古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高鳥天満宮

 当社の創建は不詳であるが、同神社の縁起によれば、延喜元年(901)菅原道真が九州大宰府に左遷となったとき、臣で出羽国の人岩下勝之丞が、大宰府への随行を許されず、止むなく道真の自画像を賜り帰国した。のちに文暦元年春、後裔の岩下勝之進がその画像を携えて京都北野天満宮に参詣の帰途に投宿し鳥が飛来してやまない此の地に、一社創建を発願し国主に請いて高鳥の地に建立し、公の自画像を安置したと伝えられている(『板倉町史通史下巻、上野国郡村誌17』)。天正一八年(1590)頃天徳寺了伯(佐野城主宗綱の弟)の発願により、例大祭に能楽が行われたが、昭和初期には中止となっている。戦前まで身体の弱い子は当社に詣で、天満宮の弟子として五歳から七歳まで天神奴となった。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大高嶋1665
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧高鳥村鎮守・旧郷社
            
・例祭等 節分祭 23日 例大祭 2月最終日曜日 夏越大祓 7月下旬
                 
新嘗祭・七五三詣 10月第4土曜日 他
 板倉町大高嶋は、南境には日本最大の流域面積である利根川が、また北境には谷田川が流れ、豊かな水資源と自然環境に恵まれた平坦地である。斗合田長良神社から埼玉・群馬県道369 麦倉川俣停車場線を3.5㎞程東行すると、進行方向左手に令和23月をもって閉校となった「板倉町立南小学校」が見え、その先の信号のある交差点には「高鳥天満宮」「天神池公園」の看板が見えるので、そこを左折し暫く進むと正面に高鳥天満宮の一の鳥居が見えてくる。
 実際には、2025121日に海老瀬一峯神社から高鳥天満宮に行ったのであるが、その経路説明がややこしいので、分かりやすい斗合田長良神社からの説明となった次第である。
        
                
高鳥天満宮正面一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「高鳥村」の解説
 谷田川右岸にあり、北は谷田川を挟んで海老瀬村、東は下五ヶ村、南は島村・大久保村、西は飯野村。当村南東方の宇那根(うなね)集落について、明徳二年(一三九一)七月二日の藤原氏女譲状写(正木文書)によれば「上野国さぬきの庄うなねの郷たての村ニ、在家仁間、はたけ弐町弐反、あら田弐町」が松犬御前に譲り渡されている。うなねは高鳥の宇那根と下五箇の宇奈根と二集落あるが、宇那根と宇奈根は隣接し一集落と同様である。江戸時代の石仏には、集落名の下に宇那根・宇奈根の村名が刻まれているものが多く、往古独立村であったと思われる。
 
         朱を基調とした一の鳥居を過ぎ、参道を進み(写真左)
           階段を登ると正面に二の鳥居が見える(同右)
        
             石段を登った先で参道右側にある神楽殿
 神楽殿は入母屋造瓦葺妻入で、境内の南東に西向きに開いて建つ。基礎は自然石を並べ、その上に土台を廻し、床を3尺ほど上げる。差鴨居で柱を固め、軒はせがい造にして庇を深く出す。彫刻は差鴨居に渦と若葉と梅の木の絵様、縁の持送に施す。建造年を示す資料はないが『明治8年社寺便覧』に現神楽殿と同規模の建物を記す。また、『上野名蹟図誌』に、姿が描かれている。このことから、江戸末期に建てられていたと考えられる。
 神楽殿では神話をもとにした「高鳥天満宮太々神楽」や、郷土色豊かな「里神楽」が、元旦祭や例大祭、夏越の大祓に奉納される。例大祭に舞う「高鳥天満宮太々神楽」は、町の指定重要無形民俗文化財である。神楽殿を保存し御神楽が継承されることは、歴史的文化を伝える上で非常に重要なことである。
        
                    拝 殿
 拝殿は入母屋造平入、正面に1間の向拝を付ける。組物を出組、柱頭の木鼻は獅子・獏の彫刻を施し、中備も出組とする。縁を三方に廻し、腰組は縁束の上に台輪を置き出三斗組で支え、縁葛の下に詰組の斗を設ける。天井は格天井とし、百人一首の天井画が99枚描かれている。絵師は上田正泉、小林悦道、堀江柳泉の名が墨書きされ、すべての絵に寄進者名が記されている。
 拝殿は嘉永元年(1848)の棟札があり、棟梁、彫工が記されている。大工棟梁・仕手方は邑楽郡内の職人が中心となり建築し、彫刻は栃木市の渡辺喜平次宗信やみどり市花輪の彫刻師石原常八重信が手掛けている。向拝柱や水引虹梁の梅の浮彫は美しく、中備の龍の彫刻や手挟の籠彫、海老虹梁の丸彫龍は見事な彫刻である。
当社には、彫刻雛形帳が残っている。表紙に「弘化5年(1848)正月」と「天満宮拝殿 彫物雛形帳」の記載があり、同年(嘉永元年)拝殿建立時の彫刻雛形である。平成12年(2000)に社殿と共に、町の重要文化財に指定されている。
 室内には社殿を建築した時の様子を描いたとされる絵馬(天満宮本殿建築図)が飾られている。嘉永元年(1848118日上棟と記されているという。現在、経年でくすみ、絵の詳細は確認できないが、上棟の職人の様子など細かく描かれた珍しい絵馬で、北尾重光作である。この絵馬は携わった棟梁などが、上棟を祝して奉納したとものであると伝わる。
        
              拝殿上部に掲げてある奉納額・扁額等
        
                    本 殿
 本殿は、一間社流造(1.65m)、1間向拝付、側面1間(1.61m)、瓦棒銅板葺である。自然石切石を4段積みにした基壇に切石基礎を敷き、亀腹石の上に土台を廻し、柱を立てる。三方に廻らす縁は、身舎の柱からの持送材が組物を受けて支えている。側面と背面の木鼻は彫刻の獅子とする。虹梁の絵様や獅子の木鼻より江戸末期の様式が伺える。よって拝殿と同様の時期に建造されたと考えられるという。
        
   「板倉町指定重要文化財 高鳥天満宮社殿 付棟札・彫物雛形帳・絵馬」の案内板
        
        本殿奥に祀らてている境内社 左から
浅間神社・六社合祀社
 六社合祀社は、長良神社・琴平神社・稲荷神社・厳嶋神社・八雲神社・多賀神社六社の合祀社である。一間社流造(1.07m)、側面1間(0.8m)、1間向拝付銅板平葺である。全体は朱塗であった痕跡が見られる。切石の上に土台を敷き丸柱を立て腰貫・頭貫で固め、切目・内法長押を廻す。正面に浜縁を置き木階5級を設け、縁を三方に巡らし、逆蓮柱の高欄を付ける。側面と背面に嵌め込まれた彫刻は、全体に力強い彫である。当建物は17世紀後期の特徴を残しながら、木鼻が漠や獅子の彫刻へと変わっていく過渡期の建物で18世紀前半頃の建物と考えられている。
 
      本殿奥にある宝篋印塔            宝篋印塔の奥には心字池
                       冬時期故に水は抜かれているのであろう。



参考資料「日本歴史地名大系」「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「群馬県邑楽郡板倉町の民俗高鳥天満宮HP」「境内案内板」等

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