古社への誘い 神社散策記

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とうかん山古墳

  とうかん山古墳(とうかんやまこふん)は、埼玉県熊谷市箕輪にある前方後円墳である。東平台地上で標高24メートルの地点に築造された。墳丘は宅地造成によって一部変形しているが、同地に残された唯一形のわかる前方後円墳である。
 正式な発掘調査はされておらず、墳丘で採集された埴輪片から、6世紀中頃から後半の築造と推定されている。古墳名は墳頂にある稲荷社(おとうか様)や十日夜碑に由来する。
所在地   埼玉県熊谷市箕輪
区  分   平成元年(1989年)3月17日 埼玉県指定史跡
埋葬者   不明
築造年代  6世紀中旬から後半にかけて(推定)

       
 とうかん山古墳は冑山神社、同古墳から北へ2㎞位進んだ箕輪地区にある前方後円墳である。冑山神社は国道407号線沿いに鎮座しているが、その国道の東側に走っている埼玉県道257号冑山熊谷線を熊谷市方向に北上すると右側に吉見小学校があり、その手前にとうかん山古墳が見えてくる。
 このとうかん山古墳は箕輪地区の住宅地の中にあり、大きさが分かりずらい古墳だが、登ってみるとくびれ部もハッキリあって、比較的良好な形状を保ってると思われる。また
甲山古墳と築造年代も距離も近いことから、関連性が唱えられている古墳でもある。
          
                    前方部にあるとうかん山古墳の案内板
                                            
埼玉県指定文化財 史跡 とうかん山古墳             
 指定   平成元年3月17日
 所在   大字箕輪字北廓
 この古墳の名称は、墳頂に稲荷社(おとうか様)や十日夜碑があることから、とうかん山古墳と呼ばれています。
 古墳の形は前方後円墳であり、規模は、全長74メートル後円部の高さ5,5メートル、前方部の高さ6メートルです。時期については、発掘調査が実施されていないので明確では有りませんが、採集された埴輪破片から6世紀中頃と考えられております。
 かつてこの地域には沢山の古墳が存在しており、本古墳はその中心的古墳だったと思われます。現在では周辺の古墳は失われ幾つかが残るだけですが、その残された古墳の中でも本古墳は当時の原型をとどめていることで大変貴重なものと考えます。
 平成3年3月   埼玉県教育委員会 熊谷教育委員会
                                              とうかん山古墳案内板より引用
                                                                                         
          

 とうかん山古墳は東平台地上に位置している。この東平台地は荒川扇状地に形成された櫛引台地・江南台地とは直接連続しないが、ほぼ同時期に形成されたものとされる。東平台地は西方に広がる比企丘陵と南方は比企丘陵の残丘と考えられている吉見丘陵に挟まれ、東方の大里沖積地で区分される。台地頂部は比較的平坦で標高50~30mを測る。沖積地との比高は10~15mである。台地を構成する基盤層は灰色砂質泥岩と青灰色砂岩からなる土塩層と呼ばれる新第三期層に当たる。台地下から荒川までの東部沖積地は荒川低地の上流部にあたり大里低地とも称される。沖積地はかつての利根川・荒川および和田吉野川・通殿川により自然堤防と後背湿地が形成されたもので、場所によっては10m以上の礫層・粘土層・シルト層が厚く堆積している。台地下から荒川までの東部沖積地は荒川低地の上流部にあたり大里低地とも称される。沖積地はかつての利根川・荒川および和田吉野川・通殿川により自然堤防と後背湿地が形成されたもので、場所によっては10m以上の礫層・粘土層・シルト層が厚く堆積している。

 現在は低平な水田地帯となっている低地部には古代の大里条里帯が設定されており、可耕地としての整備が比較的早くなされた一帯であるが、後世の荒川等の乱流と新田開発などによりその実態はほとんど不明である。だが、ときには2m以上の下面から古代の遺構が確認される場合があり、大半の古代面は埋没しているとも想定される。

 ところでとうかん山古墳がある熊谷市箕輪地区は標高10m内外の台地を侵食した細長い谷に取り囲まれた低平な丘状の畑地に広がっている地域で形成されている。この「箕輪」の地名の由来を調べてみると川の曲流部や曲がった海岸などの半円状の台地のことで、つまり水の輪(=みのわ)に囲まれているような状態だそうだ。
 地名語源辞典(山中襄太著、校倉書房)に的確な表現があるので、引用してみる。
『箕という農具はヘリが深い弓形に曲がっている。その曲線を、箕輪、箕曲、と書いてミノワという。川、堤防、土手、道などが、そういう曲線になっているところをミノワという。弓のツルにあたるところを直線に通れないで、弓の曲線のところを遠まわりしなければならぬような場合、こういう地形は大きな関心を持たれて、こういう地名がつけられた』。三ノ輪、三輪、三野和、蓑輪、等とも書く。
 
そこから発展して、中世武士の居館を中心として、周囲に農民が居住して発展した集落のことを指すようにもなったという。


 不思議なことに行田市和田地区に鎮座する和田神社の「和田」も同様な意味があり、この「和田」は「輪+田」で川の曲流部内の平らな場所という由来があるそうだ。「和田」も「箕輪」の地名と同じく「輪」を共通とする地名ではないだろうか。



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箕田2号墳(三士塚)、宮前宮登古墳

 箕田古墳群は鴻巣市にある古墳群で、大宮台地の北端部に位置し、東西800m、南北800mの広大な地域に渡って分布している。古墳は荒川・元荒川の沖積地に囲まれた標高16~18mの台地上に立地し、九基の古墳が確認されているが、現在は7基が残っているそうだ。その中でも箕田2号墳、宮登古墳が特に有名だ。
       
1 箕田2号墳(三士塚)
 所在地   埼玉県鴻巣市箕田(字九右衛門)1260
 区  分   鴻巣市指定史跡 1970年(昭和45年)3月10日
 埋葬者   不明
 築造年代 6世紀後半(推定)
 箕田古墳群の代表格のような古墳で別名「三士塚」。5号墳に次ぐ箕田古墳群第2位の規模をもつ古墳である。現状は直径23m、高さ3mを測る円墳で、墳丘の形状を良く残しているといわれている。周辺が宅地化されているにも関わらずこの古墳の辺りだけは緑に囲まれひっそりと佇んでいる。
           
箕田古墳群
本古墳群は大宮台地の北端部に位置し、東西800m、南北800mの広い地域に渡って分布している。古墳は荒川・元荒川の沖積地に囲まれた標高16-18mの台地上に立地し、龍泉寺・富士山・宮前・稲荷町の四つの支群を形成している。
今までに九基の古墳の所在が知られているものの、現在は1・3号墳が消滅しているため、わずかに七基の古墳が残っているのみである。しかし、付近一帯に埴輪片が採集される事実からすると往時は相当数の古墳が存在していたものと思われ、鴻巣市では生出塚古墳群と並んで最も多くの古墳が密集していた地域である。
発掘調査は昭和3年に柴田常恵氏によって7号墳が行われたのをはじめとして2・3・9号墳(宮登古墳、宮登神社内)で実施されており、須恵器有蓋高坏・はそう・埴輪・金環・切子玉・丸玉・鉄鏃等が発見されている。
箕田古墳群の築造年代は、出土遺物や最近の発掘調査より六世紀初頭から七世紀中葉の約150年間に及ぶことが判明している。

箕田2号墳
本墳は別名「三士塚」と呼ばれ、5号墳に次ぐ箕田古墳群第二位の規模をもつ古墳である。現状は直径23m、高さ3mと測る円墳で、墳丘の形状を良く残している。
昭和58年に隣接地で発掘調査が行われ、墳丘を巡る周溝が確認されている。それによると築造当時は、直径32mを有する大型古墳であったことが明らかになっている。また周溝より須恵器有蓋高坏・甕の破片及び埴輪片が検出されており、本墳は六世紀後葉に築造されたものであることが判明している。
なお、本跡の南側一帯は箕田館の推定地となっており、それに関連して本墳は武蔵守源任及び妻子の墓とする古記述がある。しかし、築造年代からするとこの記述を信用することはできず、おそらく後世に両者が結びついて伝承されたものであろう。
                                                           案内板より引用
 昭和58年の調査では、周溝(しゅうこう)が確認され、築造当時は32mの大型古墳であったことや、出土品から、築造年が6世紀末であることが判明している。またこの古墳に接して氷川神社の故地があり、「新編武蔵風土記」には「社(氷川神社のこと)の後に小塚あり、高さ六、七尺幅十二、三間、往年土人此塚を穿ちしに、古鏡太刀などの朽腐せしものを得たり、これ古へ貴人を葬埋せし古墳なるべしといへり」と紹介している。


2 宮前宮登古墳
 
 所在地   埼玉県鴻巣市宮前88
 区  分   鴻巣市指定史跡 1970年(昭和45年)3月10日
 埋葬者   不明
 築造年代 7世紀前半から中頃(推定)
                  
 宮前宮登古墳は宮登神社の奥に小じんまりと佇んでいる。通称箕田9号墳。よく見ると社の後方に箱式石棺の一部が露出していて、案内板には石室について記述されている部分もあり、それが石室の一部ではないかと思われる。
  発掘調査が1959年に行われ、埋葬施設は横穴式石室となっている。出土したものとして須恵器、土師器、切子玉、管玉、丸玉、鉄鏃などが知られている。
           
                 宮前宮登神社の鳥居周辺にあった宮登古墳の案内板
 宮登古墳
 箕田古墳群中の一基で、荒川に面する大宮台地の西側縁辺部に位置している。
墳丘の保存状態は比較的良好で、直径20m、高さ2m程を有する円墳である。昭和34年に埋葬部の発掘調査が行われており、それによると主体部は、角閃石安山岩を使用した胴張り型横穴式石室で、玄室長2.9m奥壁幅1.3m、高さ1.65mを有する。
 玄室内からは、須恵器はそう・鉄鏃・切子玉(水晶製)・管玉・丸玉他が出土しており、これらの遺物から七世紀の前半から中頃かけて築かれた古墳と考えられている。また、埴輪類は認められていないので、埴輪樹立の風習が行われなくなった以後のものであろう。
なお、石室に使われた角閃石安山岩は、群馬県榛名山二ツ岳の爆発によりできた岩石で、利根川流域に分布する。本墳を作った人々は利根川からわざわざこの岩石を運んだものであろう。
                                                           案内板より引用

 この案内版によると、この石棺使用された角閃石安山岩は群馬県榛名山の火山噴火でできた火山岩である。この角閃石安山岩とは、火山岩の1種類で、角閃石を含んだ安山岩をいう。 特に、古墳時代の群馬県においては、Hr-FP(榛名山の噴火)の噴火による軽石を指す。古墳時代に大量に石を必要とする古墳の石室や羨道造りに多数使われており、綿貫観音山古墳、総社二子山古墳を始めとした横穴式石室を持つ古墳によく用いられ、群馬県、埼玉県では120基以上の古墳で使用された。

 宮前宮登古墳は箕田古墳群の他の古墳と異なる系統の石材が使用され、周辺の支配者の系譜に何らかの変化があったのではないかと言われているが詳細は現在不明だ。

               

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野本将軍塚古墳

  東松山台地は関東平野西部中央、埼玉県東松山市の市街地から大里郡寄居町赤浜にかけて広がる関東ローム層からなる細長い台地の名称である。台地の南側は都幾川とその流域の低地になっていて、北側は比企丘陵の南端に沿って流れる市野川流域となっている。国道254号と埼玉県道296号菅谷寄居線に沿っており、嵐山町の市街地以西になると南西側に外秩父山地がはみ出してくるため、北西に向かうほど細長くなっていき、先端部は寄居町赤浜までのびて荒川まで達しているなど東西に細長く、また台地でありながら全体的に平坦な地形が多い特異な特徴がある。

 比企丘陵(男衾地域を含む)地域は、北武蔵のなかでも古墳遺跡の多いところで、北埼玉や児玉地方とともに古墳時代には北武蔵のなかでも古くから発達した地域であったと言われているが、東松山台地はその比企丘陵の稜線下に位置していている関係から比較的早くから開発された地域だったことは、都幾川を挟んだ南側の低地帯で発掘が進んでいる反町遺跡の発見、調査で解っている。(古墳時代初頭の水晶を素材とした玉を生産した工房を含む数多くの住居跡群が発見されている)

 この反町遺跡は出土品の質・量から野本将軍塚古墳の背景となる遺跡と考えられるため、最近では前期古墳説が有力となりつつある。

所在地   埼玉県東松山市下野本612
形  状   前方後円墳  全長115m、後円部高さ13m、前方部高さ8m
時代区分  古墳時代初期から中期か(推定)
区  分   埼玉県指定史跡


       
 野本将軍塚古墳は国道254号下野本交差点を右折して国道407号に移り、下野本南交差点を左折すると、道路際までせり出した鬱蒼とした雑木林の丘が左側にある。そこが野本将軍塚古墳だ。また標識もあるので分かりやすい。北側には無量寿寺や野本小学校があり、無量寿寺の駐車場を一時お借りして散策を行った。
 この古墳は東松山台地の東方、川島町に向かって張り出した舌状台地のほぼ中央で、南面して都幾川を望む台地の縁辺に位置していて、標高差はさほどないが南側の都幾川及びその周辺の低地が一望できる場所に造られている。
          
          
 県道345号小八林久保田下青鳥線の脇に、古墳銘を刻んだ石碑が建っていて、その横のかなり薄くなって見づらくなった案内板がある。よく目をこらして見ると、野本将軍塚古墳は昭和35年(1960)3月1日に県の史跡に指定された。また全長115mの墳丘は、武蔵國でも最大規模の二子山古墳(埼玉古墳群)に匹敵する大きさだが、なんでも明治の末に、隣接する旧野本小学校の敷地を拡大するために先端部の封土が大量に削り取られてしまったことが知られているので、復元すると埼玉古墳群の二子山古墳を凌駕する可能性もあるそうである。この古墳の築造時期は最近の推定では二子山古墳よりかなり古い前期古墳と考えられていて、そうであれば、築造当時は北武蔵で最大の墳墓であったことになる。
  また昭和53年の市史編纂室による後円部墳頂のボーリング探査の結果、礫の分布が確認され、礫槨状主体部の可能性が考えられている。 
      
 鞍部から後円部を撮影。高さ13mと非常に高い墳丘で、高さだけでは埼玉古墳群の二子山古墳と同じ高さ。また墳丘の高さからその当時の高度の土木技術を感じずにはいられない。
         
                  無量寿寺、野本小学校側にある案内板

野本将軍塚古墳
 将軍塚古墳は、県内有数の大きさを誇る前方後円墳です。墳丘の大きさは、全長は115m、高さ前方部で7m・後円部で12mです。
 まだ学術調査が実施されていないので、内部主体(埋葬施設)や外部施設(ハニワなど)は明かではありません。
 将軍塚古墳を中心に、東北には柏崎・古凍古墳群、南には高坂・諏訪山古墳群、西には塚原・青島古墳群、さらに吉見丘陵西斜面には吉見百穴群が分布してます。このような古墳の分布は、古墳時代すでにこの地方が、高度の社会的発展をとげていたものでしょう。
 昭和53年3月         東松山市教育委員会
                                                      案内板より引用

 野本将軍塚古墳の埋葬者は一体誰だったのだろうか。この比企地域の100mを超す古墳はこの古墳一基のみで、近場に存在する柏崎1号墳、通称おくま山古墳が62mの前方後円墳、東松山市大谷にある雷電山古墳(76m、前方後円墳)、柏崎10号墳(天神山古墳、62,5m、前方後円墳)以外は小古墳がほとんどである。だからこそこの野本将軍塚古墳の大きさが一際目立つわけで、この古墳の埋葬者と埼玉古墳群を含めた北武蔵地域一帯との因果関係はどのようなものだったのか感じずにはいられない。
 何かと埼玉古墳群との関係に関して比べられる特別な古墳であるが、大変魅力ある古墳であることには間違いなく、今後の発掘調査を切に希望する次第だ。

 

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鹿島古墳群

 鹿島古墳群は荒川に沿って南北約300m、東西約1200mの範囲に100基以上の古墳で構成された荒川右岸最大の古墳群である。ほとんど円墳で構成されているが、鹿島73号墳のみ方墳である。西側吉野川沿いの台支群、中央の鹿島支群、東側の枚方支群の3つの支群に分けられる。昭和47年に54基が県の史跡に指定された。平成5年古墳公園を建設する「保存整備基本構想」が策定された。

 
6世紀後半に築造が開始され、7世紀前半に全盛となり、8世紀初頭まで継続されたと推定される。

       
地図リンク
 所在地 大里郡川本町鹿島

 荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。
 現存する古墳五十六基は、小円墳がほとんどで荒川に近い古墳には埴輪を持っているものがある。
 昭和四十五年に圃場整備事業に伴い県教育委員会により二十七基の古墳が発掘調査されている。主体部は荒川系の河原石を用いた若干胴の張る横穴式石室で玄室には棺座を設けたものも見られた。天井、奥壁は緑泥片岩を使用していた。玄室と羨道の比は、二対一となり三十センチメートル(漢尺)の定尺となるものが認められている。
 出土遺物には、玉類が少なく、鉄鏃、直刀、刀子、耳環などが多く出土している。
 古墳の年代は奈良時代初期の住居跡の上に古墳が構築されているものがあり、七世紀初頭から八世紀初頭にかけてつくられたものと推定される。
 古墳の埋葬者は、在地において先進的な役割を果たした豪族であろうと思われる。
 荒川旧流域を代表する最も保存の良い古墳群で、埼玉県古墳文化の地域研究の上で貴重なものである。昭和四十七年三月二十日、県の史跡として指定されている。

 平成十一年九月 埼玉県

 この古墳群は、いまから約1400年前に築かれた川本周辺の有力者の墳墓で荒川右岸段丘上に東西約1キロわたって帯状に分布している。古墳は径10m~30m程の円墳で、荒川よりに密集して分布し、大水によって流された古墳も数多くあったと伝えられている。


 現在、県指定地の中には56基の円墳が保存され、指定地南側で発掘された27基の古墳やすでに失われた古墳をあわせると100基を越す大古墳群であったと推定される。埴輪が立てられた古墳は少なく、7世紀を中心に8世紀初頭に至るまで次ぎから次ぎに築造された古墳時代最終末の古墳群と考えられている。  この古墳群は7世紀から8世紀にかけて・・というのが定説だったけれど、最近では6世紀中頃にさかのぼるとされた。2000(平成12)年新しく古墳が発見され、30年ぶりに発掘調査が行われ、年代が6世紀中頃まで遡ることが分かったのである。
           
 鹿島古墳群は、荒川右岸の河岸段丘上に東西約一キロに渡って帯状に分布しています。古墳は径十メートル~三十メートル程の円墳で、荒川よりに密集して分布し、大水によって流された古墳も数多くあったと伝えられています。
 現在、県指定地の中には五十六基の円墳が保存され、指定地南側で発掘された二十七基の古墳やすでに失われた古墳を合わせると百基を越す大古墳群であったと推定されます。埴輪が立てられた古墳は少なく、七世紀を中心に八世紀初頭に至るまで次から次に築造された古墳時代最終末の古墳群と考えられています。
 川本町には、鹿島古墳群のほかにも箱崎古墳群・塚原古墳群島が分布し、合計二百基近い古墳が確認されています。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見され、古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたようです。
 鹿島古墳群は、この地域の歴史を代表する貴重な遺跡として、昭和四十七年に埼玉県指定史跡に指定され、現在広く活用していただくために古墳公園として整備を進めています。

     埼玉県教育委員会
     川本町教育委員会
 


       
 古墳とは今から千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓で、土を高く盛り上げて、その内部に遺骸を埋葬する場所が設けられています。
 古墳の形は、平面形から前方後円墳や円墳、方墳などと様々な形がありますが、鹿島古墳群は円墳だけで構成されています。この様に小さな円墳が密集する古墳群を特に「群集墳」と呼び、鹿島古墳群はその規模から県内を代表する群集墳です。
 鹿島古墳群では、遺骸を埋葬する施設として荒川の河原石を積み上げた長さ四メートル、幅二メートル前後の楕円形の石室が築かれています。また、出入りできる入り口が設けられ、こうした石室を横穴式石室と呼びます。この石室には遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬されました。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土しています。
 また、墳丘の表面は河原石で飾られており、築造された当時は草や木に覆われた現在のイメージとは異なった、白く輝く荘厳な姿であったようです。

     埼玉県教育委員会
     川本町教育委員会


  鹿島古墳群は、今を遡ること千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓という。ではその豪族はどのような氏族だったのだろう。今までの古墳の調査により以下のことがわかっている。

 1 この古墳群は少なくとも6世紀中頃~8世紀初頭まで一貫して同じ敷地内に建造されている。
 2 古墳の形態が変わっておらず、全て円墳なこと。大きさも径10m~30mくらいで、古墳には葺石を敷き詰めている。
 3 古墳の周りに埴輪等など立てられた形跡のあるものが極端に少なく、逆に太刀などの武器具が多く出土している。
 

 鹿島古墳群は荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び 河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。この分布は何を物語っているか。およそ約200年間という長きに渡る統治期間は、一地方豪族とは言え古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたことが推測される。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見されていることでも、この勢力の大きさを推し量ることができるのではないだろうか。
 またこの古墳の石室の内部には、遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬された。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土している。従って、武装集団として割拠していたとも想像できるのである。

 鹿島古墳群が築造された当時の地形上の状況も考慮しなければならない。この地域は平野部と台地との境界に位置していて、北側、東側は平野部、西側、南側は台地である。北側は荒川が天然の境界線となっており、その先には田中神社や三ヶ尻八幡神社のような式内社が鎮座している。この神社の祭神はそれぞれ武御雷神、ホムタワケ神(応神天皇)だが本来の祭神は違っていたのではないか。出雲乃伊波比神社の項でもいったように元は出雲族の一族ではなかったかと考えるが詳しいところは不明だ。
 

 



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虚空蔵山古墳

所在地    埼玉県行田市小見104
区  分    埼玉県選定重要遺跡
埋葬者    不明
築造年代   6世紀後半(推定)


地図リンク
 小見真観寺古墳から県道を挟んで北側に虚空蔵山古墳がある。
 墳長50mほどの前方後円墳だったと見られているが、ほとんど削平されてしまい、現在は前方部の一部分のみが残っている。近年、後円部と周溝の一部が確認され、 周溝内から笑い顔の女性の埴輪・馬形埴輪・ 太刀形埴輪の破片が発掘された。

 

虚空蔵山古墳

 虚空蔵山古墳は、小見古墳群に属する前方後円墳で小見真観寺古墳の北西に隣接して位置しています。
 残念ながら現在は前方部の墳丘の一部が残るのみですが、平成20年の発掘調査で、後円部と周溝の一部が県道の東側で確認され、推定墳長約60mの前方後円墳であったことが明らかになりました。周溝内からは大きな乳房を持つ笑い顔の女性の人物埴輪、馬形埴輪、太刀形埴輪、円筒埴輪などの破片が出土しています。
 埴輪の形態から小見真観寺古墳に先行して6世紀後半に築かれた古墳であると思われます。
 なお、現存する墳丘は東西26m、南北19m、高さ約3m、墳頂には名前の由来となった虚空蔵菩薩がまつられています。
                                          行田市教育委員会掲示より引用

 尚、この古墳の埋葬主体部は、巨大な緑泥片岩の板石を使用した横穴式石室があったとされ、現在真観寺境内の樹木の下付近にある。

                      
 虚空蔵山古墳は小見真観寺古墳とほぼ隣接して築造されている。前出した真名板高山古墳は小見真観寺古墳と同じ東西に主軸をもつ古墳で、築造年代がほぼ同じ。この6世紀後半は埼玉古墳は鉄砲山古墳(全長109m)、真名板古墳(全長127m)、小見真観寺古墳(やや遅れて7世紀初頭、112m)とこの狭い行田地域は大型古墳の建設ラッシュ時期でもあった。虚空蔵山古墳は小見真観寺古墳より埴輪の形態から小見真観寺古墳に先行して6世紀後半に築かれた古墳であると思われることから親子の関係があったのかもしれない。少なくとも、状況的にこれらの古墳を築造した埋葬者たちは埼玉古墳群を生で見ていただろうし、そして意識して意図的に古墳を造った、と考えていいと思う。ただしその埋葬者が埼玉古墳群の埋葬者たちとどのような関係にあったかは残念ながら推測のみで不明である。

    

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