古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

柳生鷲神社

 前項「麦倉鷲神社」の北側裏手には、廃川となった「合の川の河川跡」があることは解説した。この合の川は利根川の旧流路の一つで、現在は廃川となっていて、利根川が埼玉県加須市飯積地域で北へ分流し、加須市と群馬県邑楽郡板倉町の境界(旧武蔵国埼玉郡と上野国邑楽郡の境界)を東へ流れる。その後麦倉鷲神社付近で北方向に流路が変わり、板倉町下五箇で谷田川に合流するのだが、流路が北方向に変わるその右岸一帯はほぼ柳生地域にあたり、柳生鷲神社はその地域北側の河川跡の東側に鎮座している。
 この柳生鷲神社は、麦倉鷲神社同様に嘗て存在していた河川に隣接した地に鎮座していて、共に現在「天穂日命」を主祭神として祀っているのだが、地形的な特徴を鑑みると、本来は水田を守り、度重なる河川の氾濫を防ぐ水神を祀るための社ではなかったかと漠然と考察している次第だ。
        
              
・所在地 埼玉県加須市柳生2378
              
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              
・社 格 旧柳生村鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
「北川辺西小学校前歩道橋」交差点から北西方向に走る埼玉県道415号柳生停車場線に分岐するY字路を左斜め方向に進行する。この道路は「合の川の河川跡」に沿った道であるのだが、道幅が狭いので、周囲の道路状況に注意しながら北方向に600m程進む。その後「久保山集会所」がある方向に左折するのだが、左手には旧河川の堤防が一面に見え、如何にも河川沿いを連想させる風景が広がる。「久保山集会所」から直線方向にて400m程北側に柳生鷲神社は境内を巨木・老木に囲まれている中、静かに鎮座している。
        
                  柳生鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「柳生村」の解説
 東は小野袋村の西に位置し、北西は間の川跡を隔てて上野国邑楽(おうら)郡下五箇(しもごか)村・海老瀬(えびせ)村(現群馬県板倉町)。柳の茂った原野を元亀年中(一五七〇〜七三)開発したという。日光道中から中山道へ通ずる脇往還は、村内で海老瀬村に至る道と麦倉村へ通じる道の二条に分れた(風土記稿)。
 検地は寛永六年(一六二九)関東郡代伊奈忠治、寛文五年(一六六五)下総古河藩が行った(風土記稿)。田園簿では水損場と記され、田高三一九石余・畑高四七〇石余であるが、明和九年(一七七二)には一四六石余が高入れされており、新田が開発されていた(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)。
『新編武藏風土記稿 埼玉郡柳生村』
「往昔は柳樹多く茂りたる原野なりしを、元龜年中開發して一村となせし故、かく村名を唱へりと云(中略)日光道中より中山道への脇往還かゝる、村内にて二條となり、一條は上州板倉道と號し、麦倉村へ出づ、一條は同國飯野道と唱へ、邑樂郡海老瀬村へ達す」
「間ノ川 村の北西国境にあり、此川當村の地先より川上の方は今川蹟となりて陸田等を開けり、又東の方小野袋村によりし方より川下は、水流通じて田間の惡水等落合ひ、川幅も七十間に至れり、こゝに板橋を架して對岸海老瀬村に達す、是前に云飯野道なり、川にそひて堤あり」
 

   鳥居の左側に設置されている案内板    鳥居・社号標柱の右側にある「鷲明神社記恩碑」
        
                               東向きの広々とした境内
 案内板によると、柳生鷲神社の創建は天正15年(1587915日で、鷲ノ宮に鎮座する鷲宮神社より勧請したという。現在の社殿は昭和2410月新築・竣工されたもので、内陣には神像・神輿が奉安されているという。また柳生薬師堂は、鷲神社内にあり、もと鷲山宝蔵院東光寺の薬師堂にて薬師如来が安置されている。鷲神社二隣接していた東光寺は、天正13年(1585)の草創で、開山は恵雄和尚で、寛文七年(166735日寂した。なお、宝蔵院は明治6年(1873)神仏分離により廃寺となったという。
鷲明神社記恩碑」は読みづらい箇所が多数あり、全体の解説はできないが、「水旱疾疫」「水患凶」と読める所もあり、嘗て利根川及びその支流が乱流するこの地域に生きた人々が苦労しながらも、「神明之徳人心自正協力相助克堪」と記しているように、協力・相助しながら必死に耐えてきた歴史を克明に記録した碑文なのであろう。
        
                                     二の鳥居
        
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  北川辺町柳生二三七八(柳生字中耕地)
 柳生の地は、往昔乱流する利根川の河岸に柳の木が多く茂っていたことからその名が付けられた。柳生の開発は元亀年中と伝えられ、村人は水害に悩みながら少しずつ田畑を広げたという。口碑によると、当地の草分けは三三戸で、現在本家祭りを続けている人たちの先祖であると伝える。
 当社の創建は、『風土記稿』によると天正一五年九月一五日で、鷲ノ宮に鎮座する鷲宮神社より勧請したという。
 祭神は、天穂日命と武夷鳥命である。内陣には、木造の神像を安置している。
 別当は幕末までは真言宗鷲山宝光院東光寺で、天正一三年の開基である。また、鷲宮神社の神主も幕末まで当社の神楽修行を務め、毎年三月一五日には春神楽を奉奏した。
 本殿は一間社流造りである。社殿の造営については二枚の棟札が現存しており、建築年代を知ることができる。一枚は享保一一年九月一九日に本地堂を宝光院行誉法印の代の再建、一枚は、宝暦三年九月一五日に拝殿を同院の快舜法印の代の再建のものである。
 明治に入り、神仏分離により宝光院は廃され、当社に神職を置くようになった。また「デイノ権 現様」と称される十二所権現社も、この時代に合祀された。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   社殿左側奥に祀られている合祀社         社殿奥に祀られている石碑・石祠等
      左から愛宕社・浅間社        左から小御嶽山・〇・大杉大明神・天神社
       
                       社殿右側に祀られている境内社。台山社・三峰社
     
                   拝殿右側手前にあるカヤのご神木(写真左・右)
   このカヤの巨木は、加須市保存樹木(指定番号94号、幹回270㎝)に指定されている。
 柳生鷲神社の境内には、カヤの巨木の他、ケヤキ(指定番号88号号、幹回280㎝)・エノキ(指定番号90号、幹回280㎝)・エノキ(指定番号91号、幹回370㎝)・イチョウ(指定番号92号、幹回340㎝)・イチョウ(指定番号93号、幹回340㎝)等が参道両脇に聳え立つ。その姿は正に圧巻である。

 因みに、このご神木の根元には「祝鷲神社基金 金貳百圓也 石島本家」と刻まれている石碑がある。
 この石島家は、『新編武蔵風土記稿 柳生村』にも「舊家者才次郎 石島氏にて當村の名主をつとむ、先祖石嶋主水助は小山小四郎に仕ふ、天正十年北條家より佐野修理太夫宗綱をして、下野國榎本の城主藤岡山城守を攻るの時、小四郎藤岡に加勢し、後詰の勢を出して、小田原の人數を追崩せり、其時主水助もしたがひて功あり。又傳ふ天正十一年七月十一日、小田原勢打向ひし時、小四郎敗北せしかば、主水助小四郎に従ひ、郡内大越村へ落ち、其後又當村に移り住せりと云、(中略)されどこの傳ふることゝ、後に載せたる文書と事蹟合せず、按に小山氏天正の始は藤岡氏に與みし、後天正の末に至り、却て小田原に與みして藤岡を責し頃、主水助も小山氏に従ひ功ありしかば、後にのせたる天正十八年庚寅の感狀を賜はりしものなるべし(以下略)」との記載がある旧家である。

     社殿の右側隣にある薬師堂        薬師堂の手前に並ぶ普門品供養・庚申・
                              大乗妙典供養塔
        
                   境内の様子
 ところで、柳生地域には独自の風習が存在しており、開発の早いちくが祭祀執行の要をなし、更にこの中に「本家祭り」を行う集団が存在することである。本家祭りは、一般に先祖祭りとも称し、柳生村開発当初からの草分けの子孫が一月一五日に行う祭りである。これは村の本家格の家より構成され、現在は転出等により二五戸になっている。
 この祭りの特徴は、子孫に祭祀執行の権利があるとともに、伝承の義務を有していること、また他の氏子にの参加は排除され、閉鎖性も強いということである。
 但し、このような祭りにおいては個人がどのように進行するかはあまり意味を持たない。重要なのは、開発当初からの運命共同体としての意識を持つことであり、この場に参加することに意義があるのであろう。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia
    「境内案内板・石碑文」等

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麦倉鷲神社

 
        
              
・所在地 埼玉県加須市麦倉124
              
・ご祭神 天穂日命
              
・社 格 旧麦倉村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 211日 春祭り 43日 夏祭り 77
                   
お日待 1015日 新嘗祭 1123
「道の駅 おおとね」から埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、利根川に架かっている「埼玉大橋」を越え、1.5㎞程北上した「北川辺消防署前」交差点を左折する。その後、同県道369号麦倉川俣停車場線を西行すること1㎞程にて「加須市立北川辺西小学校」に到達し、そこから県道沿いに進むと、進行方向右手に麦倉鷲神社の一の鳥居が見えてくる。
        
                  麦倉鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「麦倉村」の解説
 利根川左岸に位置し、東は大曾村・柳生村、南は利根川を限り、北は間の川跡を隔て上野国邑楽郡下五箇(しもごか)村(現群馬県板倉町)。田園簿によれば田高六二一石余・畑高七九六石余。宝暦一一年(一七六一)前々古新田改出の二〇五石余が新たに加わり高一千六二三石余となる(「村鑑帳」小室家文書)。反別は寛文四年(一六六四)に田方一〇三町二反余・畑方一六八町六反余(「麦倉村検地帳」同文書)。宝暦元年立野たての新開畑五町三反余が検地をうけ、前掲村鑑帳では田方一〇三町三反余・畑方一七四町九反余となっており、江戸時代を通して畑方の開発が促進された(同文書)。
        
                          南北に100m程続く比較的長い参道
「埼玉の神社」によれば、麦倉の地は明応年間(1492年〜1501年)のころに開拓が行われた所であり、当地の領主である石川氏の館を倚井館と称し、その跡地である今の北川辺西小学校には記念碑が建てられている。
 領主石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄11年に敗れるが、残った家臣は天正年中この地に入り開拓に努めた。その一人「鳥海多津儀」は、旧領主が延徳二年に勧請したと伝える当社の神主となり、麦倉の安泰と村民の安穏を祈り、以来同家は当社の社家となったという。
『新編武蔵風土記稿 麦倉村』
「當村明應の頃開闢して、石川權頭義俊と云人居城を構へ則領主として住せしが、羽生の城主木戸相模守と合戦に及び、石川焼打にせられ、利を失てより一村悉く廢地となれり。其時石川義俊の家臣に鳥海丹後と云もの、城中を遁れいで、野州に立退き、彼が子孫慶長の頃、又當村に来り再び開發せりと云」
 また麦倉鷲神社の創建は、当地が開発された時期と同じく、明応のころ勧請された村鎮守であると記されている。
「鷲明神社 村の鎭守なり、當社は明應の頃勸請する所なりと云」
「南光院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、元弘山と號す、本尊不動を安ず、當院は延元の頃開て其後廢せしを、明應の頃再び建立せしと云、及傳と云僧を祖とす、俗稱を石川主膳と云、石川權頭義俊が一族なり」
         
                     拝 殿
           拝殿中央部には鷲神社らしく鷲の図柄が描かれている。
    因みに拝殿の手前で、参道を横切る道があるのだが、この道は上州板倉からの旧街道という。

 鷲神社  北川辺町麦倉一二四(麦倉字本村)
 麦倉の地は明応のころに開拓が行われた所である。領主の石川氏の館を倚井館と称し、その跡地である今の北川辺西小学校には記念碑が建てられている。
 領主石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄一一年に敗れるが、残った家臣は天正年中この地に入り開拓に努めた。その一人鳥海多津儀は、旧領主が延徳二年に勧請したと伝える当社の神主となり、麦倉の安泰と村民の安穏を祈る。以来同家は当社の社家となる。
『風土記稿』によると、鷲明神は明応のころ勧請された村鎮守であると記され、また、神主鳥海家については、丹波の代で京都吉田家の支配を受けるようになり、その先祖は石川俊重の臣で多津儀という者が神主になったとあり、麦倉の地に残る口碑と一致する。
 鳥海家は神社脇に居を構え、大正一〇年ごろまで神職を務めていたが、その後昭和三〇年代の末に焼失してしまった。鳥海家の後には、上田金助が神職となり、今は武良が跡を継いでいる。
 当社の合祀は早く、明治五年に耕地中の神社を合わせたといわれるが、今日確認できるものは筑道の熊野神社(権現様)、本田上耕地の愛宕社の二社で、これらは終戦後それぞれの元地に戻っている。
 祭神は天穂日命で、一間社流造りの本殿には正徳二年七月七日付の京都吉田家からの幣帛が納められている。
平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している
                                                                    「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」に記載されている麦倉地区の領主であった石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄一一年に敗れているのだが、その敗れた原因を「時期的に丁度とうもろこしの伸びたころで、敵が隠れるには好都合だったために敗れてしまった」との由緒が残されており、石川家と一部の氏子はとうもろこしを作らないといわれている。
        
                              社殿から参道方向を撮影

 ところで、麦倉鷲神社の北側裏手には、廃川となった「合の川の跡」があり、グーグルマップ等の地図にもこの流路跡はしっかりと確認することができる。この合の川は、利根川の旧流路の一つで、現在は廃川となっている。合の川は、利根川が埼玉県加須市飯積で北へ分流した流れで、加須市と群馬県邑楽郡板倉町の境界(旧武蔵国埼玉郡と上野国邑楽郡の境界)を東へ流れ、板倉町下五箇で谷田川が合流した後、加須市小野袋へ至って旧渡良瀬川へ合流していて、古代には利根川の本流が流れたとする説もある。
 元和7年(1621年)に新川通が新たな利根川本流河道として、加須市佐波(飯積から下流へ2km)から旗井(久喜市栗橋の北1km)までを開削し、渡良瀬川に接続し、これに伴い、合の川への利根川分流水量は増水時を除けば僅かとなる。その後、天保9年(1838年)に流頭が締め切られ、廃川となった。旧渡良瀬川へ至る下流部は谷田川へ譲った。
『新編武蔵風土記稿』
「利根川 新利根川なり、もと利根の流は飯積村の地先より佐波村の方へ流れしに、水路不便なれば寛永十九年伊奈備前守奉り、新たに當村の地さきより新川を掘割、かの飯積村の本流に通ぜしよし、元の流れは古利根川と呼び、土人此川を新利根川と唱へり、夫より二里餘を東流し、新古の二流合してより、此名は唱ずしてたゞ利根川と呼べり」

 合の川は人工的に締め切られた経緯から、流路内の比較的水深のあった場所は池沼として残り、流路跡に散在している。その他の流路跡の土地利用としては主に水田などの農地として利用されている。流路跡のほぼ中央部には谷田川へと至る水路が所在している。また、流路跡の両岸には当時の堤防が残されており、堤防上は道路などとして利用されているという。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等


 
  

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飯積鷲神社

 埼玉県旧北埼玉郡北川辺町は、県の北東隅に位置し、利根川の左岸(北岸)にある県内唯一の町で、都心から60㎞圏内に入る。東西6.5㎞、南北6.9㎞。東は渡良瀬川を境に茨城県古河市、南は利根川を挟んで大利根町(現加須市)・加須市、西は群馬県邑楽郡板倉町、北は谷田(やた)川を境に栃木県下都賀(しもつが)郡藤岡町に接する。利根川と渡良瀬川合流点の沖積低地に位置し、地形は河川の乱流により形成された自然堤防・後背湿地、流路跡からなる。標高は1315mを示し西部が高く東部が低くなっている。飯積(いいづみ)地域の自然堤防上で古墳時代後期の土師器・須恵器などが出土しており、集落跡と考えられ、「東」と墨書された土師器も発見された。また古代から中世にかけて、現在の渡良瀬川三国橋辺りは古河渡として知られ、「万葉集」をはじめとする多くの歌に詠まれる名所であった。
 古くから洪水に悩まされたが,近年は治水対策が進み,堤防が完備。県下の穀倉地帯の一つで,米作,野菜の施設園芸が行なわれる。南部を流れる利根川の瀬替えによって埼玉県側と切り離された孤立地域となっていたが,埼玉大橋が開通して解消された。
 1955年(昭和30)川辺村と利島村が合体して北川辺村となり,1971年(昭和46)町制施行。2010年(平成22)、騎西町・大利根町と共に加須市に合併している。
        
             
・所在地 埼玉県加須市飯積2001.
             ・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
             ・社 格 旧飯積村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 211日 例祭 43日 新嘗祭(秋祭り) 1123
 埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、利根川に架かる埼玉大橋を越えた最初の信号のある交差点を左折、一旦南下して麦倉八坂神社に到達後、埼玉県道368号飯積向古河線を利根川上流沿いに2㎞強西行すると、飯積鷲神社が鎮座する地に到着することができる。すぐ先は群馬県板倉町である。
        
                  飯積鷲神社正面
『日本歴史地名大系』「飯積村」の解説
 利根川左岸に位置し、東は麦倉村、南は利根川を隔てて大越村(現加須市)、西北二方は間の川跡を境に上野国邑楽郡島村・下五箇(しもごか)村(現群馬県板倉町)。天正二年(一五七四)一二月二日の御料所方書上(喜連川家料所記)によると、向古河(むこうこが)近辺の「いゝつみ」は古河公方領で、町野義俊に知行地として宛行われたが、同元年までは羽生勢に押領され、このときは上野館林城の長尾氏に妨害されていた。
 田園簿では水損場と記され、田高三一一石余・畑高六〇六石余。寛文四年(一六六四)検地があった(風土記稿)。明和九年(一七七二)には一五〇石余が高入れされており、新田が開発されたことがわかる(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)。

 また「埼玉の神社」による地域名「飯積」の地名由来として、御諸別王(みもろわけおう)東夷平定の時、当地において飯(いい)を炊きだしたのに由来する説と、古利根川自然堤防の小高い所に集落をなしたのでこの名があるとの説がある。
        
                綺麗に整備されている境内
 境内には「飯積鷲神社移転記念碑」が建っており、その碑文によると、国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所が計画実施した「大高島地区高規格堤防河川防災ステーション」整備事業により収用され、北川辺町大字飯積字本村18811及び13番地から、飯積字本村2001及び2番地に移転新築したものであるという。
        
                                       拝 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡飯積村』
 鷲明神社 村の鎭守なり、萬治年中の勸請にして享保五年二月九日正一位の神位を請ると云、
      金剛院持、
 金剛院    本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下にて、上田寶藏寺と號す、本尊不動を安ず、
       開祖宥傳寛永二年二月十六日寂す、


 鷲神社  北川辺町飯積一五二(飯積字本村)
 鎮座地飯積の地名は、御諸別王東夷平定の時、当地において飯(いい)を炊きだしたのに由来する説と、古利根川自然堤防の小高い所に集落をなしたのでこの名があるとの説がある。なお、「イイ」とは自然堤防の小高い所を呼び「スミ」は住むであるといい、古くから開かれた所であると考えられる。
 当社の創建は、社伝によると現宮司上田武良の祖である本山派修験上田山宝蔵寺金剛院が、万治二年鷲宮から同院の境内に勧請したという。この年は上田家の先祖が戦いに敗れて、当所に定住してから三〇年を経た時であるという。当社に限らず、当地方の鷲神社は万治年中の創建を伝えるものが多いが、それが何を物語るかは不明である。
 享保四年一一月三日に正一位の宣旨を受け、更に相殿の稲荷社に対する山城国紀伊郡本宮(伏見稲荷大社)からの天保八年七月一日の分霊証書がある。明治五年に村社となる。
 社殿内、中央に一間社流造りの当社本殿があり、その右に明治末期に同字中新田から合祀した鷲神社、左に新屋敷から合祀した鷲神社があり、各々一間社流造りがある。ほかに幕政期、同字編照院持ちの稲荷社・浅間社・愛宕社を同時に合祀したが、昭和三三年旧氏子の要請により返還した。境内には明治期に同宇内から集めた石仏類がある。
 *現在の鎮座地は移転の為、住所は違うが、敢て文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿に掲げてある扁額               本 殿
       
             拝殿手前右側には「天満宮」の石碑や、伊勢参拝記念碑等が並ぶ。

 境内北側の道路沿いには石碑・石祠群が横一列に並んで祀られている。
 
左から?・青面金剛仏・
青面金剛像・庚申塔・   青面金剛像や十九夜・十九夜念仏供養
 庚申塔・二十六夜塔・?・稲荷社・水神社      稲荷社等の石祠・石仏が並ぶ。

 飯積鷲神社は耕地の神様として、また鷲大明神というところから、明神様の名で親しまれている。主祭神は天穂日命・武夷鳥命である。氏子は幕政期本村のみの鎮守であったので、四〇戸余りであったのだが、明治末期に新屋敷・中新田からそれぞれの鎮守鷲神社を合祀したため、百余戸と増加し、現在は飛び地の三軒と高野を含めて一八〇戸と推移している。
        
                                社殿から参道方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
    「埼玉の神社」「境内掲示板」等

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大越鷲尾神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市大越526
              
・ご祭神 天日鷲命
              
・社 格 旧上中下大越村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 217日 名越祭(祓い祭)731日・81
                   
秋祭り 1016
 常木神社から用水路沿いの道路を南東方向に1.2㎞程進むと大越鷲尾神社に到着する。但しこのルートでは社が背を向いたような状態であるので、一旦手前の十字路を右折し、左回りのようなルートにて、正面に到着することができる。
 社に隣接し社務所らしき建物もあり、そこには広大な駐車スペースもあり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                  
大越鷲尾神社正面
『日本歴史地名大系』 「上大越村」の解説
 北は利根川を境として上野国邑楽郡大久保村(現群馬県板倉町)と対し、東は下大越村・中大越村。古くは中・下の大越村と一村であった。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳には「五十貫文 大越彦四郎」「二十一貫文 大越彦八郎」とみえ、在郷の武士と考えられる。なお萱氏系図(鷲宮神社文書)に「武蔵国大越郷住人大越次郎貞正」がみえる。貞正の娘を母とするのが萱氏の先祖で、建久元年(一一九〇)に鷲宮神社(現鷲宮町)本社を再建したと伝える。
*成田分限帳
「五十一貫文・大越彦四郎、二十一貫文・大越彦八郎」
*萱氏系図(鷲宮村鷲宮神社所蔵)
「莿萱重郎正忠(建保元年死す、行年七十九歳。母大越次郎貞正娘・武蔵国大越住人)」
 羽生領に所属(風土記稿)。寛永八年(一六三一)八月の騎西郡羽生領大越村御検地水帳写(関根家文書)には田畑二六五町余のうち五七町余が当発とあり、大規模な新田開発が進められていた。
        
                 参道の先に建つ鳥居
 参拝日は8月のお盆を過ぎた平日。連日35度以上を記録する「酷暑日」に参拝を行っているにも関わらず、鳥居の先は、樹木の木陰げとなっており、水分補給をしながら汗ばむ体を休ませるには丁度良い空間となっていた。

        
             拝殿手前、参道左側に祀られている合祀社
               左から天神社・( ? )・稲荷社
        
                    拝  殿
『新編武蔵国風土記稿 上中下大越村』
 羽生領葛濱鄕に屬す、按に【梅松論】に建武二年十月十日太田庄を、小山常若丸に宛行云々とあり、當村に小山の建立せし寺院あれば、彼太田庄と云へるは當所の事なるにや、成田分限帳に五十一貫文大越彦四郎とあるも、當所に住して在名を名乗しなるべし、當村元は一村なりしに、後上下の二村となり、後又其内より中村を分てりと云、
 鷲尾明神社 上中下三村の鎭守なり、鷲尾といへど、鷲明神を祭りしものなりと云、
 末社 淺間 ○辨天社 ○八幡社 以上の四社は共に上分にあり、

「埼玉の神社」による解説では以下の説明がある。
 当社は『新編武蔵国風土記稿』に「上中下大越村の鎮守なり、鷲尾といへど、鷲明神を祭りしもの」とある。往時真言宗妙雲山宝幢寺持ちとされ、明治以前は現社務所が同寺末の西行寺で、当社の直接管理に当たっており、享保四年の石鳥居にその寺名が残されている。
 昭和七年覆屋改築の際に見つかった棟札には「延享二年八月本殿改築 宝暦三年厨子造営 文政八年九月幟寄進 文政十年浅間神社創建」などが記されていたが、昭和四十四年社務所改築の折に紛失している。
 祭神は「天日鷲命」であるが、本来「天穂日命」であったものを、時の領主であった尾沢某が自分の姓から「尾」の一字を入れて、社名を「鷲尾」に改めた時に、祭神名も変えたと伝える。しかし、この祭神変更は、江戸期北埼玉一帯に綿が広く栽培され、青〇の名で知られる織物が盛んに行われていたことから、尾沢某が木綿作り、紡績業創始の神である天日鷲命を奉斎したものと思われ、現在も尾沢某が奉納したと伝える宝永四年の社号額が残る。
 当社には字宮西の今宮神社、字中内の御嶽神社二社、字馬場の白山神社、字前田の伊奈利神社・天神社を明治四十四年から大正二年までに合祀した。境内には安産子育ての信仰のある宣言者のほか八坂神社、湯殿神社、今宮神社、稲荷神社、天神社、神明社、弁天宮が祀られている。
        
                    本 殿
 また大越の氏子は祭神名が鷲であるためか、鳥(ニワトリ)は食べなかったといわれ、家で飼っているニワトリが年をとると鷲尾神社の境内に放したという。このほか、大越では正月三が日はうどんを家長が打ち、四日から餅を食べるという風習があり、三が日に餅を食べるとオデキができるといって、これを戒めたという。
 
  社殿右側に祀られている境内社・浅間社か       浅間社の右隣に祀られている八坂神社
        
              境内に祀られている石祠群。詳細不明
 731日と81日に行われる「名越祭」は「祓い祭」とも呼ばれている。この祭りは鎮座地である中内の氏子へ日頃の奉仕に対する労賃として始められ、収益は中内に還元される。祭りの1週間前に輪くぐりの材料となる真菰(まこも)を刈り、各戸へ招待状と人形(ひとがた)を配る。31日真菰で輪をつくり、神職があらかじめ集めておいた人形を持参して輪をくぐり、祓いを済ませた後神札を配る。嘗ては翌日の午(うま)の刻に神職が輪と人形を流したが、現在は河川の汚染防止の為お焚き上げをしているとの事だ。
        
                参拝終了後木陰の場所に戻り、一旦休み、鳥居方向を撮影。


 大越鷲尾神社から240m程北側で、利根川右岸の土手付近に大越樋口伊奈利神社が鎮座している。境内は決して大きくはないが、コンパクトに纏まった社殿やその手前に設置されている石碑二基の立派さ、また社殿の奥に並んで祀られている庚申塔や石祠等を拝みながら、なかなか立派な社と言う印象を持った。
 なにより境内の手入れが行き届いていて、地域の方々の社に対する崇敬の念を充分に感じさせる社でもあった。当初は立ち寄る予定はなかったのだが、何かのご縁で手繰り寄せられたもとの感じ、ありがたく参拝させて頂いた次第だ。
 但し周辺には駐車スペースは全くない様子。路駐して急ぎ参拝を開始した。
        
               ・所在地 埼玉県加須市大越650
               ・ご祭神 倉稲魂命
               ・社格・例祭等 不明
        
                    鳥居正面
                   鳥居の社号額には「西宮稲荷大明神」と刻まれている。
        
  社殿前には立派な「伊奈利神社 改築記念碑」「椿森稲荷神社碑銘」が設置されている。
                 椿森稲荷神社碑銘
            武蔵國北埼玉郡大越邨字樋口堤上有一社曰
            椿森稲荷一落人民尊信甚厚失不詳何年何人
            之所創建傳言慶安二年一加修繕焉後至天保
            二年社木繁茂良材頗多及伐以建前殿規模較
            大同三年三月罹災而燼失其八月雖再造營舊
            觀頗損後經四十年明治十三年新造萃表〇〇
            石置末社多擴舊規以擧行祭典同十九年官下
            令〇在堤地者無社寺無民家悉除去之是以事
            之關堤地者百方哀願緩其期終至今年不可復
            請焉官亦不許也於是一落相謀推荒木喜太郎
            三井長次郎三井清藏荒木重郎次四氏為幹事
            以永遷社之地初雖捧三井楠吉氏之屋後低窪
            不可以祭神焉及購三井長次郎氏之地定為社
            地奉一落經營甚勉不日竣功茲卜九月九日大
            奉還社之盛式神之享之以福落民亦不可疑也
             
之亍石永傳子孫係以銘々云(以下略)
               
                   拝 殿 
 当社は椿森稲荷とも呼ばれ、明治初期の利根川改修まで、現社地北側の堤防付近に鎮座していた。古くは木が繁殖していたことが伝えられ、「椿森」の名もこれに由来していたと思われる。
祭神は倉稲魂命。内陣には茶き尼天像(だきにてん)と嘉永七年に奉納された水晶玉を安置している。境内には末社天満宮、御嶽仙元宮、白雲山妙義大権現が祀られている。
 氏子にとって当社は「雨乞いの神」「疫病除けの神」「洪水を防ぐ神」としてご利益があるとされている。
       
            社殿奥に祀られていた庚申塔・石碑・石祠

   

参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内石碑文」等

                



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西ノ谷久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市西ノ谷1141
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧西谷村鎮守(推定)
             
・例祭等 例大祭 415
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0974608,139.5782791,17z?hl=ja&entry=ttu
 鴻茎久伊豆神社が鎮座する場所から一旦国道122号線「鴻茎立山」交差点に戻り、国道に合流後北西方向に進む。この地域は旧騎西町内で、国道左手には多くの工業団地が立ち並んでいて、通称「騎西藤の台工業団地」という。この工業団地の整備に関しては、生産活動及び周辺に及ぼす影響を考慮し、適正かつ合理的に土地利用を図り、質の優れた良好な地区環境の形成保持をするために、公共緑地及び民有緑地を十分に確保し自然と調和のとれた工業地の形成を図っているようで、事実団地内には多くの緑地や公園も整備されている。
 国道を700m程進んだ「西ノ谷」交差点を左折し、その後150m程進んだ最初の十字路を右折すると、西ノ谷久伊豆神社の鳥居及びその社の境内一帯が進行方向右手に見えてくる。
 後日地図を確認すると、騎西藤の台工業団地の北西部に位置しているようだ。
 社の東側に隣接して「西ノ谷十二区集会所」があり、そこの駐車スペースに停めてから参拝を開始する
        
                 西ノ谷久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「西谷村」の解説
 備前堀川を挟んで騎西町場(きさいまちば)の南、上崎村・下崎村の東に続く埋没台地の東端に位置する。田園簿によると田高・畑高ともに一〇二石余、川越藩領。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一九九石余、反別は田方・畑方とも一一町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに四七石余があった。
『新編武蔵風土記稿 西谷村』において、村名の由来として「當村の地形低くして、鴻茎村の方高ければ、其西の谷と云へる意にてかく名づくるよし、今その地形を見るにさもあらんと思はる」と当時の風土記稿編者の認識として記されていたようだ。
        
               鳥居の右側に設置されている案内板
        
                参道から二の鳥居を望む。
 埼玉県加須市に鎮座する玉敷神社がかつて「久伊豆明神」と称しており、総本社とされている。祭神は大己貴命。埼玉県の元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。
 加須市には、旧騎西町に鎮座する久伊豆神社の総本社とされる玉敷神社を含め、市内7社あるうちの1社で、玉敷神社に最も近い社。
        
                    二の鳥居
       
       二の鳥居の先で、参道右側に聳え立つケヤキの大木(写真左・右)
        加須市保存樹木(ケヤキ・幹回り245.173㎝)で、指定番号 30
        
               参道左側に祀られている石碑二基。
 左側には「青龍大日大聖不動明王」、右側の石碑の中央部には「開聞覺明靈神」と刻印されている。
      
   石碑二基の並びは、解読不明の石碑(写真左)と青面金剛の庚申塔(同右)が建つ。
 庚申塔基壇部の一対の彫刻が興味を引く。火を起こしているのか、それとも笛を吹いているのか。
日本では各地に石造の庚申塔が多数遺り、そこには「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に青面金剛像が表されている例が多いのだが、この像はそれに該当しない。不思議な像である。
        
                                                              拝殿兼本殿覆屋 
 久伊豆神社 例大祭 四月十五日
 当社は大己貴命を主祭神とし、福徳を授ける神として崇敬され、くいず神社とも呼ばれる。
 当社の由来は不詳であるが、一説には加藤家の先祖が祀った神を、いつの頃からか村人が敬うようになったという。加藤家の先祖は北条氏の家臣であったが、小田原落城後、当地に住みついたと伝えられる。宝暦六年(一七五六)に社殿を再建した棟札があったことから、その創建はかなり古いものと思われる。
 拝殿は入母屋造りで、明治四十一年に合祀した八幡神社と大六天社が祀られている。
 境内には享保八年 (一七二三)銘の庚申塔がある。これは一つの顔と、八本の腕を刻む、 特異な青面金剛像となっている。
                             正面鳥居右側にある案内板より引用
『新編武蔵風土記稿 西戸村』には案内板に記されている「加藤氏」に関して詳しい記載がある。原文にて紹介する。
 當家者次郎左衛門
 加藤を氏とす、先祖は源左衛門と稱し、小田原北條家に仕へしが、北條家滅亡の時討死す、よりてその甥源次郎をして、源左衛門が娘福の後見すべき旨、氏政より文書を與へられしかば、源次郎福を伴ひて民間に跡か隱し、夫より當村に來り住せり、其後寛永九年八十餘にして卒す、福その跡を相續し、夫より連綿して今の次郎左衛門に至れりと云、その所藏の文書左の如し、
 今度上總行之砌、於殿太田源五郎越度割、其方伯父賀藤源左衛門見討死候、誠忠節不淺候、於氏政感悦候、然間一跡福可相續、然共只今爲幼少間福成人之上、相當之者妻一跡可相續條、其間者源次郎可有手代者也、仍如件
 永禄十年丁卯九月十日 氏政(花押)
           賀藤源左衛門息女
            
           
賀藤源次郎殿
        
                                     
拝殿覆屋内部
 
 西ノ谷十二区集会所の南側には「いぼとり地蔵」というお地蔵様がポツンと祀られている(写真左・右)。
 町指定有形民俗文化財 いぼとり地蔵
 この地蔵は、いぼとりに効用があることから「いぼとり地蔵」とよばれ、信仰されている。
 像容は、半跏像(左足を垂れ下げた形)で、京都壬生寺(みぶでら) 地蔵の系統を受け継ぐものと考えられる。
 銘文から、享保(きょうほう)三年(一七一八)に長谷川弥市という鋳物師(いもじ)の手によって造られたことがわかる。
 また、衣の部分が鋭く刻まれていることなどから、原型は木製であったらしく、原型の作者も相当な仏師であったことがうかがえる。
 加須市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                            拝殿覆屋から境内を望む。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」
    Wikipedia」「境内案内板」等

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