下野本天神社
・所在地 埼玉県東松山市下野本969
・ご祭神 菅原道真公(推定)
・社 格 不明
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0166884,139.42102,18z?hl=ja&entry=ttu
当日川島町での神社散策が大方終了し、帰路についていた途中で、気になる場所をナビで確認し、そこで出会った社。埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を東松山インター方向に進路をとり、254号と交わる「古凍」交差点から900m程進んだ場所に鎮座していて、野本日枝大神社からは南東方向で直線距離で430m程しか離れていない。
専用の駐車場はない。下野本天神社の鳥居と県道沿いで鳥居の東側に隣接している「地蔵尊石塔」のお堂周辺に適当な駐車スペースはあり、そこ周辺の通行に支障のない場所に停めてから急ぎ参拝を開始する。
下野本天神社鳥居正面
鳥居の右側にある社号標柱には「村社」と刻印されている。
下野本天神社周辺の地形を確認すると、概ね新江川の左岸は台地、右岸は低地であり、新江川は都幾川が形成した沖積地の中を流れているようだ。新江川附近が16m~17m程の標高であるのに対して、その北側の県道沿いが平均18.5mであるので、県道付近はその北側にある台地に続く上り坂が多く形成されている。
因みにこの地域の小字は「曲輪」。古の村名であり、延宝七年屋代文書に「曲輪村」との記載がある。嘗てこの地には「館跡」や「城址」等あったのであろうかと勘繰りたくなるような小字名である。
高台・ないしは塚上に鎮座する下野本天神社
このアングルを見た限りでは意外と立派な社である。
木製の鳥居を過ぎると左側に高さ約3m程の盛り土の台地があり、その上に南に広がる肥沃な沖積地を見守るように祀られている。すぐ南側には新江川があり、その南に都幾川が流れる。新江川も都幾川も過去に幾度も氾濫して水田に大きな被害をもたらしてきた。この社は、天の神(天神)に洪水を鎮め、水害が起こらないように祈る地域住民の願いが込められたものと推察することができよう。
拝 殿
残念なことにこの下野本天神社に関して詳細な由来等書かれている書物やHPでの説明は筆者の調べた限りない。但し短いながらも『新編武蔵風土記稿』には以下の記述がある。
・十二天社 曲輪にあり、聖徳寺持ち、『新編武蔵風土記稿』より引用
嘗てこの天神社は「十二天社」と呼ばれていた。
「十二天社」の由来として、古くからの十二様と称する土着の山の神を祀ったものと、熊野神社の系列のものとがある。前者の信仰は射日儀礼を含む「十二講」の習俗を伴い、北関東・甲信越を中心にして東日本の山間部に分布する。後者は十二所権現社などと呼ばれる熊野三山の神(熊野権現)を勧請して祀ったものであり、仏が人々を救済するために神の姿をかりて現れるという、本地垂迹説にもとづくもので、鎌倉時代から室町時代にかけて、全国の神社で本地仏が定められた。その後、それらの中には明治の神仏分離によって祭神を「天神七代・地神五代」としている所もある。
さて下野本天神社はどのような由来で嘗て「十二天社」と呼ばれていたのだろうか。
拝殿に掲げてある「天神社」の扁額 参道左側に祀られている境内社。
詳細不明。
「地蔵尊石塔」が祀られているお堂
天神社参道の左隣お堂内に祀られている。赤い前掛け、帽子だけでなく、不思議な衣装を身にまとって、今日も道行く人々の安全を見守っているように見える。お堂の右隣に2つ石塔があるが、幾度かの水没や長年の風雪の影響もあるのか、損傷が進み、建立年代不詳です。右側の石碑は庚申塔に見えるが、左側のそれは分からず。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等