古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下真下金佐奈神社

『児玉飛行場』は、嘗て埼玉県児玉郡児玉町(現本庄市)・上里町にあった陸軍の飛行場であり、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)10月に完成。1944年(昭和19年)10月に児玉基地と改称し、各分科飛行部隊および特別攻撃隊の基地となった。帝都防衛と硫黄島への攻撃を担った。現在大部分が児玉工業団地となっており、一角には飛行場の記念碑と第四教育飛行隊鎮魂碑が建っている。また、当時の兵舎をそのまま流用した立野南公民館にも児玉開拓農業協同組合による石碑が建つ。2016年までは排水路の遺構も残っていたが、撤去された。
 下真下金佐奈神社の旧社地は現在地から西北に1km程行った、小字「金佐奈」にあったようで、昭和17年、陸軍児玉飛行場の開設にあたって現在地に遷座されることになったという。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町下真下149
             
・ご祭神 天照大御神  素盞鳴尊  日本武尊
             
・社 格 旧下真下村鎮守
             
・例祭等 祈年祭 43日 例大祭 1015日 新嘗祭 1210
                  
大祓 1225
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2137175,139.1406306,16z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市・児玉町下真下地域は、上真下地域の北東部に位置する。「真下」を共有するこの地域は、児玉党真下氏の名字の地とされ、元々は一村であったが、のち真下が当村と上真下村に分村した。その経緯は不明ながら、本庄市・今井の鈴木家文書によると、「真下左京亮」と「下真下新六郎」の名前が見られ、戦国時代には児玉党真下氏の系譜を引く武士がいて、この時期には既に「下真下」の名称があり、また分村していた事を示唆させる書き方をしている。
『日本歴史地名大系 』「下真下村」の解説
上真下村の東に位置し、北は賀美(かみ)郡立野(たての)村(現上里町)・原新田(現神川町)。児玉党真下氏の名字の地とされ、のち真下が当村と上真下村に分村。慶長一六年(一六一一)の検地帳写(下真下地誌)では田方一四町二反余・畑屋敷二〇町七反余。元和五年(一六一九)佐久間府官(正勝か)の知行地となる(下真下地誌)。田園簿によると田方二三七石余・畑方一四八石余、旗本日向領二八六石余・同加藤領一〇〇石。国立史料館本元禄郷帳では旗本加藤・大岡の二家の相給。

 途中までの経路は蛭川駒形神社を参照。蛭川駒形神社の東側隣にある「平重衡の首塚」から北方向に伸びる脇道を進み、女堀川を過ぎた一本目の十字路を左折し、350m程進行、その後丁字路を右折してそのまま道なりに進む。周囲一帯長閑な田園風景を愛でながら2㎞程北上すると、斜め左方向に進路が変わり、そのまま進行すると、左側に下真下金佐奈神社の赤い鳥居が見えてくる。
        
                 
下真下金佐奈神社正面
 下真下地域には古代末期から既に児玉党。真下氏が存在していた。真下氏の館は上真下地域の字東と中内而付近にあったと考えられるが、下真下地域にも数カ所の館跡が存在し、児玉工業団地造成の際の発掘調査でも中世の遺構が検出されている。下真下地域内字石橋にある観音堂は真下氏が建立したとの伝承がある。
一の谷合戦で真下基行が乗っていた馬に平家方の放った矢が当たり、基行は最後と観念したところ、突然馬は空を飛び、安全なところまで飛んでいき基行は命拾いをした。これは日頃より金鑚神社を深く信仰していたためのご神徳によるものと思い、所領に観音堂を建立した
 嘗てこの地域にあった小字名である「金佐奈」は、現在工業団地内に入っており、消滅している。昭和18年(1943)の陸軍児玉飛行場の造成以前はこの地に金佐奈神社があったが、非工場の造成に伴って南部の現在地に移転した。尚江戸時代の名寄帳には「金皿」「かなさら」と記載されていることから、昔は「かなさら」と発音していたかもしれない。
 
     鳥居に掲げてある社号額         境内の様子。
規模は大きくはないが、
「金鑚」ではなく「金佐奈」と表記されている。  手入れはしっかりとされていている様子。
        
                    拝 殿
        
             赤い鳥居の右側に設置されている案内板
 金佐奈神社 御由緒  本庄市児玉町下真下一四九
 □御縁起(歴史)
 下真下は、古くは隣接する上真下と共に一村であったが、天正のころ(一五七三-九二)二つに分かれたものと推測されている。下真下の字石橋五六四には真下氏の館跡があるように、この地は武蔵七党児玉党の真下氏の本貫地であり平安・鎌倉のころから開発が行われていた古い村であることがうかがえる。『児玉郡誌』が、「元暦元甲辰年(一一八四)八月十五日・児玉党支族にして当地の豪士真下太郎基行の勧請せし社なりと云ふ(中略)其後永禄元亀の頃(一五五八‐七三)・下真下新六郎と云ふ人あり、社殿を再興して崇敬せりと云ふ」と記しているのも、当社とこの真下氏との関係の深さを示すものである。
 当社の境内は、元来は現在地から西北に一キロメートルほど行った所(字金佐奈)にある金佐奈山(平山ともいう)にあった。ところが、昭和十七年、彼の地が陸軍の児玉飛行場開設に当たり、その用地となったため当社は移転を余儀なくされ、新たな社地を検討した結果、中屋敷の中央部に近いこと、桑畑で造成も容易であることを理由に、中島隆治家から有償で土地の譲渡を受け、現在の場所に遷座した。
 江時代には、『風土記稿』下真下村の項に「金鑽神社 村の鎮守にて、竜泉寺持」とあるように、臨済宗の竜泉寺が当社の別当であった。同寺もまた真下太郎基行を開基とする古い寺院で、明治三十年に火災で堂宇を焼失したが、間もなく復興され、現在に至っている。(以下略)
                                      案内板より引用


 社殿の左手には「猿田彦」と刻まれている石碑が一基。またその奥には合祀社が二社、中に二基の石祠が祀られ、その右手にも石段上に二基の石祠が祀られている。
             
                 社殿左手にある石碑。
        読みづらかったが「猿田彦」と刻印されているように見えた。
        
              社殿奥で、一番左側にある合祀社。
     二基の石祠は、左側は「大年神」、その隣には「伊勢神社」の看板があり。
 年神(としがみ、歳神とも)・大年神(おおとしのかみ)は、日本神話・神道の神で、「とし」は、元々穀物などの実り、収穫を意味したが、その収穫に1年を要するところから年を意味するようになった。よってこの神名は本来豊かな実りをもたらす神の意。国津神に属する。
『古事記』には、須佐之男命と神大市比売との間に生まれ、また伊怒比売,香用比売などの女神との間に多くの子をもうけた神と伝えられている。また『古語拾遺』には、大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話がある。
 生まれたすぐあとに、穀物神である宇迦之御魂神が生まれていることや、この神の子として御年神が生まれていることなどに、稲のゆたかな稔りをもたらす穀物神としての性格がよく表れている。
 民俗学者である柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。
 
  真ん中に祀られている合祀社・石祠二基     一番右側に祀られている石祠二基
左側は「天神社」その隣は墨が薄くて解読不能     こちらも墨が薄くて解読不能



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「朝日日本歴史人物事典」「Wikipedia」「境内案内板」等

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上真下金鑚神社

 九郷用水は、群馬・埼玉県境の神流(かんな)川から取水する用水。埼玉県北部を灌漑(かんがい)する。開削の時期は不明だが,古代の条里制施行時に開削されたとする説や,平安末期から武蔵(むさし)七党のうちの児玉党によって開削されたとする説などがある。
 神川町新宿字寄島から分水した九郷用水は、神流川の河岸段丘縁辺を神川町小浜付近から等高線に沿って徐々に段丘上に導き、神川町中新里地域付近で東方向に向きを変えて、本庄台地面の植竹集落(南)、児玉町保木野(北)を流下し、児玉町上真下地域を通り、上真下金鑚神社から東方向350m先で、北東方向に流れる女堀川と合流する。
 江戸時代、上真下村は九郷用水の南北分流点の地に位置していることから、922ヵ村用水組合の割元村を蛭川村と共に務めていた。この流域での石高は7,817石で、全長は約8,640間とされていて、この膨大な石高を生産し、尚且つ用水の管理や維持するため、ほぼ一手に引き受けたのがこの用水でもあり、割元村である当村と蛭川村の苦労は計り知れない。
 現に嘉永6年(1853)に九郷用水組合内で大きな水争いが起きているなど、たびたび水争いが発生していたというのも想像に余りあることであろう。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町上真下186
             ・ご祭神 天照大御神  素盞鳴尊  日本武尊
             ・社 格 旧上真下村鎮守・旧村社 
             
・例祭等 祈年祭 414日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1214
                  大祓 1225
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2091225,139.1298314,17z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市児玉町上真下地域は、旧児玉町共和地区内にあり、北部は児玉工業団地があり、南部から東部にかけては条里水田地帯で、上真下地域の中央を女堀川が東西に流れ、地域一帯は低地帯となっている。また中央西寄りを南北に嘗て「本庄道」と呼ばれた埼玉県道131号児玉新町線が通っている。
 途中までの経路は保木野御霊稲荷神社を参照。この社から北東方向に2㎞程進行し、上記県道131号線に達した後、右折するとすぐ先に「上真下」交差点があり、交差点右側に上真下金鑚神社は鎮座している。
 残念ながら周辺には駐車スペースはなく、正面鳥居の近くに路駐し、急ぎ参拝を行う。
        
                               上真下金鑚神社正面
『日本歴史地名大系 』での「上真下村」の解説によれば、「吉田林(きたばやし)村・八幡山町の北に位置し、北は下真下村、西は賀美(かみ)郡八日市村(現神川町)。児玉党真下氏の名字の地とされ、かつては当村および下真下村一帯は真下と称されていたとみられる。児玉党系図(諸家系図纂)によると、武蔵権守児玉家行(児玉党の祖と伝える有道遠峯の孫)の弟基行は真下五郎大夫、基行の子弘忠は真下太郎を称している。建久元年(一一九〇)一一月七日の源頼朝入洛の際に真下太郎、暦仁元年(一二三八)二月一七日の将軍藤原頼経入洛の際には真下右衛門三郎が供奉した(吾妻鏡)」との事だ。
 因みに「真下」と書いて「ましも」と読む。
        
                   境内の様子
 真下地域は武蔵七党児玉党に属していた真下氏の本貫地である。児玉党系図(諸家系図纂)によると、武蔵権守児玉家行(児玉党の祖と伝える有道遠峯の孫)の弟基行は真下五郎大夫、基行の子弘忠は真下太郎を称している。
『新編武蔵風土記稿 上真下村』では、真下氏に関して以下の記載がある。
 眞下は古く聞えし地名にして、當國七黨の枝流眞下二郎弘忠等の住せし地なり、【七黨系圖】に兒玉當の祖、遠峯有大夫弘行の三男、基行の子眞下二郎弘忠とみえたり是當郡に住せし兒玉氏の屬なれば、此地を領して在名を名乗しこと知らる、又【東鑑】に眞下右衛門三郎・同太郎等あり、且前村舊家忠右衛門所藏天正十八年の文書にも眞下左京亮・眞下新六郎など見ゆ、これによれば上下に分れし年代も大抵推て知べし、
『風土記稿』に記載にある「天正18年の文書」の他に、本庄市今井の「鈴木家文書」には、「眞下左京亮・下眞下新六郎」という名が見え、どちらにしても、児玉党真下氏の系譜を引く武士がこの地にいたことは確かである。上真下には古代末期から既に児玉党・真下氏が存在し、治承4年(1180)源頼朝が石橋山合戦で敗れたとき、平家方に「真下四郎重直」という武士がいたことが『平家物語』に見える。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿』以外での真下氏の記述は以下の通り。(*埼玉苗字辞典参照)
『武蔵七党系図』
「有大夫別当弘行―真下五郎大夫基行―三郎有弘(兄太郎弘忠、弟四郎弘親・其子中務丞弘常・其子小太夫)―弘長―兵右衛門尉重盛―太郎成胤―弥太郎成氏(弟胤氏)―又太郎成実。成胤の弟三郎某―重親―孫太郎重延(直延トモ)」
『平家物語』
「篠原合戦。平家方に長井斎藤別当実盛・浮巣三郎重親・真下四郎重直、我等は東国では皆人に知られて名ある者でこそあれ」
『吾妻鑑巻十』「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に真下太郎」
『同巻三十二』「嘉禎四年二月十七日、真下右衛門三郎」
『典籍古文書』
「建治元年五月、武蔵国・真下右衛門尉跡四貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」
『新編武蔵風土記稿 秩父郡野上下郷』
「滝上十郎道信(正応年中の人)は、児玉党に真下の五郎太郎と闘論す」
        
               境内に設置されている案内板
 金鑽神社 御由結  本庄市児玉町上真下一八六
 □御縁起(歴史)
 真下は武蔵七党児玉党に属した真下氏の本貫地で、天正のころ(一五七三~九二)に上下に分かれたものと推測されている。真下氏の館跡は下真下の字石橋にあり、下真下の鎮守である金佐奈神社は真下太郎基行が元暦元年(一一八四)に勧請したものと伝えている。したがって、下真下と元は一村であった上真下の当社は、その時期は明らかでないが、この金佐奈神社から分 かれた社であると考えられる。
 当社の境内は上真下の集落の中心地にあるが、元来は村の北端の丘の中腹(字金鑽西)にあった。この丘は、神川町に鎮座する武蔵二宮の金鑚神社が遥拝できる所である。『児玉郡誌』によれば、宝永年間(一七〇四~一一)に社殿が炎上したため、字神西の日枝神社に一旦合祀され、宝暦年間(一七五一~六四)に至って、社殿を再興し、旧社地に戻ったという。この日枝神社が、現在の社地に元からあった神社で、無格社であった。ところが、一村一社を目指して行われた政府の合祀政策に基づき、この日枝神社に明治四十一年をもって村社であった当社が合祀され、その結果、日枝神社は社号を金鑚神社と改め、村社となった。このような経緯をたどって、当社は現在のような形になったのである。
 本殿は、日枝神社が春日造りで明和四年(一七六七)
の造営、金鑚神社が流造りで宝暦年間の造営である。(以下略)
                                      案内板より引用
 
   社殿左側に祀られている石祠三基           社殿右側にも境内社。

         詳細不明              
内部に石祠二基と三体の御幣あり。
 社殿右側に鎮座する境内社の中に二基の石祠があるが、向かって右側の石祠の屋根正面部に「八坂・大〇」と刻印されているようにも見える。
       
              境内に屹立するご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等
             

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保木野御霊稲荷神社

 わが国における視覚障害を有する者の生活手段確保の原点は「当道座」にあるといわれている。当道座とは、盲人の自治的相互扶助組織であり、その起源は古代に遡り、平安時代前期、仁明天皇の子である人康(さねやす)親王は盲目(眼疾による中途失明)であったが、山科に隠遁して盲人を集め、琵琶、管弦、詩歌を教えたのがその起源であるという。
 鎌倉時代、『平家物語』が流行し、多くの場合、盲人がそれを演奏した。その演奏者である平家座頭は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護、管理に入っていく。その後、室町時代に足利尊氏の従弟で、検校明石覚一が『平家物語』のスタンダードとなる覚一本をまとめ、また足利一門であったことから室町幕府から庇護を受け、当道座を開いた。
 江戸時代にはその本部は「職屋敷(邸)」と呼ばれ、京都の佛光寺近くにあり、長として惣検校が選出され、当道を統括した。一時は江戸にも関東惣検校が置かれ、その本部は「惣禄屋敷」と呼ばれ、関八州を統括した。座中の官位(盲官と呼ばれる)は、最高位の検校から順に、別当、勾当、座頭と呼ばれていたが、それぞれはさらに細分化されており合計73個の位があった。さらに地方の出先機関として「仕置屋敷」があり、その末端に組が置かれたという。
 官位を得るためには京都にあった当道職屋敷に「官金」と呼ばる多額の金子を持っていく必要があり、官金は高官たちに配分され、低官者は吉凶に際して施し物を受け、その配当を貰うことが慣行として公に認められていた。昔テレビで放送されていた「座頭市」のような物語の背景もそこにあったようだ。
 但し、江戸幕府は、当道座を組織させることで、それを統括する惣禄屋敷の検校(惣禄検校)に自治の権限や一定の裁判権を認めたが、当道座は男性のみが属することが出来る組織であり、盲目の女性のための組織としては瞽女座があり、また、盲僧座とよばれる別組織も存在し、しばしば対立することもあったらしい。
 当道座は江戸時代になっても幕府より庇護され、寺社奉行の管轄下に置かれていて、組織もしっかりと整備され、京都に職屋敷が置かれ、総検校が当道座を支配した。のちに6派に分かれたらしいが、それぞれ「座」として存在し、「検校・別当・勾当・座頭」の4官、内訳は16階と73刻みの位階で構成される当道制度が確立したが、官位はあくまで私官であった。この組織は明治4年(1871年)に廃止された。
 江戸時代中期、失明のハンデを負いながら学問の道に進み、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」等散逸する恐れのある貴重な文献の校正を行った塙保己一も、同時に当道座社会の最高位である「総検校」に就任している。その保己一の故郷がこの現本庄市・保木野地域であり、生家に近い場所にその地域の鎮守社である保木野御霊稲荷神社がある。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町保木野314
             
・ご祭神 素盞鳴尊 倉稲魂命
             
・社 格 旧保木野村鎮守・旧村社
             
・例祭等 初午祭 211日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  
新穀感謝祭 1215
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1977266,139.1184574,16z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市・保木野地域は旧児玉町「金屋地区」に属し、地区内最北部に位置している。途中までの経路は金屋白髭神社を参照。国道462号線を本庄市児玉町地区より神川町二ノ宮の金鑚神社の方向に進み、「金屋保育所」交差点を直進し、450m程先の信号のある十字路を右折、そこから北方向に約1.4㎞道なりに進むと、一面田畑風景の中、正面方向にポツンと保木野御霊稲荷神社の社叢林が見えてくる。
        
                                                    保木野御霊稲荷神社の社叢林
 保木野地域は北を九郷用水、東を赤根川に挟まれていて、一帯は概ね平地である。集落は地域中央部にあって南部には「金屋条里水田」が広がっていて、現在はこの条里地帯も農地の区画整理、農道の整備、農業用用排水路等の整備を総合的に行われ、嘗ての土地区画は変化しているという。北側に九郷用水が東西に流れていて、保木野地域の水田もこの用水を用いている。
『本庄の地名②・児玉地域編』によれば、保木野の地名由来として、広がっていた野原とそこに映える自然林から起こったと推測され、保木野の「ほき」は植物がよく茂る(ほきる)様をあらわした言葉の意味との事だ
        
                保木野御霊稲荷神社正面
 日本歴史地名大系 「保木野村」の解説
 八幡山町の北西に位置し、東は賀美(かみ)郡八日市(ようかいち)村(現神川町)。文永一一年(一二七四)一一月の大嘗会雑事配賦(金沢文庫文書)によると、大嘗会に際して「保木野村」に布三丈六尺・白米六升八合・酒二升・秣一束・菓子一合が賦課されている。
「風土記稿」は新義真言宗(現真言宗豊山派)龍清(りゆうせい)寺境内に応永三二年(一四二五)銘をもつ「妙西尼」と刻された石碑があったと記す。永禄六年(一五六三)二月二六日、用土新左衛門尉に旧領である「保木野之村」などが宛行われた(「北条氏康・同氏政連署判物写」管窺武鑑)。天正一九年(一五九一)の八幡山城主松平家清知行分を示した武州之内御縄打取帳(松村家文書)によれば村柄は下之郷で、田方一一町八反余・畑方一〇町五反余(うち屋敷四反余)、俵高三一六俵余。
        
              保木野御霊稲荷神社 一の鳥居
 塙 保己一(はなわ ほきいち、延享355日(1746623日)~文政4912日(1821107日))は、江戸時代後期に活躍した全盲の国学者。武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。姓は「荻野」。武蔵七党横山党の一族で、荻野氏の後裔といわれている。
 7歳のとき、病気がもとで失明したが、15歳で江戸に出て、学問の道に進む。多くの困難の中、驚異の暗記力で様々な学問をきわめ、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、次々と出版する。
 48歳のとき、国学の研究の場として現在の大学ともいえる「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設し、多くの弟子を育てる。生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注いだという。
 そして、文政4年(18212月、盲人社会の最高位である「総検校」につき、同年9月に天命を全うした。享年76歳。
        
                                                            境内の様子
 保己一の幼名は丙寅にちなみ「寅之助(とらのすけ)」、失明後に「辰之助(たつのすけ)」と改める。また一時期、「多聞房(たもんぼう)」とも名乗る。雨富検校に入門してからは、「千弥(せんや)」、「保木野一(ほきのいち)」、「保己一(ほきいち)」と改名した。「保木野一」という名前は、自身が宝暦13年(1763)、18歳にして「衆分」の位に昇格した際に、名を中国の故事と共に、自らの出身地である「保木野」に因んだからといわれている。
 因みに「塙」の苗字は、保己一が江戸に出て修行を積み、当時の師であった須賀一の本姓「塙」を名のり、塙保己一を称したという。
*衆分…当道座の73もの階級の内、大きく分けた検校・別当・勾当・座頭の4官の座頭に相当し、衆分は15の階級に分かれている座頭の一番下の位という。
        
                    拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額           境内に設置されている案内板
 御霊稲荷神社 御由緒    本庄市児玉町保木野三一四
 □御縁起(歴史)
 保木野は、北を九郷用水、東を赤根川で限られた平地である。文永十一年(一二七四)の「大嘗会雑事配賦」(金沢文庫)に保木野村の文字が見える。
 御霊稲荷神社の名が示すように、当社は御霊神社と稲荷神社の合殿である。御霊神社は新里村との村境に鎮座した神社で、『風土記稿』保木野村の項によれば、往時の村鎮守で、龍清寺の持ちであった。「文政六癸未歳(一八二三)十一月吉祥日、別当東方龍清寺」と墨書された再建時の棟札が伝わる。ちなみに、龍清寺は、境内に応永三十二年(一四二五)の石碑がある古刹である。一方、稲荷神社は元々現在地に祀られ、『風土記稿』によれば福泉院の持ちであった。『児玉郡誌』によれば、貞治年中(一三六二-六八)に福泉院の開祖道栄が当地に居住して修験道を修行し、当社を勧請したという。本殿には「奉納稲荷大明神守護、元禄十六年(一七〇三)癸未天九月吉旦、願主武州児玉郡保木野村法印袋等」と刻まれた金幣や「正一位稲荷大明神、安永九年(一七八〇)子二月」と墨書された神璽などが奉安されている。
 明治初年の神仏分離により両社はそれぞれの別当から離れ、明治五年に稲荷神社が村の中央に位置することから村社となり、御霊神社は無格社とされた。同四十年には御霊神社を稲荷神社に合祀し、これに伴い社名を御霊稲荷神社と改めた。(以下略)

 また御霊稲荷大明神に奉納されている「塙保己一の奉納刀」があり、天明31783)年、塙保己一が検校(けんぎょう)に就任した時に奉納されたもので、糸巻き太刀拵えと呼ばれる形式の「飾り太刀」だそうだ。

拝殿左側手前に祀られている石祠群・詳細不明      社殿右側に鎮座する境内社
                             こちらも詳細不明
     
            境内には巨木・老木が聳え立つ。(写真左・右)
     左側は入り口付近で、鳥居の右側にある巨木。右側は社殿の右側にあるご神木。
   これら巨木・老木・ご神木の存在は、この社の歴史の深さを証明する生き証人でもある。
  境内入口付近左側にポツンとある社日神    鳥居の右側に並んで建つ庚申塔・石碑等
       
               社殿から見た秩父山系の風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉県HP」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「本庄の人物誌① 盲目の国学者 塙 保己一の生涯」「Wikipedia」「境内案内板」等
   



 

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小島智方神社

『日本歴史地名大系』 「小島村(おじまむら)」の解説
本庄台地の末端から烏(からす)川・利根川の沖積低地にかけて位置し、東の本庄宿から続く中山道が台地の末端部を通る。「和名抄」にみえる賀美郡小嶋郷の遺称地とされ、中世には小嶋郷に含まれていた。村域の北部を元小山川が東流し、北部の低地部と西の下野堂(しものどう)村地内に複雑な小字境界が入交じっている。下野堂村のなかに飛地がある一方、北側の低地には同村・杉山村・新井村の飛地があり、飛地の中にさらに飛地があるなど、それぞれ村の成立からみて分村を繰返した結果であると考えられる。
『新編武蔵風土記稿 小島村条』
「小島村は古へ賀美郡に屬せしにや、【和名鈔】賀美郡鄕名の條に小島と載たり、又【廻國雑記】にさまざまな名所を行々て、をじまの原といへる所に休てよめる、けふこゝに小島ヶ原を來てとへば云々とあれば、古き地名なる事知らる」

 古代賀美郡は、新田郷・小島郷・曽能郷・中村郷の4郷で構成されていた。『和名抄』に賀美郡小島郷を載せ、「乎之万(おしま)」と訓じていて、現在の小島地域とその周辺地域が古代の小島郷にあたると思われる。
 また古代末期頃に出現した武蔵七党丹党一族に小島氏があり、この小島地域周辺を書領していたという。
*丹党小島氏 武蔵七党系図
「秩父黒丹五基房―小島四郎重光―五郎光成―六郎光高―五郎左近光頼(弟光泰)―五郎左衛門経光―六郎光重(弟に五郎光綱、二郎光行、四郎経定)―六三郎末光(弟六郎入道宗光)。光高の弟四郎俊光―四郎二郎光村―小三郎信俊(弟経時)―孫六郎光経(弟七郎季光)」
 道興准后の文明十八年廻国雑記に「をしまの原」と見える。嘗て児玉郡小島(尾島とも記す)は賀美郡石神・七本木各地域に接していたので、この地のことであろう。
        
               
・所在地 埼玉県本庄市小島179
               
・ご祭神 天児屋根命
               
・社 格 不明
               
・例祭等 春祭り 423日 大祓式 720日
                    
秋の大祭 1123日 奉告祭 125日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2555494,139.160708,17z?hl=ja&entry=ttu
 田中一之神社から一旦南下し、国道17号に合流後右折し、上里方向に進む。その後上里町との境近くにある「万年寺」交差点を右折、200m程先にある元小山川に架かる橋を渡る手前の路地を左折する。元小山川沿いの道を進み、農業用ハウスを左手に見ながら暫く進むと、浄水場付近で周囲が田畑風景に代わり、左側遠方に小島智方神社が見えてくる
 駐車スペースはないので、社号標柱北側の路肩に停めてから急ぎ参拝する。
        
                                小島智方神社正面 
 鳥居前面には、正面の社殿が見えない位に、欅の大木が聳え立つ。樹齢は想像もつかない位に古そうで、まさにご神木そのもの。他のサイトを確認すると700800年ともいう。幹の中心部は既に枯てしまっていて、幹が割れるのを防ぐためのベルトが締められている。但し周りの枝葉は元気に伸ばしていて、その生命力には驚きを感じる。年鳥居前で一礼して、更にご神木にもお礼せざるをえない程の貫禄と存在感がこのご神木にはある。
            
                         小島智方神社・大欅のご神木 
                   
               大欅のご神木の近くにある「智方神社新築記念碑」
 智方神社新築記念碑
 当社の由緒については、「智方大明神」の御神名により、定かではないが、平将門の乱を鎮定した鎮守府将軍藤原秀郷の六男である千方修理大夫を祀った社と考えられる。また藤原の祖、天児屋根命を御祭神として奉斎し境内には樹齢七、八百年と伝えられるケヤキの御神木を有するところから、その創建の古さをうかがい知られる。
 当社は昔より安産の神として信仰され、氏子中ではお産で死する者無しと伝えられ、さらには、重病者がでると近隣者が快癒祈願のお百度を踏んだともいう。此様に氏子の心の支えとなり、親密な交流の場として慕われてきた鎮守の社「おちかた様」の社殿を、昨年十月に斎行された伊勢神宮第六十一回式年遷宮を奉祝記念して建替えることとなり、氏子一同の協力のもとに無事竣工なったことは、祠職の身として無上の慶びと感ずるところであり、新築記念碑を刻し神人一和の悦びを後世に伝えるものである。(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                     拝 殿
        
                               境内に設置されている案内板
 智方神社 御由緒
 ▢御縁起(歴史)  本庄市小島一七九
 聖護院門跡道興が、『廻国雑記』に綴る東国巡遊の旅に出て、北陸から上野国(現群馬県)を経て武蔵国に入り、「けふ愛におしまか原をきてとへはわか松しまは程そ遥けき」と詠んだのは、文明十八年(一四八六)のことであった。この歌にある「おしまか原」と伝えられてきたのが、当社の鎮座する大字小島であり、その地名については、村が幾つかの川に囲まれ、島のような形であったことから起こったものであるとの口碑がある。
 当社の創建について、詳しいことは伝えられていないが、一説によれば、字万年寺の茂木家が下野の方から当地に移住して来た際に建立し、以来、同家の氏神として祀られていた社であるという。それが、村の発展に伴い、字全体で祀るようになっていったものと思われる。また、江時代には正一位の神階を受けたものらしく、本殿に安置されている白幣の幣串には「正一位智方大明神」と記されている。ちなみに、当社の祭神は天児屋根命である。
『風土記稿』小島村の項に、当社は「智方明神社 村民持」と載るが、古くはこの地内に万年寺という寺があり、その寺の持ちであったとする伝えもある。字の名称の起こりにもなっている万年寺については、『風土記稿』にも記載がなく、詳細はわからないのが残念であるが、当社と深い関係があったことが推測される。(以下略)
                                      案内板より引用
 道興准后(どうこうじゅごう)は室町時代の僧侶で、関白近衛房嗣の子である。文明18年〜19年(148687年)にかけては聖護院末寺の掌握を目的に東国(若狭国から越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国の北国を経て、下総国、上総国、安房国、相模国、其の後武蔵国、甲斐国、奥州)を廻国し、後に東国廻国を紀行文『廻国雑記』として著している。
 当時小島地域は上野国に属していて、「おしまの原」という所で休んだという。この「おしまの原」が本庄市小島地域といわれていて、冒頭紹介した『新編武蔵風土記稿』にもそのことは記載されている。
 因みに案内板に記載されている「茂木氏」は、児玉郡誌に「字万年寺の智方神社は徳川時代に至り、豪士茂木伊賀守・社殿を改築せり」と記載されている。
 
      拝殿左側に石祠が二基           拝殿右側にも石祠が二基
            これらの境内社・石祠の詳細は不明である。
        
                            社殿右側奥にある御嶽社
 塚頂の石碑には御嶽山神社・八海山神社・三笠山神社が、その右側の石碑に不動明王が祀られている。左側の石祠は詳細不明。
        
                  御嶽神社遷座記念碑
 御嶽神社遷座記念碑
 六根清浄を願って信州は木曽御嶽の霊山登拝行とする御嶽信仰は、江戸中期の天明・寛政の時に盛んに信仰された。
 創建は定かではないが、ここ本庄、万年寺の地においても、木曽御嶽山登拝できぬ人々の遥拝所として、御嶽神社が奉斎され、毎年327日には氏子のみなが集まり参拝するのを恒例としてきた。
 しかし平成の新しき年を迎え、本庄市の進める都市計画に従って大字小島字林1391番の奉斎地を離れ、この地の鎮守神である智方神社境内地に遷座奉斎することとなった。
 ここにその経緯と共に氏子名を記し、記念碑として後世に残す。 

                                     記念碑文より引用 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄市の地名」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
  

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田中一之神社


        
              
・所在地 埼玉県本庄市田中134
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧田中村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 319日 夏祭り 715日 
                   秋祭り 
113日 新嘗祭 1219
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2527484,139.1883378,18z?hl=ja&entry=ttu
 久々宇稲荷神社の信号のある十字路を左折し、西方向に850m程進んだ先の細い十字路を右折するとすぐ左手に田中一之神社が見えてくる。
 隣接している医王寺の北側にある専用駐車場をお借りして、参拝を行う。
        
                                  
田中一之神社正面
 本庄市田中地域は仁手地域の西側で、利根川南岸の自然堤防上に位置し、『新編武蔵風土記稿 田中村』において民戸80戸余、村の北境を流れる利根川に沿って「川除(かわよけ)」の堤があった。この「川除」とは、堤防などの水害防止施設をいい、この一之神社の由緒にも「真近に烏川・利根川が流れる氾濫原」「昔利根川大洪水のとき」と記されていて、大河川近くにある地域だけに昔から水害多発地帯であったのであろう。
 正保国絵図に田中村のみが記されるが、元禄年中改定図には田中村と「田中村内前田村」がみえ、後者は前田中集落をさしている。前出「風土記稿」には小名として「川岸田中」「前田中」を載せている。この小名の「前田中」について、同署には「元禄図には田中村の内前田村と記し、其のさま一村の如くなれど、小名前田中のことにて、別に一村をなせしにはあらず」と記している。寛永18年(1641)の検地帳(本庄市立歴史民俗資料館蔵)によると検地代官は南条金左衛門で、田三町一反余・畑一六町余・屋敷七反余、利根川に接しているものの畑地の圧倒的に多い村である。
 
     鳥居の左側に並ぶ庚申塔群        
鳥居の向かい側にある御嶽塚

 田中村の小名には「古社(ふるやしろ)」があり、以前ここに神社があったことを示しており、嘗て村の鎮守社である一之神社がここにあったのではないかと推定される。「地名と歴史」によれば、昔は正月十四日に子供達の祭りである「ドンド焼き」が行なわれたという。
        
                     拝 殿
 一之神社の創立年代は不詳ながら、嘗て利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神の御神体が流れてきて、当地の川岸に打ち寄せられたのを村人が発見し、その地に小祠を立て「一宮明神」と称して鎮祭した。
 その後、江期の社号額に「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二柱が並記されていたが、明治初期に、一宮明神社の社名では本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。
        
                境内に設置されている案内板
 一之神社 御由緒   本庄市田中一三四
 ▢御縁起(歴史)
 当社の鎮座する田中は、真近に烏川・利根川が流れる氾濫原に開けた集落で、寛永年間(一六二四~四四)に烏川の瀬替えによって上野国那波郡より武蔵国に所属したという。
 その創建については『児玉郡誌』に「当社創立年代は詳かならざれども、往昔利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神の御神体流れ来り、当地川岸に打寄られ有りしを発見し、里人小祠を造って一宮明神と称し、鎮祭せりと云伝ふ」と記されている。また、『本庄市史』には、田中の地内にある「古社」の地は現在の一之神社があった所と伝える旨が載せられている。
『風土記稿』田中村の項には「医王寺 新義真言宗、賀美郡七本木村西福寺末、蓮台山弥勒院、本尊は不動、一宮明神社 村の鎮守 稲荷社 薬師堂 大日堂」と記されており、化政期(一八〇四~三〇) には医王寺の境内に祀られていたことがわかる。また、享保十七年(一七三二)の「(梵字)奉造立一宮大明神御宸殿一社」と記される棟札には、医王寺の住職と思われる「願主法印賢清」の名が見える。
 社頭に掲げられている江期の社号額には、「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二柱が並記されているが、明治初年の書き上げの際に一宮明神社の社名で
は本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。(以下略)
                                      案内板より引用
 
  拝殿左側には石祠や庚申塔・道祖神       道祖神等の右並びにある境内石祠群
      が祀られている。                右端は戸隠神社
        
                  境内社・稲荷神社
       
                  境内社・稲荷神社の右奥にあるご神木(写真左・右)
           ご神木の根本付近には石祠・社日神が祀られている。
        
                         一之神社と別当寺である醫王寺



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「本庄市の地名」
    「境内案内板」等
 

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