古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

河原代香取神社・河原代諏訪神社・河原代上香取神社

河原代香取神社】
        
            
・所在地 埼玉県久喜市河原代683
            
・ご祭神 経津主神
            
・社 格 旧河原代村鎮守
            
・例祭等 春祭り(お日待) 415日 秋祭り 1015
 佐間八幡神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を東南方向へ2.4㎞程進行した先の信号のある丁字路を左折すると、すぐ右手側に規模は小さいながらも河原代香取神社の鮮やかな社殿が見えてくる。駐車スペースはないため、丁字路側にあるコンビニエンスに駐車後、参拝を行う
        
          道路沿いに鎮座する開放感あふれる
河原代香取神社
『日本歴史地名大系』 「河原代(かわらだい)村」の解説
新井村の北に位置し、正保国絵図・田園簿には川原代新田などとみえる。田園簿によれば田高二三〇石余・畑高二四一石余で、幕府領。元禄郷帳では高三一三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本榊原・久津見二氏の相給。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも同じ。助郷は日光道中中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
        
                    拝 殿
 本殿内には稲荷大明神も一緒に祀られている。「グーグルマップ」において河原代香取神社稲荷大明神と表記されているのもそのためと思われる。
『新編武蔵風土記稿 河原代村』
 香取社 伊坂村迎盛院持、村内の鎭守なり、

 福壽院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺門徒、本尊不動、運慶の作、不動山と號す、開山宥海元和五年四月寂、

 香取神社  栗橋町河原代六八二(河原代字下分)
 当地は利根川と中川との間にあり、地名の河原代も河川沿いの台地の意味であるという。
 開発は 元和年間(一六一五-二四)であると伝え、氏子の池田家の過去帳には「当所開発元和九亥年(一六二三)当家先祖池田四郎右衛門、武州埼玉郡忍領須戸村より移る」と記されている。口碑によると、移住したのは荒堀の関羽家・武井家・渡辺家・下の平井家・池田家など五軒ほどで、真菰(まこも)の茂る沼地を開拓したという。
 当社の創建については不明である。『風土記稿』には「香取社 伊坂村迎盛院持、村内の鎮守なり」とある。また『明細帳』には「往古ヨリ当地二勧請シ村内鎮守二信仰ス、元禄十丑年(一六九七)二検地其ノ前ヨリ除税地ナリ、年月不詳社殿再建、其ノ後大破二及ビ慶応元年(一八六五)三月中氏子尽力シテ再ビ社殿ヲ建立」とある。
 明治四十三年三月二十五日には、同村上分の香取神社、下分の諏訪神社・香取神社を合祀する旨が『明細帳』に記されているが、各社とも現在まで移動はない。上分の香取神社は正保二乙酉年(一六四五)九月の創建と伝え、河原代上分と北広島の一部二七戸で祀っている。また、下分の諏訪神社は荒堀の一六戸で祀っている。同じく下分の香取神社は下組の共有で、香取・鹿島神社と号して、下組一七戸で祭りが行われている。
                                   「埼玉の神社」より引用
 因みに本殿内には稲荷大明神も一緒に祀られている。「グーグルマップ」において河原代香取神社稲荷大明神と表記されているのはそのためと思われる。
 字河原代は、上分一四戸、荒堀一八戸、下分二二戸である。氏子区域を一応河原代全域としているが、これは、明治四十三年に村内の神社を合祀したときに成立したものであり、戦後の社格制度廃止を機に、本来の氏子区域である下分の人々が実質的な氏子となっているという。
        
            社殿の右側にある記念碑二基と十九夜供養塔
       その手前には「香取神社 稲荷大明神 本殿落慶記念碑」が建つ。

 左側に建てられている「
社殿改築記念」では、昭和22年9月15日に発生した「カスリーン台風」によって、北埼玉郡東村で決壊し、濁流が下流域に及び、旧栗橋町のほぼ全域が水没、社も壊滅的な被害を受けた。その後連年の不作が続き、社の再建も進まない状況であったが、昭和269月の「サンフランシスコ講和条約」締結を記念し、また、その年は豊作にも恵まれたので、寄付者の氏名を後世に残すために記念碑を立てたという事だ。
またその右側には「
地所奉納記念碑」があるが、この記念碑は当地から東京へ出て成功した方が、故郷の鎮守を信仰して昭和九年六月一日に建立、奉納したものであるという。
 
拝殿には「炭疽病除・大願成就」の奉納額が掛かっている。銘文によると、昭和12年の7月から8月にかけて馬の炭疽病が流行し、付近で倒れた馬は160頭にも達したが、当地では馬持ち一同で三七日(さんしちにち)の祈願を行ったので、一頭も発病しなかったという。

 香取神社稲荷大明神本殿落慶記念碑
 本神社は栗橋町施行の町道幹線二号線整備事業の実施に伴い築造用地として町の要請に応じ境内地及び参道の一部を協力をしこれを機に氏子一同に相諮り買収費並びに河原代地蔵尊の浄財を建築費に充て天皇陛下即位十周年を記念して境内地内の整備と本殿の新築を行い諸社を安置し奉る
                                      記念碑文より引用

【河原代諏訪神社】
        
             ・所在地 埼玉県久喜市
河原代609
             ・ご祭神 
建御名方神(推定)
             ・社 格 河原代下分荒堀鎮守
 河原代香取神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を北西方向に進むと、進行方向右手に河原代諏訪神社が見えてくる
        
                 石段上に鎮座する社殿
       石段手前の左右には一対の石灯籠、また、伊勢参宮記念碑が並ぶ。
「埼玉の神社」によると、当社は河原代下分の荒堀一六戸で祀っていて、本来ならば明治四十三年三月二十五日に河原代香取神社に合祀される旨が『明細帳』に記されているが、現在まで移動はされていない。
 
   境内西側にある力石とその案内板       社殿手前左側に祀られている境内社
「力石」河原代諏訪神社
「力石」の由来は中世の若者の力比べから広まったという説、もっと古くは「石占い」からという説があり、江戸時代からの「力石」はもっぱら力試しが行われた。
 享保十八年(一七三三年)
 力石三十二貫目(120㎏)渡辺氏
 令和四年四月 (以下略)                           案内板より引用

河原代上香取神社】
        
             ・所在地 埼玉県久喜市河原代41-2 
             ・ご祭神 経津主神(推定)
             ・社 格 河原代上分鎮守
 河原代諏訪神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を北西方向に200m程進んだ先にある丁字路を右折し、しばらく道幅の狭い農道を進むと、進行方向斜め左側に河原代上香取神社の境内全体が見えてくる。民家が数軒見える程度の田畑風景の中にポツンと祀られていて、周囲に適当な駐車スペースもないため、路駐にて急ぎ参拝を行う
        
                 河原代上香取神社正面
 この社も河原代諏訪神社同様に、明治四十三年三月二十五日に、河原代香取神社に合祀する旨が『明細帳』に記されているが、各社とも現在まで移動はしていない。上分の香取神社は正保二乙酉年(一六四五)九月の創建と伝え、河原代上分と北広島の一部二七戸で祀っている。
        
                    拝 殿
 境内碑
 抑当社は正保二年乙九月始経営し、爾後洪水の為に毀壊され因て安永二亥己歳本社を営造し、弘化四未十二月両家を再建。其の後明治八乙亥歳九月新たに拝殿を造立し、今明治十丁丑九月内殿并右本社、鳥居両様根続き屋根共に改め修復に及びうやまつて奉拝すべく者なり
 
    参道左側にある力石の案内板       参道右側で鳥居のすぐ先にある庚申塔
  享保13年(1728)、重さ32貫目(120㎏)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

拍手[0回]