北広島天神社
・所在地 埼玉県久喜市北広島923
・ご祭神 菅原道真公
・社 格 旧廣島村鎮守 旧村社
・例祭等 春と秋のお日待 3月15日・10月15日
河原代香取神社から北東に伸びる道路を南栗橋駅方向に進む。閑静な一戸建て住宅街が延々と続くこの地一帯は、おそらく市街地調整区域となっているのであろう。その住宅地の中を1㎞程進行した丁字路を左折し暫く進むと、その突当たり付近の右側角地に北広島天神社が見えてくる。
赤い鳥居の手前に建つ伊勢参宮記念碑(写真左)。実のところ、この写真では見えないが、社の正面には一般車両が横づけされ、うまく写真に納められなかったため、このようなアングルとなってしまった。住宅地の一角に鎮座する社ゆえか、境内は決して広くはないが、社殿に続く参道の両側には社叢林が覆い、手入れも行き届いていて、地域の方々からの信仰の厚さも感じられる(同右)。
『日本歴史地名大系』「広島村」の解説
河原代(かわらだい)村の北東にあり、正保国絵図・田園簿では広島新田とみえる。田園簿によると田高二六〇石余・畑高二三二石余で、幕府領。元禄郷帳では高一八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本久津見領。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも同じ。助郷は日光道中中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
当社の氏子区域である北広島に限らず、島中と呼ばれる一帯は低湿地であるため、排水の設備が十分でなかった昔は、少し雨が降ると水浸しとなる有様で、そこに住む人々の苦労は並大抵ではなかった。当時は、氏子の多くは川海老やナマズ・鮒などの川魚を獲り、それを町場(白岡・蓮田方面)に売って生計を立てていた。ゆえに米は貴重品であり、米だけのご飯を炊くのは10月20日の恵比須講の日だけであったため、その日は盛大に恵比須講を祝ったそうである。
ところが、大正から昭和にかけて、河川改修が行われ、排水の設備も整ってくると、農業が盛んになり、米や麦が多く生産できるようになった。そして、長い間農業地域として発展をそげ、戸数も増えていく。ところが、昭和61年に、隣接する中里地域に東武日光線の南栗橋駅が新設され、それに伴い当地も市街地区域の指定を受け、今度は市街地へと、その姿が再び大きく変わろうとしているとの事だ。
参道を進む中、左側に見える力石2基と案内板
案内板の内容は河原代香取神社と同じで、使用年度は不明。
地元古老の現認によると、力自慢の若者が鍛錬や娯楽の為に持ち上げたとの説明書きがある。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 廣島村』
天神社 村の鎭守なり、金剛院持、 〇八幡社 持同じ、〇六所明神社 伊坂村迎盛院持、〇神明社 川口村圓光寺持、 大日堂 〇香取社三 一は遠藤内村寶積院持、一は狐塚村泉福寺持、
金剛院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺持、自在山と號す、本尊不動を置、 地藏堂
天神社 栗橋町北広島九二三(北広島字天神裏)
中川と権現堂川に挟まれた低湿地地帯は島中(しまなか)と呼ばれ、その中には栗橋をはじめとして幾つもの村が形成されてきた。当社が鎮座する北広島もそうした村の一つであり、地名は島中の中でも比較的広くて平坦な地であったことに由来するという。したがって、元来は広島村と称していたが、明治十二年に北葛飾郡に編入されるに当たり、郡内に同一村名の村があったため、北広島村と改称した。ちなみに、他方の広島村は現在の吉川町にあり、当地に対して南広島と称している。
当社は、この北広島の守護神として創建され、『風土記稿』にも「天神社 村の鎮守なり、金剛院持」と載せられている。『風土記稿』は、そのほか、村内の諸社として金剛院持ちの八幡社、伊坂村迎盛院持ちの六所明神社、川口村円光寺持ちの神明社、遠藤内村宝積院持ちの香取社、狐塚村泉福寺持ちの香取社を挙げているが、これらの神社はいずれも無格社として、明治十九年から四十三年にかけて村社であった当社に合祀された。また、当社及び八幡社の別当としてその名が挙がっている金剛院は、当社の一五〇㍍ほど西北にあった真言宗の寺院であるが、神仏分離に伴い、明治の初めに廃寺となり、現在は地蔵堂だけを残している。
なお、明治時代に当社に合祀された諸社は、その後いつのころか八幡社を除いて旧地に復し、各々耕地の人々によって祀られている。
「埼玉の神社」より引用
拝殿手前の参道左側にある「北広島天神社社殿竣 同じく参道右側にある伊勢参宮記念碑二基
工記念碑」と伊勢参宮記念碑・伊勢両宮皇大神
北広島天神社社殿竣工記念碑
往古より霊験灼たかな守り神として当地に鎮座し、地区住民の心の拠り所として深く慕われて来た北広島天神社社殿が、平成十四年九月二日夜八時頃時を同じく北広島地蔵堂と共に不審火で全焼してしまいました。
地区住民は茫然とし日常生活も手が付かないという状態でしたが気を取り戻し再建に向け動き出しました。
再建に当たり区長を初めとする三役、総代、組長、有志に依り構成された建設委員会に基づき再建会議を開催し、天神社そして地蔵堂の順に再建を図ることを決定し、八坂神社染谷宮司にもご意見を伺いながら再建内容の検討を進めてまいりました。
最終的には、再建会議出席者全員の総意の下、天神社については新たに地区住民から寄付金を集める事はせず、この度の火災に依り保険会社から支払われた保険金約一千百万円の保険金の範囲内で再建しようという事になりました。
再建のための建築工事は大利根町の染谷工務店にお願いし、平成十五年五月四日に起工となり、同年十二月十四日、関係各位のご支援とご協力の下、待ちに待った竣工の日を迎えました。当日は天候にも恵まれ地区住民一同歓喜に咽ぶ一日となりました。
ここにこの事業の竣工に当たりその趣旨と経過を略記すると共に再びこのような悲しみを地区住民が味わう事の無いよう祈願し、後世のためこの碑を建立する次第でございます。
記念碑文より引用
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」等
