古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

都島角折神社

 本庄市都島地区は元々上野国に属していたらしく、慶長十七年検地帳に上州国那波郡都島村と記述されていている。上野国史によると、武州杉山、新井、都島、山王堂、沼和田、仁手等の数村は、古へ上野国那波郡に属していたが、寛永中の利根川及び支流の烏川の洪水で流路が変わり、武蔵国に編入されたと記されている。また武蔵風土記によると横瀬村華蔵寺大日堂天正十一年の棟札に、上野国新田庄勢多郡横瀬郷とあるし、又和名抄賀美郡郷名に載せてある小島は、今の小島村と考えられるから、烏川の流路は寛永年中に賀美郡忍保から現在の八町河原に移ったものと考えられる。
 この都島地区に鎮座する角折神社にも「那波八郎」伝説は存在する。都島地区は嘗て那波郡と陸続きだった時期があった。寛政年間以前の利根川流路の痕跡が
この伝説の存在により残っているというべきだろうか。
所在地   埼玉県本庄市都島235
御祭神   角折神
社  挌   不明
例  祭   11月3日 秋季例大祭
           
 都島角折神社は小島唐鈴神社から北側1、5km程の場所に鎮座している。 国道17号小島交差点の左側脇に唐鈴神社は鎮座しているが、そこを右折し、そのまま北上すると旭公民館の向かい側に都島角折神社は鎮座している。道路側から狭い境内に通じる道に入るのはやや憚ったが、今回は無理やり駐車し参拝を行った。
           
                          角折神社の両部鳥居
 都島角折神社が鎮座している都島地区は烏川と利根川が合流するすぐ南岸に位置し、地形上烏川低地帯に含まれていて、その中の自然堤防上に鎮座している。
 この地域名「都島」は、小鹿野町吉田文書に「正月四日(天正七年)、北条氏政は、去年十二月二十八日の宮古島衆(北条方)と倉賀野衆(武田方)との合戦における氏邦家臣吉田和泉守の戦功を賞す」と記述され、この地域の土豪集団の名称から、本来の地名は「宮古島」で、後に「都島」と変わったのではないかと思われる。
           
                          都島角折神社案内板

角折神社
 所在地 本庄市都島二三五
 角折神社の由来は、清和天皇の貞観年間(859~877)京都から公卿某が東国に下向した折に、勅使河原(現上里町内)に至りさらに上州那波郡茂木郷に移ったところ、この地に魔鬼が現われ民衆を苦しめているのを見て、魔鬼の角を折って退治したと伝えられる。以来、都島の里人はこの剛勇の公卿を崇拝して角折明神と称し、後世に伝えるため神祠を建てて祀ったと伝えられている。
 社殿は享保年間(1716~1736)の建築で、徳川時代には正観寺がその別当職であった。
 なお、境内には、九頭竜神社と八郎神社も祀られている。
 九頭竜神社は、昔、正観寺の北側にあったが、後にこの地に神殿を移したものである。この都島の辺は利根川と烏川が合流し、水域の移り変わりが激しい所で、たびたび洪水にみまわれたが、当社に瀬引の祈願をしたところ川の流れが北に変り洪水がなくなったという伝説がある。
 八郎神社は疱瘡除けの神として、鎮西八郎を祀ったものである。明治時代には近隣町村からの参詣者が多く、同社の「鎮西八郎子孫」の御札を住居の入口に貼っておけば疱瘡の疫病神が舞い込まないと言われている。
 昭和六十一年三月
                                                           案内板より引用


 案内板前半の記述では、「那波八郎大明神神事」がモチーフとなっているようだが、詳細を調べてみるとかなりの違いがある。「那波大明神神事」の内容は長くなるので省略するが、本来の伝承では怨霊(大蛇)と化した那波八郎が京からきた若い公家からお経を唱えられ、蛇は成仏して那波大明神になったというのだが、この都島角折神社の案内板では、対峙した人物は「京からきた公卿」でそこは同じだが、怨霊ではなく角のある「魔鬼」であり、「那波八郎」であるかの記述もなく、ただ「魔鬼が現れて民衆を苦しめた」としか書かれていない。そして「那波大明神神事」では祀られた対象は「那波八郎」だがこの案内板では退治した当の人物である「剛毅な公卿」が「角折明神」として祀られている。

 案内板後半はもっと混乱していて、境内社である八郎神社は「八郎」を祀っているが「那波八郎」ではなく、同じ八郎でも「鎮西八郎(おそらく源為朝)」を祀っている。由来、由緒は語部による口伝えが主であったろうから、伝説が各地に浸透するなかで、地域的変化が生じることは致し方ないこととはいえ、かなりの脱線が見られる。正確な記録の伝承は何時の世にも必要なことだ。
           
                             拝     殿

        拝殿の右隣にある八郎神社             拝殿の左側手前にある九頭竜神社
           
                          社殿を西側から撮影

 ところで上野国佐位郡一帯に勢力を誇っていた桧前一族は、当時の政治を掌握していて天皇以上の権力を有していた蘇我氏のもとで、大和政権の外交・財政・軍事などに深く関わって成長してきたとされている。つまり桧前一族は蘇我氏の配下であり、ブレーンでもあったと思われる。蘇我氏の協力があり、桧前一族は日本国中にその勢力範囲を広げたと思われる。その中の一派が上野国佐位郡を中心に北武蔵国にもその範囲を広げたと考えられる。角折神社が鎮座する「都島」地区はその範囲内に含まれていた可能性が高い。
 この「都(宮古)島」は「都(宮古)」+「島」と分割することができ、本来の地名は「宮古」であろう。前述の小鹿野町吉田文書は天正7年(1579年)に北条氏政が配下の吉田和泉守政重に送った感状であり、少なくとも16世紀にはこの「宮古島」という名は存在していたことになり、決して近年に付けられた地名でないことが分かる。
 また伊勢崎市の大字には「宮古」「宮子」「宮前」「上之宮」といった「宮」のつく地名が多数あり、 更に伊勢崎市宮郷地区は嘗て「宮の郷」と呼ばれていたということから、少なくともこの地域は「宮」に関連した地域であることは間違いない。
 但し那波郡には7つの郷があるが、その中に宮の郷は存在しないことから、ある意味地元の人々の尊称名ではないかと考えられる。またこの地域には延喜式内社である火雷神社倭文神社、それに那波総社の飯玉神社も鎮座していて、「宮」の地名を付ける根拠も確かにある為、即決するのは危険であり、さらなる考証は必要だ。


       鳥居や案内板の隣にある石祠               社殿と八郎神社の間にある石祠

  社殿を左側に回るとその先には数基の石祠あり          石祠の手前にある境内社


 都島角折神社の北側と西側面に社を取り囲むように自然堤防が伸びている。嘗てある時期に河川の通り道だったかのようにこの堤防は東側に伸びて、最終的には利根川に合流する。 暴れ川の名称を持つ利根川の乱流を物語るわずかな痕跡の一つであるこの自然堤防は、現在この長閑な田園風景の一つに溶け込んでいるようだった。


 

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