古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

若宮八幡古墳(石橋)

 若宮八幡古墳は、埼玉県東松山市石橋地区に存在する古墳で、下唐子古墳群に属しており、下唐子3号墳とも呼ばれている。村社・石橋若宮八幡神社の境内にあって円墳上に社殿が築かれている。墳丘南側には横穴式石室が開口しているが、江戸時代中期の明和年間(1764 -1771年)には現在の状態になっていたとされる。1964年(昭和39年)327日、埼玉県の史跡に指定された。2010年(平成22年)と2011年に石室の修復整備に伴う調査が行なわれ、現在では入り口に格子戸が設置されて石室への立ち入りは制限されている。
 なお神社は慶長元年(1596年)に鶴岡八幡宮から分祀されたと伝わっている。  (Wikipedia)参照         
            
           ・所在地  埼玉県東松山市石橋字塚原24401
           ・築造年代 6世紀末築造(推定)
           ・形  状 円墳
           ・規  模 直径約34m・高さ約4.5m
                 玄室長4.28m・最大幅2.9m 前室長2.55m
                                  最大幅2.0m 羨道長1.97m・最大幅1.4m
 若宮
八幡古墳がある東松山市石橋地区は都幾川左岸で東松山台地の西側の縁辺に位置している。唐子中央公園付近に4基、若宮八幡神社周辺に5基分布していて、下唐子古墳群との総称でもあるが、現在原形をとどめている古墳はごくわずかとなっている。この地域周辺には、縄文中期・平安期の集落跡である岩の上遺跡、縄文前・中期及び古墳後期の塚原遺跡、縄文後期・弥生中期の雉子山遺跡、古墳後期の附川古墳群・青鳥古墳群など、実に遺跡が多い地域でもある。
 村社・石橋若宮八幡神社の境内にあり、円墳上に社殿が築かれている。
            
                   参道からの眺め
           一見して古墳上に社が鎮座しているのが分かる。
 若宮八幡古墳の開口場所は八幡神社由緒書の案内板を左方向に進むと見えてくる。進行方向途中左側に「県指定史跡 若宮八幡古墳」の標柱が建っていて、そのまま進むと古墳の玄室で開口部が見えてくる。
               
                                若宮八幡古墳案内板
       
 〇埼玉県指定史跡(昭和三十九年三月二十七日指定)
 古墳は、三世紀の中頃から七世紀の終わり頃にかけて造られた、地域を治めていた権力者のお墓です。東松山市には、発掘調査等で発見された古墳を含め、これまでに五百基以上の古墳が確認されていますが、原形をとどめている古墳はごくわずかとなっています。
 児童文学者の打木村治の小説『天の園』の一節に、「恐怖の八幡穴」と紹介されている若宮八幡古墳は、今から約千四百五十年前の六世紀後半に造られた古墳です。この古墳の素晴らしさは、ほぼ造られた当時のままの形で、石室(埋葬施設)が今日まで残っているところです。
 石室は、羨道、前室、玄室の複室構造の横穴式石室です。石室に使われている石は、砂質凝灰岩で、四角に加工した石の角をL字に切り込んで組み合わせながら積む「切石切組積工法」を採り、更に両側の側壁が弧を描くよう膨らむ胴張型となっており、天井石の重みを分散させる構造になっているなど、造られた当時の土木技術の高さがうかがえます。 
 平成二十二、二十三年の修復保存整備に伴って行われた調査では、地表面に整地土を敷き平らに固めた後に、根石と言われる基礎になる石を設置していることや天井石が厚いかまぼこ型をした砂質凝灰岩であることが新たに判りました。(平成24年度3月 東松山市教育委員会)     案内板より引用
       
  玄室開口部は南西方向を向いていて、石橋若宮八幡神社の参道や社殿の軸線に対して、左側方向に30度〜40度程ずれて開口されている(写真左)。開口部には格子扉があり施錠されていて、中を覗いても真っ暗であるが、すぐ傍に石室の中を照らす電灯のスイッチがあり、奥端部まで観察することができた(写真右)。
 内部主体は、南面に開口する砂岩質泥岩の切石を組み合わせて構築された副室形式をとる大規模な横穴式石室で、全長8.6mを計る。この横穴式石室の開口は古く、江戸時代中頃に開口されていたという。出土遺物 については全く知られていないが、平成2223年度の修復保存整備に伴う調査で、前室部から小札、鉄器、須恵器片等が確認されている。また周溝を推察される個所より人物埴輪片、器材埴輪片、円筒埴輪片が出土しており、古墳の築造年代は6世紀後半と考えられている。
        
                  神社と古墳との融合 
              日本ならではのこの風景もまた美しい。

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入浅見金鑚神社古墳

 入浅見金鑚神社古墳は、生野山丘陵の北東に派生した段丘上にある古墳である。古墳の北側には埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線が通り、墳丘裾の一部が削られ、工事中に埴輪が出土した経緯がある。御由緒(入浅見金鑚神社案内板)では、古墳についても触れている。元々この神社は古墳を避けて鳥居の北東付近に鎮座していたが、1928(昭和3)に墳丘南側が削平され金鑚神社社殿が移築され、この工事の際、主体部が発掘され、石室石材が拝殿前の参道や社殿改修記念碑に用いられたという。
「格子タタキ技法」を用いて製作された埴輪は、このほかにも、かつて北堀にあった公卿塚古墳
(直径65メートル)や生野山丘陵上に所在する生野山将軍塚古墳(直径60メートル)からも出土していて、これらの古墳も、金鑽神社古墳と同時期の築造と考えられているので、5世紀前半の本庄市内には、何人かの朝鮮半島出身の土器製作技術者が、埴輪づくりに活躍していたことが推測されている。
                
             ・所在地  埼玉県本庄市児玉町入浅見
             ・築造年代 5世紀中葉築造(推定)
             ・形 状  円墳
             ・規 模  直径約67.6m・高さ約9.75m2段築成
 入浅見金鑚神社古墳は女堀川左岸で「鷺山古墳」の南西にあり、生野山丘陵北部の丘陵の地山に築造されている。墳丘には入浅見・金鑚神社が鎮座している。1928(昭和3)に工事の際、主体部が発掘され、一部の石室・石材が拝殿前の参道や社殿改修記念碑に用いられたが、内部主体(竪穴式石槨と思われる)は発掘調査されていないとの事だ。
 
       鳥居付近が一段目のテラス。写真でも段差があるのが確認できる(写真左)
     また鳥居横にある「本庄市指定文化財 金鑽神社古墳」標柱あり(同右)
 標柱案内柱より引用(側面部位)
「この古墳は、5世紀中葉に築造された児玉地域最大の円墳である。また、当古墳は全国にも例の少ない叩き目を持つ円筒埴輪が樹立されており、併せて町指定文化財となっている。」との記載あり。
 
            拝殿前には階段があり             石段脇の墳丘を撮影。 
     一段高くなっているのが分かる。         綺麗に円を描てるようだ。
       
 拝殿前までの敷石に注目。この敷石、この古墳から出土した組合い式箱式石棺の部材を転用しているという(写真左)。また社殿裏境内社の脇にある平らな石材もそれらしいように見えるから不思議だ(同右)。
         
                  厳かな雰囲気漂う社

 入浅見金鑚神社古墳は、直径約67.6m・高さ約9.75m2段築成の円墳で、墳丘には入浅見・金鑚神社があり、自然丘陵を利用した下段と、盛土による上段の2段で築成されていて、上段の墳丘には葺石が施設されて、下段は地山をけずりだして整形されていることが確認された。また周溝を含めると100mを超える大型の円墳で本庄市内では最大規模という。

 最後にこの古墳は平野部ではなく、わざわざ段丘上に築造されている。更に墳丘テラス部で円筒埴輪列、墳頂で朝顔形埴輪列が並び、葺石も施設されていることから、古墳築造当時において樹木等はほぼなく,古墳のある場所からかなり遠くまで見通せたものと推測される。
 この古墳が築造された当時の地形を、現在の地形を参考とさせていただく事を条件に周囲の標高を調べてみると、入浅見金鑚神社から古墳墳頂で約90.4m96m。北側県道沿いが約86m。東側で80m程。南側で約73m77m。西側が83m程で、周囲に比べて10m20m程高くなっていて、生野山丘陵北端部ではあるが、見た目には独立した小山という印象を当時の人々は感じたのではなかろうか。
 そういう意味において、この古墳は一種ランドマークのような目立つ存在であり、「見せる為の古墳」「この地域を象徴する古墳」でもあったと思われる。

 古墳および出土品は1988(昭和63)11日付けで市指定史跡に指定された。

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明用三嶋神社古墳

        
        
 三嶋神社古墳(みしまじんじゃこふん)は、埼玉県鴻巣市にある前方後円墳である。
 ・全長55
 ・後円部直径27m、高さ1.5
 ・前方部幅15m、高さ1.8
 墳頂に三嶋神社が建立され、墳丘は変形を受けている。1875(明治8)に地元民により後円部から横穴式石室が掘り出されたと伝えられ、社殿の前に敷かれた緑泥片岩は石室天井石と思われる。1959年(昭和34年)116日付けで吹上町(当時)指定史跡に指定された。
 1983年(昭和58年)発掘調査が行われ、墳丘や周溝から円筒埴輪、馬形埴輪、人物埴輪が出土した。6世紀後半の築造と考えられる。
                                  「Wikipedia」より引用
 
  拝殿前の階段下右側には石室の石材である  拝殿前の階段下左側には三島神社古墳の案内板 
      緑泥片岩が置かれている         
鴻巣市指定文化財(史跡) 三島神社古墳             昭和34116日指定
 元荒川と荒川が分流する地点の自然堤防上に位置する市内最大の前方後円墳で、墳丘主軸をほぼ南北に置き、北側が後円部、南側が前方部と考えられる。墳丘はすでに大きく削られ、埋葬施設である横穴式石室は古く破壊されている。石室の石材である緑泥片岩及び凝灰岩質砂岩は、三島神社本殿前の参道及び正面右側に置かれている。
 墳丘の規模は、昭和58年の周溝確認調査によって主軸長約55m、後円部径約3mであることが判明し、墳丘及び周溝中から多量の埴輪片(円筒・馬形)が検出された。
 本古墳の築造年代は横穴式石室、埴輪の特徴から6世紀後半と考えられる。出土した埴輪は、南東6キロメートルに位置する生出塚埴輪窯から供給されたことが明らかになっている。

 平成286月                           鴻巣市教育委員会より引用
        
             
社殿のある前方部から後円部方向に撮影

古墳時代、さきたま古墳群では5世紀後半築造の稲荷山古墳礫槨と粘土槨に舟形木棺が用いられていて、埋葬者と何らかの点で河川、海との関係性があった事が指摘され、また同古墳群内で6世紀後半に築造された将軍山古墳の横穴式石室には、千葉県富津市保田から鋸南町金谷付近で採集された、所謂「房州石」が、遥々120㎞の距離で運ばれている。舟運による交易が行なわれていたと仮定するならば、当然需要と供給の論理が成り立つことは当然であることで、千葉県木更津市金鈴塚古墳の箱式石棺の石材には長瀞付近で採石されたと考えられる緑泥石片岩が供給されていることを考慮すると、当時のさきたま古墳群を築いた首長権力者は荒川や元荒川を介して、房総半島との双方向の水運を長い期間保持していたことが推測される。
 最近さきたま古墳群の鉄砲山古墳(前方後円墳 主軸長109m)の横穴式石室入口部が調査され、壁体に群馬県・榛名山二ッ岳噴出起源の角閃石安山岩5面削り石の使用が判明し、7式には行田市・八幡山古墳の巨大石室の壁体にも使用されているとの事から、利根川の水運(こちらは利根川支流である会の川等中小河川を使用したか)で上毛野地域とも繋がっていたとも考えられる。

 明用三島神社古墳は元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置しているとはいえ、箕田古墳群からもさきたま古墳群からも少々離れている位置にあり、周辺一帯もこれといった特徴のない場所に、ポツンと単独で存在している。低地に古墳を築造したことには特別の事情があったと思われ、そこには埋葬者と荒川との強い関係性を反映するものと考える。

 明用三島神社古墳から南東方向に
8㎞程行くと生出塚埴輪窯跡が存在する。この窯跡は、古墳時代後期の東日本最大級の埴輪生産遺跡で、1976年(昭和51年)に埴輪窯跡が確認され、1979年(昭和54年)には埼玉県教育委員会の発掘調査が開始されて、以後、現在まで分布調査や発掘調査が40回以上にわたっておこなわれているが、遺跡内から40基の埴輪窯跡および2基の埴輪工房跡、および、粘土採掘坑1基、工人と思われる人びとの住居跡9軒、土坑1基などを確認していて、出土品は国の重要文化財に指定されている。
 この埴輪窯跡で生産された埴輪の分布では、行田市の埼玉古墳群、坂巻
14号墳はじめ埼玉県内の諸古墳、また、千葉県や東京都、神奈川県など東国とくに南関東各地の古墳から、生出塚埴輪窯跡で生産されたとみられる埴輪が出土している所から見ても、埴輪を遠隔地の古墳へ長距離運搬するに際しては、河川や海などの水上交通が重要な役割を担っていたものと考えられる。
 生出塚埴輪窯跡は大宮台地端部北側傾斜面上にあり、これに沿って流れる元荒川までの距離は現在約
1.0㎞であり、
明用三島神社古墳は元荒川と荒川が結合する地点に築造されている。何か関連性はないだろうか。
        
 荒川は瀬替え以前、元荒川と繋がっていた時期があり、それが56世紀であり、この明用三島神社古墳は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い見解もある。
 最近の調査では元荒川が吹上町市街地の東南方面、前砂地区から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その蛇行河跡は自然堤防も伴ったのだろうか、不思議と現在も道路として残っている。

 明用三島神社古墳は横穴式石室の構造から
6世紀後半の築造と推測されているが、もうその頃には、運河的な河川は機能され、そこから上がる財も大きかったのではなかろうか。


 

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穴八幡古墳

大塚八幡神社の南側で、丁度参道をそのまま南下し、鳥居を越えてすぐな場所に、こんもりとした小山が目視でも見られる。これが穴八幡古墳と呼ばれる古墳時代後期の方墳である。墳丘は高さが5.6m、一辺28.2mを測り、内堀の一辺は、東西で39m、南北で約40m、溝幅は最大で7.4mで、周溝外縁は一辺61.4mに及ぶ大型の方墳である。外堀の南半分については確認されていない。首長の棺を納めた石室は、横穴式石室と呼ばれるもので、全長8.2mを測り、南に向いてその入口が開いている。
        
 かつては円墳と考えられていたが、1988年(昭和63年)の周溝試掘調査により、二重に周堀を持つ県内でも最大級の方墳であることも判明した。
 小川町下里地域で採掘される緑泥石片岩など結晶片岩の一枚石を組み合わせて造られたもので、内部は前室と後室の2室に分かれている。比企地方では、石室の胴部がやや張った形態のものが多い中で、この古墳は直線的な構造となっていて、古墳の形態や出土遺物などから、7世紀の後半に築造されたことがわかっている。別名黄金塚・増尾大塚・王子塚・王塚とも呼ばれてもいる。
 昭和34年(1959)に埼玉県の指定史跡になっている。
        
       
南側の切通し道に入口階段があり、階段上った右側に説明板がある。
 県指定史跡 穴八幡古墳
 小川町大字大塚と増尾の間に位置する八幡台地のほぼ頂部に立地する穴八幡古墳は、埼玉県内でも最大級の規模を持つ方墳です。首長を治めた横穴式石室は南に開口し、内部には下里産出と考えられる大きな緑泥石片岩を利用しています。また、この位置が小川の盆地を一望にみわたせることなどから、この古墳の被葬者はこの盆地を治めた有力人物であったのかも知れません。
『新編武蔵風土記稿』によれば、この古墳は寛文(16611673)の頃、切りくずして陸田にしようとしたところ、石室が現れたので中止したことが記されています。なお、文政十二(1829)年、島田氏が八幡神社を勧請したので穴八幡と呼ばれるようになり、遠く江戸吉原のおいらん衆が奉納した提灯や手ぬぐいが残っていました。
 平成十年三月                           埼玉県・小川町教育委員会
        
            階段を上り終えると更に詳しい案内板がある。
  案内板を確認すると、この古墳一帯の字(小字)は「岩穴」との事。地形にピッタリである。
 埼玉県指定史跡 穴八幡古墳
 小川町大字増尾字岩穴六三‐一外
 昭和三四年三月二○日指定
 平成三年三月一五日追加指定
 当古墳は、巨大な横穴石室を備える古墳として、昭和三四年に埼玉県指定史跡に指定されました。古墳の形は、当時円墳と考えられていましたが、昭和六三年の発掘調査や測量調査により、周囲に二重の周堀を備えた方墳であることが確認されました。
 古墳は、墳丘の高さ約五・六m、一辺の長さ三二mを測り、周囲の堀は内堀が幅五・七m、外堀が三・七~四・七m、外堀の一辺の長さ六一・四mを測る、県内最大級の方墳です。
 石室は、緑泥片岩などの大きな一枚石を組合せ、内部は奥室と前室から構成され、全長八・二mを測ります。
 当古墳の造られた時期は、埴輪が出土しないことや前庭部から出土した須恵器から古墳時代終末期、七世紀後半と考えられ、小川盆地の古代文化を考えるうえで非常に貴重な存在です。
 平成五年三月二五日                    埼玉県教育委員会 小川町教育委員会
        
                 穴八幡古墳南側より撮影
        
         
 ところで
鎌倉幕府の9代、最後の将軍である守邦親王(13011333)が幕府滅亡の後、この地に逃れてきて、ここに葬られたという伝承がある(6代将軍・宗尊親王とも)
 または被葬者は「梅皇子」という伝承もあるが、梅皇子とは守邦親王が名乗った別名とか、守邦親王の庶子とか諸説ある。しかし、推定されている古墳の築造年代は7世紀後半であり、守邦親王の時代より、600700年も前のことである現地解説板や小川町のHPでもその伝承について触れられず被葬者は全く不明としている。
 では一体「梅皇子」とは実在した人物なのか、実在したとしたらどのような人物だったのであろうか。
 
開口部・左右の大きな板石は後世に置かれたもの  石室内部は前室と後室の2室に分かれて
                           
奥に八幡社が祀られている
 いわゆる「古史・古伝」とは古代史の主要な史料(日本の場合なら『古事記』や『日本書紀』など)とは著しく異なる内容歴史を伝える文献を一括して指す名称であるが、現状いずれも学界の主流からは偽史とみなされている。
 それでも現在では、近代における日本人の国家観・民族観への受容等のあらわれとして、文献の作成を行う者の思想に対する研究が始まったところである。文献そのものに史料的価値が認められなくとも、「それらの文献(偽書)をいつ、だれが、どのような背景・目的で作成したのか」を研究することは、古代史の研究とは言えないにしても、参考的な知識を蓄積する意味において、十分学問的な行為といえる。
「古史古伝」のひとつである「ホツマツタヱ(以下秀真伝)」は、日本で古い時代に用いられたとされる文字、いわゆる「神代文字」の一種である「ヲシテ文字」を使用したいわゆる「ヲシテ文献」のひとつ。秀真伝は五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)・10700行余で構成され、『古事記』『日本書紀』の原書であると根強く考える者も一部に存在するという。
 秀真伝はその成立時期は不詳であり、複数の写本が現存している。いくつかの写本では「ホツマツタへ」、「ホツマツタエ」とも、また漢訳されて「秀真伝」、「秀真政伝紀」とも表記されている。「ホツマ」と略されて呼称されることもあり、少なくとも江戸時代中期まで遡る。故に歴史学、日本語学等の学界においては、江戸時代に神道家によって作成された偽書であるとされている。しかしながら、文献全体の包括的な史料批判はまだ行われていない。
           
               
墳丘西側の二重周溝  左側にはっきり見えているのが外側周溝
 秀真伝地の巻 25アヤ(章)には、ニニキネ(瓊瓊杵尊)と鹿葦津姫(かしつひめ)、またの名は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)との間に3人の男子が生まれた。
・長男:ムメヒト…火明命(日本書紀) 天火明命(古事記)
・次男:サクラギ…火闌降命(日本書紀) 火照命(古事記)
・三男:ウツギネ…彦火火出見尊(日本書紀) 天津日高日子穂穂手見命(古事記)
(すべて斎名)
次男サクラギ、三男ウツギネは「日本書紀」では概ね夫々長男・次男として記述され、「古事記」では次男、三男として出てくる。山幸彦、海幸彦物語として登場する場面として有名だ。しかし「ムメヒト」は瓊瓊杵尊の子供として登場するが、それ以降の活躍場面もなく、ただ単に天火明命(ほあかりのみこと)として日本書紀では尾張氏の祖として出てくるのみである。また饒速日命の別名であり、饒速日命と同一神と記している書物もあるが、秀真伝ではムメヒトは瓊瓊杵尊の長男であり、饒速日命の父親と記述されている。
        
                                  穴八幡古墳 遠景
 本題からいささかそれてしまった感があるが、この「ムメヒト」の「ムメ」は「梅」のことで、「ヒト」は「皇子・命」と訳され、ずばり「梅皇子」となるという事である。
 想像を逞しくすることを許して頂き、また秀真伝の信憑性が高まったと仮定して、その天火明命の子孫が7世紀ごろに時の権力者である蘇我氏に接近し、蘇我氏が方墳を採用していたことにより、これに倣ったものと考察する。時代背景として薄葬令がだされていた時期でもあり、これだけの方墳を築造できる身分で考えられるのは、天津族の血を受け継いだ在地豪族で、国造クラスの人物を現時点では推測する。
        
        大塚八幡神社の南側鳥居の道を隔てた道路の隅にあった穴八幡古墳の古い石碑

 我が国の「梅」の歴史は古い。元々梅は中国原産の花木で、2000年前に書かれた中国最古の薬物学書『神農本草経』には、すでに梅の効用が説かれている。日本へは約1500年前、薬用の”烏梅(ウバイ)”として中国から伝来したと言われている。これは青梅を薫製・乾燥したもので、実がからすのように真っ黒になることから「鳥梅」と呼ばれていて、現在でも漢方薬のひとつになっている。
 今では我が国のシンボルでもある桜の陰に隠れがちな存在でもある梅であるが、奈良時代の花鑑賞といえば、梅をさしていたという。その証拠に『万葉集』に詠まれた梅の数では桜を詠んだ歌は43首に対し、梅を詠んだ歌は110首。梅は桜の倍以上詠まれている。穴八幡古墳が築造された当時も、花といえば梅だった時代かもしれない。
 そして「梅」信仰は天満宮、つまり九州地方の花といえばまさに梅。天満宮は今では菅原道真のイメージが定着しているが、道真は平安時代前半(9世紀頃)の人物であり、創建起源の古い「天満宮・天神社」については、天津神(雷神)を祀る神社という意味のものもあり、これは菅原道真とは関係がなく、全国各地に在りその発祥は不明との事だ。本来の天満宮・天神信仰とはいかなるものだったのだろうか。




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樋遣川古墳群

樋遣川古墳群(ひやりかわこふんぐん)は、埼玉県加須市樋遣川地区にある古墳群である。1956(昭和31)416日、諸塚古墳・浅間塚古墳・稲荷塚古墳の3基が市史跡に指定されている。1976(昭和51)101日、県の重要遺跡に指定されており、新編武蔵風土記稿の樋遣川村の項に、「穴咋塚、諸塚、石子塚、稲荷塚、浅間塚、宝塚、宮西塚、以上の塚を樋遣川の七塚という」とある。河川の氾濫や開墾などで現在ほとんどの古墳は削平されているが、諸塚古墳、浅間塚古墳、稲荷塚古墳の3基の円墳だけが残っている。この古墳群の一つの宮西塚から出土したといわれる馬具や鏡は、県立さきたま資料館に展示されている。
 現在残っている3つの古墳の中では御諸塚が最も大きく、直径約40m、高さ約6mの円墳で墳頂部には社殿が建てられている。また浅間塚と稲荷塚は御諸塚の南約500m
のところにあり、ほぼ同じような規模で、東西に並ぶ円墳である。
        

【御諸塚古墳】
 御諸別王の陵墓とも言われている古墳である。この王は豊城入彦命の孫で、上毛野君祖とされている彦狭島王の子である。彦狭島王は崇神天皇によりが上毛野国造に任じられ、東国に赴任しようとして、旅の途中で没した。そこは奇しくも父の八綱田王が狭穂兄妹を焼き殺した春日の地の辺り「春日の穴咋 邑(村)」であったという。御諸別王は父の思いを胸に秘めながら任に着いたのであろう。東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。
 『日本書紀』崇神天皇段には上毛野君・下毛野君の祖として豊城入彦命の記載があるが東国には至っておらず、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは御諸別王が最初であり、御諸別王が実質的な毛野氏族の祖といえる。
        
                                 御諸塚古墳 案内板
 因みに陵墓候補地として以下の場所等が言われている。
①蛇穴山古墳…総社古墳群 群馬県前橋市 一辺39m、高さ5mの方墳
 埋葬主体部は横穴式石室であるが、羨道を欠き、玄門と玄室からなる特殊な形をとっている。玄門の前には、羨道の痕跡ともみられる構造と八の字形にひらく前庭がある。石室は天井、奥壁、左右壁ともみごとに加工した各一枚の巨石で構成されている。天井石、奥壁などの縁はL字形に切り込んで壁の石と組み合わせている。精巧な細工をほどこした玄門とともに、当時の石材加工技術の優秀さを物語っている。
 石室の規模は玄室長(西)
3m、同幅2.6m、同高さ1.8mである。隣接する宝塔山古墳とともに、県内古墳の最終末期に造られたもので、8世紀初頭のころに位置づけられようで、御諸別王の活動時期とはいささかずれている。但しその石室の特異さと精巧さはついに、古代上野国の名族上毛野氏の祖、御諸別王の霊地として記されたのであろう。
②後二子古墳…大室古墳群 群馬県前橋市
 1段目を大きく造り、その上に小さな2段目が載る構造「下野型古墳」の特徴をもつ。
1878年(明治11年)3月の石室発見・開口の後、宮内庁に後二子古墳を御諸別王の陵墓として認定する申請が出されたが、豊城入彦命の陵墓として申請していた前二子古墳同様認定はされなかった経緯あり。
③御室塚古墳(諸塚)…樋遣川古墳群(御陵墓伝説地) 埼玉県加須市

【浅間塚】
        
 御諸塚古墳から南側500m程下った場所に墳丘が存在する。墳頂には此花咲矢姫(このはなさくやひめ)を祭神とする浅間神社が鎮座し、江戸末期~明治に、富士浅間信仰のため、盛土をされたようであり、急角度の小高い丘となっている。
        

 有形文化財 浅間塚 昭和三十一年四月指定
 七基の古墳からなる樋遣川古墳群の一つであるが、現在はこの浅間塚、稲荷塚、御室塚の三基を残して破壊されてしまった。
 この古墳は径二十四メートル、 高さ(土盛りがしてあるため見かけは)五.五メートルの円墳である。項には一八五七年(安政四年)の建物があり、中に此花咲矢姫の木造が祭られている。
 昭和五十五年八月  加須市教育委員会
                                      案内板より引用

       
 かなりの急角度で墳丘が立ち上がっているのは、後世に盛り土されたためで、原型とかなり改変されているかもしれない。

【稲荷塚】
       
 御諸塚古墳から南側500m程下った場所に浅間社と約100m程隔てて東西に並ぶように墳丘が存在する。位置的に見ても浅間塚と共に御諸別王の子孫の墳墓あるいは、陪冢(ばいちょう)と考えられる。因みに稲荷社の案内板は浅間社よりも新しいもので、かなり詳しく記載されている。
        
                   稲荷塚の案内板
 市指定有形文化財 稲荷塚 
 稲荷塚は古墳時代の円墳(平面円形の古墳)で、墳頂部に稲荷社が祀られている。直径二十二メートル、 高さ二メートルで、樋遣川古墳群の一つである。利根川の支流浅間川右岸の自然堤防上に築造された。
 江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿』に「穴咋塚、諸塚、石子塚、稲荷塚、浅間塚、宝塚、宮西塚、以上の塚を樋遣川の七塚という。いずれも高さ六七尺(約二メートル)ばかり」と記されている。明治三十四年、御諸塚は宮内庁により、御諸別王の墓として陵墓伝承地、稲荷塚と浅間塚はその付属地に内定した。その後、懐疑的な意見も出されたが、樋遣川古墳群出土品については「相当な文化」と評価されている。稲荷塚と浅間塚、御室塚の三基は現存し、県選定重要遺跡となっている。
 加須市教育委員会
                                      案内板より引用

樋遣川古墳群の
7塚の特徴として、一番規模の大きい御諸塚古墳を中心に、この古墳を囲むように6塚が配置されている。
・北側 無し
・南側 稲荷塚・浅間塚
・東側 宝塚
・西側 宮西塚・穴咋塚・石子塚
 7塚の中に「穴咋塚」があり、「日本書紀」に彦狭島王は「春日の穴咋邑(村)」に没したとあり、奈良と言われているが、樋遣川村もかつて穴咋村と称していたという。また、御諸別王が軍勢を集めた陣営の跡であり、杭を建て、釜を掛けたことから「釜杭塚」とも言い、その関連性は興味深い。
        
                 南側から古墳群を望む。
 樋遣川古墳群は現存する3基の古墳群、標高約14mの一面田園風景が広がる中に田んぼと屋敷林や水塚のある中に社叢がポツンと見える為、目標物として見分けやすい。


       

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