古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中沢向郷神社

「倶利伽羅(くりから)」は、サンスクリット「kulihah」に由来する不動明王の化身とされる竜(竜王)の名で「倶梨迦羅」とも表記される。倶利伽羅剣に絡みついた黒い竜の姿で表されるのだが、この剣は、不動明王の立像が右手に持つ剣とされる。密教に於いて、仏を表す象徴物とされる「三昧耶形」では不動明王の象徴そのものであり、貪瞋痴の三毒を破る智慧の利剣である。倶利伽羅竜王が燃え盛る炎となって剣に巻き付いた姿で描かれることからこの名がある。この倶梨迦羅竜王を俗に倶梨迦羅不動と称し、この竜身呑剣(どんけん)の図柄は、わが国における不動信仰の隆盛と共に広く親しまれるようになる。
 日高市中澤地域字向郷に鎮座する中沢向郷神社は「埼玉の神社」にも紹介されていない小さな社であるが、境内には「倶利伽羅不動」があり、宝永七庚寅(1710)年正月二十八日の造立という珍しい供養塔でもある。
        
             
・所在地 埼玉県日高市中沢625
             
・ご祭神 白髯大神 諏訪大神 愛宕大神 白山二柱大神 
                                    滝大神 稲荷大神
             
・社 格 旧向郷村鎮守(推定)
             
・例祭等 不明
 田木高根神社北側にある農道を西方向に向かうこと650m程、「萩通り」との交点である信号のある交差点を右折する。日高市は都心から約40km圏内に位置しながら、豊かな自然に恵まれた魅力的な市であり、都会の利便性と適度な田園風景が共存する「程良い田舎」とも言われる。この「萩通り」には、嘗ての「武蔵野」と呼ばれた人々の生活と自然がかくもよく入り乱れて形成された里山の風景がこの通りにはある。
 
そのような感慨にふけりながら1㎞程北上すると、進行方向右手に向郷集落センター、そして向郷神社が見えてくる。
        
                   
向郷神社正面
『日本歴史地名大系 』「向郷村」の解説
 中沢村の西にあり、西・北は女影(おなかげ)村。天正一九年(一五九一)七月内藤織部(種次)は「むかいごう」三六石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。以後幕末まで旗本内藤領。田園簿には向郷とあり田五石余・畑三〇石余、日損場と注記される。元禄・天保両郷帳には中沢村枝郷として向郷村が記されるが、「風土記稿」では中沢村のうちに含まれており、幕末の改革組合取調書でも同村に一括されていることから、幕末までに中沢村に合併したとみられる。
『日本歴史地名大系 』「中沢村」の解説
 女影村の南東にあり、東は高萩村、西は枝郷の向郷(むかいごう)村。小畔川の小支流が北東へ流れる。高麗郡加治領に属した(風土記稿)。天正一九年(一五九一)七月内藤織部(種次)に中沢之郷一三一石余が与えられた(記録御用所本古文書)。以後幕末まで旗本内藤領。田園簿では田七七石余・畑五四石余で日損場と注記される。東・西・北に持添新田計三ヵ所があり、享保一〇年(一七二五)に検地が行われた。
   
    「萩通り」沿いにある庚申塔            こじんまりとした社
『新編武蔵風土記稿 中澤村』
 村の西北に續き向鄕と云る枝鄕、正保元禄の國圖に見えたりしが、今は此村に屬して小名となり、一村の體を失ふ、(中略)向鄕新田と唱ふる新田一ヶ所あり、享保十年萩原源八郎検地せし所にして、向鄕政右衛門と云へるもの縄うけなり、(中略)小名 向鄕 説前に辨ず、
 白髭社 村の鎭守にて、例祭九月廿九日、正法寺持、下の二社も同じ、
 愛宕社 天神社 白山社 村持
        
                    拝殿覆屋
        
              社殿の左側奥にある倶利伽羅不動
 この石碑の右側には「奉建立瀧不動」、左側には「宝永七庚寅年正月二十八日」と刻まれている。一方、境内にある「向郷神社建設記念碑」には、社の御祭神の一柱に「滝大神」を載せていて、どちらも同じ神と考えられるのだが、この地域南部に位置する田木高根神社の「田木」の由来として、地域の南側に流れる南小畔川が嘗ては激しい流れであり、その急流を示す「激つ(たぎつ)」から来たといい、河川に関連した地域名といえる。当然、田木の北側に位置する当社の近くにも河川もしくは「滝」のようなものが存在したからこそ、神様の一柱として祀っているのであろうと推測する。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「境内向郷神社建設記念碑文」等

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