小松原神社
・所在地 埼玉県鴻巣市小松1-10-18
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧原馬室村枝郷小松原鎮守 旧無各社
・例 祭 初午祭 3月初午 大祓 6月30日・12月30日
例祭 7月21日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0427205,139.5205937,18z?hl=ja&entry=ttu
上谷氷川神社から一旦軟化をして17号国道「深井」交差点を直進。旧中山道付近から左カーブ状に道は曲がっていくが、そのまま進む。その後踏切を越えて、右側にコンビニエンスストア、歯科病院が見えた先の十字路を左折すると、小松原神社が左手に見えてくる。
社の入口には鳥居があり、その左手には案内板が設置され、並びには駐車スペースも確保されており、そこに車を止めてから産廃を行った。
鳥居の左側にある社号標柱と社の案内板 小松原神社 正面
この小松原神社周辺は、以前は鬱蒼とした森の中に鎮座する社だったのだろう。しかし近年の一戸建て住宅や団地等が造成され、昔とは環境が大きく変わりつつあるような印象を強く受けた。
小松原神社 案内板
小松原神社 御由緒 鴻巣市小松一‐一〇‐一八
□ 御縁起(歴史)
当社の鎮座する小松原は、古くは小松原村と称する一つの村であったが、後に原馬室村の枝郷となり、更に明治四年に原馬室村に合併してその大字になった。この小松原の地内には、上・中・下の三つの組があり、上では愛宕社、中では稲荷社、下では別の稲荷社と、各々組ごとに鎮守とする神社を祀ってきた。
こうした状況は長い間変わらなかったが、「境内編入願」によれば、明治二年の地租改正の際、政府の達しに従い、中組の稲荷社に上組の愛宕社と下組の稲荷社を合祀し、社名を小松原神社と改称の上、小松原村の村社としたという。明治四年に小松原と原馬室の両村が合併した後も、旧小松原村の人々は小松原神社を鎮守として祀り続けていたが、当時の村吏の誤解により、社格は無格社となった。『郡村誌』原馬室村の項に「小松社平社(中略)村の東にあり迦具土命を祭る祭日七月廿一日」とあるのは、その当時の状況を表すものである。
村社の社格は、当時の社掌千葉松彦や総代が努力したにもかかわらず回復することはできなかったが、明治二十九年には拝殿を再建し、同三十七年には境内両脇の土地三九五坪を境内に編入して環境を整備するなど、かつての村社としての威厳を保つべく努力が続けられた。なお『明細帳』では、右の書類とやや異なり、明治六年に、字松原の愛宕社を中組の稲荷社に合祀して小松原神社と改称したとある。
□ 御祭神と御神徳
・倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁盛
案内板から引用
神明系の鳥居
広々とした境内 参道右手には社務所だろうか。
拝 殿
拝殿右側手前に聳え立つご神木
社殿手前で左側に鎮座する境内社・天神社 社殿手前で右側に鎮座する境内社・雷電社
境内社である天神社・雷電社は、元々は受法院(現小松原大日堂)境内に祀られてもので、明治維新後の神仏分離に際して当地へ遷座し祀られたという。
小松原地域は『新編武蔵風土記稿』によると、「原馬室村枝郷」として記載され、地形的に原馬室の東方に接していて、正保年間(1644~48)に江戸幕府が諸大名に命じて国単位で作らせた国絵図である「正保国絵図」では「小松原村」と載せ、元禄10年(1697年)から開始された「元禄国絵図(風土記稿では元禄郷帳)」には「原馬室村の内小松原村」と記していて、時代と共に小松原村の立ち位置が変化している。そもそもこの村自体が小さかったのも原因だったのだろう。風土記稿では「東西三町、南北五町程、民家は三十六」と記されている。
「町」は尺貫法での長さ(距離)または面積の単位である。長さの単位では「丁」とも書き、条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200 mを11町と定めた[2]。したがって1町は約109 m、1 kmは約9.17町となる。
対して面積の場合「町歩」と区別して表現するので、「風土記稿」の表記から、「町」は長さの表記方法で「東西三百町=330m、南北五町=550m」程になり、現在の鴻巣市小松地区の南北を半分くらいにした程度、小松原神社を中心にした小さな地域だったのだろう。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等