本田八幡神社
多治比縣守は宣化天皇を出自にもち、父・嶋は左大臣を務めるなど、当時の名門家であり、順調に昇進し、元正朝に入り、霊亀2年(716)8月に遣唐押使に任命され、養老2年(718)10月に使節団は一人の犠牲者も出さずに無事帰国した。
養老4年(720)9月に陸奥国按察使・上毛野広人が殺害され、史上初の大規模な蝦夷による反乱が発生する。その時には遣唐使使節団を率いた統率力と、東国の地方官(武蔵国守)を務めた経験を買われ、持節征夷将軍に任じられ、当地に赴き、反乱鎮圧は一定の成果を上げたといわれている。
深谷市本田地区に鎮座する本田八幡神社は多治比縣守が東北地方を鎮撫した際、当地に筥崎宮を勧請して創建したと伝えられている。
・所在地 埼玉県深谷市本田138
・ご祭神 誉田別尊
・社 格 旧村社
・例 祭 例祭4月15日 十五夜祭旧8月14日 秋日待10月15日
本田八幡神社は深谷市本田地区に鎮座する。荒川を越えて埼玉県道69号深谷嵐山線を埼玉県農林公園方向に南下し、県道81号熊谷寄居線が交わる「本畠駐在所」交差点の北側に社は鎮座している。本田第五自治会館の駐車場に車を停めてから参拝を行った。
本田八幡神社 正面撮影
社伝によると、同社は養老6年(722)の創立で、多治比縣守が渡唐の際に祈願した、福岡市箱崎の筥崎神宮を勧請したもので、『誉田別命を祀れるが故に誉田八幡神社とも稱し、里名を誉田の郷(本田郷)と云ふ。後畠山に分社せるを箱崎八幡宮と云ひ、當社を誉田八幡宮と稱へ奉れり。明治初年に八幡神社と改む』と【大里郡神社誌】にはある。
正面鳥居 南北に長い参道が続く。
武蔵七党の一つである「丹党」は左大臣・多治比嶋を祖とする氏族とも言われている。多治比広成が天平4年(732年)兄の縣守(第9次押使)に次いで第10次遣唐使の大使に任ぜられて、唐において氏として「多治比」に代えて「丹」墀を用いたのが「丹党」の名称由来とも言われている。
参道の途中には2か所基礎部分がしっかりとした灯篭が設置されている。
荒川右岸に鎮座している位置関係から土台をしっかりとしているのだろうか。
2対の灯篭の先には、参道の左右に石碑が立てられている。
左側の石碑は不明。奥に見えるのは「庚申供〇〇」。右側の石碑には〇才尊天と彫られているようだ。
長い参道の先に明るい空間、そして社殿が見えてくる。
冒頭で紹介した「多治比氏」は奈良時代から平安時代初頭にかけて武蔵守等の官職に就任された人物が多い。古代氏族系譜集成に「宣化天皇―上殖葉皇子(恵波皇子)―十市王―多治比古王―丹比公島(天武十三年賜多治比真人姓)―縣守―国人―浜成(兄は武蔵守宇美)―丹墀真人縄主―多治真人今継(武蔵介)。県守の弟広成―家継(造東大寺次官)―丹墀真人貞成(木工頭)―多治真人貞峰(右中弁、貞観十六年卒)」と系図が見られるが、その中で武蔵守、武蔵権守、武蔵権介、武蔵介に就任した人物は以下の通りだ。(上記に記されていない人物で、多治比氏である人物も併せて載せる)
・養老三年(719) 武蔵守多治比真人縣守
・天平十年(738) 武蔵守多治比真人広足
・宝亀二年(771) 武蔵員外介多治比真人乙兄
・延暦五年(786) 武蔵守多治比真人宇美
・承和十二年(845)武蔵権守丹墀真人門成
・嘉祥三年(850) 武蔵守丹墀真人石雄
・貞観三年(861) 武蔵権介丹墀真人今継
・治安三年(1023) 武蔵介多治石良
「丹党」は左大臣・多治比嶋を祖とする氏族とも言われている。その真偽はともかく、これだけの多治比氏が武蔵国に来ていて、その関わりの中で名門家と地方豪族との「血の交わり」もあったのだろうか。
拝 殿
時代は下り、平安後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国は武蔵七党の勢力地図に包まれ、上野国、下野国、相模国にまで広がりを見せる中、この本田、畠山地域周辺は桓武平氏の流れを汲む、秩父氏の一族である畠山氏が平家に従って20年に亘り忠実な家人として仕えることにより、地盤を固め、その勢力を嵐山町・菅谷方面周辺域まで拡大することができた。
畠山重忠の側近には榛沢六郎成清と本田次郎近常(親恒)がいた。本田地区は平安末期から鎌倉期にかけて隣村である畠山に館を構えた畠山氏に仕えた本田次郎近常が居住した地といわれており、口碑に「文治年中に畠山重忠と本田次郎近常が協力して社殿を造営した」との伝えが残されている。この本田近常は、元久二年(一二〇五)に武州二俣川において、北条氏によって主人重忠と共に戦死を遂げたことが『吾妻鏡』に見える。
境内にある「八幡神社改修之碑」
内碑 八幡神社改修之碑
敬神尊皇は建國以来の諄風國体の基であり崇祖愛郷は報恩感謝に発する親和協力繁栄への道である当八幡神社の御創立は養老六年と伝へられ由縁に拠れば元正天皇霊亀二年多治比縣守遣唐使を命ぜられし折筥崎八幡宮に祈請して霊験をうけ帰朝の後更に養老四年持節征夷将軍として東國の鎮撫にも神護めてたかりしにより此處に筥崎宮を勧請して報賽の礼を行へるに因るといふ誉田別命を祀れるより誉田八幡と崇めこの地を誉田郷本田郷といふと爾来村人の尊崇篤く信仰近郷に及ふここ本田は明治二十二年本田村連合戸長役場区域の畠山村と合併し本畠村となり開化の進むに從ひ武川村と合体して昭和三十年川本村大字本田となった近時世情の進転は著しく村勢弥々盛なれば圃場の整備を行ひ道路を舗装して縦横に貫通させ将来への備へを完了した氏子総代人等は豫てから鎮守の護持に心を碎いてゐたが整備による社地の提供により多額の代償を得ることゝなったのでこれぞ神慮によることと畏みこれを機会に神社の改修を計画し氏子一同の参画多数有志の浄財をも加へて社殿社務所を改築し末社参道鳥居の修復更に境内の整備を行ひ此の度総てを竣成した依って碑を建て時の流れと経緯を記し関係者一同の芳名を刻んで永く記念とするものである
昭和四十九年一月吉日
埼玉県神社庁長武蔵一宮氷川神社宮司東角井光臣題撰並書
社殿左側に鎮座する石祠群。詳細不明。 石祠群の右側には合祀社が鎮座する。
左から熊野神社・浅間神社・東照宮・天照宮、
八坂神社・天神神社・雷電神社・稲荷神社・
山之神社・榛名神社
社殿左側奥にひっそりと鎮座する白鳥神社
本田氏は、畠山重忠と同じ良文流の桓武平氏で千葉氏の流れを汲む。平忠常の乱(1028~1031)で追討使源頼信・頼義父子に敗れ、忠常は都に護送される途中に病死した。頼信・頼義父子は忠常の武勇に敬意を示し、忠常の一族を寛大に扱い保護した。そのため、忠常の子・常将・恒親は房総半島で生き延びた。その後、千葉恒親は安房国稲田村、本田親幹は信濃国本田に居住した。
・本田村の本田瑛勇家系
○村岡良文―忠頼―忠恒―恒親(安房国長狭郡穂田郷住、穂田氏)―恒益―親幹(武蔵国男衾郡本田郷住、本田氏の祖)―恒文―親雅―太郎親正(宇治川合戦討死)―道親(入道道観、武蔵本田氏祖 *太郎親正の弟二郎親恒(近常)
拝殿からの参道方向を撮影
この本田次郎近常は、文治二年(1186)九州島津御荘の総地頭職に任命された惟宗忠久(後の島津家元祖・島津忠久)の職務代行者として薩摩入りする。惟宗忠久は源頼朝と丹後の局の間に治承三年(1179)に生まれた。丹後の局は比企禅尼の娘・比企能員の妹である。忠久は京都に滞在したままで、地頭職の実務は代官の本田近常が薩摩(鹿児島)で執行した。現在もこの地区に本田姓が多く見られる。
本田氏・畠山氏・島津氏の3家は血脈関係で結ばれていて、本田親恒の娘が畠山重忠の夫人となり。更にその娘が島津忠久の夫人となる。畠山重忠と本田親恒・貞親父子は、島津忠久を介して、機重にも縁が重なり合った、きわめて緊密な血縁共同体を構成していた。
埼玉県道69号深谷嵐山線沿いに鎮座する本田八幡神社
ところで日本書紀(720)・応神天皇即位前紀に「上古の時の俗、鞆を号ひて褒武多(ホムタ)と謂ふ」と見える。「鞆」は弓を射るとき、左の腕に結びつけて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付物の事で、別名「ホムダ」ともいう。
【大里郡神社誌】の一文では「誉田別命を祀れるが故に誉田八幡神社とも稱し、里名を誉田の郷(本田郷)と云ふ」と記述され、「誉田」は「本田」と地名変更されたとの事だが、そうすると、「誉田」=「本田」=「鞆・褒武多(ホムダ)」ともなる。
つまり、弓を射るとき、左の腕に結びつけて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付物を作る雑工部を「鞆・褒武多」と称し、彼等の居住地に「褒武多」、後代になり佳字の「本田」を用いたのではないだろうか。本田の意味が「新田」に対する「古田」であれば、他の場所に「本田」地名が多くあってもよさそうであるのだが、武蔵国では武蔵国男衾郡本田村(旧川本町)だけで、何処にも無いのも不思議なことだ。
男衾郡本田村坂上神社伝に「藤原秀郷は此地に祠を立てゝ赤城神社を祀りたりと云い伝う。今猶俵薬師と云えるあり、秀郷の裔某此地に住し社殿を営みて村の鎮守となし、地名を氏として本田次郎近常と呼べりという。近常館跡及び末裔今尚存す。明治四十四年社号を坂上神社と改称す」との本田次郎近常に関連した記述がある。
本田八幡神社南方近郊に本田館跡がある。この館跡の周辺には、松本鍛冶・蛭川鍛冶・岩崎鍛冶・大沢鍛冶・真下鍛冶等の鍛冶集団が居住している。また本田地域のすぐ西隣には畠山重忠ゆかりの畠山地区もあり、やはり畠山氏と鍛冶集団には切っても切れない深い関係性がそこには存在し、その中核を担う場所こそ、この「本田」地域であったと思われる。
本田次郎近常は畠山重忠の配下に属していて、武将としても一の谷の戦いに参加した際、平清盛の孫・平師盛を討ち取っているように剛の武将でもあるが、同時に重忠と別行動し、薩摩の地頭職代行のような業務もそつなくこなす能力も兼ね備えた優れた経営者でもあったのだろう。
この本田地区周辺に多数存在する鍛冶集団の調整役も含めた総纏め的な存在だったからこそ、このような大事を勤め上げられたのだと筆者は勝手に推測しているのだが、如何だろうか。