新井香取神社
・所在地 埼玉県久喜市新井272
・ご祭神 経津主命 天穂日命
・社 格 旧新井村鎮守
・例祭等 初祭り 1月10日 春祭り 4月15日 もや刈り 7月20日
秋祭り 10月15日
久喜市新井地域は河原代地域の南西側に位置し、埼玉県道316号阿佐間幸手線の南側に沿って接している地域で、広大な田畑風景に囲まれた農業地域でもある。その地域のほぼ中心に新井香取神社は鎮座し、地図を確認すると、河原代香取神社の南西方向で、近距離に社は建っている。一見ログハウス調の「新井集会所」に隣接していて、そこの駐車スペースをお借りしていから参拝を開始した。
新井香取神社正面
『日本歴史地名大系』 「新井村」の解説
島川村の東に位置し、村の南を島川が流れる。川沿いには堤防(島中囲堤)がある。田園簿に村名がみえ、田高五〇石余・畑高二一九石余で、幕府領。元禄郷帳では高三〇三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本酒井領で、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)などでも同じ。「風土記稿」によると家数三七。助郷は日光道中中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。八甫(はっぽう)村(現鷲宮町)との間の広大な河川敷を両村で草刈場としていたが、宝永七年(一七一〇)当村はその境をめぐって訴訟に及んだものの、その訴えは退けられた(文久元年「八甫村諸記録写」霊樹寺文書)。
開放感ある田畑風景の中にポツンと鎮座する社
低地に鎮座している為なのか、水塚上に社は建っている。
鎮座地の新井が農業地域であることから、古来、農耕神として信仰されている。また、個人的に病気平癒や災難除けなどを祈願する人もあり、特に戦時中は出征にあたって武運を祈願する人が多かったという。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 新井村』
香取社 村の鎭守なり、東福院持、
東福院 新義眞言宗、内國府間村正福寺末、香意山觀音寺と號す、本尊不動を置、
香取神社 栗橋町新井二七二(新井字宮廻り)
広々とした田畑に囲まれ、新井のほぼ中央に鎮座する当社は『明細帳』に「往古ヨリ村内鎮守二勧請シ有之元禄十丑年(一六九七)検地其以前ヨリ除税地トナリ」と記されている。
水害から守るために築かれた水塚の上に建つ社殿は、慶応元年(一八六五)に再建されたものである。本殿は二間社流造りで、共に同じ型の幣束(高さ五七㌢㍍)が納められている。これは『郡村誌』に「香取・鷲宮社」と見えるように、二社の合殿であるためで、大正六年に香取神社と称しているが、祭神は現在でも経津主命(香取神社)・天穂日命(鷲神社)の二柱である。いつごろ香取神社と鷲神社が併せ祀られるようになったかは不明であるが、その背景には、寛永年間(一六二四-四四)以前は当地が香取神宮を一の宮とする下総国に属していたことと、鷲宮町の大社である鷲宮神社の信仰圏との関係が考えられる。
なお、『風土記稿』新井村の項には「香取社 村の鎮守なり、東福寺持」と載り、鷲神社の名は見えないが、これは記載を漏らしたものと解すべきであろう。
江戸時代に別当であった東福寺は、神仏分離後に廃寺となり、昭和十七年、狐塚の高秀寺に合併した。しかし、その堂宇は合併後も残され、今日も観音堂の名称で氏子に親しまれている。
「埼玉の神社」より引用
石段途中の右側に設置されている力石の案内板 水塚上に建つ拝殿の右側に祀られる天満宮
社殿の右側奥に祀られている境内社・稲荷神社
新井という地名は、一般には新たな開発地を表すといわれているが、当地では地名起源として興味深い話が伝わっている。それは、当地に新井姓が多いところから付けられたというもので、この姓が多いのは、県内でも特に新井姓が多いといわれる秩父・本庄方面から集団で移住したためであるという。この移住は、江戸初期ごろで、その子孫の家々は、いずれも十三、四代を数えている。
新井香取神社 遠景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
