古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中新里御霊神社

 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、怨霊信仰とも言い、不幸な死に方をした人の霊が、祟(たた)り、災いをもたらすという信仰。またそれをなだめ、抑える神を祀(まつ)る信仰でもある。
 日本では、人が死ぬと魂が霊として肉体を離れるという考え方は、例えば縄文期に見られる屈葬の考え方のように、原始から存在していた。こうしたことから、「みたま」なり「魂」といった霊が人々に様々な災いを起こすことも、その頃から考えられていた。古代になると、政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方から、平安期に御霊信仰というものが現れるようになったという。
 神川町中新里地区にも、御霊信仰の社が存在している。
                       
             
・所在地 埼玉県児玉郡神川町中新里48
             ・ご祭神 祟道天王 吉備大臣 建御名方命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 131日 春祭り 415日 大祓 719日                     
                  秋祭り 1019日 新穀祭 1125日

 中新里御霊神社は国道254号を群馬県・藤岡市方向に進み、神川町元阿保地域の「元阿保」交差点を左折、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を南西方向に道なりに進む。八高線の踏切を越えて、1㎞程進むと、右側に「中新里集落センター」が見え、そこのT字路を右折すると、すぐ正面に中新里御霊神社の鳥居が見えてくる。
 境内は広く、駐車スペースの心配もない。撮影に支障のない境内の一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                 中新里御霊神社正面鳥居
        
                 鳥居の左側にある案内板

 御霊神社 御由緒  神川町中新里四八
 □御縁起(歴史)
 中新里の鎮守である当社は、古老の伝承によれば、在古に京都の御霊神社を勧請したもので、大字新里にあった御霊神社とは兄弟であるという。そのため、兄である当社は「上御霊」、弟である新里の御霊神社は「下御霊」と呼ばれていた。ちなみに、新里の御霊神社は明治四十年三月に児玉町保木野の稲荷神社に合祀され、その跡地は現在では畑になっている。
 一方、『児玉郡誌』は、当社の創建について「詳ならざれども」としながらも、中新里の旧家に応永年間(一三九四-一四二八)の板碑があることと、御霊神社の境内に数百年を経た老樹があることを根拠として、「当地は足利時代に開拓せられ、同時にこの社も勧請せられしものなるべし」と推測している。ここでいう老樹は、かつて境内にあった欅の神木のことで、中に博打ができる虚があるほどの大きなものであったが、大正のころに伐採してしまったという。
 更に『風土記稿』中新里村の項には「御霊明神社 村の鎮守なり 末社 秋葉 稲荷(中略)以上村民の持」と載るように、村の鎮守として信仰が厚かったことがうかがえる。旧社格は村社であり、明治四十年に当社の東北にある「諏訪山」と称する古墳の上から無格社諏訪神社を本社に合祀した。なお、当社の幣殿天井には堂々とした竜が描かれており、これは狩野寿信門人加信の筆によるものである。
 □御祭神 祟道天王 吉備大臣 建御名方命
                                       案内板より引用

        
                                        拝 殿

 神川町中新里地区には昔から「吉備大臣」と呼ばれる民話がある。神川町HP「吉備大臣 中新里」全文を紹介する。

○吉備大臣 中新里
中新里では、昭和の初めの頃まで、きびを作ることが禁じられていたそうです。その理由は、次のような伝えがあったからです。
字の鎮守様「御霊神社」は、天津児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っていますが、一緒に「吉備大臣(きびだいじん)」を祀っています。
昔、この吉備大臣が戦に出かけ、戦場で、乗っていた馬がきびに足をとられてよろめいた際、不覚にも落馬して負傷してしまいました。このため、吉備大臣を祀る中新里では、きびを作ることを嫌ったのだということです。
もっとも、吉備大臣とは奈良時代の学者で廷臣だった吉備真備(きびのまきび)のことですから、事実とは思われません。昔の人が、吉備ときびの音が似ているので、こんな昔話を作ったのでしょう。
栃木県のある地方でも、神様がきびの葉で目を痛めその氏子はきびを作らない(日本の伝説)など、似た話は日本中にあります。
近くでは、妻沼の聖天様の松嫌いの話があります。昔、聖天様と、太田の呑竜様が戦さをし、太田の金山まで攻め込んだ聖天様が、松の葉で目をつき、難渋して以来、妻沼地方では松を植えなくなったという話が伝えられています。
      
        拝殿の南側に鎮座する石祠等。        拝殿北側にある由緒不明な石神。
    石祠は詳細不明。右は社日神。
       
             境内北東側で道路沿いに聳え立つご神木。
      ご神木の周辺には数多くの境内社・庚申塚・石碑等が囲むかのように並ぶ。
 
           石碑、庚申塔等4基。            道路沿いにある庚申塚。
        
                                中新里御霊神社 境内社 

中新里御霊神社のご祭神は「祟道天王」「吉備大臣」「建御名方命」の3柱であるが、「建御名方命」が諏訪大社のご祭神であることは周知の事だが、「祟道天王」「吉備大臣」の2柱に関して記して見たい。「吉備大神」は上記では伝説として紹介したが、史実としての人物紹介も兼ねる。

「祟道天王」
 早良親王。奈良時代末期の親王であり、第49代天皇・光仁天皇の皇子。母は高野新笠、桓武天皇、能登内親王の同母弟。桓武天皇の皇太弟に立てられた。延暦4年(785年)、造長岡宮使であり、事実上の遷都の責任者である藤原種継の暗殺事件に連座して廃され、絶食して没した。その後に桓武天皇の周囲で忌まわしい出来事が続発し、早良親王の祟りということになり、怨霊を恐れて崇道天皇と追号されたが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。

「吉備大臣」
 吉備真備(きび まきび)。奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。
 持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる。下級役人の家に生まれたようで、決して出自には恵まれていたかったようだ。それでも平城京の大学寮で秀才ぶりが認められ、元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学ぶ。
 帰国した真備は聖武朝で異例の昇進し、その後藤原仲麻呂の乱での鎮圧にも優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、最終的には従二位・右大臣へ昇進する。
 神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩じた際には、娘(又は妹)の吉備由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を演出。但し別説では後継の天皇候補として文室浄三次いで文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆いて、政界を引退する。
 真備は決して不遇な最期を遂げた「怨霊」に値する人物とは言えないと考えるが、菅原道真同様に、下級貴族から前代未聞の栄達を遂げながらも、時の政敵である「藤原氏(藤原仲麻呂、藤原永手)」に対して「皇統」を命がけで死守しようとして最終的には敗れた政治家でもある。その点菅原道真と同じ要素を持ち、「怨霊」として後世の人々が創り上げた人物かもしれない。

「怨霊」は「祟り神」ともいう。神道が日本人の精神構造の根本で、何万年もの悠久の歴史から培わされてきた観念でもある。事実神道における神は、理念的・抽象的存在ではなく、具体的な現象において観念されるため、自然現象が恵みとともに災害をもたらすのと同様に、神も荒魂・和魂の両面を持ち、人間にとって善悪双方をもたらすものと考えられている。神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っているといえよう。



参考資料 「埼玉の神社」「Wikipedia」神川町HP「吉備大臣 中新里」等

                        

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