古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

熊野神社古墳

 桶川市の西部にある川田谷地域は、荒川右岸の自然堤防上の台地に位置し、早くから開発が盛んな地域であったようで、4世紀から7世紀にわたる古墳時代に、数多くの古墳が築かれる。この地域一帯には70基前後の古墳が築かれたと推定され、これを「川田谷古墳群」と呼んでいる。
 この古墳群は行田市にある埼玉古墳群より約1世紀前に築かれ、県内における古墳時代の始まりを物語る古墳として注目されている。
 江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿 川田谷村』の項には、古墳の存在を示す記述がある。
 八幡社
 近き年村民社辺の地を穿ちしとき、圓徑七八寸許なる瓶二つを掘出せしが、其中に丹の丸せし如きもの納ありしと云、明器の類なるべければ、墳墓ならん、村民の持、
 王子稲荷社
 四十年前社傍の土中より石櫃を穿出せり、中に甲冑大刀等数多あり、又圓徑二寸許の玉の如きもの出たる由、今皆失ひて甲の鉢一つ殘したれど、それも半ば毀損せり、こゝも前の八幡の地と同く墳墓などの跡なるべし、
 川田谷古墳群は、家屋敷や農地の中にあったこともあり、明治時代になると耕地の拡大によって姿を消していった。その中で、埴輪が姿を現し、墓室である石室が開かれ、副葬品が発見されるようになった。この時代の出土品の一部は、現在も東京国立博物館に所蔵されている。
 この地域は中世の河田郷に比定され、古くから古墳が多く存在するところとして知られていた。この熊野神社古墳もその古墳群の一つで、円墳上に社が鎮座している。
        
              
・名 称 熊野神社古墳
              
・墳 形 円墳(最大幅16mの周溝あり)
              
・規 模 直径38m・高さ66.5m
              
・築 造 4世紀後半(出土土器から推定)
              
・出土品 勾玉、ガラス玉、管玉、紡錘車、石釧、筒形石製品、
                   筒形銅器等
                   *出土品は国の重要文化財に指定
              ・
指 定 埼玉県指定史跡
                   *
熊野神社古墳 昭和42年(1967328日指定
「川田谷古墳群」は大宮台地の西側、荒川を見下ろす標高20m程の台地上にある。調査によって6世紀前半から7世紀後半頃に造られたものが多いことが判明した。荒川の沖積地に向かってとび出している川田谷の台地の三つの支丘を中心に、北から西台(にしだい)・原山(はらやま)・柏原(かしわばら)・樋詰(ひのつめ)の四支群をつくる。
『新編武蔵風土記稿』にも記載があり、近世後期から存在が知られていたが、明治以来大規模な開墾により、多くの古墳が壊された。この時に発見された副葬品や埴輪類の一部は東京国立博物館や地元にある。
        
                                熊野神社古墳 遠景
 熊野神社古墳は、荒川と江川の合流する台地状にある直径38m、高さ6mの円墳で、円墳上に熊野神社が祀られている。昭和3年(1928)に社殿を改築した際に、玉類、石製品、 銅製品、太刀などの副葬品が出土し、一部は失われたが、それらは国重要文化財として、現在、埼玉県立博物館で保管・公開されている。桶川市歴史民俗資料館では、これらを精密に複製したものを展示している。昭和59年(1984)の発掘調査で出土した土器から、 4世紀後半の県内でも古い時期の古墳であることが確認されている。
 
          熊野神社古墳正面             川田谷熊野神社の案内板
        
   社殿に通じる石段手前に設置されている「埼玉県指定史跡 熊野神社古墳」の案内板
 埼玉県指定史跡 熊野神社古墳
 熊野神社古墳は、川田谷地域の荒川沿いに多く分布する古墳の1つで、河川交通上野重要な位置にあります。
 墳形は円墳で、昭和59年度に行われた調査によって、直径38m、高さ66.5m、周溝の幅1416mであることが確認されました。
 粘土槨(粘土で棺を覆って安置したもの)と想定されている埋葬施設は、昭和3年、墳頂部の社殿改修の際、偶然に発見され、玉類、石製品類、筒形銅器など、畿内の古式古墳と共通する多くの副葬品が出土しました。当時の出土遺物は国の重要文化財に指定され、現在は埼玉県歴史と民俗の博物館で保管展示されています。また桶川市歴史民俗資料館では複製品を展示しています。
 出土した遺物などからみて、古墳の年代は4世紀後半ごろと推定され、埼玉県内では比較的古い時期に築造された古墳と考えられています。
 平成2112月 埼玉県教育委員会・桶川市教育委員会
                                      案内板より引用
 更に『日本歴史地名大系』による 熊野神社古墳」の解説によれば、「墳丘は盛土の上段部と地山を整形した下段部の二段築造で、焼成前に底部を穿孔した二重口縁の壺形土器のほか器台形土器・坩形土器など五領II式の赤彩された土師器が発見された」と記載され、地山の上部を盛り土した二段築造の円墳であるという。丁度社の石段を登る途中にある鳥居付近の踊り場が、上段と下段の境目に当たるのであろうか。
 
  古墳墳頂部に鎮座する川田谷熊野神社       墳頂部に建つ「出土品ノ碑」
 
               古墳墳頂部を撮影(写真左・右)。
   熊野神社を鎮座させるために墳頂部は削平されている可能性は否定できないであろう。

 昭和3年(1928)、社殿改築時に墳頂から粘土槨らしき部分が発見され、そこから東国では珍しい碧玉製品をはじめ、玉類・石製品・銅製品・鏡・刀などが大量に出土した。
 この古墳はあまり目立たない場所に築造されていて、一般的な評価も高くないように見えるが、埼玉県早期の古墳を語るうえで非常に重要な古墳でもある。
 現在の荒川の流路は、江戸時代初期に旧入間川水系の和田吉野川に南流する荒川を瀬替えして定まったものである。嘗て東京湾にそそぐ利根川から分かれた入間川が大宮台地の西を北上し、さらに、入間川・都幾川・越辺川・市野川そして和田吉野川と分かれ、入間、比企地方に流域を広げていた。
 古代において、河川は、人や物が行き交う上で重要な交通路であった。荒川に沿う川田谷の台地にある遺跡からは、繊細な櫛描文で飾られた壺が発見されている。この土器は、東海地方西部の伝統をひくものである。
 3世紀、近畿地方の勢力を中心として「国」の礎を作ろうとする歴史の波がおこり、東海地方の人びともこの波を受け止め、さらに東方へと伝えていった。現に熊野神社古墳出土品の中には畿内の古式古墳と共通する多くの副葬品が出土している。
 この古墳の埋葬者はどのような経歴の人物であったのであるかは不明であるが、筆者の想像を逞しくすると前置きをした上での考察ではあるが、鴻巣市・明用三島神社古墳の埋葬者と同じく、旧入間川等の河川による交易・流通を一手に担う一族の中心人物であったようにも思える。
 今後の新たなる発見により導き出される興味ある展開に期待したいと願うばかりだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「熊野神社古墳の物語 リーフレット PDF
    「Wikipedia」「境内案内板」等
        
        

拍手[1回]


鶴ヶ塚古墳


        
             ・
所在地 埼玉県加須市町屋新田622
             ・形 状 円墳(前方後円墳の可能性あり)
             ・規 模 径15m 高さ3m
             ・指 定 埼玉県選定重要遺跡
             ・指定日 1976年(昭和51年)101
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1518213,139.6014811,18z?hl=ja&entry=ttu
「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」では出土品に埴輪、前方後円墳の可能性ありと記されている。埼玉県選定重要遺跡 1976年(昭和51年)101日指定。
 なお、墳丘から靫型埴輪の下半分が出土したため、古墳と認定されたという。
        
     町屋新田天照皇太神宮の正面鳥居右側に立派な木製の看板が設置されている。
『新編武蔵風土記稿 町屋新田村条』には、「町屋新田は本村の名主三左衛門の先祖六蔵といへるもの、寛永の始本村の百姓等をすゝめて開設せし地にて、其開けざる以前は鶴ノ塚といひし原野なりしといへり」と記載され、この地域が開墾前には「鶴ノ塚」と呼ばれていた原野であったという。
 また境内には、天照皇大神、稲荷社、浅間社等祀られているが、そのうちの浅間社は、戦前までは北に接してあった浅間塚上にあったが、戦後、ここに移されたものであるといい、その関係で、地元ではこの塚を「鶴ヶ塚」とは呼ばず、「稲荷塚」とも呼んでいたという。
        
                             鶴ヶ塚古墳の案内板
「鶴ヶ塚古墳と大松」
 一見方墳のように見えるが、重要遺跡調査書には径15メートル、高さ3メートルの円墳と記載されている。しかし、かつては前方後円墳ではなかったかとも思われる
 南側には手子堀川が接して流れ、西から北に灌漑用水路が周溝のように接して設けられている。墳上は殆んど平らに削られ、天照皇大神、稲荷社、浅間社等がある
 浅間社は、戦前までは北に接してあった浅間塚上にあったが、戦後、ここに移されたものである。地元ではこの塚を鶴ヶ塚とは呼ばず、稲荷塚とも呼んでいたという
 また、この古墳上には樹令三百年余といわれる大松がある。この松は、目通り直径1.2メートル余もあり、四方に張り出した枝振りは自然に整っていて、その姿は一幅の風景画を思わせるものがある
 昭和五十五年三月 加須市
                                      案内板より引用
        
                町屋新田天照皇太神宮正面
 古墳の面影は失われて、神社の基壇として四角く残るのみである。しかし社があったからこそ、この古墳は形状は崩しながらも現在まで残っていて、語り継がれてきたのであろう。上記の案内板には「浅間社は、戦前までは北に接してあった浅間塚上にあったが、戦後、ここに移された」とあり、少なくとも「浅間塚」は塚状(古墳)として戦前までは存在していたが、戦後「移された」、つまり浅間塚のあった場所は開発され、今は無くなったということだ。
        
                              社殿からの一風景
 現在鶴ヶ塚古墳は「埼玉県選定重要遺跡」の指定を受けている。この埼玉県選定重要遺跡」とは、日本の埼玉県の教育委員会が、歴史上または学術上の価値が高いものとして選定した、埼玉県内の遺跡(周知の埋蔵文化財包蔵地)である。1969年(昭和44年)101日と1976年(昭和51年)101日の2回の選定により、計161遺跡が選ばれている。
 対象となるものは考古学における遺跡(集落跡・貝塚・古墳・城跡など)であり、文化財としての種別は、文化財保護法および埼玉県文化財保護条例に定める埋蔵文化財(土地に埋蔵された文化財)にあたる。その中で埼玉県教育委員会が特に重要と評価したものを選定し「重要遺跡」として呼称・把握した、県独自の保護制度である。
 そのため、国・県・各市町村が指定(あるいは登録・選定・選択・認定)した他種別の文化財(記念物の史跡・旧跡など)と重複して選定されているものも存在するという。
 1976年(昭和51年)の第2選定以降、新たな選定は行われていないが、『埼玉県文化財目録』要約欄には、第2選定以降の調査による知見も反映されるようになっている。


 ところで、鶴ヶ塚古墳・町屋新田天照皇太神宮の道を隔てた東側には、「月待塔(つきまちとう)」の一つ、「十九夜塔」があり、その周辺には休憩スペース等も設置されている。
        
                    十九夜塔
 月待塔とは日本の民間信仰の信仰で、特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔である。十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。
 文献史料からは室町時代から始まり、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行し、「十五夜塔」「二十三夜塔」が特に普及していた。
 旧暦19日の月待の記念として、十九夜講中によって造立された十九夜塔は、ほとんどは女人講で安産などを祈願したそうである。
        
                  十九夜塔の案内板
 十九夜塔  所在地 加須市大字町屋新田
 この十九夜塔は、地元では十九夜様と呼ばれ、近在の各家庭の女性には安産の神様として大変敬われており、産前、産後には必ずお参りする風習になっている
 昔は、安産や育児、婦人の病の祈願が盛大に行われていたが、現在は、地元の各家庭の主婦が年二回、春と秋の彼岸前後に当番の家に集まり、手料理を作り、それを食べながら話し合いをし、十九夜塔にお参りをしている。
 なお、この十九夜塔は、碑文によれば天保六年(一八三五)の造立である。
 昭和五十六年三月 加須市
                                      案内板より引用 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」「案内板」等
                    

拍手[2回]


おくま山古墳


        
            ・所在地  埼玉県東松山市古凍86
            ・形 状  帆立貝形古墳
            ・規 模  墳丘長62m。後円部径40m・高さ7.0m、
                  前方部幅20m・高さ1.5m
            ・築造年代 六世紀前半(推定)
            ・指定日  昭和46年(1971年)64日(東松山市指定文化財-史跡)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0194596,139.4279718,17z?hl=ja&entry=ttu

 おくま山古墳は、国道254号線と埼玉県道27号東松山鴻巣線が交わる「柏崎」交差点の約200m東に位置している。埼玉県道27号東松山鴻巣線から国道に合流する約100m手前には「おくま山古墳」の標識が見えるので、すぐ先の路地を左折する。道幅の狭い道路に変わり、300m先の路地を右折、その後200m程南下してからT字路を右折してから暫く進むと右側におくま山古墳の案内板と鳥居が見えてくる
「柏崎」交差点の東側200m程しか離れていないが、進路を説明するとこのようなややこしくなってしまうのは、この交差点から直接古墳に進む単純な道がなく、上記のように右回り方向に進むか、又は国道254号線を直進してから左斜め方向に進む道を進んでから、その先の変則的なT字路を左折、北上し、その後左方向に進むルートの2パターンしかないためである。筆者が紹介したルートは県道沿いに「おくま山古墳」の標識もあったので、今回はそのルート紹介をしたが、国道からアプローチするほうは距離的には短いし、決して難しくないので、もし行く機会があった場合は、どちらでも良いので是非お試しして頂きたいと思う
        
                  おくま山古墳正面
 おくま山古墳は都幾川と市野川に挟まれた東松山台地の南東部で、台地が川島方向へ舌状に張り出した中央に立地しているという。都幾川と市野川が過去どのような流路であったかは、考古学的な詳しい調査が必要だが、古墳がどのような場所に築造されたかは何百年経とうが決して変わるのもではない普遍的な存在だ。謂わば古墳は「生きた歴史の証人」ともいえよう。
        
                           「市指定史跡 おくま山古墳」の標柱
        
                     案内板
 東松山市指定文化財
 おくま山古墳  昭和四六年六月四日指定
 この古墳は、都幾川と市ノ川に挟まれた東松山台地の南東部で、台地が川島方向へ舌状に張り出した中央に立地しています。周辺には円墳など十三基の古墳が残っており、柏崎古墳群と呼ばれています。この古墳を代表する古墳のひとつです。
 古墳は、丸く高い後円部(円丘)と低く裾を拡げる前方部(方丘)からなる、前方後円墳と呼ばれるものです。墳丘の規模は全長六二m、高さ七m、この周りに幅が広い濠(約一〇m、深さ一.七m)が巡らされ、現在でもその西側には、濠跡が窪んでみえています。 昭和六一年と平成七年の二回、濠の部分の発掘調査が行われ、人物埴輪(盾持ち人四体)や円筒埴輪が出土しました。盾を構えて立つ武人の埴輪は、この古墳に葬られた主人を守っていたと考えられます。
 平成七年の調査では、群馬県榛名山二岳の噴火による火山灰が、古墳を巡る濠跡に薄く積もっていたことが確認されました。この火山灰は六世紀のはじめ頃、関東の南東地域に広く積もったことがわかっています。 この火山灰や出土した埴輪などから、この古墳が造られたのは、六世紀はじめ頃までと推定されています(以下略)
                                        案内板より引用
        
             鳥居を過ぎると真っ直ぐな参道が続く。
        
       参道の先はおくま山古墳の墳頂部にあたり、古凍熊野神社が鎮座する。
 古凍熊野神社の創建年代等は不詳ながら、「須長家由緒書」によれば、家督を譲った須長長春が孫の義清を連れて古氷村に移り住み、義清は古氷定右衛門尉と名乗り、村の鎮守として熊野大権現(現在須長一族の氏神)と鷲宮大明神(当社)を勧請したという。

「おくま」という名称由来は、当所全く分からなかったが、古墳墳頂に鎮座している社が古凍「熊野」神社であり、この古墳の別名も「熊野神社古墳」というところから、
「おくま」⇒「①おん+②くま」
敬意やていねいさを表す接頭辞である「御(おん)」の省略形。
熊野神社の頭字である「熊」。
 ではないかと勝手ながら推測した。
        
                後円部から前方部を撮影

 東松山市には古墳時代に築造された古墳が多数確認されている。その多くは高坂台地・松山台地・大谷丘陵地に築造されている。東松山市を含む比企丘陵地内には、北武蔵のなかでも古墳遺跡の多いところで、北埼玉や児玉地方とともに古墳時代には北武蔵のなかでも古くから発達した地域であった。多くは10m30m程の小古墳であるが、その中にあって大型と言われる古墳もある。
野本将軍塚古墳 前方後円墳  全長115m。後円部の高さ15m、前方部の高さ8m
雷電山古墳   帆立貝形古墳 全長85m。高さ7m、後円部径73m、前方部幅39m
諏訪山35号墳  前方後円墳   全長68m。後円部径40m・高さ9m、前方部幅30m
おくま山古墳  帆立貝形古墳 全長62m。後円部径40m・高さ7.0m 前方部幅20m
天神山古墳   前方後円?  全長57m。後円部高さ2.4m 前方部高さ1.4m

 これらの古墳は台地・丘陵地上に築造されているケースが多いが、何よりも「河川」に近い場所に古い古墳は造られている。筆者の勝手な推論だが、嘗て東京湾から荒川の支流を遡った集団がいた。東海地方(現在の岐阜、愛知、静岡)の集団が、小さい舟に乗って東京湾に入り、荒川を遡って、更にその支流を遡って居を定めたのではないだろうか。そこが小規模ながらまとまりのよい耕地を見つけることができる場所だった。

 というのも比企地域に築造された前期古墳はふじみ野市の権現山古墳や東松山の根岸稲荷神社古墳ら「前方後方墳」であるが、この「前方後方墳」の起源は東海地方であるという。
 また東松山市内の柏崎地域、及び五領町、若松両地域内に発掘された「五領遺跡」で発掘された土器から、また古墳時代前期に県内最大規模の集落だった反町遺跡からは、東海地方で作られた外来系土器などが水運を通じて搬入されていて、東海地方や西日本の影響が強く反映されて成立したと考えられている。

 移動手段として「船」の活用はある程度の集団ならば、陸上より容易であるし、食料等の運搬も遥かに便利である。当時の船がどの程度の技術であったかは別問題として、現代の我々が考えている以上に海上や河川を利用した移動・運搬・交易は盛んであったと考えられる。
 さて真相や如何に。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「東松山市HP」「埼玉の神社」「Wikipedia」「現地案内板」等
             

拍手[1回]


諏訪神社古墳

諏訪神社古墳
        
             ・所在地 群馬県藤岡市藤岡495(字東裏)
             
・形 状 前方後円墳
             ・規 模 墳丘長57m 高さ4m(後円部)
             ・埋葬施設 両袖式横穴式石室(切石積み)
             ・出土品 人骨・装飾付大刀・武器・武具・馬具・須恵器・埴輪
             ・築造時期 6世紀後半
             ・史 跡 藤岡市指定史跡

 上州藤岡諏訪神社の基底部には、墳丘長57m 高さ4m(後円部)の前方後円墳である諏訪神社古墳が存在する。神流川西岸の沖積地に築造された古墳で、築造時期は6世紀後半と推定されている。昭和49326日市の史跡に指定された。
        
             墳丘上に上州藤岡諏訪神社社殿が鎮座する。
 正面が前方部で、社殿の背後が後円部。右手が南方向で後円部の石室は南西面に開口している。
        
                   墳形は前方後円形で、前方部を西方向に向けている。
          社殿から参道を撮影した方向が丁度前方部先端にあたる。
        
                                 後円部の北東側にある池
    嘗て墳丘周囲には周濠が巡らされ、現在も北側に池がその名残りとして存在している。
 墳丘外表では円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(靫形・鞆形・人物埴輪など)が認められているが、葺石は明らかでないとのことだ。

 その池の先には「諏訪神社北古墳」と云われる古墳が存在する。現在は墳丘上に高山長五郎頌徳碑・町田菊次郎頌徳碑(いずれも藤岡市指定重要文化財)が建っている。残念ながらこちらの古墳はカメラの容量の関係で近くで撮影できず、遠くから古墳の形態を感じ取るしかない。
 墳形は円形で、直径25m・高さ2mを測る。墳丘外表で葺石・埴輪の有無は明らかでない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南南西方向に開口する。截石切組積みによって構築された整美な石室であり、石室内からは多数の遺物が出土したという(現在は所在不明)。築造時期は古墳時代後期の6世紀後半頃と推定され、諏訪神社古墳と同時期の築造と位置づけられている。
 埋葬施設は両袖式横穴式石室で、南南西方向に開口する。石室の規模は以下の通り
 石室全長 3.8m
 玄室 長さ3.4m、幅1.71.8m、高さ1.651.7m
 石室壁の石材は凝灰岩の切石で、切組積みによって構築される。奥壁は一枚石で、奥壁・側壁とも内傾する。玄室の床面は羨道よりも0.18m低く、拳大の転石の上に川原砂を敷く。天井石は牛伏砂岩。
 石室内からは多数の遺物が出土し、県庁に届けられたというが、現在は所在不明となっている。
 
 社殿の奥に鎮座する境内社(三峯社・阿夫利社・大神宮・豊受社・稲荷神社)付近が丁度後円部となり、社殿を右回りに進むと下る石段が見え、そのルートを素直に進むと境内社・大国神社に到着するが、石段が終わり、鳥居を過ぎてから左方向に進むと古墳の開口部に到着する(写真左)。石段終了地点から社殿方向を見上げると、朱色の境内社群が見える(同右)。
        
                 諏訪神社古墳開口部地点
 説明板と標柱が立っていて、標柱には「藤岡市指定史跡 諏訪古墳」と記されている。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南西方向に開口しているという。
       
                 「諏訪古墳」案内板
諏訪古墳
所在地 藤岡市藤岡495
所有者 諏訪神社
古墳は、全長57メートル、後円部径37メートル、高さ4メートルの前方後円墳で、墳頂部に諏訪神社社殿が建てられている
明治39年、柴田常恵氏により発掘調査が行われ、西南に開口する両袖型横穴式石室が確認された。石室は全長5.9メートルの切石積みで、玄室の奥に棺座を区画する間仕切り石、玄室入口には二石の框石が設置されている。石室内からは、人骨、銀環、単鳳環頭大刀・直刀・刀子・衝角付冑・挂甲小札・鉄鏃・弓弭(ゆはず)金具・須恵器・馬具などが出土している。また、後円部北側から東側の墳丘にかけて埴輪(円筒・朝顔・靫・鞆・人物)が出土している。石室の構造や出土品から6世紀後半に造られたと推定される。
藤岡市教育委員会
                                       案内板より引用


参考資料「藤岡市公式HP」「Wikipedia」等
    

拍手[1回]


雷電山古墳

 古墳時代は、日本の歴史において弥生時代に続く考古学上の時期区分を指し、古墳(特に前方後円墳)が盛んに造られた時代を言う。畿内を中心に発達した古墳文化は全国的に波及していき、関東地方へは内陸部を通る後の東山道と、太平洋沿岸部を結ぶ東海道の二つの経路を経て古墳文化が流入してきた。東山道ルートを通じていち早く古墳文化を受け入れたのは群馬県を中心とする毛野(けぬ)の一帯であり、埼玉県内へは毛野を媒介として古墳文化が伝えられた。その内容は後期の横穴式石室の中に三味線胴形などと呼ばれ、玄室側壁に胴張りをもち平面円形に近い特異な形式の古墳が現われることを除いて、古墳の形態、内部主体、副葬品、墳丘装飾のいずれをとっても畿内の古墳と大きく異なる所はない。
 県内初期の古墳とされる東松山市大谷の雷電山(らいでんやま)古墳は丘陵上に位置する全長86メートルの前方後円墳で、標高90メートルの雷電山山頂に築造された。後円部の最上段のみ盛り土がされ、それ以外の部分は地山を削り出して造成されている。1984年(昭和59年)の調査で、墳丘は三段構成であり、墳丘外面には葺石を施し、四重の埴輪列が巡ることが明らかになり、埼玉県で最も古い埴輪の出土例で、後円部墳頂には円筒埴輪を方形に樹て並べた方形埴輪列を巡らし、壺形土器の座部に孔をあけた底部窄孔土器も発見されている。
 雷電山古墳が築かれた時代は、5世紀の前半と推定され、この時期にはすでに東松山市とその周辺には、五領遺跡などにみられる大規模な集落がつくられていて、一つの統一した地方政権が出現していたとみられている。大谷の丘陵には、雷電山古墳が築かれてあと、弁天塚古墳、秋塚古墳、長塚古墳などの前方後方墳がつくられ、その周辺には多くの円墳が築かれ三千塚古墳群が形成された。約250基の円墳群があったといわれている。 
        
               ・名 称 雷電山古墳
               ・墳 形 前方後円墳(帆立貝形)全長86m 後円部高さ8
               ・時 期 5世紀初頭(推定)
               ・指 定 市指定史跡
                    昭和31年(195626日 三千塚古墳群として指定
               ・所在地 埼玉県東松山市大谷
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0833965,139.3885539,16z?hl=ja&entry=ttu
 ゴルフ場の敷地内の高台に古墳が存在する。前方部が短い帆立貝形前方後円墳で、後円部墳頂に大雷神社の社殿が建立されている。この古墳は三千塚古墳群の盟主的存在で、「三千塚古墳群」の名称で東松山市の史跡に指定されている。かつて,雷電山古墳の前方部付近において相撲が奉納されたらしい。
        
 ゴルフ場のクラブハウスへ向かう道を進み、駐車場のすぐ手前右に古墳(大雷神社)への分岐がある。右に曲がると道幅が狭い参道となり、大谷大雷神社の鳥居に到着する。鳥居左側には社務所の駐車スペースあり。
        
          
社号標右側の生垣前に「三千塚古墳群」の案内板あり。
 大岡地域には嘗て小さな古墳が多く存在していたようだが、今はゴルフクラブがその存在を消してしまい、古墳かゴルフコースの見分けが難しくなっている。大谷大雷神社が鎮座している場所も、雷電山古墳の墳頂にある。雷電山古墳は三千塚古墳群の盟主墳とされる全長85mの帆立貝形古墳で、墳丘から埼玉県最古の埴輪が出土した。

三千塚古墳群(市指定史跡)
 大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳群」と呼んでいます。
 三千塚古墳群は、明治二十年~三十年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。そのときに出土した遺物は、県外に持ち出されてしまい不明ですが、一部は国立博物館に収蔵されています。三千塚古墳群からは、古墳時代後期(六~七世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・菅玉など)が出土しています。
 雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に造られています。この古墳は、高さ八m、長さ八十mの大きさの帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。
 雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから五世紀初頭(今から千五百年位前)に造られたものと思われます。また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、六世紀初頭から七世紀後半にかけて、造られつづけた古墳であると思われます。
                            東松山
教育委員会  案内板より引用
 
 鳥居を越えて石段を登る(写真左)。雷電山古墳は標高90メートルの雷電山山頂に築造され、後円部の最上段のみ盛り土がされ、それ以外の部分は地山を削り出して造成されている。1984年(昭和59年)の調査で墳丘は三段のテラス構成であるが、石段も数カ所踊り場を設置している。写真右は石段をある程度登ったところで下部を撮影。写真では分かりずらいが、1段目のテラスは周囲見ながらでもしっかりと確認することができる。因みに雷電山古墳は
三段築成の後円部は最上段が盛土で、一、二段目は地山を削り出しているとのこと。
        
           雷電山古墳・墳頂に鎮座している大谷大雷神社社殿。
  社殿の所々に小石が散乱している。古墳
墳丘外面には葺石を施していた名残りであろうか。

 大谷大雷神社の社殿奥で、雷電山古墳の前方部にあたる場所では、嘗て「
大雷神社祭礼相撲」という祭礼神事が行われていて、現在はその跡地付近には「大雷神社祭礼相撲場跡」という案内板がクラブハウス沿いの道端に設置されている。
        
              「大雷神社祭礼相撲場跡」案内板
 
 古墳の前方部はやや平らな空間が見え(写真左)、案内板を照らし合わせると、そこが嘗て祭礼相撲が行なわれた場所ではなかったかと推測される。また前方部で祭礼相撲が行なわれたであろう場所の右側にも、やや平坦な場所が見える所も見えた(写真右)。

 相撲
の歴史は古く、『記紀』などにも見られ、神事として皇室との結びつきも深く、また、祭りや農耕儀礼における行事の一つとして発展している。
 『古事記』国譲りの段において、出雲国稲佐の小浜で高天原系の建御雷神と出雲系の建御名方神が「力くらべ」によって「国ゆずり」という問題を解決したり、『日本書紀』においては、第11代垂仁天皇の御前で野見宿禰と当麻蹶速が日本一を争い、これが天覧相撲の始まりと伝えられる。また、野見宿禰は相撲の神様として祀られている。
 元々は民俗学上すでに弥生時代の稲作文化をもつ農民の間に、豊作に感謝し、五穀豊穰を祈願する際に、吉凶を神に占う農耕儀礼として相撲が広く行われていたことが明らかにされている。本質的には、農業生産の吉凶を占い、神々の思召(おぼしめ)し(神意)を伺う神事として普及し発展してきた。相撲が史実として初めて記録されたのは、皇極天皇の642年古代朝鮮国の百済(くだら)の使者をもてなすために、宮廷の健児(こんでい)(衛士(えじ))に相撲をとらせたという記述で、『日本書紀』にみられる。
 726年(神亀3)、この年は雨が降らず日照りのため農民が凶作に苦しんだ。聖武(しょうむ)天皇は伊勢大廟(いせたいびょう)のほか21社に勅使を派遣して神の加護を祈ったところ、翌727年は全国的に豊作をみたので、お礼として各社の神前で相撲をとらせて奉納したことが、公式の神事相撲の始まりと記されている。
日本各地に残る古くから神社に伝わる儀礼的な神事相撲や地域農村における秋祭の奉納相撲も、また子供相撲、農・漁村や地方都市における土地相撲(草相撲)等もその名残(なごり)の伝承であろう。
              
               石段途中にある「御神井敷地」碑
 神井の井戸は、現在は埋め立てられて川越カントリークラブ場内にあり「御神井史蹟」の石碑が建っている。

 大谷地域には山姫の伝説がある。
 雷電山の山姫様は一年に一度だけ秋晴れの日に舞を舞うと伝えられています。踊りを舞っている時には耳を澄ますと美しい音色が麓の人々にも聞こえてきました。そのうっとりとする調べは村の若い衆の心を動かし「さぞ美しい姫であろう、一目でいいから見てみたい。」と誰しも思いました。しかし、お姫様は気の毒にも足が一本しか無く2本の足を持っている人を見ると呪いを掛けると言われていました。それで山に登るときは 1 本足で歩いて登らなければならず、その上 1 年に 2 度実を付ける栗の木の実を 17 個拾って神殿に御供えしなければなりませんでした。17 個と言う数はお姫様の年齢ではないかと言われていました。ある時、お姫様を見たい一心で一人の勇気ある若者が、栗を 17 個拾って雷電山に一本足で登って行きましたが、夜になっても帰って来ませんでした。翌日、村中の人達が総出で探したらその若者の家の棟にしがみついて眠っていて、若者の着物の裾には一本足の蝦蟇蛙(ひきがえる)が食いついていました。若者はそれから33晩眠り続け目が覚めても何も喋らず、とうとうそのまま年老いてしまいました。一度だけお姫様の絵を描いたそうですが、足は1本でしかも蝦蟇蛙の足のようだったといわれています。」

 一本足の
伝説は「一つだたら(ひとつだたら)」とも言われ、日本全国に伝わる妖怪の一種で一本だたらと同様に足が1本しかない妖怪の伝承は日本各地にあり、一本足(いっぽんあし)と総称されている。古来からの製鉄技法の一つである『たたら製鉄』は鉄が大陸から日本に伝ってきた時代からの製鉄方法で、砂鉄や鉄鉱石を原料に粘土製の炉で鉄を精製する方法である。
 たたら製鉄の工程は昼夜を通して数日間行われる。1400℃以上の火力を維持するために大量の風を送り込むが、吹子(ふいご)という人工的に風を送り込む道具を使っていて、足で吹子を踏むことによって大量の風を送り込むのだが、昼夜問わず数日感行われるため足を患う方も多かったようだ。同時にまた、火の様子も観察し続けなれけばいけないため、眼を患い失明する方も少なくはなかったという。
 このようなことからも一本ダタラが片眼・片足という理由は、たたら製鉄の過酷さを表しているのではないかと言われているが、伝承・伝説のみで、全てを結論付ける事は危険であろう。今後の考古学的な発見等から少しずつ判明出来ればと筆者は考える。

拍手[0回]