古社への誘い 神社散策記

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朝子塚古墳

 群馬県は、嘗て「上毛野国(かみつけぬのくに)」と称し、東国有数の古墳王国であった。群馬県教委が2012年度から実施してきた古墳総合調査の最終報告が纏めた県内の古墳の総数は13249基で、そのうち2434基(速報値)が現存していることが分かった。県教委によると、古墳総数は、東日本では千葉県に次ぎ2番目に多く、規模などの「質」では「東日本随一」という。特に、古墳の墳丘や造出の上に並べ立てられた埴輪に関して、唯一の国宝埴輪である「武装男子立像」は、太田市飯塚町から出土していて、国宝・国指定重要文化財の埴輪全42件のうち19件(45%)が群馬県から出土しているように、群馬県は「埴輪(はにわ)王国」と呼ばれ、日本における埴輪研究の「メッカ」とされているという。
 このように東国(東海・甲信・関東地方)では、圧倒的な質と量を誇り、古墳時代から平安時代にかけて、現在の関東地方で栄えた「東国文化」の中心地でもあった。
             
            ・名 称 朝子塚古墳
            ・所在地 群馬県太田市牛沢町11102
            ・規 模 全長123m 高さ11.8m 形 状 前方後円墳
            ・築 造 4世紀末〜5世紀初頭頃(推定)
            ・指 定 県指定史跡  昭和54年(1979年)102日指定
 熊谷市・小島神明神社から直線距離にして1.3㎞程北側で、群馬県道142号綿貫篠塚線沿いに朝子塚古墳はある。駐車スペースは残念ながらない。
 この古墳は、利根川左岸から1.5㎞北方の沖積地内にあり、低台地上に位置する。東毛地域に所在する前期古墳のうちでは最大級の規模を誇る前方後円墳。墳丘は三段築成で主軸を北西から南東にとる。全長123m、後円部径65m、前方部前幅48m、高さ後円部11.8m、前方部7.5mの規模を有し、後円部の発達した典型的な柄鏡式(えかがみしき)古墳である。
 因みに柄鏡式古墳とは、前方後円墳の一形態であり、古墳時代初期に多い古墳の形で、後円部の直径に比べて、前方部が細長く、あたかも柄のついた鏡のような形の墳形である古墳の事である。
        
                           石段の手前に設置されている案内板
 群馬県指定史跡 朝子塚(ちょうしづか)古墳
 指 定 昭和五十四年七月十一日
 所在地 太田市大字牛沢字朝子塚
 墳丘の全長約一二四mの大型前方後円墳で、後円部に比較し前方部が約五m程低く細長い形態を示している、このため古墳の造形は非常に優美である。周溝は墳丘にそって一周していると推定され、又、墳丘には川原石による葺石が全面にしかれている。
 墳丘裾部には古式の大型円筒埴輪の方形配列が認められ、その列中に埴輪の祖型と見られる底に孔をあけた壺形土器が発見されている。埴輪の種類には、円筒埴輪・朝顔形埴輪・壺形埴輪・家形埴輪等が認められている。
 主体部は竪穴式石室系のものと考えられ、群馬県における古式古墳の典形と見られている。古墳の築造年代は四世紀末~五世紀初頭頃であろうと推定されている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                          「後円部」にある真っ直ぐな石段を登る。
 群馬県における古墳の出現時期を時系列に考察すると、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)最初に出現した王者は前橋市・朝倉八幡山古墳(全長130m)の埋葬者である。同時期には元島名将軍塚古墳(全長96m)と藤本観音山古墳(全長117m)の埋葬者も勢力を得るが、後が続かす衰退。この時期の古墳は3基ともなぜか前方後方墳で、それ以降は前方後円墳となる。朝倉八幡山古墳→前橋天神山古墳と続いた後、この勢力は力を弱めたようで、その後の古墳は規模が小さくなる。
        
                               墳頂部に鎮座する雷電神社
 その後、盟主権を得たのが、距離的には前橋市朝倉に近い倉賀野大鶴巻古墳(全長122m)と浅間山古墳(全長172m)の佐野町、倉賀野町地方で、少し遅れて群馬県東部の太田市で勢力を持つ朝子塚古墳(全長123m)や宝泉茶臼山古墳(全長168m)の豪族である。4世紀末、5世紀初頭はこの勢力が東西を二分していたと思われる。
 佐野町、倉賀野町地方は浅間山古墳後、何故か
5世紀初頭に古墳築造がストップする時期があり、藤岡市・白石稲荷山古墳(全長175m)や高崎市綿貫町・岩鼻二子山古墳(全長115m)の地域に新たな勢力が誕生する何かがあったのかもしれない。
 実は、太田市強戸町には寺山古墳(全長約60m 前方後方墳)という太田市内における最古式の古墳(4世紀前半)が出現していて、古墳時代前期から中期まで一貫して勢力を維持してきた地域であったのであろう。 
        
                後円部から前方部にかけての墳丘とそれを巡る周堀跡が続く

 太田市地域の勢力は益々力を持ち、ついに太田天神山古墳の王者に至るとその絶頂期を迎える。また太田市近郊の伊勢崎市に御富士山古墳(全長125m)があり、共に5世紀中頃の築造であること、この2基の古墳のみ長持形石棺が確認されていることから、この2基の古墳は親密な関係があったと思われる。
 太田天神山古墳の埋葬された王者の後、急速に衰退し、その後古墳の勢力図は群馬県中央部と、西部藤岡市に分散し、古墳の規模も6世紀初頭の藤岡市上落合所在の七興山古墳(145m)を最後にせいぜい100mクラスの古墳に縮小されていく。



参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP国立歴史民俗博物館研究報告 211 20183PDF
    「
Wikipedia」「現地案内板」等
    

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