柳生鷲神社
この柳生鷲神社は、麦倉鷲神社同様に嘗て存在していた河川に隣接した地に鎮座していて、共に現在「天穂日命」を主祭神として祀っているのだが、地形的な特徴を鑑みると、本来は水田を守り、度重なる河川の氾濫を防ぐ水神を祀るための社ではなかったかと漠然と考察している次第だ。
・所在地 埼玉県加須市柳生2378
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
・社 格 旧柳生村鎮守・旧村社
・例祭等 春祭り 4月15日 秋祭り 10月15日
「北川辺西小学校前歩道橋」交差点から北西方向に走る埼玉県道415号柳生停車場線に分岐するY字路を左斜め方向に進行する。この道路は「合の川の河川跡」に沿った道であるのだが、道幅が狭いので、周囲の道路状況に注意しながら北方向に600m程進む。その後「久保山集会所」がある方向に左折するのだが、左手には旧河川の堤防が一面に見え、如何にも河川沿いを連想させる風景が広がる。「久保山集会所」から直線方向にて400m程北側に柳生鷲神社は境内を巨木・老木に囲まれている中、静かに鎮座している。
柳生鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「柳生村」の解説
東は小野袋村の西に位置し、北西は間の川跡を隔てて上野国邑楽(おうら)郡下五箇(しもごか)村・海老瀬(えびせ)村(現群馬県板倉町)。柳の茂った原野を元亀年中(一五七〇〜七三)開発したという。日光道中から中山道へ通ずる脇往還は、村内で海老瀬村に至る道と麦倉村へ通じる道の二条に分れた(風土記稿)。
検地は寛永六年(一六二九)関東郡代伊奈忠治、寛文五年(一六六五)下総古河藩が行った(風土記稿)。田園簿では水損場と記され、田高三一九石余・畑高四七〇石余であるが、明和九年(一七七二)には一四六石余が高入れされており、新田が開発されていた(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)。
『新編武藏風土記稿 埼玉郡柳生村』
「往昔は柳樹多く茂りたる原野なりしを、元龜年中開發して一村となせし故、かく村名を唱へりと云(中略)日光道中より中山道への脇往還かゝる、村内にて二條となり、一條は上州板倉道と號し、麦倉村へ出づ、一條は同國飯野道と唱へ、邑樂郡海老瀬村へ達す」
「間ノ川 村の北西国境にあり、此川當村の地先より川上の方は今川蹟となりて陸田等を開けり、又東の方小野袋村によりし方より川下は、水流通じて田間の惡水等落合ひ、川幅も七十間に至れり、こゝに板橋を架して對岸海老瀬村に達す、是前に云飯野道なり、川にそひて堤あり」
鳥居の左側に設置されている案内板 鳥居・社号標柱の右側にある「鷲明神社記恩碑」
東向きの広々とした境内
案内板によると、柳生鷲神社の創建は天正15年(1587)9月15日で、鷲ノ宮に鎮座する鷲宮神社より勧請したという。現在の社殿は昭和24年10月新築・竣工されたもので、内陣には神像・神輿が奉安されているという。また柳生薬師堂は、鷲神社内にあり、もと鷲山宝蔵院東光寺の薬師堂にて薬師如来が安置されている。鷲神社二隣接していた東光寺は、天正13年(1585)の草創で、開山は恵雄和尚で、寛文七年(1667)3月5日寂した。なお、宝蔵院は明治6年(1873)神仏分離により廃寺となったという。
「鷲明神社記恩碑」は読みづらい箇所が多数あり、全体の解説はできないが、「水旱疾疫」「水患凶」と読める所もあり、嘗て利根川及びその支流が乱流するこの地域に生きた人々が苦労しながらも、「神明之徳人心自正協力相助克堪」と記しているように、協力・相助しながら必死に耐えてきた歴史を克明に記録した碑文なのであろう。
二の鳥居
拝 殿
鷲神社(みょうじんさま) 北川辺町柳生二三七八(柳生字中耕地)
柳生の地は、往昔乱流する利根川の河岸に柳の木が多く茂っていたことからその名が付けられた。柳生の開発は元亀年中と伝えられ、村人は水害に悩みながら少しずつ田畑を広げたという。口碑によると、当地の草分けは三三戸で、現在本家祭りを続けている人たちの先祖であると伝える。
当社の創建は、『風土記稿』によると天正一五年九月一五日で、鷲ノ宮に鎮座する鷲宮神社より勧請したという。
祭神は、天穂日命と武夷鳥命である。内陣には、木造の神像を安置している。
別当は幕末までは真言宗鷲山宝光院東光寺で、天正一三年の開基である。また、鷲宮神社の神主も幕末まで当社の神楽修行を務め、毎年三月一五日には春神楽を奉奏した。
本殿は一間社流造りである。社殿の造営については二枚の棟札が現存しており、建築年代を知ることができる。一枚は享保一一年九月一九日に本地堂を宝光院行誉法印の代の再建、一枚は、宝暦三年九月一五日に拝殿を同院の快舜法印の代の再建のものである。
明治に入り、神仏分離により宝光院は廃され、当社に神職を置くようになった。また「デイノ権 現様」と称される十二所権現社も、この時代に合祀された。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
「埼玉の神社」より引用
社殿左側奥に祀られている合祀社 社殿奥に祀られている石碑・石祠等
左から愛宕社・浅間社 左から小御嶽山・〇・大杉大明神・天神社
社殿右側に祀られている境内社。台山社・三峰社
拝殿右側手前にあるカヤのご神木(写真左・右)
このカヤの巨木は、加須市保存樹木(指定番号94号、幹回270㎝)に指定されている。
柳生鷲神社の境内には、カヤの巨木の他、ケヤキ(指定番号88号号、幹回280㎝)・エノキ(指定番号90号、幹回280㎝)・エノキ(指定番号91号、幹回370㎝)・イチョウ(指定番号92号、幹回340㎝)・イチョウ(指定番号93号、幹回340㎝)等が参道両脇に聳え立つ。その姿は正に圧巻である。
因みに、このご神木の根元には「祝鷲神社基金 金貳百圓也 石島本家」と刻まれている石碑がある。
この石島家は、『新編武蔵風土記稿 柳生村』にも「舊家者才次郎 石島氏にて當村の名主をつとむ、先祖石嶋主水助は小山小四郎に仕ふ、天正十年北條家より佐野修理太夫宗綱をして、下野國榎本の城主藤岡山城守を攻るの時、小四郎藤岡に加勢し、後詰の勢を出して、小田原の人數を追崩せり、其時主水助もしたがひて功あり。又傳ふ天正十一年七月十一日、小田原勢打向ひし時、小四郎敗北せしかば、主水助小四郎に従ひ、郡内大越村へ落ち、其後又當村に移り住せりと云、(中略)されどこの傳ふることゝ、後に載せたる文書と事蹟合せず、按に小山氏天正の始は藤岡氏に與みし、後天正の末に至り、却て小田原に與みして藤岡を責し頃、主水助も小山氏に従ひ功ありしかば、後にのせたる天正十八年庚寅の感狀を賜はりしものなるべし(以下略)」との記載がある旧家である。
社殿の右側隣にある薬師堂 薬師堂の手前に並ぶ普門品供養・庚申・
大乗妙典供養塔
境内の様子
ところで、柳生地域には独自の風習が存在しており、開発の早いちくが祭祀執行の要をなし、更にこの中に「本家祭り」を行う集団が存在することである。本家祭りは、一般に先祖祭りとも称し、柳生村開発当初からの草分けの子孫が一月一五日に行う祭りである。これは村の本家格の家より構成され、現在は転出等により二五戸になっている。
この祭りの特徴は、子孫に祭祀執行の権利があるとともに、伝承の義務を有していること、また他の氏子にの参加は排除され、閉鎖性も強いということである。
但し、このような祭りにおいては個人がどのように進行するかはあまり意味を持たない。重要なのは、開発当初からの運命共同体としての意識を持つことであり、この場に参加することに意義があるのであろう。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「境内案内板・石碑文」等