熊野神社古墳
この古墳群は行田市にある埼玉古墳群より約1世紀前に築かれ、県内における古墳時代の始まりを物語る古墳として注目されている。
江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿 川田谷村』の項には、古墳の存在を示す記述がある。
八幡社
近き年村民社辺の地を穿ちしとき、圓徑七八寸許なる瓶二つを掘出せしが、其中に丹の丸せし如きもの納ありしと云、明器の類なるべければ、墳墓ならん、村民の持、
王子稲荷社
四十年前社傍の土中より石櫃を穿出せり、中に甲冑大刀等数多あり、又圓徑二寸許の玉の如きもの出たる由、今皆失ひて甲の鉢一つ殘したれど、それも半ば毀損せり、こゝも前の八幡の地と同く墳墓などの跡なるべし、
川田谷古墳群は、家屋敷や農地の中にあったこともあり、明治時代になると耕地の拡大によって姿を消していった。その中で、埴輪が姿を現し、墓室である石室が開かれ、副葬品が発見されるようになった。この時代の出土品の一部は、現在も東京国立博物館に所蔵されている。
この地域は中世の河田郷に比定され、古くから古墳が多く存在するところとして知られていた。この熊野神社古墳もその古墳群の一つで、円墳上に社が鎮座している。
・名 称 熊野神社古墳
・墳 形 円墳(最大幅16mの周溝あり)
・規 模 直径38m・高さ6~6.5m
・築 造 4世紀後半(出土土器から推定)
・出土品 勾玉、ガラス玉、管玉、紡錘車、石釧、筒形石製品、
筒形銅器等
*出土品は国の重要文化財に指定
・指 定 埼玉県指定史跡
*熊野神社古墳 昭和42年(1967)3月28日指定
「川田谷古墳群」は大宮台地の西側、荒川を見下ろす標高20m程の台地上にある。調査によって6世紀前半から7世紀後半頃に造られたものが多いことが判明した。荒川の沖積地に向かってとび出している川田谷の台地の三つの支丘を中心に、北から西台(にしだい)・原山(はらやま)・柏原(かしわばら)・樋詰(ひのつめ)の四支群をつくる。
『新編武蔵風土記稿』にも記載があり、近世後期から存在が知られていたが、明治以来大規模な開墾により、多くの古墳が壊された。この時に発見された副葬品や埴輪類の一部は東京国立博物館や地元にある。
熊野神社古墳 遠景
熊野神社古墳は、荒川と江川の合流する台地状にある直径38m、高さ6mの円墳で、円墳上に熊野神社が祀られている。昭和3年(1928)に社殿を改築した際に、玉類、石製品、 銅製品、太刀などの副葬品が出土し、一部は失われたが、それらは国重要文化財として、現在、埼玉県立博物館で保管・公開されている。桶川市歴史民俗資料館では、これらを精密に複製したものを展示している。昭和59年(1984)の発掘調査で出土した土器から、 4世紀後半の県内でも古い時期の古墳であることが確認されている。
熊野神社古墳正面 川田谷熊野神社の案内板
社殿に通じる石段手前に設置されている「埼玉県指定史跡 熊野神社古墳」の案内板
埼玉県指定史跡 熊野神社古墳
熊野神社古墳は、川田谷地域の荒川沿いに多く分布する古墳の1つで、河川交通上野重要な位置にあります。
墳形は円墳で、昭和59年度に行われた調査によって、直径38m、高さ6~6.5m、周溝の幅14~16mであることが確認されました。
粘土槨(粘土で棺を覆って安置したもの)と想定されている埋葬施設は、昭和3年、墳頂部の社殿改修の際、偶然に発見され、玉類、石製品類、筒形銅器など、畿内の古式古墳と共通する多くの副葬品が出土しました。当時の出土遺物は国の重要文化財に指定され、現在は埼玉県歴史と民俗の博物館で保管展示されています。また桶川市歴史民俗資料館では複製品を展示しています。
出土した遺物などからみて、古墳の年代は4世紀後半ごろと推定され、埼玉県内では比較的古い時期に築造された古墳と考えられています。
平成21年12月 埼玉県教育委員会・桶川市教育委員会
案内板より引用
更に『日本歴史地名大系』による 「熊野神社古墳」の解説によれば、「墳丘は盛土の上段部と地山を整形した下段部の二段築造で、焼成前に底部を穿孔した二重口縁の壺形土器のほか器台形土器・坩形土器など五領II式の赤彩された土師器が発見された」と記載され、地山の上部を盛り土した二段築造の円墳であるという。丁度社の石段を登る途中にある鳥居付近の踊り場が、上段と下段の境目に当たるのであろうか。
古墳墳頂部に鎮座する川田谷熊野神社 墳頂部に建つ「出土品ノ碑」
古墳墳頂部を撮影(写真左・右)。
熊野神社を鎮座させるために墳頂部は削平されている可能性は否定できないであろう。
昭和3年(1928)、社殿改築時に墳頂から粘土槨らしき部分が発見され、そこから東国では珍しい碧玉製品をはじめ、玉類・石製品・銅製品・鏡・刀などが大量に出土した。
この古墳はあまり目立たない場所に築造されていて、一般的な評価も高くないように見えるが、埼玉県早期の古墳を語るうえで非常に重要な古墳でもある。
現在の荒川の流路は、江戸時代初期に旧入間川水系の和田吉野川に南流する荒川を瀬替えして定まったものである。嘗て東京湾にそそぐ利根川から分かれた入間川が大宮台地の西を北上し、さらに、入間川・都幾川・越辺川・市野川そして和田吉野川と分かれ、入間、比企地方に流域を広げていた。
古代において、河川は、人や物が行き交う上で重要な交通路であった。荒川に沿う川田谷の台地にある遺跡からは、繊細な櫛描文で飾られた壺が発見されている。この土器は、東海地方西部の伝統をひくものである。
3世紀、近畿地方の勢力を中心として「国」の礎を作ろうとする歴史の波がおこり、東海地方の人びともこの波を受け止め、さらに東方へと伝えていった。現に熊野神社古墳出土品の中には畿内の古式古墳と共通する多くの副葬品が出土している。
この古墳の埋葬者はどのような経歴の人物であったのであるかは不明であるが、筆者の想像を逞しくすると前置きをした上での考察ではあるが、鴻巣市・明用三島神社古墳の埋葬者と同じく、旧入間川等の河川による交易・流通を一手に担う一族の中心人物であったようにも思える。
今後の新たなる発見により導き出される興味ある展開に期待したいと願うばかりだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「熊野神社古墳の物語 リーフレット (PDF)」
「Wikipedia」「境内案内板」等