古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

将軍沢日吉神社

  岩殿丘陵のほぼ中央に位置し、鳩山町と嵐山町の行政境にある「笛吹峠」。標高は80m。かつて鎌倉街道の中で唯一の峠で、鎌倉時代には数多くの武士団等が行き来した所でもある。
 北方に上州の山々、西方に秩父連山、眼下に須江の集落が広がる、眺望のすばらしい笛吹峠は、慈光観音と岩殿観音の巡礼道も交差する鎌倉街道で一番の難所であり、要衝の地であったようだ。正平7年(1352年)閏2月新田義貞の三男新田義宗らが宗良親王を奉じて武蔵野の小手指原で足利尊氏の軍勢と戦った(武蔵野合戦)が、最終的に戦いの決着がついたのがこの峠であった。しかし尊氏軍8万、義宗軍2万という明らかな差のもとに惨敗。敗れた義宗らは越後へ、親王らは信濃国に落ちていき、尊氏はこれ以後関東を完全に制圧していった道路工事をした際に人骨が大量に出土したそうで、当時の合戦が如何に激戦だったかを裏付けるものである。
 峠の由来については正平7年(1352)に新田義貞の子義宗が、南朝の宗良親王を奉じてここに陣をしき、足利尊氏と戦った。このとき親王が名月の陣営で笛に心を慰めたことによると伝える。

 笛吹峠から北に1.5㎞程行くと、日吉神社が鎮座する「将軍沢」という地名があり、平安初期には、坂上田村麻呂が地に寄った時に一堂を建立したことに由来するという。
        
              ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町将軍沢425
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 春季大祭410日 秋季大祭102021
 将軍沢日吉神社は大蔵神社の南方に位置し、経路途中は大蔵神社と同じである。国道254号線を嵐山駅方面に向かい、月の輪駅交差点の次の交差点を左折し、真っ直ぐ進むと埼玉県道344号高坂上唐子線に合流する「上唐子」交差点にぶつかる。この交差点を真っ直ぐ進むと埼玉県道172号大野東松山線になるので、県道に沿って南西方向に進路をとり、都幾川を越えて400m程行くと、信号のある交差点となり、直進すると右手に大蔵神社となり、そこを左折し700m程進むと左側に将軍沢日吉神社の鳥居が見える
        
 将軍沢地区は、嵐山町の最南端に位置して中央を旧鎌倉街道が通り、歴史的にも坂之上田村麻呂氏の伝説があり、みどり豊かな環境の農村集落を形成している。
 春と秋には日吉神社に宮司と遺幣使をお迎えして、五穀豊穣を祈願する。かつて昭和30年代迄は、秋の大祭はササラ獅子舞が奉納されて、賑わっていたが、現在は獅子頭を奉納するのみに留まり、静かなお祭りになっているという。
        
                                将軍沢日吉神社 正面鳥居
 将軍沢日吉神社の創建年代等は不詳ながら、坂上田村麻呂が東征の際の延喜10年(910)に天台宗明光寺を建立、明光寺の鎮守として山王社を創建したのではないかとも推測されている。将軍沢の鎮守として祀られ、明治維新後地内の大宮権現社(現将軍神社)、神明社、愛宕社、稲荷社を当社境内へ遷している。
 
 参道がほぼ東側に伸びていて(写真左)、参道の先には将軍沢農村センターが見える(同右)。そして農村センターの左隣には、境内社・将軍神社が鎮座している。
 因みに将軍神社から左側へ直角に曲がった先に将軍沢日吉神社社殿が鎮座しているので、社殿は南側という位置関係となる。
        
                              境内社・将軍神社
 将軍社 祭神 坂上田村麿
 由緒

 當社古記録等傳フル無ク創立年紀詳カナラス。唯古老ノ口碑ニ傳フルハ往古坂上田村麿将軍東夷征伐ノ際近傍岩殿山に毒龍アリテ害ヲ地方ニ加フ。将軍之ヲ退治シテ土人ヲ安カラシム。其時夏六月一日ナリシモ不時降雪寒気強カリシヨリ土人麦藁ヲ将軍ニ焚キテ暖ヲ與ヘリ。其后土人将軍ノ功徳ヲ賞シ之ヲ祭祀崇敬セリト云フ。現今年々六月一日土人麦藁ヲ焚キテ祭事ヲナスハ古ヨリ例ナリ。当社古来本村旧字大宮ト唱フル地ニ鎮座アリテ坂上田村麿将軍大宮権現ト稱セリ(本村々名及旧字大宮ノ地名蓋当社ニ因テ起リシナラン)御一新ニ至リ明治七年(1874)三月當所ニ奉遷シ将軍社ト改称セリ
                                   嵐山町Web博物館より引用

『新選武蔵風土記稿』においては違った記載もある。
 大宮権現社
 高さ三尺許の塚上にあり、利仁将軍の靈を祭れり、相傳ふ昔藤原利仁、此地を經歴して、此塚に腰掛て息ひしことありし故、かく號すと云、明光寺の持
        
                                         拝 殿
日吉神社 嵐山町将軍沢四二五(将軍沢字東方)
大山咋命を祀る当社は、鎌倉街道上道と呼ばれる街道脇に鎮座する。住宅やゴルフ場などの開発が進み、樹木が次々と伐採される中にあって、当社の境内は杉を主として樹木が多く、緑豊かな環境を守り続けていることから、平成三年には町の保護木の指定も受けている。また、社殿の裏手には、松の大木があったが、近年、松食い虫にやられ、枯死してしまった。かつて、当社の付近は『風土記稿』に「此辺二町許の松林あり、不添の森と云」と載るように、松林であったが、開発や松食い虫の害のため、既に当時の面影はない。
当社の創建の年代は定かではないが、江戸時代には山王社と呼ばれ、明光寺の持ちであった。明光寺は、寺伝によれば、延喜十年(九一〇)三月五日、坂上田村麻呂が東征の際、当地に寄った時に一堂を建立したことに始まり、元弘・延元のころ(一三三一-四〇)には兵火にかかって塔堂を焼失したという。明光寺が天台宗の寺院であることを考えると、当社は、その寺鎮守として創建された可能性もある。
将軍沢の地名は、村内字大宮に坂上田村麻呂(一説には藤原利仁)を祀る大宮権現社があることに由来するといわれる。『風土記稿』よれば同社は、藤原利仁が当地を通った時に腰掛けて休んだ「高さ三尺許の塚上」にあったが、神仏分離により将軍神社と改称し、明治七年に当社の境内に移された。
                                   「埼玉の神社」より引用

 社殿手前、左側に境内社・山神社・神明社・稲荷社が鎮座している。
 
           山神社                                   神明社

          稲荷社
                 
                 参道に聳え立つ巨木群
  今なお古き武蔵野の面影を残している自然豊かなこの景観を何時までも残して頂きたいものだ。

*追伸として
 将軍沢地区にある笛吹笛吹峠は古くは「ウスエ峠」といわれて、古代人が須惠器を峠越しに運んだ土器の道であったともいう。というのも奈良・平安時代前期のおよそ200年余りの間、嵐山町南部の将軍沢地区からときがわ町・鳩山町にかけての丘陵地は「須恵器」の一大生産地帯で、関東でも最大規模であったとの事だ。
 数多く築かれた須恵器の窯は、比企地方の南部丘陵地帯に広く展開し、「南比企窯跡群」と呼ばれていて、この地域で生産された須恵器は、洗練されたたいへん美しい焼物という。

 岩殿丘陵地独特のなだらかな傾斜があちらこちらに広がり、その丘陵地に奈良時代以降多くの人々が入植し、山野を切り開き須恵器づくりのための「集落」を形成し、関東屈指の須恵器生産地として発展した。
 将軍沢近辺は高低差を必要とする登り窯には、まさにうってつけの景観であり、良質の粘土と薪としての森林資源、そして地形などの好条件が合致し、沢山の登り窯が築かれ大量の須恵器が生産されていたという。また製品の出荷には丘陵の南北を挟むように流れる越辺川と都幾川が舟を通して利用され、同時に丘陵を縦断する東山道武蔵路、あるいは後の鎌倉街道は、武蔵国府(東京都府中市)や国分寺に須恵器と瓦を届けるために開かれたものであったのだろう。


「嵐山町教育委員会」資料の中で、 将軍沢地域は13世紀半ばから新田系氏族である世良田氏の領地となっていたという。世良田氏は上野国新田4分家の1つで、寛元2年(1244)長楽寺を創建した義季が新田の遺領であった当地を継ぎ、その後弥四郎頼氏・教氏(沙弥静心)・家時(二子塚入道)・満義(宗満)と領した。長楽寺には教氏と満義が寺に宛てた寄進状が今も残されている。

 同時に「中世嵐山にゆかりの武将と地名/嵐山町」では将軍沢地域と世良田氏の関係について以下のように記している。
将軍沢郷と世良田氏(せらだし)
畠山重忠没後の鎌倉時代後半の嵐山町の様子を伝える資料は非常に少なく、わずかな手がかりをとどめるにすぎません。その中で群馬県新田郡尾島町の長楽寺に所蔵されている文書に興味深い資料があります。将軍沢は大蔵から笛吹峠に向う途中にある集落ですが、この文書によるとここは当時世良田氏の領地で将軍沢郷と呼ばれていたことがわかります。世良田氏は清和源氏の一門である新田氏の一族で、頼氏のとき上野国(群馬県)世良田を領し世良田の姓を名乗りました。文書は二通あり、一通は頼氏の子教氏(のりうじ)(法名静真・せいしん)が、亡息家時の遺言により比企郡南方の将軍沢郷内の田三段(たん)を上州世良田の長楽寺に灯明用途料(とうみょうとりょう)として寄進するという内容です。
また、もう一通は家時の子満義のとき、将軍沢郷内の二子塚入道の跡の在家一宇(ざいけいちう)と田三段、毎年の所当(しょとう)八貫文を長楽寺修理用途料として寄進するというものでした。長楽寺は世良田氏の氏寺であり中世には多くの学僧を集めた大寺院として栄えました。

 熊谷市・万吉氷川神社の項でも触れたが、万吉地域周辺も嘗て新田氏の領地が存在していたりと、自分の母方の本家筋が本拠地である上野国・新田荘のみならず、武蔵国内に多くの所領を持っていたことに関心を持つ。新田氏本宗家は頼朝から門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになり、新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏や岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体していく一族、という今までの通説で語られてきた歴史観をもう一度再検討する良い機会ともなった。

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広野八宮神社


        
              ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町広野927

             ・ご祭神 建速須佐之男命・大己責命・稲田姫命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春季祭典43日 秋季祭典1019
 広野八宮神社は杉山八宮神社同様に関越自動車道・嵐山小川ICの南西側に位置する。埼玉県道69号深谷嵐山線を武蔵嵐山駅方向に進み、「玉ノ岡中学校入口」交差点から2番目のT字路を左折するが、その道は非常に細いので、対向車量のすれ違い等には注意が必要である。
 因みにこの社の住所地である嵐山町広野字深谷の「深谷」は「ふかやつ」と読むそうだ。
 地図を確認すると、杉山八宮神社からは直線距離にして南東方向700m程しか離れていない近距離にこの社は鎮座している。

 広野八宮神社の創建年代等は不詳であるが、貞観10年(868)小川町下里の八宮神社を総社とし、近郷七ケ所に分霊された社の一社で、承平年間(913-938)には経基王が平将門征伐に際して戦勝祈願したと伝える。江戸期には広野村の鎮守として祀られ、当社隣接地の修験泉覺院が別当を勤めていた。
 
 社に通じる県道のT字路を左折すると細い農道となるが、嘗ての参道となっているようで、その
参道を進んでいくと、目の前に「百庚申」と呼ばれる庚申塔群(写真左・右)が並列している。

 庚申塔は庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことである。この庚申信仰とは平安時代に中国から伝わった進行と言われ、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰(民間信仰)や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰とされている。
 60日に一度めぐってくる庚申の夜は言動を慎み、健康長寿を祈念する行事を庚申待ちという。庚申待ちという行事は室町時代に講が結ばれ、江戸時代になると村の講中のものが徹夜で酒食をとるように変化し、村人の連携強化の手立てのひとつとして盛んに行われるようになったといわれる。
 庚申塚に建てる石塔には青面金剛(しょうめんこんごう)と三猿(さんえん)を彫っているケースもある。
 この広野地域の深い信仰心と人びとの強い結束力があって建てられたものであり、当地における貴重な文化遺産ともいえよう。
 
「百庚申」を左側に見ながら参道を進むと、正面はうっそうとした社叢に覆われる(写真左)。そのまま進むとなだらかな上り坂となり、階段の先に鳥居が見えてくる(同右)。
        
                                風格ある両部鳥居
 鳥居の底部あたり、少々朱が落ちている部分もあるが、却って歴史の深さを醸し出している。
 ところで鳥居の先で右側に建物らしき建造物があったが、鬱蒼とした樹木の中に隠れてしまい、確認できなかった。その後編集途中で分かったことだが、鬼神神社が鎮座していた。こちらは川島町にある鬼鎮神社(比企郡嵐山町川島1898)の奥宮であるとされるそうだ。
        
             参道を進むとその先に拝殿が見えてくる。
        
                                       拝 殿
 八宮神社 嵐山町広野九二七(広野字深谷)
 桑畑に囲まれた参道を進んでいくと、目の前に「百庚申」と呼ばれる庚申塔群があり、そこを過ぎると「八宮明神社」の額の掛かった鳥居がある。鳥居から社殿までの参道は緩い坂になっており、その東側には、元は泉覚院と呼ばれる修験で八宮神社の祭祀に深くかかわってきた宮本家がある。
 当社の由緒は『比企郡神社誌』に「本社は清和天皇の貞観十年(八六八)本郡小川町下里の八宮神社を総社とし近郷七ケ所に分霊を祀るといふ。当社は其の一社として鎮祭し、爾後、承平年中(九一三-三八)源経基公東征の際当社に戦勝を祈願せしと伝ふ」とあるのが最も詳しく、『明細帳』では「由緒不詳」としか記されていない。また『風土記稿』には「八宮社 村の鎮守なり、泉覚院持」「泉覚院 本山修験、男衾郡板井村長命寺配下、本尊不動を安ず」と載る。
 旧泉覚院の宮本家は、当社の氏子総代を務める当主の敬彦で三八代目という旧家で、英長の時に神仏分離に遭い、復飾して神職となり、広野(敬彦の祖父)の代まで神職を務めていたという。同家の邸内には鬼神神社が祀られているが、この鬼神神社は、同町川島にある鬼神神社の奥宮であるといわれ、同家が神職を務めていたころには悪魔祓いとして多くの人から信仰され、ことに戦時中は朝敵平定の御利益を求めて祈願者が多かったとのことである。
                                   「埼玉の神社」より引用
       
                境内社 琴平神社・榛名神社

 ところで「宮本家」は旧泉覚院と呼ばれる修験で、八宮神社の氏子総代を務め、祭祀に深く関係のある家であり、近郊に鎮座する杉山八宮神社には明治十六年筆子碑に広野村「宮本広野」という人物も存在していた。
【新編武蔵風土記稿】
・「八宮社 村の鎮守なり、泉覚院持ち」
・「泉覚院本山修験、男衾郡板井村長命寺配下、本尊不動を安ず」
 旧泉覚院の総元締めは男衾郡板井村長命寺だが、男衾郡板井村と畠山氏の本拠地である畠山地区は近距離であり、決して偶然ではない。

「埼玉の神社」によれば、「旧泉覚院の宮本家は、当社の氏子総代を務める当主の敬彦で三八代目という旧家で、英長の時に神仏分離に遭い、復飾して神職となり、広野(敬彦の祖父)の代まで神職を務めていたという。同家の邸内には鬼神神社が祀られているが、この鬼神神社は、同町川島にある鬼神神社の奥宮であるといわれ、同家が神職を務めていたころには悪魔祓いとして多くの人から信仰され、ことに戦時中は朝敵平定の御利益を求めて祈願者が多かったとのことである」とされている。
 この中にある「
鬼神神社」は川島地区に鎮座する「鬼鎮神社」の奥宮と謂われているが、この川島鬼鎮神社」は畠山次郎重忠が寿永元年(1182)菅谷館を築誠するに当たり、鬼門除けの守護神として奉斎されたと伝えられていて、重忠とは深い関係にある社といえる。同様にその奥宮である「鬼神神社」も重忠と無関係な社ではないと考える。              

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杉山八宮神社

 嵐山町・杉山地域は、その行政地域北端が嵐山小川IC周辺、そこから南東方向に流れる市野川左岸地域が西、及び南端部側となり、その北側から埼玉県道69号深谷嵐山線に沿って最終的に市野川に合流する粕川(一級河川)右岸一帯が東・南側端部となる三角地帯を形成する地域である。
 
北、及び南側には市野川、そして粕川の両河川に挟まれている地域ながら、微高地という特性もあり、道を挟んで南西方向約1㎞の所には、室町・戦国時代に築城されたという杉山城も存在する。
 杉山城は鎌倉街道を見下ろす丘陵の南側の突端に10の郭を配置した山城で、実に細かく様々な工夫が凝らされており、その芸術的とも言える高度な築城技術から「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」という評価がなされている城跡で、国史跡にも指定されている。しかしこれほど見事な縄張りを形成しているこの城の築城者は不明で、年代に関しても、従来は縄張りが極めて緻密で巧妙なため、「土の城を極めた」と称賛された「小田原北条氏」の時代に造築されたものと言われていたが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である可能性が強く、縄張りを主とする城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違から「杉山城問題」と呼ばれる謎を生んでいるという。
 杉山城跡の築城者は不明とされるものの、城の立地に関して北方で四津山城(高見城)越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して松山城と鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町杉山671
             ・ご祭神 建速須佐之男命・大己責命・稲田比責命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祭43日 例大祭1017
 杉山八宮神社は嵐山町北東部、関越自動車道・嵐山小川ICの南西側に鎮座する。当社は
粕川右岸の周囲の標高が平均65mのなだらかな起伏のある微高地からも一段高い82.2mの山頂に鎮守する。その西方にはかつて鎌倉街道上道が走り、南西方向約1㎞の所には、鎌倉期の武将金子十郎家忠の居城と伝え、戦国期には松山城主上田案独斎の家臣杉山主水が居城したという杉山城祉があり、山頂からはその風景も眺める事も出来る絶好な要衝地に社は鎮座している。
 社務所や駐車場等なく、道路に面した路肩のような場所に駐車し、急ぎ参拝を行う。
        
 
            
杉山八宮神社は嵐山町立玉ノ岡中学校の北側丘陵部に鎮座する。
        
                                         参 道
        
                     拝 殿
 神社明細帳(嵐山町web博物誌より引用)
 一、由緒
 往古勧請四十五代聖武帝ノ御宇ト申。其后六十一代朱雀院ノ御宇天慶二年二月平将門関東ニ在リテ謀反ヲ起シ朝意ニ叛キ、此時六孫王経基公当村ノ旧城ニ御出陣在テ、藤原秀郷平貞盛ヲシテ當國ノ精兵ヲ募リ将門ヲ討ス。時陣中疫癘流行シ斃者不少、依テ社頭ニ於テ朝敵征討疫癘消除ノタメ御意、頗ル有之靈驗著ク、反賊忽チ伏誅シ、疫頓ニ愈。依テ経基王再ニ當社ヲ修繕シ四方四種ノ村落ニ祀テ八宮神社ト号シ、法施トシテ仁王會六万部御修行有、之今ニ六万塚・六万坂ト申所アリ、城跡モ僅ニ存ス。此言詳ナラスト雖モ傳テ有之今ニ春秋両度祭典ヲ成シ、皇國安全ノ祠祝ヲ奉ス。依テ前摘ヲ記載ス。
 明治四十一年三月三日上地林四畝十三歩境内編入許可

 上記「神社明細帳」の由緒によると、杉山八宮神社は第45代聖武天皇の御代(72448)の勧請である。また天慶2(939)には、平将門の乱の沈静のため当地の旧城に出陣した経基王が、朝敵征討・疫病消除を当社に祈願したところ霊験あらたかであったので、社殿を修繕し、四方四種の村落に分祀して八宮神社と号し、法施として仁王会六万部を行った。当社南西の六万部塚・六万部坂の地名は、これにちなむものであるという。確認は必要だが、社伝のいう箏を信じれば、かなり古くから信仰されている社となる。
                  
                               境内にある「
杉山寶齋退筆塚銘」
        
                    参道の様子
『新編武蔵風土記稿』比企郡杉山村条には「中古上田氏の臣にて庄主水(或は杉山主水とも)と云ふ者住せし所とも云へり」と記載されていて、松山城主上田案独斎の家臣杉山主水が杉山城に居城していたという。
 尚この杉山主水という人物は「庄」氏であるという。武蔵七党のひとつであり、諸々の武士団の中では最大勢力の集団を形成していた「児玉党」の棟梁的な立場であった阿保姓庄氏であり、その一派が旧鎌倉街道を利用してこの旧杉山村に移動・定住し、「杉山」姓と名乗ったという箏なのだろうか。
        
           杉山八宮神社近郊にある「杉山城跡」の掲示板。                
               

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古里兵執神社

嵐山町は埼玉県中央部に位置する南北に長い町である。その北端部の古里地区は熊谷市、深谷市、寄居町に接していて、埼玉県道11号熊谷小川秩父線と同県道69号深谷嵐山線が交差する場所として、熊谷、深谷、寄居・小川、嵐山方面へ行く交通の分岐点でもあり、利便性のある地域である。
 地形的にみると、古里地域やこの地域の南部で手白神社が鎮座する吉田地域は比企丘陵内にあり、滑川がその地域から南東方向に流れている。この地域の滑川は上流部で川幅も小さいが、谷幅(川の両側の水田を含む範囲)が広く、両側は山に囲まれているが沖積台地と言われる標高の高い平坦な地も多い所でもある。
 この古里地域のなだらかな丘陵地の一角に兵執神社は鎮座している。
所在地    埼玉県比企郡嵐山町古里766
御祭神    武甕槌命
社  格    旧村社
例  祭    10月18、19日 例大祭(兵執神社獅子舞)

       
 古里兵執神社は埼玉県道11号熊谷小川寄居線を小川町方向に進み、古里交差点を右折、そこから約200m位でY字路にあたり、Y字路の角付近に兵執神社の社号標石があり、そこをまっすぐ進み、丘の中腹付近に兵執神社が道路沿いで右側に鎮座している。ちなみに「兵執」と書いて「へとり」と読む。社殿の丘の下で、参道に向かって右側には社務所があり、そこには駐車スペースがあったので、そこに停めて丘の下の社号標石から参拝を行った。
            
                   
           
  埼玉県道69号深谷小川線とのY字路の間にある社号標石(写真最上部)、そこから真っ直ぐ進むと一の鳥居(同中央)があり、そこをまた丘を登るように進んでいくと境内(同下部)になる。境内までの参道がまた変に気持ちが良く、急ではなく、長さもそこそこの勾配のある参道を歩くと何となくハイキング気分にさせてくれるものだ。
            

町指定
 民俗文化財   兵執神社獅子舞

  指定  昭和三十七年九月一日
  所在  兵執神社 嵐山町大字古里字中内出七六六
  時代  江戸時代

 毎年十月十八、十九日(近年はこれに近い土曜日、日曜日)の秋季例大祭に疫病除けや豊作を祝い古里の氏子によって獅子舞が奉納されています。
 子の獅子舞は,太鼓に文政年間(一八一八年頃)の記載があったことなどから江戸時代にはすでに舞われていたと考えられます。
 獅子舞の役は、順に(一)万灯【一番上に榊と花、その下に灯籠、その下に竹ヒゴに花がつけられ、水引が下がった柱状のもの  二、三十人】 (二)法螺貝【一人】 (三)金棒つき【二人】(四)先連【柏木を打つ 一人】(五)棒司い【獅子が舞を奉納する前に庭を清め、四方を固める 四人】(六)花笠っ子【獅子の演目中にササラと称する竹製の楽器を擦り合わせる 四人】(七)仲立ち【ひょっとこ 一人】(八)獅子【ホウガン(男獅子)・女獅子・男獅子 三人】(九)笛吹役者【十人】で構成され、棒使い・獅子役に限っては小学生からはじめ、満八歳で交代になるそうです。
  奉納は、はじめに社務所前庭で初庭を舞い、次に役の順番で列を整え街道下りをして前の道路まで降り、神社参道の鳥居をくぐり社殿に向かいます。社殿の西庭では二の庭を舞い、東庭では三の庭を舞います。
演目には、初庭で舞う堂浄古根古・女獅子かくし、二の庭で舞う場均し・隠平掛り・花掛り・三の庭で舞う駆け出し、神楽があります。
                                                             案内板より引用 
 
           参道の左側には天神社               天神社の奥には駒形大神の石碑
 

 参道の右側には左側から八坂社、愛宕社が並び(写真左)、八坂社、愛宕社の参道の向かい側にも境内社がある(同右)。左から白山神社・小女郎神社、日枝神社、山神社、そして八幡神社。そして八幡神社の奥にポツンと明敵大神社の石碑があるが今回写真の紹介は省略。
           

    境内社の散策が終了し、参道に戻ると、また一段高い場所があり、その上に社殿が見えてくる。
                       
                             拝殿覆堂

            拝殿内部                      社殿の右奥にある鎌倉稲荷
 この滑川の源流域の沖積地を見下ろす大字古里の丘陵上には、古里古墳群が点在している。6世紀後半を中心に築造された古墳群で、当時は78基の円墳が存在したとされて言われているが現在は52基の存在が確認されている。この古里古墳群は10カ所の支群に分かれていて、埴輪をもつ6世紀代の古墳から横穴式石室をもつ7世紀代の古墳へと年代の幅がある。石室の石材にはこの地域の基盤を構成する凝灰岩の切石が用いられている。岩根沢には町内唯一の横穴墓も発掘されている。その東端は埼玉県道11号線に沿って塩古墳群と隣接しているようで、その関係が注目されている。
           
                       古里兵執神社 参道の風景

 今回参拝した古里兵執神社は、まさに平地を見下ろす丘陵地の一角に鎮座する社で、古里地区を一望できる要衝の地にある。社からこの風景を見ているうちに、ふと近郊に存在する古墳群の埋葬者たちは、どのような感慨をもって今の風景を眺めているのだろうかと、何となく思いに耽った面持ちとなった。



                                                                                                  



 

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大蔵神社

 平安時代の末期は貴族社会から武家社会への一大変革期と言われている。この社会の変革期に活躍した木曽義仲はこの嵐山町大蔵の地で生まれ育ったと言われていて、義仲に関係する伝承や伝承地が町内に多く残されている。
 木曽義仲の父は、源氏の棟梁・源為義の次男・源義賢で、母は小枝御前。義賢は嵐山町の大蔵に館を構えて住み、そのころ義仲は駒王丸(こまおうまる)という幼名で呼ばれていた。
 源義賢は1153(仁平3年)年頃、武蔵国の名族秩父重隆の養君として上野国多胡から武蔵国大蔵へと迎え入れられ、大蔵館を構えたと言われており、当地を拠点として武威を高めたが、1155(久寿2)年、嵐山町大蔵の地で起こった「大蔵の戦い」で非業の最期をとげることになる。義賢の兄義朝の長男である悪源太義平は、この地方に勢力を伸ばすために大蔵館を攻め、義賢とその一族の大部分が討ち死にした。
 この大蔵の地は、都幾川をのぞむ台地上に位置し、荒川支流の都幾川と鎌倉街道が交差する要衝の地でもある。大蔵神社の森は周囲よりも高くなっており、今でも高い土塁に取り囲まれている。義賢の屋敷はこのあたりにあったといわれ、義賢がこの地を本拠地にして勢力をのばそうとした理由が何となく頷けた、そんな参拝となった。
所在地    埼玉県比企郡嵐山町大蔵523
御祭神    大山昨命
社  挌    旧村社
例  祭    不明

        
 大蔵神社は国道254号線を嵐山駅方面に向かい、月の輪駅交差点の次の交差点(交差点の名称はなし)を左折し、真っ直ぐ進むと埼玉県道344号高坂上唐子交差点にぶつかる。この交差点を真っ直ぐ進み(埼玉県道172号大野東松山線)、都幾川を越え約1km位進むと右側にこんもりとした大蔵神社の社叢が見える。残念ながら駐車場または駐車スペースはないようなので県道沿いに路上駐車し、急ぎ参拝を行った。
           
                  県道172号大野東松山線側から正面参道を撮影
           
                   額に「大蔵神社」と書かれた朱色の両部鳥居
           
                  鳥居の手前左側にあった「大蔵館跡」の案内板
大蔵館跡
 大蔵館は、源氏の棟梁六条判官源為義の次子、東宮帯刀先生源義賢の居館で、都幾川をのぞむ台地上にあった。現存する遺構から推定すると、館の規模は東西一七○メートル・南北二○○メートル余りであったと思われる。
 館のあった名残りか、館跡のある地名は、御所ヶ谷戸及び堀之内とよばれる。
 現存遺構としては、土塁・空堀などがありことに東面一○○メートル地点の竹林内(大澤知助氏宅)には、土塁の残存がはっきり認められる。また、かつては高見櫓の跡もあった。なお、館跡地内には、伝城山稲荷と大蔵神社がある。
 源義賢は、当地を拠点として武威を高めたが、久寿二年(一、一五五年)八月十六日、源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。
 義賢の次子で、当時二歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斎藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが、後の旭将軍木曽義仲である。
                                                             案内板より引用
             
                             拝    殿

 大蔵神社の手前左側には稲荷神社が鎮座し(写真左)、その奥には八坂神社の扁額が掲げてある一見神興庫兼倉庫風の社もある。また稲荷神社の側面上部には「大蔵八坂神社御神輿製作の由来」と書かれた額が飾られていた(同右)。

大蔵八坂神社御神輿製作の由来
 大蔵八坂神社の御神輿の由来は、記録によると、今から一六四年前の天保七年(一八三六年)六月に氏子の皆さんから御寄付をいただき造られたと考える。<その後明治八年(一八七五年)にも氏子から御寄付をいただいた記録がある>
 当時を日本史で見ると天明三年(一七八三年)七月に浅間山の大噴火があり、その後の天変地異により天明七年までを天明の大飢饉。天保四年から十年までを天保の大飢饉といわれた年代で、相当の病人死人が出たと記録されている。まさに大飢饉の最中に五穀豊穣身体健全を願って御神輿を造られたことが想定される。また御獅子二体は明治二十年に造られた記録がある。
 以来、毎年御神輿と御獅子の渡御が盛大に行われてきた。時代の変化にともない昭和四十年代には、一時御神輿の渡御が中止されていたが、大蔵町南会が昭和五十二年に設立され本会が中心になり、翌年から渡御が復活したことは大変喜ばしいことである。そして平成元年には青少年の健全育成を願って、氏子総代の成澤勝治氏が子供神輿を御寄進され現在に至っている。
 しかし現在の御神輿は老朽化が著しく平成元年から夏祭りの残金を将来の御神輿購入資金の一部として特別積立をしてきた。
 ここで大行院大澤霊明氏の発案でミレニアム二○○○年を記念して、御神輿を新装しようということになり平成十一年の区民総会にはかり、二十八名からなる大蔵神輿製作実行委員会をつくり、毎戸月額二千円十八ヶ月の積立御寄付を賛同願って造ることに決定した。実行委員会では東京浅草、群馬県高崎市及び県内関係地まで出向き検討を重ねてきたが、高崎市内の神具専門問屋で現品を確認して完成品で購入した。なお今回の御神輿の製作にあたり大行院大澤霊明氏には、御助言と過分なる御芳志をいただき区民一同感謝申しあげるものである。
 異常大蔵八坂神社の御神輿製作の由来を記し後世に伝えるものである。
 平成十二年(二○○○年)七月吉日 大蔵神輿製作実行委員会
                                                           同掲示板より引用
           
         稲荷神社から東側正面にある鳥居。額には「大蔵稲荷大明神」と書かれている。
 

  稲荷神社に並ぶように配置された境内社。写真左側は不明。同右は仙元大日神の石碑。この石碑の両側にある石碑らしきものが何となく気になる。
                 
                        大蔵神社参道付近から撮影

 この大蔵神社には県道沿いや境内西側の「大蔵館跡」の看板付近に土塁や空堀の遺構が見られ、土塁の高さは3m以上あろうかというほど立派なものだ。但しこの土塁等は後世の改築とも考えられ、発掘調査の結果によると現存する土塁は室町時代から戦国時代にかけてのものとされている。
 大蔵地区近辺には源氏3代(義賢、義仲、義高)ゆかりの鎌形八幡神社や笛吹峠、鎌倉街道など、鎌倉武士の息吹きを伝える旧跡が数多く点在している。嵐山という雅な地名と相まって、埼玉県にもこれほど文化遺産の多い地域が存在することが正直嬉しかった。

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