若宮八幡古墳(石橋)
なお神社は慶長元年(1596年)に鶴岡八幡宮から分祀されたと伝わっている。 (Wikipedia)参照
・所在地 埼玉県東松山市石橋字塚原2440-1
・築造年代 6世紀末築造(推定)
・形 状 円墳
・規 模 直径約34m・高さ約4.5m
玄室長4.28m・最大幅2.9m 前室長2.55m
最大幅2.0m 羨道長1.97m・最大幅1.4m
若宮八幡古墳がある東松山市石橋地区は都幾川左岸で東松山台地の西側の縁辺に位置している。唐子中央公園付近に4基、若宮八幡神社周辺に5基分布していて、下唐子古墳群との総称でもあるが、現在原形をとどめている古墳はごくわずかとなっている。この地域周辺には、縄文中期・平安期の集落跡である岩の上遺跡、縄文前・中期及び古墳後期の塚原遺跡、縄文後期・弥生中期の雉子山遺跡、古墳後期の附川古墳群・青鳥古墳群など、実に遺跡が多い地域でもある。
村社・石橋若宮八幡神社の境内にあり、円墳上に社殿が築かれている。
参道からの眺め
一見して古墳上に社が鎮座しているのが分かる。
若宮八幡古墳の開口場所は八幡神社由緒書の案内板を左方向に進むと見えてくる。進行方向途中左側に「県指定史跡 若宮八幡古墳」の標柱が建っていて、そのまま進むと古墳の玄室で開口部が見えてくる。
若宮八幡古墳案内板
〇埼玉県指定史跡(昭和三十九年三月二十七日指定)
古墳は、三世紀の中頃から七世紀の終わり頃にかけて造られた、地域を治めていた権力者のお墓です。東松山市には、発掘調査等で発見された古墳を含め、これまでに五百基以上の古墳が確認されていますが、原形をとどめている古墳はごくわずかとなっています。
児童文学者の打木村治の小説『天の園』の一節に、「恐怖の八幡穴」と紹介されている若宮八幡古墳は、今から約千四百五十年前の六世紀後半に造られた古墳です。この古墳の素晴らしさは、ほぼ造られた当時のままの形で、石室(埋葬施設)が今日まで残っているところです。
石室は、羨道、前室、玄室の複室構造の横穴式石室です。石室に使われている石は、砂質凝灰岩で、四角に加工した石の角をL字に切り込んで組み合わせながら積む「切石切組積工法」を採り、更に両側の側壁が弧を描くよう膨らむ胴張型となっており、天井石の重みを分散させる構造になっているなど、造られた当時の土木技術の高さがうかがえます。
平成二十二、二十三年の修復保存整備に伴って行われた調査では、地表面に整地土を敷き平らに固めた後に、根石と言われる基礎になる石を設置していることや天井石が厚いかまぼこ型をした砂質凝灰岩であることが新たに判りました。(平成24年度3月 東松山市教育委員会) 案内板より引用
玄室開口部は南西方向を向いていて、石橋若宮八幡神社の参道や社殿の軸線に対して、左側方向に30度〜40度程ずれて開口されている(写真左)。開口部には格子扉があり施錠されていて、中を覗いても真っ暗であるが、すぐ傍に石室の中を照らす電灯のスイッチがあり、奥端部まで観察することができた(写真右)。
内部主体は、南面に開口する砂岩質泥岩の切石を組み合わせて構築された副室形式をとる大規模な横穴式石室で、全長8.6mを計る。この横穴式石室の開口は古く、江戸時代中頃に開口されていたという。出土遺物 については全く知られていないが、平成22・23年度の修復保存整備に伴う調査で、前室部から小札、鉄器、須恵器片等が確認されている。また周溝を推察される個所より人物埴輪片、器材埴輪片、円筒埴輪片が出土しており、古墳の築造年代は6世紀後半と考えられている。
神社と古墳との融合
日本ならではのこの風景もまた美しい。