古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

佐間八幡神社

 栗橋町(くりはしまち)は、かつて埼玉県の利根地域に存在した人口約27千人の町で、北葛飾郡の北端にあり、首都圏から約50kmに位置し、周囲を利根川・中川・権現堂川の3河川に囲まれている。
 江戸時代には日光街道が利根川を越える要地として箱根・碓氷と並び関東三大関所の「栗橋関所」がおかれた水陸交通の要衝の宿場町(栗橋宿)であり、古くから人やもの、情報が行き交う場所として発展し、明治2年に関所が廃止されるまでの間、宿場町として、また舟運の町として栄えていた。現在も日光や東北へ至る鉄道は新幹線も含め栗橋を経由する。
 関東平野のほぼ中央部に位置し、山や丘陵はなく、利根川・中川の沖積平野にあって中川低地と呼ばれる低地が中心の地形であるが、中心市街地、高柳や佐間などの町西部、権現堂川沿い及び南栗橋地区には、自然堤防や旧堤防など微高地になっている場所もある。また、ほぼ平坦の地形のため土砂災害等の危険性は低い。
 2010年(平成22年)323日、久喜市、南埼玉郡菖蒲町および北葛飾郡鷲宮町との新設合併により消滅した。現在でも旧栗橋町域を総称して栗橋地区という。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市佐間577
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春の祭礼 415日 天王様 77日・15
                  秋の祭礼 1015
 国道125号線と埼玉県道316号阿佐間幸手線の交わる「佐間(西)」交差点の東、真言宗豊山派八幡山定福院の西隣に佐間八幡神社は鎮座する。
        
                  佐間八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「佐間村」の解説
 間鎌(まがま)新田の南西にあり、村の北を古利根川が流れ、川沿いに堤防がある。鎌倉街道であったと伝える古道、また日光御廻(おまわり)道が通る。地内の小草原(こくさばら)では中世墓地が発掘され、蔵骨器として使用された一四世紀中頃と推定される瀬戸瓶子や常滑大甕、また板石塔婆三七基が出土している。中世において水陸交通の発達した地であったと考えられる。また小字に陣屋・陣屋屋敷添などがあり、佐竹氏の陣屋があった所という(郡村誌)。
『日本歴史地名大系』 「佐間新田」の解説
 佐間村の東に位置したとみられる(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一七石余・畑高一二七石余で、幕府領。元禄郷帳・天保郷帳では高一八一石余。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっており、家数二五。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)、幕末の改革組合取調書などには記載がなく、幕末までには佐間村に含まれて把握されることが多くなったものと思われる。
        
            参道先の境内は開放感ある空間が広がっている。
 当社の氏子区域は、大字佐間のうち前・後ろの全域と、河原代の一部である。前を陣屋・下手・前新田の三組に分け、後ろを上手・中組・道下・北新田の四組に分けている。氏子区域の住民は、ほとんどが氏子区域の住民は、ほとんどが氏子となり、現在は二四〇戸であるとの事。
 
      境内左側にある手水舎         手水舎の先に祀られている青龍権現社
                           権現社の左側の石碑は稲荷社
        
               一段高い場所に社殿が鎮座する。
 
 石段の左側にある案内板や伊勢参宮記念碑    石段右側にも伊勢参宮記念碑が3基あり。
                          その手前に置かれている力石2基
        
                久喜市指定文化財「八幡神社歌舞伎絵馬」の案内板
 久喜市指定有形文化財。  八幡神社歌舞伎絵馬
 指定年月日 昭和53329
 所 在 地 久喜市佐間五七七
 歌舞伎絵馬は、野郎(やろう)歌舞伎風の踊りが杉板八枚に描かれている。縦150センチメートル、横180センチメートルに達する大形の絵馬で、左方の墨書から絵師は村上義勝で、正徳六年(一七一六)丙申(ひのえさる)三月に奉納されたことがわかる。
 歌舞伎の元祖は、慶長八年(一六〇三)に北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国といわれている。阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる女歌舞伎や前髪を剃り落としていない少年の役者が演じる若衆歌舞伎が行われていたが、風紀を乱すとの理由から女歌舞伎は、寛永六年(一六二九)に禁止され、承応元年(一六五二)には若衆歌舞伎も禁止された。その後、現代に連なる野郎歌舞伎となった。絵馬が奉納された正徳六年頃には、野郎歌舞伎が盛んに行われていたようである。
 この絵馬はその当時のようすをよく表し、絵画としても巧みな鉄線描の輪郭に着色の工合も舞手の顔や姿をできるだけ変化させて描かれている。
 当時の風俗画として、また演劇の資料としても貴重なものである。
 平成二十五年三月四日 久喜市教育委員会                    案内板より引用
       
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 葛飾郡佐間村佐間新田』
 八幡天神稻荷合社 定福院の持、古は大社なりし由、元祿の頃改の國圖當村と覺しき邊に八幡社とあり當社のことにや、
 定福院 新義眞言宗、下總國香取郡前林村東光寺末、八幡山と號す、開山行淸、本尊不動を置、

 八幡神社  栗橋町佐間五七五(佐間字陣屋屋敷添)
 佐間の地名は、低湿地にある島状の台地を表すという。また、古くは耕地を島と呼び、これが変化したともいう。いずれにしても、古くから開かれた所である。昭和四十四年、当社後方の字小草原から、偶然、板碑三四基と古瀬戸の壺が発掘された。これは、中世この地に有力な土豪が存在した証拠であろう。
『風土記稿』は、往時の当社を「八幡天神稲荷合社 定福院の持、古は大社なりし由、変録の頃改の国図当村と覚しき辺に八幡社とあり当社のことにや」と記している。別当であった定福院は、山号が八幡山であり、現在本堂わきにある阿弥陀薬師堂は、寛永年間(一六二四-四四)、八幡社の本地阿弥陀如来を祀るために建立された本地堂であると伝えることなどから、当社は、古くは八幡社であったと思われる。
 現在、覆屋内は、中央に大きな本殿を据え、これに騎乗八幡大明神像を安置する。この左右に天神社・稲荷神社・妙義社・琴平神社の小祠を置き、うち天神社と稲荷神社には、それぞれ神像を安置している。なお、天神社の神像には、寛保二年(一七四二)の銘がある。
 以上のことから、当社は、中世、当地の土豪が当時流行した神である八幡社を勧請し、これに江戸時代中期以降に村内の天神社と稲荷社を合祀したものと考えられる。
 大正三年に字内の愛宕社を合祀し、現社名となる。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社は、『風土記稿』に「古は大社なりし由」と載せるように、広く信仰された神社である。これは、多くの絵馬奉納として表れている。絵馬は、大部分が歌舞伎絵馬と呼ばれるもので、中でも正徳六年(一七一六)に奉納された「元禄花見踊り」は優品であるという。
 
    社殿左側に祀られている愛宕社           社殿右側にある神興庫
        
                  社殿からの眺め
        
          因みにかつての別当寺で社の東隣に隣接する定福院
          正面の楼門には「八幡山」の扁額が掲げられている。
        
                   定福院本堂
             境内には多数の羅漢像が置かれている。 
         
           薬師堂               社の境内右側にある観音堂


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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