古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

境島村諏訪神社

 境島村(さかいしまむら)は、伊勢崎市東南部の利根川沿岸に位置する。治水目的の河川改修により、地域は利根川を隔てて南北に分断され、埼玉県に接する地区南部は河川飛び地となっている。地域東部には深谷市横瀬地区の飛び地が存在する。
=保泉(ほずみ)武士(たけし)は粟がら育ち 米のなる木はわしゃ知らぬ=
 と、この地方の桑つみ唄に唄われるよぅに、境町を折半して、およそ東武鉄道伊勢崎線以南、部落では、保泉・上(下)武士以南・小此木・中島・米岡・平塚・利根川をはさんだ旧島村の地域は、全くの畑作地帯であった。水利に恵まれなかったからである.
しかしここの砂質の壌土は、桑の生育には最も適した。とくに旧島村の土地が、しばしば利根川の洪水に見舞われた結果、土壌中に微粒子病の病源菌を保たず、そのために蚕種に向く蚕飼育が可能であったと、同地の専門家に聞いたことがある。ともかくもこの地帯は、本県における蚕の本場であり、蚕種地帯でもあって、大がかりな養蚕が行なわれ、そのために、家々の造りも立派であり、「新地・島村屋造りはよいが」と桑つみ唄にも謡われるのである。そしてまた、明治初年に、単身、蚕種を持ってイタリアに渡った田島弥平翁の出身地でもあったのである。
        
            ・所在地 群馬県伊勢崎市境島村373277
            ・ご祭神(主)建御名方命
            ・社 格 旧島村鎮守 旧村社
            
例祭等 例大祭 43日 夏祭り 8月第1土日 秋季例祭 113
 境島村地域を起点として同市今泉町に至る群馬県道295号境島村今泉線を西行する。雄大な利根川の風景を愛でながら長閑な田畑風景の中県道を1㎞程進むと、県道沿いの進行方向やや右手に境島村諏訪神社が見えてくる。
 実はこの社には去年何度かアプローチをしたのだが、社周辺の道路工事・整備中により社に近づくことが出来ず、断念せざるをえない状況であったのだが、今回偶々近場での用事を済ませ、心向くままに立ち寄った次第である。
        
                 境島村諏訪神社正面
    道路沿いや境内にはまだ道路工事用のカラーコーンが整然と建ち並んでいる。
『日本歴史地名大系』 「島村」の解説
 小此木(おこのぎ)村の南に位置し、南は武蔵国榛沢郡横瀬村(現埼玉県深谷市)、同郡宮戸村(現同県本庄市)。現在、利根川が中央部を西より東へ貫流し、南北に二分されている。「島村郷土誌」の利根川流路変遷図によると、近世から大正三年(一九一四)の河川改修まで、村内を流れる利根川の偏流蛇行ははなはだしい。洪水に度々襲われ、その度ごとに水脈が変わっていたことが知れる。現利根川の中央部に字前島または本野(ほんの)と称する集落があり、当村の中心部であった。度重なる洪水・川欠けによりしだいに居住者が利根川の南・北岸に移転。北岸に北向・西島、南岸に新地・新野・新田・立作(りゆうさく)などの集落がある。大正三年の河川改修により字前島は河床となった。利根川の往来は竿漕ぎ渡船による。渡船の創始時期は近世からといわれるが不詳。この渡船は現在も続けられ北向と新野を結び、県道扱いとなっている。無料。
 天正二年(一五七四)北条氏繁は当地に長期在陣していた(同年閏一一月五日「北条氏繁書状」鶴岡八幡宮文書)。
 上記『日本歴史地名大系』には「渡船(島村渡船)」の事も載せている。
島村渡船(しまむらとせん)は利根川によって分断されている群馬県伊勢崎市境島村内を結んでいた渡船。約400メートルの航路を5分ほどで渡していた。伊勢崎市の市道の一部として(18年度以降は春から秋のみ)無料で運航されていた。しかし、2019年の令和元年東日本台風で船着き場等の設備が被害を受けて休航となり、そのまま20224月に廃止された。
       
                   境内の様子
 社叢林に囲まれていると社はいえ、境内によく見る玉垣や玉砂利が敷いてあるわけでもなく、鳥居や社号標柱の先に石灯籠と社殿が見える程度の余計なものを省いたような社。よく見ると、幡さし用の石製の柱が社殿の奥に横づけされている。
       
                      拝 殿
 当社は、正親町(おおぎまち)天皇の御代の天正年間(15731591)に武田信玄の遣臣だった粟原太郎左衛門が、信濃国の名神大社諏訪明神の御分霊を奉祀して氏神としたのを起源とする。
その後、島村の地が小此木から分離して一村をなす時に、中島の飯福社を離れて当社を村の鎮守社として村民の崇敬するところとなった。
 明治10年村社に列せられ、同42114日、字新地に祭祀してあった無格社稲荷神社・雷電神社・水神社、字新田に祭祀してあった無格社稲荷神社、並びに境内末社浅間神社、字立作に祭祀してあった無格社稲荷神社、字北向に祭祀してあった無格社神明宮、字西島に祭祀してあった無格社戸隠神社・大杉神社・三峯神社・手長男神社を合祀したという。
 大正3612日、河川改修によって州中の前島が廃されるとき、現在の字築場373番地の277に社殿を建築し、同5625日に遷座奉斎され、今に到る。
        
                    本殿覆屋
             
                                    本殿内部
 当地域は、利根川後背地という地理的条件から、農業が難しかったこともあり、地区では古くから養蚕が営まれた。明治期には田島弥平ら有力な養蚕農家、蚕種製造業者が現れ、蚕種を海外へ輸出するなど地区の養蚕業は繁栄を極めた。養蚕業衰退後の現在でも地区内の「島村養蚕業績之地」碑や、田島弥平旧宅をはじめとする養蚕農家群などから、かつての繁栄ぶりを窺い知ることができる。
 冒頭に紹介した田島弥平(たじま やへい、文政5815日(1822929日)―明治31年(1898年)210日)あるいは田島邦寧(たじま くにやす)は、明治時代前期に広く普及した養蚕技法「清涼育」(せいりょういく)を確立し、明治5年島村勧業会社を設立し,渋沢栄一らの協力で蚕種の輸出を成功させた。島村(現群馬県伊勢崎市境島村)の養蚕農家・蚕種製造業者である。主著に『養蚕新論』『続養蚕新論』があり、養蚕業・蚕種製造業への貢献によって緑綬褒章を受章した。太平洋戦争後まもない時期に群馬県が刊行した『上毛篤農伝』では、「群馬県の誇り」「蚕糸群馬が生んだ最大の巨人」等と賞賛されている。明治312月死去。77歳。名は邦寧。字(あざな)は子寧。号は南畬(なんよ)
 弥平が自らの理論に基づいて改築した住居(田島弥平旧宅)は国の史跡に指定されており、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産リストに登録された。
 この住居は伊勢崎市境島村地域に現存していて、今も人が住む民家で、庭先までの見学は可能であり、伊勢崎市は田島弥平旧宅案内所を設置し、模型やパネルなどの各種資料によって、資産価値を解説している

         
                   社殿東側から撮影

          社殿の奥に祀られている石祠と庚申塔群(写真左・右)



参考資料「群馬県民俗調査報告書5:境町の民俗」「日本歴史地名大系」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 」等

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