吉見町 明秋神社
明治維新の後の 1874(明治7)年、須戸野谷の人々は鴻巣宿からの独立・分村を願い出た。その名も「明治村」、独立の喜びと新村発足の気概を込めての申請である。しかし畏れ多いということで、季節が「秋」だったことから、明治の秋=「明秋村」と命名された。
その後、町村制施行により「横見郡北吉見村大字明秋」となり、大正時代には横堤の構築が始まり、昭和の初めに、明秋集落は河川敷から横堤へと移転した。現在の地名は「比企郡吉見町大字明秋」、明秋神社は川幅日本一の河川敷のなかにあり、境内には、「鴻巣宿」と刻まれた石碑や、明秋村の独立・分村の事跡を伝える石碑が置かれている。
・所在地 埼玉県比企郡吉見町明秋510
・ご祭神 天照大御神 豊受大御神
・社 格 旧村社
・例 祭 不明
吉見町大字明秋地域は荒川を境にして鴻巣市糠田地域の南側にあり、荒川右岸の堤外地がほぼ地域全域を覆い、荒れ地以外そのほとんど畑として使用されていて、その中に湿地、桑畑が散在する。途中までの経路は糠田氷川神社を参照。糠田氷川神社から一旦埼玉県道76号鴻巣川島線を南下、「糠田橋」を通り越してから、荒川土手を抜け、最初の変則的なT字路を左折する。この道は荒川土手方向から河川敷に北上する道となっていて、突き当たりを左折すると一面広大な畑風景が広がる中ポツンと林に囲まれている場所があり、そこが明秋神社の社叢であることはいうまでもない。
因みに「明秋」と書いて「めいしゅう」と読む。
社号標柱
明秋神社正面
須戸野谷新田は江戸よりの行程十二里餘、民戸十六、當所は東照宮御鹿狩ありし地にして、其時鴻巣驛より荒川へ舟橋を渡せし故、この地を鴻巣驛の傳馬役地に賜はりしより、今に至るまて鴻巣宿の持なり、後に原野を開墾して陸田とす、村の四境、東は荒川を隔て、足立郡瀧馬室・糠田の二村に界ひ、南は當郡の北下砂新田、北は今泉新田・上細谷新田、西は上細谷新田及び、一ツ木新田・丸貫新田・下砂新田・古名新田等の數村なり、村の廣さ東西八町許、南北二十町餘、水損の地なり、又村內鴻巣驛より松山への往還あり、當村開闢より以来御料所にして今に替らす、撿地は享保十二年筧播磨守糺せり、
小名 立野 谷通
荒川 村の東を流る、川幅五十間
神明社
村の西の方にあり、村民の持、相傳ふ此地もと東照宮の御休所なりし故、後入當社を建立せしと云、土居なども存せしか、今は廃して圍み九尺許の柳の古樹あるのみ(以下略)
「新編武蔵風土記稿」より引用
木製の鳥居 参道から社殿を望む。
拝 殿
御由緒
当地は荒川右岸の低湿地に位置し、東は荒川を境に鴻巣市と接する。『風土記稿』に「須戸野谷新田」と見えるのが当地のことで、その開墾経緯については「東照宮御鹿狩ありし地にて、其時鴻巣駅より荒川へ船橋を渡せし故、この地を鴻巣駅の伝馬役地に賜はりしより、今に至まで鴻巣宿の持なり。後に原野を開墾して陸田とす」と記されている。
また、当社は村の鎮守で「神明社」と載り、「相伝ふ此地もと東照宮の御休なりし故、後人当社を建立せしと云」と記されている。
恐らく鴻巣宿の持添新田として当地が開かれた後、移住してきた人々によって耕地の安泰が祈られ奉斎されたものであろう。その年代は享保十二年の検地以降のことと考えられる。
その後、文化年間(1804-18)から幕末までの間に、当社は村の西方の字吉見橋から中央の現在地に移された模様で、『郡村誌』に「昔時荒川の洪水の難を免れん為に伊勢両宮を遷座せしよし、古老の口碑に伝ふ」との記事がある。
須戸野谷新田は、明治に入っても住民には所有地がなく、戸籍編成に差支えが生じたため、明治五年に鴻巣宿から分離独立し、同七年九月に明治の「明」と季節の「秋」を採って明秋村と改称した。大正元年には境内の稲荷社を本社に合祀し、社名を明秋神社と改めた。
「埼玉の神社」より引用
河川の堤外地とは,堤防と堤防に挟まれた河川側の土地、つまり河川敷のことをいう。荒川の中流域は、洪水時に遊水地としての役割を果たすために堤外地が広くとられていて、最も広いのは糠田橋付近で、約2,500 mに達する。
その南側に位置する明秋地区・古名新田集落は,元は荒川沿いの高水敷自然堤防上に立地していたが,河川改修事業後、多くの世帯が横堤上に列状の住居を構えた地区で、横堤上の県道 271 号今泉東松山線(吉見町側)と県道 27 号東松山鴻巣線(吉見町と鴻巣市)に沿って直線状の集落を形成しているが、今日でも先祖から受け継いだ土地から離れることは容易なことではなく、まして付近に農地を持つ住民にとっては尚更で、旧荒川沿いの堤外地に居住する世帯もあるという。
堤外地集落は,その立地上の特性から常に洪水の危険性が高い地域である。特に,集中豪雨や台風の多い夏には家屋や耕作地が被害を受けるだけでなく,人命にもかかわる大水害に見舞われることになる。
長年の雨風の影響だろうか。色褪せた扁額。 社殿の右側にある石碑、石祠等
境内には石塔が並び、写真右手前のものには「水屋幟竿置場」と明記されている。「水屋」とは屋敷内において日常生活空間の母屋より高く盛られた盛土及び,その上に建てられる上屋のことをいう。江戸時代の水屋は利根川水系の周辺で数多くつくられたらしい。
近年,都市部では急速な都市化に伴い,各地で治水整備が進められているが,内水氾濫などの洪水被害が増大している.そのため,治水整備においては,行政に依存しない住民間での自助・共助の重要性が唱えられており,「水屋」「水塚」等の河川伝統技術の有用性が見直されている。
これら水屋・水塚には,旧来から洪水を経験して得た先人の知恵が“カタチ”として表れており,水屋・水塚について着目し,研究を行うことは重要だと考える。
明秋神社のすぐ東側を通る高架橋
荒川の改修工事によって,中流域でも洪水の発生頻度は減少したが,逆に一度の洪水で受ける被害は増大するようになったという。この荒川改修工事は下流域の治水には大きく貢献したが,中流域では広大な遊水機能をもつ堤外地が誕生し,この堤外地に多くの集落が取り残されることとなった。
かつて頻発していた荒川の氾濫を制御し,下流に位置する首都東京を洪水から守るという国家的目的を実現するために行われた荒川の河川改修事業は,治水行政の所期の目的を達成したと見ることができる。しかし,本研究で見てきたように下流域の安全は,少なくとも中・上流域に暮らした多くの住民の生活を犠牲にして今日担保されたものであるという事実を忘れてはならない。
荒川には河川敷に集落があるということは以前からこの県道を業務で往来もしていたし、近隣に吉見運動公園もあり、私的に利用してもいたので、当然認識していたが、このような歴史があるとは想像もしていなかった。
荒川流域では、古い時代より洪水と折り合いをつけて暮らしが営まれてきたのだと思われるが、河川改修が進められる中にあって、先祖から受け継いだ土地から離れることは容易なことではなく、まして付近に農地を持つ住民の方々にとっては尚更であったろう。故に今もなお引き続き洪水と向き合う暮らしを選択されたと言うことなのだろうか。
日頃、河川とは縁遠い暮らしを送っている者にとっては想像も及ばないが、河川敷に広大な農地が広がる荒川ならではのことなのかもしれない。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等