古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大越鷲尾神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市大越526
              
・ご祭神 天日鷲命
              
・社 格 旧上中下大越村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 217日 名越祭(祓い祭)731日・81
                   
秋祭り 1016
 常木神社から用水路沿いの道路を南東方向に1.2㎞程進むと大越鷲尾神社に到着する。但しこのルートでは社が背を向いたような状態であるので、一旦手前の十字路を右折し、左回りのようなルートにて、正面に到着することができる。
 社に隣接し社務所らしき建物もあり、そこには広大な駐車スペースもあり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                  
大越鷲尾神社正面
『日本歴史地名大系』 「上大越村」の解説
 北は利根川を境として上野国邑楽郡大久保村(現群馬県板倉町)と対し、東は下大越村・中大越村。古くは中・下の大越村と一村であった。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳には「五十貫文 大越彦四郎」「二十一貫文 大越彦八郎」とみえ、在郷の武士と考えられる。なお萱氏系図(鷲宮神社文書)に「武蔵国大越郷住人大越次郎貞正」がみえる。貞正の娘を母とするのが萱氏の先祖で、建久元年(一一九〇)に鷲宮神社(現鷲宮町)本社を再建したと伝える。
*成田分限帳
「五十一貫文・大越彦四郎、二十一貫文・大越彦八郎」
*萱氏系図(鷲宮村鷲宮神社所蔵)
「莿萱重郎正忠(建保元年死す、行年七十九歳。母大越次郎貞正娘・武蔵国大越住人)」
 羽生領に所属(風土記稿)。寛永八年(一六三一)八月の騎西郡羽生領大越村御検地水帳写(関根家文書)には田畑二六五町余のうち五七町余が当発とあり、大規模な新田開発が進められていた。
        
                 参道の先に建つ鳥居
 参拝日は8月のお盆を過ぎた平日。連日35度以上を記録する「酷暑日」に参拝を行っているにも関わらず、鳥居の先は、樹木の木陰げとなっており、水分補給をしながら汗ばむ体を休ませるには丁度良い空間となっていた。

        
             拝殿手前、参道左側に祀られている合祀社
               左から天神社・( ? )・稲荷社
        
                    拝  殿
『新編武蔵国風土記稿 上中下大越村』
 羽生領葛濱鄕に屬す、按に【梅松論】に建武二年十月十日太田庄を、小山常若丸に宛行云々とあり、當村に小山の建立せし寺院あれば、彼太田庄と云へるは當所の事なるにや、成田分限帳に五十一貫文大越彦四郎とあるも、當所に住して在名を名乗しなるべし、當村元は一村なりしに、後上下の二村となり、後又其内より中村を分てりと云、
 鷲尾明神社 上中下三村の鎭守なり、鷲尾といへど、鷲明神を祭りしものなりと云、
 末社 淺間 ○辨天社 ○八幡社 以上の四社は共に上分にあり、

「埼玉の神社」による解説では以下の説明がある。
 当社は『新編武蔵国風土記稿』に「上中下大越村の鎮守なり、鷲尾といへど、鷲明神を祭りしもの」とある。往時真言宗妙雲山宝幢寺持ちとされ、明治以前は現社務所が同寺末の西行寺で、当社の直接管理に当たっており、享保四年の石鳥居にその寺名が残されている。
 昭和七年覆屋改築の際に見つかった棟札には「延享二年八月本殿改築 宝暦三年厨子造営 文政八年九月幟寄進 文政十年浅間神社創建」などが記されていたが、昭和四十四年社務所改築の折に紛失している。
 祭神は「天日鷲命」であるが、本来「天穂日命」であったものを、時の領主であった尾沢某が自分の姓から「尾」の一字を入れて、社名を「鷲尾」に改めた時に、祭神名も変えたと伝える。しかし、この祭神変更は、江戸期北埼玉一帯に綿が広く栽培され、青〇の名で知られる織物が盛んに行われていたことから、尾沢某が木綿作り、紡績業創始の神である天日鷲命を奉斎したものと思われ、現在も尾沢某が奉納したと伝える宝永四年の社号額が残る。
 当社には字宮西の今宮神社、字中内の御嶽神社二社、字馬場の白山神社、字前田の伊奈利神社・天神社を明治四十四年から大正二年までに合祀した。境内には安産子育ての信仰のある宣言者のほか八坂神社、湯殿神社、今宮神社、稲荷神社、天神社、神明社、弁天宮が祀られている。
        
                    本 殿
 また大越の氏子は祭神名が鷲であるためか、鳥(ニワトリ)は食べなかったといわれ、家で飼っているニワトリが年をとると鷲尾神社の境内に放したという。このほか、大越では正月三が日はうどんを家長が打ち、四日から餅を食べるという風習があり、三が日に餅を食べるとオデキができるといって、これを戒めたという。
 
  社殿右側に祀られている境内社・浅間社か       浅間社の右隣に祀られている八坂神社
        
              境内に祀られている石祠群。詳細不明
 731日と81日に行われる「名越祭」は「祓い祭」とも呼ばれている。この祭りは鎮座地である中内の氏子へ日頃の奉仕に対する労賃として始められ、収益は中内に還元される。祭りの1週間前に輪くぐりの材料となる真菰(まこも)を刈り、各戸へ招待状と人形(ひとがた)を配る。31日真菰で輪をつくり、神職があらかじめ集めておいた人形を持参して輪をくぐり、祓いを済ませた後神札を配る。嘗ては翌日の午(うま)の刻に神職が輪と人形を流したが、現在は河川の汚染防止の為お焚き上げをしているとの事だ。
        
                参拝終了後木陰の場所に戻り、一旦休み、鳥居方向を撮影。


 大越鷲尾神社から240m程北側で、利根川右岸の土手付近に大越樋口伊奈利神社が鎮座している。境内は決して大きくはないが、コンパクトに纏まった社殿やその手前に設置されている石碑二基の立派さ、また社殿の奥に並んで祀られている庚申塔や石祠等を拝みながら、なかなか立派な社と言う印象を持った。
 なにより境内の手入れが行き届いていて、地域の方々の社に対する崇敬の念を充分に感じさせる社でもあった。当初は立ち寄る予定はなかったのだが、何かのご縁で手繰り寄せられたもとの感じ、ありがたく参拝させて頂いた次第だ。
 但し周辺には駐車スペースは全くない様子。路駐して急ぎ参拝を開始した。
        
               ・所在地 埼玉県加須市大越650
               ・ご祭神 倉稲魂命
               ・社格・例祭等 不明
        
                    鳥居正面
                   鳥居の社号額には「西宮稲荷大明神」と刻まれている。
        
  社殿前には立派な「伊奈利神社 改築記念碑」「椿森稲荷神社碑銘」が設置されている。
                 椿森稲荷神社碑銘
            武蔵國北埼玉郡大越邨字樋口堤上有一社曰
            椿森稲荷一落人民尊信甚厚失不詳何年何人
            之所創建傳言慶安二年一加修繕焉後至天保
            二年社木繁茂良材頗多及伐以建前殿規模較
            大同三年三月罹災而燼失其八月雖再造營舊
            觀頗損後經四十年明治十三年新造萃表〇〇
            石置末社多擴舊規以擧行祭典同十九年官下
            令〇在堤地者無社寺無民家悉除去之是以事
            之關堤地者百方哀願緩其期終至今年不可復
            請焉官亦不許也於是一落相謀推荒木喜太郎
            三井長次郎三井清藏荒木重郎次四氏為幹事
            以永遷社之地初雖捧三井楠吉氏之屋後低窪
            不可以祭神焉及購三井長次郎氏之地定為社
            地奉一落經營甚勉不日竣功茲卜九月九日大
            奉還社之盛式神之享之以福落民亦不可疑也
             
之亍石永傳子孫係以銘々云(以下略)
               
                   拝 殿 
 当社は椿森稲荷とも呼ばれ、明治初期の利根川改修まで、現社地北側の堤防付近に鎮座していた。古くは木が繁殖していたことが伝えられ、「椿森」の名もこれに由来していたと思われる。
祭神は倉稲魂命。内陣には茶き尼天像(だきにてん)と嘉永七年に奉納された水晶玉を安置している。境内には末社天満宮、御嶽仙元宮、白雲山妙義大権現が祀られている。
 氏子にとって当社は「雨乞いの神」「疫病除けの神」「洪水を防ぐ神」としてご利益があるとされている。
       
            社殿奥に祀られていた庚申塔・石碑・石祠

   

参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内石碑文」等

                



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西ノ谷久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市西ノ谷1141
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧西谷村鎮守(推定)
             
・例祭等 例大祭 415
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0974608,139.5782791,17z?hl=ja&entry=ttu
 鴻茎久伊豆神社が鎮座する場所から一旦国道122号線「鴻茎立山」交差点に戻り、国道に合流後北西方向に進む。この地域は旧騎西町内で、国道左手には多くの工業団地が立ち並んでいて、通称「騎西藤の台工業団地」という。この工業団地の整備に関しては、生産活動及び周辺に及ぼす影響を考慮し、適正かつ合理的に土地利用を図り、質の優れた良好な地区環境の形成保持をするために、公共緑地及び民有緑地を十分に確保し自然と調和のとれた工業地の形成を図っているようで、事実団地内には多くの緑地や公園も整備されている。
 国道を700m程進んだ「西ノ谷」交差点を左折し、その後150m程進んだ最初の十字路を右折すると、西ノ谷久伊豆神社の鳥居及びその社の境内一帯が進行方向右手に見えてくる。
 後日地図を確認すると、騎西藤の台工業団地の北西部に位置しているようだ。
 社の東側に隣接して「西ノ谷十二区集会所」があり、そこの駐車スペースに停めてから参拝を開始する
        
                 西ノ谷久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「西谷村」の解説
 備前堀川を挟んで騎西町場(きさいまちば)の南、上崎村・下崎村の東に続く埋没台地の東端に位置する。田園簿によると田高・畑高ともに一〇二石余、川越藩領。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一九九石余、反別は田方・畑方とも一一町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに四七石余があった。
『新編武蔵風土記稿 西谷村』において、村名の由来として「當村の地形低くして、鴻茎村の方高ければ、其西の谷と云へる意にてかく名づくるよし、今その地形を見るにさもあらんと思はる」と当時の風土記稿編者の認識として記されていたようだ。
        
               鳥居の右側に設置されている案内板
        
                参道から二の鳥居を望む。
 埼玉県加須市に鎮座する玉敷神社がかつて「久伊豆明神」と称しており、総本社とされている。祭神は大己貴命。埼玉県の元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。
 加須市には、旧騎西町に鎮座する久伊豆神社の総本社とされる玉敷神社を含め、市内7社あるうちの1社で、玉敷神社に最も近い社。
        
                    二の鳥居
       
       二の鳥居の先で、参道右側に聳え立つケヤキの大木(写真左・右)
        加須市保存樹木(ケヤキ・幹回り245.173㎝)で、指定番号 30
        
               参道左側に祀られている石碑二基。
 左側には「青龍大日大聖不動明王」、右側の石碑の中央部には「開聞覺明靈神」と刻印されている。
      
   石碑二基の並びは、解読不明の石碑(写真左)と青面金剛の庚申塔(同右)が建つ。
 庚申塔基壇部の一対の彫刻が興味を引く。火を起こしているのか、それとも笛を吹いているのか。
日本では各地に石造の庚申塔が多数遺り、そこには「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に青面金剛像が表されている例が多いのだが、この像はそれに該当しない。不思議な像である。
        
                                                              拝殿兼本殿覆屋 
 久伊豆神社 例大祭 四月十五日
 当社は大己貴命を主祭神とし、福徳を授ける神として崇敬され、くいず神社とも呼ばれる。
 当社の由来は不詳であるが、一説には加藤家の先祖が祀った神を、いつの頃からか村人が敬うようになったという。加藤家の先祖は北条氏の家臣であったが、小田原落城後、当地に住みついたと伝えられる。宝暦六年(一七五六)に社殿を再建した棟札があったことから、その創建はかなり古いものと思われる。
 拝殿は入母屋造りで、明治四十一年に合祀した八幡神社と大六天社が祀られている。
 境内には享保八年 (一七二三)銘の庚申塔がある。これは一つの顔と、八本の腕を刻む、 特異な青面金剛像となっている。
                             正面鳥居右側にある案内板より引用
『新編武蔵風土記稿 西戸村』には案内板に記されている「加藤氏」に関して詳しい記載がある。原文にて紹介する。
 當家者次郎左衛門
 加藤を氏とす、先祖は源左衛門と稱し、小田原北條家に仕へしが、北條家滅亡の時討死す、よりてその甥源次郎をして、源左衛門が娘福の後見すべき旨、氏政より文書を與へられしかば、源次郎福を伴ひて民間に跡か隱し、夫より當村に來り住せり、其後寛永九年八十餘にして卒す、福その跡を相續し、夫より連綿して今の次郎左衛門に至れりと云、その所藏の文書左の如し、
 今度上總行之砌、於殿太田源五郎越度割、其方伯父賀藤源左衛門見討死候、誠忠節不淺候、於氏政感悦候、然間一跡福可相續、然共只今爲幼少間福成人之上、相當之者妻一跡可相續條、其間者源次郎可有手代者也、仍如件
 永禄十年丁卯九月十日 氏政(花押)
           賀藤源左衛門息女
            
           
賀藤源次郎殿
        
                                     
拝殿覆屋内部
 
 西ノ谷十二区集会所の南側には「いぼとり地蔵」というお地蔵様がポツンと祀られている(写真左・右)。
 町指定有形民俗文化財 いぼとり地蔵
 この地蔵は、いぼとりに効用があることから「いぼとり地蔵」とよばれ、信仰されている。
 像容は、半跏像(左足を垂れ下げた形)で、京都壬生寺(みぶでら) 地蔵の系統を受け継ぐものと考えられる。
 銘文から、享保(きょうほう)三年(一七一八)に長谷川弥市という鋳物師(いもじ)の手によって造られたことがわかる。
 また、衣の部分が鋭く刻まれていることなどから、原型は木製であったらしく、原型の作者も相当な仏師であったことがうかがえる。
 加須市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                            拝殿覆屋から境内を望む。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」
    Wikipedia」「境内案内板」等

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鴻茎久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市鴻茎3991
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧鴻茎村鎮守・旧村社
             
・例祭等 大祭 410
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0920274,139.5836529,18.5z?hl=ja&entry=ttu.
「モラージュ菖蒲」から国道122号線を旧騎西町方向に3.5㎞程進む。「鴻茎立山」交差点を右折し、すぐ先の右斜め方向に進む路地へ移動し、暫く道なりに進行すると、左手に鴻茎久伊豆神社が見えてくる。実のところ、国道122号線沿いに社は鎮座していて、交差点手前からでも目視できるのだが、どうやら社は国道から背を向けているような配置となっているようで、社の正面にたどり着くためには、国道から一旦回り込むような進路となる。
 周辺には適当な駐車スペースはない。隣には集会所、又は社務所らしい建物があり、そこの道路面にある適度な空間に停めてから参拝を行った。
        
                 鴻茎久伊豆神社正面
 1889年(明治22年)41日、町村制施行に伴い、北埼玉郡騎西町・外川村・下崎村が合併し、騎西町が発足する。同時に、田ケ谷村・種足村・高柳村と共に鴻茎村も誕生している。鴻茎村は、芋茎・牛重・根古屋を併せて成立したが、当初、合併案に鴻茎村、芋茎村、戸室村、中ノ目村の四村が反対した。そこで、戸室村、中ノ目村の二村を種足に組みかえて、騎西町への合併に反対していた根古屋村と、水深村への合併を反対していた牛重村を合併し鴻茎村が誕生した。
 その後1943年(昭和18年)41日北埼玉郡騎西町・田ヶ谷村・種足村・鴻茎村・高柳村が合併し、騎西町となったが、一旦1946年(昭和21年)51日には分離。昭和29101日、騎西町、田ケ谷村、種足村、鴻茎村、高柳村の14村の合併案が出され、再び騎西町が誕生する。但し、高柳村では加須町との合併を望む意見が出たため、高柳村を除いた一町三村が合併して新しい騎西町が誕生した。高柳村はその後、昭和30320日に騎西町と合併する。
 2010年(平成22年)323日、加須市・北埼玉郡騎西町・北川辺町・大利根町と合併し、新たに加須市となり、現在に至っている。
        
                                  境内の様子
『日本歴史地名大系 』「鴻茎村」の解説
 村の北部は騎西町場に連なる埋没台地に、南部は見沼代用水左岸の自然堤防上に立地する。北東は備前堀川を隔てて根古屋(ねごや)村など。村内を岩槻、菖蒲(現久喜市)から忍(現行田市)・羽生へ抜ける往還が通る。「鴻ヶ茎」とも書いた(風土記稿)。鴻茎のクキは小高い所、丘などの意で、利根川の乱流した低湿地の自然堤防・埋没台地上にあるのでこの名が生じたという(埼玉県地名誌)。
「風土記稿」によれば村内に享保一五年(一七三〇)に築造した利根川除騎西領本囲の堤があるという。芋茎医王(いもぐきいおう)寺蔵薬師如来坐像の弘治二年(一五五六)五月付修理墨書銘に「武州鴻茎郷戸塚村医王寺」とみえる。田園簿によると田高七八四石余・畑高二七五石余、川越藩領。
 当地「鴻茎」は「こうぐき」と読む。前回参拝した「割目久伊豆神社」の地域名「割目」と同様に、中々個性的な名称である。『日本歴史地名大系 』での由来説明では、「鴻茎のクキは小高い所、丘などの意で、利根川の乱流した低湿地の自然堤防・埋没台地上にあるのでこの名が生じたという」として、地形上の理由がこの地域名となったとの事である。
 また別説では、鴻茎は古くは鴻ヶ茎と言い、「くき」から出た地名で、燃料採取地を意味する地名で、「久木」や「久喜」とも書いたともいう。

 なお、正面に一対の灯篭があり、その傍らに「力石」があるのが見える。向かって左側の石には「享保三年(一七一八)」銘の力石である。右側の石は大きさはむしろ大きいが、刻印はされていないように見える。
 
   左側の灯篭の外側脇にある力石         右側の灯篭の手前側にある大石
「享保三年(一七一八)」銘が刻印されている。  一見刻印がされていないように見える。
        
        鳥居を過ぎた参道の左手に並んで祀られている庚申塔、石碑群
        
                    拝 殿
        
             拝殿の左側前方に設置されている案内板
 久伊豆神社  大祭 四月十日
 当社は大己貴命を主祭神とし、福徳を授ける神として崇敬される。慶長七年(一六〇二)の騎西・大英寺の寺領帳に「久いつまへ」と記されていることから、創建は江戸期以前と思われる。
 古くは地内にあった安養寺(現在は廃寺)の管理となっていたが、慶応元年(一八六五)銘の手洗石 に「寿昌寺」の名を刻むことから、いつの頃からか同寺の管理に移ったものと思われる。明治四十年には地内に鎮座した九社を合祀している。
 また、江戸時代には境内にあった池の水を氏子が桶で掻い出し、泥を投げつけ合って「雨乞い」をしたという。
 なお、久伊豆神社は元荒川流域に多く分布する神社であるが、当地では「くいず神社」と呼んでいる(以下略)
                                      案内板より引用
 
 社殿左側隅には石碑が四基あり、社殿側から「日露戦没記念碑」(写真左)、「敷石記念碑」、「大東亜戦争記念碑」(同右)、「久伊豆神社 大鳥居記念碑」が建っている。
        
                   境内の一風景
 国道沿いに鎮座し、また社の北側には民家が立て並んでいるにも関わらず、境内は静かな雰囲気に包まれている。お社には不思議な消音効果装置が設置されているのであろうかと、ふと神妙な面持ちで考えてしまう今回の参拝であった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」「埼玉県地名辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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割目久伊豆神社

『日本歴史地名大系』 「割目村」の解説
 北は今鉾(いまぼこ)村、東・南・西は中曾根村(なかぞねむら・現久喜市)など。「風土記稿」に「往古此地ハ中曾根村ノ内ニ割込テアリシ故村名ニ負セシ由」とあり、中曾根村と一村であったという。騎西領に所属(同書)。
 田園簿によると田高一〇四石余・畑高七九石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二八〇石余、反別は田方一五町余・畑方一七町余、新開高一一二石余、反別は田方六町余・畑方六町八反余。

        
              
・所在地 埼玉県加須市割目491-1
              
・ご祭神 大己貴命(推定)
              
・社 格 旧割目村鎮守・旧村社
              
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0800015,139.6286684,18z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県加須市南東部で、久喜市に隣接した場所に「割目」という地域がある。 因みに「割目」と書いて「わりめ」と読む。これは, 『角川日本地名大辞典11埼玉』において、旧割目村は中曾根村内に割込んでいたので付けられた名であるという説明が載っている。
 また『新編武蔵風土記稿』にも同様の記述がある。
『新編武蔵風土記稿 割目村』
「割目村は江戸よりの行程及鄕庄の名前村に同じ、村名の起り往古、此地は中曾根村の内に割込てありし故、村名に負せし由、其頃は未だ一村に分れず、其後分鄕せし時かく名づくと云、されど正保の改にも一村と載せたれば、分鄕せしはいと古きことなるべし(中略)東西十八町、南北二町許、細く長き村なり、これ中曾根村の内に割込てありしを分村せし故、かくの如き地形となりしなるべし」
        
                 割目久伊豆神社正面
 今回の参拝は、久喜市菖蒲地区にある大型ショッピングモールである「モラージュ菖蒲」に急遽買い物を頼まれ、そのモールに行く途中に偶々出くわした社である。全く予想もしていなかった場所であったのだが、これも神様からの新しい出会いの賜物と、ありがたく参拝させて頂いた。
 モラージュ菖蒲から南北に通じる埼玉県道12号川越栗橋線を北上する。県道は途中から東西方向に進路が変わるのだが、500m程過ぎた十字路を左折し、その突当たりの丁字路の右側に割目久伊豆神社の鳥居が見えてくる。
 駐車スペースは周囲にはない様子なので、路駐して急ぎ参拝を行う。
 
  参道を進むと右側に祀られている境内社       境内社の左側奥にある力石2基
 大黒様と狐の置物が置かれているのが印象的
 この力石は、どちらも天保11年(1840)に奉納されたもので、写真左の力石は「六十五貫目」、右側は「四十二貫目」と刻印されている。1貫=3.75㎏であるので、現代の重さ(g)に直すと、それぞれ左244㎏、右158㎏となる。どちらにしてもかなりの重さである。
 
   参道右側には「改築記念」がある。     「改築記念」の脇にある大木の幹部分と石祠
                    改築記念
            當久伊豆神社境内ニ一老杉在 居〇一丈六尺
            有餘長サ九拾尺只空洞有ヲ惜ム時二大正拾壹
            年三月拾五日霹靂一〇忽チ落雷洞内ニ火ヲ發
            シテ炎々夕リ消化ニ努ムル事二晝夜ニ及ブ
            雖効無ク遂ニ認可ヲ得テ伐木スルニ至ル 〇
             而社殿之頗廢其極ニ達ス以故為記念當字〇〇
            故中野茂右衛門氏改築之議ヲ提出スル〇〇ヲ
            讃同於是大正拾貳年拾壹月拾壹日起ニ茲ニ落
               成ヲ告グ擧式ニ際シ建碑為記念

                 大正拾三年拾月拾五日
                   井上喜三郎謹書
 この改築記念の碑には、大正時代にあった落雷が、当時社のご神木であったであろう大杉に直撃し倒木してしまった事、同時にその被害が社殿にまで及ぼしたことが記されている。写真右側にあるように境内には大木の幹部分しか残されていないものが残されているが、近くに石祠も設置されているところから、もしかしたら記念の碑に出てくる大杉であったのかもしれない。
 但し、この改築記念の碑には、社に関する由来等の記載はなく、また資料等確認しても同様で、創建等は全く不明。『新編武蔵風土記稿』においても「久伊豆社 村の鎭守なり、村民持」としか書かれていない。
       
                                      拝 殿

 拝殿手前左側に鎮座する「正一位諏方大明神」          本 殿
       
                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「角川日本地名大辞典11埼玉」
    「境内石碑文」等 

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北小浜八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市睦町2749
             
・ご祭神 誉田別命 
             
・社 格 旧小浜村鎮守・旧村社
             
・例祭等 名越祭(北小浜の獅子舞) 731
                  前夜祭 914日 大祭 915
   
地図 https://www.google.com/maps/@36.1285138,139.6052398,18z?hl=ja&entry=ttu
 三俣諏訪神社から埼玉県道38号加須鴻巣線を東行する。「加須市役所入口」交差点より同県道411号加須停車場線、更に「睦町」交差点で同県道152号加須幸手線と名称変更となるが、引き続き東方向に進む。「睦町」交差点から350m程先にある「加須市昭和歩道橋」が見える十字路を左折すると、進行方向左側に北小浜八幡神社の鳥居や社号標が見えてくる。
 社の正面入り口を通り過ぎた最初の丁字路を左折すると、「加須市三俣第三区集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                 北小浜八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「小浜村」の解説
 三俣村の東に位置し、北は手子堀(てこぼり)川、南は会の川を境とする。羽生領に所属(風土記稿)。田園簿によれば田高六〇一石余・畑高三七五石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領と旗本四家の相給。宝暦一三年(一七六三)以前に二七石余が久喜藩領となる(文久三年「米津家由緒書」学習院大学史料館蔵児玉氏収集資料など)。同年一部が下総佐倉藩領となり(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)、同藩領は幕末まで続く(同調帳など)。「風土記稿」成立時は旗本松平領・佐倉藩領・川越藩領。
 北小浜地域は、旧利根川である会ノ川左岸の自然堤防上に位置していて、標高が12m13m程の低地帯であるのだが、社が鎮座している場所は、標高が14.5m程で、周囲よりも若干高い場所にある。写真を見るとより理解できるのだが、社の入口には石段があり、そこの場所が既に周囲より高い事を示している
「埼玉の神社」によれば、「北小浜」という地域名は、「当地が水の多い所であり、小さな浜のような地域であった」とその由来が記載されているが、どちらにしても地形上の名称であったのであろう。
 この地域は現在県道沿いに市街地が形成されていて、社のすぐ南側は民家が集中しているのに対して、北側は長閑な農耕地が広がっていて、社自体の存在が、その市街地との南北の境界線のような位置にある。
 
  道路沿いに設置されている社号標柱      道路から若干奥に石製の一の鳥居が立つ。
  「北小浜の獅子舞」の案内柱もある。
 北小浜八幡社は、寛文11年(1671)に創建、小浜村の鎮守として祀られ、また当地は小浜村と称されていた周辺で一番の高地だという。明治5年村社に列格している。
『新編武藏風土記稿 小濱村』
 八幡社 
 村の鎭守なり、寬文十一年造立する處なり、〇雷電社〇稻荷社二宇〇辨天社 以上地藏院持
 地藏院
 新義眞言宗、南篠崎村普門寺末、能惠山長命寺と號す本尊大日を安ず、元は地藏堂なりしを、今の里正市十郎が祖先、八左衛門と云るもの一寺となせりと、彼は延寶七年十二月十四日死せり、開山榮賀延寶三年七月廿四日寂す、地藏堂

        
                        一の鳥居から100m程の長い参道が続く。
  すぐ南側(写真左側)には住宅街に面しているのにも関わらず、参道周辺は至って静か。
   参道の両側には緑豊かな社叢林が生い茂り、落ち着いた雰囲気も醸し出している。
        
      参道を進むと、二の鳥居手前に突如行く手を遮る鳥居が一基建っている。
     今まで何百社と参拝をしてきたが、このような配置の参道は見たことがない。
        何かしらの由緒があるのであろうが、調べても分からなかった。
        
           二の鳥居の手前に祀られている境内社・八坂神社
                八坂神社の左側には「社殿再建紀念之碑」がある。
                「社殿再建紀念之碑」
      八幡宮は我が國古來崇敬最も厚き神にして靈威また極めて高く坐せり欽
      明天皇の朝應神天皇即ち譽田別命の神靈を宇佐に奉祀し清和天皇の御代
      更に男山に勧請して石清水八幡宮と稱し奉る源頼朝の幕府を鎌倉に開く
      や又その氏神として鶴が岡に社殿を造營せり爾来國中到る處其の祠を設
      く此の埼玉縣北埼玉郡三俣村大字北小濱の地に八幡社を造立し奉れるは
      實に徳川幕府の諸制度完備したる寛文十一年の事に属す其の後享保五年
      更に社殿を荘嚴し明治五年村社に列格も同四十年嚴嶋社雷電社稻荷社を
      合せて市杵嶋姫命別雷命倉稻魂命を配祀す村民常に善く之を奉じて敬神
      崇祖共同和樂の美風を成せり大正八年に至り社殿の改築を企つるや氏子
      等同心協力して震災の影響を排し十三年の秋終に神殿拜殿等悉く成る誠
      に神は人の敬に依りて威を増し人は神の徳に依りて運を添ふるものと謂
        ふべし乃ち茲に其の事業を石に誌して其の精神を後に傳へむとす
                         國學院大學敎授河野省三撰文并書及篆額
        
              二の鳥居を過ぎた先に鎮座する拝殿
 
        参道右側にある手水舎          同左側に設置されている石碑等
        
                                      拝 殿
 八幡社 加須市睦町二-七-四九(北小浜字堂前)
 当地は会ノ川(旧利根川)左岸の自然堤防上に位置する。北小浜の地名は当地が水の多い所であり、小さな浜のような地域であったことに由来する。当社の鎮座する堂前という耕地の地名は、現在の地蔵院の前身であった地蔵堂の前の耕地というところより起こったという。社地は当地区でも一番の高地である。
 当社の創立は『風土記稿』に「八幡社村の鎮守なり、寛文十一年造立する処なり、雷電社 稲荷社二字 弁天社、以上地蔵院持」と記され、『明細帳』には「往古々利根川堤ニシテ現今境内トナリ、八幡社ノ公称アルハ享保五年十二月十九日ナリ、明治五年中村社ニ申立済、同四十年三月二十九日上知林九畝廿壱歩境内編入許可、同年七月十三日字堂前無格社雷電社、同稲荷社二社、字尾前同厳島社ヲ合祀ス」と記す。明治四〇年に三社が合祀されたが、その後、旧民子に災難が相次いだためこれらは旧地に戻されたという。境内社として明治元年創立の三峰社がある。
 大正一三年覆屋・拝殿が建立されるが、昭和二二年のキャサリン台風により社殿が半壊し、修復を行う。この時、神像も被害を受けたため、新たに八幡神像を浅草(東京都)の神具店より手に入れて祀る。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
境内に設置された「北小浜の獅子舞」の案内板          本 殿
 加須市指定無形民俗文化財
 北小浜の獅子舞   昭和三一年九月指定
 寛文一〇年(一六七〇)に八幡神社の創立により、五穀豊穣、商売繁盛、悪魔降伏を祈って獅子舞を行ったのが始まりといい伝えられている。
 毎年七月一一日北小浜一円を行列を組んでまわり、七月三一日の名越祭は、社殿前から北に向かい葛西用水に架かる橋から形代を流す。
 九月一五日の秋祭には、社殿前で「初庭」「中庭」「末庭」の舞を奉納する。道中は提灯を先頭に笛・獅子が続き道中囃子を奏でる。
 構成人数は獅子三・笛四・提灯四・世話人三の計一四人である。
 平成二四年三月  加須市教育委員会
                                      案内板より引用

 
        社殿右側に祀られている石碑等(写真左・右)。詳細は不明。
        
                                 社殿からの景観
 ところで、加須市では市内に点在する屋敷林等の貴重な緑の保全のため、所有者と協議の上、次に掲げる基準により「保存樹木」及び「保存樹林」として指定しているとの事だ。
・樹形が良く、地上1.5mの位置の幹周が2.5m以上のもの
・健全に生育しているもの
・地域住民に親しまれ、自由に観賞できるもの
 北小浜八幡神社には、その「保存樹木」が、二の鳥居手前に屹立しているものを含めると4本指定を受けている。すべてがイチョウの大木である。
       
               指定樹木が聳え立つ参道の様子(写真左・右)
 加須市において、保存樹木等の指定に関する要綱が定められており、この要綱においてでは、豊かな自然が市民にとってかけがえのないものであることから、保存すべき樹木及び樹林等を指定することにより、自然の保護及び緑化の推進に資することを目的とする、との事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須市HP」「埼玉の神社」
    「境内掲示板・石碑文」等

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