一ツ木荒神社
奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)
奥津日子神・奥津比売神は、日常の食べ物を煮炊きし、命をつなぐ大事な竈(カマド)を司る神である。 昔は朝廷にも篤く崇敬され、民間でも各家の台所(家)の守護神として大切に祀られていた。
奥津日子神と奥津比売神は、薪を燃やして煮炊きする台所が主流だった時代にその台所で使う火に宿る神霊で、一般には「竈神」と知られている。
竈神というのは大変に古い神で、我々の祖先が土間で火を使う生活を始めたときから信仰されてきた。 台所の火を司る竈神は、火を使って調理される食物を通して、家族の生活の全てを支配する力を発揮する存在だった。 だから、『火防せの神』としての機能は勿論のこと作神(豊穣神)、家族の守護神として信仰されたのである。
奥津日子神、奥津比売神に関して神話には詳しい事績が記されていない。 おそらく朝廷から庶民までよく知られた神である竈神と同じ神霊だったから、今更説明する必要がなかったのかもしれない。 その一般に馴染みの竈神という点から見てみると、その性質は、穢れ(けがれ)に敏感で、人がその意に反した行いをすると激怒して恐ろしい祟りをなすと信じられている。 そういう性質から竈神は、『荒神』と呼ばれている場合も多い。 荒神というのは、火所を守護する神聖な神である三宝荒神のことだ。 三宝荒神は、主に修験道や日蓮宗が祀った神仏習合の神である。 ふつう如来荒神、鹿乱(カラン)荒神、忿怒(フンヌ)荒神のこととされ、この神は仏教信仰の柱である仏、仏・法・僧の「三宝」を守るのが役目である。
三宝荒神も、清浄を尊び不浄を嫌うという非常に潔癖な性質とされている。 それが、古来、不浄を払うと信じられてきた火の機能と結びつき、日本古来の民間信仰である竈の神(火の神)と結合された。
住居空間では竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、霊界(他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある。また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もある。
・所在地 埼玉県比企郡吉見町一ツ木236
・ご祭神 火産霊神 澳津彦命 澳津姫命
・社 格 旧村社
・例 祭 不明
一ツ木氷川神社から北西方向に200m程先に位置し、荒川右岸の堤防を背にして鎮座している。丁度「吉見総合運動公園パークゴルフ場」のすぐ西側の場所に静かに佇む。社としてはそれ程大きな規模ではなく、角地にある小さな社という印象。
創建は、原家の鬼門除けとして祀られたことに始まると伝えられる。
一ツ木荒神社正面
一ツ木荒神社社号標柱
静かな境内の一風景 「荒神社改築記念碑」
荒神社改築記念碑
一ツ木氏子中は〇に、氷川神社の改築に奉仕し続けて唱和六十一年、荒神社の新築並びに境内の整備工事を献ず。
而して一ツ木は昭和五十年代、農業改善に関連する、県営圃場整備事業が、企画されるや、率先之に参画し以って速やかな土地改良をみるに至れり、加えて部落宮川池の一部を、公共用水路として提供し代償として金五百六十八万八千円を取得す。
是を以って全氏子賛同し、荒神社改築に充つ。
即ち
一 奥殿・幣殿・拝殿並びに向拝新築
一 境内積土整備
一 境界側壁工事
合計 金四百七十六万三百六十円也。
*句読点等は筆者が加筆。
案内板より引用
拝 殿
荒神社 吉見町一ツ木四八六
当社は荒川堤防を背にして鎮座している。創建は、原家の鬼門除けとして祀られたことに始まると伝えられる。
原家については、『風土記稿』一ツ木村の項に「旧家者徳太郎 当村草創の民なり、先祖勘解由良房は武田家人原隼人正が子孫なり、甲州没落の後、久しく当郡松山に住す、文禄年中(一五九二-九六)当所に土着して、民家に下る、其後良房慶長六年(一六〇一)七十一歳にして卒す、其子右馬祐良清は寛永十六年(一六三九)六十五歳にして卒す、墳墓竜ケ谷にあり、此正統は則徳太郎なり、良清が次男原五郎兵衛良親が子孫は、今名主作兵衛是なり」と記されている。また「天正庚寅松山合戦図」の北曲輪の守備に原勘解由良房・原左馬祐良清の名が見え、恐らく松山落城により一ツ木村に土着帰農して草分け名主として開発に当たったものであろう。
その後、村の開発が進む中で、当社は村の鎮守として崇敬を集めるようになり、『風土記稿』には「是も(村の)鎮守なり、 長泉寺持」と載せられている。これに見える別当の長泉寺も原家の開基であり、万治年中(一六五八-六一)に創建されたと伝えられる。
神仏分離により長泉寺の手を離れた当社は、明治四年六月に村社となった。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある扁額
原隼人佑昌胤(はらはやとのすけまさたね ?~天正3年5月21日)は戦国時代、甲斐国武田晴信(信玄)・勝頼2代に仕えた武将で「武田二十四将」の1人。信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、信玄に登用された。武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じられ、信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の最高職である両職を担った。天正3年(1575年)長篠の合戦で戦死した。
一ツ木氷川神社でも説明したが、この一ツ木地域は、武田氏滅亡後の文禄年中(1592-1596)当所に土着した原家が、一ツ木村に移り住み、当地を開拓、原家の鬼門除けとして祀られたという。武田信玄の家臣である原家にまつわる竜神伝承もある。
拝殿の両側には幾多の石碑が並べて置かれており、右側(写真左)には「塞神」の祠が3基あり(右から2番目は詳細不明)、左側(同右)には、左より「〇〇大明神 稲荷大明神・八坂神社・九頭龍大権現」と記された祠が3基並んで置いてある。
道路沿いには巨木が聳え立つ。
嘗てはこのような巨木・老木は道標となっていたであろう。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等