古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

三俣諏訪神社

 現在の利根川の流れは、大水上山を水源として関東平野に入ると、北から東へ流れる「一本化」された川筋であるが、中世以前の利根川は、現在のように銚子市で太平洋に注ぐ形態を取っていなかった。当時は埼玉県羽生市上川俣で東と南の二股に分かれた後、南への分流(会の川)は南東に流路を取り、加須市川口で合流後再び本流となり現在の大落古利根川の流路をたどり荒川(現在の元荒川)などを合わせ、江戸湾(東京湾)へと注いでいた。
 このように嘗ての利根川は派川が多く「八百八筋」の如く乱流していて、尚且つ秩父山地から東側に流れる荒川も利根川と越谷(埼玉県)付近で合流する時もあり、一度大雨が降り始めると面積の狭い江戸湾(東京湾)では全て吸収しきれず、現在の埼玉東部から東京東部地帯は大湿地帯となっていた。
 天正18年(1590年)の徳川家康江戸入府後、利根川の河道を付け替える工事が始まった。世にいう「利根川東遷事業」である。その目的として、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北と関東との交通・輸送体系を確立すること等に加えて、東北の雄、伊達政宗に対する防備の意味もあったといわれている。
 利根川東遷事業は、約60年間にわたって行われた大事業であるが、利根川の流れを変えるだけでなく、堤防も造成したり、農業用の用水路をつくるなどの工事も同時に行なわれた。
 その第一歩となった事業が「会の川」締め切り工事である。
 会の川(あいのかわ)は、埼玉県羽生市から加須市街地を流れる河川であり、利根川の大きい旧分流の一つで、会の川用悪水路(あいのかわようあくすいろ)とも呼ばれる。
 三俣諏訪神社は加須市街地で、会の川の北側近郊に鎮座している。一見して石垣のような頑丈な基礎で補強し、積み上げ、その上に社殿がある姿を見ると、この社も川の氾濫に備える対策を施していて、往時の水害の惨状に思いを巡らせたものである。
        
              
・所在地 埼玉県加須市諏訪184
              
・ご祭神 健御名方命
              
・社 格 旧三俣村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例大祭 827
   
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1307296,139.5968783,20z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道128号熊谷羽生線・同38号加須鴻巣線を通り、行田市を抜け、加須市街地方面に進む。「加須警察署前」交差点の先で、進行方向左側に三俣諏訪神社は鎮座している。県道沿いに鎮座しているので紹介しやすい社である。但し専用駐車場はないので、近郊にあるコンビニエンスに停めるしかない。勿論参拝前には買い物をすることは忘れていない。
        
                           県道沿いに鎮座する三俣諏訪神社
 利根川は羽生の川俣より南流し、加須市内に入って川幅を広げた。「三俣」という地名は「鬼島」「中島」「明智島」の州が流れを三つに分けていたことによるという。加須市街地を流れる会の川は嘗て古利根川と呼ばれ、一説によると利根川の本流ともいわれ、かなりの大河だったようだ。現在は近現代の整備により穏やかな流れを見せるが、嘗ては乱流であったのであろう。加須市内の社の多くがその社殿を高く積んでいるのは、川の氾濫から守るためであったと思われる
                                                        木製の二の鳥居 
 加須市街地の一角に鎮座しているからか、周囲の社叢林は少なく、陽光差し込む明るい社という印象。
『日本歴史地名大系』での 「三俣村」の解説では、「南は久下村・加須村と会の川を境に対し、北は手子堀川を限る。旧高旧領取調帳や「郡村誌」では上三俣村・下三俣村の二村として記載されているが、田園簿や元禄郷帳・天保郷帳では一村として載る。分村時期は幕末から明治初頭と考えられるが、元禄五年(一六九二)の質地証文(梅沢家文書)や同一四年の田地寄進証文(龍蔵寺文書)には下三ッ又村・上三俣村と記されており、元禄期頃から上・下に分けてよばれることもあった」とあり、江戸時代・元禄期は、下三ッ又村・上三俣村と分かれていたようだ。
 
             拝殿前に屹立するご神木(写真左・右)
 三俣諏訪神社の南西近郊には龍蔵寺がある。
 この龍蔵寺は、文和4年(1355)に教蔵上人によって開され、江戸時代には徳川幕府から寺領22石の所領安堵の朱印状が与えられたという、歴史ある寺院である。
 境内中央にそびえ立つイチョウの木は、高さ10mにも及ぶ樹齢670年の老大木である。龍蔵寺の縁起文によると、教蔵上人が人々を悩ませ続けていた約300mの白龍を、法力によって昇天させ、白龍の「龍」と教蔵の「蔵」をとって「龍蔵寺」と名付け、白龍が首をもたげた地に龍蔵寺を建立し、イチョウを植えたといわれている。
 市指定天然記念物 龍蔵寺の大銀杏
 この大銀杏は、幹回り四、三メートル、高さ十メートルで、昭和五十一年の指定時には高さ五十メートルをはかる大木であった。
 龍蔵寺縁起文に、寺の創建と大銀杏を植えた経緯が記されている。
「昔、この地に棲む怪物()が人々を悩ましていた。布教途上の教蔵上人が人々を救おうと、女性の姿をした鬼に、十念を授けたところ白龍となって天に上り、人々も鬼も救われたという。白龍の頭があった地に人々は龍蔵寺を創建し、また尾があった地に、弁財天を勧請した。 龍頭・龍尾があった場所に文和四年(一三五四)三月にそれぞれ銀杏を植えた」
 なお、龍尾のあった場所という諏訪神社境内の銀杏は、落雷にあい枯れている(以下略)
                                「龍蔵寺 案内板」より引用

 現在のご神木は、落雷により枯れてしまった銀杏に代わって植えられたものという事になる。
『新編武蔵風土記稿 三俣村条』によると、三俣諏訪神社は「諏訪辨天合社」として記載があり、社の別当寺は「光徳院」であるが、どちらも「白竜」伝説を共有している龍蔵寺との関係性が非常に深いと思われる。
*詳しくは「龍蔵寺の歴史」を参照。
 諏訪辨天合社
 諏訪社は正徳四年九月、大岡土佐守政春の勧請にして、村の鎮守なり、光徳院の持、
 龍藏寺
 淨土宗京都知恩院の末、無着山龍光院と號す、元は佛眼山と號せし由、寺領二十二石は慶安二年八月賜へり、本尊阿彌陀は立像四尺餘、慈覺大師の作なり、當寺は文和四年の草創にして、開山敎藏上人明德元年正月二日寂す、この敎藏は淨土傳燈總系譜敎藏慈智翁とのす、是なり、
鐘樓 正德五年の銘を鐘に之れり
                          『新編武蔵風土記稿 三俣村条』より引用

        
                     拝 殿
 鎮守諏訪神社緣起
 後村上天皇の御宇に當り忠臣多く匪躬の節に斃れ奸雄横行して天下麻の如く亂れ皇室式微し人民塗炭に苦めり當時本村の南部には利根川貫流し沿岸彼處此處厪に韜晦せる士人避難せる農民等の移住せしを見るのみにして開拓未だ普からず
 草萊蓬々たる原野多かりき利根の河中に三島あり鬼島中島明知島といふ奔流為に三叉を成せり爰に三俣の渡口あり
 適々龍藏寺の開山敎藏上人行脚して津頭に來り景勝を賞覽せらる舟予備に地理を語りて鬼島に及び曰く島内には怪物棲息して人を惱すを以て敢て行くものなしと
 時に上人予は雲水の身なれば願はくは衆生濟度の為め所謂怪物を得脱せしめんと乃鬼島に渡りて柴の庵を結び称名念佛七日に及べば夜中女性來りて十念を授けられんことを乞ふ上人徐に何者なりやと反問せしに忽百丈の大白龍身と化し十念を受けて見る見る形ヲ失ふ
 始め白龍の首を擡げし所には龍藏寺を創立して菩提寺とし蜿蜒七曲りして尾の止りし所には諏訪神社を勧請して氏神と仰けり是實に正平十年三月なり
 降て 中御門天皇の御宇正徳四年九月に至リ領主從五位下大岡土佐守藤原政春上諏訪神社を合祀し同時に家内和合の為め主夜神社を建立して攝社とす上社は建御名方命下社は事代主命を祭リ主夜神社は屋船命を祭れり
 爾来神徳の光被する所氏子愈々榮えて窮りなし乃齋戒沐浴して文獻に徴し舊記に據り謹みて之が梗概を記述すと云爾(以下略)
                                「鎮守諏訪神社緣起文」を引用
 この伝承は、古代の「ヤマタノオロチ伝説」同様、利根川(現会の川)の治水にまつわる伝説と考察できよう。
        
                    拝殿の扁額
 
       拝殿の扁額周囲には、幾多の奉納額が飾られている(写真左・右)。
『新編武蔵風土記稿』等に記載されている「大岡土佐守政春」とは、江戸時代「大岡越前守忠相」として有名な「大岡氏」の一族である。
 大岡氏は、摂政関白九条教実の庶流が,三河国大岡村に移り,地名を姓としたことより始まるといわれる。初代忠勝のとき,徳川氏の祖,松平清康・広忠の2代に仕え,その子忠政も家康に仕えて軍功をたてる。因みに忠勝の「忠」の諱は松平広忠に由来し、大岡氏代々の通字となった。その子忠行,忠世,忠吉の3系に分かれるが,忠吉の長男忠章の系統から忠世家に入った忠相が万石に列せられて西大平大岡家をおこし,同じく忠吉の末子忠房の系統から忠光がでて,側用人となり2万石をもらって岩槻大岡家をおこした。
 大岡土佐守政春は、忠吉の次男(三浦)吉明の系統であり、「大岡土佐守家」と称す。武蔵・上野国に領地を持ち、石高は2,000石。政春は戸田宗家・政光の3男光忠を祖とする分家である戸田政次の三男であるが、1660年に15歳で相続し、「三浦」から「大岡」に復姓した。その後、数回の加増により2,000石となる。1718年に73歳で隠居し、76歳で亡くなっている。
「鎮守諏訪神社緣起」では大岡土佐守政春はこの地域の領主であったというが、それを証明する書簡等は見つからなかったので、三俣諏訪神社との接点は判明しなかったが、「緣起」では、正徳四年(1715)大岡土佐守政春が信州諏訪から改めて諏訪社を勧請し、下社に神像を奉納したという。
        
           三俣諏訪神社の南側並びに鎮座する金毘羅神社。
      社の奥の両側には、「浅間大神」「小御嶽大神」の石碑が祀られている。
        
                             社殿からの一風景
 
  二の鳥居から北側に伸びる参道もあり、その参道右側沿いに「神庫」が並んで建てられている(写真左)。そしてその先には、社号標柱も立っている(同右)。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」埼玉の神社」加須市HP」
    「改訂新版 世界大百科事典」「Wikipedia」「龍蔵寺案内板」等

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戸川神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市戸川808
              
・ご祭神 軻遇突智命 市杵嶋姫命 湍津姫命 田霧姫命
              
・社 格 旧寺ヶ谷戸村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭 1015
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1581039,139.5936007,16z?hl=ja&entry=ttu
 町屋新田天照皇太神宮から一旦東北自動車道方向に戻り、自動車道脇の道路を北西方向に1㎞程進む。埼玉県道366号三田ヶ谷礼羽線と交わる信号のある十字路を左折し、自動車道下を潜り、直後の十字路を右折、400m程進んだ先の進行方向左側に戸川神社の社号標柱が見えてくる。
        
              東北自動車道脇の道路に面して建つ社号標柱
       
                                           社号標柱の脇道の先に戸川神社は鎮座する。
       
                                                             戸川神社正面
 戸川神社の鎮座する大字戸川は、明治時代に寺ヶ谷戸村と広川村とが合併して成立した比較的新しい地域である。但し『新編武蔵風土記稿 寺ケ谷戸村条』並びに『同 広川村条』において、広川村はもと寺ヶ谷戸村の一部であり、慶安元年に分村したものであると伝えている。
『新編武蔵風土記稿 寺ケ谷戸村条』
「當所は志多見村の民佐左衛門と云者來りて開墾し、寛永の頃までは寺ケ谷戸新田と唱へて、志多見村に指揮せしが、何の頃よりか一村となれり」
愛宕社
 村の鎮守とす、地蔵院の持ち、
・地蔵院
 新義眞言宗、上羽生村正覺院末、愛宕山と號す、本尊地藏を安ず、開山堅證延寶七年十二月廿二日寂す、藥師堂
『新編武蔵風土記稿 廣川村条』
「元は寺ケ谷戸村の内なりしを、慶安元年分村すと云傳ふれど、元禄の國圖(*国図)に寺ケ谷戸枝郷廣川村と記したれば、全く一村となりしは後年のことゝ見えたり」
辨天社
 村の鎮守、村民の持、
『新編武蔵風土記稿』によると、当地は志多見村の民である佐左衛門が開いた土地であり、寛永年間までは「寺ケ谷戸新田」と唱えていた。また寺ヶ谷戸村の鎮守は愛宕社で、真言宗愛宕山地蔵院が別当であり、広川村の鎮守は弁天社で、村持ちであった。
その後1909(明治42)に広川村の弁天社を合祀し、戸川神社に改称したと云われている。
        
                       陽光が差し込み、開放感のある境内
   境内も綺麗に整備され、日頃の氏子・総代の方々の社に対する崇敬の思いを感じられよう。
『日本歴史地名大系』 での「寺ヶ谷戸村」の解説
 [現在地名]加須市戸川
 南は葛西用水路を境に下谷(しもや)村と対し、東は広川村。羽生領に所属(風土記稿)。元和七年(一六二一)羽生領代官大河内金兵衛久綱の命により、志多見村名主松村佐左衛門の手で開発されたと伝える。
当初は佐左衛門(さざえもん)新田と称されていたようで(正保二年「佐左衛門新田年貢割付状」松村家文書ほか)、田園簿では寺ヶ谷新田と記される。
『日本歴史地名大系』では、元和七年(一六二一)羽生領代官大河内金兵衛久綱の命により、志多見村名主松村佐左衛門の手で開発された地域であることが記されている。『新編武蔵風土記稿』よりも詳しく調べているようだ。
        
                     拝 殿
 加須低地上に鎮座する多くの社は、水害対策のため頑丈な石垣で補強された基盤上に鎮座している。この社の配置一つ見ても、地域の歴史の一幕を顧みることができよう。

 合祀記念之碑
 神ヲ敬ヒ神ヲ崇メ奉ル念ノ厚キハ我国民ノ良習ナリ頼リテ以テ国ハ穏力ニ民ハ安ラカナリ仰々当大字ハ広川寺ヶ谷戸二箇村ノ連合ヨリ成り而シテ古来愛宕神社ヲ以テ寺ヶ谷戸村ノ村社とし厳島神社ヲ以テ広川村ノ村社トス両社ノ神徳弥高ク各自ノ信仰最モ深カリシナリ〇ニ政府我同村社以下無格社ノ数多ク〇モスレバ神威ヲ瀆シ奉ランコトヲ恐レ社寺併合ノ訓令ヲ発セラレ此ニ於テ両社氏子総代ノ者率先シテ其併合ヲ図り遂ニ其ノ議ヲ決シ明治四十一年十一月三日出願シ同四十二年七月八日付指令収第六〇五号ヲ以テ許可セラレ同年九月十五日全ク合祀ヲ了シ社名ヲ戸川神社ト改称ス今ヤ本社ノ資産ヲ増加シ維持ニ困難ナカラシメ以テ崇敬ノ実ヲ挙ゲントス庶幾クハ将来永ク赫々タル神徳ヲ拝シ奉ランコトヲ得ンカ〇ニ合祀祭ヲ行フニ当リ碑ヲ建テテ記念トス
*〇印は旧字体であり、また印刷の所々がハッキリ読めず、解読できませんでした。
 
 拝殿の扁額には「愛宕山」と表記されている。           本 殿
 江戸時代当時の面影を残す貴重な額である。  本殿の左側奥には稲荷大明神の石祠二基あり
 
 社殿右側には幾多の石祠・石碑等が祀られる。  石祠・石碑の並びに4体の青面金剛像がある。
       
  境内社・姫宮社(多気比羅神社)、その隣には神厩舎があり、木製の白馬の像がある。
 この境内社は、埼玉県桶川市の元荒川沿いにある「篠津多気比売神社」と関係のある社と考えられる。江戸期「姫宮社」と称し、別名「姫宮大明神」とも云われ、その後明治初年社号を「多氣比賣神社」と改称したという。
       
 社の裏手、つまり北側には中川が一直線に流れている。河川改修の結果このような水路になったと考えられるが、嘗ての中川の周囲は後背湿地と埋没台地の谷が複雑に絡んだ地形でもあったという。因みに社の南川は葛西用水路が流れていて、河川・用水路に挟まれた地に鎮座している。
 戸川神社の北側隣には、へら鮒管理釣り場の「加須吉沼」が在り、周囲にも同様の沼が点在する。所々に沼もあるのは、かつてこの付近が沼地だった頃の面影を残す地形的な理由もあるのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内碑文」等

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町屋新田天照皇太神宮

 2010年(平成22年)323日、(旧)加須市・北埼玉郡騎西町・大利根町・北川辺町と新設合併し、新たに加須市となった。合併後の加須市の面積は133.30 km²で、埼玉県では秩父市・さいたま市・飯能市・小鹿野町・熊谷市・深谷市に続き第7位の広さである。
 加須市は、北埼玉郡の旧3町を加えたことにより、北東方向に長く伸びた市となったわけであるが、結果的にこの市の中央部に位置してしまった地域が、市の南北に貫く東北自動車道・加須インターチェンジがある地点から北西方向にある前屋新田地域周辺なのである。
 この地域一帯は利根川が運んだ土砂の堆積により形成された加須低地が一面に広がり、また利根川やその支流、用水路に育まれた肥沃な土と豊かな水を利用した昔ながらの田園風景が今でも広がっている。

        
             
・所在地 埼玉県加須市町屋新田622
             
・ご祭神 天照皇大神
             
・社 格 旧町屋新田村鎮守
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1506442,139.6047668,16z?hl=ja&entry=ttu
 多門寺愛宕(阿多古)神社から東北道自動車道脇の道路を北西方向に進み、2.7㎞程先のY字路を右折する。田園風景を眺めながら400m程先の手子堀川を越えたすぐ左手に、町屋新田天照皇太神宮のこんもりと盛り上がったような形状をした社叢林が見えてくる。
        
                 町屋新田天照皇太神宮正面
『新編武蔵風土記稿 町屋新田村条』
「町屋新田は本村の名主三左衛門の先祖六蔵といへるもの、寛永の始本村の百姓等をすゝめて開設せし地にて、其開けざる以前は鶴ノ塚といひし原野なりしといへり、されど正保及び元禄の改にも此名を載ざれば、一村となりしは元禄後なること知らる、」
『新編武蔵風土記稿』には、「町屋村(本村)」の名主の祖先が、他の百姓等の斡旋により、「町屋新田」を開墾・開設したことが記載されている。但しこの文章だけでは、お互いに隣接していたか、離れていたかどうかを証明する事項は書かれていない。但し開墾する以前は「鶴ノ塚」という原野であったこと、「町屋新田村」は元禄以降であり、それまでは、その「鶴ノ塚」の名称すらない地域であったという事だ。
 筆者としては、『新編武蔵風土記稿』の「町屋村」の後に「町屋新田村」が掲載されているので、当然隣接している地域であると思っていたが、念のため、現在の地図で確認したところ、お互いの地域は直接接しておらず、東西に3㎞以上も離れている。現実に「町屋村」の人々は開墾するために、東側に隣接している「岡古井村」「下谷村」を通過しなければ当地に辿り着けなかった。当時の方々は、どのような気持ちで離れた場所まで移動し、開墾したのであろうか。
 因みに現在の行政区画上においても、加須市に属している町屋新田地域に対して、町屋地域は羽生市に属している。
 
  境内から外れた道路沿いに設置された案内板  「鶴ヶ塚古墳」と表記された看板の左側に
                          鳥居に通じる正面階段がある。
        
         加須低地の一角でありながら、境内全体が高台上にある。
 案内板を確認すると、「鶴ヶ塚古墳」上に鎮座しているとの事だ。但し「古墳」と表記されなければ分からない程、墳頂はかなり削平され、変形しているようだ。
『新編武蔵風土記稿 町屋新田条』において、嘗てこの地域は「鶴ノ塚」という原野であったというが、同時に古墳時代には「鶴ヶ塚古墳」もあったわけであるので、全く人が入ったことがない未開の地ではないと思われる。ただ古墳時代に住んでいた人々の痕跡が、その後の河川等の水害や、時代が下るにつれて風化し、無くなってしまったとも考えられる。
        
                     拝 殿
 
 拝殿前に設置された「鶴塚の大松」の案内板     拝殿奥の祠脇に掲示されている「告」板
「鶴塚の大松」
 この松は、加須市市内で唯一の大樹と称され、樹齢約三百年余といわれ、目の高さで木の幹の太さは直径1.2m余り、大きな亀甲型の皮肌で四方に張り出した枝振りは自然に整い昔を思わせる趣を成している。
 この大松が戦前は数本あったが、風害や用材として代られた。
 鶴塚周辺は、水禽群生の地であったのを羽生領代官大河内金兵衛久綱が、元和七年(1621)羽生町大字町屋の名主岡戸三左衛門に命じ開墾して町屋新田と称した。
 鶴塚は円墳で凡そ千五百年前のものである。昭和五十四年三月 加須市教育委員会
                                      案内板より引用


「嗚呼此処に三百五十有余年老松遂に逝く後生に一片の松魂を残さんとす」
 昭和五十六年一月吉日氏子中
『新編武蔵風土記稿 町屋新田村条』では、本村の名主三左衛門の先祖六蔵が、他の百姓等の勧めにより、「町屋新田」を開墾・開設したことが記載されていたが、案内板には、羽生領代官大河内金兵衛久綱が、元和七年(1621)羽生町大字町屋の名主岡戸三左衛門に命じ開墾して町屋新田と称した、と解説している。
 地域の方々の自主的な開墾よりは、幕府直轄機関である羽生領代官からの命令で行ったという案内板の説明のほうが遙かに説得力があると思われるが、如何であろうか。
 
 拝殿と本殿の間に祀られている「
鶴塚の大松」   注連縄を巻き、現在も祀られている「大松」
        
                                      本 殿
 
  社殿左側に鎮座する境内社・詳細不明    社殿右側に並列して祀られている石祠3基
  鳥居の左側には「水量杭紀念碑」がある。      左から天神宮・天満宮・大(天)満宮

 この「水量杭紀念碑」は、明治43(1910)8月に大洪水が発生して甚大な被害となり、将来にむけて注意を促すため、石碑の上面がこの大洪水時の水位となるよう設置されたという
 杭頭の横線が当時の水位を表しているので、古墳墳頂に鎮座している社も被害に遭ったのであろうし、周囲一帯は水面下となったのであろう。恐ろしいくらいの水害だったことが分かる。
        
                                 境内社・浅間神社
        
 町屋新田天照皇太神宮の南側で、周囲一帯広大な水田地帯の中を、用水路のように真っ直ぐに流れる手子堀川。河川管理上は手子堀川は「てごぼり」と読むようだが、地元の人々は[てこぼり]と呼んでいるようだ。
        
                        道路を隔てた社の北側にある「
十九夜塔」



参考資料「新編武蔵風土記稿」埼玉県 自然災害伝承碑一覧「加須市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

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多門寺愛宕(阿多古)神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市多門寺578
              
・ご祭神 軻遇突智命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 多門寺の獅子舞 72324
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1285418,139.6284918,16z?hl=ja&entry=ttu
 北篠崎熊野白山合殿社から北西方向で東北自動車道脇の道路を700m程進むと、多門寺愛宕(阿多古)神社に到着。時間にして数分とかからない程近い。葛西用水路の北側に鎮座する
 社の正面入口隣に駐車スペースあり。
        
                            多門寺愛宕(阿多古)神社正面
『日本歴史地名大系』 「多門寺村」の解説
 [現在地名]加須市多門寺
 小浜(こばま)
村の東にあり、北を手子堀(てこぼり)川、南は会の川で限られる。羽生はにゆう領に所属(風土記稿)。田園簿によれば田高三一八石余・畑高三七〇石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本二家の相給。「風土記稿」成立時は旗本三家の相給で、幕末の改革組合取調書でも同じ三家の相給。
 多門寺の地名は、その昔、この地域に「多聞寺」と称する寺があったことから名付けられたが、この寺は、天生年間に大水に流されてしまい、現存はしていないという。
        
                     社の参道は長く、数多くの灯篭が奉納されている。
         ゆったりとした空間の中にも、厳粛な気持ちで参拝を行う。
        
                             朱を基調とした二の鳥居
        
                    二の鳥居の社号額には「「阿多古」と表記されている。
 全国に約900社を数える愛宕神社の総本社は、京都市右京区嵯峨愛宕町(旧山城国・旧丹波国の国境にある愛宕山山頂)に鎮座し、地元の人は「愛宕さん」と尊称されている。愛宕山は8世紀初頭の大宝年間に、修験道の開祖であるとされる役行者と加賀白山ゆかりの僧泰澄によって開かれたとの伝承を持つ霊仙であり、愛宕神社の主祭神は火の神である迦遇槌命を祭る。
 ところで、平安中期に記された『延喜式神名帳』には、「丹波国桑田郡阿多古神社」と記されていて、この愛宕神社の旧称は「阿多古神社」であった。
 この「愛宕・阿多古」の由来は幾つか説があるが、はっきりしたものはない。筆者が調べたものを紹介すると、以下のようだ。
愛宕の名は、その祭神迦具土(かぐつち)が生まれるにあたって母神(いざなみ)尊を焼き死なしめた「仇子(あだこ)」であったことにちなむと俗説されているが、むしろ基は「側面・背面」を意味する「アテ」に由来し、その神は境を守る神であったのではないかともいわれ、京都では王城鎮護のためにその西北の山上にまつられたものという説。
「愛宕」という地名は「愛宕」「阿多古」と書くことが多く、接頭語の「ア」と高(高所)を意味する「タコ」を表す地名ともいわれている。 そして「愛宕山」という場合は「阿多古」という神名にもとづくもので、愛宕神社という火の神、火伏の神を祭っていて、愛宕信仰による伝播地名の一つという説。
 
 二の鳥居の左側には「多門寺の獅子舞」の標柱(写真左)、拝殿手前にもその案内板がある(同右)。
 加須市指定無形民俗文化財 多門寺の獅子舞 昭和三四年六月指定
 江戸時代中期に愛宕神社の創立に端を発したと伝えられる。
 毎年七月二三日より二五日までの三日間行われ、二三日及び二四日は社殿前にて舞い、二五日は多門寺各戸を回っていたが、現在は二三日に近い土曜日に奉納を行い、二四日 に近い日曜日に各戸を回っている。
 能の演目は「雌獅子隠し」(初庭)「笹ぬき」(中庭 )「綱きり」(末庭 )がある。
 用具は獅子面三・花笠四・高張提灯二・万灯一・楽器は横笛四・太鼓三を使用し、五穀豊穣商売繁盛悪魔降伏を祈って獅子舞が行なわれる。
 獅子頭に宝暦三(一七五三) 「新熊」と称する塗師が塗替えたという記録があり、明治時代頃まではその子孫が多門寺にいたといわれている。
 平成二四年三月 加須市教育委員会
                                      案内板より引用
   
基壇下で参道の両側に配置された境内社。左側に御嶽神社(写真左)、右側に稲荷神社(同右)
        
                          石垣のような基壇上に鎮座する拝殿
「埼玉の神社」によれば、天正の末に古利根川の堤防が決壊し村中が濁流に押し流され荒廃した。文禄年中、上新郷川を塞ぎ、これより村内を開墾した。その折、現在愛宕山と称する古塚に慶長年中、愛宕神社を勧請し鎮守として祀ったという。
        
             社殿の左側に並列して祀られている境内社群
           左側から三峯神社・皇大神宮・金比羅宮・天神宮
 
          本 殿           社殿奥に祀られている浅間神社等の石祠
        
                           社殿から参道方向を撮影

 北篠崎熊野白山合殿社同様に、正面には東北自動車道の建築物が見える。しかし、二基の鳥居、及び幾多の鳥居が並ぶ参道と社叢林が一種の結界となっているようにも見え、その境内全体が別世界のような錯覚を参拝中覚えてしまう程趣ある社。境内も綺麗に手入れされていて、日頃の氏子・総代の方々の信仰心の賜物でもあろう。
 山岳の斜面に鎮座する社とは違った素敵な社に出会えた感謝の念を祈りながら、心穏やかに参拝を終了することができた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「高梁市HP
    「『国史大辞典』 1 国史大辞典編集委員会/編」「加須市HP」「Wikipedia」
    「加須インターネット博物館」「境内案内板等」等
 

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北篠崎熊野白山合殿社

『日本歴史地名大系』 「北篠崎村」の解説
 西は多門寺(たもんじ)村、北は手子堀(てこぼり)川を境とし、南は会の川を境に南篠崎村と対する。永禄三年(一五六〇)以前の一二月二七日付足利晴氏判物(鷲宮神社文書)に「太田之庄篠崎之郷」とみえ、同地は古河公方足利晴氏により鷲宮神社(現鷲宮町)に寄進されている。また、年欠五月三日の鷲宮神領書上(旧鷲宮神社文書)にも「卅八貫文 篠崎」とあり、「此物成永銭夏秋四十八貫 但是も年ニより申候」と注記される。文禄四年(一五九五)八月の同社修復に伴う棟札には神領のうちに「篠崎並尺子木北篠崎」とあり、「北篠崎」がみえるが、慶長一七年(一六一二)の関東八州真言宗連判留書案(醍醐寺文書)では「大田庄篠崎」とある。

        
              ・所在地 埼玉県加須市北篠崎172
              
・ご祭神 熊野神社家都御子命 熊野夫須美命 速玉男命
                   
白山神社…菊理媛命
                                      伊弉諾命 伊弉冉命               
              
・社 格 旧北篠崎村鎮守
              
・例祭等 不明 
   
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1285418,139.6284918,16z?hl=ja&entry=ttu

 国道125号線を加須市方向に進み、市街地内「三俣小学校入口」交差点を左折し、葛西用水路に架かる新造橋を越えた十字路を右折する。葛西用水路に沿って東方向に1.2㎞程進む。その後、東北自動車道の下を潜る道路を抜けてからすぐ先の丁字路を右折して暫く道なりに進むと、左手に北篠崎熊野白山合殿社の鳥居が見えてくる。
 後日地図を確認すると、「東北自動車道加須IC」のすぐ北側に位置する社。北に葛西用水路・南に会の川がどちらも東西に流れ、まさに合流するそのすぐ西側に鎮座する。水利に恵まれた田畑風景が広がる静かな農業地域でもある。
        
                
北篠崎熊野白山合殿社正面
 鳥居のすぐ南側には
東北自動車道が一種壁のように立ちふさがり、外界、特に西部や南部地域との交流を遮るように建てられているようにも見える。
 実際、この鳥居の前にある道路も車通りも少なく、民家も周辺に点在する閑散とした地域の中に、ひっそりと他佇む社といった印象。しかし筆者にとってこの雰囲気は決して嫌いなものではなく、嘗てどの村々にもあったような風景とも思え、一時代前の懐かしさも漂う、この感じが好きである。
 
 鳥居の左隣にある社号標柱(写真左)及び、鳥居の社号額(同右)には、「白山 熊野 両神社」と刻印されている。

 北篠崎熊野白山合殿社は羽生市小松に鎮座する「小松三神社」に関係する社である。
 嘗て元亀・天正年間(1570年〜1593年)に古利根川の堤防が、小松村(羽生市小松)で決壊した際に、小松三社のうち、熊野、白山の両社が押し流された際、金幣並びに本地仏の釈迦如来と阿弥陀仏が当村古利根川堤に漂着し、村民はこれをかしこんで拾い上げ、以来村の鎮守として祀ったのが、熊野・白山神社の起源だという。

「埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父」
 熊野白山合殿社 加須市北篠崎172(北篠崎字本田)
 歴史
 社記によれば、元亀、天正年中大洪水の折、古利根川が小松村で切れ、小松村の小松三社(小松神社)のうち熊野・白山の両社が押し流された際、金幣並びに本地仏の釈迦如来と阿弥陀如来が当村古利根川堤に漂着した。 村人はこれを畏んで拾い上げ、以来鎮守として祀るという。
 別当は初め小松村の修験、次いで本村の真言宗医王寺が務めた。 金幣と本地仏二体は、江戸期、医王寺が管理するところであったが、その後、幣束は紛失し、現在は本地仏のみ当社に安置されている。
 社地は元禄十年検地水帳に免地八反弐畝七歩とある。
 祭神は伊弉諾命・伊弉冉命・熊野夫須美命・速玉男命・家都御子命・菊理媛命である。
また、享保十五年正月二十八日に神祇管領卜部兼敬の宗源宣旨により正一位白山熊野大権現の神階を受けた。
        
             静寂の中にも歴史を感じさせてくれる社 

  参道右側には加須市の保存樹木に指定されている「イチョウ」が聳え立つ(写真左・右)。
  ・指定番号 99番 ・所在地 加須市北篠崎172(熊野白山合殿社)・種類 イチョウ
  ・幹の周囲 265㎝ ・指定年月日 平成27101
        
                     拝 殿
           石垣のような基壇上に鎮座する趣ある社殿である。

 戦国時代、羽生市役所の北方付近には、羽生城という蓮池に浮かぶ平城があり、広田直繁や木戸忠朝兄弟が城主を務めていた。この直繁・忠朝は関東管領・上杉謙信の忠臣で、終始一貫して謙信に仕えた武蔵国で唯一の武将として知られている。
 
史実によると、戦国時代、伊豆国から台頭した後北条氏は、初代早雲・2代目氏綱・3代目氏康と代を重ねるにつれ、着実に関東一円をその勢力圏に属しそうな勢いで、武蔵国の武将の多くも後北条方に従属していく中で、羽生城城主広田直繁・河田谷(木戸)忠朝(後の埼玉郡・皿尾城城主)兄弟は、終始一貫して上杉方に属し、抵抗を続けることになる。
 というのも、小田原安楽寺に安置されている三宝荒神像には直繁と忠朝兄弟の連名で、
「武州太田庄小松末社三宝荒神、天文五年丙申願主直繁、忠朝」
と記されていることから、天文5年(1536年)の時点で直繁が羽生城主を務めていたと推測されている。
『鷲宮町史』では祖父の代から山内上杉氏の配下として活動していた直繁と忠朝の父・木戸範実も含め親子で入城したものとしており、上杉方には武蔵国へ勢力を拡大させようとする後北条氏に対抗するため、羽生城を拠点とする狙いがあったとしている。
 永禄十二年(1569)に越相同盟が結ばれ、上杉方は協定により上野国、武蔵国の羽生領、岩槻領、深谷領などの領有が認められる。翌年に直繁が上野国館林城主を拝領すると、忠朝が羽生城主にスライドした。この間、忠朝は名乗りを木戸姓に戻している。この後、直繁が死没すると忠朝は息子の木戸重朝、直繁の息子の菅原直則との協力関係を強め、後北条勢に対抗した。
 

   社殿の左側に鎮座する境内社、石祠等     社殿奥に祀られている境内社・詳細不明
    詳細不明・琴平大神・堀田大権現
       
               社殿右側で、基壇下に祀られている境内社。御嶽社であろうか。

 元亀二年(1571)に氏康が死去し同盟関係が破綻すると、羽生城は再び対北条氏の最前線の城となった。天正元年(1573)、北条氏政が本格的に羽生城を攻撃すると、忠朝と子の重朝・範秀兄弟は城を固めつつ、謙信に援軍を要請した。
 翌二年(
1574)二月、謙信は利根川対岸の上野国大輪(明和町)まで進軍したものの、増水した利根川を渡河することができず、物資の救援にも失敗した。両軍にらみ合いが続いたのち、謙信は四月にいったん帰国した。同年十月に再び来援したものの、現状では羽生城の維持が困難であることを覚り、閏十一月に羽生城主の忠朝に対して城を破却するように命じ、忠朝は1千余人の兵と共に上野国膳城へ逃れたという
        
                   境内の一風景
 社記では、元亀、天正年中大洪水の折、古利根川が小松村で切れ、小松村の小松三社(小松神社)のうち熊野・白山の両社が押し流され、金幣並びに本地仏の釈迦如来と阿弥陀如来が当村古利根川堤に漂着した、という記録は、史実における「天正二年(1574)二月、謙信は利根川対岸の上野国大輪(明和町)まで進軍したものの、増水した利根川を渡河することができず、物資の救援にも失敗した」事項かもしれない。
        
                       社殿から鳥居方向を撮影。
 東北自動車道の近代的な構造物が正面を通っている、この一見相いれないような新旧の対比が、逆に現代の日本そのものでもあるようにも見える。まあ日本という国柄は、国家の形成時点で、それら違和感あるものまで、全て包み込む豊かな包容力も持ち合わせた国でもあるのだろう。考えてみると、そのような不思議な国は、世界広しと言えど日本以外見当たらないようにも見える。

 最後に白山神社に纏わる面白い話を一つ紹介したいと思う。江戸時代の中期から後期にかけて「歯の神様」信仰が始まったと言われ、白山神社の中には、「歯の神様」として信仰を集める神社もたくさんあったという。
 一説によると、歯が悪くなると口が臭くなる。つまり、「歯が臭い」→「
(歯)+くさ(臭)」、そこから、白山神社が歯の神様になった、というダジャレのような説もある。北篠崎熊野白山合殿社もその一社といい、昭和の初めまでは常に神社に楊枝箱が置かれ、歯痛の者はここから楊枝を一本借りて虫歯に当て、治ればお礼に楊枝を倍返ししたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父
    「加須市HP」「Wikipedia」等
 

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