古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

的場八坂神社

 中世において、武蔵国を代表する豪族の一派に「河越氏」がいた。河越氏は平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国で勢力を張った豪族で、坂東八平氏秩父氏の嫡流であり、河越館(現埼玉県川越市上戸)を拠点として国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職」(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)を継承し、武蔵国の在庁筆頭格として武蔵七党などの中小武士団や国人を取りまとめていた。
 因みに、河越氏の発祥地は『吾妻鑑文治二年条』に「新日吉領武蔵国河肥庄地頭云々」と見え、高麗郡上戸村(川越市)の山王社及び常楽寺附近といい、今の入間郡河越宿は太田道灌の築城後に河越と呼んだそうだが、『新編武蔵風土記稿 高麗郡的場村(川越市)』には「此地は當國の名蹟三芳野の里にて、今も小名に三芳野とよべる所あり、又三芳野塚も遺れり、元より此邊之村里すべて三芳野郷の唱あり、(中略)三芳野塚 村の艮に當り、陸田の中にあり、匝三四十間、高さ三間餘、塚上には雑木生茂れり、是ぞ三芳野鄕の基本にして、今川越の城中に鎭座せる、三芳野天神の舊地なりと云」。
 また『同風土記稿 上ハ戸村』には「もと川越三芳野里と云るは、この上ハ戸・的場村等をさして云、山王社 大廣院持、當社は上ハ戸・鯨井・的場の三村、惣鎮守にして、(中略)西に續きて丸山と云るは、砦の跡なりと云、此所は草木生茂りて、土手堀切等の跡あり。又當社の古鐘、今川越の養寿院にあり、何故に移せしやその來由を傳へず、銘文の略に曰、武藏國河肥庄新日吉山王宮、奉鑄推鐘一口・大檀那平朝臣経重、文應元年云々」「常樂寺 川越山と號す、(中略)土人此寺を稱して三芳野道場と云、川越城の舊跡なり、」「大廣院 本山修驗、日吉山と號す、日吉山王の別當なり、(中略)【回國雑記】に河越と云る所に至り、最勝院(大広院先祖)と云山伏の所に、一夜宿りて、此所に常樂寺と云る時宗の道場はべる云々」として、
坂東八平氏秩父氏の嫡流である河越氏は「三芳野里河肥庄的場村」に居住して河越氏を称したという。
 さて事実は如何なものであろうか。

        
             ・所在地 埼玉県川越市的場1874
             ・ご祭神 須佐之男命
             ・社 格 旧的場村下組鎮守
             ・例祭等 例祭(天王様) 415
 的場若宮八幡神社から埼玉県道114号川越越生線を再度的場駅方向に進み、「的場」交差点をそのまま直進、JR川越線の「的場県道踏切」の手前で、進行方向右手に的場八坂神社は鎮座している。
 踏切手前には、社に隣接している「的場下組自治会館」に通じる道幅の狭い路地があり、そこから自治会館へ入り込み、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                  的場八坂神社正面
 的場地域は川越市西部の入間川と小畦川に挟まれた所で、当社の鎮座する下組は、地域の中でも古墳等の遺跡も多数あり、古くから開けたところとされている地でもある。的場八坂神社の創建年代等は詳らかではないが、旧名主加藤家の屋敷鎮守であった牛頭天王社を、的場村下組の鎮守として祀ったといい、現存する最古の棟札が、貞享二年であることから江戸初期にはすでに鎮座していたものと思われる。その後、明治年間に糠塚の上に祀られていた稲荷社を、明治期当社に合祀している。
        
                                    境内の様子
    参道両側に並ぶ桜の木々の青葉が引き立ち、交通量の多い県道沿いに鎮座している
                 にも関わらず、落ち着いた境内の雰囲気にマッチしている。
        
                    拝 殿
 八坂神社  川越市的場一八七四(的場字下宿)
 的場は川越市西部の入間川と小畦川に挟まれた所で、数多くの遺跡や古墳が点在する。中でも当社の鎮座する下組は、的場の中でも古くから開けたところとされ、的場三十塚または糠塚と呼ばれる古墳が見られる。
 当社は、本来隣接する旧名主加藤家の屋敷鎮守であった牛頭天王社を、字の鎮守として祀ったものとされる。当社創建を示す記録はないが、戦前、氏子が調べた際、三三〇年前になるといわれ、現存する最古の棟札が、貞享二年であることから江戸初期にはすでに鎮座していたものと思われる。このほか、安永八年、文化元年、明治一五年の再建の棟札が現存する。
祭神は須佐之男命である。本来、当社は牛頭天王と称していたが、明治二年の神仏分離により社号を八坂神社と改めた。
 境内社の稲荷社は、糠塚の上に祀られていた稲荷社を、明治期当社に合祀したものである。社般もその時に移したものであるが、跡地には、この稲荷社を古くから祀ってきた一二、三軒により新たに社殿が造営され、跡宮稲荷と称して現在も祭りを続けている。
                                   「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 的場村』には加藤氏に関して以下の説明文を載せている。
「舊家者八三郎 加藤を氏とす、天正の頃より累世里正たり、是村草創五軒の百姓と云る其一なり、鞍・鐙・槍等先祖より傳來の品持せり、七右衛門も亦その一軒なりといへり、其餘の三軒は今つまびらかならず、」
 
   拝殿前に設置されている社の案内板                        本 殿 
 当社の祭りは、『新編武蔵風土記稿』に「天王社 例祭六月十五日」と載せているように、長く615日に祭りが行われていた。その後、大正期に入り、祭りが春蚕の上がりと時期を同じくするため、415日に変記された。
 氏子はこの祭りを「天王様」と呼び、大正期までは法城寺に保管されている獅子でササラ獅子が奉納されていたが、現在ではその伝承者もいなくなっている。また、この祭りの際には、神楽が下組の南・東・北・西の順に神職の先導で練り歩き、最後に入間川の中に入って揉んだというが、戦後、神輿の行列が地域の交通の妨げになるという事で通行許可が下りなくなり、現在では古い朱塗りの女神輿と明治2312月に造られた白木の男神輿が社務所前に飾られるだけとなっている。
 
        拝殿の左側に祀られている境内社・糠塚稲荷神社(写真左・右)
        
                境内右側隅にある薬師堂
 当社では、91日に境内の薬師様と初雁塚上に祀られている浅間神社の祭りが境内で行われている。薬師様は現在の霞が関北から出土したものといわれ、明治期当社の境内に移されたものである。現在は、旧神職家の吉田家が薬師様を保管し、祭り当日堂内に祀るとの事だ。
        
                       社殿より参道方向を望む。
 下組の曹洞宗的場山三芳院法城寺境内には、三芳野天神社が祀られ、神体は一寸八分の金の天神様で、白檀で作られた渡唐天神像の腹籠(はらご)もりとなっているという。祭日は425日(以前は225日)で、神職が出向して八坂神社役員の参列により祭典を行っている。なお、廓町の三芳野神社はこの社から文明五年に勧請したものであるという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」「境内案内板」等

拍手[1回]


的場若宮八幡神社

『伊勢物語』とは、平安時代に成立した日本の歌物語で、別名『在五が物語』『在五中将』『在五中将の日記』。和歌を中心とし,それにちなんだ短編約125話からなる。平安時代初期に実在した貴族である在原業平を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語でもある。主人公の名は明記されず、多くが「むかし、男(ありけり)」の冒頭句を持つことでも知られ、作者不詳。
 この『伊勢物語』は、『竹取物語』と並ぶ創成期の仮名文学の代表作で、また現存する日本の歌物語中最古の作品であり、後世への影響力の大きさでは同じ歌物語の『大和物語』を上回り、『源氏物語』と双璧をなすとも言われる。
この『伊勢物語』第十段には「みよし野の里」が登場する。
「むかし、をとこ、武蔵の国までまどひありきけり。さてその国に在る女をよばひけり。父はこと人にあはせむといひけるを、母なんあてなる人に心つけたりける。父はなほびとにて、母なん藤原なりける。さてなんあてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。住む所なむ入間の郡、みよし野の里なりける(以下略)」
この入間の郡「みよし野の里」の遺跡について、いくつかの意見があり、一説として、『新編武蔵風土記稿』では、川越市上戸(うわど)・的場(まとば)両地域あたりという。
『新編武蔵風土記稿 的場村』
 相傳ふ昔大道寺駿河守この隣里上戸の城に在し時、是邊に弓・銃等の的場ありしと、今も楢的場と云ものあり、故に村名とせりと云、又此地は當國の名蹟三芳野の里にて、今も小名に三芳野とよべる所あり、又三芳野塚も遺れり、元より此邊之村里すべて三芳野郷の唱あり、

        
             
・所在地 埼玉県川越市的場529
             ・ご祭神 誉田別尊
             ・社 格 旧的場上組鎮守
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り(お日待) 1015
 JR川越線的場駅から南方向に走る埼玉県道114号川越越生線を900m程南行すると「若宮八幡神社入口」の立看板がある丁字路があり、そこを左折、そこから道なりに300m程進むと正面やや左側に的場若宮八幡神社が見えてくる。
        
                 的場若宮八幡神社正面
        規模は決して大きくはないが、コンパクトに纏まったような社   
『日本歴史地名大系 』「的場村」の解説
 笠幡(かさはた)村の東、入間川と小畔(こあぜ)川に挟まれた低地および台地に立地。高麗郡に属した。牛塚古墳群と三芳野塚・初雁塚などとよばれた古墳があり、とくに三芳野塚の存在は当地が「伊勢物語」に記された「みよしのの里」に比定される根拠とされる。村名は戦国時代に隣村上戸に拠った大道寺氏の的場があり、後まで的塚が残されたことに由来するという(風土記稿)。小田原衆所領役帳に江戸衆の山中内匠助の所領として「七拾八貫五百五拾八文 川越的場」とみえる。
        
         道路沿いに設置されている「的場八幡神社本殿」の案内板
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 的場村』
 八幡社 法城寺の持、
 法城寺 的場山と號す、曹洞宗、鯨井村長福寺末、此寺往古三芳野塚の傍にありて、三芳野山寶常寺と唱へしに、何の頃よりか山號を改め、寺號を書替しと云、起立の年詳ならず、中興開山撫州舜道、正保三年七月廿五日寂す、開基は神山七左衛門なり、寛文八年九月四日歿す、本尊は正觀音を安ず、緣起の略に曰、法成寺者、則三芳野天神・若宮八幡宮兩宮之別當、而古代三芳野塚麓有之、幾年歷事不審、上戸大道寺家落城之時及廃壊事久、略本寺長福寺三世、撫州和當寺中興、則今開山也、此時神山七左衛門開基成建立、其時三芳野塚之天神宮境内移、寺地四段四畝二歩、天神宮地一段二畝、若宮八幡宮地五畝六歩、到今御除地也、當所本名三芳野也、大道寺家上戸居城之頃、當地弓鐡炮武術之稽古場也、故里人皆的場云、依之後的場村成、三芳野塚麓池有、天神御手洗是三芳野初雁池也、謂雁此國初來、池上三度飛回初鳴云傳、又此池常櫻花水底浮故、是櫻池共云傳也、

 八幡神社  川越市的場五二九(的場字若宮)
 
的場は入間川の西岸に位置し、村名は昔大道寺駿河守が隣村の上戸の城にある時、弓や銃の的場をこの地に設けたことに由来する。この村は水田が少なく、陸田のほかに粟・稗・麦などの雑穀を栽培していた。また、ここは上・中・下と分かれ、当社の氏子はこのうち上に当たる。上はほかよりやや土地が高く、通称新開といわれ、中・下より後から開けた所である。これは水の便からきており、中・下が早く開けたのは、当社前方五〇〇メートルほどの所にある蟹淵という冬でも枯れない泉を灌漑用として利用できたからである。
 当社の創立は、口碑によると氏子窪田家の屋敷神であったものが、いつのころか現在地に移転され、村を守護する社になったという。窪田家については、現在資料はなく村における往時の位置は定かではないが、村の開発にかかわった家であったと思われる。
『風土記稿』によると、江戸期は曹洞宗的場山法城寺が別当を務めていた。
 明治に入り神仏分離のため、当社は法城寺の管理を離れたが、神仏習合時代の影響は明治末期まで続き、一〇月一五日のお日待の時には寺から獅子が三頭繰り出し当社でササラを行った。また、現在でも社務所には観音像のほか四体の仏像が祀られており古くからの姿をとどめている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 昔からの氏子参拝作法は、神社の裏手から山榊の小枝を取って来て拝殿正面で一拝し、更に末社に参拝し、次に本殿裏の壁に榊を差し込んでトントントンと三回たたくものであるという。
 氏子区域は、的場上組と一丁目の一部である。この地域は嘗て養蚕と畑作を中心とする農業地帯であったが、昭和48年頃から急激にサラリーマンの増加をみた所で、以前は氏子数は900戸程であったが、このうち祭典費を納めている昔からの住民は500戸位である。
 霞が関公民館の文化祭での書道展や短歌俳句の文化展や盆栽展・農産物品評会等が地域住民の結びつけを強め、氏子の目は社の慣習的な祭りから公民館が企画する祭りへと関心が移行したことにもよる。
 
         本 殿                本殿内部
 的場八幡神社本殿  
 市指定・建造物
 この地の開発にかかわった窪田家の屋敷神を現在地に移し、村を守護する社にしたのがはじまりといい、江戸期は法城寺が別当をつとめていました。
 本殿は小型の一間社流造で覆屋内の石造基壇上にたち、屋根は木瓦葺とし、千鳥破風、軒唐破風を付けます。精巧で複雑な架構と余すところ無く埋めつくされtら彫刻が見所となっています。とくに圧巻は身舎側壁と正面の扉・脇壁にはめ込まれた彫刻です。扉に花鳥、脇壁に鯉の滝のぼり、左側面に神功皇后と赤ん坊(応神天皇)をだく武内宿彌、右側面に司馬温公の甕割、背面に波・松・鷹の丸彫彫刻をはめ込んでいます。いずれも壁面から飛び出た肉厚の彫刻で、人物や事物が大きく彫られています。これらの彫刻は補助的に建築に付加して装飾するという程度をこえ、建築の壁面を借りて彫刻を作品として展示するかのようです。背面は神社本殿の壁面としては高さに比べて幅がかなり広く、彫刻の寸法が建築に先行した可能性も考えられます。
 造営年代を直接示す棟札などの史料はありませんが、基壇に嘉永五年(一八五二)八月吉日の刻銘があり、本殿の造営年代も同じころと思われます。
                                    境内案内板より引用
 
       
                  境内社・稲荷神社 
 社の祭りに関して、春祭りは春祈祷との呼ばれる豊作祈願祭で、大正期までは巫女が拝殿前で春神楽を舞った。時期的にも霜が降りなくなるので、夏作が始まり養蚕の準備も行われる。
 秋祭りはお日待とも呼ばれる豊作感謝祭であり、氏子の家では親類を招き、けんちん汁・赤飯・うどんを作って豊作を祝った。祭典後の直会は、古くから生姜に味噌をつけて肴とし、酒を飲むもので、この行事が終了するとこの地では本格的な稲刈りが始まるという。
 また古くから地域住民が行われている行事には、211日の春日待・43日のお犬講(宝登山講)があり、女衆は「おしら講」を行っていた。
        
                   境内の一風景


参考資料「
新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉県の不思議事典」  
    Wikipedia」「境内案内板」等
             

拍手[0回]


上戸日枝神社

 河越氏(かわごえし)は、日本の氏族の一つ。川越・河肥とも表記されることがあった。平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国で勢力を張った豪族である。河越氏は坂東八平氏秩父氏の嫡流であり、国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職」(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)を継承し、武蔵国の在庁筆頭格として武蔵七党などの中小武士団や国人を代々取りまとめていたという。
 この河越氏の発祥地は、吾妻鑑文治二年条に「新日吉領武蔵国河肥庄地頭云々」とあり、現在の埼玉県川越市上戸地域で、常楽寺境内付近といわれている。
『新編武蔵風土記稿 上ハ戸村』
 もと川越三芳野里と云るは、この上ハ戸・的場村等をさして云、(中略)山王社 大廣院持、上ハ戸・鯨井・的場の三村、惣鎮守にして例祭九月十九日なり、社地には松栢(かしわ)茂生じ神さびたる地にして、松の大なるもの圍一丈一二尺許なるを始とし、數十百株に及べる松林あり、其下は靑苔滑かにして、餘木なく榊のみにして、殊勝の景地なり、又西に續きて丸山と云るは、砦の跡なりと云、此所は草木生茂りて、土手堀切等の跡あり、又當社の古鐘、今川越の養壽院にあり、何故に移せしやその來由を傳へず。銘文の略に曰、武藏国河肥庄新日吉山王宮、奉鑄推鐘一口・大檀那平朝臣經重、大勸進阿闍梨圓慶、文應元年云々、
 常樂寺 川越山と號す、(中略)土人此寺を稱して三芳野道場と云、川越城の舊跡なり、
 大廣院 本山修驗、入間郡越生村山本坊配下なり、日吉山と號す、日吉山王の別當なり、(中略)【回国雑記】に河越と云る所に至り、最勝院と云山伏の所に、一夜宿りて、此所に常樂寺と云る時宗の道場はべる日中の勤め聽聞の爲に罷りけると云云、
 河越氏の祖である秩父重隆は、秩父氏家督である総検校職を継承するが、兄・重弘の子で甥である畠山重能と家督を巡って対立し、近隣の新田氏、藤姓足利氏と抗争を繰り返していたことから、東国に下向した河内源氏の源義賢に娘を嫁がせて大蔵の館に「養君(やしないぎみ)」として迎え、周囲の勢力と対抗する。久寿2年(1155年)816日、大蔵合戦で源義朝・義平親子と結んだ畠山重能らによって重隆・義賢が討たれると、秩父平氏の本拠であった大蔵は家督を争う畠山氏に奪われる事となり、重隆の嫡男・能隆と孫の重頼は新天地の葛貫(現埼玉県入間郡毛呂山町葛貫)や河越(川越市上戸)に移り、河越館を拠点として河越氏を名乗るようになる
        
             
・所在地 埼玉県川越市上戸3161
             
・ご祭神 大山咋命 大己貴命
             
・社 格 旧上ハ戸・鯨井・的場三村惣鎭守 旧村社
             
・例祭等 例祭等 元朝祭 12日 春祭り 421日 
                  天王様 
715日 秋祭り 1015
 川越市上戸地域は、東を入間川、西を小畔川に挟まれた低地および台地に立地している。標高は入間川左岸に位置する河越館跡付近が19m程で、西側の日枝神社付近が21.1mと入間川から西方向に行くにつれてなだらかに標高は高くなっている。
 途中までの経路は吉田白鬚神社を参照。埼玉県道114号川越越生線に戻り、右折後東行する。小畔川に架かる「金堀橋」を渡り、そこから更に500m程進み、「上戸」交差点を右折すると、進行方向左手には上戸日枝神社の緑豊かな社叢林が見えてくる。
 上戸交差点を更に東行した2番目の路地を右折すると、上戸日枝神社の専用駐車場が道造にあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                  
上戸日枝神社正面
『日本歴史地名大系』「上戸(うわど)村」の解説
 的場村の北東、東を入間川、西を小畔川に挟まれた低地および台地に立地。高麗郡に属し、「上ハ戸」とも記した。小田原衆所領役帳に御馬廻衆の新田又七郎の所領として「弐拾貫三百文 河越卅三郷上戸」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。近世の検地は慶安元年(一六四八)に行われた(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、畑高二〇三石余、ほかに野銭永二五〇文、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一六八石余、反別畑三五町二反余。
             
      鳥居付近に設置されている「
日枝神社(新日吉山王宮)の由来」の石碑 
       
          河越氏の長い歴史を無言で語りかけるような威厳さえ感じさせる境内 
 上戸白髭神社の境内は、平成1359日「川越市指定記念物 史跡」として指定を受けてくる。
 河越館跡近くにあるこの神社は、往時新日吉山王権現(いまひえさんのうごんげん)と称しており、河越氏の荘園経営と密接な関係にある。河越氏は後白河法皇(法皇在位1169から1192)のとき、この地を京都の新日吉社に寄進して河越荘を立荘し、自らは荘官(しょうかん)となって平安末期から室町時代の始めにかけてこの地方を支配した。その関係で、河越に新日吉社を勧請(かんじょう)したと考えられる。
「新編武蔵風土記稿」の挿絵によると、神社の社域に土塁が巡らされており、現在でも北側に一部痕跡が遺されている。
 河越館跡は昭和59年(1984)に国指定史跡になっているが、この上戸日枝神社境内も河越館跡と一対をなすものであり、その上でも重要である。なお、江戸城鎮守の山王社は、仙波山王社から勧請されたと江戸時代広く言い伝えられていたが、昭和時代に入り、熊野那智大社の米良文書が発見され、南北朝時代にすでに江戸山王社が存在していることがわかったため、河越氏の時代に当神社から分祀された説が出されているという。

    参道左側に祀られている神明社       参道右側には八坂神社が祀られている。
                          八坂神社の左手奥に見える社務所

      因みに神明社・八坂神社の鳥居寄り側には参道を挟んで一対をなして
       「戸衛神社」が祀られている。残念ながら写真に収めていない。
       まるで、門番・衛兵の如く、社殿を守る存在のような社である。
        
                                      拝 殿 
 日枝神社  川越市上戸三一六-一(上戸字山王原)
 上戸の地は、川越市西部の入間川と小畦川とに挟まれた所である。
 当社は、往時新日吉山王権現と称し、『明細帳』には「貞享三丙寅年秋九月隠士航譽ナル者誌セシ縁起書ニ云ク往古貞観年中ノ創立」とあり、平安初期の創建を伝えており、また、他の社記によると陸奥国の住人休慶という修行僧が、京都比叡山麓にある日吉山王を深く信仰し、神示により武蔵野のこの地に社を建立したとある。
 しかし、川越三十三郷と称された河肥庄の庄司であった河肥氏の館跡が、上戸の地(現在の常楽寺境内の辺り)であるといわれていること、また河肥庄が新日吉社の社領とされていたこと、更に往時の社号が新日吉山王権現であったことなどを勘案するに創建年代は『明細帳』の記載よりも下るものとも考えられる。すなわち、新日吉山王権現の本社である新日吉神社は、永暦元年、近江にある日吉大社の信仰が厚かった後白河上皇が、京都東山七条の法住寺殿の一画に勧請し、以来、皇室による御幸は一一九度に及ぶほどの社であった。
 この新日吉神社と当地を結ぶのが河肥氏である。永暦二年に新日吉神社領となり、河肥荘の荘司であった河肥氏が、平氏の一門で、平氏は日吉神社を氏神として信仰していたことにより館のある上戸の地に京都から新日吉神社を勧請して新日吉山王権現と号したものと思われる。
社記によると、寛元元年北条時頼が当社に報賽し、社殿の再営に合わせて田畑の寄附を行っている。
 河肥太郎重頼の曾孫遠江守経重の開基となる川越市元町にある養寿院には、開基の前年、当社に奉献されたと思われる「武蔵国河肥庄新日吉山王宮 奉鋳錘鐘一口長三尺五寸 大檀那平朝臣経重 大勧進阿闍梨園慶 文應元年 大歳 庚申 十一月廿二日(以下略)」の銘文のある洪鐘(重要文化財)がある。『明細帳』には「文応元庚申年平朝臣経重別ケテ奉崇敬リ」とあり、更に『郡村誌』によると養寿院境内には古く山王社が祀られ、明治の神仏分離により門前稲荷社(現豊川稲荷社か)に合祀したことが知られる。これらのことから、経重が養寿院に当社を分霊し、当社に洪鐘を寄進したものと考えられる。
 江戸城の鎮護として仰がれた日枝神社は、以前より川越喜多院の日枝神社を文明一〇年太田道灌によって勧請されたものとして伝えられたが、『日枝神社史 全』(昭和五四年刊)によると紀伊国熊野那智大社に蔵する米良文書の貞治元年一二月の願文に「江戸郷山王宮」の名が見られることにより文明一〇年よりも一一六年前には江戸に山王宮が祀られていたことが知られる。この山王宮はその帰依者秩父氏・河越氏・江戸氏によって江戸館の鎮守社として当社より勧請され、代々崇敬を受けたもので、徳川家康の入城以前より江戸城内に祀られていたことが知られ、太田道灌の江戸城の築城により再興されたものであるとあり徳川家ではこの山王宮を産土神として祀るなど幕府直轄社として尊崇した。これによって、当社は慶安元年に社地境内畑九反六畝六歩が除地されている。
 明治元年九月、社号を新日吉山王権現から日枝神社と改め、同五年には上戸・鯨井・的場三カ村の鎮守として村社となった。
 祭神は大山咋命・大己貴命で、合祀神は大御食都命・少彦名命・大日孁貴命・大屋毘古命である。
 本殿は一間社流造りで、内陣には漆塗りに金属の飾りをあしらった宮型厨子に金箔押幣帛を安置する。以前このほかに日吉の本地である阿弥陀三尊を刻した懸仏も安置したが、現在は総代により管理されている。厨子の両脇には正徳元年の木製眷属像(猿)がある。

 祀職は『風土記稿』に「大広院 本山修験、入間郡越生村山本坊配下なり、日吉山と号す、日吉山王の別当なり、社地の東に接して除地の内にをれり、本尊は不動木の立像長二尺三寸、慈眼大師の作」とある。この大広院は神仏分離により復飾して上戸姓を名乗り昭和三四年まで神職を務める。同家には修験の名残を示す弘化三年銘の不動明王の掛軸が二幅蔵されている。また、現在の社務所は以前の大広院であるという。
                                  「埼玉の神社」より引用 

 
 社殿左側奥に祀られている愛宕神社の石碑     社殿の左側に町られている境内社
                          左から疱瘡社・八幡社・八坂社
 
         本 殿                 本殿内部
 上戸白髭神社本殿一棟は、平成21128日「川越市指定有形文化財 建造物」として文化財の指定を受けている。本殿は、柿(こけら)葺屋根の大型一間社流造で、かつては妻飾り、組物、蟇股、頭貫(かしらぬき)、内法長押(うちのりなげし)、海老虹梁など極彩色が施されていた。彫刻装飾についても板壁に菊花紋、菊水紋が描かれていたが、現状では痕跡が残るのみである。妻飾りの蟇股は背が低く肩が盛り上がった輪郭の中に、近世前期の流れをくむ丸彫り彫刻が施され、虹梁や木鼻などの絵様は彫りが浅く、細い線で描かれるなど、古式の技法が用いられている。建築年代についての明確な史料はないが、装飾が控え目な近世前期の特徴を顕著にあらわしていることから、17世紀中期ころの建築と推測されるという。
        
          境内に案内板が設置されている
上戸白髭神社の「懸仏」
        
                     社殿に向かって右側に祀られている境内社
              左より大地主社・御嶽社・白山社

 河越氏は、頼朝が反平家の兵を挙げた治承4年(1180年)の治承・寿永の乱では当初平家方として戦うが、のちに同族の畠山氏・江戸氏と共に頼朝に臣従、頼朝政権下での重頼は、妻が頼朝の嫡子・頼家誕生の際に乳母として召され、娘(郷御前)が頼朝の弟・源義経の正室となるなど、比企氏との繋がりによって重用された。しかし頼朝と義経が対立すると、義経の縁戚であることを理由に重頼・重房父子は誅殺され、武蔵国留守所総検校職の地位も重能の子・畠山重忠に奪われる。
 河越氏はしばらく逼迫するが、元久2年(1205年)6月の畠山重忠の乱において重頼の遺児重時・重員兄弟が北条義時率いる重忠討伐軍に加わって以降、御家人としての活動が見られる。家督を継いだ重時は将軍随兵として幕府行事に参列し、弟重員は承久3年(1221年)の承久の乱で幕府軍として戦い武功を立て、畠山重忠が滅んでから20年後の嘉禄2年(1226年)4月、幕府により重員が留守所総検校職に任じられ、総検校職は40年ぶりに河越氏に戻る。但し、武蔵守を兼ねる執権・北条氏支配の元、総検校職は形骸化され実権を伴っていなかったことが窺える。
 元寇の頃には宗重が地頭として豊後国へ下向、鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)元弘の乱では、宗重の弟の貞重が幕府軍の代表として在京すべき御家人20人に選ばれ、六波羅探題滅亡時に幕府軍として自害している。その子・高重は倒幕側に転じ、武蔵七党と共に新田義貞の挙兵に加わり倒幕に貢献した。
        
                                上戸日枝神社境内の様子

 河越氏最後の当主であり、高重の子である河越直重は、正平7/文和元年(1352年)、観応の擾乱直後の武蔵野合戦において足利尊氏方に参戦し、新田義宗を越後に敗走させた。その後、関東管領畠山国清の下で戦功を挙げ、相模国守護職となる。しかし関東の足利体制を固める鎌倉公方・足利基氏の下で、康安2年(1362年)に畠山国清が失脚。河越氏の相模国守護職も解任されてしまう。
 応安元年(1368年)2月、上杉憲顕の留守を狙い反乱を起こすが敗れ、伊勢国に敗走した。
 こうして、平安時代から武蔵国の武士団の棟梁で、「武蔵国惣検校職」をつとめてきた名門河越氏は400年の歴史の幕を閉じたという。
 河越氏は平安時代末期以降、知行国主や幕府などに伝統ある国衙在庁出身の有力武士と認識され続け、そのために源氏、北条氏、足利氏ら時の権力者に翻弄された一族であったといえよう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市 HP」
    「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」「境内案内板・石碑文」等
      

拍手[1回]


吉田白鬚神社

『とはずがたり』(とわずがたり)は、鎌倉時代の中後期、「後深草院二条」という女性が実体験を綴ったという形式で書かれた、日記文学および紀行文学である。このタイトルは問はず語り」とも表記され、「(他人に)問われなくても話し出してしまう語り」の意との事であるという。
 但しその内容に関しては、宮廷における愛欲を暴露した内容(暴露本)であるため、どこまで真偽を認めるかについては諸説あり、ここではそれ以上深くは追及はしない。
 この書物において、32歳で出家した彼女は、西行(さいぎょう)の跡を慕って諸国を旅した際に、各地の記録などを綴っている。その中に「正応二年、すだ川(隅田川)の橋とぞ申し侍る、この川の向へをば、昔は三芳野の里と申しけるが、時の国司・里の名を尋ねききて、ことわりなりけりとて、吉田の里と名を改めらる」と載せてあり、この「吉田の里」が当地であるとの説があるという事だ。
        
              
・所在地 埼玉県川越市吉田192
              
・ご祭神 猿田彦命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 春祈祷 315日 秋日待 101617
 鶴ヶ島市役所から埼玉県道114号川越越生線を川越市方向に東行する。市役所から200m程先で、進行方向右手に見える高徳神社の社叢林や、関越自動車道と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)が交わる「鶴ヶ島JCT」の巨大な高架橋を左手に眺めながら、更に1.7㎞程進み、十字路を右折する。右折後、すぐ進行方向右手に曹洞宗派の寺院である「萬久院」が、その南側並びに「吉田自治会館」があり、その自治会館の西側奥に吉田白鬚神社が鎮座している。因みに「吉田自治会館」には十分な駐車スペースが確保されていて、そこの一隅に停めてから参拝を行う。
        
                 
吉田白鬚神社正面
『日本歴史地名大系』 「吉田村」の解説
 小堤(こづつみ)村の南、的場村の西、小畔川流域の低地に立地。高麗郡に属した。「とはずがたり」に「昔はみよし野の里と申しけるが(中略)吉田の里と名を改められ」とみえる吉田の里を当地に比定する説がある。小田原衆所領役帳に江戸衆の太田大膳亮の所領として「卅八貫九百十八文 川越吉田郷」とみえる。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一六八石余・畑高五九石余、ほかに永二貫九〇〇文、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二三一石余、反別は田一六町五反余・畑二一町二反余、ほかに開発分高一三石余(反別田九反余・畑一町二反余)。
       
        
「白髭神社」と刻まれた石碑      鳥居の社号額「村社白髭神社」
 武蔵国は12世紀後半において大開拓時代にあり、児玉・入西(にっさい)の両郡領主であった児玉氏は、入西郡小代郷の空閑地を選定し、大規模に開拓を進めた。入西三郎大夫資行の次男である遠弘は小代郷を与えられ、小代氏となる
・武蔵七党系図
「有大夫別当弘行(弟有三郎経行)―入西三郎大夫資行―小代二郎大夫遠広―七郎遠平(弟小代八郎行平)―吉田小二郎俊平―二郎平内左衛門尉重俊―二郎重泰―又二郎伊重―彦二郎伊志」
 その後、小代遠広の子行平は、自分の養子となった小代俊平(としひら)に、入西郡小代郷の村々ならびに屋敷等を譲り、俊平は入西郡吉田の村に住んで、「吉田」と称したという。
・小代文書
「承元四年、小代行平は入西郡勝代郷よしたの村の四至を養子俊平に譲り与う」
 児玉党小代氏流吉田氏の誕生であり、その根拠地は、現吉田地域内の「堀の内」という。社から400m程北東方向で、現在「吉田堀之内公園」がある場所周辺との事だ。
        
             すっきり整備されている参道及び境内
 吉田白鬚神社の創建年代は不明である。716年(霊亀2年)の高麗郡設置の際に、郡内各地に創建された白鬚神社の一つといわれている。「西光寺」が別当寺であった。西光寺は明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれ、西光寺の僧侶は還俗して当社の神職となった。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1912年(明治45年)の神社合祀により周辺の4社が合祀された。そのうちの1社「稲荷神社」は1941年(昭和16年)に地元の出征兵士が参拝できる神社が近くにないという理由により復祀されている。
        
           上り坂の参道を抜けると、一段高い所に社殿が鎮座
 決して規模は大きくはない社だが、きれいに整えられている。社殿は改築されているようで綺麗。また境内も手入れはしっかりとされている。自治会館が隣にあり、裏手に滑り台等の遊具もあり、地域の方々との一体感がある社という印象。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 吉田村』
平夷の地なり、民戸五十二、所々に散住す、土性赤黑粗薄なり、水田多く陸田は少し、用水は村内を流るゝ小畔川を引來て沃げども、土性惡き故動もすれば旱損を患へ、又此川溢るゝ時は水損のあり、
神明社 西光寺持、例祭七月廿七日、社は塚上にあり、塚の匝り凡四十間、高さ一丈餘、社邊は平坦にて十五六歩の地なり、
稻荷社 萬久院の持、
稻荷社 西光寺持、下の二社も同じ、
白髭社 例祭九月廿九日、
諏訪社 例祭七月廿七日 村の鎭守なり、
西光寺 吉田山と號す、天台宗、東叡山末なり、本尊大日を安ず、開山觀長天正十二年寂す、
萬久院 無量山と號す、曹洞宗、足立郡大久保村大泉院末なり、本尊彌陀を安ず、開山超嚴守宗寛永十年寂す、


 白鬚神社(みょうじんさま)  川越市吉田一九二(吉田字宮山)
 当地は、古くは高麗郡名細村吉田という。南に小畦川が流れ、流域には縄文中期の水神遺跡がある。鎌倉期の『とはずがたり』に「昔みよし野の里と申しけるが、いつか吉田の里と名を改めらる」と残り、早くに開発された所である。当社は、霊亀年中高麗郡設置により、郡内各所に鎮守として白鬚神社が祀られた折、その一つとして奉祀されたものと考えられる。
 当地の開発は、明応のころ上杉の家臣小島某が当社の所在地宮山の辺りから始め、東方の高台、堀の内へと進めたという。当時の開発には厳しいものがあったと伝えられ、今でも二メートルほど掘ると楢の木と真菰が層をなして埋まっている。
 神仏習合時代に当社の別当を務めた西光寺は、小島家が入植後二代目に当たる時に建てられたと伝え、神仏分離後は吉田姓を名乗り、神職となったが、昭和二年の火災により同家は焼失した。
 明治六年村社となり、同四五年に大字天沼新田字稲沢の村社稲荷神社を合祀し、続いて字伊勢山の神明社、諏訪の諏訪神社、稲荷山の稲荷神社を合祀した。
 なお、稲沢の稲荷神社は、昭和一六年、出征兵士が多くなり、兵士の参拝する神社が近くにないのは不都合であるとの理由で、旧社地に新しく社殿を造り、還された。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

『新編武蔵風土記稿 吉田村』に記されているように、吉田地域集落の下段を小畔川が流れているため、干害を受けやすく、戦前までは雨乞いが頻繁に行われた。社前にある湧水のそばにある龍神像を刻む「オタキサマ」と呼ばれる石碑を池に投げ込み、村中の者が水を掛けると同時に、獅子が池を回ったという。
*追伸
後で知ったのだが、正面鳥居のすぐ南側に「吉田白鬚緑地」や「倶利伽羅不動」があったにも関わらず、見落としてしまいました。残念であります。
 
 境内社 左から、稲荷神社・諏訪社・神明社         本 殿
       
                           社殿からの一風景


【天沼新田稲荷神社】
        
             ・所在地 埼玉県川越市天沼新田141
             ・ご祭神 倉稲魂命(推定)
             ・社 格 旧天沼新田村鎮守
             ・例祭等 初午祭 秋祭り 10月中
 東武東上線「鶴ヶ島」駅西口から南東方向線路沿いに進み、踏切が見える交差点を右折したすぐ先に天沼新田稲荷神社が見えてくる。天沼新田自治会館が隣接しており、そこの駐車スペースをお借りして参拝を開始。
 吉田白鬚神社から北側に位置する天沼新田地域。嘗てこの社は明治45年(1912)吉田白鬚神社に合祀されたものの、昭和16年、出征兵士が多くなり、兵士の参拝する神社が近くにないのは不都合であるとの理由で、旧社地に新しく社殿を造り、還されたという 

         二の鳥居            二の鳥居のすぐ左側に祀られている合祀社
        
                                        拝 殿
『新編武蔵風土記稿 天沼新田村』
 天沼新田は郡の東南にあり、廣谷郷に屬せり、この新田は往昔上廣谷村の民來りて開墾せしといふされば上廣谷新田とも唱ふべきに、天沼新田と名づけし所以は傳へず、この村正保の國圖には見えず、慶安年中の圖に始て載たり、然らば正保の後に開けし村なるべし(中略)東は小堤村に隣り、西は藤金村に接し、南は吉田村に續き、北は鯨井村新田に界す、東西凡十二町、南北三町許、民戸二十八、所々に散在す此村少しの高低あれども大抵は平地なり、
 
稻荷社 村の鎭守にて、村持なり、
        
                           天沼新田自治会館敷地内にある石仏
             
           社のランドマーク的に聳え立つご神木のような巨木



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」等

拍手[0回]


平塚新田氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市平塚新田18
             
・ご祭神 素戔嗚尊(推定)
             
・社 格 旧平塚村・新田鎮守 旧村社
             
・例祭等 元朝祭 12日 春祈祷 412日 
                  例祭(お日待) 
101415
 川越市の北西部に位置する平塚新田地域は、入間川と小畔川の合流点周辺の狭い区域にあり、『新編武蔵風土記稿 平塚新田村』にも「此地本村の間に攝し、北の方に一區をなせり、民家僅に九軒、田圃は本村と駁雜(はくざつ)の地なれば四境の界は本村に屬せり」と載せるように、平塚地域北端部から分けられた地が当地域であり、更に東西・南北共に1㎞程程度しかない中で、3区の飛び地で構成されている。
 下小坂白鬚神社から小畔川に沿った道路を北東方向に進み、土手を登った先にある小さな冠水橋である「鎌取橋」を渡る。今時珍しい木製の造りで、更に道幅も狭いため、通る時はゆっくりと走行したのだが、昭和生まれの筆者にとって、昔の懐かしい臭いが周囲一帯漂う風景に自分の幼少期や青年期の思い出と重ね合わせながら、時間が過ぎるのも忘れて眺めていた次第であった。
 
 昨今の橋にはみられない風情のある
鎌取橋      この橋は水面にも非常に近い。
 土手を下ると、平塚新田地域の民家が数軒見えてくる。この地域は飛び地が3カ所あるのだが、一番南東に位置するこの区域は一番狭いのだが、民家は集中しているようだ。そして、入間川方向に伸びる道を進むと、同河川土手手前に平塚新田氷川神社はひっそりと鎮座している。
        
                        
平塚新田氷川神社正面
              入間川の堤防がすぐ右手に見える。
『日本歴史地名大系』「平塚新田村」の解説
 平塚村の北東、入間川・小畔川と旧小畔川の合流点付近の低地に立地。高麗郡に属した。平塚村新田とも記す。入間郡網代(あじろ)村の百姓又左衛門が開発したと伝える(風土記稿)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名がみえ、高七五石余、反別田三町六反余・畑一二町二反余、幕末まで川越藩領。
 
  平塚新田自治会館の手前に立つ社号標柱    無駄なものがない、さっぱりとした境内

 この社の創立時期はハッキリとは分からないが、『風土記稿』によると、「入間郡網代の百姓、又左衛門なるもの来て、新墾せしと云、」また社記に「当社創立は川越氷川神社を分祀せる由、拠べき証なけれども旧来祭日は川越氷川社と同日なり、万治二年再営の棟札あり網代村山王堂教覚院岩田栄秀が古く社務を務め所持せり、元禄七年の村方調帳に三畝十八歩繩除地の社地云々」とあり、万治二年(1659年)の棟札があるということなので、江戸時代初期にはこの社は祀られていたことになる。
        
            参道右側に並んで祀られている境内社や石碑
         左から境内社・稲荷社、天魔大王の石碑、境内社・御嶽社
        
                    拝 殿
 氷川神社  川越市平塚新田一二(平塚新田字氷川前)
 当地は川越市の北部にある水田地帯である。口碑に、川越の殿様が松平信綱の時、武蔵野の開発が行われ、その折、山田のうち北山田の次男・三男が入り草分けとなった所であり、当時二六戸であったという。当地は古くから洪水の多い所で、小畔川・入間川・越辺川の三河川が地内落合橋の所で合流する低湿地であり、俗に「小畔のコシロ」「伊草のケサ坊」と呼ばれる二匹の大蛇が暴れた所であるという。
 当社は草分けの入職時に川越の氷川様(現宮下町の氷川神社)の分霊を受け、川を治める神様として祀ったものといわれている。
『風土記稿』に「平塚村及び新田の鎮守なり、例祭六月一五日 入間郡網代村本山修験、教学院の持なり」と載せる。
 社記に「当社創立は川越氷川神社を分祀せる由、拠べき証なけれども旧来祭日は川越氷川社と同日なり、万治二年再営の棟札あり網代村山王堂教覚院岩田栄秀が古く社務を務め所持せり、元禄七年の村方調帳に三畝十八歩繩除地の社地云々」とある。
 本殿は一間社流造りで、明和七庚寅年九月再営の銘がある棟札を蔵する。内陣に、「明和七庚寅年六月二十日・川越本町高田長左衛門願主」と幣芯に銘がある金幣を祀る。口碑に、この金幣は川越の氷川神社に祀ってあったものであるという。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

 鎮守が新しく開けた平塚新田にあるのは、口碑によれば、入植時に平塚よりも新田の方が戸数が多かったことによるという。後に水害により新田地域の戸数は減り、平塚地域の方が大きくなっている。
 祭礼日412日は、「春祈祷」と呼び、古くは幟を立て、神楽の奉納があり賑わった。神楽師は勝呂村塚越(現坂戸市塚越)から三名頼み、太々(だいだい)神楽であった。また、山田村福田の若衆が囃子を奉納したともいう。塚越の神楽は有力者の寄附により賄ったのでハナカグラとも呼んでいた。この神賑いも戦争の激化により中止されてしまった。現在は祭典があり、同時に村境四ヶ所にフセギと称する神札を立てる行事だけである。
        
 この地は、秋のお彼岸時期になると、河川の土手周辺や水田の畔に曼珠沙華が一斉に咲き誇るという。
 埼玉で曼珠沙華の観光名所と言えば、日高市高麗本郷の巾着田や幸手の権現堂堤が有名であるが、ここ川越市平塚新田の入間川の土手の曼珠沙華も、国道254号線に架かる落合橋から平塚橋まで土手の約700mに渡って群生していて、社の境内には、「埼玉県自然100マンジュシャゲ群生地」の看板と、「堤防を 緋の帯びにして 曼珠沙華」の句碑が設置されている。
 参拝時期が5月中旬と時季外れではあったが、いずれはこの真っ赤に咲き誇る曼珠沙華の風景を堪能したいものだ。
        
                 入間川堤防の眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
   

拍手[1回]