古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

諏訪神社古墳


        
             ・所在地 群馬県藤岡市藤岡495(字東裏)
             
・形 状 前方後円墳
             ・規 模 墳丘長57m 高さ4m(後円部)
             ・埋葬施設 両袖式横穴式石室(切石積み)
             ・出土品 人骨・装飾付大刀・武器・武具・馬具・須恵器・埴輪
             ・築造時期 6世紀後半
             ・史 跡 藤岡市指定史跡
 上州藤岡諏訪神社の基底部には、墳丘長57m 高さ4m(後円部)の前方後円墳である諏訪神社古墳が存在する。神流川西岸の沖積地に築造された古墳で、築造時期は6世紀後半と推定されている。昭和49326日市の史跡に指定された。
        
            墳丘上に上州藤岡諏訪神社社殿が鎮座する。
 正面が前方部で、社殿の背後が後円部。右手が南方向で後円部の石室は南西面に開口している。
        
                   墳形は前方後円形で、前方部を西方向に向けている。
         社殿から参道を撮影した方向が丁度前方部先端にあたる。
        
                                後円部の北東側にある池
    嘗て墳丘周囲には周濠が巡らされ、現在も北側に池がその名残りとして存在している。
 墳丘外表では円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(靫形・鞆形・人物埴輪など)が認められているが、葺石は明らかでないとのことだ。

 その池の先には「諏訪神社北古墳」と云われる古墳が存在する。現在は墳丘上に高山長五郎頌徳碑・町田菊次郎頌徳碑(いずれも藤岡市指定重要文化財)が建っている。残念ながらこちらの古墳はカメラの容量の関係で近くで撮影できず、遠くから古墳の形態を感じ取るしかない。
 墳形は円形で、直径25m・高さ2mを測る。墳丘外表で葺石・埴輪の有無は明らかでない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南南西方向に開口する。截石切組積みによって構築された整美な石室であり、石室内からは多数の遺物が出土したという(現在は所在不明)。築造時期は古墳時代後期の6世紀後半頃と推定され、諏訪神社古墳と同時期の築造と位置づけられている。
 埋葬施設は両袖式横穴式石室で、南南西方向に開口する。石室の規模は以下の通り
 石室全長 3.8m
 玄室 長さ3.4m、幅1.71.8m、高さ1.651.7m
 石室壁の石材は凝灰岩の切石で、切組積みによって構築される。奥壁は一枚石で、奥壁・側壁とも内傾する。玄室の床面は羨道よりも0.18m低く、拳大の転石の上に川原砂を敷く。天井石は牛伏砂岩。
 石室内からは多数の遺物が出土し、県庁に届けられたというが、現在は所在不明となっている。
 
 社殿の奥に鎮座する境内社(三峯社・阿夫利社・大神宮・豊受社・稲荷神社)付近が丁度後円部となり、社殿を右回りに進むと下る石段が見え、そのルートを素直に進むと境内社・大国神社に到着するが、石段が終わり、鳥居を過ぎてから左方向に進むと古墳の開口部に到着する(写真左)。石段終了地点から社殿方向を見上げると、朱色の境内社群が見える(同右)。
        
                諏訪神社古墳開口部地点
 説明板と標柱が立っていて、標柱には「藤岡市指定史跡 諏訪古墳」と記されている。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南西方向に開口しているという。
        
                 「諏訪古墳」案内板
諏訪古墳
所在地 藤岡市藤岡495
所有者 諏訪神社
古墳は、全長57メートル、後円部径37メートル、高さ4メートルの前方後円墳で、墳頂部に諏訪神社社殿が建てられている
明治39年、柴田常恵氏により発掘調査が行われ、西南に開口する両袖型横穴式石室が確認された。石室は全長5.9メートルの切石積みで、玄室の奥に棺座を区画する間仕切り石、玄室入口には二石の框石が設置されている。石室内からは、人骨、銀環、単鳳環頭大刀・直刀・刀子・衝角付冑・挂甲小札・鉄鏃・弓弭(ゆはず)金具・須恵器・馬具などが出土している。また、後円部北側から東側の墳丘にかけて埴輪(円筒・朝顔・靫・鞆・人物)が出土している。石室の構造や出土品から6世紀後半に造られたと推定される。
藤岡市教育委員会
                                       案内板より引用


参考資料「藤岡市公式HP」「Wikipedia」等
    

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雷電山古墳

 古墳時代は、日本の歴史において弥生時代に続く考古学上の時期区分を指し、古墳(特に前方後円墳)が盛んに造られた時代を言う。畿内を中心に発達した古墳文化は全国的に波及していき、関東地方へは内陸部を通る後の東山道と、太平洋沿岸部を結ぶ東海道の二つの経路を経て古墳文化が流入してきた。東山道ルートを通じていち早く古墳文化を受け入れたのは群馬県を中心とする毛野(けぬ)の一帯であり、埼玉県内へは毛野を媒介として古墳文化が伝えられた。その内容は後期の横穴式石室の中に三味線胴形などと呼ばれ、玄室側壁に胴張りをもち平面円形に近い特異な形式の古墳が現われることを除いて、古墳の形態、内部主体、副葬品、墳丘装飾のいずれをとっても畿内の古墳と大きく異なる所はない。
 県内初期の古墳とされる東松山市大谷の雷電山(らいでんやま)古墳は丘陵上に位置する全長86メートルの前方後円墳で、標高90メートルの雷電山山頂に築造された。後円部の最上段のみ盛り土がされ、それ以外の部分は地山を削り出して造成されている。1984年(昭和59年)の調査で、墳丘は三段構成であり、墳丘外面には葺石を施し、四重の埴輪列が巡ることが明らかになり、埼玉県で最も古い埴輪の出土例で、後円部墳頂には円筒埴輪を方形に樹て並べた方形埴輪列を巡らし、壺形土器の座部に孔をあけた底部窄孔土器も発見されている。
 雷電山古墳が築かれた時代は、5世紀の前半と推定され、この時期にはすでに東松山市とその周辺には、五領遺跡などにみられる大規模な集落がつくられていて、一つの統一した地方政権が出現していたとみられている。大谷の丘陵には、雷電山古墳が築かれてあと、弁天塚古墳、秋塚古墳、長塚古墳などの前方後方墳がつくられ、その周辺には多くの円墳が築かれ三千塚古墳群が形成された。約250基の円墳群があったといわれている。 
        
               ・名 称 雷電山古墳
               ・墳 形 前方後円墳(帆立貝形)全長86m 後円部高さ8
               ・時 期 5世紀初頭(推定)
               ・指 定 市指定史跡
                    昭和31年(195626日 三千塚古墳群として指定
               ・所在地 埼玉県東松山市大谷
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0833965,139.3885539,16z?hl=ja&entry=ttu
 ゴルフ場の敷地内の高台に古墳が存在する。前方部が短い帆立貝形前方後円墳で、後円部墳頂に大雷神社の社殿が建立されている。この古墳は三千塚古墳群の盟主的存在で、「三千塚古墳群」の名称で東松山市の史跡に指定されている。かつて,雷電山古墳の前方部付近において相撲が奉納されたらしい。
        
 ゴルフ場のクラブハウスへ向かう道を進み、駐車場のすぐ手前右に古墳(大雷神社)への分岐がある。右に曲がると道幅が狭い参道となり、大谷大雷神社の鳥居に到着する。鳥居左側には社務所の駐車スペースあり。
        
          
社号標右側の生垣前に「三千塚古墳群」の案内板あり。
 大岡地域には嘗て小さな古墳が多く存在していたようだが、今はゴルフクラブがその存在を消してしまい、古墳かゴルフコースの見分けが難しくなっている。大谷大雷神社が鎮座している場所も、雷電山古墳の墳頂にある。雷電山古墳は三千塚古墳群の盟主墳とされる全長85mの帆立貝形古墳で、墳丘から埼玉県最古の埴輪が出土した。

三千塚古墳群(市指定史跡)
 大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳群」と呼んでいます。
 三千塚古墳群は、明治二十年~三十年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。そのときに出土した遺物は、県外に持ち出されてしまい不明ですが、一部は国立博物館に収蔵されています。三千塚古墳群からは、古墳時代後期(六~七世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・菅玉など)が出土しています。
 雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に造られています。この古墳は、高さ八m、長さ八十mの大きさの帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。
 雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから五世紀初頭(今から千五百年位前)に造られたものと思われます。また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、六世紀初頭から七世紀後半にかけて、造られつづけた古墳であると思われます。
                            東松山
教育委員会  案内板より引用
 
 鳥居を越えて石段を登る(写真左)。雷電山古墳は標高90メートルの雷電山山頂に築造され、後円部の最上段のみ盛り土がされ、それ以外の部分は地山を削り出して造成されている。1984年(昭和59年)の調査で墳丘は三段のテラス構成であるが、石段も数カ所踊り場を設置している。写真右は石段をある程度登ったところで下部を撮影。写真では分かりずらいが、1段目のテラスは周囲見ながらでもしっかりと確認することができる。因みに雷電山古墳は
三段築成の後円部は最上段が盛土で、一、二段目は地山を削り出しているとのこと。
        
           雷電山古墳・墳頂に鎮座している大谷大雷神社社殿。
  社殿の所々に小石が散乱している。古墳
墳丘外面には葺石を施していた名残りであろうか。

 大谷大雷神社の社殿奥で、雷電山古墳の前方部にあたる場所では、嘗て「
大雷神社祭礼相撲」という祭礼神事が行われていて、現在はその跡地付近には「大雷神社祭礼相撲場跡」という案内板がクラブハウス沿いの道端に設置されている。
        
              「大雷神社祭礼相撲場跡」案内板
 
 古墳の前方部はやや平らな空間が見え(写真左)、案内板を照らし合わせると、そこが嘗て祭礼相撲が行なわれた場所ではなかったかと推測される。また前方部で祭礼相撲が行なわれたであろう場所の右側にも、やや平坦な場所が見える所も見えた(写真右)。

 相撲
の歴史は古く、『記紀』などにも見られ、神事として皇室との結びつきも深く、また、祭りや農耕儀礼における行事の一つとして発展している。
 『古事記』国譲りの段において、出雲国稲佐の小浜で高天原系の建御雷神と出雲系の建御名方神が「力くらべ」によって「国ゆずり」という問題を解決したり、『日本書紀』においては、第11代垂仁天皇の御前で野見宿禰と当麻蹶速が日本一を争い、これが天覧相撲の始まりと伝えられる。また、野見宿禰は相撲の神様として祀られている。
 元々は民俗学上すでに弥生時代の稲作文化をもつ農民の間に、豊作に感謝し、五穀豊穰を祈願する際に、吉凶を神に占う農耕儀礼として相撲が広く行われていたことが明らかにされている。本質的には、農業生産の吉凶を占い、神々の思召(おぼしめ)し(神意)を伺う神事として普及し発展してきた。相撲が史実として初めて記録されたのは、皇極天皇の642年古代朝鮮国の百済(くだら)の使者をもてなすために、宮廷の健児(こんでい)(衛士(えじ))に相撲をとらせたという記述で、『日本書紀』にみられる。
 726年(神亀3)、この年は雨が降らず日照りのため農民が凶作に苦しんだ。聖武(しょうむ)天皇は伊勢大廟(いせたいびょう)のほか21社に勅使を派遣して神の加護を祈ったところ、翌727年は全国的に豊作をみたので、お礼として各社の神前で相撲をとらせて奉納したことが、公式の神事相撲の始まりと記されている。
日本各地に残る古くから神社に伝わる儀礼的な神事相撲や地域農村における秋祭の奉納相撲も、また子供相撲、農・漁村や地方都市における土地相撲(草相撲)等もその名残(なごり)の伝承であろう。
              
               石段途中にある「御神井敷地」碑
 神井の井戸は、現在は埋め立てられて川越カントリークラブ場内にあり「御神井史蹟」の石碑が建っている。

 大谷地域には山姫の伝説がある。
 雷電山の山姫様は一年に一度だけ秋晴れの日に舞を舞うと伝えられています。踊りを舞っている時には耳を澄ますと美しい音色が麓の人々にも聞こえてきました。そのうっとりとする調べは村の若い衆の心を動かし「さぞ美しい姫であろう、一目でいいから見てみたい。」と誰しも思いました。しかし、お姫様は気の毒にも足が一本しか無く2本の足を持っている人を見ると呪いを掛けると言われていました。それで山に登るときは 1 本足で歩いて登らなければならず、その上 1 年に 2 度実を付ける栗の木の実を 17 個拾って神殿に御供えしなければなりませんでした。17 個と言う数はお姫様の年齢ではないかと言われていました。ある時、お姫様を見たい一心で一人の勇気ある若者が、栗を 17 個拾って雷電山に一本足で登って行きましたが、夜になっても帰って来ませんでした。翌日、村中の人達が総出で探したらその若者の家の棟にしがみついて眠っていて、若者の着物の裾には一本足の蝦蟇蛙(ひきがえる)が食いついていました。若者はそれから33晩眠り続け目が覚めても何も喋らず、とうとうそのまま年老いてしまいました。一度だけお姫様の絵を描いたそうですが、足は1本でしかも蝦蟇蛙の足のようだったといわれています。」

 一本足の
伝説は「一つだたら(ひとつだたら)」とも言われ、日本全国に伝わる妖怪の一種で一本だたらと同様に足が1本しかない妖怪の伝承は日本各地にあり、一本足(いっぽんあし)と総称されている。古来からの製鉄技法の一つである『たたら製鉄』は鉄が大陸から日本に伝ってきた時代からの製鉄方法で、砂鉄や鉄鉱石を原料に粘土製の炉で鉄を精製する方法である。
 たたら製鉄の工程は昼夜を通して数日間行われる。1400℃以上の火力を維持するために大量の風を送り込むが、吹子(ふいご)という人工的に風を送り込む道具を使っていて、足で吹子を踏むことによって大量の風を送り込むのだが、昼夜問わず数日感行われるため足を患う方も多かったようだ。同時にまた、火の様子も観察し続けなれけばいけないため、眼を患い失明する方も少なくはなかったという。
 このようなことからも一本ダタラが片眼・片足という理由は、たたら製鉄の過酷さを表しているのではないかと言われているが、伝承・伝説のみで、全てを結論付ける事は危険であろう。今後の考古学的な発見等から少しずつ判明出来ればと筆者は考える。

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若宮八幡古墳(石橋)

 若宮八幡古墳は、埼玉県東松山市石橋地区に存在する古墳で、下唐子古墳群に属しており、下唐子3号墳とも呼ばれている。村社・石橋若宮八幡神社の境内にあって円墳上に社殿が築かれている。墳丘南側には横穴式石室が開口しているが、江戸時代中期の明和年間(1764 -1771年)には現在の状態になっていたとされる。1964年(昭和39年)327日、埼玉県の史跡に指定された。2010年(平成22年)と2011年に石室の修復整備に伴う調査が行なわれ、現在では入り口に格子戸が設置されて石室への立ち入りは制限されている。
 なお神社は慶長元年(1596年)に鶴岡八幡宮から分祀されたと伝わっている。  (Wikipedia)参照         
            
           ・所在地  埼玉県東松山市石橋字塚原24401
           ・築造年代 6世紀末築造(推定)
           ・形  状 円墳
           ・規  模 直径約34m・高さ約4.5m
                 玄室長4.28m・最大幅2.9m 前室長2.55m
                                  最大幅2.0m 羨道長1.97m・最大幅1.4m
 若宮
八幡古墳がある東松山市石橋地区は都幾川左岸で東松山台地の西側の縁辺に位置している。唐子中央公園付近に4基、若宮八幡神社周辺に5基分布していて、下唐子古墳群との総称でもあるが、現在原形をとどめている古墳はごくわずかとなっている。この地域周辺には、縄文中期・平安期の集落跡である岩の上遺跡、縄文前・中期及び古墳後期の塚原遺跡、縄文後期・弥生中期の雉子山遺跡、古墳後期の附川古墳群・青鳥古墳群など、実に遺跡が多い地域でもある。
 村社・石橋若宮八幡神社の境内にあり、円墳上に社殿が築かれている。
            
                   参道からの眺め
           一見して古墳上に社が鎮座しているのが分かる。
 若宮八幡古墳の開口場所は八幡神社由緒書の案内板を左方向に進むと見えてくる。進行方向途中左側に「県指定史跡 若宮八幡古墳」の標柱が建っていて、そのまま進むと古墳の玄室で開口部が見えてくる。
               
                                若宮八幡古墳案内板
       
 〇埼玉県指定史跡(昭和三十九年三月二十七日指定)
 古墳は、三世紀の中頃から七世紀の終わり頃にかけて造られた、地域を治めていた権力者のお墓です。東松山市には、発掘調査等で発見された古墳を含め、これまでに五百基以上の古墳が確認されていますが、原形をとどめている古墳はごくわずかとなっています。
 児童文学者の打木村治の小説『天の園』の一節に、「恐怖の八幡穴」と紹介されている若宮八幡古墳は、今から約千四百五十年前の六世紀後半に造られた古墳です。この古墳の素晴らしさは、ほぼ造られた当時のままの形で、石室(埋葬施設)が今日まで残っているところです。
 石室は、羨道、前室、玄室の複室構造の横穴式石室です。石室に使われている石は、砂質凝灰岩で、四角に加工した石の角をL字に切り込んで組み合わせながら積む「切石切組積工法」を採り、更に両側の側壁が弧を描くよう膨らむ胴張型となっており、天井石の重みを分散させる構造になっているなど、造られた当時の土木技術の高さがうかがえます。 
 平成二十二、二十三年の修復保存整備に伴って行われた調査では、地表面に整地土を敷き平らに固めた後に、根石と言われる基礎になる石を設置していることや天井石が厚いかまぼこ型をした砂質凝灰岩であることが新たに判りました。(平成24年度3月 東松山市教育委員会)     案内板より引用
       
  玄室開口部は南西方向を向いていて、石橋若宮八幡神社の参道や社殿の軸線に対して、左側方向に30度〜40度程ずれて開口されている(写真左)。開口部には格子扉があり施錠されていて、中を覗いても真っ暗であるが、すぐ傍に石室の中を照らす電灯のスイッチがあり、奥端部まで観察することができた(写真右)。
 内部主体は、南面に開口する砂岩質泥岩の切石を組み合わせて構築された副室形式をとる大規模な横穴式石室で、全長8.6mを計る。この横穴式石室の開口は古く、江戸時代中頃に開口されていたという。出土遺物 については全く知られていないが、平成2223年度の修復保存整備に伴う調査で、前室部から小札、鉄器、須恵器片等が確認されている。また周溝を推察される個所より人物埴輪片、器材埴輪片、円筒埴輪片が出土しており、古墳の築造年代は6世紀後半と考えられている。
        
                  神社と古墳との融合 
              日本ならではのこの風景もまた美しい。

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入浅見金鑚神社古墳

 入浅見金鑚神社古墳は、生野山丘陵の北東に派生した段丘上にある古墳である。古墳の北側には埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線が通り、墳丘裾の一部が削られ、工事中に埴輪が出土した経緯がある。御由緒(入浅見金鑚神社案内板)では、古墳についても触れている。元々この神社は古墳を避けて鳥居の北東付近に鎮座していたが、1928(昭和3)に墳丘南側が削平され金鑚神社社殿が移築され、この工事の際、主体部が発掘され、石室石材が拝殿前の参道や社殿改修記念碑に用いられたという。
「格子タタキ技法」を用いて製作された埴輪は、このほかにも、かつて北堀にあった公卿塚古墳
(直径65メートル)や生野山丘陵上に所在する生野山将軍塚古墳(直径60メートル)からも出土していて、これらの古墳も、金鑽神社古墳と同時期の築造と考えられているので、5世紀前半の本庄市内には、何人かの朝鮮半島出身の土器製作技術者が、埴輪づくりに活躍していたことが推測されている。
                
             ・所在地  埼玉県本庄市児玉町入浅見
             ・築造年代 5世紀中葉築造(推定)
             ・形 状  円墳
             ・規 模  直径約67.6m・高さ約9.75m2段築成
 入浅見金鑚神社古墳は女堀川左岸で「鷺山古墳」の南西にあり、生野山丘陵北部の丘陵の地山に築造されている。墳丘には入浅見・金鑚神社が鎮座している。1928(昭和3)に工事の際、主体部が発掘され、一部の石室・石材が拝殿前の参道や社殿改修記念碑に用いられたが、内部主体(竪穴式石槨と思われる)は発掘調査されていないとの事だ。
 
       鳥居付近が一段目のテラス。写真でも段差があるのが確認できる(写真左)
     また鳥居横にある「本庄市指定文化財 金鑽神社古墳」標柱あり(同右)
 標柱案内柱より引用(側面部位)
「この古墳は、5世紀中葉に築造された児玉地域最大の円墳である。また、当古墳は全国にも例の少ない叩き目を持つ円筒埴輪が樹立されており、併せて町指定文化財となっている。」との記載あり。
 
            拝殿前には階段があり             石段脇の墳丘を撮影。 
     一段高くなっているのが分かる。         綺麗に円を描てるようだ。
       
 拝殿前までの敷石に注目。この敷石、この古墳から出土した組合い式箱式石棺の部材を転用しているという(写真左)。また社殿裏境内社の脇にある平らな石材もそれらしいように見えるから不思議だ(同右)。
         
                  厳かな雰囲気漂う社

 入浅見金鑚神社古墳は、直径約67.6m・高さ約9.75m2段築成の円墳で、墳丘には入浅見・金鑚神社があり、自然丘陵を利用した下段と、盛土による上段の2段で築成されていて、上段の墳丘には葺石が施設されて、下段は地山をけずりだして整形されていることが確認された。また周溝を含めると100mを超える大型の円墳で本庄市内では最大規模という。

 最後にこの古墳は平野部ではなく、わざわざ段丘上に築造されている。更に墳丘テラス部で円筒埴輪列、墳頂で朝顔形埴輪列が並び、葺石も施設されていることから、古墳築造当時において樹木等はほぼなく,古墳のある場所からかなり遠くまで見通せたものと推測される。
 この古墳が築造された当時の地形を、現在の地形を参考とさせていただく事を条件に周囲の標高を調べてみると、入浅見金鑚神社から古墳墳頂で約90.4m96m。北側県道沿いが約86m。東側で80m程。南側で約73m77m。西側が83m程で、周囲に比べて10m20m程高くなっていて、生野山丘陵北端部ではあるが、見た目には独立した小山という印象を当時の人々は感じたのではなかろうか。
 そういう意味において、この古墳は一種ランドマークのような目立つ存在であり、「見せる為の古墳」「この地域を象徴する古墳」でもあったと思われる。

 古墳および出土品は1988(昭和63)11日付けで市指定史跡に指定された。

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明用三嶋神社古墳

        
        
 三嶋神社古墳(みしまじんじゃこふん)は、埼玉県鴻巣市にある前方後円墳である。
 ・全長55
 ・後円部直径27m、高さ1.5
 ・前方部幅15m、高さ1.8
 墳頂に三嶋神社が建立され、墳丘は変形を受けている。1875(明治8)に地元民により後円部から横穴式石室が掘り出されたと伝えられ、社殿の前に敷かれた緑泥片岩は石室天井石と思われる。1959年(昭和34年)116日付けで吹上町(当時)指定史跡に指定された。
 1983年(昭和58年)発掘調査が行われ、墳丘や周溝から円筒埴輪、馬形埴輪、人物埴輪が出土した。6世紀後半の築造と考えられる。
                                  「Wikipedia」より引用
 
  拝殿前の階段下右側には石室の石材である  拝殿前の階段下左側には三島神社古墳の案内板 
      緑泥片岩が置かれている         
鴻巣市指定文化財(史跡) 三島神社古墳             昭和34116日指定
 元荒川と荒川が分流する地点の自然堤防上に位置する市内最大の前方後円墳で、墳丘主軸をほぼ南北に置き、北側が後円部、南側が前方部と考えられる。墳丘はすでに大きく削られ、埋葬施設である横穴式石室は古く破壊されている。石室の石材である緑泥片岩及び凝灰岩質砂岩は、三島神社本殿前の参道及び正面右側に置かれている。
 墳丘の規模は、昭和58年の周溝確認調査によって主軸長約55m、後円部径約3mであることが判明し、墳丘及び周溝中から多量の埴輪片(円筒・馬形)が検出された。
 本古墳の築造年代は横穴式石室、埴輪の特徴から6世紀後半と考えられる。出土した埴輪は、南東6キロメートルに位置する生出塚埴輪窯から供給されたことが明らかになっている。

 平成286月                           鴻巣市教育委員会より引用
        
             
社殿のある前方部から後円部方向に撮影

古墳時代、さきたま古墳群では5世紀後半築造の稲荷山古墳礫槨と粘土槨に舟形木棺が用いられていて、埋葬者と何らかの点で河川、海との関係性があった事が指摘され、また同古墳群内で6世紀後半に築造された将軍山古墳の横穴式石室には、千葉県富津市保田から鋸南町金谷付近で採集された、所謂「房州石」が、遥々120㎞の距離で運ばれている。舟運による交易が行なわれていたと仮定するならば、当然需要と供給の論理が成り立つことは当然であることで、千葉県木更津市金鈴塚古墳の箱式石棺の石材には長瀞付近で採石されたと考えられる緑泥石片岩が供給されていることを考慮すると、当時のさきたま古墳群を築いた首長権力者は荒川や元荒川を介して、房総半島との双方向の水運を長い期間保持していたことが推測される。
 最近さきたま古墳群の鉄砲山古墳(前方後円墳 主軸長109m)の横穴式石室入口部が調査され、壁体に群馬県・榛名山二ッ岳噴出起源の角閃石安山岩5面削り石の使用が判明し、7式には行田市・八幡山古墳の巨大石室の壁体にも使用されているとの事から、利根川の水運(こちらは利根川支流である会の川等中小河川を使用したか)で上毛野地域とも繋がっていたとも考えられる。

 明用三島神社古墳は元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置しているとはいえ、箕田古墳群からもさきたま古墳群からも少々離れている位置にあり、周辺一帯もこれといった特徴のない場所に、ポツンと単独で存在している。低地に古墳を築造したことには特別の事情があったと思われ、そこには埋葬者と荒川との強い関係性を反映するものと考える。

 明用三島神社古墳から南東方向に
8㎞程行くと生出塚埴輪窯跡が存在する。この窯跡は、古墳時代後期の東日本最大級の埴輪生産遺跡で、1976年(昭和51年)に埴輪窯跡が確認され、1979年(昭和54年)には埼玉県教育委員会の発掘調査が開始されて、以後、現在まで分布調査や発掘調査が40回以上にわたっておこなわれているが、遺跡内から40基の埴輪窯跡および2基の埴輪工房跡、および、粘土採掘坑1基、工人と思われる人びとの住居跡9軒、土坑1基などを確認していて、出土品は国の重要文化財に指定されている。
 この埴輪窯跡で生産された埴輪の分布では、行田市の埼玉古墳群、坂巻
14号墳はじめ埼玉県内の諸古墳、また、千葉県や東京都、神奈川県など東国とくに南関東各地の古墳から、生出塚埴輪窯跡で生産されたとみられる埴輪が出土している所から見ても、埴輪を遠隔地の古墳へ長距離運搬するに際しては、河川や海などの水上交通が重要な役割を担っていたものと考えられる。
 生出塚埴輪窯跡は大宮台地端部北側傾斜面上にあり、これに沿って流れる元荒川までの距離は現在約
1.0㎞であり、
明用三島神社古墳は元荒川と荒川が結合する地点に築造されている。何か関連性はないだろうか。
        
 荒川は瀬替え以前、元荒川と繋がっていた時期があり、それが56世紀であり、この明用三島神社古墳は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い見解もある。
 最近の調査では元荒川が吹上町市街地の東南方面、前砂地区から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その蛇行河跡は自然堤防も伴ったのだろうか、不思議と現在も道路として残っている。

 明用三島神社古墳は横穴式石室の構造から
6世紀後半の築造と推測されているが、もうその頃には、運河的な河川は機能され、そこから上がる財も大きかったのではなかろうか。


 

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