古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

犬塚御嶽神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市犬塚1406。
              
・ご祭神 大己貴命、少彦名命
              
・社 格 旧犬塚村鎮守 旧村社
              
・例祭等 雹祭り39日 例大祭410日前後の日曜日
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.177471,139.4483666,17z?entry=ttu

 犬塚御嶽神社が鎮座する行田市大塚地域は、妻沼低地の東部に位置し、北側から東側は北河原・酒巻・斎条の各地域と接している。国道125号行田バイパスを羽生方面に進み、途中「総合運動公園前」交差点を左折し、埼玉県道199号行田市停車場酒巻線を北方向に進行、途中「JAほくさい南河原農業倉庫」が見える十字路を右折し300m程進むと左側にと犬塚御嶽神社の鳥居が見えてくる。
 但し鳥居周辺には適当な駐車スペースはないため、一旦県道を通り過ぎてから一本目の路地を左折し、「犬塚集会所」の北側に回り込み、そこの駐車場をお借りしてから参拝を行った。
 後日地図を確認すると、この社から北東方向で、直線距離にして500m程に「斎条劔神社」が鎮座している。
        
               県道沿いに鎮座する犬塚御嶽神社
       この鳥居前は行田市内循環バスの北西コース・「犬塚」停留場でもある。
 この「市内循環バス(コミュニティバス)」は、公共施設等への交通手段の確保、交通空白地域を解消し、地域市民の日常生活の利便性を高めるために運行している。特に運転免許証を持っていない学生や高齢者・障害者等の通学・通院、買い物など日常生活の交通手段確保がその目的の一つとされている。「市内循環バス」は、運行距離に関係なく、100円もしくは200円の低い運賃が設定されているため、地域住民の外出機会の創出を図り、住民の健康増進やコミュニティ活動の活発化をめざしているという
        
                                                         犬塚御嶽神社・一の鳥居
 この一の鳥居は県道からやや奥に建っていて、尚且つ鳥居の両側は民家が立ち並んでいる。車での移動中、ナビを利用して住所特定はできているが、それがなければ、簡単に見過ごしてしまうような場所でもある。
 話は変わるが、埼玉県道199号行田市停車場酒巻線内の和田地域から南河原・犬塚地域までの間に全長1,120mのバイパス事業が行われているという。現道は車幅が狭く屈曲していて、走行上・安全上の課題がある上、拡幅も困難で、更に第二次緊急輸送道路であり重要道路のためでもあるとの事だ。
 
 一の鳥居前で一礼してから参拝。比較的長い参道を進む(写真左)。左右の民家の壁や垣根に囲まれ、参道途中、意外と閉塞的な圧迫感を感じる。進む途中には石製の神橋がある(同右)。形状からやや新しい橋ではなかろうか。しかし神橋を渡ると身が引き締まる思いがする。
        
                   二の鳥居に到着。
  二の鳥居の先は境内となるが、圧迫感を感じた参道とは異なり、広々とした空間が広がる。
        
                    開放的な境内。拝殿の右隣には「犬塚集会所」がある。
『日本歴史地名大系』 「犬塚村」の解説 
 [現在地名]南河原村犬塚
 南河原村の東にあり、北から東は北河原・酒巻・斎条の諸村(現行田市)。地下に埋没したとやま古墳がある。南部は条里遺構にかかっているとみられ、小名に五段町・柳町・中間町・古川町など町地名が多く残っていた(風土記稿)。
 
建武元年(一三三四)一〇月一二日「埼玉郡犬塚村」の屋敷田畠などが西条盛光に安堵されている(「雑訴決断所牒」別符文書)。天正一九年(一五九一)六月、忍おし城(現行田市)の松平家忠に宛行われた一万石のうちに「いぬつか村にし新井」の九四三石余があった(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。西新井は当村の小名。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)によれば、旗本領の役高九〇一石余。
        
                     拝 殿 
 犬塚御嶽神社の創建年代や由緒については不詳だが、『新編武蔵風土記稿 犬塚村条』によると、嘗ては「蔵王権現社」と称し、犬塚村の鎮守社であったという。その後明治4年に村社に列格、明治40年犬塚谷田の愛宕社、十二社天神、犬塚台の愛宕神社、犬塚西新井の雷電社を合祀して、御嶽神社と改称している。
 
          本 殿          境内の片隅に祀られている「塞神」等の石碑
                          左側の石碑は削られている。
 ところで『日本歴史地名大系』 「犬塚村」の解説によると、建武元年(13341012日西条弥太郎盛光に牒を下し、武蔵国埼玉郡犬塚村内屋敷田畠並びに東江袋村内屋敷田畠・阿弥陀寺田畠等を安堵されている。
 西条弥太郎盛光という人物は誰であろうか。
 文永
9年(1272825日の関東下知状(光西寺松井家文書)によると、鎌倉幕府は養父盛元法師法名如願の譲りに任せ、武蔵国東江袋村内屋敷名田並びに出雲国真松名を西条兵衛太郎私盛定に安堵している。
 この「西条兵衛太郎私盛定」の名前であるが、「西条」「兵衛太郎」「私」「盛定」と分割できるが、この中の「私」は、武蔵七党の一つである「私市党」の一族名称である可能性は高い
 私市(きさいち)党の出自は定かでないが、大化前代の私市部の伴造を祖先とすると称し、牟自(むじ)という者の子孫が政市部領使(ことりづかい)であったとする説や、私部を管理した一族の末裔であるとする説がある。また、私市家盛が武蔵権守となって下向し、北埼玉・大里郡一帯に勢力を得たとされるという伝承がある。一族には私市(きさい・きさいち)・成木(なりき)・久下(くげ)・市田(いちだ)・楊井(やぎい)・草原(かやはら)・太田(おおた)・小沢(おざわ)・河原(かわら)・西条(さいじょう)の各氏がいる。
「私市」という名称のみで、埼玉郡騎西地区が本拠地と考えるのは早計であろう。むしろ熊谷・行田市北部がその拠点であったと、その一族の分布をみると考察できる。
        
                                   境内の一風景
「西条兵衛太郎私盛定」と「西条弥太郎盛光」はどのような間柄であったのであろうか。共に「西条」という姓を共有していること、どちらも「東江袋村内屋敷田畠」を安堵されている所から同じ一族であったろう。また人の実名に、祖先から代々伝えてつける字のことを「通字」というが、この2人には「盛」が共通していることから、直系の間柄であった可能性も高い。

*追伸として
「斎条地域」の隣は犬塚地域で、その隣には「中江袋地域」があり、古くは「東江袋村」と云っていた。この地域から北西側で妻沼地区には「上江袋地域」があるが、嘗ては「西江袋村」と称していた。また上江袋地域から国道
140号を挟んで「西城(にしじょう)地域」があり、名称も「斎条」と似通っている。何か関連性があるのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「多摩デジタルアーカイブ
    「国土交通省:コミュニティバスの導入に関するガイドライン」「Wikipedia」等
 

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