古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

志多見日枝神社

 志多見砂丘(しだみさきゅう)は、埼玉県加須市(加須地域・志多見地区)に所在する砂丘であり、日本に残る河畔砂丘の中で最大級のもので、中川低地の河畔砂丘群の代表格といえる。
 志多見砂丘は会の川砂丘の一部を形成し、約7千年前に赤城おろしによって運ばれた砂によって形作られた河畔砂丘(内陸砂丘)である。この砂丘は会の川の自然堤防に合わせおおよそ東西に発達していて、会の川砂丘の中では志多見砂丘が最も規模の大きい砂丘となっており、長さ約2500m・幅約300m・高さ約5m10mを有していた。標高は所在地南側の水田が約15mなのに対し、砂丘は約20m程となっており、標高最高点は26.8mである。志多見砂丘は古くからの形状が保たれ、砂丘上には赤松林が所在しているがこれは砂丘上に形成される特異な植生であり、加須低地に森林の発達した場所が少ないことなどから学術上貴重な場所となっている。
 このため、志多見砂丘は
1956年(昭和31年)924日に加須市指定名勝に指定され、1976年(昭和51年)330日に加須市志多見県自然環境保全地域に指定されている。また、2014311日に「中川低地の河畔砂丘群」として県指定文化財に指定されたという。
        
             
・所在地 埼玉県加須市志多見1374
             
・ご祭神 大山咋命 木花咲耶姫命 軻遇突智命
             
・社 格 旧志多見村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 夏祭り 7月第1日曜 秋祭り 1015
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1341967,139.5549785,18z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道38号加須鴻巣線と国道122号線との交点である「志多見」交差点を南下し、100m程進んだ先にある右斜め方向にある道路に進路を変え、そのまま道なりに真っ直ぐ進むと、進行方向右側に明蔵院、並びに志多見日枝神社の鳥居が見えてくる。
        
                 志多見日枝神社正面
『日本歴史地名大系』 「志多見村」の解説
 北は会の川を境とし、南は阿良川(あらかわ)村、西は串作(くしつくり)村と接する。会の川南岸に発達した河畔砂丘は、周囲より四―六メートルも高く志多見砂丘とよばれ、アカマツが多く植林されている。天正六年(一五七八)三月七日の木戸元斎願文(奈良原文書)に「志田見郷」とみえ、羽生城主木戸忠朝の次男木戸元斎が、羽生城回復のうえは上野国三夜沢(みよさわ)大明神(現群馬県宮城村赤城神社)に河俣(現羽生市)、志田見、常木(現羽生市)の三郷から三貫文と神馬三疋を寄進すると祈願している。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月付棟札に「志多見荒河(中略)此郷何三分一」とあり、同社領があった。羽生領に所属(風土記稿)。
 鎮座地である「志多見」は「しだみ」と読む。この地域は市内南西部に位置し、会ノ川右岸の自然堤防上に形成された志多見砂丘にあり、地名はこの地が低湿地で水に浸っており、浸水(しだみず)と呼ばれていたためという。
 社伝によると、天正四年(1567)の創始と伝わり、利根川上流から社殿が流れ着いたといい、また一説には川越から分霊したとも、江戸城から分祀したともいわれている。
             
                    社号標柱

   鳥居の右側に設置されている案内板     案内板の右隣にある「日枝神廟復地之記」
                                 「日枝神廟復地之記」
                       武藏國埼玉郡志多見村日技大神者闐村之域隍
                       神也廟地舊凡四百歩明治六年癸酉有令剖其二
                       百三歩爲官地以低價與之貫族某矣而域内狭隘
                       不便於祭祀也邨人愁之協議一夕出金若干活○
                       所受之貫族某復之本地矣而祭典若○〇○○
                       同不費再議者出于其克誠也乎人誠心供之則神
                       感應淳之誠心感應相待而敬神之道至為云
                           明治九年丙子六月 本邨根岸復撰文
                                     北斎小花○一書
        
          長い参道の先に、森の中に隠れた社殿が僅かに見える。
 境内は広く、参道は長い。社は、その会ノ川右岸の自然堤防上に形成された「志多見砂丘」上に鎮座している。国道が近くに通っているにも関わらず、境内一帯は至って静かである。また周囲を見渡すと、境内北側から西側にかけて社を囲むように社叢林が覆う、その佇まいは否が応でも古き歴史を感じてしまう。
        
         参道右側にある社務所。神楽殿も併設されているのであろうか。
        
        社殿は会ノ川右岸の自然堤防上に形成された志多見砂丘上に鎮座
『新編武蔵風土記稿 志多見村』
 山王社 村の鎭守なり 〇淺間社 以上明藏院持 〇愛宕社 明王寺持
 明藏院
 新義眞言宗、正能村龍花院末、富士山と號す、開山法印宥存は享保十二年六月廿七日寂す、本尊は藥師なり、
 明王寺
 当山派の修驗、江戸青山鳳閣寺の配下なり、愛宕山五丈院と號す、


  石段下に祀られている白山大神の石碑    石段の中段附近にある御嶽山大権現の石碑
        
                     拝 殿
 日枝神社のいわれ
 創建 天正四年(一五七六)六月
 祭神 大山咋命………山王社(国土鎮護の神)
       木花咲耶姫命…浅間社(湧水の神)
       軻遇突智命……愛宕社(防火鎮火の神)
 例祭 元日 春(四月十五日) 夏祭り(七月第一日曜) 秋(十月十五日)
 沿革
 古いことは不明であるか、新編武蔵風土記稿によると、山王社は志多見村の鎮守なりと記され、明治初年の神社明細帳には天正四年六月村民により鎮座されたことが記されている。
 浅間社が文化五年(一八〇八)三月創立され、後本殿に合祀された。
 愛宕社が明治初年に合祀されて、 境内社なった。江時代よりの愛称山王様も明治になり日枝神社として、多くの人の信仰を集め今日に至っている。
 境内には御神燈、手洗い石、幟立石等の寄進や、石鳥居、神廟復地の記碑、神楽殿等々あり、手洗い石の一つは元禄十年奉納のもので、加須市内最古のものである。
 平成十二年(二〇〇〇)六月吉日  新井正夫書
                               鳥居右側にある案内板より引用
        
            拝殿の左側に鎮座している境内社。詳細不明。

 境内地左側には広場があり、昔の殿様の『馬場跡』との伝承がある。その殿様とは松平信綱のことで、忍・川越藩主を務め幕府の老中の重責を担った信綱が馬を乗り回した場所として伝わっている。
 信綱の父大河内金兵衛久綱の本領は武蔵国高麗郡710石であるが、代官・勘定奉行として活躍し、関東地方の幕府直轄領の年貢に関する実務を担った。代官として羽生領に努めていた際に、信綱が幼いころ病にかかり、志多見の名主のところで療養したという。その後回復したのち馬の稽古をこの地で行い、地元で語り継がれたそうである。
*「クニの部屋 -北武蔵の風土記-」を引用
https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/e/2ab7285b3c877b0396003cc21c8fd643
             
                  伝承 馬場跡の碑
 志多見地域には、嘗て戦国時代の昔に伊勢の北畠氏に仕えていて、主家滅亡後に関東へ移住したと伝わる「松村氏」が当地の名主を代々世襲し、領主である松平氏に仕えていたという。
 家伝には、伊勢国松村郷出身にて、永禄中に小田原・忍に移り、天正十八年志多見村に土着したと伝えている。
 成田氏家臣松村対馬尉吉宗の三男佐左衛門(天正元年生)は幕府代官大河内金兵衛久綱(正保三年没、七十七歳)に仕え、元和七年に樋遣川村内の寺ヶ谷戸村及び枝郷広川村を開墾し、寛永二十年没している。子孫は代々名主を世襲し、久綱の子松平伊豆守信綱、其の六男旗本である松平頼母堅綱(寛文二年志多見村新墾田1000石を分与)、其子頼母信義、其子内記信連、其子舎人信応(延享二年没)に仕えたという。
        
               志多見日枝神社拝殿からの眺め
「松村家代官文書」は、名主を務めた松村家に伝来し、古くは寛永9(1632)からの文書で、内容は寛永年間から天保年間までの年貢割付状と利根川の川俣締切について書かれた西福寺文書()などがあり、昭和34616日加須市有形文化財に指定されている。また松村佐左衛門の墓も昭和31924日に指定史跡とされている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「クニの部屋 -北武蔵の風土記-
    「境内案内板等」等
 

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馬内諏訪社

 埼玉県道38号加須鴻巣線は、埼玉県加須市から埼玉県鴻巣市に至る、延長約12kmの県道(主要地方道)である。通称は加須県道という。
 加須市西部の志多見の国道122号交点より、市街地方面へ東行し、加須駅入口を経由し、中央二丁目から南西方向に向きを変えて、旧北埼玉郡騎西町で国道122号と再び交差し、鴻巣市の国道17号天神交差点に至る。
 2020年に加須市が合併10周年を迎えたため、記念行事の一環として市内の道路愛称の公募が行われ、本県道の不動尊入口交差点から、埼玉県道128号熊谷羽生線(別線)の加須・行田市境付近までが「志多見砂丘通り」と命名された。
 この「志多見砂丘通り」沿いで、志多見砂丘の東端部高台に鎮座しているのが馬内諏訪社である。
        
              
・所在地 埼玉県加須市馬内50
              
・ご祭神 神建御名方命 大日孁貴命 別雷命
              
・社 格 旧馬内村鎮守・旧村社
              
・例祭等 初詣元旦祭 11日 春季恒例祭 47日
                   
秋季恒例祭 1015
   
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1359216,139.5728003,17z?hl=ja&entry=ttu
 串作諏訪神社から一旦北上し。埼玉県道128号熊谷羽生線との交点を右折し、同県道を加須市街地方向に進む。2.4㎞程先にある「志多見」交差点より埼玉県道38号加須鴻巣線に名称変更となるが、その県道を更に1.4㎞程進むと、進行方向左手には志多見砂丘独特の高台が見え、その砂丘東端部にあたる場所に馬内諏訪社は静かに鎮座している。
 県道沿いで、鳥居のすぐ西側手前に専用駐車場(2.3台ほど駐車可能)があり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                                                            馬内諏訪社正面
        
              道路沿いに設置されている掲示板
 鎮座地は、志多見砂丘の東端部高台にある。この場所は「中川低地の河畔砂丘群・志多見砂丘」で、加須市の地域文化財に指定されている。そのためか、境内・県道沿いには、「貴重な陸内砂丘地である事、土砂の持ち込みはしない事、ゴミ等は捨てない事。植樹や手入れも行わない事」等の掲示板が設置されている。
 
    鳥居を過ぎるとすぐ左側にある神興庫       鳥居の先にある石段を登る。
                       やや傾斜が高い為、石段の先が把握しずらい。
        
          石段を登り終える右側には社の案内板が設置されている。
 石段を登り終えると、境内は左右に広い空間があるが、奥行はあまりないようだ。砂丘地の地形を利用して境内は作られているようだ。正面には社務所があり、参道はそこから左右に分かれていて、左側に行くと社殿に通じ、右側には富士浅間大神の石碑や一対の灯篭が設置されている。
 
 社務所右側に祀られている
富士浅間大神の石碑   富士浅間大神の石碑右側にある灯篭
    やはり所々に砂地面が見える。     燈篭の先は下り坂となり、砂丘面もなくなる。
        
               改めて社殿方向を撮影。社殿はもう一段高い面に鎮座している。
        
            社務所と高台の傾斜面との間にある庚申塔群。
        
                    拝 殿
諏訪社
所在地  加須市大字馬内五〇番地壱
祭 神  神建御名方命・大日孁貴命・別雷命
沿 革 
 当社の創建年月日は明らかでない風土記によれば馬内の鎮守で延命寺持ちとされる。
 明治五年(一八七二)三月神仏分離令に伴ふ社格の制度によって村社に列し同四十年三月字西浦地区の無格社・神明社及び本村地内の雷電社を合祀している。
 境内には天明七年(一七八七)六月吉日在銘の疱瘡神社(祠)が合祀されている。
 又、浅間社及び川圦社・千方神社も合祀されているが、合祀年月日は不明である。
 埼玉県立文書館に所蔵されている県行政文書「神社明細帳」によれば、当社の概要は次のように 記されている。
社 殿  本殿 内殿
境 内  
二五〇坪「朱書」昭和二十四年 三月二十五日 二五九坪
氏 子  一二六
境内神社 浅間社(祭神・木花開耶姫命) 川圦社(祭神・安德天皇)
境内社石洞
(天満宮・疱瘡神・神明社熊野宮・八幡宮・稲荷大明神・御岳石尊・九頭龍大権現)
社 宝  石燈籠 (嘉永四年建) 石段(大正十一年建) 鳥居(昭和十二年建) 
     
社務所 (昭和二十四年建) 御輿殿(昭和五十一年建)
宮 司  荒木健治
年中行事 初詣元旦祭 一月一日 春季恒例祭 四月七日 秋季恒例祭 十月十五日
附 記
 天明八年六月奉建された(棟木記入)社殿、二百有余年の歳月を経て老朽化し、平成八年社務所と共に修復した
                                     境内案内板を引用
 
       
拝殿の右側隣に、11基の石祠が並んで祀られている(写真左・右)。
       正式には11基だが、左側から3番目は石祠自体が破損して判別不能。   
『新編武蔵風土記稿 馬内村』の項には
 諏訪社 村の鎮守なり、
 千方社 雷電社 神明社 川入明神社 八幡社 九頭龍権現社 道祖神社 熊野社 天神社 稲荷社 以上延命寺の持、
と記されている。
 そのうち判別できる石祠は、右から(?)頭龍権現社・天(満?)社・庖瘡神社・神明社・×・×・熊野社・八幡社・×・×。
 
          社殿の左隣には木花咲耶姫命の石碑あり(写真左・右)。
   この石碑の回りにも多数石碑があったが、雑草等の繁殖により判別できなかった。
    雑草等を排除したら、もしかしたら富士塚のような形態であったかもしれない。
        
              石段上部から鳥居・県道方向を撮影  


参考資料「新編武蔵風土記稿」「加須市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
       

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加須千方神社

 加須市(かぞし)は、埼玉県の利根地域に位置する市で、面積が133.30㎢、都心から概ね50㎞圏内にあり、埼玉県の東北部に位置する。20103月に旧加須市・北埼玉郡騎西町・大利根町・北川辺町が新設合併して誕生し、県内の市町村で唯一、北関東の群馬・茨城・栃木の3県に全て隣接する自治体である。因みに埼玉県、市町村面積ランキングでは、県庁が置かれている「さいたま市」を除くと、「秩父市」「飯能市」「小鹿野町」「熊谷市」「深谷市」に次ぐ6番目に大きな自治体である。
 地勢的には関東平野のほぼ中央部を流れる利根川中流域にあり、利根川が運んだ土砂の堆積により形成されたという平坦地で、市内には利根川に育まれた肥沃な土と豊かな水を利用した昔ながらの田園風景が広がり、県内1位の収穫量を誇る米をはじめとして、様々な農産物の一大産地でもある。
 一方、市街地には関東三大不動尊の一つに数えられる「不動ヶ岡不動尊總願寺」のほか、国の重要無形文化財に指定されている玉敷神社の神楽、加須のわら細工など過去の歴史を今に伝える数々の有形、無形の文化財が存在している。
 これらの古き良き歴史、水と緑あふれる農村地域と都市機能が集積する市街地との程良い調和が加須市の特性となっていよう
        
             
・所在地 埼玉県加須市中央2527
             
・ご祭神 興玉命(猿田彦命) 神日本盤余彦命 藤原千方命
             
・社 格 旧加須村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 219日 夏祭り 7715日 秋祭り 1019
                               
新穀感謝祭 1123日 酉の市祭 1219
   
地図 https://www.google.com/maps/@36.1241505,139.5970126,18z?hl=ja&entry=ttu
 加須千方神社は、東武伊勢崎線の加須駅北口より北東へ徒歩数分の地に位置する。この地域は『新編武蔵風土記稿 加須村』に記載があるように、昔から脇街道の宿場として、行田・幸手・栗橋・騎西・羽生町場及び鷲宮村等への人馬の継立をする地点であり、民家も街道沿いに二百軒余立ち並び、毎月五十の日を以って六次の市を行っていた程開発が進んでいた場所であったようだ。
 南北に通じる埼玉県道38号加須鴻巣線が『同風土記稿』に記されている脇街道と思われるが、現在でも県道両側には近代的な建物の中に昔ながらの民家も残っており、嘗ての人馬が犇めく活気のあった当時の様子を想像することができよう。
 現在は加須駅北口近くという立地の良さや、総合会館等の官公庁の建物もあり、また物流交通にとっても脇道的な側面もある利便性からか、この県道を利用する車両もあり、日中の交通量はかなりある。但し駅近くに平面の踏切がある為、時に列車通過待ちの渋滞に出くわすと、想定外の時間待ちも覚悟しなければならない場所でもある。
        
               街中に鎮座する加須千方神社
『日本歴史地名大系』での「加須村」の解説
 現市域の中央部に位置する。北は三俣村と会の川を境に対し、東は久下村、南は上高柳村(現騎西町)、西は礼羽(らいは)村。ほぼ東西に走る脇往還沿いに町場が形成される。加須町ともよばれた。地名の表記は田園簿に加増村、貞享元年(一六八四)の久喜鷹場村数覚(伊達家文書)には神増村、元禄郷帳では加須村とあり、元禄期(一六八八―一七〇四)には加須が用いられるようになったと思われる。羽生領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)一二月設楽甚三郎(貞代)は、徳川氏から当村で二二三石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。

             
                    社号標柱
「加須」という地域名は、江戸時代の田園簿の記載では、「加増村」とも記し、貞享元年(一六八四)の久喜鷹場村数覚(伊達家文書)には「神増村」と記されている。その後、新田開発により、石高を加増されたことに因む地名が元禄年間中(16881704)には「加須」が用いられるようになったと考えられる。
『新編武蔵風土記』編集時点では「加須村」と表記。加須千方神社(千方社)は当村の鎮守で、大聖院持ちとされている。
『新編武蔵風土記 加須村』
 千方社
 村の鎭守なり、大聖院の持、下同じ、〇諏訪二社〇浅間社〇稲荷社〇八幡社〇牛頭天王社
 大聖院
 本山修驗葛飾郡幸手不動院の配下、八幡山神增寺と稱す、開山光善嘉吉三年六月十八日示寂す、中興開山秀虎永祿四年正月二十三日示寂、本尊不動は坐像にして、役小角の作と云、

        
               加須千方神社正面の一の鳥居
 
 参道を振り返り神橋から一の鳥居方向を撮影        参道正面に見える二の鳥居
        
                    二の鳥居を過ぎると広い境内が広がる。
 加須駅から近く、交通量も多い
県道に沿って鎮座しているが、境内周辺は至って静かである。
 言わずもがな、境内は整然として、清潔さも保たれている。日頃の手入れは勿論の事、神様に対する信仰の深さをこの社を参拝してみて感じずにはいられなかった。
 近隣に住まわれている方々が、この写真の左側脇にある東屋で穏やかに談笑している場面も垣間見られ、地域の憩いの場所にもなっているのだろう、とほのぼのとした感傷に浸ってしまった。
 因みに写真右側に見られる大木は、加須市保存樹林の「カシ」の木で、幹回りは340㎝、指定番号は74号となっている。
        
                         拝 殿
 千方神社の由緒
 藤原鎌足公十五代の子孫の藤原秀郷公が下野国押領使(九三九年)に任ぜられ善政を施し功績をあげ下野守、武蔵守となる。
 秀郷の子(六男)
藤原千方が鎮守府将軍としてこの地を治め德政を行った功績により鎮守千方神とし、併せて神武天皇、猿田彦神を祀り千方神社となる。

 加須千方神社の創建年代等は不詳ながら、藤原秀郷の六男で下野鎮守府将軍だった修理太夫千方(藤原秀郷の六男で鎮守府将軍。社伝によれば、この地方で仁政を行った功績を讃えて祀ったものという)を祀っていたが、現在祭神は興玉命となっている。
 千方神社は嘗て「千方社」と称し、江戸期には加須村の鎮守社となっていた。埼玉郡加須町(明治合併以後は大字加須)の村社であり、446坪程の広大な境内地面積を有している。1872年(明治5年)に村社となり、1874年(明治7年)に稲荷社・浅間神社・諏訪社・八坂神社(旧称:牛頭天王社)が合祀されている。その後1913年(大正2年)52日に社名を千方社より千方神社へと改めて、1931年(昭和6年)916日に神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。
 尚、境内社として稲荷社・浅間神社・八坂神社・恵比寿神社(恵比壽大黒神社)が所在している。
          
            拝殿正面向拝部に彫り込まれている精巧な彫刻
 
   拝殿向拝の両側にある木鼻部にも鮮やかな彫刻士の技術が光る(写真左・右)
 日本人が世界に誇る「技術力」。生真面目で決して妥協せず、物の本質を隅々まで精通し、自らを不器用なまでに研鑽する謙虚さと精神性の根本をこの彫刻に見るような気持ちになった。
        
                    本 殿
           社殿は拝殿・幣殿・本殿を連結した権現造で、大正7年建立
        
          加須千方神社の右側に祀られている境内社・八坂神社
        拝殿右側の回廊下を潜って、北参道の鳥居の脇に鎮座している。
          境内社とは思えないほどのしっかりとした外観である。
 八坂神社
 八坂神社(天皇様)七月第三土曜日には無病息災、安全祈願後、町内神輿の巡行がある、最後に商工会館前に集合『連合渡御』が行われる。
 翌日には各町内の山車が町内を巡行し、最後に商工会館前に集合『ヒッカセ』(太鼓の叩き合い)が行われる
勇壮なお祭りである。
        
           
加須千方神社と境内社・八坂神社の間に祀られている境内社・稲荷神社
 稲荷神社
 祭神は、宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)
 稲の精霊を神格化した神で五穀や食物をつかさどる神として奈良時代に信仰が広まった。
 伏見稲荷の社伝では711年に稲荷山三ヶ峰に稲荷神が鎮座した。本来の農耕神から商工神へと拡大した。
 祭典は三月初午の日に開催される。
        
         広大な境内の左側に祀られている境内社・
恵比寿大黒神社
 恵比寿大黒神社
 恵比寿大黒様と称され日本の福の神を代表する神であり、招福繁栄、商売繁盛、台所の守り神として多くの人々の信仰を集めている。
 式典は1120日に行い、1123
日に、お札、熊手、福餅の授与を行う。
 
 境内左側隅には「
石敢當(せきかんとう)」という石碑(写真左)、及びその案内板が設置されている(案内板の拡大は同右)。
 石敢當は文化年間に市場の神様として加須の五・十市の世話人らにより信仰されていたと伝承されている。石敢當の信仰は九州地方では多く見受けられているが、関東地方においては極めて稀である。この石敢當は1954年(昭和29年)10月に中央2丁目の塩田鉄工所の裏に所在していたものが遷座されたものであるという。
 市指定有形文化財 石敢當
「石敢當」は[いしがんとう]{せきかんとう}と読み、中国伝来の魔よけの石柱である。石碑が多く、家の門口や道の突き当たりに建てられている。
 沖縄・九州に多く、関東地方で江戸時代までさかもどるものは、上崎にある龍興寺のものと本例の二例のみ確認されている。この石敢當はかつて、中央二丁目交差点の北西付近から当地へ移設された。
 石碑の表面には「石敢當 文化十四年丁丑冬十一月長至日 鵬斎陳人興書」とあり、江戸時代後期の文化十四年(一八一七)冬至に、亀田鵬斎(江戸時代の高名な漢学者・書家)により書かれたことがわかる。
 裏面には、石敢當の説明と加須の青縞の市が栄え、守護されるように世話人が建てたことが記されている。また、幕末の国学者小山田興清が詠んだ「この石敢當が、加須の里を末永く守るように」という和歌が刻まれている。
 加須市教育委員会
                                       案内板より引用
        
          
石敢當の案内板から左側近隣に祀られている浅間神社
       
                       広大な境内の一風景 
 毎年8月下旬に、加須千方神社・境内にて、加須市商工会等の主催により「まちなか賑わいフェスティバル」が執り行われている。新型コロナ感染症対策の為、暫く行われなかったようだが、2023年から規模を縮小しながらも再開したことは喜ばしいことだ。模擬店や盆踊り、遊び屋台、ステージパフォーマンスなどの催しが行われ、大勢の人々で賑わう様子を、筆者も見てみたいものである。
      
     
        

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常泉御嶽神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市常泉311
              
・ご祭神 大山祇命 大己貴命 少彦名命
              
・社 格 旧常泉村鎮守 旧村社
              
・例祭等 春祭り 415
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1062419,139.6049173,18z?hl=ja&entry=ttu
 加須市常泉(つねいずみ)地域の見竹耕地に鎮座する。「常泉」という地名は、当地に村を潤す豊かな泉があり、常の文字が永久不変を表すところから、涸れることなく湧き出す泉を称え名付けられたという。
 土地の人々は、この豊かな泉をもたらす遥かなる山々に神威を感じ、当村開発に当たり、水の神として当社を祀ったと伝えている。これが御嶽社で、「見竹(みたけ)」の地名は当社に因むものであるという。創建年代等は不詳。
 この社は、耳の病を治す神として、五寸ほどの小さな塩俵を三俵作り神前に供えて祈願した。その功徳は広く知られ、近隣はもとより遠方からも詣でる人が後を断たなかったという。
        
                                  
常泉御嶽神社正面
 下高柳八坂社から一旦「下高柳集会所」先の埼玉県道149号加須菖蒲線へ合流し、そこを左折する。新川用水(騎西領用水)を越えた「常泉」交差点を左折すると、すぐ左側に常泉御嶽神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場や社務所等もない。道路の向かいにコンビニエンスがあり、そこで買い物を済ませてから急ぎ参拝を行う。
 
       鳥居の社号額            北方向に伸びる参道の先に拝殿が見える。
『日本歴史地名大系』による 「常泉村」の解説によれば、この村は、北は新川用水路を境とし、東は油井(ゆい)ヶ島村・小浜村。騎西領に所属(風土記稿)。田園簿によると田高一〇七石余・畑高五四石余、川越藩領、ほかに大英寺(現騎西町)領三〇石がある。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三〇五石余、反別は田方一七町四反余・畑方一二町八反余、ほかに新開高一二二石余、田方六町九反余・畑方四町八反余。元禄九年(一六九六)の旗本米倉氏領知目録(米倉家文書)に村名がみえ、高四二八石余。国立史料館本元禄郷帳によれば旗本小笠原領。同帳には枝郷として油井ヶ島村が載る、との記載がある。
 常泉御嶽神社はこの地域の最北端に位置し、新川用水(騎西領用水)から里人を守るように鎮座している。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 常泉村条』
 常泉村 
 御嶽社 神明社  「
以上二社、村の鎮守にて、圓福寺持」
 圓福寺
「新義眞言宗、根古屋村金剛院末、御嶽山と號す、本尊地蔵を安ぜり、開山末長寛文十三年三月七日寂す」

        
             境内にある「御嶽社社殿増改築竣工記念碑」
「御嶽社社殿増改築竣工記念碑」
 常泉、見竹の地は水清き緑豊かな平坦な地であり、先人達はそこに御嶽社を勧請し村の鎮守としてきた。
 御嶽社は、本殿に大山祇命、大己貴命、少彦名命を祭神として祀り、古来より常泉地区の氏神として人々から厚く敬われてきた。また明治三十二年には神明社を合祀し、祭神として更に大日孁命が祀られた。毎年四月十五日には枠灯籠を飾って春祭りを行い、この行事は今日まで継承されている。
 当社は特に耳の病を治す神として、五寸ほどの小さな塩俵を三俵作り神前に供えて祈願した。その功徳は広く知られ、近隣はもとより遠方からも詣でる人が後を断たなかった。
 昭和八年本殿改築が行われたが、拝殿、幣殿の老朽化が著しく進み、雨漏り等が始まり、平成八年、氏子一同に計り改修資金の浄財を集め、積み立てを行い、平成十四年建設委員会を設立した。同年四月四日、仮殿遷座祭を行うとともに建設委員総出の奉仕により、社殿の解体、土盛り、境内樹木の伐採等に汗を流した。本殿を一時移転し、基礎完了後、元に戻して改修し、幣殿、拝殿の新築を行った。
 斯くして六月十一日に上棟祭、十月二十日に本殿遷座祭、十一月三日に奉祝祭を挙行して社殿の完成を祝った。ここに、長年に亘る神々の御神徳に感謝すると共に、更なる恩恵を氏子、崇敬者一同の上に給わらん事を祈念して、この碑を建立した(以下略)
                                     記念碑文より引用

 
          拝殿手前、参道の両側に鎮座する石碑二基(写真左・右)
          共に(御嶽)大明神と刻印されているように見える。
        
                                静かに鎮座する社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内記念碑」等

       

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下高柳八坂社


        
              
・所在地 埼玉県加須市下高柳1081
              
・ご祭神 素戔嗚命・表筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后
                   
菅原道真公・天穂日命・武夷鳥命・倉稲魂命
              
・社 格 旧下高柳村鎮守 旧村社
              
・例祭等 天王様 7815 
     
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.109308,139.6077661,17z?entry=ttu
 加須市下高柳地域は、東武伊勢崎線の加須駅と花崎駅との中間地点で、鉄道南部に位置する「ショッピングモール」、「下高柳工業団地」等を内包する地域である。このショッピングモールの敷地は元々、下高柳工業団地として造成されていたが、企業が集まらなかったため、工業団地の一部を商業地として転用した経緯がある。近郊にはイオンモール羽生やモラージュ菖蒲などの大型ショッピングモールが開業したものの、建設当時はこのショッピングモールが周辺地域初の大規模ショッピングセンターだったので、「埼玉県北部最大のショッピングセンター」、「関東平野のど真ん中にでっかくオープン!」などのキャッチフレーズが用いられたという。
 このショッピングモールの西側を南北に通る埼玉県道149号加須菖蒲線をモールを通り過ぎた地点から500m程南下し、新川用水(騎西領用水)手前の十字路を左折する。その後「下高柳集会所」先の丁字路を左折し、暫く北上すると下高柳八坂社の鳥居が見えてくる。
        
                 
下高柳八坂社正面鳥居
 社の周囲は民家が立ち並ぶ住宅街の一角に鎮座していて、嘗ての「旧下高柳村鎮守・旧村社」という格式に対して、その歴史的な重みがなくなった第一印象。社殿や境内も最近改築等して一新し、綺麗に手入れもされているが、筆者が想い抱いていたイメージとはかなりかけ離れたものであった。
 
        民家の間にある参道           参道の先にある二の鳥居
       
                    二の鳥居を過ぎると明るい境内が広がる。
『新編武蔵風土記稿 上高柳村条』によると、元々は上下高柳村は共に一村を成していたが、正保年代に二村に分けられたという。
「文永の頃高柳弥五郎幹盛と云ふもの住せし故、此の唱ありなどものに見ゆれど土人は伝へず(中略)元は下高柳村と一村なりといへど、正保の改に上下二村とす、」
また風土記稿に記されている「高柳弥五郎幹盛」とは、武蔵七党・野与党の氏族である大河戸氏から分かれた高柳氏が居を構えた場所とされている。この「高柳弥五郎幹盛」は、『吾妻鑑』にも登場しており、卷五十二「文永二年五月二十三日、高柳弥次郎幹盛」と記されている。
 下高柳八坂社の創建年月日は明らかでないが、風土記稿によれば下高柳村の鎮守で、明治元年(一八六八)六月まで牛頭天王社と称されていた。また吉祥寺持ちとされている。
       
                     拝 殿
       
             境内に設置されている「社殿修築記念碑」
                  「社殿修築記念碑」
       八坂社の祭神は須佐之男命で極めて霊威高き神である平安の古き御代
       神仏習合に依りて牛頭天王として数多の社に鎮め祀らる此の神社の創
       建不詳なるが江戸の御代には牛頭天王社と称え村民の崇敬の的となる
       天文二年三月二十一日神祇官領からの宗源宗旨に依り正一位の神階が
       与えらる明治の初め八坂神社と改名明治五年村社に列格す後に村内に
       鎮座する三島社住吉社天神社鷲宮社稲荷社等を合祀し神威高揚に努む
       現在は八坂社と称す長年の歳月経て社殿老朽化し総代事取人に早急な
       改築の声高まる議りに議りて建設委員会を設置氏子一同に趣旨を通す
       崇敬の念に富み愛郷の情深き諸人等賛同し浄財を奉納宮司神社本庁に
       改築承認申請書提出す平成十七年二月一日付本庁統理より承認書届く
       直ちに着工建築に関わる神事行事百余名の氏人清き誠の心にて奉仕し
       盛大に執行大神等の高き尊き御神徳を蒙り奉りて工事順調に進展社殿
       内外の装飾麗しく整い尊厳な風格を加え神威を増し神聖な社となる平
       成十八年三月吉日社殿修築工事竣工奉告奉祝祭を大御国風高々に挙行
       忠実人等の顔歓喜に満ち神に祈る姿最も美し茲に竣工を寿ぎ地域の発
       展子々孫々の繁栄を祈り氏子等の美徳を称え謹んで一碑を建立して後
       世に伝えるものとする(以下略)
 
     境内にある古い祀念碑。            社殿左側にある神興庫か。
        
               神興庫の並びに鎮座する境内社等
        右から境内社・稲荷神社、弁才天・弁才天女の石碑等、力石。
        
                                      力 石
      左側の石の重量・38貫目、約140㎏。右側の石の重量・30貫目、約110㎏。
        
                                    境内の風景
『日本歴史地名大系』 「下高柳村」の解説
 [現在地名]加須市下高柳
 南は新川(につかわ)用水路を境に小浜村・常泉(つねいずみ)村と対し、北は青毛堀(あおげぼり)川を限り、西は上高柳村(現騎西町)。騎西領に所属(風土記稿)。田園簿によると田高三六〇石余・畑高三六五石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二四七石余、反別は田方一三町九反余・畑方一三町二反余、ほかに新開高二四七石余、田方一三町九反余・畑方一三町二反余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。延享四年(一七四七)下総佐倉藩領となり(「佐倉藩領郷村高帳」紀氏雑録)、宝暦一三年(一七六三)上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)。化政期には常陸下妻藩領で(風土記稿)、幕末まで同藩領であったとみられる(改革組合取調書など)。



参考資料「吾妻鑑」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」Wikipedia
    「境内碑」等

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