺寛政五年鐘銘」 比企郡上小用村吹屋清水武左衛門・作
〇宮崎氏
「川越鋳物師安政五年小川文書」 鋳物師比企郡上小用郷大豆戸村宮崎柳七
〇松本氏
入間郡黒須村蓮花院鰐口」 寛正二年十月十七日、奉施入武州比企郡千手堂鰐口、大工越松本
「熊井村妙光寺木製龕笠銘」 永禄十二年十一月二十九日、野瀬沢之小用、南無地蔵奉寄進、松本二郎左衛門取次
*入間郡越生郷小用村(鳩山町)の鋳物師金刺氏は本名松本氏という
「横見郡久保田村阿弥陀堂梵鐘」 建武三年卯月九日、武州吉見郡大串郷窪田村阿弥陀堂鐘一口、大工金刺景弘
「比企郡赤沼村円正寺雲版」 応安四年卯月初吉、武州入西浅羽円接禅寺、大工金刺重弘
「甲斐国保福寺」 応安六年十一月二十一日、武州杣堡高柿村地蔵院雲版、大工金刺重弘
「越後国蒲原郡国上寺鰐口」 長禄二年十二月吉日、大工同国入西郡越生郷越住人重弘

 また小用地域の小字には「かねやつ」「からみ塚」という鍛冶に関連していると思われる地名も残されており、嘗て「小用鋳物師」が存在していたという側面的な裏付けにもなろう。
 気になる点が一つ。「鹿島神社遷宮記念碑」遷文の苗字は「松本氏」である。この人物も祖先を辿ると、「小用鋳物師」の松本氏一族に関係していた方なのであろうか。
        
                     拝 殿
 鹿島神社 鳩山町小用三九九-一
 岩殿丘陵の南部に位置する当地は、鳩川に向かうなだらかな斜面に畑が広がる農業地帯である。地内を旧秩父往還が通る。
 当社は、治承年間(一一七七〜八一)に比企掃部允が創建したと伝える。掃部允の妻は源頼朝の乳母の比企禅尼である。

『風土記稿』小用村の項に「鹿島社村領六石の御朱印を附せらる別当興長寺」と載る。社領六石の安堵は、慶安二年(一六四九)十一月のことで、三代将軍徳川家光から賜ったと伝える。
 別当の興長寺は、真言宗寺院で今市村法恩寺の末寺である。寺伝には、建久元年(一一九〇)に越生四郎家行が主君源頼朝の命を受け、源家繁栄祈願のために建立したのが草創とされる。また、地内には福徳院もあり、興長寺と同様に法恩寺の末寺で、如意山と号し、本尊は如意輪観音であった。
 当社の内陣には、如意輪観音の懸仏が奉安されており、福徳院とのかかわりをうかがわせる。恐らく別当のほかに、福徳院も当社の祭祀・管理を司っていたのであろう。同寺は今は残っていない。
 明治四年三月に、字内中島の神明社と字雷電山の雷電社を合祀し、翌年三月をもって村社に列した。
 当社は、元は大豆戸との境の大沼付近にあり丘陵を背に鎮座していたが、昭和二十七、八年ごろに村の中心である現社地に移転した。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                     本 殿
 小用地域は、嘗て「下越用」と号し、比企郡大豆戸村(鳩山町)は「上越用」と号し、古は一村にて越(こゆ)、小祐(こゆう)と唱えたという。この「越用」という地域名の由来は不明である。
 鳩山町の西側には「越生町」があるが、共に「越」を共有する地名でもある。この「越生町」の名前も難解地名の一つといわれ、正直、「越生」と書いて「おごせ」と読めない方もいるであろうし、普通ならばまず読まない。由来も諸説ありはっきりしていないが、越生町のHPによると、平野と山地の接点にあたる越生からは、秩父に向かうにも、上州に向かうにも尾根や峠を越えなければならず、 それに由来した『尾根越し(おねごし)』の『尾越し(おごし)』という言葉から変化したという説が有力視されているという。
        
                  小用鹿島神社遠景
 あくまで筆者の勝手な解釈ではあるので、間違っていた場合は許して頂きたいのだが、もしかしたら、この「越用」という地名が先に存在していて、そこから周りの地帯に名称が広がったのではないか。「越生」も当初は「こゆう」であったものが、鎌倉時代前に武蔵七党・児玉党が土着し、「おごせ」と名称を変えたのかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「嵐山町Web博物館」
    鳩山町デジタルブック」越生町HP」「埼玉苗字辞典」「境内記念碑文」等
        

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今宿八坂神社

 比企郡鳩山町は、埼玉県のほぼ中央に位置し、県西部地域に属している人口13,000人程の街である。町内の大部分は岩殿丘陵の中央部に位置し、傾向として、町内北部が標高が高く、南部の方が低い。町の東部は東武東上線の高坂駅(東松山市)へ比較的近く、鳩山ニュータウン、東京電機大学埼玉鳩山キャンパスといった大規模な教育機関や研究機関の施設が集中している。一方で町の北部や西部は、道路環境や公共交通の便が悪いこともあって東京からの距離の割には都市化が進んでおらず、山村地帯の風景が今でも残っている。
 鳩山町は嘗て奈良時代に須恵器や瓦などの窯業の一大産地として栄えた。武蔵国国分寺の瓦を焼いた窯跡など多数の窯跡の遺跡が出土している。(南比企窯跡群)また8世紀前半と推定される小用廃寺の遺跡等から、早くから渡来文化・仏教文化を持った人たちが住んでおり、関東の古代寺院建立を担っていた人たちがいたことが伺われる。
 平安時代後期から中世にかけて荘園が発達すると、年代や領主は詳細不明だが町内の地域の大部分は東松山市南部の早又・正代・宮鼻・高坂・元宿・下青鳥・石橋・岩殿・毛塚・田木・神戸と併せ、亀井庄になっていたようである(「新編武蔵国風土記稿」)。さらに鎌倉時代に鎌倉街道上道が整備されると、軍事上の要衝・宿場町や、材木の中継地として賑わいを見せた。「今宿」という地名は越辺川対岸の苦林宿の新興地という意味からきているという。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町今宿5032
             
・ご祭神 須佐之男命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例大祭 724日に近い土・日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9694427,139.3403141,18z?hl=ja&entry=ttu
 嘗ては越生街道と呼ばれ、東松山市から入間郡越生町に至る埼玉県道41号東松山越生線を越生町方向に進む。途中経路は葛袋神社神戸神社を参照。神戸神社を過ぎてから上記県道は南西方向に進行方向が変わり、3.5㎞程先で同県道171号ときがわ坂戸線との交点である「大橋交差点」に達し、そこからは171号線に沿って鳩山町市街地方向に南下する。鳩山町役場を過ぎた先の「今宿交差点」を右折し、200m程行った十字路を左に曲がると今宿八坂神社が見えてくる。
        
                         
今宿八坂神社正面
              民家が立ち並ぶ一角に静かに佇む社
 今宿地域は越辺川の左岸に位置する。「今宿」は『新編武蔵風土記稿』によると、嘗ては赤沼村と同じ一村を成していたが、元禄年間に二村に分かれたという。「民家四十、連住して宿駅に似たれど、馬次の所にもあらず、少の河岸場ありて近郷の材木・薪等を爰にて筏とし、江戸ヘ出せるをもて土地賑へり」と記載されている。
 地域名「今宿」は、越辺川対岸にある「苦林村の「古宿」に対する名称という。中世には鎌倉街道(上道)が通り、近世にも武蔵八王子などと上州方面とを結ぶ往還として利用されたという。
        
                  境内左側にある神楽殿
 
 神楽殿の右側に設置されている「八坂神社祭囃子」の案内板(写真左)。この
祭囃子の始まりは江戸時代の寛文3年(1663年)と古く、町の指定無形文化財となっている。
 また神楽殿の左側には倉庫があり、山車が保管されているのであろう(同左)。
 町指定無形文化財 八坂神社祭囃子
 この祭囃子は、寛文三年(一六六三年)京都の八坂神社を勧請して、悪病の退散を祈り祭祀したのが、その始まりとされる。以来、毎年七月の〇大祭には、神輿、山車、獅子の渡御があり、悪病除として近在からの参詣者も多い。囃子は京都の祇園囃子風の神田大橋流の旧囃子で、曲目は、「祇園囃子」「屋台」「にんば」「鎌倉」「数え唄」「子守り唄」などがある。現在保存会を結成し後継者の育成を行っている。
 昭和五十二年五月十八日指定 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
 社伝によると、当社は寛文一二年(一六六三)に京都の八坂神社から勧請したという。古くから諸人の出入が多く、度々悪病が流行したことから、その退散を祈って奉斎したものである。
『風土記稿』は、地内の神社について「熊野社 村の鎮守なり、天神社、天王社、以上は村民持」と記しており、熊野社が鎮守であったことがわかる。しかし、明治初年の社格制定では熊野社に代わって当社が村社に列した。この鎮守の交替は、当社が疫病退散という熊野社よりもより切実な信仰から祀られていたことがその要因であろう。
 明治四十二年に字安養寺の天神社と住吉社を合祀した。更に、昭和十三年にはやや北方の現在地に遷座した。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 
            境内の隅で道路沿いに屹立する大木(写真左・右)
   街中ゆえに社叢林はほとんどないが、やはり社には大木・巨木はお似合いであろう。
        
                                  拝殿からの一風景
       参拝当日は生憎の雨であったが、社にはそのしっとり感が良く似合う。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
      

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