古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

倉賀野浅間山古墳

 倉賀野浅間山古墳が所在する前橋・高崎台地は、火山性泥流堆積層(前橋泥流)により形成された台地で、北西から南東へ緩やかに傾斜している。台地は榛名山南麓に沿って東流する烏川、榛名山南東麓斜面に発し東流する井野川等の河川や支流の影響を受け開折された自然堤防が発達した幅広い微高地や後背湿地を形成し、微高地には集落跡や古墳・館跡などが立地し、後背湿地には水田跡などが数多く点在する。
 当古墳は烏川左岸段丘上にあり、烏川の形成した崖線から800m北方に位置し、西側を烏川の支流である粕沢川に東側を無名小河川に画された北西から南東に伸びる幅300mほどの微高地上に立地している。
 国指定史跡に指定されている当古墳は全長約171.5mの前方後円墳で、標高85mの平坦地上に立地している。築造は4世紀後半から5世紀初頭と推定され、県内最大の太田市天神山古墳(全長210m5世紀中頃)に次ぐ規模を誇り、ひいては関東地方では太田天神山古墳、舟塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の規模の古墳で、築造された当時は東日本最大の古墳であった
        
             
・名  称 浅間山古墳
             
・所 在 地 群馬県高崎市倉賀野町313ほか
             
・形    状 前方後円墳
             
・規    模 墳丘長171.5m 高さ14.1m
             
・指定種別 国指定史跡 昭和248日 令和3326日(追加指定)
                                
令和31011日(追加指定)
 大鶴巻古墳・小鶴巻古墳の北西方向に位置する全長171.5mの前方後円墳。一旦上記2古墳から北上し、「上町西」交差点を左折、群馬県道121号和田多中倉賀野線に合流後し350m程進んだ丁字路を左折すると、進行方向正面にこんもりとした林の囲まれた当古墳が見えてくる
 因みに「浅間山」の名称は、明治時代まで墳頂に富士浅間社を祭っていたのがその由来となっているようだ。
『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP』において、この古墳は『県下では太田天神山古墳に次ぐ大前方後円墳で、墳丘全長一七四㍍、後円部径一〇八㍍、同高一四㍍、前方部前幅七八㍍、同高七㍍、幅三〇㍍の周堀をめぐらせており、形は大変優美な姿をしている。主体部は未発掘だが、五世紀代の古墳と推定されている。前述の大鶴卷・小鶴卷古墳等と共に、千数百年以前にこの地方に君臨した大豪族の墳墓と考えられる。あるいは、山ノ上碑等にその名を見せる「佐野三家」一族に関係あるかと思われるが、今後の研究に俟つ』と、この古墳の規模について若干の差異はあるものの、上記のような説明文を載せている。
        
                倉賀野浅間山古墳後円部正面
              
 令和4年度から令和6年度までの調査成果により、浅間山古墳の外堀はほぼ全周することが確認された。形状は墳丘の東西側の幅が狭く、後円部の西側が大きく外に広がっていた。外堀の一部が広がる理由については、墳丘を構築する際に追加で土が必要になったため余分に掘削したことなどが考えられるが、今後の検討課題となっているという。いずれにしても、4世紀後半頃において二重の周堀は全国的にも最先端の構造であり、墳丘の規模や形状も含めた研究から、ヤマト王権と深い関わりがあったことが推察されているという。
        
                倉賀野浅間山古墳の案内板
 国指定史跡 浅間山古墳
 浅間山古墳は、烏川左岸の台地上に位置する四世紀後半から五世紀初頭に築造された前方後円墳です。墳丘は前方部が二段、後円部が三段の築造で、斜面には葺石があります。墳丘周囲には内堀と外堀の二重周堀があります。内堀は馬蹄形で、その外側に葺石を持つ中堤(ちゅうてい)が築かれ、さらにその外側に外堀が廻っていることが確認されています。
 同一段丘上には、前方後円墳の大鶴巻古墳・小鶴巻古墳、円墳の大山古墳・庚申塚古墳などの古墳及び方形周溝墓が多数築造されており、浅間山古墳周辺地域が古墳出現期から五世紀後半にかけて充実した墓域を形成していたことがわかります。
 浅間山古墳は築造時、東日本で最大の前方後円墳でした。現在も太田市に存在する太田天神山古墳(墳丘長210m)に次いで県内第二位の規模を誇り、高崎市内で最大規模のものです。
 浅間山古墳の規模
 墳丘長 :171.5m
 前方部 :長さ66.3m、高さ5.5m
 後円部 :長さ105.0m、高さ14.1m
 内堀の幅:30.8m(前方部)、31.3m(後円部)
 中堤の幅:910m
 外堀の幅:5665m
 全  長:南北332m、東西210m(外堀を含む古墳の全体の規模)
 ※ 令和35月現在の調査結果による推定規模(以下略)
                                       案内板より引用
 
            後円部(写真左)から前方部(同右)を望む。
 倉賀野浅間山古墳は、大和の佐紀楯列古墳群の佐紀陵山古墳(奈良市・全長209m)と親和性の高い類似形の平面形を呈しており、また、近郊の下佐野遺跡群などで滑石や緑色凝灰岩を用いた玉造製作工房跡が確認されたことによって、当古墳の築造時期とほぼ同時期の、倉賀野地域に早い段階で玉造集団が移住・定着し、新たな祭祀体制への備えが存在していたことが考えられているとの事だ。
 どちらにしても、当古墳は、現在の群馬が古墳時代において「ヤマト」との関係をより強固に結び付ける歴史を物語る古墳であり、それが一地域の力の結集によって具現化された大型前方後円墳の一つである。このような重要な古墳が、その全貌を今もほぼ形状を保ったままで残存していることに大きな価値がある。市街地化が急速に進む現代にあって、これだけの大型古墳が周堀の形状も綺麗に地割として残っている点は、群馬県でも稀有といい、古墳時代からの歴史を如実に伝えることのできる歴史文化遺産といえよう。 


参考資料「
高崎市文化財調査報告書429:倉賀野浅間山古墳HP」
    「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「高崎市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「遺跡案内板」等   
                     

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大鶴巻古墳・小鶴巻古墳

 かつて古墳時代、高崎市東南部の烏川流域の下佐野町地域から倉賀野町地域にかけての左岸段丘上には、300基近い大型の前方後円墳・円墳が広く分布しており、特に烏川左岸の粕沢川流域には『倉賀野古墳群』と総称される古墳群が形成される。近接する東方井野川下流域の古墳群ともあわせると、付近一帯は古墳時代のほぼ全期間にわたるきわめて大規模な古墳分布地帯である。
 この大規模古墳群には、突出した規模を誇る前方後円墳である倉賀野浅間山古墳を盟主墳とし、粕沢川左岸に築造時期が近接する前方後円墳である大鶴巻古墳が、右岸には同じく前期円墳と考えられる庚申塚古墳・大山古墳等が築造されている。古墳時代前期において大型墳が集中する現象は稀有であり、倉賀野古墳群の優位性が際立っているのだが、古墳時代中期になると、5世紀後半に築造されたと推測される主体部に舟形石棺を有する小鶴巻古墳等幾らかの遺跡は確認できるが、倉賀野浅間山古墳周辺において遺跡数は大幅に減少し、烏川左岸縁辺部においても同様な傾向となる。
        
            ・名  称 大鶴卷古墳
            
・所 地 群馬県高崎市倉賀野町661番地ほか
            
・形  状 前方後円墳
            
・規  模 墳丘長123m 高さ10.5m
            
・指定種別 国指定史跡(昭和248日指定)
 倉賀野神社の南西方450㍍ほどに大鶴卷・小鶴卷の二大古墳がある。『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP』による「鶴巻」という名称の由来は、弓弦を巻く弦巻であるとか、鶴舞の転訛などの説があるが定かでない。古老の話では、この辺一帯は鶴の飛来地であったというから、あるいは「鶴舞」説が正しいかも知れないとの事だが、真偽の程はわからない。
 大鶴卷古墳は、墳丘全長123㍍、後円部径72㍍、同高さ10.5㍍で、2段築成(後円部は3段の可能性有り)で葺石・埴輪を備え、幅約25㍍の周堀をめぐらせる大前方後円墳である。4世紀から5世紀前半頃の築造と推定されている。
        
                  史跡 大鶴卷古墳
              案内板は西側前方部と後円部とのくびれ部付近に設置されている。
        
                 大鶴卷古墳の案内板
 史跡 大鶴巻古墳
 この古墳は、烏川左岸の段丘上に築かれた全長一二三mの前方後円墳で平坦地に土地を二段に盛り上げてつくられています。ただし、後円部の墳頂下五mのあたりで等高線の間隔がゆるやかになる部分が見られることから三段築成の可能性もあります。後円部の径が七二m、高さ十.mであるのに対し、前方部の長さ五一m、前端幅五四m、高さ六.mと、後円部に比較して前方部の幅が狭く、未発達という特徴を持っています。墳丘のまわりには楯型の周濠をめぐらし、地割りにその痕跡が残るなどよく原型をとどめています。墳丘の表面には埴輪や葺石として用いられた川原石が認められます。主体部は明らかにされていませんが、竪穴系の埋葬施設があったと考えられ、墳丘・周堀りの形状や採集された埴輪の特徴から四世紀から五世紀初頭にかけてつくられたことが推測されます。
 所在地 高崎市倉賀野町六六一番地ほか
 指 定 昭和二年四月八日
 高崎市教育委員会                               案内板より引用

        
                   後円部を撮影
 
  後円部の楯型の周濠も綺麗に保存されていて、よく原型をとどめている(写真左・右)。

 大鶴巻古墳の出土品として、円筒埴輪や鰭付き円筒埴輪があるが、これらは黒斑を有し突帯突出率も高いものになる。これら埴輪や墳丘・周堀の形状から、大鶴巻古墳は4世紀末から5世紀初頭にかけての築造と推定されている。

        
             
・名 称 小鶴卷古墳
             
・形 状 前方後円墳
             
・規 模 墳丘長87m 後円部径約50m 前方部幅約40m
 小鶴卷古墳は大鶴卷古墳の北に接し、墳丘全長約87㍍、後円部径約50㍍、前方部前幅約40㍍、幅約20㍍の周堀を有する前方後円墳で、一見するだけでは87㍍という墳丘長には正直見えない程、採土のためかなり変形しているようだが、貴重な歴史的な遺物であるため大鶴卷古墳と併せて末永く保存してほしいものである。後円部墳頂において凝灰岩製刳抜式石棺が見つかっており、これを基に大鶴巻古墳に続く5世紀後半の築造と推定されている。
        
             後円部付近に設置されている案内板
 小鶴卷古墳
 この古墳は大鶴卷古墳と共に、五世紀後半のものと推定される前方後円墳で、倉賀野古墳群を代表する首長墓の一つでもあります。墳丘全長約87m、後円部径約50m、同高約6m、前方部は前幅約40m、同高約2.5mで、幅約20mの周堀を有しています。
 後円部蓋の頂上中心部に舟形石棺と考えられる凝灰岩製の刳抜式石棺が安置されております。その石棺の蓋の部分の既掘穴(盗掘の穴)から見ると、内部には赤色塗彩がなされているとの報告もありますが、詳細は不明です。
 前方部は現在、共同墓地、畑地となっていますが、後円部高と比較して低平です。周堀は在宅化で原型の把握が困難ですが、堀と墳丘を一周していることは確認できます。出土する埴輪片は窖窯(あなかま)焼成で、外面に縦ハケの調整が施されています。
                                       案内板より引用
        
               道路沿いから眺めるように撮影


参考資料「
群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「高崎市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「案内板」等

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七輿山古墳

 七輿山古墳(ななこしやまこふん)の名称の由来には次のような悲しい伝承が伝わっている。
 七輿山古墳からほど近い群馬県高崎市吉井町池字御門にある日本三大古碑の1つ、多胡碑に「羊」と記されている人物と同一とされる「多胡羊太夫」の伝承・伝説に基づいている。
 天児屋根命の子孫、大織冠鎌子5世の孫である藤原将監勝定の嫡男である八束羊太夫宗勝は、和銅7年(714年)に元明天皇より片岡・緑野・甘楽郡より300戸を賜った。
 それまでに毎日、奈良まで(和銅を持って)天皇の御機嫌伺いに100余里の道を往復していた。それは斉明天皇の御代から元正天皇の養老元年(717年)まで63年間に及んだ。
 太夫の乗った馬に小脛(こはぎ)という若者がついて行くと、馬は矢のように走った。ある日、都への途中、木の下で昼寝をしている小脛の両脇の下に羽が生えているのを羊太夫は見てしまった。普段から「私の寝姿は絶対に見ないで下さい。」と言われていたので、かえって好奇心が湧いたのだった。そっと羊太夫は小脛の羽を抜いてしまった。そこからは今までの速さでは走れなくなり、朝廷は羊太夫が謀叛を計っているとして討伐軍を派遣した。八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と呼ばれるに至ったという
        
               
・名 称 七輿山古墳
               
・所在地 群馬県藤岡市上落合8311
               
・規 模 全長145m 高さ16m 形 状 前方後円墳
               
・築 造 6世紀前半
               
・指 定 国指定史跡 昭和21927)年614
                    
*追加指定 平成81996)年926
 七輿山古墳は、上落合地域西境から北境を流れる鏑(かぶら)川と、同地域東境を北流する鮎(あゆ)川に形成された河岸段丘上に造られた三段築成の大型の前方後円墳で、全長150m、前方部幅106m、後円部径87m、前方部と後円部の高さは16mを計る
 藤岡市上落合地域は、藤岡市の北西寄りに位置し、古墳の東側には鮎川に沿って南北方向に群馬県道173号金井倉賀野停車場線が延びていて、また美土里・小野地区と高崎市吉井町を繋ぎ甘楽方面へ抜ける同県174号道下栗須馬庭停車場線が「上落合」交差点にて交わっている。その交差点からすぐ南側にある「上落合南」交差点を西行し、暫く進むと、左側に「七輿の門」という専用駐車場があり、七輿山古墳はその専用駐車場から正面に見えてくる。
        
        「
七輿の門」駐車場のすぐ東側にある「七輿山 宗永寺」の社号標柱
               正面参道から徒歩にて出発する
『日本歴史地名大系』 「上落合村」の解説
 鏑(かぶら)川が西境から北境を流れ、東境を北流する鮎(あゆ)川を東北端で合する。南は三木村・白石村、西は多胡郡岩井村(現多野郡吉井町)と接する。村名は両河川の合流(落合う)地にちなむといい、東方の烏川と神流川が合流する落合村(落合新町、現多野郡新町)に対し上落合としたという(「国志」など)。南部に国指定史跡の七輿山古墳、北部に県指定史跡の伊勢塚古墳があり、ほかに六〇基余の古墳が確認されており、南接する白石にも多数の古墳があるので、古代豪族が居住していたと推定される。
 
    宗永寺参道から七輿山古墳を撮影           後円部に近づく。        
    写真の左側は後円部にあたる。             
 墳丘には自由に登る
ことは出来たのだが、今回は時間の関係で周濠付近の散策のみ。それでも、河岸段丘という地形を利用して造られた三段築成の大型の前方後円墳は、周囲一面周濠を巡らせているため、その大きさを認識しやすい。
        
                      後円部に設置されている案内板
 国指定史跡 七輿山古墳
 所在地 群馬県藤岡市上落合八三一-一ほか
 所有者 国ほか
 この古墳は、周辺の地形を利用して造られた三段築成の前方後円墳です。 大きさは全長146m、後円部径87m、前方部幅106m、高さは前方部・後円部高さは16mです。 四回にわたる範囲確認調査で、墳丘の周りに内堀・中堤帯・外堀・外堤帯・埴輪列が明らかになりました。 また、前方部前面にはコの字状に三重目の溝が巡っています。 出土遺物は円筒埴輪、朝顔形埴輪のほかに人物・馬・盾などの形象埴輪があります。 特に、円筒埴輪は七条凸帯を融資、径50㎝、高さ1.1mの大型品です。
古墳の埋葬施設は不明ですが、出土遺物から六世紀前半に造られたものと考えられます。
        
   後円部の中腹で、先端部にあたる場所は古墳が削られていて、石仏が安置されている。
       よく見るとどの石仏の首はない状態で、近くで撮影しようとしたが、
           薄気味悪さも手伝い、この位置からの撮影となった。
        
                             後円部から前方部を撮影
 群馬県藤岡市が県立歴史博物館と早稲田大学との合同調査を行っていた七輿山古墳について、墳丘の長さは6世紀代の古墳としては全国3位規模の150mだったことが判明した。合同調査は平成30年、最先端のGPS(衛星測位システム)測量と地下探査レーダーを駆使して実施。2日には、正式な学術報告が公開されている。
 七輿山古墳は6世紀前半の前方後円墳で、規模はこれまで145mとされていたが、27万ヶ所を測定するなどして5m長かったことが明確になったという。
        
         前方部。この古墳が三段築成の大型の前方後円墳であることが分かる。
        
                        前方部から後円部を撮影。
 古墳の墳丘は緑地で松・桜等の疎林で覆われていて、地元の協力により美観が保たれ、「藤岡八景」の一つになっている
 昭和47年から4回にわたる範囲確認調査で、内堀・中堤・外堀・外堤・葺石・埴輪列が確認されている。特に、中堤は古墳主軸線の前方部方向と前方部南西方向の隅に方形状の造り出しが付設されていた。また、中堤の平坦面には2列の埴輪列が検出されているという。
        
                       「七輿の門」付近に設置されている案内板

『武蔵国造の乱』は、『日本書紀』安閑天皇元年(534?)条の記載によれば、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ、おぬし)と同族の小杵(おき・おぎ)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていて、小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したという。
 更に、『日本書記』によれば、安閑天皇2年(5355月には大和朝廷から上毛野国の「緑野屯倉」を設置したと載せていて、この「緑野屯倉」は現藤岡市緑野・倉屋敷付近と推測されている。
 
 
         「七輿の門展示室」に解説・展示されているパネル板

 当時、「上毛野君氏」の勢力の中心地であったと推定される高崎市周辺の南東約10㎞の地内にあたり、これは前年の武蔵国造の乱で敗北した上毛野君氏が、大和政権に屈服した結果として設置されたものであるという説もあるが、ハッキリとは解明されてはいない。

 というのも『日本書記』では、上毛野君小熊が助けの求めに応じた記載はなく明らかでないこと、小熊が処罰を受けた記載がなく、むしろ小熊以降に上毛野氏の繁栄が見られること、緑野屯倉が事件に関わるという証拠がないこと等の反論もある。
               

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朝子塚古墳

 群馬県は、嘗て「上毛野国(かみつけぬのくに)」と称し、東国有数の古墳王国であった。群馬県教委が2012年度から実施してきた古墳総合調査の最終報告が纏めた県内の古墳の総数は13249基で、そのうち2434基(速報値)が現存していることが分かった。県教委によると、古墳総数は、東日本では千葉県に次ぎ2番目に多く、規模などの「質」では「東日本随一」という。特に、古墳の墳丘や造出の上に並べ立てられた埴輪に関して、唯一の国宝埴輪である「武装男子立像」は、太田市飯塚町から出土していて、国宝・国指定重要文化財の埴輪全42件のうち19件(45%)が群馬県から出土しているように、群馬県は「埴輪(はにわ)王国」と呼ばれ、日本における埴輪研究の「メッカ」とされているという。
 このように東国(東海・甲信・関東地方)では、圧倒的な質と量を誇り、古墳時代から平安時代にかけて、現在の関東地方で栄えた「東国文化」の中心地でもあった。
             
            ・名 称 朝子塚古墳
            ・所在地 群馬県太田市牛沢町11102
            ・規 模 全長123m 高さ11.8m 形 状 前方後円墳
            ・築 造 4世紀末〜5世紀初頭頃(推定)
            ・指 定 県指定史跡  昭和54年(1979年)102日指定
 熊谷市・小島神明神社から直線距離にして1.3㎞程北側で、群馬県道142号綿貫篠塚線沿いに朝子塚古墳はある。駐車スペースは残念ながらない。
 この古墳は、利根川左岸から1.5㎞北方の沖積地内にあり、低台地上に位置する。東毛地域に所在する前期古墳のうちでは最大級の規模を誇る前方後円墳。墳丘は三段築成で主軸を北西から南東にとる。全長123m、後円部径65m、前方部前幅48m、高さ後円部11.8m、前方部7.5mの規模を有し、後円部の発達した典型的な柄鏡式(えかがみしき)古墳である。
 因みに柄鏡式古墳とは、前方後円墳の一形態であり、古墳時代初期に多い古墳の形で、後円部の直径に比べて、前方部が細長く、あたかも柄のついた鏡のような形の墳形である古墳の事である。
        
                           石段の手前に設置されている案内板
 群馬県指定史跡 朝子塚(ちょうしづか)古墳
 指 定 昭和五十四年七月十一日
 所在地 太田市大字牛沢字朝子塚
 墳丘の全長約一二四mの大型前方後円墳で、後円部に比較し前方部が約五m程低く細長い形態を示している、このため古墳の造形は非常に優美である。周溝は墳丘にそって一周していると推定され、又、墳丘には川原石による葺石が全面にしかれている。
 墳丘裾部には古式の大型円筒埴輪の方形配列が認められ、その列中に埴輪の祖型と見られる底に孔をあけた壺形土器が発見されている。埴輪の種類には、円筒埴輪・朝顔形埴輪・壺形埴輪・家形埴輪等が認められている。
 主体部は竪穴式石室系のものと考えられ、群馬県における古式古墳の典形と見られている。古墳の築造年代は四世紀末~五世紀初頭頃であろうと推定されている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                          「後円部」にある真っ直ぐな石段を登る。
 群馬県における古墳の出現時期を時系列に考察すると、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)最初に出現した王者は前橋市・朝倉八幡山古墳(全長130m)の埋葬者である。同時期には元島名将軍塚古墳(全長96m)と藤本観音山古墳(全長117m)の埋葬者も勢力を得るが、後が続かす衰退。この時期の古墳は3基ともなぜか前方後方墳で、それ以降は前方後円墳となる。朝倉八幡山古墳→前橋天神山古墳と続いた後、この勢力は力を弱めたようで、その後の古墳は規模が小さくなる。
        
                               墳頂部に鎮座する雷電神社
 その後、盟主権を得たのが、距離的には前橋市朝倉に近い倉賀野大鶴巻古墳(全長122m)と浅間山古墳(全長172m)の佐野町、倉賀野町地方で、少し遅れて群馬県東部の太田市で勢力を持つ朝子塚古墳(全長123m)や宝泉茶臼山古墳(全長168m)の豪族である。4世紀末、5世紀初頭はこの勢力が東西を二分していたと思われる。
 佐野町、倉賀野町地方は浅間山古墳後、何故か
5世紀初頭に古墳築造がストップする時期があり、藤岡市・白石稲荷山古墳(全長175m)や高崎市綿貫町・岩鼻二子山古墳(全長115m)の地域に新たな勢力が誕生する何かがあったのかもしれない。
 実は、太田市強戸町には寺山古墳(全長約60m 前方後方墳)という太田市内における最古式の古墳(4世紀前半)が出現していて、古墳時代前期から中期まで一貫して勢力を維持してきた地域であったのであろう。 
        
                後円部から前方部にかけての墳丘とそれを巡る周堀跡が続く

 太田市地域の勢力は益々力を持ち、ついに太田天神山古墳の王者に至るとその絶頂期を迎える。また太田市近郊の伊勢崎市に御富士山古墳(全長125m)があり、共に5世紀中頃の築造であること、この2基の古墳のみ長持形石棺が確認されていることから、この2基の古墳は親密な関係があったと思われる。
 太田天神山古墳の埋葬された王者の後、急速に衰退し、その後古墳の勢力図は群馬県中央部と、西部藤岡市に分散し、古墳の規模も6世紀初頭の藤岡市上落合所在の七興山古墳(145m)を最後にせいぜい100mクラスの古墳に縮小されていく。



参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP国立歴史民俗博物館研究報告 211 20183PDF
    「
Wikipedia」「現地案内板」等
    

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中条大塚古墳

 埼玉県の北東部に拠点を置いたと思われる「さきたま古墳群」の王族たちは、5世紀後半から 7 世紀の中ごろまで約150年の間、現在の行田市埼玉の地に連続して大型古墳を造り続けたと考えられている。「オワケノオミ」の名を刻む金錯銘鉄剣を副葬した「稲荷山古墳」が最初の築造とされ、方形の周溝に取り囲まれた前方後円墳という特徴的な姿をしている。
 さきたま古墳群の時代、熊谷市域はいわばさきたま王権の傘下にあったと云思われる。市域からは荒川を介して石材や窯場で造られた埴輪や鉄製品などが運ばれたようだ。将軍山古墳出土の大形円筒埴輪の一部は、熊谷市千代所在の権現坂埴輪窯跡群で造られ運ばれたと思われる。
 中条中島遺跡の南方に位置する「中条大塚古墳」は発掘調査により 7 世紀代の横穴式石室を持つ円墳と判っている。盗掘のため少数遺物だけの発見であったが、「桂甲小札」という鎧の部品と金銅製の鞘尻金具(金銅製の「頭椎大刀」の一部)という豪華な武具が副葬されていたことが判っており、さきたま王権の一担を占めた人物と想像されていて、古墳時代の間、中条地域に一定の勢力を保っていたと推定されている。
       
              ・名 称 大塚古墳
              
・所在地 埼玉県熊谷市大字大塚365
              
・規 模 基壇 直径59m、円丘 直径35
              
・築 造 古墳時代後期(7世紀前半)
              
・指 定 熊谷市指定史跡 昭和34年〔1959113日指定
 中条大塚古墳がある大塚地域は、現在熊谷市北部地区東部にある中条地域に属しているが、区域内の字(大字)は、上中条・今井・小曽根・大塚で、全域が旧北埼玉郡中条村の区域である。
 因みに、
この「中条」という地名は、古代の条里制(じょうりせい)によるものと推測される。条里制とは、大化の改新後布かれたもので、土地を区画するのに、縦区画の方向を里、横区画の方向を条とし、北から南へ一条、二条…と数えた。この条が地名となり現在に残ったものと考えられる。また平安時代末、藤原姓日野氏流の中条常光が上中条に館を構え中条氏を名乗った。中条氏からは鎌倉幕府初代評定衆中条家長などが輩出され、室町幕府でも奉公衆に取り立てられたが、戦国時代に入り松平氏宗家第4代松平親忠に敗れるなどし衰退したという
        
                              大塚熊野神社正面社号標柱
 中条大塚古墳は、7世紀初頭に造られた当地を支配していた豪族の墓で、直径59m、高さ1.2mの基壇上に、直径35m、高さ4mの半円の墳丘が乗った円墳らしいのだが、今では北西部分のみ残存していて、墳丘全体の約4分の1が残っている状態という。2度にわたる発掘調査により、埋葬施設は、奥室・前室をもつ複室構造の胴張型横穴式石室であることが確認されている。墳頂には大塚村の村社の「大塚熊野神社」が鎮座している
        
                         参道に沿って進むと基壇部に到着する。
 中条大塚古墳は「中条古墳群」に属している。この古墳群は、上中条地区の中条支群(上中条支群)、大塚地区の大塚支群、今井地区の今井支群で構成されており、かつては前方後円墳2基、方墳2基、円墳32基、円墳と見られる古墳3基の計39基が数えられたが、その多くは開墾などにより破壊され、半壊した墳丘を留めるもの2基(小曽根神社古墳と中条大塚古墳)以外は、墳丘が削平されたもの28基、消滅したもの9基という状態にある。
        
                           参道右側で基壇部近くにある巨石
                           石室の天井石であったものであろうか
        
           大塚古墳の案内板(詳細は大塚熊野神社を参照)

古来より、「中条」という地域は、利根川と荒川という両大河川が最も接近する一帯に立地し、両大河川、及びその支流沿いに生まれた多くの微高地は生活に農耕に適しており、西側の台地を巡った伏流水が豊富に噴井する扇端部にも位置することから水利にも恵まれたようだ。このような環境があったことが、弥生時代来数多くの集落をつくり出したと考えられ、中条中島遺跡をはじめ、一本木前・根絡・池上・北島・前中西・諏訪木遺跡などからの古墳時代へ続く集落が確認されている。
       
                                南西部より撮影
 その後、5世紀中頃から7世紀前半頃まで「中条古墳群」が約 2×3 ㎞の広い範囲に造られる。上中条支群にあった鹿那祇東古墳(かなぎひがしこふん)から、国の重要文化財に指定されている埴輪「短甲の武人」や、「馬形埴輪」が出土した。今井支群の鎧塚古墳(よろいづかこふん)出土の土器群は熊谷市の有形文化財に指定され、大塚支群に属する大塚古墳(おおつかこふん)は熊谷市指定史跡となっており、古代から歴史的資料に富んでいる地でもある。
 さきたま古墳群から中条までの約8㎞圏内には盟主に相当する大型古墳は他になく、中条古墳群内にも大型の前方後円墳は見当たらないことから、さきたまの王に従属していたと思われる。
 中条古墳群の周辺では横塚山古墳(上奈良)、とやま古墳(行田市)が稲荷山古墳の出現とほぼ同時期とされることから、妻沼低地の一定の開発の進展が地域の政治力に安定と結合をもたらし、その象徴としてさきたま 王権の確立と古墳群の出現に至ったとする考えもある。


参考資料「熊谷市立江南文化財センター・中条古墳群、中条中島遺跡の製鉄遺構HP
    「熊谷デジタルミュージアムHP」「熊谷市 中条公民館HP」「Wikipedia」等   
                           

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